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五十六、毒 - i Veleni -
サゲンは小さく呻き、膝をついた。
アルテミシアは第二撃に備えてよろよろとサゲンの前へ出ようとしたが、サゲンの腕が伸びてきてアルテミシアを後方へ押し戻した。
「サゲン!」
「急所は外れている。大事ない」
「でも…」
「敵に集中しろ。意識を保て」
サゲンは厳しい声音で言い、アルテミシアの盾となるように攻撃者に対峙した。強大な海賊団を束ねていた人物の正体がこれほど華奢な女だったという事実は、サゲンにそれほど大きな衝撃を与えなかった。
むしろ、全てに納得がいく。彼らが金儲けの手法を変えたことも、粗暴で野蛮な海賊が銀行や権力者たちと取り引きができるようになったことも、その中心が教養ある女であれば、理に適っている。
船の中央、船室の前に、ロクサナが立っている。小型のクロスボウを手にしている。が、もう一度矢を番えようともせずに腕を下ろしたままだ。
「やっぱり、武器は苦手。練習しても船ほど上手にならなかったわ」
ロクサナが静かに言ってクロスボウをその場に棄て、そのまま戦闘を放棄した。少女のような声色は、既に無い。アルテミシアはある事実に気が付き、ぞっとした。
「矢を抜かなきゃ…」
アルテミシアが独り言のように呟いてサゲンの肩に刺さったままの矢を引き抜こうとした時、サゲンも気付いた。――毒だ。
「引かずに、押し込め」
痛みに顔を歪めながらサゲンが言った。鏃の返しが左の胸筋の上部の肉を裂いているのが自分でも分かる。
「いくよ」
アルテミシアは震える手を叱咤し、矢を押し込んだ。
サゲンはギリリと歯を食いしばって灼けるような痛みに耐え、鎖骨の下から皮膚を突き破って出てきた血塗れの鏃を掴むと、呻き声を上げながら一気に引き抜いた。矢が留めていた血がドッと流れた。失血が心配だが、毒ならば外に出さなければならない。
「痛そうね」
ロクサナがまるで他人事のような口調で朗らかに言って近付いてきた。サゲンは警戒して抜いたばかりの矢を握ったが、ロクサナの足は二人ではなく、デッキに転がった亡骸へ向かった。ロクサナは彼女がヤニスと呼んだ男の顔の横にしゃがんで見開いた目を閉じてやった後、二人には聞こえない程度の小さな声で何事かを囁き、広い額に乱れた赤茶色の髪を後ろへ撫で付けて整えてやると、そこにキスをした。血が、紅のように唇を彩った。
この時、サゲンがアルテミシアにほとんど吐息だけで囁きかけた。
「俺の身体に毒が回ったら、一人で逃げろ」
アルテミシアはサゲンの腕を強く掴み、語気を荒げた。
「わたしは、あなたなしじゃ帰らない!」
(どこかで聞いたな)
サゲンはおかしくなった。既に毒が回り始めているのかも知れない。この期に及んで、嗤いだすなど。
「なんの毒?」
アルテミシアがロクサナに向かって刺すように言った。
「解毒する予定の無いものだから、成分は知らないわ。でも、大抵は一日で死ぬ」
ロクサナはすっと立ち上がり、男の亡骸を一瞥した。
この瞬間、アルテミシアの身体がぐらりと揺れた。
「大丈夫だ、アルテミシア」
サゲンは右手でアルテミシアの腕を掴んでその身体を支えた。サゲンの身体を貫通した矢が彼女にも刺さって毒が回ったのではと心配になったが、それよりも表情が気に掛かる。何故か、幽霊を見たように蒼白になっていた。
「投降しろ。既に軍がこの船を包囲している」
サゲンが静かに言うと、ロクサナは船の外を見た。既に小型のカラヴェラ船がイノイル海軍とナヴァレの旗を掲げて入り江を包囲し、その後方にガレオン船が控えている。
「ねえ、ミーシャ。この人があなたの大切な人ね」
ロクサナはにっこりと笑ってアルテミシアを見た。アルテミシアは答えずに奥歯を噛んでロクサナの顔を睨みつけた。
「とても素敵な人。あなたを深く愛しているのね。目が愛を語ってるわ」
サゲンはこの会話にどれほどの意味があるのか測りかねた。が、アルテミシアがみるみるうちに顔色を無くしていく。まるで二人の間でしか通じることのない呪いに掛かっているかのようだった。サゲンは妙な胸騒ぎを覚えた。
