王城のマリナイア

若島まつ

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七十九、森と海 - Verde e Blu -

 柔らかい金色の木漏れ日が前方を行くサゲンの濃紺の広い肩に点々と落ち、まだほんの少し冷たさの残る風が空気中に葉ずれを響かせている。アルテミシアは森の風を大きく吸い込んだ。春を迎えた木々の葉と土の匂いが鼻腔いっぱいに広がる。
 アルテミシアはアレイオンがオアリスの葉と土を踏む感触をその背で感じながら、広がる森の美しさに目を見張った。常緑樹の深い緑の中に淡い色の花々が少しずつ綻び始めている。
(帰ってきた)
 港へ降りて市街地を眺めている時は長らく離れていた実感がそれほどなかったが、森に入った途端に何故か急に実感が湧いた。実際は数か月ぶりだが、何年も離れていたように感じられる。それに、何となく森がアルテミシアの帰還を歓迎しているように思えた。
「疲れたか」
 前を行くサゲンが振り返った。
「大丈夫だよ。どうして?」
「先程からぼうっとしている」
「それは…」
 アルテミシアは気遣わしげなサゲンの顔を見て頬を赤くした。
「きれいだなって、見てたの」
「森がか」
「そう。森が」
 嘘だ。いや、森を美しいと思っていたのは事実だが、ずっと見蕩れていたのは深緑の中を颯爽と進むサゲンの後ろ姿だ。アルテミシアはアレイオンの歩を速め、デメトラと鼻を並ばせた。
「明日から登城?」
「ああ。陛下に帰国を報告したら、しばらく休暇を継続する。両親にも君を紹介しなくては」
「そっか」
 アルテミシアは真っ先にドレスのことを考え始めた。
(新調するべき?それともイサ・アンナ様に頂いたドレスの方がいいのかな…)
 誰が相手でも怖気付いたりはしない性格だが、さすがのアルテミシアも夫になる男の両親ともなるとそうはいかなかった。無意識のうちに手綱を握る指をソワソワと動かしていた。
「普段通りでいいからな」
 サゲンはアルテミシアの思考を見抜いたようだった。
「でも、厳格な家庭でしょ?」
「昔ほどじゃない。それに、そのままの君を気に入るはずだ。保証する」
 サゲンが横目でアルテミシアに笑いかけた。それでも不安を拭えない。
「根拠は?」
 と、ちょっとムキになって訊ねた。
「俺が心から愛しているものを、あの人たちが認めないはずがない」
 カッ、と顔が熱くなった。
「いいご両親なんだね」
 アルテミシアが頬に手を当てて隠そうとした時、サゲンがデメトラの鞍から身を乗り出してその手を掴んだ。
「今更隠すのか」
 サゲンの揶揄うような声色にアルテミシアはむうっと頬を膨らませ、アレイオンの腹を蹴って先を駆けた。照れ隠しなど、サゲンに対しては無意味なことだ。
(可愛い)
 前傾姿勢で森を疾駆する青いドレスの後ろ姿を眺めながら、口元が緩むのを抑えられなかった。もしも周囲に人目があればひどく締まりのない顔に見えることだろうが、幸い証人はデメトラしかいない。
「嫁どのを追いかけるぞ、デメトラ。若造に力の差を見せてやれ」
 サゲンはブルルと鼻を鳴らしたデメトラの首をパタパタと叩き、踵で腹を蹴った。

 二人が帰途に就いたとの報せを受けてから四日が経つ。バルカ邸の執事として留守を守るシオジ・ネロは、いつ主人たちが帰ってもいいように昨夜から湯殿を調えさせ、いつでも食事を出せるように料理番のマキベにも指示をしていた。
「船が着いたぞ。二人ともこっちへ向かってる」
 兵舎からそう報せに来たのはイグリだった。毎日のようにエラが情報を求めてくるので、ルメオ方面から来る船が着いたら伝書鳩を飛ばして知らせてくれるようにとティグラ港の警備隊に頼んであったのだ。
「ああ」
 エラが窓を拭いていた雑巾を落とし、両手で顔を覆った。
「よかったぁ…!」
