王城のマリナイア

若島まつ

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三十七、月夜の海の夢 - le rêve dans la mer au clair de lune -

 ベルージ邸には嘆いたり憤ったりする者はいなかった。軍が突然やって来たせいで給料を支払う者がいなくなったのだからもっと恨まれるものと思っていたのに、リコの見たところ、どうやら歓迎されている。使用人たちは客人の世話をあれこれと焼き、風呂や夕食の準備まで始めたのだ。
 当初は今夜中に宿場へ戻る予定だったが、ロベルタが今夜は屋敷に泊まるようにと強く勧めた上、あれほど我らが上官を敵視していたベルージ夫人までもが是非にと彼らを引き止めたため、結局そのようになった。
 暴君のいなくなったベルージ邸は静謐そのものだった。この屋敷に踏み込んだ時、使用人たちは皆ピリピリと険しい顔つきをしていたが、どことなく憑き物が落ちて見える。
 こうして見ると、古いがよく手入れされた優麗な建物だ。食堂はいくつものガラス玉が取り付けられた真鍮のシャンデリアで飾られ、明るいクリーム色の壁には草花の絵が掛けられている。南側の大きな窓は、晴れた日の昼間や夕暮れ時であれば気持ちの良い陽光を迎え入れることだろう。不自然なほど縦に長い食卓はこの屋敷の主人とその妻の距離をそのまま表しているようにも見えるが、今は両端の席は空になり、真ん中の席に五人分の料理や酒が集められ、余白の多い食卓を賑々しく飾っている。
 これで出所不明でやたらと大きな壺や趣味の悪い装飾の施された金ピカの彫刻などがなければ、幸せな家族が住むのにふさわしい場所に見えるに違いない。
 ところが、夕食の席でリコの向かいに座っているアルテミシアは、居心地が悪そうに豚肉のソテーをのろのろと口に運んでいる。
(まあ、彼氏と母親に挟まれたんじゃね)
 リコはアルテミシアの両脇にさっと視線を走らせた。サゲンとマルグレーテ・ベルージは、一言も発せずに黙々と食事をしている。二人とも他愛もない世間話を楽しむタイプではないし、アルテミシアも何年も会っていなかった母親と食卓を囲むことになって戸惑っているようだった。おまけにレイは普段からサゲンよりも無口だ。流石のリコも不用意に口を開けない空気だった。心なしか、上官のワインの減りがいつもより早い。
(こんな時にイグリがいたらなあ)
 と、リコは思わざるを得ない。イグリには軽妙な会話でこういうピリピリした空気を和らげる才能がある。ただし、ここ最近の彼はぼんやりしていることが多かったから、いたとしても大して役に立たなかったかもしれないが。
(まあ、失恋したんじゃ仕方ないけど)
 助けを求めるようにこちらを見たアルテミシアに、リコは慰めるような笑みを向けた。そして声に出さず、「おめでとう」と口の形で伝えると、アルテミシアは困惑して眉尻を下げた。
(付き合ってるだろ、君たち)
 口をパクパクさせながら、フォークを持っていない方の手でサゲンとアルテミシアを交互に指し、最後に人差し指で宙にハートマークを描いて見せた。
 意味を理解したアルテミシアが持ち上げたフォークから皿にぽとりと肉を落として口をあんぐり開けたまま顔を真っ赤にしたので、リコは思わず噴き出した。隣ではレイが呆れ顔も隠さずやれやれと首を振っている。リコはまだ肩を震わせていたが、サゲンの射るような視線を受けてピッと背筋を伸ばした。
「それで…」
 最初に沈黙を破ったのは、マルグレーテだった。フォークを静かに置き、アルテミシアとその隣にいるサゲンに交互に目を合わせた。
「お前たちはいつからそういう関係なの?」
 ガシャン、と音を立て、アルテミシアが今度はフォークごと皿に落とした。
「だっ…!そ、そういうって…」
「ひと月程です」
 慌ててしどろもどろになったアルテミシアを遮り、サゲンが躊躇なく答えた。
 リコもレイも上官が部下たちの前でこれほどはっきり認めるとは思っていなかったので、互いに笑みを含んだ驚きの表情で顔を見合わせた。
(イグリには悪いが、俺は上官に軍配が上がると思っていた)