「耳を貸すな」
アルテミシアはサゲンと目を合わせようとしたが、ロクサナが「ミーシャ」と呼ぶと視線はそちらへ泳いで行った。
「でも、ねえ、この人はわたしほどあなたを理解できているのかしら。あなたの心の――」
「やめて…!」
叫んだ瞬間、アルテミシアの頭が割れるように痛んだ。ほとんど恐怖の叫びに近かった。あの甘ったるい香の効果が戻ってきたように感じる。
サゲンにはロクサナの言葉は世迷い言にしか聞こえなかったが、アルテミシアへのダメージは相当大きいようだった。あの気丈なアルテミシア・ジュディットが、子供のようにひどく怯えている。
「アルテミシア、しっかりしろ。大丈夫だ。大丈夫」
サゲンは小さく震えるアルテミシアの肩を抱いて立ち上がらせた。
(くそ)
辛うじてよろけなかったものの、指の先が痺れ、爪先にも力が入らなくなってきている。毒が回り始めたらしい。
「投降しろ。女を相手に手荒な真似はしたくない」
「お気遣いありがとう。優しいのね。でも、わたしは捕まらないわ。やっと手に入れた‘家’も、家族も、誰にも渡さない」
アルテミシアは頭の内側から何本も棘が生えてきたような酷い痛みに耐え、ロクサナの顔をはっきり見た。沈む夕陽を受けて、淡い緑の瞳がやけに鮮烈に見えた。
「あなたも一緒だと嬉しいわ」
「…エマンシュナまでなら、一緒に行ってあげる」
アルテミシアは祈るような気持ちで声を絞り出した。しかし、ロクサナはにっこりと春の野を見た少女のように微笑むと、踵を返して船室へと入っていった。
「籠城する気か」
「…違う」
アルテミシアの脳裏に、薄暗い下の船室で見た光景が蘇った。油がたっぷりと入った大きな瓶、いくつも並んだ大きな木箱。――中に何が入っているのか、全ては確認していない。
「爆破する気だ」
言い終わるか否かといううちに、サゲンがアルテミシアを右肩へ担ぎ上げた。左肩に受けた矢傷から血が溢れ、激痛が襲った。が、アルテミシアを抱く手は離れなかった。
「あっ、歩けるよ!下ろして」
「黙っていろ!」
アルテミシアに走る体力が残っていないのは分かっている。現に今、いつもであれば脚をばたつかせて勝手に下りようとするはずなのに、浅い呼吸を繰り返すだけで抵抗する気配がない。布越しの体温もひどく熱い。その上――
(俺もいつ力尽きるか分からない)
ぐらぐらと眩暈がしてきた。体力が持つうちに、できるだけここを離れなければ。
脚がふらつくのを必死で堪えながら数メートルの距離を一気に駆け、縁に足をかけた時、下層のデッキから激しい爆発音が鳴り響き、船を大きく揺らした。サゲンはデッキに転倒する前にアルテミシアを海へ放り出した。アルテミシアが自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、上のデッキまで噴き上がってきた炎の轟音で掻き消された。視界が歪んでいるのが炎のせいか毒のせいか判らないが、確実なのはアルテミシアが宣言通りサゲンなしでは帰らないだろうということだ。サゲンもアルテミシアを手放す気はない。
徐々に感覚を失っていく左脚を引きずるように立ち上がり、ほとんど右腕の筋力だけで縁に身体を乗せ、サゲンは海へ落下した。
サゲンは海に浮いて自分を探すアルテミシアを見つけた。浮くだけでやっとという感じだった。サゲンはこちらへ伸びてきた腕を掴むと、その身体をきつく抱きしめ、海の中へ身を沈めた。
直後に爆風が激しい熱を伴って四方へ吹き、船や積荷の一部が瓦礫となって吹き飛んだ。
アルテミシアは肌に刺さるような水の中で鈍い轟音を聞いた。しっかりとしがみついた身体から、サゲンの体温が伝わってくる。しかし、意識を保つのがだんだん難しくなってきた。頭は相変わらず割れるように痛むし、身体中がだるい。おまけに、
(ああ…)
息ができない。
アルテミシアは金貨や宝石が星空のように暗い海の底へ沈んでいくのを見た。あの冷酷で憐れな女のもとへ行くのだろうか。と、はっきりしない頭が考えた。
(本気でわたしの命も持って行くつもりだったのかな)
孤独だったのかもしれない。穢れ、腐敗した澱を心の中に抱えていると、この世界に自分一人でいるような気分になる。そういう孤独を、アルテミシアは知っている。