 すっかり脚の力が抜けてしまったエラは床にへたり込んだ。アルテミシアから黙っていなくなったことへの謝罪と近いうちに帰るという内容が記された手紙は取り急ぎ受け取ってはいたものの、ずっとどこかで不安に思っていたのだ。心に傷を負ったアルテミシアが二度と帰ってこないのではないかと。
「大丈夫か?」
 イグリが差し出した手を取り、エラは跳び上がってイグリに抱きついた。
「知らせてくれてありがとう、イグリ!」
「おっ、おう…」
 イグリは遠慮がちにエラの背に手を伸ばし、きゅっとエラを抱き締め返した。拒絶されないことにほっと安堵した。女性との抱擁にこれほど気を使うなど、今までのイグリならば有り得ないことだ。
 アルテミシアがいなくなってからの数か月間、エラはイグリに様々な顔を見せた。アルテミシアを自分勝手だと言って怒っていたかと思えば、次の日には彼女の辛さを思って涙を流し、別の時には何も言わずに屋敷を留守にしてしまったサゲンとアルテミシアが似たもの同士でお似合いだなどと言って笑っていた。
 エラがイグリやリコのところに焼き菓子と紅茶を持ってくる時は、相変わらず殆どがこの手の話だ。上官がアルテミシアを連れて戻ったことはイグリにとっても最高に喜ばしいことだが、昨日までのように午後の時間をエラと過ごせなくなることはよろしくない。よろしくないどころか、非常に悪い。
「なあ、エラ…」
「こうしてはいられないわ!お迎えの用意をしなきゃ」
 イグリが口を開くと同時に、エラがまたしても飛び跳ねるようにイグリの腕から抜け出した。エラの頭の中は相変わらず恩人で親友のアルテミシアでいっぱいらしい。イグリは思わず苦笑した。
「あ、ごめんなさい。何か話があった?」
「いや、俺も手伝いたいけど、隊の訓練に穴を開けたら上官にこっぴどく叱られるから、もう行くよ」
 イグリが背を向けて兵舎の方へ足を向けた時、エラが腕を引いた。
「待って。あの…」
 血管が透けるほど白い頬に、じわじわと血色が上っていく。
「ありがとう、いろいろ」
 エラは一瞬逡巡したように目を伏せ、すぐにまた空色の瞳をイグリに向けると、爪先をピンと立ててイグリの頬に口付けした。
 イグリは予想外のことに目を見開き、色事に長けたこの男にしては柄にもなく顔色を変えてしまった。
「…慣れてないの。そういう仕事をしてたのに、変に思うかもしれないけど」
「変じゃない」
 硬い声だ。エラはイグリの真っ青な瞳を見つめた。笑っても怒ってもいない。真っ直ぐな目だった。
「変じゃないよ」
 エラはバラ色の頬のままにっこりと頷いた。普段は年の割に落ち着いていて大人っぽく見えるのに、こういう顔はどこか少女らしさがある。
「じゃあ、またあとで」
 エラが落とした雑巾を拾って爪先をドアへ向けた。
 引き留めなければ。とイグリはほとんど本能的に判断した。どれだけエラを魅力的に感じているか、伝えるならこの屋敷の主人たちがいない間の方が都合がいい。
「エラ。待って――」
 と、その時エラが期待に満ちた目で顔を上げた。その視線はイグリではなく、木々の緑が揺れる窓の外へと続いている。――蹄の音だ。
「帰ってきたわ!」
 エラは拾ったばかりの雑巾を再び放り出し、イグリに満面の笑みを見せて屋敷の外へ走り出した。
「…くそ。邪魔された」
 春の陽気に似つかわしい淡い黄色のドレスの裾を器用に捌いて走る後ろ姿を見つめながら、イグリは失笑した。主人たちの帰還を喜ぶ反面、エラとの時間に水を差されたことを多少なりとも恨めしく思っている自分が可笑しかった。

「行け、アレイオン!」
 アルテミシアはアレイオンを叱咤した。デメトラに軽々と追い抜かれてから必死に走らせているが、さすがに敵わない。サゲンがニヤリと振り返ってアルテミシアを挑発した。
「もう少し調教が必要だな」
「こんなに長く駆けさせたことなかったんだよ」
「アレイオンじゃない。君だ」
「何それ!」
「時間が経つと重心が僅かに右側へ傾く癖がある」
