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【番外編3-3】雪と太陽の愛すべき事情 III - Le circostanze dell'amore III -
身体が宙に浮く感覚で、エラは意識を取り戻した。いつの間にか眠ってしまったらしい。
目を開けると、すぐ目の前にイグリの顔があったので、エラは驚いて仰け反った。
「うお」
エラを腕に抱えていたイグリはバランスを崩したが、中腰の状態で地面を踏み締めてとどまり、重心の外に飛び出したエラの身体を引き戻すように強く抱いた。エラは咄嗟にイグリの肩に両手で掴まり、それ以上揺れないように脚を伸ばして絶妙なバランスでピタリと止めた。
「ふっ。何やってんの」
と、その様子を見ていたリコに失笑されると、イグリとエラは顔を見合わせて笑い出した。
エラにとっては恥ずかしいことこの上ないが、それよりも可笑しさが優った。ひとしきり笑った後は、不可解な胸の苦しさが残った。こういう感覚は知らない。まるで胃の中で小さな嵐がいくつもぐるぐると巻き起こっているような感覚だ。頬から耳へ熱が走り、ドレスの下で肌が汗ばむ。冬の空気はこんなに寒いのに、変だ。
ふと、イグリのコバルトブルーの目が優しく細まってこちらを見ていることに気づいた。心臓がバクバクと打ち始め、目を合わせていられなくなった。
「ごめん。歩けるから、下ろして」
エラはイグリの腕の中で俯いたまま、細い声で言った。
「なんで?運ばせてよ」
「な、なんでって…」
エラは思わず顔を上げた。イグリは機嫌良さそうに笑っている。
「いいだろ?雪が積もってるから危ないし」
返事を聞く前に、イグリはさっさと歩き出した。エラは反射的にイグリに強くしがみついた。冬の冷たい風が頬を撫で、凍りつくような雪の匂いがした。気づけば地面にはうっすらと白い雪が積もり、空には白くくすんだ夕闇が迫っている。
イグリが進む先は、開け放たれた鉄柵の門だ。奥に、黒っぽい石造りの豪邸がある。三角屋根の棟が左右対称に三つ合わさったような建物で、王侯貴族の居館と言われても違和感がないほど立派なものだ。窓の奥は眩しいほどの灯りで照らされ、忙しく行き交う使用人らしき影がいくつも見える。
「立派だろ?叔父の屋敷なんだ。俺の実家はもっとしょぼいよ」
イグリはそう言ったが、エラはこの屋敷を見てなんとなくイグリがどういう環境で育って来たのか理解した気がした。
(わたしとは違う)
エラは育ちや身分で人を区別しないし、身分が低いからと言って自分を無価値だなどとは決して思わない。が、こうして境遇の違いを目の当たりにさせられると、普段は見えていない透明な壁が、石の牢獄のような厳粛さでもって目の前に現れる。肌を刺すような冬の風が、それを心に染み入らせようとしているみたいだ。
屋敷に入るや否や、揃いの紺色の服を纏った使用人たちがワラワラと荷物を受け取りにやって来て外套を預かり、イグリとエラとリコを屋敷の二階の中央に案内した。そこはシャンデリアがキラキラと眩しい食堂で、既に大勢の人々が集まって酒宴の真っ最中だった。大きく飛び交う笑い声が、部屋中に響いている。
特に席順は決まっていないらしく、若年から老年の男女が十数人バラバラに席について、見るからに美味しそうな肉料理や色とりどりのサラダ、とんでもなく良い匂いがする金色のスープと、やたらと大きな酒瓶がいくつも置かれた大きなテーブルを囲んでいる。そしていたずら盛りの幼児が数人、その周りを甲高い声で叫びながら駆け回り、母親らしき女性に叱られている。内輪だけの集まりらしく、みな気軽な服装だ。
「おお来たか、イグリ・ソノ!王国の守護者!」
「やめろよ、オビ叔父さん」
