王城のマリナイア

若島まつ

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四十六、罪と罰 - Crime et Châtiment -

 サゲン指揮下のイノイル海軍が南エマンシュナの港にてランスロット・バスケ元帥率いるエマンシュナ海軍‘ナヴァレ’と合流したのは、翌夕のことだった。ヒディンゲル邸から一番近い貿易港は敢えて使わず、馬で一時間ほどかかる軍港にての合流だった。馬上のランスロット・バスケは僅かに顎を引いて白の混じった赤茶色の口髭の下で軽く微笑み、サゲンが馬を曳いて騎乗するまで少々離れたところで挨拶を待った。双方の立場に差はなく、同等であることを示すためだろう。指揮権はイノイル側にあるが、一応は「相互協力体制である」ということらしい。
(いじらしいことをする)
 とサゲンは内心で苦笑したが、エマンシュナとしてもみすみすイノイル軍に主導権を握られたとあっては兵達や国民に対する面目が丸潰れだ。同情の余地がないとも言えない。
 ランスロット・バスケはイノイル海軍の濃紺よりも明るい青の軍装の胸にイルカを模ったナヴァレの紋章を着け、深いワインレッドの外套を纏っている。サゲンと比べるとやや小柄に見えるが、平均よりも背が高く、見るからに強靭な体躯を持っているから、エマンシュナ軍指揮官の軍装で騎乗する姿は正に威風堂々としている。その麾下の兵たちも一様に同じような軍装だった。大軍とまではいかない規模ながらも、濃紺と黒で統一されたイノイル海軍と並ぶと双方に重厚さが増し、圧倒的かつ壮観だ。
 このうち、精鋭部隊三十名がヒディンゲル邸への突入作戦に参加する。
「今宵は兵を休ませるか、バルカ将軍」
 形式的な挨拶の後、ランスロット・バスケが尋ねた。この問いも形式的なものだ。バスケはサゲン・バルカという息子ほども年の離れた人物の経歴や戦歴を把握しているに過ぎないが、夜陰に紛れて行軍する好機を逃す筈がないと確信が持てるくらいにはこの男を理解している。
「お気遣い痛み入るが、必要ない。すぐに発とう」
「そう仰ると思っていた」
 ランスロット・バスケはザラザラとした笑い声をあげた。
 
 イノイル・エマンシュナ連合軍の精鋭部隊が南エマンシュナ市街地のソルソン通りにあるラウル・ヒディンゲル邸を取り囲んだのは、夜半のことだった。
 篝火の灯りを受けて夜闇の中に浮かび上がったヒディンゲル邸は、アルテミシアの予想とは全く違っていた。
 大豪邸というほどの規模はなく、むしろ驚くほど平凡だ。来訪者を温かく歓迎するように門の外には小さな篝火が置かれ、夜目にも分かる明るい色の石造りの壁と緩やかなカーブを描いた扉、薔薇に混じって様々な花の香りが漂う瀟洒な庭は、幸せなごく普通の上流階級の家族が暮らすのにこれほど適した屋敷はないであろうと見る者に思わせるほどだ。窓からこぼれるほのかな明かりさえ、見事に周囲に溶け込んでいる。
 それが、いやに不気味だった。
 この不気味さがアルテミシアの心体を凍りつかせた。寒くもないのに顎がわななき、呑み込む唾もないほど喉が渇いているのに背中にはじっとりと冷たい汗が伝っていく。
 それでも、アルテミシアは自分でも驚くほどに集中していた。この冷たい恐怖が燃えるような怒りと混ざり合い、平淡な精神を保たせた。もしも平時のように冷静であれば、その恐怖と怒りの澱の中で忠誠心が一筋の光明さながらに輝いているのを見つけたことだろうが、残念ながら今はそれに気付けるまでの精神的余裕はない。
 アルテミシアは幾人かの騎兵を隔てて隊列の先頭で指揮を執るサゲンの背中を見た。そのまっすぐ軸の乱れのない騎馬姿は、見る者に畏怖を抱かせ、空気までをもピリピリと張り詰めさせる。
 サゲンはまず予め密偵から手に入れていた屋敷の周りの見取り図をもとに、五つある正面以外の出入り口を密かに封鎖させ、大きな窓の付近にも人員を待機させた。
 彼らは門の外で名乗って相手に出迎えの用意をさせるようなことはせず、ゴランの率いる七名の先発隊が鍵のかかっていないアーチの扉から押し入り、その後にナヴァレの兵七名が続いた。
