王城のマリナイア

若島まつ

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五十二、奇襲 - l’attaque -

 サゲンの顎関節が動き、頬の皮膚を波打たせた。苛立っている。
 ヒディンゲルの船からアルテミシアとエラが引き渡されてから一時間以上が経っている。当初の想定では、三十分前に海賊船を制圧しているはずだった。カノーナスの船までの移動距離は短いはずだから、小船の制圧は迅速に終了しなければならない。
 サゲンの乗るカラヴェラ船の前方を、バスケ元帥が統率する軍の巨大なガレオン船が航行し、帆柱よりも高い櫓から見張り番たちによって最早蚤のように小さくなった小船の行方を追っている。
「バルカ将軍」
 操舵する副官のゴランが隣に立つサゲンに声を掛けた。
「もう少し近付けるよう指示しますか。迅速に援護ができるよう」
「いや、いい」
 サゲンはきっぱりと言った。
「アルテミシアはやる。もう少し待て」
「そう言うと思っていました」
 ゴランは上官の横顔を見た。誰よりも側へ行きたいはずなのに、身を切る思いで己を律している。
「僕も信じていますよ」
「分かっていて訊くな」
 サゲンは苦々しげにピシャリと言った。
 程なくして、遠くからピュルピュルと高く細い音が聞こえ、次いでやや遠くの低い位置でポンポンと軽快な音を伴って赤い火花が散った。軍船から方角の指示が出る前にサゲンはゴランに指示を出し、速度を限界まで上げて花火の方へと向かった。幸いにも、先刻から強くなり始めた風が味方している。
 みるみるうちに軍船を追い越し、サゲンのカラヴェラ船が風を切って先頭を行った。その後に、他の船も続いた。

「ああ、来た来た」
 アルテミシアは近付いてくる味方の船を見つけ、大きく手を振った。
 花火を打ち上げてから一時間足らずで、サゲンのカラヴェラ船がアルテミシアたちの乗る小船に合流した。その後方に、他のカラヴェラ船と軍船が続いている。
 カラヴェラ船から小船を覗き込んだサゲンは、彼らを笑顔で迎えたアルテミシアを見て膝の力が抜けそうになるほど安堵した。が、無論、部下たちの手前でそんなことはおくびにも出さない。
「無事か」
 と言って、裸足の二人にブーツを投げてやった。
 アルテミシアはそれを受け取って「ご覧の通りです、バルカ将軍」と言うと、スカートの裾をつまんで片足を下げ、宮廷風の礼をして見せた。その後ろでエラもひどく疲れた様子だったが折り目正しく頭を下げた。
 船の中央では三人の海賊は縄を打たれて転がされ、うち二人は意識を失ったままぴくりともしない。特にでっぷりと腹の出た男は顔が蒼白になり、右側の腰のあたりから服に血がべっとりと染み付いて、身体中に脂汗をかいている。
「生きているか」
 と、カラヴェラ船からサゲンが言った。
「エラが応急手当てをしたから、大丈夫。こいつにはイサ・アンナ様を侮辱した報いを受けさせるために、生きててもらわないと」
「怖い女だ」
 いつもの太陽のような彼女からは想像もできないほどに冷たい笑みを浮かべたアルテミシアを見てサゲンは苦笑した。この愚かな男は彼女から相当な怒りを買ったようだ。サゲンは小船へ降り立ってすぐに、エラが濡れた布で頬を冷やしているのに気付いた。
「君は、大事ないか」
 エラは顔を赤らめ、恥ずかしそうに頭を下げた。
「大丈夫です、これくらい。この人たちに比べたら」
「勇ましかったんだよ。そっちのやつの頭のコブはエラの作品」
 と、アルテミシアは手足を縛られたまま伸びている‘犬顔’を顎でしゃくった。
「よくやった」
 エラはサゲンの労いを受け、嬉しそうに笑って森の屋敷でいつもしているように恭しく礼をした。
「さて…」
 サゲンは縄を打たれて胡座をかいている顎の突き出た海賊を見下ろした。喉のちょうど中央に、赤紫色の痣が広がっている。アルテミシアに喉を潰されたなら、一日二日では声は戻らないだろう。
「取引をしよう」
 サゲンの目が冷たく光った。これが、海賊の目には海の底に棲む恐ろしい怪物のように見えた。