意識が一緒に沈んでいく。…
「くそ!何がどうなってるんだ!」
イグリは炎上する船を見て血相を変えた。
「もっと近付け!」
声を張り上げて部下に命じたが、部下の一人が首を振った。
「ダメです、隊長!これ以上はこちらに火が燃え移ります」
既に風向きが変わり、陸から海に向かって強く吹いている。海賊船を包囲していた他のカラヴェラ船も近付けずにいた。
「上官!ミーシャ!」
イグリが部下とともに何度も叫びながら二人を探した。その時間が、イグリには何十時間にも感じられた。実際には、海の上に顔を出していた夕陽が頭のてっぺんまですっかり海に沈んでしまうまでの間だ。潮を含んだ夜風が全員の身体を冷やし始めた頃、部下が声を上げて前方の海面を指差した。
「隊長!あれ」
十数メートル先の海面に映った炎の灯りの中に、ちらちらと人影が見えた。目を凝らして見ると、サゲンがアルテミシアを抱えて浮いている。イグリは膝から崩れ落ちる思いだった。
小船が二人へ近付くと、イグリが腕を伸ばして叫んだ。既に声は枯れている。
「上官!」
「泣くな」
サゲンはイグリを叱咤しながら意識を失ったアルテミシアの身体を船へ押し上げ、イグリに託した。
「泣いてませんよ、いやだな」
イグリはツンと痛くなった鼻の頭を無視して軽口を言い、アルテミシアを船に引き上げた。ぐにゃりと力を失ったアルテミシアは浅い呼吸を繰り返しながら眠っている。その上、冷たい海水に浸かっていたにも関わらず、身体が燃えるように熱い。
「上官、これは一体…」
「何かの薬を嗅いだらしい」
「すぐ軍医に――上官!」
アルテミシアが船に乗ったのを見た途端、サゲンの全身が力を失った。
イグリが驚くべき反射神経で縁を蹴って海へ飛び込み、頭半分まで沈みかけたサゲンの身体を抱き止めた。
「何があったんです!」
目蓋を開いていることもままならず、身体は冷え切り、肩からは血が流れている。かつてないほど弱った上官を目の当たりにし、イグリは不安で吐きそうになった。
サゲンは声にならないほど微かな声で、「毒矢を受けた」というようなことを告げ、そのままフツと意識を失った。
アルテミシアは第二撃に備えてよろよろとサゲンの前へ出ようとしたが、サゲンの腕が伸びてきてアルテミシアを後方へ押し戻した。
「サゲン!」
「急所は外れている。大事ない」
「でも…」
「敵に集中しろ。意識を保て」
サゲンは厳しい声音で言い、アルテミシアの盾となるように攻撃者に対峙した。強大な海賊団を束ねていた人物の正体がこれほど華奢な女だったという事実は、サゲンにそれほど大きな衝撃を与えなかった。
むしろ、全てに納得がいく。彼らが金儲けの手法を変えたことも、粗暴で野蛮な海賊が銀行や権力者たちと取り引きができるようになったことも、その中心が教養ある女であれば、理に適っている。
船の中央、船室の前に、ロクサナが立っている。小型のクロスボウを手にしている。が、もう一度矢を番えようともせずに腕を下ろしたままだ。
「やっぱり、武器は苦手。練習しても船ほど上手にならなかったわ」
ロクサナが静かに言ってクロスボウをその場に棄て、そのまま戦闘を放棄した。少女のような声色は、既に無い。アルテミシアはある事実に気が付き、ぞっとした。
「矢を抜かなきゃ…」
アルテミシアが独り言のように呟いてサゲンの肩に刺さったままの矢を引き抜こうとした時、サゲンも気付いた。――毒だ。
「引かずに、押し込め」
痛みに顔を歪めながらサゲンが言った。鏃の返しが左の胸筋の上部の肉を裂いているのが自分でも分かる。
「いくよ」
アルテミシアは震える手を叱咤し、矢を押し込んだ。
サゲンはギリリと歯を食いしばって灼けるような痛みに耐え、鎖骨の下から皮膚を突き破って出てきた血塗れの鏃を掴むと、呻き声を上げながら一気に引き抜いた。矢が留めていた血がドッと流れた。失血が心配だが、毒ならば外に出さなければならない。
「痛そうね」