 この間、二人の指揮官は門前で騎乗のまま作戦を見守っている。アルテミシアはその更に後方でイグリと馬を並べ、突如として屋敷の中から聞こえてきた叫び声や騒音に心をザワザワと乱された。
「ダメだよ、ミーシャ。これより前に出すなって言われてるんだ」
 イグリがアルテミシアの感情を感じ取ったように小声で囁いた。
「…わかってる」
 そう応えたあと、いつの間にか前傾姿勢になり、手綱を強く握っていることに気付いた。
 程なくして屋敷からピイッと夜闇を裂くような笛の音が聞こえた。制圧完了の合図だ。突入から僅か五分のことだった。
「俺たちも大罪人の顔を拝んでやろうぜ」
 とイグリは息巻いたが、アルテミシアはどうにも拭えない違和感を持った。前方のサゲンを見ると、サゲンも無言でアルテミシアを振り返った。どうやら同じ考えらしいことは、目を見れば分かる。
(いくら何でも早すぎる)
 というのである。
 如何にヒディンゲルがこの屋敷を安全だと信じ込んで用心を怠っていたとしても、侵入者から身を守るための手立てを講じることはできたはずだ。これほどの早さで制圧したということは、部屋に籠りもせず、使用人に屋敷の奥までの侵入を防がせることもせず、一切軍の手を煩わせることがなかったということになる。果たして、これまで巧妙に紳士の仮面を被りながらいくつも悪事を働いてきた男が、軍の手が及んだからと言って簡単に投降することなど有り得るだろうか。
 アルテミシアはイグリが制止するのも聞かずに馬を降り、乱れなく整列している騎兵の間を縫ってサゲンの馬に近付いた。時を同じくして、屋敷からイノイルの兵が一人出てきて、こちらもサゲンとバスケの馬に駆け寄った。アルテミシアには知った顔だった。ゴラン直属の部下だ。アルテミシアよりも先に二人の指揮官に近寄った兵士は、声を低くして何事かを囁いた後、すぐに一礼して屋敷へと戻って行った。すぐにサゲンが馬を降り、近付いてくるアルテミシアの目を見て小さく頷いた。――一緒に来いということだ。
「全軍待機」
 サゲンは部下たちに短く命じ、その場の指揮をバスケに任せると、アルテミシアを伴って屋敷へ踏み入った。
 
 屋敷に入った途端に空気が変わった。身体中を凍り付かせるような冷気が肌を刺し、アルテミシアの神経をピリピリとさせる。庭園から漂う薔薇の香りでさえ、ひどく不快なものに感じられる。
「大丈夫か」
 と聞く代わりに、サゲンはアルテミシアの背をぽんぽんと撫でてやった。アルテミシアはようやく空気に触れたように、ふうっと細く長い息を吐いた。
 エントランスを入って間もなく、恐らくこの邸で一番大きいであろうメインのサロンに屋敷の使用人たちが集められて床に膝をつき、兵士たちの監視を受けているのが目に入った。使用人の数は、凡そ十人だ。大金持ちの貴族に仕える人数には少な過ぎるが、この屋敷の大きさから見れば順当な数字とも言える。皆同じ喪服のような黒い長衣を着ていて、顔は蒼白だった。中にはぶつぶつとマルス語ではない言語で神への祈りを捧げている者もいる。が、異様なのは全員が男であることだ。女の使用人が一人くらいいても良さそうなものなのに、この屋敷にいるのは例外なく二十代から四十代くらいの男だった。理由は、だいたい想像がつく。この屋敷の主人にとっては女は商品であり、使用人ではないのだろう。
 サゲンは胸糞悪くなったが、表情には出さなかった。アルテミシアの方は、鼻に皺を寄せて唇を引き結び、必死に不快感を抑え込もうとしているようだった。
 そこへ、屋敷の奥からゴランが現れ、無言のまま二人を奥へと誘った。表情を見る限り、あまり良い状況とは言えなそうだ。
 
 サロンを過ぎ、ゴランは一番奥の一際豪華な金の装飾が施された布張りの扉を開けた。
 いくつかの肖像画が飾られた薄暗い寝室の奥で三人のイノイル兵が剣を持って取り囲む中、正方形の絢爛な天蓋付きのベッドの枕頭に、男が立っている。年の頃三十五くらいのひょろりとした男で、肌が異常に白く、背が高く、他の使用人たちとまったく同じ黒装束に身を包んでいる。彼らと違うのは、その落ち着きようだった。武装した兵士に囲まれているというのに、顔色一つ変えていない。
