王城のマリナイア

若島まつ

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五十五、カノーナス - κανόνας -

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 甘い香りがする。
「海賊を罰したとき、どう感じた?」
 ロクサナの少女のような声が無垢な響きを持って、アルテミシアに問いかけた。
「…分からない」
「うそ」
 と、ロクサナが言った。哀しそうに微笑んでいる。
「だって、あなたの大切な人が止めるのを無視してまで手を下したのよ。よく思い出して、聞かせて欲しいわ」
(大切な人?でも、あの時はまだ――)
 アルテミシアは目を閉じた。サゲンとの関係があの時まだ始まっていなかったと言えば嘘になる。第一、問題はそこではない。無意識のうちに自分の頭が論点をすり替えようとしていたことに、ひどく嫌な気分になった。
 しかし、自分の野蛮で残忍な行為を思い出すのはもっと嫌だ。縫い付けた傷跡を無理矢理開くような気分だ。しかし、何故かロクサナの声と甘い香りが抵抗する気を失わせてしまう。それだけ彼女が人の心を開くのが巧いのだろうか。
(そう、あの時。――)
 本当は殺す気だった。このまま地獄のような苦しみのうちに死ねと思った。
 それなのに、苦痛にもがく海賊の顔を見ても、何も満たされなかった。エラやこれまで虐げられてきた女たちの、自分の受けた苦痛は消えはしない。だが、もとよりそんなことは知っていたはずだ。ただ、憎悪が溢れた。ニドという名の海賊の首領ではなく、自分をラデッサへ拉致した使者、エンリコ・ベルージ、ラウル・ヒディンゲル、自分を攻撃した全ての者たちへの憎悪だ。その醜い憎悪から自分が少しのあいだ解放されたかっただけだ。そのためだけに、意識を失った人間の命を奪おうとした。
 罰を与えたのではない。ニドを身代わりにして、彼らへの極めて個人的な報復を試みた過ぎない。あの行為に、大義などはない。
「いいのよ」
 ロクサナが優しく言った。アルテミシアはいつの間にか涙を流していた。
「自分を取り戻すために、代償を払わなければならない時もあるわ」
「こんなの、許されない…」
「わたしがあなたを許すわ」
 ロクサナがアルテミシアをそっと抱き締めた。
「わたしたちは同じだもの。あなたを許すわ」
 同じ。――
 甘い香りの中でアルテミシアは思った。泣いたせいか、目の奥が熱を持ち、ぼんやりして頭がうまく働かない。
「…あなたは何を代償にしたの?」
 何故こんなことを訊いたのか分からない。何がアルテミシアに次の行動を起こさせたのかも分からなかった。が、アルテミシアはロクサナから飛び退いた。背がテーブルの角にぶつかり、中央に置かれた銀の皿から、ほとんど黒に近い色にまで熟したプラムが一つ転がり落ちた。
「どうしたの?」
 ロクサナはおかしそうにくすくすと笑っている。まるで少女のように。
 サッ、と血が引いた。
 ――目だ。
 無垢な少女のような目が愉しそうに弧を描き、そのくせ膨らみ始めたばかりの果実のような明るいグリーンの瞳が深く鈍く妖しい輝きを放ってアルテミシアを刺すように見ている。
(何か変だ)
 本能が危険を感じている。いつの間にか身体中にじっとりといやな汗をかいていた。
 思い返せば、最初から変だった。
 ‘アリスモス・トリア’は‘将’だ。根からの攻撃者で、力と恐怖での支配を好む。みな彼の優れた統率力を見てカノーナスだと確信した。が、あの男は‘商人’ではない。老獪な権力者たちとの極秘で繊細な貿易交渉が、あの男にできるように見えるか。――無論、答えは否だ。
