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もしも、もしも世界にゾンビというものがあふれ出したら、そんなことを考える人は少なくないはずだ。もちろん現実としてそんなことはありえないし、ありえたとしてもどこか自分とは関係のない場所で起きるに違いない。
だがしかし、そんなくだらないことでも考えなければ、さびれた現実を乗り越えることが出来ないぐらいに私は疲れていた。
家と職場を往復する毎日が始まってから早2年。
短いようで長い社会人生活によって、私の人生は狂わされていた。
そんなことを上司や同僚に話せば、『甘えるな!』なんてことを言われる始末で、誰も理解はしてくれない。自分で選んだ仕事がこれほど辛いものだと誰が気がついていただろう。
「今日も徹夜か……」
机にかじりついて、相も変わらない試験管とにらめっこする。
いつものことながら試験管の内容物に変化は見られない。
そろそろ眠さが気力を回る頃、深夜の2時だ。このままでは、実験が終わる前に、私が終わってしまいそうだ。
くっつきそうな瞼を無理やりこじ開けながら、私はくだらないことを考える。
「おい、一度顔を洗ってこい!」
一年先にこのラボにいた先輩が私の眠気に気がついたようで、比較的大きな声でそう言った。たぶん先輩自身も大きな声を出してでもいなければ、眠ってしまいそうなのだろう。――それほどまでに、実験に進展はない。
たぶんこのままいけば、研究費は打ち切られ、このラボは閉鎖してしまうことだろう。会社にとって、成果のない部署ほど必要ない物はないからね。
私は先輩に会釈してから、研究室を後にした。
「そろそろ潮時かな?」
なんて口にしてみるが、何の成果もない私が転職できる先には研究室はないだろう。理系に進みながら、サラリーマンとか、事務とかそんなことをやる羽目になるのは目に見えている。だからこそ、何度も見限りそうになった研究室を見限ることが出来なかったのだから。
廊下をふらふらと歩きながら、私はお手洗いに向かう。
向かうのは廊下の端、研究室とは真逆の位置にあるお手洗いだ。顔を洗うより前に、歩いていることによって目が覚めてしまいそうだ。
「ちょっとした運動にはなりそうだね」
同意してくれる人物などいるはずもないが、小さな声で呟いてみたりする。
お手洗いに入ると、真っ先に目に入るのはくたびれた顔の少女……いや、少女というには若干歳をとってしまった私だ。2日も徹夜した後だと、化粧のノリも悪く、ゾンビみたいな顔をしている。まあ、それは大学生のころから何も変わっていないし、別段気にすることでもない。
ここまでくれば、もう結婚は無理だと思っているし、見た目に気を使う余裕すらない。そんな時間があるなら寝たい。それほどに、仕事は激務だ。
私はじゃ口をひねり、冷水を両手で集める。両手に水が溢れる様子が、何となく好きだ。なんというか、心が洗われるような感覚があるなあ。なんて、馬鹿なことを考えていないで、顔を洗おう。それから化粧……はいいか、どうせ見せる相手も先輩ぐらいしかいないし、もう落としてしまおう。
冷たい水が私の顔に当たる。自分で当てたのだから当たり前だ。
化粧を落とした後の洗顔は何となく気持ちがいい。でもかえって眠さが増したような気がする。
「ああ、このまま眠れたらどれだけ気持ちいいか……無理かぁ……くだらない研究に戻らないといけないしなぁ」
適当に道具をかたづけてから、肩を軽く叩いた。
肩も首も、どこもかしこも痛い。仕事がひと段落ついて、休みが取れたら温泉にでも行こう。一緒に行く相手いないけど。
そうして私は再び薄暗い廊下に戻る。
水で顔を洗ったせいだろうか、心なしか温度が下がったような気がする。