 イノイル・エマンシュナの船団が海賊船団に到達したのは、それから一時間ほど後のことだ。読み通り、受け渡し場所からの距離は程近かった。彼らの根城は地図にも載らないほど小さな岩の島で、周囲に柱状の数十メートルはあろうかという無数の柱状の岩が海から突き出ている場所だった。この島の狭い入り江を守るように大小の船が何隻も浮き、中には鮮やかな赤で塗られたゴンドラのような形をした娯楽用の船もあった。そういう船は多くが入り江の近くに浮かんでいて、中央に天蓋付きの寝台らしきものがあり、海賊たちが娼婦を侍らせて賭博に興じたり酒を飲んだりして涼しい昼下がりを楽しんでいる。まるで、海に浮かぶ享楽の園のようだった。
 バスケの軍船からサゲンの乗るカラヴェラ船へ矢文が飛び、見張り台からの情報がもたらされた。
 内容は、相手の布陣についてだ。
 先頭に見えている一際立派なガレオン船を中心に、その両脇をそれよりも二回り小さなガレオン船が固め、その周りにイノイル軍のものよりも一回りほど小さいカラヴェラ船が凡そ二十隻点在し、入り江の近くにはゴンドラや小船が何隻も浮いている。岩の柱や他の船が視界を遮っているため、娼婦を乗せたゴンドラや遊びのための小船がどれほどあるかは判然としない。

 海賊たちが女を仕入れてきたはずの船が何隻もの船を引き連れていることに気付いたのは、彼らの表情がはっきりとわかるほどに接近した時だった。よほど安心していたのだろう。彼らはこの時になって初めて操舵手が赤いドレスの女であることを視認した。派遣した仲間の姿は、その船の上にはない。
 程なくして巨大な貿易船のように見えていた船がイノイル・エマンシュナ両王国の軍旗を掲げた直後、海賊は最高レベルの非常事態を告げる警鐘を打ち鳴らした。彼らは一時的に恐慌状態に陥ったが、先頭のガレオン船が中央に進み、その甲板の中央に男が出てきて大声で指揮を始めると、それぞれの船が旗で合図を出し、瞬く間に陣形を整えた。
 指揮を執る男は小柄だった。肩ほどの長さの赤茶色の髪を後ろに撫で付けて一つに縛り、その体格からは不釣り合いなほど隆々と筋肉の盛り上がった腕を剥き出しにして仁王立ちしている。広い額は大きく張り出し、大きな両目が爛と光り、口は左右に大きく、眉は殆どない。異相だ。
 サゲンはこの男を知っている。この顔を忘れるはずがなかった。
「陛下が討伐した海賊団の三番手――‘アリスモス・トリア’だ」

 十三年前の海賊団討伐でのことだ。
 イサ・アンナ女王軍の別働隊として動いていたトーラク将軍麾下のガレオン船を、突如海賊の奇襲部隊が襲った。荒海の中、敵の迅速な動きに機動性で劣るガレオン船は上手く対応できず、激しい先制攻撃を受けた。当時トーラク隊の小隊長だったサゲンが先陣を切って剣を振るい、体勢を立て直して敵を撃退するに至ったが、乗船していた味方のうち半数近くが命を落とし、生き残った者も多くが重傷を負った。サゲンもそのうちの一人だった。
 奇襲船から飛んできた矢を左腕に受け、その隙を突いて背後から斬りかかってきた海賊の剣を同じ場所に受けた。ほんの刹那動くのが遅れていれば、左腕を失っていただろう。この戦で、サゲンと同じ日に入隊した同輩は右目を失い、もう一人の同輩は命を落とした。
 サゲンの左腕に傷を付けた海賊は海に散ったはずだったが、死体は見つからなかった。この男が海賊団の首領の腹心の一人だったというのは、それよりもずっと後――首領が死に、側近‘アリスモス・ディオナンバーツー’の船が海に沈み、海賊団が壊滅した後、捕らえた他の海賊の尋問で知った話だ。
 ‘アリスモス・トリアナンバースリー’は闘争心が強く、残忍で狡猾な男だと、皆が口を揃えた。サゲンが見た、獣性を露わに目を血走らせたその顔は、正にそういう類の男のそれだった。