 レイが囁くような小さな声で、平素真面目で無口な彼には珍しくこんなことを言った。
(イグリは珍しく本気だったけど、正直最初から全く意識されてなかったからな)
 リコも小声で返しながら、遠くオアリスでゴラン・ダリオス将軍の補佐役を務めている親友のことを思った。イグリがブランと共にオアリスで留守居を言いつけられたのがアルテミシアの件とは関係ないことを、彼らは分かっている。サゲンがイグリの能力に信頼を置いているからだ。
 アルテミシアはあっさりとみんなの前で関係を認めたサゲンの顔を、信じられないというように恨めしげな目つきで見上げた。
「何も隠すことはない。どうせリコ・オレステもレイ・シロトも承知のことだ」
 まだこそこそとイグリと上官の縄張り争いについて話をしていた二人は、矛先を向けられた途端にわざとらしく笑顔を貼り付け、餌を求める雛鳥が鳴くように喋り出した。
「ええ」
「はい、もちろん」
「存じていましたとも」
「そうそう」
「全く、隠す必要はありません」
「僕はもう、ミーシャがオアリスに来た時から上官が…」
 ここでレイが肘でリコを小突いた。上官の氷のような眼差しが「喋り過ぎだ」と警告を発している。
 アルテミシアは言葉を失くしたまま、呆然とその様子を傍観するしかなかった。
「ホホ、お前、隠したかったのに外で堂々とあんなことを?我が娘ながらまったく迂闊だこと」
 マルグレーテがアルテミシアに向かってころころと笑い声をあげた。母がこれほど楽しそうに笑うのを見たのは、ずいぶん久しぶりだ。後ろで給仕をするロベルタも嬉しそうに口を引き伸ばしている。リコとレイが目配せし合っているのは、外でどんな迂闊なことをしていたのか予想しているに違いない。二人の間に割って入りたい衝動に駆られた。
 が、今はそれよりも気まずさが勝った。思わず隣のサゲンの顔を見ると、サゲンも苦虫を噛み潰したように唇を真一文字に結んでいたが、真っ赤にしたアルテミシアの顔を見て目元を和らげた。
(うっ)
 アルテミシアは急に逃げ出したくなった。心臓を物凄い力で握られたように感じたからだ。
 マルグレーテは娘を満足気に眺めた。
 
 懐かしい茶色い大理石の浴室で蒸気浴と温浴を終え、サイズの合わない母のお古の寝衣に着替えたアルテミシアは、使用人たちが用意してくれた客間へ戻る途中で母親に呼び止められた。
「ちょっといらっしゃい」
 そう言ってマルグレーテは自分の寝室へアルテミシアを連れて行った。そこは、派手好きな蒐集家のエンリコ・ベルージの手が一切及んでいない、母だけのプライベートな空間だった。
 開け放たれた窓には明るいブルーのカーテンが掛かり、壁紙には淡い色の花が描かれ、大きな窓の横には牛や馬のいる田園風景が描かれた絵画が飾られて、細長い本棚には地味な装丁の本が隙間なく並んでいる。どれもアルテミシアの記憶にはあまり残っていないが、濃い色の机の脚に、‘AJ’と子供の筆跡で白い傷が付けられているのを見つけた。‘J’は曲線がうまく書けず、‘V’のようになっている。自分が幼い頃にイタズラをしたのだろう。
 マルグレーテはアルテミシアの視線の先に気付くと、愛おしそうに傷を撫でた。
「お前が最初に覚えた文字よ」
 この時、唐突に記憶が蘇った。時折母の部屋に遊びに来ては、髪飾りや化粧品を物色して母親の真似をしていた髪の長い幼い女の子の記憶だ。
「母さまの髪飾りでこれを書いた。確か、葉っぱの形になってるところ」
「そうだったわ。お陰でお気に入りがひとつダメになった」
 マルグレーテはおかしそうに笑うと、飾り棚の奥から陶でできた小さな楕円の箱を出し、中から指輪を取り出した。蔦模様が彫られた金の輪に一粒の真珠がついている。
「右手を出して」
 アルテミシアが右の手のひらを上に向けて差し出すと、マルグレーテは溜め息混じりに苦笑しながらアルテミシアの手にそっと触れて手のひらを下へ向けさせ、その薬指に真珠の指輪を嵌めた。
「サイズが合ってよかったわ」
「これは?」
「お前のおばあさまからいただいたものよ。おばあさまは、ひいおばあさまからもらったのですって。ひいおばあさまは、ひいひいおばあさまから」
「女系で相続しているということね。いつから?」
