王城のマリナイア

若島まつ

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五十、女の矜持 - les femmes fières -

 カラリと晴れた気持ちの良い朝、アルテミシアは既に主の居なくなったヒディンゲル邸の客間で身支度を始めた。エラは既にスカートの裾がフワリと広がるレモン色のドレスに着替え、フードの付いた焦げ茶色のローブを羽織っている。
「こんなにいいドレスなのに、地味なローブで隠しちゃうなんて勿体ないわ」
 と、ワインレッドのドレスを着たアルテミシアの髪をいくつものピンで留めながら文句を言った。
「昨日容赦なく切り刻んでたくせに」
 アルテミシアが昨夜エラの借りた客間を訪ねた時に見つけたドレスの残骸を思い出しながらくすくす揶揄うと、エラが「あら」と眉を上げた。
「あれは仕立て直しよ。ミーシャったら背が高いんだもの」
「まあでも、お蔭でスカートの裏にも武器を隠せるようになってたね。エラが考えたの?」
「ううん、あれは旦那様のご指示」
 エラがサゲンからこの指令を受けたのは、昨日の早朝のことだった。ヒディンゲル邸の花嫁の衣装部屋からドレスを選び、アルテミシアの戦闘行為に役立つように手を加えろ、という内容だ。エラは言われた通り、足元に武器を隠しても外から見る目立たないように、スカートが大きく広がるよう縫製されたペチコートを選び、それが邪魔になればドレスの内側から簡単に取り外せるように手を加えた。更にスカートが邪魔になった時のために、膝の高さですぐに切り離せるように一度裁断してから襞を作るように再び弱く縫い直し、スカートの内側にも物を隠せるようにポケットを縫い付けた。この大掛かりな仕立直しを半日でやってのけたのだから、エラの裁縫の腕はやはり侮れない。
「わたしが泥まみれになってる間にそんなことをしてくれてたなんて、全然知らなかった」
 「泥まみれ」というのは誇張ではない。実際、アルテミシアは昨日サゲンと訓練に明け暮れていた。主に接近戦での戦術だ。相手が自分に掛けてくる力の逃し方や正確に急所を突く稽古をサゲン自身が付けた。夜には作戦に関する最終の軍議を開き、概ね当初の予定通り作戦を行うことになった。変更点は、海賊の小船から味方への合図の仕方だ。当初は短銃による空砲が想定されていたが、ドレスに隠すにしても重さがあり目立ちやすい上、音が大きく相手に気取られる恐れがあるために、協議の結果、リコがどこぞの花火屋の工房から調達してきた「火を点けたら遠くにピューンと飛んでポンポン鳴る」筒型の火薬を使用することになった。
 アルテミシアは火薬の入った革袋を手に取り、前回の作戦を思い起こした。
「この前の‘派手にブアッと燃え広がるやつ’みたいに強すぎないといいんだけど」
「火薬が?」
 アルテミシアは鏡越しに髪を結うエラに向かって頷いてみせた。
「そう、スカートの中に爆発物が入ってるって、なんか嫌な感じ。前の作戦でイグリが大火傷を負ったのを見ちゃったから」
「ああ、イグリ・ソノ…。いい気味だわ」
「えっ」
 あまりに辛辣な言い草に、アルテミシアは心底驚いてエラの方を振り向いた。自分が助け出された任務だったのに、いつものエラならばこのようなことを言うはずがない。相応の理由があるはずだ。
「何があったの?」
「できたわ」
 エラは澄まして言い、きれいにお団子にしたアルテミシアの頭を満足気に眺めて話を打ち切った。
「ちょ、ちょっと、エラ…」
 アルテミシアが追究を始める前に、扉が開いてサゲンが姿を現した。
「済んだか」
「概ね」
 アルテミシアがサゲンに向かって頷くと、エラは取り澄ましてサゲンへ一礼した。
「ご苦労だった。少し外してくれ」
 エラが辞去した後、サゲンはアルテミシアを椅子から立たせて全身を眺めた。
「痛むか」
 と尋ねたのは、昨日の訓練で背中やら腕やらをあちこち傷めたからだ。訓練が終わった時、白い肌に赤と青の痣がいくつもできていたのをサゲンは見ている。
