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本編
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作品の前にお知らせ
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
主人公は、愛着を込めて印刷したばかりの薄い冊子『ラブコメディ』を小脇に、いつものように図書室へ足を踏み入れた。
放課後すぐ。室内に差し込む西日の光は、窓枠の幾何学的な影を床に長く伸ばしていた。鼻腔をくすぐる、古い紙とインクが混じり合った独特な匂い。この静寂こそが、主人公にとっての聖域だった。知識と物語が秩序正しく並ぶこの空間に、主人公は心の安定を見出していた。
背の高い棚の奥、壁際に設えられた自作の冊子コーナーへ向かう。そこは、主人公が担当する『ラブコメディ』がひっそりと置かれる、特別な場所だ。今日の作業は、最新号の補充と、前号の閲覧数の確認。
歩を進めるにつれて、主人公の五感に違和感が訴えかける。
まず視覚。棚のあたりだけが、まるで万華鏡を覗いたように、異様に色がうるさかった。
聴覚。静けさの中で、蛍光色の紙片が放つ光が、まるで粒のざわめきのような幻聴として響く。
主人公は、一歩一歩、その色彩の源に近づいていく。やがて、棚の前に立ち尽くした。
「あれ?」
その一言は、反射で出て、図書室の空気に吸い込まれ、すぐに消えた。
主人公が最初に感じたのは、戸惑いだった。それは、長年愛用していたはずの空間が、一夜にして全くの別物に塗り替えられていたことに対する、純粋な驚きだ(感情表現は“驚き”を起点とする)。
冊子の専用棚は、もはや「本を置く場所」としての機能を失っていた。蛍光イエローと蛍光ピンクの付箋が、まるで二色の地層のように何層にも重なり、棚の木製パネルを完全に覆い隠している。主人公が心を込めてデザインした、モノトーンで簡潔な表紙は、その色彩の洪水に溺れ、ほとんど見えていない。
「まさか、こんなに増えてるとは思わなかったけど」
背後から声がした。振り返ると、図書室の常連であり、主人公の冊子の愛読者であるヒロインが、両手に厚い文庫本を抱えて立っていた。彼女の明るく整った顔立ちは、この異常な光景に対しても、一切の動揺を見せない。
「今日また増えたんだ、付箋。この前の三倍くらいあるんじゃない? もう、冊子じゃなくて付箋が本体だよね」
ヒロインの軽い口調は、この状況がすでに日常として定着しつつあることを主人公に伝える。主人公の戸惑いは、「何これ…」という純粋な疑問から、「本体見えないじゃん…」という、作者としての軽い苛立ちへと変化した。
主人公は、付箋の群れをじっと見つめる。
蛍光イエローは、文字が角ばっていて勢いがある。蛍光ピンクは、柔らかい丸文字で、ところどころに小さな絵文字のような記号が添えられている。この二色が、会話の形式で、棚の余白を埋めている。その様子は、まるで二人の人間が目の前で、互いの存在を無視できずに痴話喧嘩を続けているようだった。
付箋に書かれた、断片的な文が、主人公の視界に飛び込んでくる(地の文による客観描写)。
『なんで君はいつも、話のオチを台詞で言っちゃうんだよ』
『えー、だって、早く伝えたいんだもん! 言葉にしないと伝わらないって、あなたが書いたラブコメで教わったんじゃん』
主人公が書いた「恋は言葉で救われる」という哲学が、付箋という形で歪曲し、そのまま主人公に突き刺さるような錯覚を覚える。付箋に書かれている内容は、決して悪意のある悪口ではない。むしろ、主人公の冊子の世界観を理解し、その中で繰り広げられる可愛らしい言い争いだ。
主人公は、小脇の新しい冊子を棚に置こうとするが、置くスペースがないことに気づく。仕方なく、付箋の層の端っこ、最も薄い部分の蛍光イエローの付箋を、そっと指先で剥がそうと試みた。
「あ、やめときなよ」ヒロインが、すかさず静かに制止した。「それ、結構人気のお話だから。まとめて捨てると、多分誰か怒るよ」
主人公の指は空中で停止する。
付箋は、すでにコンテンツとして愛されている。
この付箋の塊は、主人公が考える「ラブコメ」という物語の形式を借りて、匿名カップルが創造した、もう一つの「外側の物語」なのだ。
主人公は、剥がそうとした付箋を元に戻し、複雑な感情に包まれる。「何これ…」という戸惑いは、「読まれてる証拠か…?」という、編集者としての複雑な誇らしさへと変化していく。
「誰が貼ってるんだろうね」主人公は、ヒロインに尋ねる。言葉は、付箋の顔の見えなさへの言及に限定された(会話の方向性準拠)。
「さあね。でも、顔が見えないから、あんなこと言えるんでしょ? 私たちの冊子だって、匿名で書かれてるから、みんな安心して読んでるんだし」
ヒロインはそう言い、抱えていた本を返却カウンターに置いた。
主人公は、誰もいない棚の前で、夕陽にキラキラと反射する付箋の群れを再び見つめる。そこにあるのは、恋の情熱と、それゆえの痴話喧嘩だけだ。
「この静かな図書室が、いつの間にか恋愛の闘技場になってるなんてね…」
主人公は、棚のわずかな隙間に、最新号の冊子を無理やり押し込んだ。その一冊が、付箋の熱狂の中に、再び静かな王道を提示する楔となることを願いながら。
棚を覆い尽くしていた付箋の群れは、いま、閲覧机の上に移動していた。主人公とヒロインは、図書委員の任務ではない、観察という名の自主的な行為に没頭している。
「すごいね、この付箋」
主人公は、蛍光イエローの付箋の束を、乱雑な文字と整った文字で二種類に分けながらつぶやいた。ヒロインは、隣で蛍光ピンクの付箋を、文面の内容ごとに分類している。
図書館の窓から入る光は、すでにオレンジ色を帯びていた。机の上に並べられた色とりどりの付箋は、まるで宝石を広げたように、部屋の隅に光の輪郭を作っている(演出規則準拠)。
主人公の予想に反し、付箋の多くは、冊子の内容に対する建設的なフィードバックや物語への没入の証拠だった。しかし、その中には、強烈な嫉妬や冷笑の感情を滲ませた、普通の色の付箋も混じっていた(造形ルール準拠)。
水色:「こんなの現実じゃありえないでしょ。理想ばっかり語ってないで、お前も恋人作れよ」
緑:「どうせ図書委員の暇つぶしだろ? あほくさい。でも、この展開はちょっと笑えた」
これらのコメントは、確かに辛口だ。だが、主人公の視線はその文字の周りに描かれた、小さなハートマークや、消しゴムで消そうとした痕跡に注がれた。文字は乱暴に書かれているのに、角に張られた小さな星型のシールが、その辛辣な言葉の持つ本気の悪意を打ち消していた。
(本気で壊したいわけではない。これは、嫉妬を通り越して、もう一つの『参加の表明』なのだ)
主人公は、そう結論付けた。
ヒロインが、蛍光イエローとピンクの付箋を対にして並べた。それは、一つの痴話喧嘩パートを構成しているらしい。
「この二人、昨日私たちが出した『誤解は言葉でしか解けない』のシーンに、めちゃくちゃ影響されてるよ」ヒロインが言った。
主人公が目を凝らす。付箋には、主人公の冊子のあるシーンのセリフが、数語だけ引用されていた。
蛍光イエロー:「あのシーンに影響されて『正直に言ったんだけど!』って言ったら、なんで君は怒るんだよ」
蛍光ピンク:「だって、それを『こんな付箋で言わないで!』って話でしょ! 恥ずかしいじゃん!」
ここで、「あのシーン」が指すのは、主人公が書いたフィクションだ。匿名カップルは、フィクションの台詞を現実の痴話喧嘩のテンプレートとして利用している。そして、その痴話喧嘩の続きを、また付箋というフィクションの場に書き戻しているのだ。
主人公の心に戸惑いが生まれた。
(僕の作品は、彼らの現実を動かした。それは誇らしい。でも、その結果が、図書室の棚での公開論争なのか?)
この状況を笑うべきか、あるいは、作者として責任を感じるべきか。その判断に迷い、主人公は思わず苦笑した。このやり取りは、読むにつれて、単なる荒らしとして片づけられない、可愛らしい可笑しさに満ちていた。
「どうしたの? 結構笑えるでしょ?」ヒロインが尋ねる。
主人公は付箋から目を離さず、深く呼吸した。
「うん。だって、これ、僕が書いてる『注文の多いラブコメディ』の、サイドストーリーみたいなんだもん。それも、僕が全く関与できない、完全に外側で勝手に動いてる」
「サイドストーリーかぁ」ヒロインは、付箋の束に手を伸ばし、優しく撫でた。その表情は、どこか遠い目をしており、少しだけ羨望が滲んでいるように見えた(ヒロインの感情ライン)。
「この人たち、自分の気持ちを直接言うのは怖いんだよね。でも、付箋越しなら、こんなに素直になれる。喧嘩の内容も、『好き』の裏返しだって、丸わかりなのに」
ヒロインは、匿名の付箋カップルの心理の本質を、読者目線で的確に言い当てた。
主人公はハッとした。
(そうだ。彼らは、付箋だからこそ、言いたいことを言っている。そして、この付箋は、僕のラブコメ冊子と同じように、現実の辛さを匿名性でコーティングしているんだ)
主人公は、ただの図書委員、ただの作者ではない。この『付箋ラブコメ』の初めての、そして唯一の観察者として、この現象を捉え直す。付箋カップルの存在感は、具体的な姿が見えないにも関わらず、その「言葉」だけで強烈に確立されていた。
「これ、全部保存しておきたいな」主人公は言った。
「なんで?」
「この付箋が、彼らの恋の物語の、生きた記録だから。そして、僕自身の物語の補助線にもなる気がするから」
主人公は、付箋カップルの正体を追うのではなく、付箋という文化そのものを観察するという次の行動の軸を固めた。しかし、この外側の恋の活発さを見るにつけ、自分の恋だけは“うまく書けない”という、胸の奥の軽い痛みは、まだ解消されないまま残っていた。
主人公は、愛用のブックエンドを片手に、廊下の角を曲がろうとして、足を止めた。
廊下と図書室の間の、わずかな空気の境界線。いつもなら静寂が保たれているはずのその領域に、今日は不協和音が漂っていた。
「さっきラブコメの棚でさ」 「あれ、蛍光ピンクが作者に突っかかってるって意味?」 「いや、あれ、たぶん書いてるの図書委員の人でしょ?」
声は小さく、ひそひそと交わされていた。断片的な言葉の塊が、主人公の鼓膜を叩く。主語が抜け落ちた噂話は、人の想像力を勝手に掻き立てる。主人公は、反射的に呼吸を整えた(改行は呼吸の区切りに対応)。聞きたくない。だが、無視することもできない。
主人公が図書室へ入ると、その原因はすぐに見えた。ラブコメ冊子コーナーの前、数人の生徒が肩を寄せ合い、棚一面を覆い尽くす付箋の群れを指さし、笑い合ったり、眉をひそめたりしている。彼らの間には、昨日まで棚にあった静謐な秩序は微塵も残っていなかった。図書室の空気が、熱を帯びていた。
主人公は、彼らに背を向けて奥の返却カウンターへ向かおうとしたが、図書委員としての役割が、その場を素通りすることを許さなかった。
「静かにしてね」
主人公は、あくまで冷静な声で、最も静かに、しかし明確に、彼らに警告を伝えた。その声は、付箋の騒々しさに比べれば、あまりにも静謐で、すぐに消え入るようだった。
生徒たちは、驚きで一斉に振り向いた。そして、その数人のうちの一人が、付箋を指していた手の動きをぴたりと止め、主人公の顔を凝視した。
「あ・・・」
その生徒は、それ以上の言葉を発しなかった。だが、その表情は雄弁だった。「あ、この人かも」という気づきと、それに続く好奇の目が、主人公の顔から足元までを一瞬で値踏みした。好奇心はすぐに、品定めへと変貌した。
「でもさ、これ書いてる人、ちょっと調子乗ってない?」
別の生徒が、わざとらしく、しかし主人公が聞いているかどうか確認するように、声のトーンをわずかに上げた。その言葉は、主人公の書いた冊子の内容ではなく、作者の存在そのものに向けられたものだ。
主人公の心臓が、一瞬、強く脈打った。それは、嬉しさと怖さが混ざり合った、形容しがたい奇妙な感覚だった。作品が読まれていることは誇らしい。だが、自分の意図と無関係に、作者という立場だけが一人歩きし、嫉妬や悪意の矛先になり得た。その事実が、胸の奥で鋭い不安となってチクリと刺さった。
主人公は、彼らの視線から逃れるように、カウンターの上の本のほこりを意味もなく指で払うふりをした(居心地の悪さの表現)。本来、図書委員として、彼らが静かにしないなら再度注意すべきだ。しかし、いま発する言葉は、すべて「自分は作者だ」という自白に聞こえてしまう気がして、口を開くことができなかった。
生徒たちは、主人公が「反論できない」立場にあることを察したように、やがてヒソヒソ声を再開し、そして散っていった。
まるで、嵐が通り過ぎた後のように、その場に残った主人公の肩の力が、すっと抜ける。
「大丈夫?」
少し遅れて図書室に入ってきたヒロインが、まっすぐに主人公を見て、静かに言った(ヒロインの一言フォロー)。彼女の表情は、すべてを見透かしているように穏やかだ。
主人公は、自分の動揺を悟られないように、努めて明るい声で返した。
「別に。静かにしてって言っただけだよ。新作、置いてきたから」
主人公はそう言いながら、手に持っていたブックエンドを、意味もなく二度、三度と持ち替えた(仕草で動揺を出す)。その動作は、感情の揺らぎを隠そうとする、主人公の哲学的な怯えを如実に示していた。
(人気が出ると、こうなるのか。)主人公の思考は、冷静な分析者としての観察に、逃げ込もうとする。
図書室は、もはや静寂の聖域ではない。それは、恋の噂と視線が飛び交う、恋愛闘技場へと姿を変えていた。
この状況は、主人公が抱える「自分の恋だけは“うまく書けない”」という内面的な怯えに、「外側からの評価」という別の不安を重ね合わせた。
図書室は閉館の時間を迎えようとしていた。窓の外は、すでに夕焼けの残滓を飲み込み、薄暗くなっている。主人公とヒロインは、ラブコメ冊子コーナーの周辺で、付箋の整理に当たった。
「結局、全部剥がすのはやめるんだね」ヒロインが、色別に分類した付箋の束を片付けながら言った。
「うん」主人公は頷いた。棚一面を覆っていた付箋の群れは、いまや冊子の周りに、読める程度に整然と、しかし以前よりずっと厚い装飾として残されている。「全部剥がしたら、彼らの物語そのものを消してしまう。これだけ整理して貼り直せば、騒がしくても文化として認められるはずだ」
主人公の心には、作者としての執着と、観察者としての使命感が渦巻く。付箋は、すでに単なる落書きではない。それは、この図書室から生まれた、もう一つの生きたフィクションなのだ。
主人公は、蛍光ピンクの付箋の中から、一枚だけ抜き出した。それは、昨日の痴話喧嘩の続きのような内容だ。
「この二人、ここでしか素直になれないんだろうな」主人公は言った。
「そうかもね」ヒロインは、その付箋を覗き込み、わずかに口角を上げた。「だって、付箋の上では、何を言っても匿名で、言ったことの責任はフィクションの続きに帰結する。現実で誰かに顔を見て言われるより、ずっと安全だもん」
