魂の帰る場所

和谷沢 白

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 「こっちだ……化け物っ!」
 次に声を上げたのは、予想外にも小川だった。
 さっきまでは、部屋の片隅で壊れたようにうなずき続けていた小川だが、今では何らかのスイッチが入ったかのように荒々しく唸る。憑依者は一瞬だけ息を止めた。
 本当に一瞬、時間に換算すると1秒か長くて2秒ほどだ。
 現実的に考えると、なんの意味もないような時間だろう。それでも絶対絶命だった私にとっては何より重要な1秒だった。

「はぁ、はぁ……」
 息を乱しながらも、私は何とか憑依者の殺意をかわす。
 しかし、安心もつかの間、すぐに追撃は訪れた。数センチ、数メートルと確実に、憑依者は私の背中に迫る。直接目には映らなくとも、私の目に映る社長の目に映った化け物を見ればわかる。
 長い間、研究職として鍛えられた精神力と、体の体力には少しばかり自身はあった。だがその代償に失われた筋力は着実に私と化け物の距離を縮める。――もはや、死は確実だ。そう思った時に、背後から化け物の気配が消えた。

「社長、今です!!」
 大きな音とともに、小川の声が部屋に響く。
 背中に目がある人間はいない。いたらそれこそ化け物だ。だけど私にはまるで背中に目があるかのように背後の情景が見えている。
 小川が化け物、もとい先輩に対して体当たりした。

 そんな小川の覚悟を直接目にした社長は、迷うこともなく「まかせろ!」と、カプセルの方に向かった。
 私の目にはそれがスローモーションで映る。まるで時が止まったかのように、何もかもがゆっくりだ。私が背後を振り向く速度も、化け物を押さえている小川も、覚悟を決めた社長もすべてが遅く感じた。二重の意味で遅く。今思えば、私たちは全てが遅かったのだ。
 もっと早く、準備していれば……もっと早く、社長を説得できていれば、もっと早く、小川が化け物と戦っていれば、もっと早く、社長が覚悟を決めていれば、もっと早く私が本当の意味で状況を理解していれば……もっと早く……もっと早く。
――違う、そうじゃない。
 失われた時間に対して後悔することなんて何の意味もない。
 私が今からしなければいけないことは、次にどうすれば、『もっと早くしていればよかった』という言葉を口にせずに済むかを考えることだ。

「そうですよね……先輩」
 社長が先輩を殺してしまう前に、私がどうにかしなくちゃいけない。
 そうしなければ、事態はさらに手遅れになってしまう事だろう。
 確かに、憑依者となってしまった先輩を外の世界に出さないのは必須条件のようなもので、私だってそうなるように努力はしたい。だがそれと同じぐらいに先輩に死んでほしくないと感じてしまったのだから仕方ない。
 覚悟を決めなければならなかったのは、社長でも、小川でもなく私自身だ。

 私は勢いよく先輩を蹴り飛ばす。
「白子君……一体何を!?」
 小川が豆鉄砲を食らったかのような顔をしている。
 彼の体当たりではまるで反応しなかった先輩だ。私の蹴りが命中したところでどうなるものでもない。むしろ、私の足は金属の塊でも蹴りつけたかのように痛む。
「……痛ったぁ!? う、確かに先輩はいつも口うるさく、何一つ好きになれないようなつまらない人間でした。でも! だからって死なれたら目覚めが悪いんですよ!」
 これで、ターゲットは小川から私の方に向いた。ここから先はまるで何も考えていない、言わば無策な状態だが、それでも社長たちが考えたような自己犠牲作戦よりは幾分かましだと信じたい。

 血の涙が流れた両目が私をしっかりと捉えている。
 たぶん、これほどまでに恐ろしい光景を目にするのは、これからの人生でも二度とないだろう。今にも泣き出したい気分だが、それほどまでにレアな光景だ。――涙で見逃す手はない。
「こっちだ! こっちにこいって! こっちだって言ってんだろうが化け物……っ!!」
 社長が怒号にも似た声で言うが、先輩は私から目を離さない。
「そうです……それでこそ先輩です。いつも私がサボっていないか監視していた先輩が、社長の方を向いて言い訳がありません!」
 確かに、社長の方へ向かってもらった方が私にとっても都合がいい。
 カプセルは社長の方にあるのだから当たり前だ。だが、私は覚えている。社長は『もし、このまま見つかったら、そのまま殺すしかなくなる』と。つまり、社長は最初から、先輩を助けるつもりはない。社長が助けたいのは、いまだ無事な私と、外の世界だけだ。それを護るためなら、どんなことでもしてしまいかねない。今の社長にはそんな凄みがある。社長が決めた覚悟はまさにそれだろう。
 それじゃあ、結局誰も救われない。
 なぜなら、先輩がああなってしまった原因がわからないからだ。万が一、先輩と同じようなことが起こり得た場合、その対策がまるで出来ない。外の世界を護ることなんて出来ないわけだ。

「ゴ、ゴ、ゴ」
 先輩の口から不気味な音がこぼれてくる。
「そうです……先輩、いつもお世話になっているんですから、今日ぐらいは私が目を覚ましてあげますよ。冷たい水はありませんけどね!」
 代わりにカプセルをお見舞いというわけだ。
 いつの間にか体の震えは消えたし、恐怖心も消し飛んだ。たぶん脳内麻薬のおかげだろう。いわば今は興奮状態にある。今ならなんでもできそうだ。言うことを聞かない先輩をカプセルに追いやることも。

 

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