イグリは両腕を広げてこちらへやって来る恰幅の良い砂色の髭の紳士に苦い顔を見せ、呆れ顔で笑いながら抱擁を受けた。オビ叔父さんは次にその後ろに立つリコに顔を向け、快活に笑って抱擁した。
「リコ・オレステ!王国の守護者その二!相変わらずの優男だな。お前さんも飲んでいくだろ?」
「僕は挨拶に寄っただけなので、もう行きますよ。うちで母が待ってる」
リコが言うと、「エエー」と十五歳くらいの茶色い髪の少女が残念そうな声を上げた。
「リコ、もう行っちゃうのぉ?」
「悪いね、キリ」
「それより、ほら」
と、イグリが所在無げに立ち尽くすエラの肩を抱き寄せた。
エラはどきりとした。十数人の親族の視線が一斉に集まった。
「紹介するよ。友達のエラだ」
「エラと申します。初めてお目にかかります」
エラがかしこまって王宮でするようなお辞儀をすると、みな一斉にどっと笑い出した。壁が震えるような賑やかさだ。
「そんな大層な家じゃないんだから、もっと気楽にしてくれていいんだよ!」
ガハハ、と大きな口を開けて豪快に笑うオビ叔父さんに、まだ緊張の解けないエラはにこっと愛想笑いを返した。
「うるさいだろ。みんな悪気はないんだ」
イグリは肩をすくめた。
アガタ家の人々は、みなイグリの家族らしく陽気で親切だった。叔母のハナ・シエラは初対面のエラを「かわいい、かわいい」と酔っ払いの赤ら顔でワイン片手に撫でくりまわし、叔父のオビ・カイは灰色の髭の下でニコニコしながら自慢の料理をあれこれとエラに勧め、従妹のキリ・リアナは大きな薄茶色の目を爛とさせながら王城で働いていた時の話をあれこれと訊いてきた。彼女が特に興味があるのは、リコの女性との噂についてだ。今は特定の相手はいないようだと伝えると、キリは顔を明るくしておすすめのデザートをエラの前にたくさん持ってきた。エラは、リコが任務のためにジオリスの高級娼館へ足繁く通っていることは言わなかった。
客人に興味津々の子供たちがエラの膝にのぼって一緒に食事をしたがったので、エラは右膝に二歳の女の子、左膝には三歳の男の子を乗せながらデザートのプディングを食べることになった。
子供たちの母親であるイグリの兄嫁が「助かるわぁ」と喜んでエラにたっぷりとワインを注いだ。
「あら、これはあなたはまだ飲めないわ」
エラがワイングラスに手を伸ばした女の子の手をそっと握って嗜めていると、横からイグリが左膝に乗っている男の子をヒョイと抱き上げて自分の膝に乗せ、エラの隣に座った。
「イグリおいたんじゃなくておねえちゃんがいい」
「お前はこっち。ちびっこが二人もいたらおねえちゃん大変だろ」
文句を垂れる小さな甥に渋面を向けてイグリが言った。
「ハハ。お前らの子みたい」
イグリの兄トーリ・ソロが弟とそっくりの青い目を細めて笑うと、エラはなんだか急激に恥ずかしくなった。
「やめろよ」
そう言うイグリの頬も赤くなっている。エラは胸のむずむずに耐えきれなくなり、ワインを一気に飲み干した。
その後のことは、あまり覚えていない。とにかく陽気なアガタ一家に勧められるがままワインを飲み、今まで出したことのない声で笑い、子供たちの馬になったり、誰だかよくわからないイグリの親戚のおじさんや従兄弟らしい人たちと、これまた誰だかよく分からない親戚のおばさんたちが弾く下手なヴァイオリンとピアノの伴奏でダンスに興じたりしたと思うが、気づいた時にはどこか静かな部屋のベッドに横たわっていた。
「あ、起きた」
イグリの声が落ちてくる。
エラは暗い部屋の中、燭台の灯りが揺れる壁をぐるりと見渡し、最後にサイドテーブルに水の入ったグラスを置くイグリの腕を視界に入れた。頭の中が回転しているからイグリの顔がどこについているのか探すのにも苦労したが、イグリが屈んでベッドに腰掛けたので、ようやく顔を確認できた。
「ごめん。君が目を回す前にもっと早く止めるべきだった。弱いって知らなかったから…」