「わからないわ。もうずっと昔から」
 アルテミシアはまじまじとそれを眺めた。
 確かに古い。流行りの細い輪でも豪華な装飾や精密な彫り模様があるわけでもなく、やや太い金の輪に蔦や花が彫られ、中央に一粒の真珠が嵌め込まれているだけの簡単なものだ。しかし、よく手入れされ、小さくも美しい真珠はやわらかい艶を含んでアルテミシアの右の薬指を彩っている。
「代々、娘が結婚するときに母から渡すの。お前のおばあさまが言っていたわ。家を離れ、母の元を離れ、姓が変わっても、わたしたちは繋がっていると」
「けっ」
 アルテミシアは驚いて思わず指輪を外してしまった。
「結婚なんて、まだしないよ…だって、まだわからないし…。そんな話はしていないもの」
 最後は消え入りそうな声だった。指輪を返そうとするアルテミシアの手を、マルグレーテは無視した。
「遅かれ早かれ、その時が来るでしょう。そう遠い未来でもないと思うわ。お前の恋人ときたら…」
 マルグレーテはフッと笑みをこぼした。
「な、なによ…」
「お前に夢中だもの。目を見れば分かります。それに、わたしがお前を守ろうとしていたことを知ってから態度を改めたわ。あのプライドの高そうな人が、恋人の母親に嫌われないよう気を使っているのね」
 顔が熱くなったが、言われてみればそうかもしれない。アルテミシアは母親の洞察力に感心した。が、この指輪を受け取るかどうかは別の問題だ。受け取ってしまったら、当事者が一人いないところで何か重大な決断をしてしまうような気がする。
 マルグレーテは尚も指輪を返そうとする娘の手を押し戻し、自分の目線よりも高い位置にあるハシバミ色の瞳を覗き込んだ。
「お前も彼が好きでしょう。顔に書いてありますよ」
「そっ、それでも、結婚は…」
 何と言おうか。アルテミシアは言葉を探した。年齢で言えば適齢期か、十代で婚約するのが当たり前の上流階級の価値観で言えば少々遅い方だし、サゲンは男性のそれをとうに過ぎている。互いに気持ちも通じているから何の問題もないはずだ。ただ、結婚と自分を生々しく結び付けたことがなかったのだ。今この時までは。
「本来結婚は幸せなものよ、アルテミシア。もしくは、そうでなければいけないわ。わたしはその手本になってやれなかったけれど」
「それは、そうだね」
 母親の皮肉な言葉に、アルテミシアはついいつもの癖でニヤリとしてしまった。
「母さまは、こんな結婚をさせたジイさまをぶん殴ってやりたいと思った?」
 マルグレーテは娘の荒っぽい言葉遣いに眉尻を上げ、肩を怒らせたが、アルテミシアが眉を上げて口元を楽しそうに吊り上げたのですぐに肩を落とし、大目に見ることにした。
「…思ったことがないとは言いません。でも、仕方のないことだったのよ。うちは大きな商家で、娘の結婚は家業の繁栄のために必要なものだった。結婚する日まで親でさえ相手を直接知らないなんて、よくあることよ。だから誰かを愛する悦びを知ることができたお前は幸せです。その指輪は、その幸福への祝福とでも思ってちょうだい。指輪のしきたりは気にしなくてもいいわ」
 アルテミシアはようやく指輪を返そうとした手を引っ込めた。母親の声は淡々としていたが、今まで交わしてきた多くはない言葉の中で、いちばんの温かさを感じた。
「ありがとう…」
 頬が熱い。嬉しさと恥ずかしさが泡のように肌を掠め、落ち着かない気持ちにさせる。
 マルグレーテの目が慈愛に満ちて我が子に笑いかけた。
「お前は父親似ね。正直なところ、時間が経つにつれて彼がどんな顔をしていたか記憶が薄れてきていたのだけど、今日になってはっきり思い出しました。すっかり大人になったお前があんまりそっくりになっていたから」
 ああ、母さまにはあんまり似ていないからね。などと呑気に返しそうになって、後からやってきた衝撃にアルテミシアは声を失った。実の父親の話など、母の口からこれまで出たことがない。アルテミシアがベルージとは血が繋がっていないと知っていたことも今日初めて明言したのだから当然と言えば当然だが、それにしてもこの気軽さはどうであろう。
「…えっ?」
「父親です、アルテミシア。生き写しだわ」