いいや、勘違いなどではなく、やっぱり寒い。廊下に冷房がついているわけでもないし、たった数分の間に温度が激変するわけがない。となると、これは悪寒だ。風邪でもひいてしまったのかもしれない。
だけど、それでも帰れないのが、会社の奴隷、社畜というやつだ。私は両腕で寒さをしのぎながら、お手洗いの対角にある研究室へと足早に向かう。
「なんだか冷えてきましたね」
ドアを開けて先輩に寒いアピールをしながらも、私は定位置に戻る。
先輩からの返答はない。それもいつものことだ。先輩なりの威厳というやつで、『おしゃべりなんてしている暇があるなら仕事しろ』ということらしい。だから先輩は世間話にも乗ってくれない。だからこそ眠くなるのだが、それにすら気づかない残念な人だ。――仕事の虫というやつだ。
それでもいつもなら、せきばらいぐらいはするはずだ。全く無反応だし机に向かったまま微動もしない。流石におかしい……そんなことは誰が口にするまでもなく理解できる。
「先輩? 寝ちゃいました?」
そんなはずがない。今まで、先輩が仕事中に眠ってしまったことは一度もない。どれだけ徹夜が続いても、黙々と仕事をし続けるような鉄人ぶりを見せる人だ。たった数分私がいなくなったぐらいで眠ってしまうはずがない。
「先輩?」
流石に気になって、先輩の肩を軽く叩いてみた。……反応はない。それならば、と今度は強めに叩く。……微塵も動かない。
「先輩? 先輩!?」
強くゆすってみたりもしたが、まるで反応がない。人形でも相手にしているようだ。
「こうなったら……」
先輩が眠った私にいつもやることだ。眠ってしまったのならば仕方がない。先輩の教育をここで生かすとしよう。研究室の入り口あたりにおかれている水入りバケツを持ち上げて、先輩の頭の上でひっくり返す。部屋は水浸し、面白くもなければ、むしろ不快感すらあるその教育は、先輩を気づかせるには至らなかった。
ここまでくれば、まさか死んでいるんじゃないかと思う程だ。
肩を叩いた時に温かかったのは確認したが、もしかすると、もしかするかもしれない……いや、変なことを考えるのはよそう。唯眠っているだけに違いない。一度眠ったら起きないタイプの人間なのだろう。
私は軽く先輩の手首をつかむ。――脈がない……
ゆっくりと先輩の顔を覗き込んだ。まるで死後何時間も経ったかのように顔は青白く、目は瞳孔が開いたままだった。
あまりにも恐ろしすぎて、私は声を出すことすら出来なかった。その代わりに、腰を抜かして水浸しの地面にお尻をつけて、ゆっくりと後ずさりながら死体から遠ざかる。
「……嘘……でしょ?」
ほんの数分前までは生きていた。
それなのに、一体何があったというのだろう。
思考がうまくまとまらないなりにも、私は何度も同じことを頭の中で繰り返した。『どうしよう……どうしよう』と。
それから数分して、ようやく私は落ち着きを取り戻すと、携帯を取り出して立ち上がる。
とりあえず救急車を呼ばなければ……まだ助かる可能性だってあるわけだし。私が勝手にあきらめちゃだめだ。
研究室ないは電波が悪いので、私は部屋を出て1・1・9とタップしようとしたのだが、指が震えてうまく押せない。何度も間違った数字を消しては、再び挑戦することを何度か繰り返したところで、研究室の中から大きな音がした。
『ガタッ』だか、『ガチャンッ』だかそんな音だった。
もしかしたら、私の脈拍のはかり方が間違っていたのかもしれない。そんなことを考えて、ゆっくりとドアを少しだけ開けてみる。
中をのぞくと、立ち上がった先輩の背中が見えた。
なるほど、どうやら私の早とちりだったようだと、ドアをおもいきり開こうとしたところで、先輩がこちらを振り向いた。驚きのあまり大きくドアを閉めようとしたが、すんでのところで思いとどまり、叫びそうになる口を押えた。