「…わたしどれくらい飲んだの?」
イグリがあまりに心配そうに言うので、エラはなにかまずいことをしたのかも知れないと思った。まだ頭の中が回転しているが、少なくとも相手の言葉を理解できるし、正常に話すこともできる。記憶が無い間よりは今の方がましなのは確かだ。
「えーと、ワイン三杯」
イグリが気まずそうに答えた。
「それだけ?」
本当に弱い。これほど酒に弱いとは、自分でも知らなかった。そういえば、宴で饗される酒はいつも一杯しか飲まないから、今日は新記録だ。
エラは身体を起こしてしばらく頭の中のグルングルンが治まるのを待ち、サイドテーブルの水に手を伸ばした。ぐらりと身体が揺れた瞬間、イグリに抱き止められた。
「もう、これからはエラには絶対三杯目を飲ませない。うちの親族がごめん。俺もだけど」
「でも、楽しかったわ」
エラは顔を上げた。目の前に、吸い込まれてしまいそうな青い瞳がある。ふわふわする頭を下げ、イグリの肩にもたれかかった。
「いいなぁ。イグリ…」
「何が?」
「家族がたくさんいて、いいなぁ」
「エラ…」
イグリがエラの顔を覗き込もうと頭を下げると、エラの身体がぐらりと揺れ、そのままベッドに突っ伏した。
「ああ、エラ。寝る前に水飲めよ。じゃないと後がつらいぞ」
「うぅん…。飲めない」
「仕方ないな…」
そう呟いたイグリがグラスを取り上げて自分の口に水を含んだ。
これを受け入れたのは、酔っているからだ。と、うまく働かない頭の片隅で考えた。
身体を仰向けにされたと思った次の瞬間にイグリの唇が口に押し付けられ、冷たい水が入ってきた。移しきれなかった水がつう、と唇からこぼれて顎を濡らした。
「…言っておくけど、これはキスじゃなくて介抱だから。明日思い出しても怒るなよ」
頷いたか、「うん」と言葉にしたか、よく分からない。フワフワした意識の中で、グラスの水がなくなった後に一度、唇が触れ合ったのを認識した。水は、流れてこなかった。
「…これは介抱じゃないやつ。ちゃんと覚えてろよ」
エラはイグリのコバルトブルーの目を見上げた。
「約束できないわ。もう一回してくれたら覚えてるかも…」
「だめだ。酔った勢いにして欲しくないから、明日君が覚えてたらまたする」
イグリは水がこぼれたエラの顎を袖で拭い、前髪をそっと上げて、額にキスをした。
「おやすみ、エラ」
「おやすみなさい」
エラは目を閉じた。暗闇の中で、イグリの甘い声が聞こえた。
「今夜は俺の夢を見て」
きっとそうなる。だって、ずっとイグリのことばかり考えているから。
イグリは客間の扉を閉めて廊下に出ると、長い溜め息をついて膝を抱えた。
「…勘弁してくれ」
危なかった。泥酔した女性相手にひどい狼藉を働くところだった。ギリギリの理性を保ち、格好付けて拒んだのは正解だ。それは間違いないが、今すぐエラの眠るベッドに戻って襲ってしまっても不思議はないほどに感情が昂ぶっている。
エラがあんな風に笑い声をあげるのも、子供と一緒にいると聖母のように優しく笑うのも、酔うとあんなに甘えん坊になるのも、初めて知った。
かわいい、愛おしいと思った。いつものエラはどこか張り詰めている。それでいて、元気でしっかり者だ。でも、さっき見せたあの顔は、違う。
そういうエラを、自分だけのものにしたい。
他の男――例えば今日のやけに距離の近い生地屋の店主や、エラが気を許しているリコや、エラを口説く隙を常に狙っている兵舎住まいの兵士たちには、絶対に見せたくない。
アルテミシアに恋していたときは彼女に振り向いて欲しくて必死だったが、エラは――
「ふっ」
と、イグリは思わず笑い出した。自分の下衆さがおかしくなったのだ。
エラの全部を捕らえて、閉じ込めて、終生自分だけしか見られないようにしたい。そしてその反面、友人に囲まれて、自分の隣で太陽のように笑っていて欲しいとも思う。