 そして、今一人。その男は、半ば閉じられた薄絹の天蓋の奥にいた。
 頭には真っ白な髪がまばらに生え、毛布の上にだらりと置かれた手と寝衣らしき白い襟から覗く顎から喉にかけては細い骨がはっきりと視認できるほどにせり出し、肌の色は土色にくすみ、血管は灰色のミミズのように肌に浮き出て、もはや血が通っているのかさえ定かではない。僅かな生の残滓にしがみつくように胸が上下し、落ち窪んだ眼窩の奥で虚ろな瞳が光っているのを見なければ、死んでいると思っただろう。
これ・・、が――)
 アルテミシアはベッドからまだ二メートルはあろうかという距離で立ち尽くした。とても見ているものが信じられない。
 ラウル・ヒディンゲルという男は、養父がまだ乳児だったアルテミシアを売り渡す契約を結んで以来、彼女の人生に亡霊のように付きまとい、その実体のない存在が悪夢と共に明るみに出てからは、激しい怒りと憎しみと恐怖の対象だった。その存在を忘れている間でさえ、どこかに暗い影を落としていた。アルテミシアにとっては、時折見るひどく不快な悪夢の頂点のようなものだった。
 それが、目の前にいる。
 この場にいる誰よりも無力で惨めな、屍のように衰弱し、ただ寝台の上で死を待つだけの老人が、それだ。
「…いつからだ」
 サゲンは天蓋に近付き、不自然なほど静かな声色で長身の使用人に尋ねた。アルテミシアにはその中に冷たい憤りが感じられた。ゴランも同じことを思ったらしく、サゲンをどことなく不安げに見上げていた。
「弱り始めたのは三か月ほど、このように・・・・・なられたのは十日ほど前です」
 長身の使用人が抑揚のない声で言った。アミラ訛りのかなりきついマルス語だが、アルテミシアは男の言葉の中に僅かにエル・ミエルドの語調が混じっていることに気付いた。
 サゲンはこれで納得した。ヒディンゲルがアミラの本家を長らく留守にしていた理由は、これだったのだ。意図的にアミラへ帰国しなかったのではなく、帰ることができなかったのだろう。
「一切の経緯を説明しろ」
「…何ですか?」
 男はサゲンの言葉に少し困惑した様子を見せた。単にそれほどの語彙力がないのか、イノイル訛りのマルス語を正確に聞き取れるほどマルス語に精通していないのか、或いは両方かもしれない。
「今までのことを全部教えて欲しい。エル・ミエルド語の方がいい?」
 アルテミシアはアミラの言葉で話し始めたが、すぐに思い直して二言目はエル・ミエルド語で言った。男は相変わらず落ち着いていて感情に乏しいような様子だったが、アルテミシアのエル・ミエルド語を聞いて髪と同じ暗い茶色の眉を僅かに開いた。
「エル・ミエルド語も話すのですね」
 男が話したのは流暢なエル・ミエルド語だった。こちらの方がマルス語よりも得意なようだ。
「わたしはイノイル軍の通訳です。こいつはあなたの主人?」
 アルテミシアはベッドに横たわるヒディンゲルを顎でしゃくった。
「ある意味では、はい」
「ある意味?」
 二人の異言語の会話を耳にしながら、サゲンは壁に掛かった一枚の肖像画に目を止めた。斜めに座り、髪と同じ茶色の口髭を蓄え、無感情な顔でこちらを見る額の広い男は、ベッドで横たわる薄い白髪の老人よりもその隣の人物に似ている。
「――息子か」
 声色こそ冷淡だが、サゲンは内心で静かな衝撃を受けていた。この先もっと不快な話を聞くことになるであろうことは、容易に想像できる。
 男はサゲンに向き直り、静かに口を開いた。
「はい」
 今度はあのアミラ訛りの強いマルス語だ。
「わたしだけではありません。ここで働く者はみなご主人様の息子です」
 アルテミシアは身震いした。ベッドの上から屍のような眼がギラリと鈍い光を放った気がした。
「何故、息子たちが使用人として働いているの?」
「使用人?我々は人ではなく、奴隷です。奴隷から生まれた者は奴隷だと、ご主人様は仰います」
 アルテミシアの全身を何かが凍りつかせた。怒りでも、恐怖でもあり、この男への憐憫でもあるかもしれなかった。
「母親は」
「もういません。奴隷の母たちは子供を育てた後、船に乗せられます」
「…あなたのお母さんも?」