 一方、目の前の女は違う。知性があり、魅力的で、人の心を開かせる術を心得ている。生家が老舗の宝石商なら、銀行や経済について明るいことにも納得がいくし、大物の顧客を相手に交渉する技術もあるだろう。それに、この女だけが不自然なほど普通・・だ。他の女たちは一切言葉を発さず、軍が救助に来たと聞いても安堵した様子を見せなかった。怯えているようにも思えたが、それにしては目が虚ろで、どこかぼんやりしていた。――ちょうど今の自分のように。
 甘ったるい香りが頭に引っかかった蜘蛛の巣のようにまとわりつく。最初は花のような香りだと思ったが、今はねっとりと鼻腔から頭に広がってひどく不快に感じる。頭痛を催すほどだ。
(そうだ)
 ロクサナの養父の恐怖に歪んだ顔を思い出した。ひどく怯え、何かの影に恐怖し、しきりに自分のせいだと繰り返していた。そして、最期に「殺さないでくれ」と懇願した。海賊に捕まっている女性を軍が殺すなど、有り得ないのに。この違和感に気付くべきだった。正体を知られた後に命はないと知っていたからだ。何故なら、ロクサナは――
「カノーナス…」
 言いながら、愕然とした。全身の血が恐怖に凍った。彼女が如何に賢くても、女一人では粗暴な海賊団を統率することはとてもできない。が、一人の統率者を支配することなら、可能だ。
 あの養父が恐怖し、口を閉ざしたのは、あの異相の指揮官を恐れていたからではない。自分の過ちが無力な少女を怪物にしてしまった事実そのものに恐怖していたのだ。
「それはわたしの名前じゃないわ」
 ロクサナはまた愉しそうにくすくすと笑った。
 罪悪感を鎖にして養父を海賊船の奴隷労働に縛り付けたのは、ロクサナ自身だ。
「…この匂いは何?」
 と、疑問に思った時にはもう遅かった。既に身体の自由がきかなくなっている。
「ああ、リラックスできるものがいろいろと混ざってるの。でも、初めての人にはちょっとキツいかもね。戸を開けてもいいのよ」
 アルテミシアは声にならないほど弱々しく悪態をついた。
(やられた)
 全て話してしまった。ベルージにただの売り物として養育されてきた幼少時代、船乗りになったこと、父親代わりのバルバリーゴ船長のこと、母親やドナや、初めてできた女友達エラのこと、そして、サゲンがどれほど大切な存在かさえ。
 自分の全てを目の前の女に握られてしまった気分だった。アルテミシアは怒りと悔しさで泣きたくなった。
 ロクサナだけが影響を受けていない理由はわからないが、会ったばかりの人間にべらべらと自分のことを話したのも、いつものような警戒心を無くしたのも、この香のせいだ。何か判断力を鈍らせ、身体の自由を奪う効果があるに違いない。
「どこまで、本当なの」
 アルテミシアの身体は熱病に罹った時のように重くなっていた。立ち上がることすら億劫で、ひどい頭痛がし、汗をかいているのに身体中が寒い。
「全部ほんとう」
 ロクサナが可憐な薔薇色の唇に微笑をたたえてアルテミシアに近付き、屈んで額に触れた。アルテミシアは拒むこともできず、その目鼻立ちの美しい貌を睨めつけた。今ならはっきりと分かる。ロクサナは少女などではない。三十はいくつか超えているはずだ。
「大丈夫?初めての人があんまり長く嗅いでいると、具合が悪くなるのよ」
「あなたはどうして平気なの」
 フッ、とロクサナが吐息で笑った。自嘲なのか、愚にもつかないことを尋ねたアルテミシアをせせら笑っているのか、判らない。
「ずっと嗅がされていたから、身体が慣れたの」
 ロクサナの瞳がアルテミシアの感情を見透かすように揺れた。
 何に、誰にこの怒りを向けたらよいのか分からない。心の中に湧き出した憎悪も、全てを彼女に向けられない自分がいることにひどく戸惑った。
「どうして…」
 アルテミシアの目から涙が落ちた。ロクサナはそれを不思議そうに眺めている。
「自分と同じ苦痛を、他の人に与えるの。あなたは苦しみを知ってるのに」
「ああ!ミーシャ!」
 ロクサナは慈愛に満ちた声で叫び、アルテミシアを抱き締めた。
「なんて優しい子なの。でも、知らないふりはだめよ」