 む、とアルテミシアは黙った。言われてみればそうかもしれない。
「後で訓練してやる」
「本当?」
 キラキラと顔を輝かせたアルテミシアを見て、サゲンは自分がとんでもなく悪いことをしようとしているように思えた。今本当に考えていることを彼女が知ったら、どんな顔をするだろうか。
「あっ」
 アルテミシアは声をあげた。木々に囲まれた道の先に、見慣れた平屋建てがある。門前に立っているのは、エラだ。
「エラ!」
 敷地に入るなり馬を降り、アルテミシアは走り出した。エラは満面の笑みで迎えた。
「おかえりなさい、ミーシャ!」
 アルテミシアはエラをぎゅうっと抱き締めた。
「一緒にいるって言ったのに、ごめん。ごめんね。わたし、逃げ出して…」
 言葉にするとますます申し訳なくなった。エラはどんなに辛い目に遭っても逃げ出さずに戦ってきたのに、自分のしたことはあまりに情けなかった。
 しかし、エラは優しくアルテミシアの背に手を伸ばし、「うん」と優しい声で返事をした。
「いろいろ文句を言ってやろうと思ったけど、もういいわ。帰ってきてくれたから。それに、よく考えたらとっても大変な任務だったんだし、休暇を取るのは当然の権利よね」
「…これじゃあどっちが年上かわからないね」
 アルテミシアが自嘲して言うと、エラもくすくす笑った。
「お土産話もたくさんあるんでしょう?」
「勿論、お土産もね」
 二人が抱き合うのを横目に見ながら、サゲンはエラより一足遅れて外へ出て来たシオジに労いの言葉をかけ、デメトラの鞍に括り付けた荷物を外し始めた。
「ご無事で何よりです」
「苦労をかけた、シオジ・ネロ」
「旦那様もご苦労なされたようですが――」
 強面のシオジがニッと笑った。凶悪な笑顔に見えるが、これがシオジの心からの喜びであることを、バルカ邸の者は皆知っている。
「おめでとうございます」
「どのことだ」
 サゲンはデメトラを引き取りに来た馬丁にも挨拶を返して手綱を渡し、シオジに向かって唇を吊り上げた。
「ミーシャ様の左手の薬指に指輪がありました。本日から奥様とお呼びしても?」
「後で本人に聞いてみろ。俺も彼女の反応が見たい」
 サゲンは屈託ない笑い声をあげた。シオジがよく知る少年時代の笑顔そのままだ。
「ああ、ようやく…」
 シオジが感慨深げに主人の顔を見上げた。
「なんだ」
「いえ、ここがあなたの家になったのだなと」
「なんだそれは」
「僭越な執事の戯言です。お忘れください」
 シオジが穏やかに笑った。サゲンもそれ以上聞かなかった。シオジの言わんとしていることは、何となく分かっているからだ。

 その後、上官とその婚約者の帰還を聞きつけた部下たちが近くの兵舎から続々と屋敷へ現れ、全員の挨拶を受け終わる頃には陽が沈んでいた。この間に、アルテミシアにとって新しい発見があった。ケイナとレイの関係だ。
 挨拶を終えて兵舎に帰ろうとしたレイが、屋敷で忙しく立ち働くケイナにすれ違い様に優しく微笑みかけるのを見たのだ。任務中のサゲンに負けず劣らず普段から無表情のレイがこれほど柔らかい表情を浮かべるのを、アルテミシアは初めて目にした。ケイナもアルテミシアが見たことのないような眩しい笑顔を返していた。
「なんだ」
 サゲンが怪訝そうにアルテミシアの顔を覗き込んだ。
「またニヤついているな」
 そこへ、揶揄うような声色で近づいてきた者がいる。 
「気の抜けた顔でニヤついてても可愛いって思ってるんでしょう、上官。そんな仏頂面したって駄々漏れですよ」
 しかめっ面のサゲンとアルテミシアが振り返った先に、イグリがいた。屋敷から出て来たところらしい。
「イグリ!来てたの?」
 イグリはアルテミシアに向かって肩を竦めて見せ、サゲンに黙礼した。
「あなた方がこちらへ向かってるって、知らせに来たんですよ。予想以上に速くて驚きましたけど」
 最後の部分は何となく不服そうに聞こえる。アルテミシアとサゲンは顔を見合わせてちょっと首を傾げた。