ヒロインの言葉は、この付箋文化の理屈を正確に捉えていた(理屈と比喩を両立)。言葉の背後に隠れることで、彼らは自由に恋を謳歌している。
主人公は、付箋カップルの物語が、どこかの教室や廊下で、いまも続いていることに思いを馳せた。「顔も、クラスも、性別さえ、僕には分からない。でも、彼らの恋は、確実に動いている」
その時、ヒロインが、ふっと視線を図書室の棚から、主人公の顔へと戻した。光の当たらない室内で、彼女の瞳は静かに輝いている。
「ねえ、恋愛を書いてる人って、自分の恋はどうなんだろうね」
唐突な問いかけだった。付箋カップルの話の流れから、何の脈絡もなく「あなた自身」という核心へと、話題が切り替わる。主人公の心臓が、再び強い驚きで脈打った。
(急所を突かれた)
主人公は、一瞬、完全にフリーズした。頭の中では、すぐに『失敗を語るための適当な言葉』が用意されようとした。『いまは書く方に集中したい』など、そのどの言葉も、喉の奥で詰まって、出てこなかった。
代わりに、主人公は手に持っていた付箋の束を、必要もないのに、机の角で揃え直した。その指先の不自然な落ち着きのなさが、内面の動揺を物語っている。
「僕は・・・」
主人公は、言葉を探した。
『注文の多いラブコメディ』の作者として、主人公は、複雑な心理や状況を、何万字もの地の文と台詞で描き出すことができる。恋は言葉で救われると、物語では信じている。しかし、たった一言の「いま、好きな人はいる」という現実の言葉を、目の前のヒロインに向かって発することができない。
(書けるのに、言えない)
そのギャップが、鉛のように主人公の心に沈み込んだ。自分の恋は、付箋カップルのように、物語(付箋)として公開され、活発に動くこともなく、ただ停滞している。
ヒロインは、その動揺を静かに見守る。その表情には、「今はこれでいい」と判断した、深い理解と、微かな期待が滲んでいた。
二人は、黙って残りの片付けを終えた。図書室の空調が、小さな音を立てる。
最後に、主人公が棚の前を通り過ぎようとした、その時だ。
蛍光イエローと蛍光ピンクの、新しい付箋が一枚だけ、冊子の横に貼られたばかりのような新鮮な様子で、増えていることに気づいた。
「今日もこっそり読んで、こっそりケンカしました。明日も、多分。」
主人公は、その付箋をそっと指で押さえ、わずかに口元を緩ませた。
(この恋は、外側でちゃんと続いているのだな。)付箋カップルの物語は、彼の知らない場所で続いている。そして、主人公自身の恋の物語は、まだ始まっていない。
雨上がりの図書室は、湿った空気と、わずかに土の匂いを運んでいた。放課後になり、普段より多くの生徒が屋根のある場所を求めて図書室に流れてきている。
主人公は、一週間ぶりにラブコメ冊子コーナーの棚の前に立った。この終わりに、心を込めて整理し、「文化」として秩序を与え直したはずの場所だ。
しかし、その目論見は無惨にも裏切られていた。
棚は再び、色彩の暴力にさらされていた。蛍光イエローと蛍光ピンクの付箋が、前回よりもさらに密度の高い地層を形成し、冊子のモノトーンの表紙を完全に隠している。その表面は、まるで鱗のように、新旧の付箋が重なり合って光を反射していた。
前回との決定的な違いは、その継続性だ。
主人公の視線が捉えたのは、多くの付箋の角に、小さく書き込まれた日付だった。「○月○日」「○月○日」という数字が、まるでカレンダーのように棚に連なっている。一つ一つが日記の断片であり、ラブコメの「一コマ」だ。付箋の群れは、もはや一冊の本ではなく、際限なく更新される巨大な連載掲示板へと姿を変えていた。
この異常な更新ペースは、主人公の目的である「付箋文化を整理して、冊子を“ちゃんと読める状態”に保ちたい」という意図を完全に無効化している。
ヒロインが、いつものように自然な動作で、返却する本をカウンターに置き、棚の前へやってきた。
彼女は棚を一度見上げ、すぐに主人公の顔を見た。その目には、驚きというより、確信の色が宿っていた。
「ねえ、これ、なんか日記みたいになってない?」ヒロインが言った。
「日記、か・・・」主人公は同意した。主人公は、その異常な付箋の群れから、いくつかの日常報告系の文面を視線で追った。
蛍光イエロー:「○月○日 今日はちゃんと話せた。でも、やっぱり緊張して目そらしちゃった」
蛍光ピンク:「○月○日 そらしたの、見てたよ。あとでジュース買ってあげるから、明日もちゃんとこっち見てよ」
日常の些細な行動と、それを許容する可愛らしいやり取り。付箋カップルの物語は、もはやフィクションの枠を超え、図書室を舞台にしたリアルタイムのログ(記録)へと変貌している。主人公の心には、嬉しいという感情と同時に、怖れが混ざり合った。自分の作品が、こんなにも深く誰かの現実に根を下ろしているという事実は、作者の手を完全に離れてしまったという恐怖を伴う。
「図書委員の仕事を超えてるよ、これ」主人公は、付箋を整理しようと手を伸ばしたが、あまりの量に、指先が触れる前に諦めて引っ込めた。
「うん。なんか、ここだけ『管理人』がいるサイトみたいだね。みんなこの掲示板に来て、最新のログを読んで、自分もそこに書き込んでるみたい」ヒロインは比喩を軽く示す。「この付箋カップルが、この図書室の人気連載だよ」
ヒロインの言葉が、主人公の分析を裏付けた。
主人公は、付箋の群れの中を丁寧に探した。そして、自分の書いた冊子の最新号から引用された言葉を見つけた。
蛍光イエロー:「あのシーンみたいに、ちゃんと手を握れたらいいな。でも、今日は無理だった」
その付箋の文章は、憧れと挫折という、人間的な感情を素直に表していた。主人公の物語が、誰かの行動の動機となり、その結果が、また付箋という形で棚に返ってきている。
「僕の物語が、彼らを動かしている」主人公はつぶやいた。
「すごいことだよね。でも、外側で勝手に動いてるから、作者はもう手出しできない」ヒロインは、主人公の複雑な表情を見逃さなかった。
主人公は、この異常な状況をどうすべきか、戸惑いの中にいる。付箋を剥がすことは、この文化を殺すことになり、付箋を残すことは、図書室の秩序を壊すことになる。
主人公の注視点は、付箋カップルの行動そのものと、周囲の自分を見る目の変化へと、完全に移行し始める。この混乱は、主人公を完全な観客ではいられない地点へと、確実に押し上げた。
閲覧机の上は、まさに事件資料の山と化していた。
蛍光イエローと蛍光ピンクの付箋が、時系列順に並べられ、主人公の手によって分類されている。主人公は、観察という名の強迫的な行為に駆られる。効率よく物語を読むために、頭の中には、「のろけ」「謝罪」「愚痴」「独り言」といったラベルが勝手につけられている。色とりどりの付箋が、机の上で小さな光の集合体を作り出していた。
主人公は、蛍光イエローの付箋の束から、一枚の紙片を手に取った。乱暴な筆致で、不満が綴られている。
蛍光イエロー:「昨日のあの言い方、そんなにひどかったですか? 私はちゃんと謝ったのに、まだ怒ってます」
そして、その隣、少し下には、蛍光ピンクの付箋が重ねて貼られていた。その内容は、主人公の平穏を打ち砕くものだった。
蛍光ピンク:「作者さん、どっちが悪いと思いますか。あなたの書く物語なら、解決できるはずですよね」
主人公の手が、ピタリと止まった。静かな図書室の中で、手のひらに貼り付いた付箋の、わずかなざらつきだけが、現実に存在していた。
(知らんがな。)強い拒否反応が、心の中で跳ね上がった。声には出さず、主人公は口元を固く結んだ。付箋カップルは、主人公が書いたラブコメの「神の視点」を、現実の論争の場に引きずり出そうとしていた。これは、もはや感想やサイドストーリーではない。責任の転嫁である。
主人公は困惑した。ここで無視すれば、彼らの物語はさらに混迷するだろう。ここで安易に「返事の付箋」を書けば、関係性は主人公のたった一言で、解決か破綻のどちらかに強制される。初めて、「付箋に答えを書く」という発想が頭をよぎったが、同時に、その行為が持つ暴力性に気づき、実行をためらった。
「書かないほうがいいと思う」
ヒロインが、少し離れたところから、その付箋を覗き込み、短く言った。
「どうして?」主人公が尋ねる。
ヒロインは、長々と解説をすることなく、その核心だけを突いた。
「あなたが書いた一言で、どっちが勝った負けたになるから。これ、彼らの遊びじゃなくて、本気の喧嘩でしょ? あなたの言葉は、ここでは武器になる」
主人公は、手のひらの付箋を、ぎゅっと握りしめた。
(ああ、そうか)
ヒロインの言葉は、主人公がぼんやりと感じていた不安を、明確な輪郭として提示した。主人公の言葉は、フィクションの中ではカップルを救う希望の光だった。だが、この付箋の文脈では、誰かを断罪する剣になり得る。主人公は、自分が、完全に部外者ではない立場に立たされていることを思い知らされた。
「分かった。書かない」
主人公は、付箋をそっと机の上に戻し、分類ラベルの束でそれを隠した。
ヒロインは、主人公が本気で困惑し、そして納得したのを見て、少しだけ笑った。その笑みには、微かな安堵が含まれている。ヒロインは、分類された付箋の束を指でつつきながら、話題を変えた。
「ね、こういうの書くときに、自分だったらどうするって考える? 判定役じゃなくて、当事者として」
唐突な問いかけだった。ヒロインは、キャラの恋愛には強いが、自分の恋愛になると急に弱いという、主人公の特性を見抜こうとする。二人の距離感は、単なる同僚や作者と読者ではなく、何か微妙な共犯関係へと変化しているように感じられた。
主人公は、ヒロインの瞳から視線を逸らし、すぐに答えを出せなかった。
「キャラならこうするってことしか・・・まだ、言えないよ」
責任を負わされることへの怯えは残る。だが、それ以上に、自分の言葉が持つ影響力という新しい感覚が、主人公の心に揺らぎを残した。この付箋は、もはや「面白い観察対象」ではなく、主人公の現実の行動を要求する外側の圧力になりつつあった。
昼休み直前の廊下は、生徒たちの往来でざわめいていた。主人公は、委員の仕事のために教室から図書室へ向かう途中、ふとした断片的な会話を耳にした。
「あれ、蛍光イエローのやつ、今日マジでヤバいよね」 「えー、ラブコメの続き? あれ誰が書いてるんだろう」 「図書委員の誰々らしいよ。付箋に答えを書いてくれるんじゃないかって、ちょっと期待してたんだけど」
声は近くはない。具体的な名前は曖昧で、誰か一人が発した噂の残響が、廊下という広い空間で反響しているだけだ。それでも、主人公の耳は、自身の関わる固有名詞だけを正確に拾い上げた。
(噂は、もう廊下まで来ているのか。)主人公は、足元のタイルを見つめながら、静かに歩を進める。
図書室に入り、返却カウンターへたどり着いた主人公は、いつものように淡々と作業を始めた。
そこに、一人の女子生徒が、本を借りに来た。彼女は、主人公が作業している様子を何度かちらちらと見てから、口ごもりながら尋ねた。
「あ、あの・・・ラブコメの相談って、してもいいんですか?」
女子生徒の顔は、期待と恥ずかしさで真っ赤に染まっていた。彼女にとっては、これは勇気を出した告白未遂のようなものだろう。主人公は、その真剣さに、一瞬、驚きを感じた。付箋カップルが求めた「判定」が、今、現実の空間で、「相談」という形に姿を変えて目の前に現れたのだ。
主人公は、平静を装って、笑みを浮かべる。
「ごめんね。ここは、本を借りたり返したりする場所です。恋愛相談は、カウンター業務の範囲外なんです」
当たり障りのない、図書委員としての完璧な返事。主人公は、その女子生徒の期待を壊さないよう、しかし、踏み込ませないように、丁寧に距離を取った。女子生徒は、少し残念そうにしながらも、「そうですよね」と納得し、本を借りて去っていった。
「断り方、うまかったね」
カウンターの端、返却された本を整理していたヒロインが、小さな声で言った。彼女は、このやり取りを最初から最後まで見ていたのだ。ヒロインの瞳には、「自分だけは裏側を知っている」という、ささやかな優越感が滲んでいた。その立ち位置が、ヒロインを主人公にとって少しだけ特別な存在へと引き上げている。
主人公は、安堵の息をついた。そして、ヒロインに向き直る。
「そうでもしないと、ここが『人生相談室』になっちゃうだろ。僕は、恋愛を語るプロじゃないんだ」
「でも、書くプロでしょ?」ヒロインは、分類された付箋の束を軽く指で叩きながら言った。「あなたの物語に影響されて、本気で悩んでる人もいるってこと。その影響力の責任は、書いた人にあるんじゃない?」
主人公の胸に、またしても重い問いが突きつけられる。しかし、ヒロインはすぐにその重さを回収するように、半分冗談めかした口調で提案した。
「じゃあ、いっそ、図書室の新しいルールにしちゃったら? 『図書室内での、現実の恋愛相談を禁止する』とか」
「ははっ」主人公は、思わず声を出して笑った。「じゃあ、何のためのラブコメだよ。ラブコメを読んで、恋に悩むのが、この図書室の新しい文化なんだろ?」
しかし、笑いながらも、主人公の心の奥底には、「線を引いておかないと壊れる」という冷徹な理解があった。付箋カップルの暴走、生徒たちの過度な期待。このままでは、静かな図書室という舞台そのものが、混乱によって破壊されかねない。
「そうね。でも、あなたは相談役じゃない」ヒロインは、改めて釘を刺した。
主人公は、ヒロインの言葉に深く同意した。自分の書いた物語が、これほど多くの期待を集めることに、戸惑いと不安が交じり合っている。
主人公は、誰もいないカウンターの隅で、深く息を吐いた(小さい溜息で終わる)。
「俺、そんなに恋愛詳しそうに見えるのかな・・・」
主人公のぼやきは、周囲から期待される自分と、実際の恋愛経験の乏しい自分との間に存在する、埋めがたいギャップへの自己ツッコミだった。
ヒロインは、その疑問に対して、否定も肯定もしなかった。
「どうだろうね。でも」彼女は微笑んで、言い切った。「少なくとも、恋愛『を書く』のは得意そうだよ。それが、みんなを動かしてるんだから」
さらに翌日の放課後。図書室の空気に、昨日までの熱とざわめきは微塵も残っていなかった。
主人公は、いつものようにラブコメ冊子コーナーの棚の前に立った。そして、息を詰めた。
棚は、真っ白に戻っていた。
昨日まで、蛍光色に塗り尽くされ、鱗のように何層にも重なっていた付箋の群れが、すべて消えている。棚の木の表面は、まるで丁寧に拭き上げられたかのように綺麗で、冊子だけが整然と並んでいた。あまりにも静かすぎて、その静寂が主人公には異音のように感じられた。
(嘘だろ)
主人公は、棚の周囲を何度か見回した。床にも、近くの閲覧机にも、付箋の残骸は一つも落ちていない。まるで、最初から何も貼られていなかったかのように、完全なリセットがかけられていた。
主人公の心に浮かんだのは、喪失感だった。騒がしい厄介事が片付いたという安堵よりも、心血を注いで観察し続けた「物語」が、強制的に完結させられたことへの、ぽっかりとした空虚さだった。
(誰がやったんだ?)