「あなただったらこれくらいの怪我、気にする?」
 あまり心配してくれるな、ということだ。アルテミシアは少し不満そうだった。
「もっともだ」
 と、サゲンは肩を落とし、唇の端を僅かに吊り上げた。
「こんな時でなければ、ドレスが似合うと褒めるところだが」
「ドレスの下にはもっといいものがあるよ」
 アルテミシアは白い歯をチラリと見せて悪戯っぽく笑うと、サゲンの手をそっと掴んで自分の腰へ誘い、ドレスの上から腿に触れさせた。アルテミシアの柔らかい手が導いた先には硬い金属の塊がある。すぐに腿のベルトに差した短剣のことを言っているのは理解したが、サゲンは不覚にもドキリとしてしまった。アルテミシアのこういう不意打ちには、正直言って冷静なままで対応しきれない。サゲンは時と場所を弁えず首をもたげ始める不埒な欲望を締め出すように、奥歯を噛んだ。
「…いい装備だ。が、もう一つ加えておこう」
 サゲンは上衣の内側から花や蔦の文様が装飾された細長い銀色のものを取り出し、ついさっきエラがきれいに結ったばかりのお団子に挿した。
「それはどう使うの?」
 髪飾りかどうかなどと鈍臭いことを訊かないあたりがアルテミシアらしい。
「折りたたみ式の剃刀だ」
「えっ…」
 アルテミシアの顔色を読んで、サゲンは手を振った。
「安心しろ。昨日部下に調達させた新品だ。誰もそれで髭を剃っていないし、切れ味も問題ない」
「髪につけてるのがヒディンゲルのお古だったら折って捨てるところだった」
 そう言って快活に笑ったアルテミシアに、サゲンは「いいか」と青灰色の暗い瞳を向けた。
「海賊の船に乗れば俺たちの手が届かない。やり方は君が決めろ。君が選択したことなら何であれ、俺は支持する」
 アルテミシアは無言で頷いた。
「ただし――」
 とサゲンは続けた。
「危なくなったら、二人で逃げることだけ考えろ。間違ってもこの作戦に命を賭けようなどと思うなよ」
「心配しないで」
 アルテミシアはサゲンの肩に手を置いて爪先立ちになり、頬に羽の触れるようなキスをした。
 サゲンはアルテミシアの唇が触れた瞬間に、感情が堰を切ったようにそのしなやかな身体を抱き竦めた。
「オアリスに帰ったら…」
 声は苦渋に満ち、無理矢理絞り出したようだった。
「イサ・アンナさまに正式に婚約を報告するんでしょ。わかってるよ」
 アルテミシアが苦笑しながら背中に腕を回し、宥めるように言った。
「いや、その前に休暇を取る。そして君をしばらく俺の寝室に閉じ込めて、何日もかけて君を隅々まで味わい、休暇が終わるまでひたすら淫蕩に耽りたい」
 全身に火が点いたかと思った。アルテミシアは真っ赤になった顔で胡乱げにサゲンを見上げた。めちゃくちゃなことを言っているのに、顔は悲壮とも思えるほど大真面目だ。どうやら冗談で言っているのではないらしい。
「…わたしを宝箱に仕舞うみたいに寝室に閉じ込めるの?」
「そうだ」
 ばかじゃないの、と一蹴できない自分が可笑しくなった。サゲンの一言でこれほど身体が熱を持つのだ。その上、ひどい苦しみに耐えているような顔をされては、この要求を拒むわけにはいかない。何より、自分が自然とそれを望んでしまっている。
「気が済むまであなたの好きにしていいよ」
 サゲンはひどく複雑そうに微笑むと、アルテミシアの唇を覆った。
「奴らに引導を渡してやるぞ」
 長く慈愛に満ちた口付けの後でそう言ったサゲンの声は、既に司令官のそれだった。厳しい青灰色の瞳を見つめ、アルテミシアは口元をきゅっと引き締めて短く頷いた。
 
 アルテミシアはエラと同じ焦げ茶色のローブを羽織ってフードを被り、エラと共に開け放たれた木箱の側面から膝を曲げて中へ入り込んだ。まるで檻に入れられた珍獣になった気分だ。二人が身体を丸めて中に収まると、リコが心配そうな顔を覗かせた。レイと共に御者として荷馬車を動かすため、軍装ではなく生成りのシャツに茶色の短いジャケットを着ている。