「とにかく、二人が帰って来てくれて嬉しいです」
「本心か?」
「当たり前じゃないですか!あなたがいない間、大変でしたよ。ミーシャも、ハツカリのおじさんが毎日ボヤいてるらしいぞ」
「げっ。そう言えば小言を聞かなくちゃいけない人がもう一人いたね」
 休暇を延ばすことになった件は、まだ言わない方が良さそうだ。

 この日の夜、アルテミシアの要望で主人と使用人が夕餉の食卓を共に囲うことになった。
 当然、真面目一辺倒なシオジは主人と使用人が同席などとんでもないと言って簡単に首を縦に振らなかった。以前サゲンが留守にしていた時にアルテミシアと使用人たちで食卓を囲んだことがあったが、それは彼女がまだ一応は客人だった時の話だ。主人が正式に求婚してそれを受け入れ、左手の薬指に主人から贈られた指環をしているアルテミシアは、既にシオジの中では主人とほぼ同列の女主人となっている。ところが、アルテミシアがどれほどみんなに申し訳なく思っているか、みんなが恋しかったかを切々と告げると、シオジは鋭い目に涙を浮かべて感激し、結果、今回が最後という条件で折れた。
 が、すぐに後悔することになった。
 こともあろうにアルテミシアがエラやケイナだけでなく料理番のマキべまでも同じ食卓の椅子に座らせて自ら給仕を始めたのだ。
「そのようなことは、奥方さまのなさることではありません」
 と、思わず口が滑った。
「おっ…」
 動揺したアルテミシアが五分前にマキべが焼き上げたばかりの肉料理を載せた大皿を危うく落としかけたが、サゲンがサッと立ち上がって皿とアルテミシアの腕を押さえたために難を逃れた。
 アルテミシアは咳払いをして大皿をテーブルの中央に置くと、熱くなった頬を無視して取り澄ました。
「そうだよ、シオジさん。わたしはこの家の女主人だから、執事のあなたは言うこと聞いて、大人しくわたしにお詫びをさせてよね」
 これにはシオジも返す言葉がなかった。横に大きな口を一文字に引き結んで驚いたような顔をしたシオジを見て、サゲンがとうとう笑い声をあげた。
「はは!一本取られたな、シオジ!」
 つられてアルテミシアも笑い出した。主人の笑い声を初めて聞いたエラやケイナたちは驚いて固まってしまったが、互いの反応がおかしくなってついに笑い出した。
 彼らを驚かせたことは、もう一つある。
 急な旅立ちで混乱させた詫びに、サゲンが全員に二週間の報酬付きの休暇を申し渡したのだ。ケイナは飛び上がって喜び、シオジも恐縮しながらも家族と多くの時間が過ごせると言ってありがたがったが、エラは喜ぶ反面、なんとなくもう一つの意図を感じ取ってちょっと呆れたような視線を送った。自分たちの休暇の間は、とにかく二人きりでいたいに違いない。
 サゲンにもそれが伝わった。サゲンはエラに向かって半透明の酒が入ったグラスを掲げ、微笑して見せた。
(これは正真正銘のお詫びね)
 と、エラは判断した。我らが主は侍女から親友でもある女主人と過ごす時間を奪うことを多少なりとも後ろめたく思う程度には、感情の細やかなところがあるらしい。
 エラは微笑んで大きな目を伏せ、無言の返事をした。「許して差し上げます」という意味だ。

 夜、湯浴みを終えたアルテミシアは風呂小屋の木の引き戸を開け放った。火照った肌に緑の香りを運ぶ夜風が心地よい。留守の間にエラが仕立ててくれた絹の寝衣には袖がないから、春の夜風に当たるには浴用の大きな布を肩に掛けるくらいで丁度よい。木綿の室内履きは履かずにひんやりとした渡り廊下の板敷きを素足で踏み締めた。つるつるした胸元の紐を結ぶのに手間取りながら進み出たとき、アルテミシアはハタと足を止めた。目の前にサゲンがいる。
「今のは二番か」
 と問われて、船乗りの歌を気持ちよく熱唱していたのを聴かれていたことを知った。アルテミシアはちょっと唇をむずむずさせてはにかんだ。
「三番。気持ちよくてつい歌っちゃうんだよね」