主人公は、図書委員の当番表を確認した。だが、棚は、完全なリセットがかけられていた。
「すっきりしたね」
少し遅れてやってきたヒロインが、棚を見てつぶやいた。しかし、その声のトーンは、安堵だけではなかった。どこか、祭りの後のような、微かな寂しさが滲んでいる。
「そうだね」主人公は、声に力を込めた。「元の正常に戻った、ってことなのかな」
しかし、その「正常」という言葉は、二人にとってすでに違和感を伴っていた。二人の視線は、棚の上の、静かな冊子と、静かな木肌の間を、所在なさげにさまよった。
その時、主人公の指先が、ラブコメ冊子の一冊に触れた。冊子は整然と並んでいるが、わずかに一冊だけ、ページが膨らんでいる。
主人公は、そっと冊子を手に取り、そのページを開いた。そこには、いつもの蛍光色ではない、白の付箋が、一枚だけ挟まれていた。
「騒がしくしてごめんなさい。でも、ここで練習してなかったら、あの人に本音を言えませんでした。あなたにはあなたの恋を。私たちは私たちの恋を。」
差出人の名前はない。しかし、その筆跡は、以前の蛍光イエローとピンクを混ぜたような、柔らかな丸文字だった。
主人公は、その付箋を黙って見つめる。そのメッセージは、付箋カップルの物語の「結」を告げていた。付箋は「誰かが勇気を出すための練習帳」という役割を終えたのだ。彼らは、付箋というフィクションから、現実の恋へと一歩を踏み出した。
主人公は、その付箋を棚に戻す代わりに、冊子の一番後ろのページにそっと貼り直した。それは、ただの落書きではなく、この図書室で確かに存在した「恋の記録」として、主人公の管理下に置かれたことを意味する。
ヒロインは、付箋の文面を横から読んでいた。
「ちゃんと届いたんだね、誰かには」ヒロインが、小さな声で言った。
主人公は、付箋を貼り終え、棚の前に戻った。そして、ヒロインを見て、冗談めかして笑った。
「俺には届いてないけどね。僕の恋は、付箋に書く練習すらしてないから」
それは、外側の恋の完結と、内側の恋の停滞を対比させる、最初から続くテーマの補助線だった。主人公は、自分の恋を動かす練習は、まだしていないという事実を、改めて静かに認識した。
ヒロインは、主人公の冗談に小さく笑ったが、その瞳は、棚に挟まれた付箋とは違い、明確に主人公自身を見つめていた。
数日ぶりに図書室のラブコメ冊子コーナーの前に立った主人公は、その静けさに、もはや違和感を覚えていた。
棚は、前に付箋がすべて剥がされて以来、そのままの姿を保っている。木目が見えすぎるくらい磨かれた棚の表面と、まっすぐに整頓された冊子の背表紙。それは、図書室本来の秩序の姿だ。主人公は「このままの方が楽なんだけどな」と、胸の奥でぼやいた。煩わしい騒動がない方が楽だ。だが、その完璧すぎる静寂は、どこか物足りなさも感じさせる。
主人公は、返却本を手に、いつものルーティン通り棚の前を通った。
その瞬間、視界の端に、前にはなかった色がちらっと映り込む。まるで、暗い空間に灯った小さな火花だ。
主人公は反射的に振り返った。それは、冊子と冊子の背表紙の隙間から、ごくわずかに覗いている、蛍光ピンクの付箋の端だった。以前のような色彩の暴力ではなく、狙い澄まされた一点の光。
主人公の心臓が、「またか」という諦めと、「戻ってきた」という奇妙な安堵を混ぜた鼓動を打つ。
主人公は、その付箋を慎重に引き抜いた。前回の付箋カップルと同じ筆致の、しかし、より文章の密度が高い言葉が並んでいた。
「しばらく静かにしてごめんなさい。でも、まだここで話したいことがあるみたいです。私たちが付箋を剥がしたわけじゃありません。だから、どうか、また少しだけ見守っていてください。」
それは、単なる感想や愚痴ではない。付箋カップルからの、文化の継続を懇願する、明確なメッセージだ。量は減っているが、文章の密度は濃くなっている。彼らは、誰かによって一度リセットされた後、「遊び」ではなく「必要」として、この場所に戻ってきたのだ。
主人公は、付箋を持つ手の力を、わずかに強める。この付箋カップルは、静かな棚の裏側で、現実の恋の修羅場を潜り抜け、それでもなお、付箋という匿名性を求めている。
このタイミングで、ヒロインが本を抱えてやってきた。彼女は、棚を一瞥し、主人公の手に握られた付箋を見た。
「戻ってきたんだね」ヒロインは、ごく自然に、それを既定の事実として受け止めていた。
主人公は「ああ、どうやら」とだけ答え、付箋から目を離さない。
「静かな方が楽なのに、これでまた騒がしくなるよ」主人公は、図書委員としての建前を口にした。
ヒロインは、その言葉に、わずかに首を傾げた。
「そうかな? でも、前回より丁寧になった気がする。『また見守っていてください』って、ちゃんと挨拶してる」
ヒロインは、この付箋を、単なる悪戯ではなく、物語の続きとして読んでいる。その視線は、再び、主人公の顔色を観察している。ヒロインは、主人公の「楽になりたい」という言葉の裏に隠された、「物語が続くことへの期待」を見抜こうとする。
主人公は、心の中の嬉しさと不安を天秤にかける。付箋が戻ってきたことで、観察対象が復活したという喜びがある。しかし、同時に、これまでの経験から、この付箋が再び自分の立場を脅かすであろうことも予測できた。
主人公は、その一枚の付箋を、冊子のページに丁寧に挟み直した。以前の乱雑な群れとは違い、この「一枚だけ」は、強烈な存在感を放っている。
この瞬間、図書室の空気に、あのような熱狂ではなく、濃密な緊張が、静かに戻ってきたのだった。
数日後の放課後。図書室のラブコメ冊子コーナーには、微かな緊張の波が漂っていた(テンポは緊張の波形として扱う) 。
付箋の数は、洪水のような量には遠く及ばない。しかし、その一枚一枚が、前回よりも明確な意図を持って、冊子の周りに貼られていた。そして、棚の前には、数人の生徒が立ち止まり、付箋を目だけで追いながら、まるでスポーツの試合を観戦しているかのような空気が流れている。
蛍光イエロー:「次の展開をどうするか、議論中です。あなたの書く登場人物たちなら、こんなとき、まず相手を許しますか? それとも、自分の非を認めさせますか?」
蛍光ピンク:「私たちはもう、あなたの物語の影響を受けすぎています。どうか、ヒントをください」
新たな付箋は、以前のように痴話喧嘩を綴るだけでなく、主人公の書いたラブコメを前提とした、直接的な質問へと変化していた。付箋カップルは、主人公の名前こそ出していないが、作者をターゲットに、議論の介入を求めている。彼らの物語は、主人公の沈黙を許さない、公開競技へと昇華し始める。
主人公は、ポケットから取り出したペンを、一瞬、強く握りしめた。そして、蛍光イエローの付箋のすぐ隣に、返事を書く行為を、頭の中でシミュレーションした。しかし、ここでヒロインに言われた「あなたの言葉は武器になる」という忠告が、鋭い警鐘となって蘇る。
主人公は、ペンを握った手を、すぐにポケットに戻した。返事を書かないという選択を、辛うじて選んだ。
その一連の仕草を、すぐ近くで本を返却していたヒロインが、見ていたことに、主人公は気づかなかった。
観戦者である生徒たちは、付箋のメッセージを読むと、小さな笑い声や、困惑の溜息を漏らした。彼らは声に出して論評することは避けるが、断片的な反応だけが、主人公の耳に届く。
「また進んでる」 「これ、わざと引き伸ばしてない?」
主人公とヒロインは、付箋を一度机に並べるため、閲覧机へと移動した。付箋は、時系列順に並べられ、机の上に議論の軌跡を描き出す。
「返事、書かなかったんだね」ヒロインは、蛍光色の付箋を一つずつ指で触れながら言った。
主人公は、少し力を抜くように、冗談めかして返す。「書かない方がいいって言ったの、誰だったっけ。僕じゃなくて、君だったような」
ヒロインは、主人公の冗談を、すぐに真面目な調子で受け止めた。
「うん、言ったよ。でも、書かないって決めたのは、あなたでしょ」
ヒロインは、主人公を共犯者として扱うのではなく、責任の主体として、わざと確認させた。その言葉は、主人公が下した沈黙という判断を、もう一度、主人公自身に引き受けさせるものだった。
主人公は、机の上に並ぶ付箋の議論をじっと見つめる。
(何もしないのって、たまに一番卑怯に見えるんだよな。)
主人公は、この沈黙が、物語の中で、やがて別の意味を持つようになることを予感する。
図書室は、放課後にもかかわらず客足が減り、静寂が支配していた。遠くで聞こえるのは、運動部の掛け声と、窓の外を通り過ぎる風の音だけだ。主人公は、貸し出し履歴の整理を終え、ふと、窓際の閲覧席に目を向ける。
ヒロインが、そこにいた。彼女の机の上には、最新号の冊子ではなく、色褪せた初期のラブコメ冊子(第一号・第二号)が開かれている。普段なら新しい物語ばかりを追う彼女が、過去を読み返している。その光景は、主人公にとって奇妙な違和感だった。
主人公は、返却された本を棚に戻すふりをして、ゆっくりとヒロインのいる窓際へと近づいた。
ヒロインの机の上には、過去(古い冊子)、現在(最近の冊子)、そして外側(まだ棚に戻されていない付箋数枚)が、時間の流れを無視して一列に並んでいる(ビジュアルを意識)。
主人公が近づくと、ヒロインは顔を上げ、小さく笑った。
「前の話、こんな感じだったっけ。読んでると、なんか懐かしくなっちゃって」
「覚えてないな」主人公は、少し照れくさそうに答えた。初期の冊子は、まだ主人公の技術が未熟だった頃、誰か一人のことを強く意識しながら書いていた時期のものだ。触れられると、どこか居心地が悪かった。
ヒロインは、古い冊子の一つのシーンを、指先で優しくなぞった。
「でも、この頃の話って、誰か一人のことを、すごく大事に書いてる感じがする。今よりも、ずっと本気だった、みたいな」
その言葉は、主人公の内面を正確に突いた。主人公は、その頃の自身の本気を、付箋の騒動に気を取られ、忘れかけていた。
主人公は、古い冊子から視線を外し、ヒロインの隣に置かれた付箋の束を見た。そこには、蛍光イエローの付箋に、二重の書き込みがされていた。
表向きの文字:「もういいです。勝手にしてください。」 同じ付箋の下の、小さな字:「…って言ったけど、ほんとは行かないでほしかった。」
ヒロインは、その付箋を手に取り、その二重の書き込みを指で隠すようになぞった。
「こっちは、本音と建前が逆になってるね。自分の気持ちを、付箋に二重にコーティングして、やっと言えるなんて」
主人公は、その付箋に、過去の自身の姿を重ね合わせたような、妙な既視感を覚える。自身も、物語の中で、言いたいことの本質を、比喩や建前で包み隠したことが何度もある。
「こういう書き方、ずるいよね」ヒロインは、ぽつりとつぶやいた。
「どっちが?」主人公は、尋ねた。
「書いた人も、読んだ人も」ヒロインは、曖昧に答えた。
彼女の瞳は、付箋の文字を追っている。その時、ヒロインの心の中で、付箋カップル(本音を言えない者)の感情と、主人公(本気を隠す作者)の姿、そして自分自身(まだ言葉にならない気持ちを抱える者)の感情が、一瞬だけ重なり始めた。
ヒロインは、付箋カップルの「行かないでほしい」という小さな本音に、自分自身の、まだ言葉にならない気持ちを重ねていたのだ。
二人の間に、静かな間が流れた。窓の外の風の音、遠くの部活の声だけが、その静寂を強調する。その沈黙は、ヒロインが抱える「主人公への特別な感情」を、わずかながらも主人公に伝達していた。
ヒロインは、その静寂に耐えきれなかった。彼女は、読んでいた古い冊子のページを、強めにめくって、その感情を隠す。強すぎる音は、沈黙が作り上げた緊張を、強引に解体する。
「この話、早く続きを書いてよ」ヒロインは、乱暴にページをめくったまま、半ば命令のように言った。