「やっぱり港まで開けておこうか?」
「ありがと。でも閉めて。どこで人目につくか分からないから」
 リコはアルテミシアに向かって頷き、エラにも気遣うような視線を投げた後で手順通り側面の蓋を閉めた。ヒディンゲル家の荷馬車に積まれて港へ発った。
 馬車が動き始めた振動で、短剣を隠し持つために腿に巻いたベルトが肌に食い込み、鞘が肌を圧迫する。
「快適とは言えないね」
 アルテミシアが不満気に呟くと、エラが頷いた。表情は暗い。
「それで」
 板の間から射し込む細い光に、エラのバツの悪そうな顔が浮かび上がった。
「イグリと何があったの?」
「ミーシャったら、こんな状況でまたその話する?」
 エラがぷりぷりして言った。
「だから、だよ。ここにはわたしたち二人だけだし、丁度いいじゃない。誰の目も気にしないで話せるよ」
 アルテミシアのあっけらかんとした言い草に、エラは不思議とそれもそうか、と思えた。確かにこの窮屈さは、聖堂の告解室に似ていなくもない。
「実は――」
 事の顛末を聞いたアルテミシアは、エラの予想通り激怒した。
「イグリのやつ、最悪!そんな八つ当たりするなんて」
「で、でも」
 エラはすっかりアルテミシアの剣幕に気圧された。
「わたしも言い過ぎたとは、思ってるの…。でしゃばりすぎだったわ」
「でもエラは間違ったことは言ってないよ。イグリは確かにあの時子供っぽかったもの。こんな風に、むくれちゃってさ。隊長のくせに」
 アルテミシアは頬を大きく膨らませ、狭い木箱の中で器用に腕と脚を組んだ。
「それに、同意も得ずにキスって、何なの?友達にこんな事言いたくないけど、ちょっと顔がいいからって、自惚れが過ぎるんじゃない?わたしだって今同じことされたらぶん殴るな」
 あまりの言われように、エラはイグリが不憫になってきた。エラの見たところ、イグリはまだアルテミシアに想いを寄せている。その相手にこうも悪し様に言われてしまっては、救われない。今の今までイグリにひどく腹を立てていたのに、全力で彼を擁護したくなってしまった。
「それは、イグリ・ソノさまはいつも冷静な旦那様と違って感情的になりやすいけど」
「ああ~…、ウン」
 アルテミシアは無意識のうちに自分の恋人を棚に上げていたことに気付いて思わず目を泳がせたが、エラは幸いにも気に留めていない。
「許してあげて。ミーシャのことが心配なのよ」
「ええ?エラってば。違うよ、あれは…」
 と、アルテミシアは笑いながら軽い調子で言おうとしたが、言葉を切った。何となく、この先は自分が口に出してはいけない気がする。
「…とにかく、帰ってきたらうちのエラを傷つけた罰としてイグリをぶん殴る」
「ミーシャったら!やめてあげて」
「いや、絶対殴る」
「もうわたしが自分で仕返ししたわ」
「だめ。大事な友達を傷付けられてわたしも傷付いたから、わたしにもイグリを殴る権利がある」
 この断固とした言い方に、エラはついにおかしくなって笑い出した。
「言ってることがめちゃくちゃよ」
 アルテミシアもニッと笑った。

「…なあ」
 馬を御すリコが隣のレイに話し掛けた。
「積荷がちょっと楽しそうにし過ぎじゃないか?」
 レイが四角い顎をひくひくと歪めながら頷いた。先程から後方の荷箱からキャッキャと楽しそうな話し声が聞こえている。
「さすがはミーシャだな。状況に呑まれない気丈さも上官の琴線に触れたに違いない」
「おお。お前、また大仰なことを言うね」
「さあ、もうすぐ港だ。仕事が始まるぞ」
 レイが言った通り、前方に海と停泊する船が小さく見え始めている。リコは女同士の話で盛り上がっている荷箱に向かってピイッと口笛を吹いて合図した。

 アルテミシアとエラの入った荷箱が馬車から下ろされ、喪服のような黒装束に身を包んだエサドの乗るヒディンゲルの船へと積み込まれる間、サゲンは港に停泊するカラヴェラ船の上で微動だにせず見守った。
「こちらは準備万端です、将軍。全ての船がいつでも起動できるよう手配してあります」