ロクサナがまるで他人事のような口調で朗らかに言って近付いてきた。サゲンは警戒して抜いたばかりの矢を握ったが、ロクサナの足は二人ではなく、デッキに転がった亡骸へ向かった。ロクサナは彼女がヤニスと呼んだ男の顔の横にしゃがんで見開いた目を閉じてやった後、二人には聞こえない程度の小さな声で何事かを囁き、広い額に乱れた赤茶色の髪を後ろへ撫で付けて整えてやると、そこにキスをした。血が、紅のように唇を彩った。
この時、サゲンがアルテミシアにほとんど吐息だけで囁きかけた。
「俺の身体に毒が回ったら、一人で逃げろ」
アルテミシアはサゲンの腕を強く掴み、語気を荒げた。
「わたしは、あなたなしじゃ帰らない!」
(どこかで聞いたな)
サゲンはおかしくなった。既に毒が回り始めているのかも知れない。この期に及んで、嗤いだすなど。
「なんの毒?」
アルテミシアがロクサナに向かって刺すように言った。
「解毒する予定の無いものだから、成分は知らないわ。でも、大抵は一日で死ぬ」
ロクサナはすっと立ち上がり、男の亡骸を一瞥した。
この瞬間、アルテミシアの身体がぐらりと揺れた。
「大丈夫だ、アルテミシア」
サゲンは右手でアルテミシアの腕を掴んでその身体を支えた。サゲンの身体を貫通した矢が彼女にも刺さって毒が回ったのではと心配になったが、それよりも表情が気に掛かる。何故か、幽霊を見たように蒼白になっていた。
「投降しろ。既に軍がこの船を包囲している」
サゲンが静かに言うと、ロクサナは船の外を見た。既に小型のカラヴェラ船がイノイル海軍とナヴァレの旗を掲げて入り江を包囲し、その後方にガレオン船が控えている。
「ねえ、ミーシャ。この人があなたの大切な人ね」
ロクサナはにっこりと笑ってアルテミシアを見た。アルテミシアは答えずに奥歯を噛んでロクサナの顔を睨みつけた。
「とても素敵な人。あなたを深く愛しているのね。目が愛を語ってるわ」
サゲンはこの会話にどれほどの意味があるのか測りかねた。が、アルテミシアがみるみるうちに顔色を無くしていく。まるで二人の間でしか通じることのない呪いに掛かっているかのようだった。サゲンは妙な胸騒ぎを覚えた。
「耳を貸すな」
アルテミシアはサゲンと目を合わせようとしたが、ロクサナが「ミーシャ」と呼ぶと視線はそちらへ泳いで行った。
「でも、ねえ、この人はわたしほどあなたを理解できているのかしら。あなたの心の――」
「やめて…!」
叫んだ瞬間、アルテミシアの頭が割れるように痛んだ。ほとんど恐怖の叫びに近かった。あの甘ったるい香の効果が戻ってきたように感じる。
サゲンにはロクサナの言葉は世迷い言にしか聞こえなかったが、アルテミシアへのダメージは相当大きいようだった。あの気丈なアルテミシア・ジュディットが、子供のようにひどく怯えている。
「アルテミシア、しっかりしろ。大丈夫だ。大丈夫」
サゲンは小さく震えるアルテミシアの肩を抱いて立ち上がらせた。
(くそ)
辛うじてよろけなかったものの、指の先が痺れ、爪先にも力が入らなくなってきている。毒が回り始めたらしい。
「投降しろ。女を相手に手荒な真似はしたくない」
「お気遣いありがとう。優しいのね。でも、わたしは捕まらないわ。やっと手に入れた‘家’も、家族も、誰にも渡さない」
アルテミシアは頭の内側から何本も棘が生えてきたような酷い痛みに耐え、ロクサナの顔をはっきり見た。沈む夕陽を受けて、淡い緑の瞳がやけに鮮烈に見えた。
「あなたも一緒だと嬉しいわ」
「…エマンシュナまでなら、一緒に行ってあげる」
アルテミシアは祈るような気持ちで声を絞り出した。しかし、ロクサナはにっこりと春の野を見た少女のように微笑むと、踵を返して船室へと入っていった。
「籠城する気か」
「…違う」
アルテミシアの脳裏に、薄暗い下の船室で見た光景が蘇った。油がたっぷりと入った大きな瓶、いくつも並んだ大きな木箱。――中に何が入っているのか、全ては確認していない。
「爆破する気だ」
言い終わるか否かといううちに、サゲンがアルテミシアを右肩へ担ぎ上げた。左肩に受けた矢傷から血が溢れ、激痛が襲った。が、アルテミシアを抱く手は離れなかった。
「あっ、歩けるよ!下ろして」
「黙っていろ!」
アルテミシアに走る体力が残っていないのは分かっている。現に今、いつもであれば脚をばたつかせて勝手に下りようとするはずなのに、浅い呼吸を繰り返すだけで抵抗する気配がない。布越しの体温もひどく熱い。その上――