主人公は、ヒロインの突然の不自然な行動に、少し戸惑いを感じたが、追及はしなかった。ただ、付箋の二重の言葉と、ヒロインの強引な沈黙が、主人公の心に深い揺らぎを残した。
翌日の放課後、図書室は試験前のような、張り詰めた緊張感の中にあった。主人公がラブコメ冊子コーナーへ向かうと、すでに異様な人だかりができていた。棚の前には、数人の生徒が密集し、その背中越しに冊子の棚はまったく見えない。空気はざわつき、彼らの間から、断片的な小声だけが漏れ聞こえてくる。
「・・・ガチじゃん」 「うわ、これはきついって」 「ねぇ、あっちも貼った?」
主人公は、図書委員としての建前で、人だかりに近づく。静けさを取り戻す必要があった。
生徒たちが少し離れた隙に、主人公は棚を覗き込んだ。付箋の群れは、その中心に、まるで爆心地のように、大きな黒い一言を携えていた。
付箋中央、蛍光イエローの紙片に、大きめの字で、ただ一言。
「別れます。」
その簡潔な通告は、図書室の空気を、一瞬にして本当に静止させた。周りの生徒たちのざわめきが、その言葉の衝撃波によって、吸い込まれたかのようだった。
その下や横には、小さな筆致のコメントが添えられていた。
「今までありがとうございました。ここで相談に乗ってもらってなかったら、もっと早く壊れてたと思います。」
主人公の心臓が、ドクンと重く脈打つ。彼らは、主人公の冊子と付箋という「外側の物語」を、最後まで「相談に乗ってもらう場所」として利用した。主人公は、何も言葉を発していないにもかかわらず、その別れの瞬間に立ち会ってしまった。拭い難い居心地の悪さを感じる。
しかし、静寂は長く続かなかった。
数秒後、生徒たちが再びざわつき始めたその時、蛍光ピンクの付箋が、「別れます。」の付箋のすぐ近くに、勢いよく貼り付けられた。
文字は、震えていたり、ところどころ書き直した跡がある。
「やっぱり別れたくありません。」 「ちゃんと話したいです。お願いです。」
その懇願は、別れという決定的な事実を、力ずくで引き戻そうとする切実な感情を伴っていた。それを見た周囲の生徒たちは、今度は半分引きつったような、観戦者としての声を漏らす。
「うわー・・・ドラマじゃん」 「がんばれよ、ホント」
主人公は、これ以上この修羅場を公開させてはならない、と直感する。
「ここは図書室です。静かにお願いします」
主人公は、誰の目も見ず、ただ当番として、役割を演じるかのように注意を促した。だが、生徒たちの視線は、主人公に無言で突き刺さる。「この人が作者なんでしょ?」「どうにかしてよ」という、無言のプレッシャーだ。
人だかりの波が一段落し、騒動が落ち着いた後、主人公とヒロインは、少し離れた閲覧机に座った。机の上には、何も置かれていない。
ヒロインは、棚の方を静かに見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「こういうのって、どこまでが『物語』なんだろうね。誰にも見えないところでやればいいのに」
主人公は、ヒロインの言葉を打ち消すように、疲れた声で返した。
「俺たち、ただ本を並べてただけなんだけどな」
しかし、内心では、言葉を飲み込んでいた。
(違う。俺の書いた話が、付箋のやりとりが、この図書室という舞台そのものが、彼らの別れと、まだ続けたい気持ちを、人前で加速させた。)
主人公は、自分の書いた物語が、他人の人生のクライマックスを演出してしまったという重さに、押しつぶされそうになっていた。
主人公の視線は、遠くの棚の付箋一点に集中している。
対照的に、ヒロインの視線は、棚ではなく、そんな主人公の横顔に向けられていた。
数日後の放課後。図書室には、期末試験前の、どこかそわそわとした気配が漂っていた(時間軸の薄い描写)。
ラブコメ冊子コーナーの棚には、修羅場を告げる付箋は、もうほとんど残っていなかった。時間経過とともに、自然に剥がされ、もはや大きな人だかりができることもない。静けさが戻りつつある棚の木目を見つめながら、主人公は当番用の記録ノートを開いていた。
主人公の頭の中は、静かな図書室とは裏腹に、高速で動いていた。
(蛍光イエローの筆跡は、あのクラスの誰かに似ている。貼られていた高さから見れば、だいたいこのくらいの身長だろう)
主人公は、今までの付箋の観察データと、図書室の利用記録を頭の中で照合する。付箋が最も増えた日の貸出・返却時刻を調べれば、行動範囲の候補が絞れる。さらに、付箋が貼られ始めた初期から、二色の筆跡が少しずつ変化していることも、主人公は気づいていた。まるで、付箋を通しての恋愛経験が、彼らの文字に影響を与えているかのようだ。
主人公の頭の中で、匿名カップルの正体を暴くための、ほとんど完全なロジックが組み上がりかける。
(答え合わせがしたい。彼らが、一体どんな顔をして、あんな修羅場を繰り広げたのか。)
その好奇心は、作者としての探求欲であり、同時に、他人の物語を覗き見たいという、少し後ろめたい感情でもあった。主人公の手には、図書室の厳重な利用記録が握られている。この記録を紐解けば、彼らの匿名性は簡単に崩壊するだろう。
「そのノート、何に使うつもり?」
声に驚いて、主人公は反射的にノートを閉じた。ヒロインが、いつの間にかすぐ隣に立っていた。彼女は、主人公の手元と、その先の付箋棚を、交互に見ていた。主人公が何を探っているのかは、明白だった。
主人公は曖昧に笑ってごまかそうとする。「あ、いや、ただの蔵書整理だよ。付箋で乱れたから」
ヒロインは、深追いはしない。彼女の口から出たのは、主人公の心に刺さる、たった二つの問いかけだけだった。
「あの人たちの顔、そんなに見たい?」
主人公は、その問いに、言葉が出ず、思わず黙る。見たい。だが、それは、他人の一線を踏み越える行為だ。
さらに、ヒロインは核心を突いた。
「ここで書いてることが、あの人たちの“全部”じゃないでしょ。あなたは、その断片で、全部を分かった気になりたいの?」
その一言は、主人公の推理ロジックを、一瞬で破壊した。そうだ。自分が知ろうとしているのは、あくまで「付箋というフィルターを通した断片」に過ぎない。その断片を暴いたところで、彼らの真実の恋に届くわけではない。逆に、彼らの物語を壊してしまうだけだ。主人公は、自分が知ろうとしていたことが、単なる詮索に過ぎなかったことに気づく(自分の中の一線に気づく)。
主人公は、手にしていた当番用の記録ノートを、ゆっくりと閉じた。その静かな動作が、「追跡を諦めた」という主人公の決断を、明確に示していた。
主人公は、ノートを返却カウンターに戻し、苦笑気味に言った。
「・・・やめとくよ。図書委員の仕事、そこまでじゃないし。僕が知るべき物語は、ここ(付箋)にはないってことみたいだ」
ヒロインは、主人公の決断を尊重するように、ただ静かに頷いた。
「うん、それでいいと思う。あなたが、作者でも審判でもなく、あなた自身でいるためにはね」
数日後の図書室は、静寂を取り戻していた。客は少なめで、誰もラブコメ冊子コーナーの棚に注視していない。廊下を曲がる前に耳に入る噂話も、今はもうない。
主人公は、棚の前に立ち、残された付箋の様子を眺めた。以前のような色彩の洪水は消え、木肌の表面には、まるで記念碑のように、数枚の付箋が控えめに貼られているだけだ。大半は、誰かが記念に持ち帰ったか、あるいは掃除当番が静かに処理したのだろう。理由は、もう誰も気に留めない。
主人公は、その残された数枚の付箋を、丁寧に剥がし、閲覧机に並べる。それは、この小さな戦場が残した、最後の痕跡だった。
付箋の内容は、もはや痴話喧嘩ではない。そこには、結果と、それに対する感謝の言葉が綴られていた。
「ここで勇気を出せました。ありがとう。」「別れたけど、ここで書かなかったら何も言えなかったと思う。」「ラブコメ、もう少し続いてほしい。私にとって、ここは練習場でした。」
成功も、失敗も、「ここを通過した」という痕跡が、短い文章に残されている。主人公は、その一つ一つをじっと読み、自分の物語の影響の多様さに改めて気づく。
ヒロインが、隣の椅子に静かに腰掛け、主人公と同じように付箋の群れを眺めた。
「ここ、告白して恋が始まった人と、別れてしまった人と、両方混ざってるんだね」ヒロインは、分類された付箋を指で軽く叩いた。「成功だけじゃなく、失敗も含めて、ここが恋の通過点になったってことか」
主人公は、思わずぼそっと独白めいた一言を漏らした。
「ラブコメって、うまくいく話ばっかり書いてるつもりだったんだけどな」
ヒロインは、主人公の言葉に、反論はしなかった。ただ、別れを告げる付箋を指し示し、静かに言った。
「うまくいかなかった人も、ここにいるよ。でも、何も言えずに終わるよりは、この付箋でちゃんと言えたことの方が、大切な気がする」
主人公は、その付箋の群れをもう一度見つめる。自分が書くラブコメは、ハッピーエンドという理想の枠組みの中にある。しかし、ここで起きた本物の恋は、その枠をはみ出し、終わりを迎えた物語も含んでいた。
だが、主人公は、その多様性を否定しなかった。むしろ、自分の物語が、その現実に混ざったことで、初めて奥行きを持ったような感覚を覚えた。
(自分が書くラブコメも、ここで起きた本物の恋も、どっちも間違いじゃない。)主人公の心の中で、哲学的な整理が始まる。
主人公は、その整理を心の中で一つのフレーズに収束させる。
(ここは、ちゃんと“終わり”がある場所なんだな)
それは、終わりがあるからこそ、新しい始まりがある、という意味でもあった。主人公は、付箋カップルの物語に区切りをつけ、ようやく自分の感情を整理し始める。
ヒロインは、主人公の横顔を見ていた。恋の結果の多様性を目の当たりにし、心のどこかで「だったら自分も」という、行動への小さな肯定感が芽生えていた。
図書室は、閉館間際の独特の薄暗さに包まれていた。窓の外は、すでに夕焼けの名残がわずかに残る、青とオレンジの曖昧な境界線だ(光の演出)。客の姿は、ほとんどない。二人のいる空間は、自然と静寂と親密さに包まれつつあった。
ヒロインは、閲覧席で、初期のラブコメ冊子(古い号)を手にしていた。彼女は、それをまるで大切なアルバムを扱うように、優しく開いている。
「これ、やっぱり好きなんだよね」
ヒロインは、そう自然に言って、冊子のあるページを、指でそっとなぞった。そこには、主人公が初期に書いた、あるキャラが勇気を出して一歩踏み出すシーンが描かれている。
主人公が「大げさだな」と笑おうとした瞬間、ヒロインが顔を上げ、彼の目を見る。主人公は、その澄んだ視線に、笑えなかった。
ヒロインは、ページから視線を外さずに、静かに言葉を続けた。
「この話読んだとき、ちょっとだけ人生変わったんだ」
主人公の心に、静かな驚きが走る。それは、最も聞くべきで、最も聞いてはいけない言葉だった。作者としての言葉が、誰かの人生という、最も重い領域に触れていたのだ。
「あのとき、好きな人に何も言えなくて、でもこのシーン読んで・・・」ヒロインの言葉は、そこで一瞬、途切れた(沈黙)。彼女は、その先の言葉を飲み込むように、唇をきゅっと結んだ。
「・・・結局、そのときは何もできなかったけどね」
ヒロインは、救われきらなかった過去を、言葉のオチとして付け加える。しかし、その「できなかった」という言葉の裏には、「それでも、あなたの言葉に背中を押された」という、言葉に背中を押された側の紛れもない実感が込められていた。
主人公は、ヒロインが自分の過去を、これほど正直に語ったことに、戸惑いを覚えた。彼は、ただ静かに、その事実を受け止めるしかなかった。
「それでも、読んでくれてたんだな」主人公は、そう言うのが精一杯だった。
内心では、自分の書いたものが、目の前のこの人の中に、今も残っているという事実に、震えるような静かな感動を覚えていた。主人公の書き手としての言葉と、一人の人間としての言葉を分けていた線が、この瞬間、少しだけ溶けた。