――先輩は先ほどと変わらず、青白い顔をして瞳孔が開いたままで、目からは赤い涙を流して何かを探すようにふらふらとあたりを見渡していた。
だがしかし、そんなくだらないことでも考えなければ、さびれた現実を乗り越えることが出来ないぐらいに私は疲れていた。
家と職場を往復する毎日が始まってから早2年。
短いようで長い社会人生活によって、私の人生は狂わされていた。
そんなことを上司や同僚に話せば、『甘えるな!』なんてことを言われる始末で、誰も理解はしてくれない。自分で選んだ仕事がこれほど辛いものだと誰が気がついていただろう。
「今日も徹夜か……」
机にかじりついて、相も変わらない試験管とにらめっこする。
いつものことながら試験管の内容物に変化は見られない。
そろそろ眠さが気力を回る頃、深夜の2時だ。このままでは、実験が終わる前に、私が終わってしまいそうだ。
くっつきそうな瞼を無理やりこじ開けながら、私はくだらないことを考える。
「おい、一度顔を洗ってこい!」
一年先にこのラボにいた先輩が私の眠気に気がついたようで、比較的大きな声でそう言った。たぶん先輩自身も大きな声を出してでもいなければ、眠ってしまいそうなのだろう。――それほどまでに、実験に進展はない。
たぶんこのままいけば、研究費は打ち切られ、このラボは閉鎖してしまうことだろう。会社にとって、成果のない部署ほど必要ない物はないからね。
私は先輩に会釈してから、研究室を後にした。
「そろそろ潮時かな?」
なんて口にしてみるが、何の成果もない私が転職できる先には研究室はないだろう。理系に進みながら、サラリーマンとか、事務とかそんなことをやる羽目になるのは目に見えている。だからこそ、何度も見限りそうになった研究室を見限ることが出来なかったのだから。
廊下をふらふらと歩きながら、私はお手洗いに向かう。
向かうのは廊下の端、研究室とは真逆の位置にあるお手洗いだ。顔を洗うより前に、歩いていることによって目が覚めてしまいそうだ。
「ちょっとした運動にはなりそうだね」
同意してくれる人物などいるはずもないが、小さな声で呟いてみたりする。
お手洗いに入ると、真っ先に目に入るのはくたびれた顔の少女……いや、少女というには若干歳をとってしまった私だ。2日も徹夜した後だと、化粧のノリも悪く、ゾンビみたいな顔をしている。まあ、それは大学生のころから何も変わっていないし、別段気にすることでもない。
ここまでくれば、もう結婚は無理だと思っているし、見た目に気を使う余裕すらない。そんな時間があるなら寝たい。それほどに、仕事は激務だ。
私はじゃ口をひねり、冷水を両手で集める。両手に水が溢れる様子が、何となく好きだ。なんというか、心が洗われるような感覚があるなあ。なんて、馬鹿なことを考えていないで、顔を洗おう。それから化粧……はいいか、どうせ見せる相手も先輩ぐらいしかいないし、もう落としてしまおう。
冷たい水が私の顔に当たる。自分で当てたのだから当たり前だ。
化粧を落とした後の洗顔は何となく気持ちがいい。でもかえって眠さが増したような気がする。
「ああ、このまま眠れたらどれだけ気持ちいいか……無理かぁ……くだらない研究に戻らないといけないしなぁ」
適当に道具をかたづけてから、肩を軽く叩いた。
肩も首も、どこもかしこも痛い。仕事がひと段落ついて、休みが取れたら温泉にでも行こう。一緒に行く相手いないけど。
そうして私は再び薄暗い廊下に戻る。
水で顔を洗ったせいだろうか、心なしか温度が下がったような気がする。
いいや、勘違いなどではなく、やっぱり寒い。廊下に冷房がついているわけでもないし、たった数分の間に温度が激変するわけがない。となると、これは悪寒だ。風邪でもひいてしまったのかもしれない。