 悪戯好きの少女のようにくすくす笑い、ロクサナはアルテミシアの破けたスカートの裾に柔らかい手を滑らせ、腿のベルトに差した短剣をするりと抜き取った。アルテミシアは身じろぎをするだけで、既に相手の細い腕を振り払う力もなくしていた。
「あなたにはわかるでしょう?わたしたちは同じだもの」
 ロクサナの言葉が呪いのように響いた。
 アルテミシアにはもう分っている。これがロクサナの「代償」なのだ。
「本当言うとね、わたし、今までこんな風に誰かに自分のことを正直に話したことってなかったの。男たちにも、攫ってきた女の子たちにも、大人しくしてもらうために嘘ばかりついたわ。でも、ミーシャ、あなただけは特別。どうしてあなたにだけ本当のことを話す気になったと思う?」
 聞きたくない。耳を塞ぎたかった。が、ロクサナが指を絡めて抵抗力を失ったアルテミシアの両手を握った。手が、冷たい。
「やめて」
 アルテミシアは力なく拒絶した。
「不思議よね。さっき、初めて会って直感したの。あなたはわたしと同じ目をしてる」
「違う」
「いいえ、そうよ。あなたも同じ事を思ったはずよ」
(サゲン…)
 心の中で愛しい男の名を呼んだ。そうでもしないと今にも心が折れてしまいそうだ。
「いくら愛を知ったからって、本質は変えられない。わたしもあなたも、いつも怒りを抱えてる。悪魔のように冷酷で、残忍な自分がここに、眠っているの」
 ロクサナは指を絡めたままアルテミシアの片手を自分の胸に押し当て、もう片方の手でアルテミシアの胸に触れた。手を伝わる鼓動が、どちらのものか分からない。アルテミシアは呼吸を激しく乱した。
「でも、だからって気に病むことはないわ。あなたは正しいことをしたのよ。あなたが罰した男の命なんて、何の価値もないものだわ。そうでしょ?」
 アルテミシアの眉が歪むのを、ロクサナは朗らかな笑みを浮かべながら眺めた。
「ねえ、いいことを教えてあげましょうか。あなたたちが‘カノーナス’と呼んでいる男は、もうとっくにいないのよ」
 一瞬の間を置いてその意味を理解すると、アルテミシアは愕然とした。
「どういうこと…」
「死んだの。わたしの身体に溺れながら。五年くらい前よ」
 ロクサナは真実を言っている、とアルテミシアは確信した。カノーナスの死が五年前であれば、海賊のやり口が変わった時期と概ね一致している。
「じゃあ、あの指揮官は」
「先代の腹心、伝令役、共同統治者…なんて言ったらいいかしら。表向きには、病床に伏したカノーナスの代理ということになっているわ。同じ船の仲間しかカノーナスが死んだことを知らないの。カノーナスは、以前はアリスモス・ディオナンバーツーと呼ばれていた老人だったけど、余程酷いことをしてきたんでしょうね。みんな心底あの老人を怖がっていたの。だから、生きてることにしておいた方が都合がいいのよね。わたしにとっては、ただの好色な老人だったけど。心臓が弱っているのを知りながら、年甲斐もなく盛っちゃって。みっともないったら。本当、バカみたい」
 ロクサナはまたあの無邪気なクスクス笑いをした。
「でも、みっともないバカでも、影響力は大きい。使い道はあるわ」
 茶色の濃い睫毛が目の下に濃い影を落とし、ゆっくりと弧を描いた。これがアルテミシアには、ひどく酷薄な笑みに見えた。
「ある日突然、自分を虐げてきた憎い男が自分の上で事切れたら、あなたならどうする?ミーシャ」
「…わからない」
「またうそね。もう答えが出てるって顔よ」
 ロクサナは正しい。
 もしも同じ立場なら、先代のお下がりとして他の者の慰み者にされるよりも、その死を隠匿し、復讐として全てを奪うだろう。カノーナスの次に影響力のある腹心が協力者になれば、難しいことではない。そして、ロクサナはそれを実行した。いや、実行しただけではない。カノーナスの築いた王国を更に大きくするという野心を抱いたのだ。
「ほらね」