こんな感情は、初めてだ。
目を開けると、すぐ目の前にイグリの顔があったので、エラは驚いて仰け反った。
「うお」
エラを腕に抱えていたイグリはバランスを崩したが、中腰の状態で地面を踏み締めてとどまり、重心の外に飛び出したエラの身体を引き戻すように強く抱いた。エラは咄嗟にイグリの肩に両手で掴まり、それ以上揺れないように脚を伸ばして絶妙なバランスでピタリと止めた。
「ふっ。何やってんの」
と、その様子を見ていたリコに失笑されると、イグリとエラは顔を見合わせて笑い出した。
エラにとっては恥ずかしいことこの上ないが、それよりも可笑しさが優った。ひとしきり笑った後は、不可解な胸の苦しさが残った。こういう感覚は知らない。まるで胃の中で小さな嵐がいくつもぐるぐると巻き起こっているような感覚だ。頬から耳へ熱が走り、ドレスの下で肌が汗ばむ。冬の空気はこんなに寒いのに、変だ。
ふと、イグリのコバルトブルーの目が優しく細まってこちらを見ていることに気づいた。心臓がバクバクと打ち始め、目を合わせていられなくなった。
「ごめん。歩けるから、下ろして」
エラはイグリの腕の中で俯いたまま、細い声で言った。
「なんで?運ばせてよ」
「な、なんでって…」
エラは思わず顔を上げた。イグリは機嫌良さそうに笑っている。
「いいだろ?雪が積もってるから危ないし」
返事を聞く前に、イグリはさっさと歩き出した。エラは反射的にイグリに強くしがみついた。冬の冷たい風が頬を撫で、凍りつくような雪の匂いがした。気づけば地面にはうっすらと白い雪が積もり、空には白くくすんだ夕闇が迫っている。
イグリが進む先は、開け放たれた鉄柵の門だ。奥に、黒っぽい石造りの豪邸がある。三角屋根の棟が左右対称に三つ合わさったような建物で、王侯貴族の居館と言われても違和感がないほど立派なものだ。窓の奥は眩しいほどの灯りで照らされ、忙しく行き交う使用人らしき影がいくつも見える。
「立派だろ?叔父の屋敷なんだ。俺の実家はもっとしょぼいよ」
イグリはそう言ったが、エラはこの屋敷を見てなんとなくイグリがどういう環境で育って来たのか理解した気がした。
(わたしとは違う)
エラは育ちや身分で人を区別しないし、身分が低いからと言って自分を無価値だなどとは決して思わない。が、こうして境遇の違いを目の当たりにさせられると、普段は見えていない透明な壁が、石の牢獄のような厳粛さでもって目の前に現れる。肌を刺すような冬の風が、それを心に染み入らせようとしているみたいだ。
屋敷に入るや否や、揃いの紺色の服を纏った使用人たちがワラワラと荷物を受け取りにやって来て外套を預かり、イグリとエラとリコを屋敷の二階の中央に案内した。そこはシャンデリアがキラキラと眩しい食堂で、既に大勢の人々が集まって酒宴の真っ最中だった。大きく飛び交う笑い声が、部屋中に響いている。
特に席順は決まっていないらしく、若年から老年の男女が十数人バラバラに席について、見るからに美味しそうな肉料理や色とりどりのサラダ、とんでもなく良い匂いがする金色のスープと、やたらと大きな酒瓶がいくつも置かれた大きなテーブルを囲んでいる。そしていたずら盛りの幼児が数人、その周りを甲高い声で叫びながら駆け回り、母親らしき女性に叱られている。内輪だけの集まりらしく、みな気軽な服装だ。
「おお来たか、イグリ・ソノ!王国の守護者!」
「やめろよ、オビ叔父さん」
イグリは両腕を広げてこちらへやって来る恰幅の良い砂色の髭の紳士に苦い顔を見せ、呆れ顔で笑いながら抱擁を受けた。オビ叔父さんは次にその後ろに立つリコに顔を向け、快活に笑って抱擁した。
「リコ・オレステ!王国の守護者その二!相変わらずの優男だな。お前さんも飲んでいくだろ?」