 マルグレーテの手が頬に触れた。この時、夫を押しのけて屋敷から出てきた母親が十年ぶりに顔を見た馬上の娘に向かって真っ先に呟いた言葉が何だったのか分かった気がした。――父親の名前だ。
「次会うのがいつになるか分かりませんから、今日のうちに全て話しておきます」
 マルグレーテはベッド脇のスツールに腰掛け、アルテミシアにも机の椅子を勧めた。
「まずは、二つの嘘を正さねばなりません」
 アルテミシアが不自然なほどに硬い動きでおろおろと椅子に腰かけると、マルグレーテは膝の上に両手をきちんと揃え、改まった様子で口を開いた。
「‘ジュディット’も、お前が新しい姓として選んだ‘リンド’も、おばあさまの名ではありません」
 母のこの告白を聞いて混乱したが、頭の反対側で冷静な自分が肩を竦め、「想定済みでしょ」と語りかけた。誰の名前なのか、どこかでもう分かっていたような気がする。
「どうして?」
 マルグレーテの唇が控えめに弧を描いた。アルテミシアの瞳を通して、遥か遠くを見つめているようだ。
「本当の父親の痕跡を、お前に残したかったからかしらね」
 窓の外で夏の夜風がさわさわと木の葉を揺らした。
 
 サゲン・エメレンスは使用人達が用意してくれたベルージ家の蒸気浴室で嫌と言うほど体を温めて仕上げに冷水を浴びた後、ロベルタがどこからともなく引っ張り出してきた真新しい木綿のシャツと室内用のズボンを身に着け、客間へと戻った。
 辛気臭い茶色の壁に、年老いた男性や表情のない男女の肖像画が掛けられ、革張りの長いソファが暫く使われた形跡の無い暖炉の前に鎮座している。ソファと暖炉の間には綿織物の薄い絨毯が敷かれ、それに織り込まれた薔薇やヒナゲシや桔梗などの花々の模様が殺風景なこの部屋にせめてもの彩りを添えていた。窓際のベッドのすぐ横に佇む背の低い本棚には、マルス語の他にルメオ語、エマンシュナ語、イノイル語、アム語などで書かれた古い本が並び、部屋の隅に追いやられるように小さな木馬が置かれている。
 サゲンは頭を布でワシワシと拭きながら木馬に近付き、これに跨ってゆらゆらと揺れるストロベリーブロンドの小さな女の子を想像した。木馬の首に‘AJ’と、子供の拙い字でサインが彫られているのを見つけ、つい頬が緩んだ。
 本棚に並ぶエマンシュナ語の本の中に、ページの不揃いなものを見つけた。やや大きな紙が一枚、ページの途中からはみ出している。本を手に取ってパラパラと綺麗な着色の施された挿絵付きのページをめくっていくと、はみ出した紙の場所で止まった。
 それは、一枚の水彩画だった。
 藍と青と緑の混じった夜の海が描かれ、暗い空に煌々と月が昇って、海面を明るく照らしている。哀憐と静寂と希望の光が混在するような絵だ。右下に記された白く細い署名は、‘GL’とその名を示していた。
(誰だ)
 と首を傾げたところで、部屋の戸を叩く音がした。戸口に立っていたのは、アルテミシアだ。襟ぐりが大きくやけに丈の短い夏用の寝衣の上にナイトガウンを羽織り、下まぶたと鼻の頭を赤く染めている。夕食の席ではやや緊張しながらも普段通りの彼女だったが、今は明らかに様子が違う。瞳が心許無く揺れ、どういうわけかいつもより感情的になっているように見えた。
「どうした」
 と言い終わらないうちに、アルテミシアがサゲンの胸に顔を押し付け、背中にぎゅうっと腕を回して抱きついてきた。サゲンは驚きもせずそれを受け入れ、アルテミシアの身体を腕の中に納めると、何も言わずにぽんぽんと頭を撫でてやった。
「感情の爆発のさせ方が上達したようだ」
「…また感情的になるなって言う?」
「いや。俺の前でだけなら問題ない」
 他のやつにこんな無防備な姿を晒されるのは、我慢できない。
 その意図を察してか否か、アルテミシアはサゲンに顔を押し付けたまま苦笑するような吐息を漏らした。
「話す気があるなら、座ったらどうだ」
「…お酒もちょうだい」
 今度はサゲンが苦笑した。つい先程ロベルタに酒の用意を頼んだことを知っていたかのようなタイミングだ。
 琥珀色の酒がグラスを満たし、それがアルテミシアの舌と喉を焼きながら胃に全て収まると、アルテミシアは再びグラスを満たし、それをサゲンに手渡した後で、ようやく口を開いた。