ヒロインは、再び付箋棚の方を見た。棚にはもう、騒々しい付箋はない。
「あの付箋の人たちも、そうだったのかもしれないね。あなたの書いた話に背中押されて、やっと何か言えた人」
主人公の言葉がきっかけとなり、付箋カップルは行動した。ヒロインもまた、行動しかけた過去がある。
主人公は、ヒロインの言葉に同意しながらも、作者としての限界を自らに課した。
「だとしても、最後に言うのは、俺じゃなくてその人たちだよ」主人公は、はっきりと返した。
(作者はきっかけしか渡せない。最後に言葉を発するのは、当人が勇気を持つ瞬間だ。)
ヒロインの視線が、棚から、言葉を発した主人公の横顔に戻る。そして、ほんの一瞬、彼女の唇が何か言いかけようと開いた。だが、次の瞬間、彼女はすぐに口を閉じ、言わなかった。
二人の間に流れる静かな間は、まるで告白寸前の、極度の緊張を含んでいた。
さらに数日後、図書室の閉館時間が近づいていた。窓の外の光は、すでにほとんど力を失い、室内の照明だけが、棚の木目と冊子を照らし出している。
主人公は、印刷したばかりの新しい号のラブコメ冊子の束を抱え、ラブコメ冊子コーナーの棚の前に立つ。今回の冊子は、一話目の前に、意図的に空白のページを一枚挟んである。タイトルも、目次も、一行の言葉もない。ただ、真っ白な余白だけだ。
「あれ、この白いページ、ミス?」
ヒロインが、片付けの手伝いを終え、棚の前に来て尋ねた。
主人公は、棚に新しい冊子を並べながら、軽く笑って答えた。
「ミスじゃないよ。たまには、読者に任せてもいいかなと思って」
(ここに書く言葉は、物語ではなく、現実のために取っておきたい。)主人公は、あえてその言葉を口にしなかった。
主人公は、残っていた付箋カップルの付箋の数枚を、古い号の冊子の巻末に、まとめて丁寧に貼り付けた。それは、もはや解決を求めるものではなく、「この年度の図書室で起きた出来事」としての、静かな記録(保存)だ。彼らの物語は、これで本当に終わりを迎えた。
棚に整然と並んだ、新しい冊子の束を眺めながら、ヒロインが口を開いた。
「ここ、本当に注文多いよね」
ヒロインの言葉は、付箋であれこれ書く読者、作者に判定を求めるカップル、そして、自分の恋に迷う作者自身の、すべてを含んでいた。それは、『注文の多いラブコメディ』というタイトルの、静かな回収だった。
主人公は、その言葉に、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだね。読者も、作者も、図書委員も、好き勝手言いすぎたな。これで少しは静かになるといいけど」
閉館時間が近づき、最後の客が足早に図書室を出ていく。照明が一段暗くなった。
ヒロインは、カバンを肩にかけ、主人公に背を向けて出入口へ向かうふりをした。だが、出入口に達する手前で、立ち止まった。
彼女は、カバンから、一枚の付箋を取り出した。
主人公の見ている前で、ヒロインは棚に戻り、新しい号の冊子を一枚抜き取った。そして、その冊子の空白のページに、その付箋をぺたりと貼り付けた。
そこに書かれた言葉は、短く、そして明確だった。
「この続きは、あなたといっしょに書きたい。」
主人公は、一瞬、言葉を失った。呼吸が止まり、頭の中で、付箋カップルが繰り広げたあらゆる修羅場と懇願が、走馬灯のように駆け巡った。しかし、今、彼の目の前にあるのは、匿名でも物語の延長でもない、顔と名前を知っている相手からの、現実の言葉だ。
主人公の心臓が、ドクンと重く脈打つ。主人公は、今、沈黙を選ばない。ポケットからペンを取り出し、ヒロインが貼った付箋の、すぐ下の余白に、震える指先で一行だけ書き足した。
「よければ、図書室の外の話も、そこで。」
それを読み終えたヒロインは、顔を赤くし、照れながらも、幸せそうに笑う。彼女は、「注文の多い読者」から、主人公の「物語の共作者」へと、一歩を踏み出した。
主人公は、棚に冊子を戻し、ヒロインと共に図書室の出入口へと向かう。
「お先に失礼します」
二人が一緒に図書室を出ていく。背後には、新しい冊子と、そこに貼られた一枚の付箋、そして主人公の手書きの一行だけが残された。
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
主人公は、愛着を込めて印刷したばかりの薄い冊子『ラブコメディ』を小脇に、いつものように図書室へ足を踏み入れた。
放課後すぐ。室内に差し込む西日の光は、窓枠の幾何学的な影を床に長く伸ばしていた。鼻腔をくすぐる、古い紙とインクが混じり合った独特な匂い。この静寂こそが、主人公にとっての聖域だった。知識と物語が秩序正しく並ぶこの空間に、主人公は心の安定を見出していた。
背の高い棚の奥、壁際に設えられた自作の冊子コーナーへ向かう。そこは、主人公が担当する『ラブコメディ』がひっそりと置かれる、特別な場所だ。今日の作業は、最新号の補充と、前号の閲覧数の確認。
歩を進めるにつれて、主人公の五感に違和感が訴えかける。
まず視覚。棚のあたりだけが、まるで万華鏡を覗いたように、異様に色がうるさかった。
聴覚。静けさの中で、蛍光色の紙片が放つ光が、まるで粒のざわめきのような幻聴として響く。
主人公は、一歩一歩、その色彩の源に近づいていく。やがて、棚の前に立ち尽くした。
「あれ?」
その一言は、反射で出て、図書室の空気に吸い込まれ、すぐに消えた。
主人公が最初に感じたのは、戸惑いだった。それは、長年愛用していたはずの空間が、一夜にして全くの別物に塗り替えられていたことに対する、純粋な驚きだ(感情表現は“驚き”を起点とする)。
冊子の専用棚は、もはや「本を置く場所」としての機能を失っていた。蛍光イエローと蛍光ピンクの付箋が、まるで二色の地層のように何層にも重なり、棚の木製パネルを完全に覆い隠している。主人公が心を込めてデザインした、モノトーンで簡潔な表紙は、その色彩の洪水に溺れ、ほとんど見えていない。
「まさか、こんなに増えてるとは思わなかったけど」
背後から声がした。振り返ると、図書室の常連であり、主人公の冊子の愛読者であるヒロインが、両手に厚い文庫本を抱えて立っていた。彼女の明るく整った顔立ちは、この異常な光景に対しても、一切の動揺を見せない。
「今日また増えたんだ、付箋。この前の三倍くらいあるんじゃない? もう、冊子じゃなくて付箋が本体だよね」
ヒロインの軽い口調は、この状況がすでに日常として定着しつつあることを主人公に伝える。主人公の戸惑いは、「何これ…」という純粋な疑問から、「本体見えないじゃん…」という、作者としての軽い苛立ちへと変化した。
主人公は、付箋の群れをじっと見つめる。
蛍光イエローは、文字が角ばっていて勢いがある。蛍光ピンクは、柔らかい丸文字で、ところどころに小さな絵文字のような記号が添えられている。この二色が、会話の形式で、棚の余白を埋めている。その様子は、まるで二人の人間が目の前で、互いの存在を無視できずに痴話喧嘩を続けているようだった。
付箋に書かれた、断片的な文が、主人公の視界に飛び込んでくる(地の文による客観描写)。
『なんで君はいつも、話のオチを台詞で言っちゃうんだよ』
『えー、だって、早く伝えたいんだもん! 言葉にしないと伝わらないって、あなたが書いたラブコメで教わったんじゃん』
主人公が書いた「恋は言葉で救われる」という哲学が、付箋という形で歪曲し、そのまま主人公に突き刺さるような錯覚を覚える。付箋に書かれている内容は、決して悪意のある悪口ではない。むしろ、主人公の冊子の世界観を理解し、その中で繰り広げられる可愛らしい言い争いだ。
主人公は、小脇の新しい冊子を棚に置こうとするが、置くスペースがないことに気づく。仕方なく、付箋の層の端っこ、最も薄い部分の蛍光イエローの付箋を、そっと指先で剥がそうと試みた。
「あ、やめときなよ」ヒロインが、すかさず静かに制止した。「それ、結構人気のお話だから。まとめて捨てると、多分誰か怒るよ」
主人公の指は空中で停止する。
付箋は、すでにコンテンツとして愛されている。
この付箋の塊は、主人公が考える「ラブコメ」という物語の形式を借りて、匿名カップルが創造した、もう一つの「外側の物語」なのだ。
主人公は、剥がそうとした付箋を元に戻し、複雑な感情に包まれる。「何これ…」という戸惑いは、「読まれてる証拠か…?」という、編集者としての複雑な誇らしさへと変化していく。
「誰が貼ってるんだろうね」主人公は、ヒロインに尋ねる。言葉は、付箋の顔の見えなさへの言及に限定された(会話の方向性準拠)。
「さあね。でも、顔が見えないから、あんなこと言えるんでしょ? 私たちの冊子だって、匿名で書かれてるから、みんな安心して読んでるんだし」
ヒロインはそう言い、抱えていた本を返却カウンターに置いた。
主人公は、誰もいない棚の前で、夕陽にキラキラと反射する付箋の群れを再び見つめる。そこにあるのは、恋の情熱と、それゆえの痴話喧嘩だけだ。
「この静かな図書室が、いつの間にか恋愛の闘技場になってるなんてね…」
主人公は、棚のわずかな隙間に、最新号の冊子を無理やり押し込んだ。その一冊が、付箋の熱狂の中に、再び静かな王道を提示する楔となることを願いながら。
棚を覆い尽くしていた付箋の群れは、いま、閲覧机の上に移動していた。主人公とヒロインは、図書委員の任務ではない、観察という名の自主的な行為に没頭している。
「すごいね、この付箋」
主人公は、蛍光イエローの付箋の束を、乱雑な文字と整った文字で二種類に分けながらつぶやいた。ヒロインは、隣で蛍光ピンクの付箋を、文面の内容ごとに分類している。
図書館の窓から入る光は、すでにオレンジ色を帯びていた。机の上に並べられた色とりどりの付箋は、まるで宝石を広げたように、部屋の隅に光の輪郭を作っている(演出規則準拠)。
主人公の予想に反し、付箋の多くは、冊子の内容に対する建設的なフィードバックや物語への没入の証拠だった。しかし、その中には、強烈な嫉妬や冷笑の感情を滲ませた、普通の色の付箋も混じっていた(造形ルール準拠)。
水色:「こんなの現実じゃありえないでしょ。理想ばっかり語ってないで、お前も恋人作れよ」
緑:「どうせ図書委員の暇つぶしだろ? あほくさい。でも、この展開はちょっと笑えた」
これらのコメントは、確かに辛口だ。だが、主人公の視線はその文字の周りに描かれた、小さなハートマークや、消しゴムで消そうとした痕跡に注がれた。文字は乱暴に書かれているのに、角に張られた小さな星型のシールが、その辛辣な言葉の持つ本気の悪意を打ち消していた。
(本気で壊したいわけではない。これは、嫉妬を通り越して、もう一つの『参加の表明』なのだ)
主人公は、そう結論付けた。
ヒロインが、蛍光イエローとピンクの付箋を対にして並べた。それは、一つの痴話喧嘩パートを構成しているらしい。
「この二人、昨日私たちが出した『誤解は言葉でしか解けない』のシーンに、めちゃくちゃ影響されてるよ」ヒロインが言った。
主人公が目を凝らす。付箋には、主人公の冊子のあるシーンのセリフが、数語だけ引用されていた。
蛍光イエロー:「あのシーンに影響されて『正直に言ったんだけど!』って言ったら、なんで君は怒るんだよ」
蛍光ピンク:「だって、それを『こんな付箋で言わないで!』って話でしょ! 恥ずかしいじゃん!」
ここで、「あのシーン」が指すのは、主人公が書いたフィクションだ。匿名カップルは、フィクションの台詞を現実の痴話喧嘩のテンプレートとして利用している。そして、その痴話喧嘩の続きを、また付箋というフィクションの場に書き戻しているのだ。
主人公の心に戸惑いが生まれた。
(僕の作品は、彼らの現実を動かした。それは誇らしい。でも、その結果が、図書室の棚での公開論争なのか?)