 その時と同じ目が望遠鏡のレンズを通してサゲンを睨みつけた。怒りも焦った様子もなく、「来るなら来い」とでも言わんばかりだ。闘争を楽しんでいる風でもある。相手がかつて剣を交えた男だということに気付いているかは、定かではない。
 サゲンは自らの乗るカラヴェラ船を前方の小船に近付け、アルテミシアをこちら側に移らせた。小船は、無人になった。既に海賊たちはバスケ指揮下の軍船に収監され、エラも最後方の貿易船で医療班としての任務を再開している。
 この時、アルテミシアもカノーナスの船に知った顔を見つけた。
「それ貸して」
 と言うなりサゲンから望遠鏡を引ったくって覗き込んだ。
(…間違いない)
 カノーナスらしき異相の男の後ろに、落ち着かない様子で不安そうな顔をした中年の海賊がいる。最初に会った時よりもやつれ、老いぼれて見える。
「指揮官の後ろにいる男、アムでわたしをエラたちと同じ船室に押し込めて逃げたやつだ」
 サゲンはアルテミシアから望遠鏡を受け取り、覗いた。
「カノーナスの側近には見えないな」
「人質か、もしかしたら見せしめなのつもりなのかも。娘がカノーナスに捕まってるって言ってた」
「使えそうか」
「どうかな」
 アルテミシアは首を傾げた。
「娘を助けたいとは思っているだろうけど、カノーナスに背く勇気があるかどうか。見て、あれ。暗ぁい顔で主人の顔色を窺って、完全に恐縮して小間使いみたいに仕えてる。自分の命を守るのに精一杯って感じ」
「だが――」
 サゲンがアルテミシアの目を見た。
「他にも囚われている者がいるならば、救出を手引きする者が必要だ」
「娘を取られたおじさんとかね」
 サゲンは短く頷いた。
「上手く説得して娘は絶対安全だって分からせれば、父親として最善の選択をするはず」
「成功すればそれを皮切りに離反者が続いて出るかもしれない」
 アルテミシアは肩を竦め、サゲンに向かって微笑んだ。
「やらせてくれるんでしょ?」
「ああ」
 サゲンも心なしか口元が綻んで見える。
「君はアガタ隊と合流して待て。カノーナスの船で戦闘が始まったら折を見て接触しろ」
 アルテミシアはニッと歯を見せて親指を立て、イグリの隊と合流するために再び小船に飛び乗った。
「アルテミシア」
 サゲンがカラヴェラ船から小船を見下ろした。
「カノーナスは有能な男だ。やばいと思ったらすぐ逃げろ。いいな」
「あなたが有能だって認めるんなら、相当だね」
 アルテミシアは肩を竦めた。

 間も無くバルカ将軍の指示の下、連合軍が砲撃を開始した。砲弾が届くほどの距離ではないから、威嚇のためだ。たかだか威嚇砲撃と言っても、空気を震わせ、遠くに陣を展開する相手の船をも揺らすほどの轟音だ。敵の士気を奪うほどの効果は十分にある。
 ところが、慌てて入り江の方へ退いたのは娼婦を乗せたゴンドラと娯楽のための小船だけだった。海賊たちは砲撃に怯みながらも退くことはせず、イノイル海軍の乗ってきたカラヴェラ船よりもひと回りからふた回りほど小さな船底の浅い船を巧みに操り、カノーナスのガレオン船を囲うように陣形を整えた。彼らは敵である連合軍よりもむしろ、大首領であるカノーナスの方を恐れているのかもしれなかった。一方、カノーナスの船の戦意は高く、砲撃に動揺する気配はない。サゲンは砲撃をやめさせ、硝煙が風に乗って消えるのを待った。
 カノーナスの船の左前方を護るカラヴェラ船と同等の規模の船が、やや動きが鈍い。サゲンは望遠鏡を通して、この船の長が仲間と口論しているのを見た。カノーナスの命令に不服を示す者がいるようだ。
「あれに仕掛ける」
 ゴランにナヴァレの軍船からの砲撃に加え、いくつかのカラヴェラ船に装備した小型の大砲での攻撃も命じた。
 今は海から入り江に向かって吹く風が軍に味方しているが、あと五、六時間もすれば陽が沈む。その後に起こるのは、視界不良のみではない。風の変化だ。今海から陸へ吹く風は止み、代わりに陸から海へと吹き始める。そうなれば、形勢は不利になるだろう。しかも、岩礁の多く入り組んだ入り江は風が読みにくく、大型の軍船がこの巨大な岩の柱の間を縫って航行するのは危険が大きく困難だ。カノーナスの船はこの入り江を背後の守護者として陣取り、火器を多く積んだ攻撃者を前方に配備している。戦闘を長引かせて風が変わるのを待つつもりに違いない。
「その前に崩す」
 と、サゲンは短くゴランに言った。
「まずは将の前に馬ですね。まずはあの血の気の多そうな船長をからかってやりましょう」
 ゴランは黒い瞳を輝かせた。