「僕は挨拶に寄っただけなので、もう行きますよ。うちで母が待ってる」
リコが言うと、「エエー」と十五歳くらいの茶色い髪の少女が残念そうな声を上げた。
「リコ、もう行っちゃうのぉ?」
「悪いね、キリ」
「それより、ほら」
と、イグリが所在無げに立ち尽くすエラの肩を抱き寄せた。
エラはどきりとした。十数人の親族の視線が一斉に集まった。
「紹介するよ。友達のエラだ」
「エラと申します。初めてお目にかかります」
エラがかしこまって王宮でするようなお辞儀をすると、みな一斉にどっと笑い出した。壁が震えるような賑やかさだ。
「そんな大層な家じゃないんだから、もっと気楽にしてくれていいんだよ!」
ガハハ、と大きな口を開けて豪快に笑うオビ叔父さんに、まだ緊張の解けないエラはにこっと愛想笑いを返した。
「うるさいだろ。みんな悪気はないんだ」
イグリは肩をすくめた。
アガタ家の人々は、みなイグリの家族らしく陽気で親切だった。叔母のハナ・シエラは初対面のエラを「かわいい、かわいい」と酔っ払いの赤ら顔でワイン片手に撫でくりまわし、叔父のオビ・カイは灰色の髭の下でニコニコしながら自慢の料理をあれこれとエラに勧め、従妹のキリ・リアナは大きな薄茶色の目を爛とさせながら王城で働いていた時の話をあれこれと訊いてきた。彼女が特に興味があるのは、リコの女性との噂についてだ。今は特定の相手はいないようだと伝えると、キリは顔を明るくしておすすめのデザートをエラの前にたくさん持ってきた。エラは、リコが任務のためにジオリスの高級娼館へ足繁く通っていることは言わなかった。
客人に興味津々の子供たちがエラの膝にのぼって一緒に食事をしたがったので、エラは右膝に二歳の女の子、左膝には三歳の男の子を乗せながらデザートのプディングを食べることになった。
子供たちの母親であるイグリの兄嫁が「助かるわぁ」と喜んでエラにたっぷりとワインを注いだ。
「あら、これはあなたはまだ飲めないわ」
エラがワイングラスに手を伸ばした女の子の手をそっと握って嗜めていると、横からイグリが左膝に乗っている男の子をヒョイと抱き上げて自分の膝に乗せ、エラの隣に座った。
「イグリおいたんじゃなくておねえちゃんがいい」
「お前はこっち。ちびっこが二人もいたらおねえちゃん大変だろ」
文句を垂れる小さな甥に渋面を向けてイグリが言った。
「ハハ。お前らの子みたい」
イグリの兄トーリ・ソロが弟とそっくりの青い目を細めて笑うと、エラはなんだか急激に恥ずかしくなった。
「やめろよ」
そう言うイグリの頬も赤くなっている。エラは胸のむずむずに耐えきれなくなり、ワインを一気に飲み干した。
その後のことは、あまり覚えていない。とにかく陽気なアガタ一家に勧められるがままワインを飲み、今まで出したことのない声で笑い、子供たちの馬になったり、誰だかよくわからないイグリの親戚のおじさんや従兄弟らしい人たちと、これまた誰だかよく分からない親戚のおばさんたちが弾く下手なヴァイオリンとピアノの伴奏でダンスに興じたりしたと思うが、気づいた時にはどこか静かな部屋のベッドに横たわっていた。
「あ、起きた」
イグリの声が落ちてくる。
エラは暗い部屋の中、燭台の灯りが揺れる壁をぐるりと見渡し、最後にサイドテーブルに水の入ったグラスを置くイグリの腕を視界に入れた。頭の中が回転しているからイグリの顔がどこについているのか探すのにも苦労したが、イグリが屈んでベッドに腰掛けたので、ようやく顔を確認できた。
「ごめん。君が目を回す前にもっと早く止めるべきだった。弱いって知らなかったから…」
「…わたしどれくらい飲んだの?」
イグリがあまりに心配そうに言うので、エラはなにかまずいことをしたのかも知れないと思った。まだ頭の中が回転しているが、少なくとも相手の言葉を理解できるし、正常に話すこともできる。記憶が無い間よりは今の方がましなのは確かだ。