 ロクサナは全てを見透かしたように言った。
「やっぱり、わたしとあなたは考え方が同じだわ。必要ならどこまでも冷酷になれる」
 だんだん意識を保つのが難しくなってきた。目蓋が重い。
「わたしは家が欲しかっただけよ。自分の人生を生きるために。これが、その代償」
「そんなの、あまりに…」
「大き過ぎる?でも、わたしみたいに無力で無価値な女は、これくらいしないと欲しい物を手に入れられないのよ」
 まるで教師が生徒を諭すような口振りだ。これまでの恐ろしく非道な行為の数々を、まるで必要なことだったかのように語っている。
「…もうすぐ、仲間が来るよ。逃げられない」
「賭けましょうか。わたしとあなた、どっちが早く迎えに来るか。でもちょっと、あなたに不利かしら」
 ロクサナが片目を無邪気に瞑って見せ、アルテミシアの額にキスをした。その唇は、身体が凍るほど冷たかった。
 不意に、船が僅かに揺れ、外のデッキで音がした。
 アルテミシアはイグリたちが早くも迎えに来たかと期待したが、しゃなりと立ち上がってカーテンを開けたロクサナが微笑んだのを見て、希望を失った。
「おかえりなさい、ヤニス」
 まるで妻が夫を迎えるような自然さでロクサナが仲間を招じ入れた。ヤニスと呼ばれた全身ずぶ濡れの異相の男は、ついさっきまでカノーナスだと思っていた‘アリスモス・トリア’だった。手酷く痛めつけられたような傷をいくつも負っているというのに、海を泳いできたらしい。
(それにしても、なんて…)
 なんて平凡な名前。
 口に出したつもりだったが、実際は違った。声が出ない。
「わたし、この子が死ぬところを見たくないの」
 ロクサナが悲しそうに言った。本当に悲しんでいるように聞こえる。実際、そうなのだろう。まったくもって不思議なことだが、その感情に嘘はないように思えた。恐らくは、これもロクサナの払う代償のひとつなのだ。
「…外でやる」
 と応じる声が、アルテミシアにはほとんど聞き取れなかった。ひどい掠れ声だったからか、自分の意識が薄れているからか、アルテミシアには判断できなかった。
 明らかなのは、同じ距離にいるはずの二人の声が、次第に遠のいているということだ。
(やばい。力が…)
 アルテミシアの目蓋が下りた。
(サゲン。――)

 イグリと二人の部下と女たちがバスケ元帥率いるエマンシュナ海軍‘ナヴァレ’の軍船に着いた頃、オレンジと青の混じった紫色の空には既に月が輝き始めていた。気温も変わりつつある。もうすぐ風向きが変わる。
 イグリはすぐさま入り江の方へ向かう援軍を要請し、捕虜となっていた女たちを軍船へ移す作業に取りかかった。イグリと部下たちは彼女たちが軍船から下ろされた縄梯子を伝って上るのを介助してやった。
「大丈夫。怖くないよ。仲間が上で君を待ってる」
 と部下が優しく声を掛けた少女は、最後にロクサナが乗せてやってくれと連れてきた少女だ。
 ひどく怯え、入り江の方向を不安げにちらちらと振り返っている。何故だか先程よりも感情的に見えた。普通なら、逆だ。軍に助けられたのならば、海賊の船に乗っていた時よりも落ち着いていそうなものなのに、この少女は様子が違った。
 これに気付いたイグリは、少女の肩に触れ、屈んで笑いかけた。
「何か気になることがあるのかい?」
 少女は顎を震わせて口を開いた。
「あ、あの、女の人…、名前は覚えていないけど」
 この子が話すことができたということに少々驚いて、部下とイグリはちらりと顔を見合わせた。何故なら小船に乗っている一時間ほどの間、捕虜の女たちは虚ろな表情のまま誰一人として口をきかなかったからだ。かと言って反抗的なわけでもなく、船に乗るときも梯子を上らせるときも、全員が黙ってイグリたちの言う通りのことした。彼女たちの沈黙ときたら仲間内でのひそひそ話すらもなかったほどで、全員話すことができないのではないかと心配していたのだ。