 ゴランがサゲンに声を掛けると、サゲンは厳しい表情を崩さずに浅く頷いた。
「ゴラン・イキ」
 サゲンは副官を呼んだ。
「はい」
「俺が乱心するようなことがあれば、お前が指揮を執れ」
 サゲンが副官に向かってこんなことを言い出すのは、初めてのことだった。ゴランはくっきりした黒目をサゲンに向けて口元を緩めた。
「鬼のバルカ将軍も人の子だったんですね」
 サゲンは切れ長の目から瞳だけ動かして副官を見下ろした。
「一応軍令として聞いておきますが、大丈夫ですよ、あなたは。ミーシャが敵陣にいるからこそ冷静になるはずです」
 ゴランはそう分析した。サゲンにはできない分析だった。何故なら、サゲンが人生で初めて心の底から愛した人物が自分の指揮下で敵陣に潜入するなど、これまで経験したことがないからだ。しかし、ゴランには確信がある。窮地に立てば立つほど、サゲン・バルカという男は集中力を発揮する。当時トーラク隊の小隊長だったサゲンの部下になってから十二年、そういう姿を何度も見てきた。
「あなたと同じように、僕もミーシャに命を預けています。今までこれほど信頼に足ると思った女性はいませんよ」
「そうだろう。俺のだ」
「はあ、わかってますよ。…何度かあなたに黙って食事に行ったのを根に持ってますね」
 苦々しげに笑って見せたゴランに向かって、サゲンは片側の唇だけで不適に笑んだ。どうやら本気の牽制ではなさそうだが、ゴランはその戯れに乗ることにした。
「あなたのものに手を出したりしませんよ。第一、僕はもっと打算的で性格の悪い女狐みたいな女性が好きなんです。安心してください」
「変わったやつだな」
 と、今度はサゲンが苦笑した。

 晴天の下、絶えず陽光が隙間から射してくる。いくら季節は冬に近付いているとは言え、湿度の高い南エマンシュナの海上ではやはり狭い木箱の中は暑い。事前に決めておいた通り、木箱の中のアルテミシアが時間と方向の感覚を失わないよう、エサドは三十分経つ度に木箱の左側をコツコツと叩き、船が方向を変える度に右側を一定の法則に従って叩いた。アルテミシアはその合図を頼りに大体の時間と場所を大まかに把握することができた。
 出航して二時間余り、エサドが木箱の左側を四回叩いた。停止の合図だ。海流の不安定な場所を避けるためか何度か方角を変えたようだが、貿易港からは南東に向かってきたらしい。そして見張り台からギリギリ見える程度の位置に、味方の船が航行しているはずだ。
 やがて木箱の外でバンッ!と轟音が鳴り響き、驚いたエラが短く悲鳴を上げた。
「大丈夫、海賊への合図だよ」
「じゃあ、もうすぐ来るのね」
 アルテミシアは恐怖に声を震わせ始めたエラの背中をさすってやった。その手も僅かに震えている。
「ミーシャも震えてるわ」
「これは武者震い」
 エラは薄暗い木箱の中でちらりとアルテミシアの顔を見た。その言葉通り、瞳は怜悧な輝きを持ってまっすぐ木箱の外を向き、神経が海の向こうへと集中しているのが分かる。
 身体中がざわざわする。アルテミシアは手のひらを軽く握っては伸ばす運動を繰り返した。
 三十分ほどすると、俄かに外が騒がしくなった。エル・ミエルド語に似た異言語で話す男たちの声と、ひどい訛りのマルス語でエサドと話す男の声が聞こえる。
(相手の声は三人分)
 と分析して、少し安堵した。想定通り相手が三人なら、対処できるだろう。
「久し振りだな、え?あんたんとこのダンナはもうくたばったかと思ってたぜ」
 酒焼けしたようなガラガラ声の男が言った。声が近いから、もうこちらの船に乗っているはずだ。
「ご主人様は年を取っていますから、近頃は減りました」
 エサドの抑揚のない声が聞こえてくる。打ち合わせにはなかったが、巧く話を合わせているようだ。
「女を甚振る回数がってか?ヘッ。あの老いぼれにまだそんな元気があるたぁ、羨ましいこった」
 下品な笑い声を響かせながら、海賊が木箱へ近付いて来た。
「どれ…」