(俺もいつ力尽きるか分からない)
ぐらぐらと眩暈がしてきた。体力が持つうちに、できるだけここを離れなければ。
脚がふらつくのを必死で堪えながら数メートルの距離を一気に駆け、縁に足をかけた時、下層のデッキから激しい爆発音が鳴り響き、船を大きく揺らした。サゲンはデッキに転倒する前にアルテミシアを海へ放り出した。アルテミシアが自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、上のデッキまで噴き上がってきた炎の轟音で掻き消された。視界が歪んでいるのが炎のせいか毒のせいか判らないが、確実なのはアルテミシアが宣言通りサゲンなしでは帰らないだろうということだ。サゲンもアルテミシアを手放す気はない。
徐々に感覚を失っていく左脚を引きずるように立ち上がり、ほとんど右腕の筋力だけで縁に身体を乗せ、サゲンは海へ落下した。
サゲンは海に浮いて自分を探すアルテミシアを見つけた。浮くだけでやっとという感じだった。サゲンはこちらへ伸びてきた腕を掴むと、その身体をきつく抱きしめ、海の中へ身を沈めた。
直後に爆風が激しい熱を伴って四方へ吹き、船や積荷の一部が瓦礫となって吹き飛んだ。
アルテミシアは肌に刺さるような水の中で鈍い轟音を聞いた。しっかりとしがみついた身体から、サゲンの体温が伝わってくる。しかし、意識を保つのがだんだん難しくなってきた。頭は相変わらず割れるように痛むし、身体中がだるい。おまけに、
(ああ…)
息ができない。
アルテミシアは金貨や宝石が星空のように暗い海の底へ沈んでいくのを見た。あの冷酷で憐れな女のもとへ行くのだろうか。と、はっきりしない頭が考えた。
(本気でわたしの命も持って行くつもりだったのかな)
孤独だったのかもしれない。穢れ、腐敗した澱を心の中に抱えていると、この世界に自分一人でいるような気分になる。そういう孤独を、アルテミシアは知っている。
意識が一緒に沈んでいく。…
「くそ!何がどうなってるんだ!」
イグリは炎上する船を見て血相を変えた。
「もっと近付け!」
声を張り上げて部下に命じたが、部下の一人が首を振った。
「ダメです、隊長!これ以上はこちらに火が燃え移ります」
既に風向きが変わり、陸から海に向かって強く吹いている。海賊船を包囲していた他のカラヴェラ船も近付けずにいた。
「上官!ミーシャ!」
イグリが部下とともに何度も叫びながら二人を探した。その時間が、イグリには何十時間にも感じられた。実際には、海の上に顔を出していた夕陽が頭のてっぺんまですっかり海に沈んでしまうまでの間だ。潮を含んだ夜風が全員の身体を冷やし始めた頃、部下が声を上げて前方の海面を指差した。
「隊長!あれ」
十数メートル先の海面に映った炎の灯りの中に、ちらちらと人影が見えた。目を凝らして見ると、サゲンがアルテミシアを抱えて浮いている。イグリは膝から崩れ落ちる思いだった。
小船が二人へ近付くと、イグリが腕を伸ばして叫んだ。既に声は枯れている。
「上官!」
「泣くな」
サゲンはイグリを叱咤しながら意識を失ったアルテミシアの身体を船へ押し上げ、イグリに託した。
「泣いてませんよ、いやだな」
イグリはツンと痛くなった鼻の頭を無視して軽口を言い、アルテミシアを船に引き上げた。ぐにゃりと力を失ったアルテミシアは浅い呼吸を繰り返しながら眠っている。その上、冷たい海水に浸かっていたにも関わらず、身体が燃えるように熱い。
「上官、これは一体…」
「何かの薬を嗅いだらしい」
「すぐ軍医に――上官!」
アルテミシアが船に乗ったのを見た途端、サゲンの全身が力を失った。
イグリが驚くべき反射神経で縁を蹴って海へ飛び込み、頭半分まで沈みかけたサゲンの身体を抱き止めた。
「何があったんです!」
目蓋を開いていることもままならず、身体は冷え切り、肩からは血が流れている。かつてないほど弱った上官を目の当たりにし、イグリは不安で吐きそうになった。
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