 声が震えているのは隠しようがない。こんなことは聞かなくても分かるはずなのに、あまりにも残忍なヒディンゲルのやり口がアルテミシアには頭から理解できなかった。船に乗せられる、とは、即ち奴隷として売られるということだ。ヒディンゲルのとんでもない悪事をまたしても知る羽目になってしまった。
「はい。もう誰の母もここにはいません」
 そう言って、男は初めて感情を見せた。見せた、と言っても微々たるものだが、一瞬目元が翳ったのを、サゲンは見逃さなかった。
「医療班から軍医を呼べ。ヒディンゲルを診察させる」
 サゲンが命じると、ゴランは一礼して退出した。
 
 ――軍議が必要だ。
 場所は、薔薇が香る屋敷の中庭だ。
 既に兵達が屋敷の内部を改め始めているから、軍議の場として使える所がそこしかなかった。その中央の猫脚のテーブルに燭台を置き、それを囲むようにサゲン、ゴラン、バスケ元帥、バスケの副官、イグリ、アルテミシアが集まり、人払いをした上で話し合いが行われた。バスケは持ち前の騎士道精神でもってアルテミシアに椅子を勧めたが、とても座ってなどいられない。全員立ったままでの軍議となった。広間から中庭へ出る扉の前には見張りのための兵が立っている。同時に、使用人たちへの個別の尋問も行われた。これを担当するのはレイやリコら小隊長だ。
「さて、どうするか」
 バスケが腕組みをして渋い顔をした。その向かいで、ゴランが深く頷いた。
「肝心のヒディンゲルがあの状態では、尋問もできませんね」
 ヒディンゲルを診察した軍医の所見では、見たとおり衰弱が著しく、動くことはおろか声を出すこともできない。食事も数日前から水しか受け付けなくなっており、回復する見込みはまずないとのことだった。無垢な命を貪り続け、海賊に関する情報を誰よりも持っているであろう大罪人の命は、皮肉にも今尽きようとしている。
「使用人が送金手段について知っているかも」
 絶望感を追い払うようにイグリが声を励ましたが、ゴランもバスケも眉の下を翳らせて唸り声を上げた。
「尋問が終わってみないと何とも言えませんが…、ヒディンゲルのような男が奴隷に大切な金を触らせると思いますか?僕は残念ながら望みは薄いと思います」
「だよな」
 イグリは肩を落とした。
「しかし、そうも言っていられんぞ。リストに名が載っていた者たちを捕縛するべく、既に国をまたいで別働隊が動いている。海賊をここで追い詰められなければ、リストの者を逮捕したとしても海賊どもはまた姿を消すことになる。あとは、繰り返しだ。そんなことは許さない。何か打つ手はあるはずだ」
 バスケは白い毛の混じった赤茶色の太い眉を寄せ、ぐるりと全員の顔を見渡した。皆頷いた。
「イグリ・ソノ」
 サゲンに突然名を呼ばれ、イグリは反射的に背筋を伸ばした。
「ヒディンゲルにとって奴隷は何だ。あいつらは何のためにここにいる」
「何って…身の回りの世話をさせるためですよね?」
 イグリは突然の問いかけに首を傾げながら答えた。
「事業の手伝いをさせていたと思うか」
 今度はの問いには、ゴランが答えた。
「いいえ、将軍。それは無いと思います」
「根拠は」
「これまでの言動から考えると、ヒディンゲルはかなり偏った血統主義者です。まったく常軌を逸した話ですが、自分の子でありながら卑しい身分の母親から生まれた子供たちを奴隷として扱っていたのであれば、彼らの役割はあくまで奴隷の仕事をすることです。加えて、これまで長い間悪事が明るみに出なかったということからも、ヒディンゲルが慎重な男であることを…いや、もはや慎重な男だった・・・、ですね。とにかく、それほど慎重な男が例え奴隷ではなかったとしても、自分以外の誰かに大切な事業を一部でも任せるとは思えません」
「わたしも、イキさんと同じ意見」
 アルテミシアが肩を竦めた。
「リンド」
 サゲンにそう呼ばれたのは久しぶりだ。冷徹な指揮官の顔をしたサゲンがアルテミシアに青灰色の鋭い目を向けた。
「アミラでは日常的にマルス語を話す者はどの程度いる」
 この時点では、何故そんなことをサゲンが訊くのか誰にもわからなかった。アルテミシアも不思議に思ったが、この問いに対する答えをこの場にいる誰よりも自分が知っていることは明らかだ。