 木箱の側面に取り付けられた鍵をガチャガチャと開け、海賊が蓋を取り払った。
 アルテミシアは大きく広がった鼻と茶色い無精髭の粗野な海賊の顔を見た。酒飲みらしく太鼓腹で、背は高くない。肌は日に焼けて浅黒いが、他の外見的特徴を見る限り、エル・ミエルド人ではない。訛りから推測するにマルス大陸の南西地域か、もっと南方の島の出身かもしれない。
「なんだぁ?」
 海賊が眉根を寄せたのを見て、アルテミシアは目を逸らした。じろじろと見過ぎただろうか。彼らを相手にまっすぐ目を逸らさないのは、奴隷の少女にはあるまじき行為だ。もっと怯えた様子を見せなくては。隣で震えるエラのように。
 しかし、アルテミシアの心配をよそに、海賊は分厚く大きな唇をニタリと引き伸ばしてエラとアルテミシアを交互に眺めた。
「今度のはずいぶん上玉だなあ。数も少ねえし片方はチと育ちすぎちゃいるが…」
 と、アルテミシアを見た。アルテミシアはその酒臭い顔に唾を吐いて殴ってやりたくなったが、目を伏せて耐えた。ここで殺意を見せるわけにはいかない。
「オイ、あんたのダンナはこいつらに道を付けたか?」
 海賊にそう問われたエサドは、木箱から出されたアルテミシアとエラを無表情で見た。
「わたしは案内をするだけですから、それは分かりません」
 最後にエサドが一瞬だけアルテミシアと目を合わせて来たのが、アルテミシアには謝罪のように見えた。「道が付いていない」、つまりヒディンゲルの手が付いていないと言えば高値の処女として丁重に扱われるだろうから乱暴はされないはずだが、アルテミシアもエラも明るいブロンドの髪を持っていて明らかにヒディンゲル好みだ。これで手が付いていないと言えば、怪しまれる可能性がある。あの場では否定も肯定もしないことが最善だっただろう。
(分かってるよ)
 そう思いながら、アルテミシアはエサドに視線を返した。
「ヘッヘ」
 アルテミシアの神経を逆撫でするような声と顔で海賊が笑った。
「どっちでもいいな。あとでじっくり確かめてやればいい」
(その前にあんたの息の根を止めてやる)
 アルテミシアは伏し目がちに怯えた表情を装いながら内心でそう毒づいた。
 エサドと太鼓腹の海賊の間で値段の交渉と金銭のやり取りが済んだ後、アルテミシアとエラは海賊の小船に乗せられた。大小の三角の縦帆が二枚張られていて船体は細く、大型船を撒くほどの機動性は十分にありそうだ。船には額が大きく顎の突き出た筋肉質の操舵手と、リーダー格らしい目が垂れた猟犬ハウンドのような顔をした背の高い男がいた。
 二人は帆柱の下に座らされ、後ろで両手を縛られた。下品な笑い声をあげながら両手首をきつく締め上げてくる海賊を後ろへ蹴飛ばさないよう神経を集中させなければならなかったが、ここまでは想定通りだ。ところが、
「おい、足を忘れてる」
 と船首に胡座をかいて座る犬顔の男が言った。この二人の共通語はマルス語であるらしい。太鼓腹の海賊は酒焼けしたようなガラガラ声で「おお」と応え、二人にブーツを脱ぐよう命じた。アルテミシアは内心でブーツの中に武器を隠してこなかったことに安堵した。
 二人の奴隷が大人しく裸足になると、海賊は乳児の頭くらいの大きさはある鉄球と鎖で繋がった足枷を二人の片足にそれぞれ付け、最後に鍵を掛けた。
 鍵をポケットにしまおうとした太鼓腹の海賊に、‘犬顔’が眉をひそめて「おい」と言った。
「てめえは鍵を持つな。前に酔って失くしただろうが」
「おお」
 ‘太鼓腹’は顎の突き出た操舵手にひょいと鍵を投げ渡すと、‘犬顔’のいる船首の方へ行き、ドカッと腰を据えた。
 操舵手がズボンの右側のポケットに鍵を押し込むのを、アルテミシアは見ていた。
(これは、なかなか――)
 思ったよりも奴らは慎重だ。間違いなく想定よりも仕事が難しくなった。が、アルテミシアは狼狽えなかった。むしろ、未だ消えぬ任務へのざわざわとした高揚感から口元が緩み始め、それを我慢するために唇を真一文字に引き結んでいなければならなかった。