「えーと、ワイン三杯」
イグリが気まずそうに答えた。
「それだけ?」
本当に弱い。これほど酒に弱いとは、自分でも知らなかった。そういえば、宴で饗される酒はいつも一杯しか飲まないから、今日は新記録だ。
エラは身体を起こしてしばらく頭の中のグルングルンが治まるのを待ち、サイドテーブルの水に手を伸ばした。ぐらりと身体が揺れた瞬間、イグリに抱き止められた。
「もう、これからはエラには絶対三杯目を飲ませない。うちの親族がごめん。俺もだけど」
「でも、楽しかったわ」
エラは顔を上げた。目の前に、吸い込まれてしまいそうな青い瞳がある。ふわふわする頭を下げ、イグリの肩にもたれかかった。
「いいなぁ。イグリ…」
「何が?」
「家族がたくさんいて、いいなぁ」
「エラ…」
イグリがエラの顔を覗き込もうと頭を下げると、エラの身体がぐらりと揺れ、そのままベッドに突っ伏した。
「ああ、エラ。寝る前に水飲めよ。じゃないと後がつらいぞ」
「うぅん…。飲めない」
「仕方ないな…」
そう呟いたイグリがグラスを取り上げて自分の口に水を含んだ。
これを受け入れたのは、酔っているからだ。と、うまく働かない頭の片隅で考えた。
身体を仰向けにされたと思った次の瞬間にイグリの唇が口に押し付けられ、冷たい水が入ってきた。移しきれなかった水がつう、と唇からこぼれて顎を濡らした。
「…言っておくけど、これはキスじゃなくて介抱だから。明日思い出しても怒るなよ」
頷いたか、「うん」と言葉にしたか、よく分からない。フワフワした意識の中で、グラスの水がなくなった後に一度、唇が触れ合ったのを認識した。水は、流れてこなかった。
「…これは介抱じゃないやつ。ちゃんと覚えてろよ」
エラはイグリのコバルトブルーの目を見上げた。
「約束できないわ。もう一回してくれたら覚えてるかも…」
「だめだ。酔った勢いにして欲しくないから、明日君が覚えてたらまたする」
イグリは水がこぼれたエラの顎を袖で拭い、前髪をそっと上げて、額にキスをした。
「おやすみ、エラ」
「おやすみなさい」
エラは目を閉じた。暗闇の中で、イグリの甘い声が聞こえた。
「今夜は俺の夢を見て」
きっとそうなる。だって、ずっとイグリのことばかり考えているから。
イグリは客間の扉を閉めて廊下に出ると、長い溜め息をついて膝を抱えた。
「…勘弁してくれ」
危なかった。泥酔した女性相手にひどい狼藉を働くところだった。ギリギリの理性を保ち、格好付けて拒んだのは正解だ。それは間違いないが、今すぐエラの眠るベッドに戻って襲ってしまっても不思議はないほどに感情が昂ぶっている。
エラがあんな風に笑い声をあげるのも、子供と一緒にいると聖母のように優しく笑うのも、酔うとあんなに甘えん坊になるのも、初めて知った。
かわいい、愛おしいと思った。いつものエラはどこか張り詰めている。それでいて、元気でしっかり者だ。でも、さっき見せたあの顔は、違う。
そういうエラを、自分だけのものにしたい。
他の男――例えば今日のやけに距離の近い生地屋の店主や、エラが気を許しているリコや、エラを口説く隙を常に狙っている兵舎住まいの兵士たちには、絶対に見せたくない。
アルテミシアに恋していたときは彼女に振り向いて欲しくて必死だったが、エラは――
「ふっ」
と、イグリは思わず笑い出した。自分の下衆さがおかしくなったのだ。
エラの全部を捕らえて、閉じ込めて、終生自分だけしか見られないようにしたい。そしてその反面、友人に囲まれて、自分の隣で太陽のように笑っていて欲しいとも思う。
こんな感情は、初めてだ。
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