「おばあさまの名前は‘ジュディット’じゃなくて‘エディット’だった。それから…、‘リンド’は父親の名前だった」
「そうか」
 不思議なことに、サゲンはこれを聞いても驚かなかった。コルネール邸の夜会の時、そんな偶然は有り得無いと思いながらも、なんとなく予感はしていたのかもしれない。サゲンはアルテミシアから受け取ったグラスに口を付け、舌が焼けるほどに強い酒を一口で呑んだ。
「あと、父親はおばあさまとおんなじエマンシュナ人で、昔ユルクス大学に留学していたらしいってことも分かった」
 これには、サゲンも眉を上げた。
「すると、君は意図せず父親と同じ道を選んでいたのか。大学も、姓も。…なんというか、奇縁だな」
「うん」
 空になったグラスにアルテミシアの手が伸びてきたので、サゲンはちょっと考えた後、酒を三分の一ほどグラスに注いで渡してやった。
「母さまと父さまは、ユルクスからエマンシュナへ向かう船に乗り合わせたんだって。母さまはひいおばあさまのお墓参りのために、父さまはユルクスでの留学を終えて国へ帰るために」
 マルグレーテは他にも、娘にこんな話を聞かせた。
 
 当時十九歳だったマルグレーテ・フェレールは、その年の三月に亡くなった祖母の墓に祈りを捧げ花を添えるため、実家から付いてきた年嵩の侍女一人を伴い、ルメオ南東部のアラス港からエマンシュナ北部のモンテール港行きの客船に乗った。
 この数か月、マルグレーテには気分の晴れる日がなかった。
 侍女は「いつまでも沈んでいては亡くなったおばあさまも悲しみます」だとか「グレタお嬢様の一番きれいな花嫁姿を天国のおばあさまに見せて喜ばせましょう」などと言ってしきりに励まそうとしたが、ますます気分は落ち込む一方だった。見ず知らずの小貴族と身売りも同然の結婚をしようとしているのだから、仕方がない。普通の身売りと違うことがあるとすれば、実家が手に入れるものが金ではなく貴族との姻戚関係だということだ。気を使わせないよう、愛する両親や兄の前では精一杯の気力で喜んでいる素振りを見せていたが、遠く離れた海上にある今となってはそんな必要もない。侍女は半年前の祖母の死に胸を痛めているものと思っているから、丁度良かった。
 この旅も、数年に一度エマンシュナを訪ね顔を合わせていた祖母を悼むことだけが目的ではない。内陸の地で小貴族の奥方として生涯を過ごすならば今後大好きな海を見ることはできないだろうから、その見納めのつもりで両親に頼み込んだのだ。
 マルグレーテがアルテミシアの父親と出会ったのは、そういう折だった。
 乗船して二日、マルグレーテは心労と船酔いに苦しんでいた。外の空気を吸うために上流階級向けの船室から外の甲板に出たところで、空から降りかかる陽光に当てられ、倒れ込んでしまったのだ。これに居合わせて彼女を介抱したのが、明るい亜麻色の髪と嵐が去った後の空のように真っ青な目をした中産階級の青年だった。
 青年はジュード・リンドと名乗り、革のトランクからヨモギの葉を取り出すと、慣れた手つきでそれを煎じてマルグレーテに飲ませた。この瞬間、二人の間で何か強力なものが通じ合った。マルグレーテにとっては最初で最後の恋だった。
 
「待て」
 サゲンが空のグラスをアルテミシアから受け取り、遮った。
ヨモギアルテミシア?」
 アルテミシアは唇をニヤリと吊り上げた。
「そう、笑っちゃうでしょ。わたしはてっきり女神の名前から付けたんだと思ってたんだけど、薬草の名前なんだって」
 アルテミシアはくすくすと笑ってサゲンの持つグラスに酒を注ぎ、続けた。
 
 ――この日の夜から二人の逢瀬が始まった。侍女や他の乗客が寝静まった後に、月明かりを頼りに荷物が収められている船室へ忍んで行き、束の間の激しい恋と情事に溺れた。
 最後の夜、ジュード・リンドはマルグレーテを妻にしたいと申し出たが、マルグレーテは家族のためにそれを断った。これきりのことと割り切っていたのにもかかわらず、涙が止まらなかった。ジュードは納得しなかったが、マルグレーテは尚も首を縦に振らなかった。しかし、ジュードが「愛している」と跪いて告げた瞬間、マルグレーテはこの青年の妻になることを決めた。ただ一夜だけの妻に。