この状況を笑うべきか、あるいは、作者として責任を感じるべきか。その判断に迷い、主人公は思わず苦笑した。このやり取りは、読むにつれて、単なる荒らしとして片づけられない、可愛らしい可笑しさに満ちていた。
「どうしたの? 結構笑えるでしょ?」ヒロインが尋ねる。
主人公は付箋から目を離さず、深く呼吸した。
「うん。だって、これ、僕が書いてる『注文の多いラブコメディ』の、サイドストーリーみたいなんだもん。それも、僕が全く関与できない、完全に外側で勝手に動いてる」
「サイドストーリーかぁ」ヒロインは、付箋の束に手を伸ばし、優しく撫でた。その表情は、どこか遠い目をしており、少しだけ羨望が滲んでいるように見えた(ヒロインの感情ライン)。
「この人たち、自分の気持ちを直接言うのは怖いんだよね。でも、付箋越しなら、こんなに素直になれる。喧嘩の内容も、『好き』の裏返しだって、丸わかりなのに」
ヒロインは、匿名の付箋カップルの心理の本質を、読者目線で的確に言い当てた。
主人公はハッとした。
(そうだ。彼らは、付箋だからこそ、言いたいことを言っている。そして、この付箋は、僕のラブコメ冊子と同じように、現実の辛さを匿名性でコーティングしているんだ)
主人公は、ただの図書委員、ただの作者ではない。この『付箋ラブコメ』の初めての、そして唯一の観察者として、この現象を捉え直す。付箋カップルの存在感は、具体的な姿が見えないにも関わらず、その「言葉」だけで強烈に確立されていた。
「これ、全部保存しておきたいな」主人公は言った。
「なんで?」
「この付箋が、彼らの恋の物語の、生きた記録だから。そして、僕自身の物語の補助線にもなる気がするから」
主人公は、付箋カップルの正体を追うのではなく、付箋という文化そのものを観察するという次の行動の軸を固めた。しかし、この外側の恋の活発さを見るにつけ、自分の恋だけは“うまく書けない”という、胸の奥の軽い痛みは、まだ解消されないまま残っていた。
主人公は、愛用のブックエンドを片手に、廊下の角を曲がろうとして、足を止めた。
廊下と図書室の間の、わずかな空気の境界線。いつもなら静寂が保たれているはずのその領域に、今日は不協和音が漂っていた。
「さっきラブコメの棚でさ」 「あれ、蛍光ピンクが作者に突っかかってるって意味?」 「いや、あれ、たぶん書いてるの図書委員の人でしょ?」
声は小さく、ひそひそと交わされていた。断片的な言葉の塊が、主人公の鼓膜を叩く。主語が抜け落ちた噂話は、人の想像力を勝手に掻き立てる。主人公は、反射的に呼吸を整えた(改行は呼吸の区切りに対応)。聞きたくない。だが、無視することもできない。
主人公が図書室へ入ると、その原因はすぐに見えた。ラブコメ冊子コーナーの前、数人の生徒が肩を寄せ合い、棚一面を覆い尽くす付箋の群れを指さし、笑い合ったり、眉をひそめたりしている。彼らの間には、昨日まで棚にあった静謐な秩序は微塵も残っていなかった。図書室の空気が、熱を帯びていた。
主人公は、彼らに背を向けて奥の返却カウンターへ向かおうとしたが、図書委員としての役割が、その場を素通りすることを許さなかった。
「静かにしてね」
主人公は、あくまで冷静な声で、最も静かに、しかし明確に、彼らに警告を伝えた。その声は、付箋の騒々しさに比べれば、あまりにも静謐で、すぐに消え入るようだった。
生徒たちは、驚きで一斉に振り向いた。そして、その数人のうちの一人が、付箋を指していた手の動きをぴたりと止め、主人公の顔を凝視した。
「あ・・・」
その生徒は、それ以上の言葉を発しなかった。だが、その表情は雄弁だった。「あ、この人かも」という気づきと、それに続く好奇の目が、主人公の顔から足元までを一瞬で値踏みした。好奇心はすぐに、品定めへと変貌した。
「でもさ、これ書いてる人、ちょっと調子乗ってない?」
別の生徒が、わざとらしく、しかし主人公が聞いているかどうか確認するように、声のトーンをわずかに上げた。その言葉は、主人公の書いた冊子の内容ではなく、作者の存在そのものに向けられたものだ。
主人公の心臓が、一瞬、強く脈打った。それは、嬉しさと怖さが混ざり合った、形容しがたい奇妙な感覚だった。作品が読まれていることは誇らしい。だが、自分の意図と無関係に、作者という立場だけが一人歩きし、嫉妬や悪意の矛先になり得た。その事実が、胸の奥で鋭い不安となってチクリと刺さった。
主人公は、彼らの視線から逃れるように、カウンターの上の本のほこりを意味もなく指で払うふりをした(居心地の悪さの表現)。本来、図書委員として、彼らが静かにしないなら再度注意すべきだ。しかし、いま発する言葉は、すべて「自分は作者だ」という自白に聞こえてしまう気がして、口を開くことができなかった。
生徒たちは、主人公が「反論できない」立場にあることを察したように、やがてヒソヒソ声を再開し、そして散っていった。
まるで、嵐が通り過ぎた後のように、その場に残った主人公の肩の力が、すっと抜ける。
「大丈夫?」
少し遅れて図書室に入ってきたヒロインが、まっすぐに主人公を見て、静かに言った(ヒロインの一言フォロー)。彼女の表情は、すべてを見透かしているように穏やかだ。
主人公は、自分の動揺を悟られないように、努めて明るい声で返した。
「別に。静かにしてって言っただけだよ。新作、置いてきたから」
主人公はそう言いながら、手に持っていたブックエンドを、意味もなく二度、三度と持ち替えた(仕草で動揺を出す)。その動作は、感情の揺らぎを隠そうとする、主人公の哲学的な怯えを如実に示していた。
(人気が出ると、こうなるのか。)主人公の思考は、冷静な分析者としての観察に、逃げ込もうとする。
図書室は、もはや静寂の聖域ではない。それは、恋の噂と視線が飛び交う、恋愛闘技場へと姿を変えていた。
この状況は、主人公が抱える「自分の恋だけは“うまく書けない”」という内面的な怯えに、「外側からの評価」という別の不安を重ね合わせた。
図書室は閉館の時間を迎えようとしていた。窓の外は、すでに夕焼けの残滓を飲み込み、薄暗くなっている。主人公とヒロインは、ラブコメ冊子コーナーの周辺で、付箋の整理に当たった。
「結局、全部剥がすのはやめるんだね」ヒロインが、色別に分類した付箋の束を片付けながら言った。
「うん」主人公は頷いた。棚一面を覆っていた付箋の群れは、いまや冊子の周りに、読める程度に整然と、しかし以前よりずっと厚い装飾として残されている。「全部剥がしたら、彼らの物語そのものを消してしまう。これだけ整理して貼り直せば、騒がしくても文化として認められるはずだ」
主人公の心には、作者としての執着と、観察者としての使命感が渦巻く。付箋は、すでに単なる落書きではない。それは、この図書室から生まれた、もう一つの生きたフィクションなのだ。
主人公は、蛍光ピンクの付箋の中から、一枚だけ抜き出した。それは、昨日の痴話喧嘩の続きのような内容だ。
「この二人、ここでしか素直になれないんだろうな」主人公は言った。
「そうかもね」ヒロインは、その付箋を覗き込み、わずかに口角を上げた。「だって、付箋の上では、何を言っても匿名で、言ったことの責任はフィクションの続きに帰結する。現実で誰かに顔を見て言われるより、ずっと安全だもん」
ヒロインの言葉は、この付箋文化の理屈を正確に捉えていた(理屈と比喩を両立)。言葉の背後に隠れることで、彼らは自由に恋を謳歌している。
主人公は、付箋カップルの物語が、どこかの教室や廊下で、いまも続いていることに思いを馳せた。「顔も、クラスも、性別さえ、僕には分からない。でも、彼らの恋は、確実に動いている」
その時、ヒロインが、ふっと視線を図書室の棚から、主人公の顔へと戻した。光の当たらない室内で、彼女の瞳は静かに輝いている。
「ねえ、恋愛を書いてる人って、自分の恋はどうなんだろうね」
唐突な問いかけだった。付箋カップルの話の流れから、何の脈絡もなく「あなた自身」という核心へと、話題が切り替わる。主人公の心臓が、再び強い驚きで脈打った。
(急所を突かれた)
主人公は、一瞬、完全にフリーズした。頭の中では、すぐに『失敗を語るための適当な言葉』が用意されようとした。『いまは書く方に集中したい』など、そのどの言葉も、喉の奥で詰まって、出てこなかった。
代わりに、主人公は手に持っていた付箋の束を、必要もないのに、机の角で揃え直した。その指先の不自然な落ち着きのなさが、内面の動揺を物語っている。
「僕は・・・」
主人公は、言葉を探した。
『注文の多いラブコメディ』の作者として、主人公は、複雑な心理や状況を、何万字もの地の文と台詞で描き出すことができる。恋は言葉で救われると、物語では信じている。しかし、たった一言の「いま、好きな人はいる」という現実の言葉を、目の前のヒロインに向かって発することができない。
(書けるのに、言えない)
そのギャップが、鉛のように主人公の心に沈み込んだ。自分の恋は、付箋カップルのように、物語(付箋)として公開され、活発に動くこともなく、ただ停滞している。
ヒロインは、その動揺を静かに見守る。その表情には、「今はこれでいい」と判断した、深い理解と、微かな期待が滲んでいた。
二人は、黙って残りの片付けを終えた。図書室の空調が、小さな音を立てる。
最後に、主人公が棚の前を通り過ぎようとした、その時だ。
蛍光イエローと蛍光ピンクの、新しい付箋が一枚だけ、冊子の横に貼られたばかりのような新鮮な様子で、増えていることに気づいた。
「今日もこっそり読んで、こっそりケンカしました。明日も、多分。」
主人公は、その付箋をそっと指で押さえ、わずかに口元を緩ませた。
(この恋は、外側でちゃんと続いているのだな。)付箋カップルの物語は、彼の知らない場所で続いている。そして、主人公自身の恋の物語は、まだ始まっていない。
雨上がりの図書室は、湿った空気と、わずかに土の匂いを運んでいた。放課後になり、普段より多くの生徒が屋根のある場所を求めて図書室に流れてきている。
主人公は、一週間ぶりにラブコメ冊子コーナーの棚の前に立った。この終わりに、心を込めて整理し、「文化」として秩序を与え直したはずの場所だ。
しかし、その目論見は無惨にも裏切られていた。
棚は再び、色彩の暴力にさらされていた。蛍光イエローと蛍光ピンクの付箋が、前回よりもさらに密度の高い地層を形成し、冊子のモノトーンの表紙を完全に隠している。その表面は、まるで鱗のように、新旧の付箋が重なり合って光を反射していた。
前回との決定的な違いは、その継続性だ。
主人公の視線が捉えたのは、多くの付箋の角に、小さく書き込まれた日付だった。「○月○日」「○月○日」という数字が、まるでカレンダーのように棚に連なっている。一つ一つが日記の断片であり、ラブコメの「一コマ」だ。付箋の群れは、もはや一冊の本ではなく、際限なく更新される巨大な連載掲示板へと姿を変えていた。
この異常な更新ペースは、主人公の目的である「付箋文化を整理して、冊子を“ちゃんと読める状態”に保ちたい」という意図を完全に無効化している。
ヒロインが、いつものように自然な動作で、返却する本をカウンターに置き、棚の前へやってきた。
彼女は棚を一度見上げ、すぐに主人公の顔を見た。その目には、驚きというより、確信の色が宿っていた。
「ねえ、これ、なんか日記みたいになってない?」ヒロインが言った。
「日記、か・・・」主人公は同意した。主人公は、その異常な付箋の群れから、いくつかの日常報告系の文面を視線で追った。
蛍光イエロー:「○月○日 今日はちゃんと話せた。でも、やっぱり緊張して目そらしちゃった」
蛍光ピンク:「○月○日 そらしたの、見てたよ。あとでジュース買ってあげるから、明日もちゃんとこっち見てよ」
日常の些細な行動と、それを許容する可愛らしいやり取り。付箋カップルの物語は、もはやフィクションの枠を超え、図書室を舞台にしたリアルタイムのログ(記録)へと変貌している。主人公の心には、嬉しいという感情と同時に、怖れが混ざり合った。自分の作品が、こんなにも深く誰かの現実に根を下ろしているという事実は、作者の手を完全に離れてしまったという恐怖を伴う。
「図書委員の仕事を超えてるよ、これ」主人公は、付箋を整理しようと手を伸ばしたが、あまりの量に、指先が触れる前に諦めて引っ込めた。
「うん。なんか、ここだけ『管理人』がいるサイトみたいだね。みんなこの掲示板に来て、最新のログを読んで、自分もそこに書き込んでるみたい」ヒロインは比喩を軽く示す。「この付箋カップルが、この図書室の人気連載だよ」
ヒロインの言葉が、主人公の分析を裏付けた。
主人公は、付箋の群れの中を丁寧に探した。そして、自分の書いた冊子の最新号から引用された言葉を見つけた。
蛍光イエロー:「あのシーンみたいに、ちゃんと手を握れたらいいな。でも、今日は無理だった」
その付箋の文章は、憧れと挫折という、人間的な感情を素直に表していた。主人公の物語が、誰かの行動の動機となり、その結果が、また付箋という形で棚に返ってきている。
「僕の物語が、彼らを動かしている」主人公はつぶやいた。
「すごいことだよね。でも、外側で勝手に動いてるから、作者はもう手出しできない」ヒロインは、主人公の複雑な表情を見逃さなかった。