「アミラではそんなに浸透していないはずだよ。大陸の他の国と違って語法や発音が独特で、地理的に交易もあんまり盛んじゃなかったから、周りの国がマルス語を話すようになってもアミラは独自のアミラ語を話すだけにとどまったって、学生時代に文学史の教授が言ってた。難なくマルス語を話せるのは専門職か、上流階級の中でも一握りだって」
「それに、あいつらは長い間戦争状態にあるエマンシュナ人と同じ言葉を話したくないと思っているのさ」
 バスケ元帥の若い副官が平素は困っているように見える下がり眉をキッと上げ、厳しい顔で言った。多くのエマンシュナ人がそうであるように、この副官もアミラ人が嫌いらしい。
「では、何故あいつはマルス語を話す」
 このサゲンの問いに、アルテミシアは返す言葉を失った。何故気付かなかったのだろう。
「身の回りの世話をさせるだけなら、アミラ語で事足りるはずだ。ヒディンゲルが奴隷を人間らしい生活に見合わないと考えていたのなら、何故わざわざ奴隷に教育を与える必要がある」
 ヒディンゲルほどの地位であれば、使用人が買い物に行く必要はない。向こうから売りに来るのだ。加えて、生活に必要な物資が本国からヒディンゲル家の船で運ばれてきているということは既に密偵から情報が入っていた。この屋敷で暮らすアミラ人に、外との交流などは必要ない。この閉鎖された生活が可能な屋敷では、マルス語が話せる必要はないのだ。むしろ、言葉を話せず外の世界と隔離しておいた方が支配下に置きやすい。
「確かに、辻褄が合わないね」
 アルテミシアは唸って腕を組んだ。
「ヒディンゲルは極力奴隷に教育を受けさせたくなかったはず。突入の時誰一人抵抗しなかったのも、誰にも抵抗力を身に着けさせなかったから。力が自分に向かうのを恐れて、奴隷を無知で無力なまま支配した。奴隷が無知であれば無知であるほど、ヒディンゲルにとっても都合がよかったはず。それなのに、あの人にはマルス語を教えたってことになる」
「他の使用人はマルス語を話したか」
 サゲンの問いに、ゴランは首を振った。
「いいえ、恐らく。屋敷に入った時、ヒディンゲルの側にいた男以外は皆ほとんど意思の疎通ができませんでした。今も部下たちが尋問していますが、果たして聞き出せることがあるかどうか…」
「では、最初にやることが決まったな」
 ランスロット・バスケが赤茶色の口髭の下で僅かに笑みを見せた。
 サゲンは人知れず短い息をついた後、アルテミシアの目を決然とまっすぐ見た。アルテミシアもやることは分かっている。
「リンド、君が尋問しろ」
 これ以外の選択肢はないであろう。アルテミシアは唇をキュッと結んで小さく頷いた。
「とても考えの及ばないほど悍ましい話を聞かされることになるかもしれない。辛い体験になるぞ。それでもやれるか」
「もちろん、やる」
 ヒディンゲルの最も暗く歪んだ深淵を探り、恐らくはそれを知ることになるだろう。どの使用人よりも父親に似た顔を持ち、彼らの中で唯一マルス語を話すあの男が、何も知らないはずはない。アルテミシアには、ここにいる誰よりもこの尋問をうまくやれるという自負があった。理由は他でもない、彼らとの間には一種の絆があるからだ。アルテミシアもここで働く男たちも、ヒディンゲルという害悪に人生を引っ掻き回されたのだ。
 気丈にも笑みを見せたアルテミシアに、サゲンも小さく顎を引いて頷いた。あれほどこの件に深く関わらせたくないと思っていたのに、敵方の人間と濃厚に接触しなければならないことを自ら命じる羽目になろうとは、皮肉なことだ。
「俺とイグリ・ソノが隣室で立ち会う。危険を感じたら戦わずに逃げろ。対処はこちらでする。いいか、戦うなよ」
 最後にサゲンが厳しい声で念を押すと、アルテミシアは軽く握った拳を左胸に添え、イノイル海軍式の敬礼をして応えた。
「承知しました、バルカ将軍」
「それから、リンド」
 と、サゲンが最も重要なことを付け加えた。
「全てエル・ミエルド語でやれ」
感想 4

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