「…ミーシャのことかな。赤い、裾の破けたドレスの人?」
「たぶん、そう」
「たぶん?」
「あそこにいると、ぼんやりするからあんまり思い出せないの。でも、そう。その人」
 イグリと部下は再び顔を見合わせた。部下の顔もイグリと同じくらい強張っている。
「早く迎えに行ってあげてほしいの。ロクサナは、怖いから。ミーシャっていう人は知らないでしょう?ロクサナがいちばん偉い・・・・・・って」
「ロクサナって、あの青いドレスの女か」
 少女が頷くのを見て、イグリは戦慄した。
(まさかあの無害そうな女が――)
 捕虜だと思っていたあの女は捕虜ではなかったということか。少女の言う「いちばん偉い」というのが統率者であるということを示すならば、アルテミシアを最も危険な人物と二人で残してきてしまったことになる。
「引き返すぞ、二人が危ない!」
 少女を縄梯子に掴まらせた後、イグリは再び入り江へ向かって小船を出した。

 ‘アリスモス・トリア’が意識を失ったアルテミシアの脚を掴んで外のデッキへ引き摺り出した。
 このまま海に投げてしまえば死ぬだろうが、死なねばならない相手は目の前で確実に殺すのが‘アリスモス・トリア’の流儀だ。わざわざ船尾へ回ったのは、汚れが極力ロクサナの目につかないよう、すぐに死体を棄てるためだ。
 剣の切っ先がアルテミシアの首を狙って振り上げられた。
カロ・タクシディじゃあなコペラお嬢さん
 サゲンにひどく痛めつけられたために、ほとんど声にはならなかった。
 ――と、その時、船体が僅かに揺れた。
 ‘アリスモス・トリア’が後方を振り返ると同時に、サゲンが縁を掴んでデッキに降り立ち、標的に向かってものすごい速さで突進して行った。’アリスモス・トリア’は避ける間もなかった。
 その身体がデッキに倒れた時には、‘アリスモス・トリア’は喉から大量の血を噴き上げていた。サゲンの短剣が首を貫いている。
「俺は、仲間に牙を剥いたやつは忘れない」
 サゲンが顔に返り血を受けながら言った。怒り狂った猛獣のような形相なのに、声音は不気味なほど静かだった。‘アリスモス・トリア’は一度だけヒクと笑ったように口を歪ませ、そのまま絶命した。
 剣が手から離れ、落ちた。
「アルテミシア!」
 サゲンは俯せに倒れているアルテミシアの肩を掴んだ。顔色は悪くない。目立った傷も無い。が、意識が無い。ざわざわと不安がサゲンの心臓から指先へと巡った頃、僅かにアルテミシアが身じろぎをした。
「ん…サゲン…」
 閉じられたままの目から涙が細く伝い、目蓋が小さく震えながらうっすらと開いた。
「無事か。何があった」
 アルテミシアはふるふると頭を振った。外気のせいか、意識が次第に戻ってくる。
「そうだ…、聞いて。船室にカノーナスが…ああ、違う。本物のカノーナスはもう死んでて、愛人がその代わりをしてた。早く、捕まえないと――」
「それより、君は!何をされた!」
 サゲンが声を荒げた。カノーナスが死んでいようが生きていようが、誰が黒幕だろうが、今はどうでもいい。
「あ…、変な香を嗅いだだけ…。なんか甘ったるい匂いの」
 サゲンの深刻そうな顔を見て、アルテミシアは微かに頬を緩めた。
「大丈夫だよ。命には関わらない。多分、阿片オピウムとか鎮静薬の類いだと思う…」
 サゲンは大きく息をつき、アルテミシアを強い力で抱き竦めた。
 次の瞬間、アルテミシアの右肩の下にチクリと棘が刺さったような、小さな痛みが走った。一瞬の後、その正体を知ったアルテミシアは、まだはっきりしない頭を振り払い弾けるように身体を起こした。
 サゲンの左の肩から鎖骨の下へ矢が貫通し、その鏃がアルテミシアの上皮に到達していた。
 血が鏃を伝い、アルテミシアの胸に落ちた。
「サゲン!」
 呼ぶ声は悲鳴に近かった。
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