だけど、それでも帰れないのが、会社の奴隷、社畜というやつだ。私は両腕で寒さをしのぎながら、お手洗いの対角にある研究室へと足早に向かう。
「なんだか冷えてきましたね」
ドアを開けて先輩に寒いアピールをしながらも、私は定位置に戻る。
先輩からの返答はない。それもいつものことだ。先輩なりの威厳というやつで、『おしゃべりなんてしている暇があるなら仕事しろ』ということらしい。だから先輩は世間話にも乗ってくれない。だからこそ眠くなるのだが、それにすら気づかない残念な人だ。――仕事の虫というやつだ。
それでもいつもなら、せきばらいぐらいはするはずだ。全く無反応だし机に向かったまま微動もしない。流石におかしい……そんなことは誰が口にするまでもなく理解できる。
「先輩? 寝ちゃいました?」
そんなはずがない。今まで、先輩が仕事中に眠ってしまったことは一度もない。どれだけ徹夜が続いても、黙々と仕事をし続けるような鉄人ぶりを見せる人だ。たった数分私がいなくなったぐらいで眠ってしまうはずがない。
「先輩?」
流石に気になって、先輩の肩を軽く叩いてみた。……反応はない。それならば、と今度は強めに叩く。……微塵も動かない。
「先輩? 先輩!?」
強くゆすってみたりもしたが、まるで反応がない。人形でも相手にしているようだ。
「こうなったら……」
先輩が眠った私にいつもやることだ。眠ってしまったのならば仕方がない。先輩の教育をここで生かすとしよう。研究室の入り口あたりにおかれている水入りバケツを持ち上げて、先輩の頭の上でひっくり返す。部屋は水浸し、面白くもなければ、むしろ不快感すらあるその教育は、先輩を気づかせるには至らなかった。
ここまでくれば、まさか死んでいるんじゃないかと思う程だ。
肩を叩いた時に温かかったのは確認したが、もしかすると、もしかするかもしれない……いや、変なことを考えるのはよそう。唯眠っているだけに違いない。一度眠ったら起きないタイプの人間なのだろう。
私は軽く先輩の手首をつかむ。――脈がない……
ゆっくりと先輩の顔を覗き込んだ。まるで死後何時間も経ったかのように顔は青白く、目は瞳孔が開いたままだった。
あまりにも恐ろしすぎて、私は声を出すことすら出来なかった。その代わりに、腰を抜かして水浸しの地面にお尻をつけて、ゆっくりと後ずさりながら死体から遠ざかる。
「……嘘……でしょ?」
ほんの数分前までは生きていた。
それなのに、一体何があったというのだろう。
思考がうまくまとまらないなりにも、私は何度も同じことを頭の中で繰り返した。『どうしよう……どうしよう』と。
それから数分して、ようやく私は落ち着きを取り戻すと、携帯を取り出して立ち上がる。
とりあえず救急車を呼ばなければ……まだ助かる可能性だってあるわけだし。私が勝手にあきらめちゃだめだ。
研究室ないは電波が悪いので、私は部屋を出て1・1・9とタップしようとしたのだが、指が震えてうまく押せない。何度も間違った数字を消しては、再び挑戦することを何度か繰り返したところで、研究室の中から大きな音がした。
『ガタッ』だか、『ガチャンッ』だかそんな音だった。
もしかしたら、私の脈拍のはかり方が間違っていたのかもしれない。そんなことを考えて、ゆっくりとドアを少しだけ開けてみる。
中をのぞくと、立ち上がった先輩の背中が見えた。
なるほど、どうやら私の早とちりだったようだと、ドアをおもいきり開こうとしたところで、先輩がこちらを振り向いた。驚きのあまり大きくドアを閉めようとしたが、すんでのところで思いとどまり、叫びそうになる口を押えた。
――先輩は先ほどと変わらず、青白い顔をして瞳孔が開いたままで、目からは赤い涙を流して何かを探すようにふらふらとあたりを見渡していた。
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