「君の歌声は耳に心地いい」
 サゲンの目が優しく細まった。サゲンが笑うと、胸がくすぐったくなる。
「ご希望なら五番まで全部歌って差し上げますけど?」
「ご機嫌で、何よりだ」
 実を言うと、サゲンは少し心配していた。アルテミシアが家族を思って気落ちしていないかとか、寂しい思いをしていないかとか言うようなことだ。
 が、アルテミシアはニコニコ笑って「そうなの」と声を弾ませた。
「楽しいことがいっぱい聞けたから。みんなとご飯、よかったでしょ?まさかレイとケイナが…」
「俺は知っていた」
「本当に?」
「ケイナがここに来てすぐの頃からだ」
 サゲンはアルテミシアに近付き、肩に掛かっている布でまだ濡れたままの髪をワシワシと拭いてやった。
「あと、シオジさんの赤ちゃんのことも!遅くなっちゃったけど、わたしもお祝いしなきゃ」
「では一緒に選ぼう。俺もまだだ」
「ええ、それ雇い主としてどうなの?」
 アルテミシアが布の下からサゲンに呆れたような視線を投げたが、サゲンは威厳たっぷりの鋭い眼光で応戦した。
「それを君に言われる筋合いはないな。俺をただ職務に明け暮れるだけの廃人にしてしまったのは誰だ」
 シオジのところに子供が生まれたのはアルテミシアがオアリスを離れてすぐのことだった。あの頃は、執事の子の誕生はおろか、家族の集まりやちょっとした祝い事にさえ関心を失い、海軍司令官としての職務に没頭することだけが自我を保つための唯一の方法だった。
「うっ、ごめん…。もう二度と起こらないことを保証します、将軍」
「信用する」
 サゲンはもじもじと決まり悪そうに下を向いたアルテミシアを見て静かに笑い、頭をワシワシと拭いて布を肩にかけ直してやったあと、つやつやした髪をひと束掴んで弄んだ。
「…伸びたな」
 出会った頃は肩に着くかどうかと言う短さだったが、美しいストロベリーブロンドの髪は今や肩甲骨に届きそうだ。
「短いのも嫌いじゃないけど、エラとケイナが結うときに大変そうだから」
「違いない」
 低い笑い声がアルテミシアの鼓膜を震わせるほどに近い位置で響いた。夜気にサゲンの匂いが溶けて身体の中に入ってくる。もう何度も身体を重ねているのに、サゲンは近付くだけでアルテミシアの心にも身体にも変化を起こさせてしまう。
「…そういえば、何か忘れ物でもしたの?」
 とアルテミシアが的外れなことを尋ねたのは、エラやケイナと一緒に食事の後片付けをしている間にサゲンが入浴したのを知っているからだ。自分に用事があるとは思いつかなかった。用事があるとすれば屋敷の中で待っている方が合理的だ。
 が、サゲンは大真面目な顔で「違う」と言った。
「迎えに来た。放っておいたら君は客間に帰るだろう」
 この言葉を聞いた瞬間、アルテミシアの身体が反応した。腹の奥がじくじくと疼く。
「君の寝室はもう客間じゃない」
 つ、とサゲンの長い親指が唇に触れた。
「…休暇の予定を覚えているか」
 何のことを言われているか分からず、アルテミシアは首を傾げた。サゲンの青灰色の瞳が翳り、その奥で欲望が燃えている。
「あ…」
 夜風で冷やされたばかりの身体の内側で、じわりと上がった。
「思い出したか」
 アルテミシアは答える代わりに目を伏せた。
 思い出した。囮として海賊船に乗り込む前のことだ。サゲンはアルテミシアにその計画を話していた。――君をしばらく俺の寝室に閉じ込めて、何日もかけて君を隅々まで味わい、休暇が終わるまでひたすら淫蕩に耽りたい。
 確かにサゲンはそう宣言した。
 サゲンの指が胸元に伸び、アルテミシアが苦労して結んだ胸元の紐をパラリと解いた。アルテミシアは頬を包んでいるサゲンのもう片方の手にそっと触れた。次の瞬間、サゲンがアルテミシアの腰を強く引き寄せ、唇を重ねた。
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