 二人は外の甲板へ出て、月と海を証人にし、ひとつの杯で酒を酌み、日記帳のページを一枚破って結婚証明書を作って二人の署名を書いた後、トランクに入っていた薬草で花冠を作ってダンスをした。有り合わせのもので急ごしらえしたに過ぎなかったが、この時の二人にとっては本物の婚礼だった。
 そして夜が明けて船が港に着いた時、婚礼は夢へと戻った。
 マルグレーテはジュード・リンドがこれからどこで何をするのか、ユルクス大学で何を学んだのかも訊かず、自分も名前以外の一切を語らないまま、まだ客船の上で自分を探すジュードの横顔を瞳に焼き付けて馬車に乗り込んだ。
 妊娠に気付いたのは、それからふた月後、ベルージとの婚儀が終わった後のことだった。冷静な彼女は気丈にも夫と既成事実を作ってしまおうと思ったが、初夜の床ではエンリコ・ベルージの身体的な理由によって果たすことができず、誇りの傷ついた若きベルージはそれ以来一切妻と同じベッドで寝ようとしなかった。これにはマルグレーテも慌てたが、ベルージ家の侍女が妊娠に気付いて主人へ祝いの言葉を述べた時、ベルージは一瞬の困惑の後、怒りも狼狽もせず、関心も見せずにそれを受け入れた。
 その理由は自分が不能であることを周囲に知られたくなかったからとも、新妻にそれほどの関心がなかったからとも思えた。しかし、マルグレーテはこれを好都合と捉えるほど楽観的ではなかった。夫となった男が妻の不貞を許すほど心の広い人間とはとても思えなかったからだ。この時、持ち得る全ての知恵を使い、生涯をかけてお腹の子を守ることを決心したのだった。
 
 アルテミシアは三杯目の酒を飲み干し、サゲンにグラスを渡した。
「わたしは間違えてた」
 サゲンは手酌で瓶からグラスへ残った酒を全て移しながら、子供のようにソファの上に両足を乗せ、折った膝を両手で抱えて座る隣のアルテミシアを見た。
「なんでも自分一人で決めて、ほとんどのことは自分でやって、一人で強くなったと思ってた。それに、なんとなく母さまは望まない妊娠でわたしを産んだんだと思ってた。だから山の屋敷に移っても便りをあんまりくれなかったんだって。母さまをずっと私生児を産んだ弱くて不幸な人だとも思ってた」
 目の奥が熱くなったのを感じ、アルテミシアは膝に額をつけた。溢れる涙が寝衣に滲みて生温い液体の感触が膝に伝っていく。頭にサゲンの手が乗せられると、その温度が更に涙を溢れさせた。
「全部違った。母さまは例え一晩でも愛し合い夫となった人の子を産んで、夫の名から名前を付けて、一人きりでずっと守ってた。側にいない時も、ずっと。わたしは一人で強くなったんじゃなかった」
 サゲンはグラスを置いて立ち上がり、ソファの上に膝を立てて背を丸めるアルテミシアの前に屈み込んだ。
「俺が知る君の強さは――」
 サゲンはアルテミシアの頬を両手で挟み、こちらを向かせた。ハシバミ色の瞳が濡れ、頬に涙が伝っている。
「新しい世界へ軽々と飛び込んでいくところだ。最初はただの捨て鉢で向こう見ずなじゃじゃ馬だと思っていたが、すぐに違うと気付いた。山、大学、船、城…君は住む場所が変わっても自分を曲げない。経験豊かな参謀とも躊躇なくやり合うし、海軍の最高責任者にも気に入らないことがあれば喧嘩を吹っかける。おまけに、他人の命を救うために自分の命も危険に晒す。その勇敢さは、周りの者が君を愛し、君に勇気と自信を与え、他者を愛する心を教えたから手に入れることができたものだ。俺にはずっと、君を通してそれが見えていた。今もそうだ」
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 身体中が熱い。全身の細胞がサゲンを求めているのが分かる。喜びと驚きで苦しいほど胸がいっぱいになり、心の奥から止めどなく湧き上がる感情を自分の中だけではとても消化できそうにない。
「サゲン、わたし――」
「その先は言わなくていい」
 サゲンは再び唇を塞ぐと、ごろりと身体を反転させ、その精悍な身体の下にアルテミシアを組み敷いた。
感想 4

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