「始まったね」
 アルテミシアは轟音を聞いてイグリのカラヴェラ船の船首に立ち、前方を眺めた。
「また、派手に鳴らしてるな。海賊は威嚇と分かってて怯んだりするかな?」
 イグリが隣に来て言った。
「そうじゃないと思う。カノーナスと他の船の連携を断つためだよ」
 アルテミシアはイグリの方を見もせず、ツンとして言った。イグリの船に合流してからというもの、彼に対してだけはずっとこの調子だ。イグリは耐えきれずに口を開いた。
「なあ、俺何かしたか?」
 この時、アルテミシアは初めてイグリの顔を見た。いつもとは違った、冷たい視線だ。
「別に。わたしには・・・・・、何も」
 イグリは肝を冷やした。エラの一件が、アルテミシアの耳に入ったことは疑いようがない。
「あっ!?」
 素っ頓狂な声が出た。
「もしかして――いや、あれは…」
「弁解は」
 と、アルテミシアが遮った。
「わたしじゃなくてエラにしなよ。謝罪も」
「確かに子供っぽい振る舞いだったよ」
 アルテミシアは眉を上げた。どうやらいつも陽気なイグリ・ソノはしょげているらしい。
「落ち込むくらいならしなきゃいいのに!一体、いつもの陽気で優しいイグリはどこにいっちゃったわけ?あんな最低なことするなんて、らしくないよ」
 イグリはぐうの音も出なかった。が、エラを怒らせた後、激しく自己嫌悪して初めて見えたものもある。
「…彼女に許してもらえるなら、どんなことだってするさ」
 アルテミシアはそれまでの怒りも忘れて目を丸くした。こんな時なのにイグリの金色の睫毛の下の青い瞳が、何故だか幸せそうに輝いて見える。
「それって…」
 と、口を開いて、すぐに閉じた。聞かないでおいた方が当人たちのためだ。
「イテッ!」
 イグリが叫んだ。アルテミシアがブーツの踵でイグリの足を思い切り踏みつけたのだ。
「なんだよ、ひどいな」
「本当なら顔面に一発お見舞いするところをこんなもんで済ませてやったんだから、感謝してよね」
 アルテミシアはニヤリと笑った。

 初めこそ隣の船のカノーナスを気にして動かずに耐えていた二番手の船は、連合軍の執拗な轟音と矢弾の挑発に我慢の限界を迎えた。この船の首領が反撃の指示を出しそうになってはカノーナスを恐れた副官が止めに入ったが、連合軍から飛んできた矢が首領の尻を掠めてズボンの後ろを破り、兵たちが海賊船に届くほどの声で大笑した時、遂に首領は諫める副官を殴り飛ばして反撃の指令を出し、前進を開始した。壊滅的な被害を与えられる距離まで近付いて一斉に砲撃するつもりだろう。その証拠に、この船の首領はありったけの大砲の弾を部下たちに用意させている。
「単純なやつだ」
 サゲンは見張り台からその様子を見て鼻で笑い、弓矢を後ろに控える部下に渡してデッキへ戻ると、周囲の船を自船を先頭に縦一列に配置した。
「ぎりぎりまで引き付けろ。合図を待て」
 やがて互いの顔が肉眼で分かるほどの距離まで海賊が迫った時、
「舵を切れ!」
 とサゲンが叫び、驚くべき速さでカラヴェラ船が旋回した。海賊の目の前に現れたのは、横向きのカラヴェラ船と、こちらに向けて一列に配置された三門の大砲だった。海賊は泡を食って方向転換を試みたが敵わず、直後に発せられた一斉の砲撃と銃撃で船は大破し、この船の海賊は一人残らずその身体を撃ち抜かれ、或いは海へ投げ出された。
 カノーナスは怒号を飛ばしてサゲンの船に向かって砲撃を始めたが、サゲン麾下の銃隊が大型の銃を一斉に放って砲撃手を撃ち、そのうちサゲン自身が放った銃弾がカノーナスの左腕を掠め、傷を負わせた。
 敵が崩れ始めると、サゲン直属の隊を始め他の船もカノーナスの船へ接近し、遂にその船上へ侵入した。