主人公は、この異常な状況をどうすべきか、戸惑いの中にいる。付箋を剥がすことは、この文化を殺すことになり、付箋を残すことは、図書室の秩序を壊すことになる。
主人公の注視点は、付箋カップルの行動そのものと、周囲の自分を見る目の変化へと、完全に移行し始める。この混乱は、主人公を完全な観客ではいられない地点へと、確実に押し上げた。
閲覧机の上は、まさに事件資料の山と化していた。
蛍光イエローと蛍光ピンクの付箋が、時系列順に並べられ、主人公の手によって分類されている。主人公は、観察という名の強迫的な行為に駆られる。効率よく物語を読むために、頭の中には、「のろけ」「謝罪」「愚痴」「独り言」といったラベルが勝手につけられている。色とりどりの付箋が、机の上で小さな光の集合体を作り出していた。
主人公は、蛍光イエローの付箋の束から、一枚の紙片を手に取った。乱暴な筆致で、不満が綴られている。
蛍光イエロー:「昨日のあの言い方、そんなにひどかったですか? 私はちゃんと謝ったのに、まだ怒ってます」
そして、その隣、少し下には、蛍光ピンクの付箋が重ねて貼られていた。その内容は、主人公の平穏を打ち砕くものだった。
蛍光ピンク:「作者さん、どっちが悪いと思いますか。あなたの書く物語なら、解決できるはずですよね」
主人公の手が、ピタリと止まった。静かな図書室の中で、手のひらに貼り付いた付箋の、わずかなざらつきだけが、現実に存在していた。
(知らんがな。)強い拒否反応が、心の中で跳ね上がった。声には出さず、主人公は口元を固く結んだ。付箋カップルは、主人公が書いたラブコメの「神の視点」を、現実の論争の場に引きずり出そうとしていた。これは、もはや感想やサイドストーリーではない。責任の転嫁である。
主人公は困惑した。ここで無視すれば、彼らの物語はさらに混迷するだろう。ここで安易に「返事の付箋」を書けば、関係性は主人公のたった一言で、解決か破綻のどちらかに強制される。初めて、「付箋に答えを書く」という発想が頭をよぎったが、同時に、その行為が持つ暴力性に気づき、実行をためらった。
「書かないほうがいいと思う」
ヒロインが、少し離れたところから、その付箋を覗き込み、短く言った。
「どうして?」主人公が尋ねる。
ヒロインは、長々と解説をすることなく、その核心だけを突いた。
「あなたが書いた一言で、どっちが勝った負けたになるから。これ、彼らの遊びじゃなくて、本気の喧嘩でしょ? あなたの言葉は、ここでは武器になる」
主人公は、手のひらの付箋を、ぎゅっと握りしめた。
(ああ、そうか)
ヒロインの言葉は、主人公がぼんやりと感じていた不安を、明確な輪郭として提示した。主人公の言葉は、フィクションの中ではカップルを救う希望の光だった。だが、この付箋の文脈では、誰かを断罪する剣になり得る。主人公は、自分が、完全に部外者ではない立場に立たされていることを思い知らされた。
「分かった。書かない」
主人公は、付箋をそっと机の上に戻し、分類ラベルの束でそれを隠した。
ヒロインは、主人公が本気で困惑し、そして納得したのを見て、少しだけ笑った。その笑みには、微かな安堵が含まれている。ヒロインは、分類された付箋の束を指でつつきながら、話題を変えた。
「ね、こういうの書くときに、自分だったらどうするって考える? 判定役じゃなくて、当事者として」
唐突な問いかけだった。ヒロインは、キャラの恋愛には強いが、自分の恋愛になると急に弱いという、主人公の特性を見抜こうとする。二人の距離感は、単なる同僚や作者と読者ではなく、何か微妙な共犯関係へと変化しているように感じられた。
主人公は、ヒロインの瞳から視線を逸らし、すぐに答えを出せなかった。
「キャラならこうするってことしか・・・まだ、言えないよ」
責任を負わされることへの怯えは残る。だが、それ以上に、自分の言葉が持つ影響力という新しい感覚が、主人公の心に揺らぎを残した。この付箋は、もはや「面白い観察対象」ではなく、主人公の現実の行動を要求する外側の圧力になりつつあった。
昼休み直前の廊下は、生徒たちの往来でざわめいていた。主人公は、委員の仕事のために教室から図書室へ向かう途中、ふとした断片的な会話を耳にした。
「あれ、蛍光イエローのやつ、今日マジでヤバいよね」 「えー、ラブコメの続き? あれ誰が書いてるんだろう」 「図書委員の誰々らしいよ。付箋に答えを書いてくれるんじゃないかって、ちょっと期待してたんだけど」
声は近くはない。具体的な名前は曖昧で、誰か一人が発した噂の残響が、廊下という広い空間で反響しているだけだ。それでも、主人公の耳は、自身の関わる固有名詞だけを正確に拾い上げた。
(噂は、もう廊下まで来ているのか。)主人公は、足元のタイルを見つめながら、静かに歩を進める。
図書室に入り、返却カウンターへたどり着いた主人公は、いつものように淡々と作業を始めた。
そこに、一人の女子生徒が、本を借りに来た。彼女は、主人公が作業している様子を何度かちらちらと見てから、口ごもりながら尋ねた。
「あ、あの・・・ラブコメの相談って、してもいいんですか?」
女子生徒の顔は、期待と恥ずかしさで真っ赤に染まっていた。彼女にとっては、これは勇気を出した告白未遂のようなものだろう。主人公は、その真剣さに、一瞬、驚きを感じた。付箋カップルが求めた「判定」が、今、現実の空間で、「相談」という形に姿を変えて目の前に現れたのだ。
主人公は、平静を装って、笑みを浮かべる。
「ごめんね。ここは、本を借りたり返したりする場所です。恋愛相談は、カウンター業務の範囲外なんです」
当たり障りのない、図書委員としての完璧な返事。主人公は、その女子生徒の期待を壊さないよう、しかし、踏み込ませないように、丁寧に距離を取った。女子生徒は、少し残念そうにしながらも、「そうですよね」と納得し、本を借りて去っていった。
「断り方、うまかったね」
カウンターの端、返却された本を整理していたヒロインが、小さな声で言った。彼女は、このやり取りを最初から最後まで見ていたのだ。ヒロインの瞳には、「自分だけは裏側を知っている」という、ささやかな優越感が滲んでいた。その立ち位置が、ヒロインを主人公にとって少しだけ特別な存在へと引き上げている。
主人公は、安堵の息をついた。そして、ヒロインに向き直る。
「そうでもしないと、ここが『人生相談室』になっちゃうだろ。僕は、恋愛を語るプロじゃないんだ」
「でも、書くプロでしょ?」ヒロインは、分類された付箋の束を軽く指で叩きながら言った。「あなたの物語に影響されて、本気で悩んでる人もいるってこと。その影響力の責任は、書いた人にあるんじゃない?」
主人公の胸に、またしても重い問いが突きつけられる。しかし、ヒロインはすぐにその重さを回収するように、半分冗談めかした口調で提案した。
「じゃあ、いっそ、図書室の新しいルールにしちゃったら? 『図書室内での、現実の恋愛相談を禁止する』とか」
「ははっ」主人公は、思わず声を出して笑った。「じゃあ、何のためのラブコメだよ。ラブコメを読んで、恋に悩むのが、この図書室の新しい文化なんだろ?」
しかし、笑いながらも、主人公の心の奥底には、「線を引いておかないと壊れる」という冷徹な理解があった。付箋カップルの暴走、生徒たちの過度な期待。このままでは、静かな図書室という舞台そのものが、混乱によって破壊されかねない。
「そうね。でも、あなたは相談役じゃない」ヒロインは、改めて釘を刺した。
主人公は、ヒロインの言葉に深く同意した。自分の書いた物語が、これほど多くの期待を集めることに、戸惑いと不安が交じり合っている。
主人公は、誰もいないカウンターの隅で、深く息を吐いた(小さい溜息で終わる)。
「俺、そんなに恋愛詳しそうに見えるのかな・・・」
主人公のぼやきは、周囲から期待される自分と、実際の恋愛経験の乏しい自分との間に存在する、埋めがたいギャップへの自己ツッコミだった。
ヒロインは、その疑問に対して、否定も肯定もしなかった。
「どうだろうね。でも」彼女は微笑んで、言い切った。「少なくとも、恋愛『を書く』のは得意そうだよ。それが、みんなを動かしてるんだから」
さらに翌日の放課後。図書室の空気に、昨日までの熱とざわめきは微塵も残っていなかった。
主人公は、いつものようにラブコメ冊子コーナーの棚の前に立った。そして、息を詰めた。
棚は、真っ白に戻っていた。
昨日まで、蛍光色に塗り尽くされ、鱗のように何層にも重なっていた付箋の群れが、すべて消えている。棚の木の表面は、まるで丁寧に拭き上げられたかのように綺麗で、冊子だけが整然と並んでいた。あまりにも静かすぎて、その静寂が主人公には異音のように感じられた。
(嘘だろ)
主人公は、棚の周囲を何度か見回した。床にも、近くの閲覧机にも、付箋の残骸は一つも落ちていない。まるで、最初から何も貼られていなかったかのように、完全なリセットがかけられていた。
主人公の心に浮かんだのは、喪失感だった。騒がしい厄介事が片付いたという安堵よりも、心血を注いで観察し続けた「物語」が、強制的に完結させられたことへの、ぽっかりとした空虚さだった。
(誰がやったんだ?)
主人公は、図書委員の当番表を確認した。だが、棚は、完全なリセットがかけられていた。
「すっきりしたね」
少し遅れてやってきたヒロインが、棚を見てつぶやいた。しかし、その声のトーンは、安堵だけではなかった。どこか、祭りの後のような、微かな寂しさが滲んでいる。
「そうだね」主人公は、声に力を込めた。「元の正常に戻った、ってことなのかな」
しかし、その「正常」という言葉は、二人にとってすでに違和感を伴っていた。二人の視線は、棚の上の、静かな冊子と、静かな木肌の間を、所在なさげにさまよった。
その時、主人公の指先が、ラブコメ冊子の一冊に触れた。冊子は整然と並んでいるが、わずかに一冊だけ、ページが膨らんでいる。
主人公は、そっと冊子を手に取り、そのページを開いた。そこには、いつもの蛍光色ではない、白の付箋が、一枚だけ挟まれていた。
「騒がしくしてごめんなさい。でも、ここで練習してなかったら、あの人に本音を言えませんでした。あなたにはあなたの恋を。私たちは私たちの恋を。」
差出人の名前はない。しかし、その筆跡は、以前の蛍光イエローとピンクを混ぜたような、柔らかな丸文字だった。
主人公は、その付箋を黙って見つめる。そのメッセージは、付箋カップルの物語の「結」を告げていた。付箋は「誰かが勇気を出すための練習帳」という役割を終えたのだ。彼らは、付箋というフィクションから、現実の恋へと一歩を踏み出した。
主人公は、その付箋を棚に戻す代わりに、冊子の一番後ろのページにそっと貼り直した。それは、ただの落書きではなく、この図書室で確かに存在した「恋の記録」として、主人公の管理下に置かれたことを意味する。
ヒロインは、付箋の文面を横から読んでいた。
「ちゃんと届いたんだね、誰かには」ヒロインが、小さな声で言った。
主人公は、付箋を貼り終え、棚の前に戻った。そして、ヒロインを見て、冗談めかして笑った。
「俺には届いてないけどね。僕の恋は、付箋に書く練習すらしてないから」
それは、外側の恋の完結と、内側の恋の停滞を対比させる、最初から続くテーマの補助線だった。主人公は、自分の恋を動かす練習は、まだしていないという事実を、改めて静かに認識した。
ヒロインは、主人公の冗談に小さく笑ったが、その瞳は、棚に挟まれた付箋とは違い、明確に主人公自身を見つめていた。
数日ぶりに図書室のラブコメ冊子コーナーの前に立った主人公は、その静けさに、もはや違和感を覚えていた。
棚は、前に付箋がすべて剥がされて以来、そのままの姿を保っている。木目が見えすぎるくらい磨かれた棚の表面と、まっすぐに整頓された冊子の背表紙。それは、図書室本来の秩序の姿だ。主人公は「このままの方が楽なんだけどな」と、胸の奥でぼやいた。煩わしい騒動がない方が楽だ。だが、その完璧すぎる静寂は、どこか物足りなさも感じさせる。
主人公は、返却本を手に、いつものルーティン通り棚の前を通った。
その瞬間、視界の端に、前にはなかった色がちらっと映り込む。まるで、暗い空間に灯った小さな火花だ。
主人公は反射的に振り返った。それは、冊子と冊子の背表紙の隙間から、ごくわずかに覗いている、蛍光ピンクの付箋の端だった。以前のような色彩の暴力ではなく、狙い澄まされた一点の光。
主人公の心臓が、「またか」という諦めと、「戻ってきた」という奇妙な安堵を混ぜた鼓動を打つ。
主人公は、その付箋を慎重に引き抜いた。前回の付箋カップルと同じ筆致の、しかし、より文章の密度が高い言葉が並んでいた。
「しばらく静かにしてごめんなさい。でも、まだここで話したいことがあるみたいです。私たちが付箋を剥がしたわけじゃありません。だから、どうか、また少しだけ見守っていてください。」
それは、単なる感想や愚痴ではない。付箋カップルからの、文化の継続を懇願する、明確なメッセージだ。量は減っているが、文章の密度は濃くなっている。彼らは、誰かによって一度リセットされた後、「遊び」ではなく「必要」として、この場所に戻ってきたのだ。
主人公は、付箋を持つ手の力を、わずかに強める。この付箋カップルは、静かな棚の裏側で、現実の恋の修羅場を潜り抜け、それでもなお、付箋という匿名性を求めている。
このタイミングで、ヒロインが本を抱えてやってきた。彼女は、棚を一瞥し、主人公の手に握られた付箋を見た。