 それよりもエラが心配だ。やはり怖いのだろう。顔は蒼白で、唇を固く結んで顎が震えるのを必死で我慢しているようだった。よく耐えている。それでも、エラが奴隷役を買って出た時に止めればよかったとは思わない。もし自分がエラの立場ならそう思われたくないからだ。それとも、これはエラの勇敢さを利用した薄情な作戦なのだろうか。
「利口なやつはみんなそうだ」
 ‘犬顔’が薄ら笑いを浮かべて言った。アルテミシアは一瞬自分のことを言われているように錯覚し、無言で男を見た。これが、‘犬顔’には怯えたような顔に見えた。
「手足の自由を奪われると諦める。いい子にしてりゃ悪いようにはならねえんだ。妙な気は起こすなよ」
「今まで妙な気を起こした子がいるの?こんな海の上で、どうにもできないわ」
 尋ねたのはエラだった。
「いるさ」
 気丈にも言葉を発した少女を意外に思ったらしい。‘犬顔’が牙のように尖った黄色い歯を見せた。
「足枷がついたまま自分から海に落ちた。一人じゃない」
 怖がらせようと思ったのだろう。エラが沈黙すると、‘犬顔’は満足そうに笑って自分の足元に置いてある酒瓶を取り上げ、口を付けた。
「じゃあ、あなたたちはわたしたちに乱暴なことはしないのね?」
 と、エラは再び口を開いた。
「オイ嬢ちゃん、俺たちがそんな野蛮なことをするように見えるのか?」
 今度は顎の突き出た操舵手が煩そうに言った。
「この人はそう見えるわ。さっきわたしたちの身体を調べるって言ってたもの」
 エラは太鼓腹の海賊を顎でしゃくった。
「なんでえ!生意気な小娘だな」
 ‘太鼓腹’はいきり立ったが、‘犬顔’の鋭い一瞥で黙った。
「お嬢ちゃん」
 ‘犬顔’が言った。
「利口な奴は口も大人しくさせとくもんだぜ。あんたらは大事な商品だから傷はつけねえ。ウチの商売はそこら辺の馬鹿どもがやってるただの略奪じゃねえんだ。ただし、腐った野菜は市場に並ぶ前に棄てなきゃならねえ。客が腹を壊しちまったらことだからなぁ。意味がわかるな?」
「不良品は廃棄するということ?」
 海賊はエラが言ったこのマルス語の意味が分からなかったらしい。‘犬顔’は意味もなく頭の上を見上げて首を傾げた後、
「まあ、そういうこった」
 と適当な返事をした。
 アルテミシアはエラが作った隙を有効に使っていた。
 海賊が物言いをする珍しい奴隷に気を取られている間に、背を預けた帆柱に結った髪をゆっくり擦り付けて頭に挿した折りたたみ式の剃刀をするりと落とした。落ちた剃刀は手首に巻かれた縄に当たって横に飛びそうになったが、幸いにもスカートの膨らみと背後の帆柱がそれを阻止し、じりじりと尻を動かして剃刀を手元に持ってくることに成功した。後ろ手に縛られているため、ほとんど指先しか動かすことができない。折りたたまれた剃刀の装飾が彫られた細い持ち手と刃の背を指の間で挟んで少しずつ開いた。縄を切るために刃を上に向ける途中、刃が指先を掠めて指を切った。サゲンの言った通り、切れ味は良さそうだ。幸いなことに、スカートの膨らみが海賊から死角になっているため、作業は比較的容易だった。
「こっちのお嬢ちゃんも」
 と‘犬顔’が腰を上げて近付いて来たので、アルテミシアはピタリと手を止めた。
「わかったな」
「…わかった」
 アルテミシアはわざとルメオ語訛りのマルス語で言った。いつものように完璧な発音のマルス語で話せば、怪しまれるかもしれない。船を奪うまでは不審に思われてはいけない。
 しかし、‘犬顔’はアルテミシアの顔を胡乱げに見てしゃがみこんだ。
(気付かれた?)
 背中に汗が伝った。やはり「少女」に紛れるには無理があっただろうか。
 ‘犬顔’の手が伸びてきて、ドレスの襟を掴んだ。
「おめえはどうも、いつもと趣向が違うな」
 アルテミシアは剃刀に気付かれないよう心の中で祈った。
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