「合図だ、ミーシャ!」
 イグリが叫ぶと、アルテミシアはサッとその場から離れた。
「舵を切れ!後方脇から敵船に近付け!」
 アガタ隊のカラヴェラ船がぐんぐんスピードを上げ、カノーナスの船へ近付いた。海賊は銃と矢を捨てて大きく湾曲した剣を抜き、連合軍の兵士相手に闘っている。この期に及んでもカノーナス隊は士気を落とさず、むしろ船上での戦闘において奮い立っていた。彼らはこの時、小船が巧みに岩の柱を縫って船尾から接近していることに気付かなかった。
 アルテミシアの睨んだ通り、臆病な男はその他数名の同志と共に船尾にいた。船首から中央は既に連合軍の兵が進み、交戦状態にあるが、船の後方は入り江に近く進入の困難な浅瀬とそびえ立つ岩の柱に護られ、敵味方共に少ない。
 アルテミシアは小船の帆柱をよじ登り、カノーナスの船に鉤縄を投げてそれを伝い、船尾に降り立った。その後にイグリとその部下二名も続いた。
 静かな侵入者に驚いた男は恐怖に顔を歪ませながら剣を構えたが、まるで素人だ。農具を持つような手つきだった。実際こんなところにさえいなければ、ただの農夫として畑を耕していたのかもしれない。
「あ、あんた…」
 アルテミシアの顔を見て男が驚いた。哀れなほど震えている。
「借りを返してよ、おじさん」
 アルテミシアは冷たい声で言った。
「捕まって売りに出されるのを待ってる女の子たちがいるんじゃない?あんたがわたしと一緒に閉じ込めた子たちみたいに」
「それは…」
 男は返事に窮した。尚も震える手で構えた剣を下ろそうとしない。アルテミシアの後ろから、イグリと二人の部下も船に乗り込んできた。
「戦う必要はないよ。戦力を見たでしょう。じきにわたしたちが勝つ。あなたの娘もまだ捕らえられているんでしょ?絶対に助けるから、教えて」
「ダメだ。わ、わたしは、わたしは…言えない」
「ここにはカノーナスはいないよ」
「言えないんだ…!こんな、恐ろしいことは、わたしには…」
「臆病者め」
 イグリの部下の一人が吐き捨てたが、イグリはそれを「よせ」と低く言って咎めた。部下は口を噤んだ。
「あんたは何でここにいるんだ。娘を生かすためじゃないのか?この船は軍が包囲している。俺たちが必ず助ける。どこにいるか、教えてくれ」
 イグリが諭すように言った。が、男は目を固く閉じて詫びるばかりで、彼らの顔を見ようともしない。
「すまない、すまない。ああ、あの子には悪いことをした…。全部私が悪かった。でも、だめだ。口を割ればわたしは、おしまいだ…。だめなんだ…できない」
 男の手から剣が落ち、男は膝から崩れ落ちた。頭を抱え、縮こまってすすり泣いている。
(これが、‘父親’の姿?)
 と、アルテミシアは呆然とした。
 アルテミシアは父親を知らない。血の繋がりがないことを確信する前からエンリコ・ベルージを父親だと思ったことは無かったから、父性というものを肌身で感じることがなかった。それだけに過度な期待を持ち過ぎていたとも言える。父親とは守るべきものを守る存在であり、誰しも我が子のためなら命さえ投げ出す強さを持つものだと思っていた。
(でも、この人は違う)
 男の目には自分が仲間に殺されることへの恐怖しか映っておらず、娘を救い出して自由を与えてやることなど、微塵も考えていないように見える。
「あんた、父親でしょ!?こんなところで蹲ってる暇があるなら、娘のために正しいことをして!」
「わからない。何が正しいのか――」
 アルテミシアのイライラが爆発した。
「言葉を理解しはじめた子供に親が最初に教えるようなことだよ!」
 アルテミシアが半ば自棄になって叫ぶと、男が顔を上げた。同時に破裂音が響き、次の瞬間、男は甲板に身体を打ち付けて倒れた。
「裏切り者!」
 発砲者がひどい訛りのマルス語で叫んだ。海賊だった。
「くそっ」
 イグリの部下が発砲者に飛び掛かって制圧したが、銃弾は男の背から胸へと貫通して赤黒い血液を甲板へ流し出し、今にも男の命を奪おうとしている。アルテミシアは咄嗟に屈み込んで傷口を強く押さえたが、身体の外へ流れ続ける血は止めることができなかった。男は生気を失くした瞳を泳がせてアルテミシアの顔を見ると、縋るように涙を一筋流した。
「どうか、こ、殺さないで…、死なせないでくれ…。ロクサナ、わたしの娘…、いちばん小さい、カラヴェラ船に…、あの子は…」
 最後の言葉はあまりに弱く、聞こえなかった。男は虚空を見つめながら絶命した。
 アルテミシアは自分の胸に迫ったものがどういう感情か分からなかった。怒りとも、憐れみとも言えた。確実なのは、今この時、父親を亡くした娘がいるということだ。
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