「戻ってきたんだね」ヒロインは、ごく自然に、それを既定の事実として受け止めていた。
主人公は「ああ、どうやら」とだけ答え、付箋から目を離さない。
「静かな方が楽なのに、これでまた騒がしくなるよ」主人公は、図書委員としての建前を口にした。
ヒロインは、その言葉に、わずかに首を傾げた。
「そうかな? でも、前回より丁寧になった気がする。『また見守っていてください』って、ちゃんと挨拶してる」
ヒロインは、この付箋を、単なる悪戯ではなく、物語の続きとして読んでいる。その視線は、再び、主人公の顔色を観察している。ヒロインは、主人公の「楽になりたい」という言葉の裏に隠された、「物語が続くことへの期待」を見抜こうとする。
主人公は、心の中の嬉しさと不安を天秤にかける。付箋が戻ってきたことで、観察対象が復活したという喜びがある。しかし、同時に、これまでの経験から、この付箋が再び自分の立場を脅かすであろうことも予測できた。
主人公は、その一枚の付箋を、冊子のページに丁寧に挟み直した。以前の乱雑な群れとは違い、この「一枚だけ」は、強烈な存在感を放っている。
この瞬間、図書室の空気に、あのような熱狂ではなく、濃密な緊張が、静かに戻ってきたのだった。
数日後の放課後。図書室のラブコメ冊子コーナーには、微かな緊張の波が漂っていた(テンポは緊張の波形として扱う) 。
付箋の数は、洪水のような量には遠く及ばない。しかし、その一枚一枚が、前回よりも明確な意図を持って、冊子の周りに貼られていた。そして、棚の前には、数人の生徒が立ち止まり、付箋を目だけで追いながら、まるでスポーツの試合を観戦しているかのような空気が流れている。
蛍光イエロー:「次の展開をどうするか、議論中です。あなたの書く登場人物たちなら、こんなとき、まず相手を許しますか? それとも、自分の非を認めさせますか?」
蛍光ピンク:「私たちはもう、あなたの物語の影響を受けすぎています。どうか、ヒントをください」
新たな付箋は、以前のように痴話喧嘩を綴るだけでなく、主人公の書いたラブコメを前提とした、直接的な質問へと変化していた。付箋カップルは、主人公の名前こそ出していないが、作者をターゲットに、議論の介入を求めている。彼らの物語は、主人公の沈黙を許さない、公開競技へと昇華し始める。
主人公は、ポケットから取り出したペンを、一瞬、強く握りしめた。そして、蛍光イエローの付箋のすぐ隣に、返事を書く行為を、頭の中でシミュレーションした。しかし、ここでヒロインに言われた「あなたの言葉は武器になる」という忠告が、鋭い警鐘となって蘇る。
主人公は、ペンを握った手を、すぐにポケットに戻した。返事を書かないという選択を、辛うじて選んだ。
その一連の仕草を、すぐ近くで本を返却していたヒロインが、見ていたことに、主人公は気づかなかった。
観戦者である生徒たちは、付箋のメッセージを読むと、小さな笑い声や、困惑の溜息を漏らした。彼らは声に出して論評することは避けるが、断片的な反応だけが、主人公の耳に届く。
「また進んでる」 「これ、わざと引き伸ばしてない?」
主人公とヒロインは、付箋を一度机に並べるため、閲覧机へと移動した。付箋は、時系列順に並べられ、机の上に議論の軌跡を描き出す。
「返事、書かなかったんだね」ヒロインは、蛍光色の付箋を一つずつ指で触れながら言った。
主人公は、少し力を抜くように、冗談めかして返す。「書かない方がいいって言ったの、誰だったっけ。僕じゃなくて、君だったような」
ヒロインは、主人公の冗談を、すぐに真面目な調子で受け止めた。
「うん、言ったよ。でも、書かないって決めたのは、あなたでしょ」
ヒロインは、主人公を共犯者として扱うのではなく、責任の主体として、わざと確認させた。その言葉は、主人公が下した沈黙という判断を、もう一度、主人公自身に引き受けさせるものだった。
主人公は、机の上に並ぶ付箋の議論をじっと見つめる。
(何もしないのって、たまに一番卑怯に見えるんだよな。)
主人公は、この沈黙が、物語の中で、やがて別の意味を持つようになることを予感する。
図書室は、放課後にもかかわらず客足が減り、静寂が支配していた。遠くで聞こえるのは、運動部の掛け声と、窓の外を通り過ぎる風の音だけだ。主人公は、貸し出し履歴の整理を終え、ふと、窓際の閲覧席に目を向ける。
ヒロインが、そこにいた。彼女の机の上には、最新号の冊子ではなく、色褪せた初期のラブコメ冊子(第一号・第二号)が開かれている。普段なら新しい物語ばかりを追う彼女が、過去を読み返している。その光景は、主人公にとって奇妙な違和感だった。
主人公は、返却された本を棚に戻すふりをして、ゆっくりとヒロインのいる窓際へと近づいた。
ヒロインの机の上には、過去(古い冊子)、現在(最近の冊子)、そして外側(まだ棚に戻されていない付箋数枚)が、時間の流れを無視して一列に並んでいる(ビジュアルを意識)。
主人公が近づくと、ヒロインは顔を上げ、小さく笑った。
「前の話、こんな感じだったっけ。読んでると、なんか懐かしくなっちゃって」
「覚えてないな」主人公は、少し照れくさそうに答えた。初期の冊子は、まだ主人公の技術が未熟だった頃、誰か一人のことを強く意識しながら書いていた時期のものだ。触れられると、どこか居心地が悪かった。
ヒロインは、古い冊子の一つのシーンを、指先で優しくなぞった。
「でも、この頃の話って、誰か一人のことを、すごく大事に書いてる感じがする。今よりも、ずっと本気だった、みたいな」
その言葉は、主人公の内面を正確に突いた。主人公は、その頃の自身の本気を、付箋の騒動に気を取られ、忘れかけていた。
主人公は、古い冊子から視線を外し、ヒロインの隣に置かれた付箋の束を見た。そこには、蛍光イエローの付箋に、二重の書き込みがされていた。
表向きの文字:「もういいです。勝手にしてください。」 同じ付箋の下の、小さな字:「…って言ったけど、ほんとは行かないでほしかった。」
ヒロインは、その付箋を手に取り、その二重の書き込みを指で隠すようになぞった。
「こっちは、本音と建前が逆になってるね。自分の気持ちを、付箋に二重にコーティングして、やっと言えるなんて」
主人公は、その付箋に、過去の自身の姿を重ね合わせたような、妙な既視感を覚える。自身も、物語の中で、言いたいことの本質を、比喩や建前で包み隠したことが何度もある。
「こういう書き方、ずるいよね」ヒロインは、ぽつりとつぶやいた。
「どっちが?」主人公は、尋ねた。
「書いた人も、読んだ人も」ヒロインは、曖昧に答えた。
彼女の瞳は、付箋の文字を追っている。その時、ヒロインの心の中で、付箋カップル(本音を言えない者)の感情と、主人公(本気を隠す作者)の姿、そして自分自身(まだ言葉にならない気持ちを抱える者)の感情が、一瞬だけ重なり始めた。
ヒロインは、付箋カップルの「行かないでほしい」という小さな本音に、自分自身の、まだ言葉にならない気持ちを重ねていたのだ。
二人の間に、静かな間が流れた。窓の外の風の音、遠くの部活の声だけが、その静寂を強調する。その沈黙は、ヒロインが抱える「主人公への特別な感情」を、わずかながらも主人公に伝達していた。
ヒロインは、その静寂に耐えきれなかった。彼女は、読んでいた古い冊子のページを、強めにめくって、その感情を隠す。強すぎる音は、沈黙が作り上げた緊張を、強引に解体する。
「この話、早く続きを書いてよ」ヒロインは、乱暴にページをめくったまま、半ば命令のように言った。
主人公は、ヒロインの突然の不自然な行動に、少し戸惑いを感じたが、追及はしなかった。ただ、付箋の二重の言葉と、ヒロインの強引な沈黙が、主人公の心に深い揺らぎを残した。
翌日の放課後、図書室は試験前のような、張り詰めた緊張感の中にあった。主人公がラブコメ冊子コーナーへ向かうと、すでに異様な人だかりができていた。棚の前には、数人の生徒が密集し、その背中越しに冊子の棚はまったく見えない。空気はざわつき、彼らの間から、断片的な小声だけが漏れ聞こえてくる。
「・・・ガチじゃん」 「うわ、これはきついって」 「ねぇ、あっちも貼った?」
主人公は、図書委員としての建前で、人だかりに近づく。静けさを取り戻す必要があった。
生徒たちが少し離れた隙に、主人公は棚を覗き込んだ。付箋の群れは、その中心に、まるで爆心地のように、大きな黒い一言を携えていた。
付箋中央、蛍光イエローの紙片に、大きめの字で、ただ一言。
「別れます。」
その簡潔な通告は、図書室の空気を、一瞬にして本当に静止させた。周りの生徒たちのざわめきが、その言葉の衝撃波によって、吸い込まれたかのようだった。
その下や横には、小さな筆致のコメントが添えられていた。
「今までありがとうございました。ここで相談に乗ってもらってなかったら、もっと早く壊れてたと思います。」
主人公の心臓が、ドクンと重く脈打つ。彼らは、主人公の冊子と付箋という「外側の物語」を、最後まで「相談に乗ってもらう場所」として利用した。主人公は、何も言葉を発していないにもかかわらず、その別れの瞬間に立ち会ってしまった。拭い難い居心地の悪さを感じる。
しかし、静寂は長く続かなかった。
数秒後、生徒たちが再びざわつき始めたその時、蛍光ピンクの付箋が、「別れます。」の付箋のすぐ近くに、勢いよく貼り付けられた。
文字は、震えていたり、ところどころ書き直した跡がある。
「やっぱり別れたくありません。」 「ちゃんと話したいです。お願いです。」
その懇願は、別れという決定的な事実を、力ずくで引き戻そうとする切実な感情を伴っていた。それを見た周囲の生徒たちは、今度は半分引きつったような、観戦者としての声を漏らす。
「うわー・・・ドラマじゃん」 「がんばれよ、ホント」
主人公は、これ以上この修羅場を公開させてはならない、と直感する。
「ここは図書室です。静かにお願いします」
主人公は、誰の目も見ず、ただ当番として、役割を演じるかのように注意を促した。だが、生徒たちの視線は、主人公に無言で突き刺さる。「この人が作者なんでしょ?」「どうにかしてよ」という、無言のプレッシャーだ。
人だかりの波が一段落し、騒動が落ち着いた後、主人公とヒロインは、少し離れた閲覧机に座った。机の上には、何も置かれていない。
ヒロインは、棚の方を静かに見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「こういうのって、どこまでが『物語』なんだろうね。誰にも見えないところでやればいいのに」
主人公は、ヒロインの言葉を打ち消すように、疲れた声で返した。
「俺たち、ただ本を並べてただけなんだけどな」
しかし、内心では、言葉を飲み込んでいた。
(違う。俺の書いた話が、付箋のやりとりが、この図書室という舞台そのものが、彼らの別れと、まだ続けたい気持ちを、人前で加速させた。)
主人公は、自分の書いた物語が、他人の人生のクライマックスを演出してしまったという重さに、押しつぶされそうになっていた。
主人公の視線は、遠くの棚の付箋一点に集中している。
対照的に、ヒロインの視線は、棚ではなく、そんな主人公の横顔に向けられていた。
数日後の放課後。図書室には、期末試験前の、どこかそわそわとした気配が漂っていた(時間軸の薄い描写)。
ラブコメ冊子コーナーの棚には、修羅場を告げる付箋は、もうほとんど残っていなかった。時間経過とともに、自然に剥がされ、もはや大きな人だかりができることもない。静けさが戻りつつある棚の木目を見つめながら、主人公は当番用の記録ノートを開いていた。
主人公の頭の中は、静かな図書室とは裏腹に、高速で動いていた。
(蛍光イエローの筆跡は、あのクラスの誰かに似ている。貼られていた高さから見れば、だいたいこのくらいの身長だろう)
主人公は、今までの付箋の観察データと、図書室の利用記録を頭の中で照合する。付箋が最も増えた日の貸出・返却時刻を調べれば、行動範囲の候補が絞れる。さらに、付箋が貼られ始めた初期から、二色の筆跡が少しずつ変化していることも、主人公は気づいていた。まるで、付箋を通しての恋愛経験が、彼らの文字に影響を与えているかのようだ。
主人公の頭の中で、匿名カップルの正体を暴くための、ほとんど完全なロジックが組み上がりかける。
(答え合わせがしたい。彼らが、一体どんな顔をして、あんな修羅場を繰り広げたのか。)
その好奇心は、作者としての探求欲であり、同時に、他人の物語を覗き見たいという、少し後ろめたい感情でもあった。主人公の手には、図書室の厳重な利用記録が握られている。この記録を紐解けば、彼らの匿名性は簡単に崩壊するだろう。
「そのノート、何に使うつもり?」
声に驚いて、主人公は反射的にノートを閉じた。ヒロインが、いつの間にかすぐ隣に立っていた。彼女は、主人公の手元と、その先の付箋棚を、交互に見ていた。主人公が何を探っているのかは、明白だった。
主人公は曖昧に笑ってごまかそうとする。「あ、いや、ただの蔵書整理だよ。付箋で乱れたから」
ヒロインは、深追いはしない。彼女の口から出たのは、主人公の心に刺さる、たった二つの問いかけだけだった。
「あの人たちの顔、そんなに見たい?」
主人公は、その問いに、言葉が出ず、思わず黙る。見たい。だが、それは、他人の一線を踏み越える行為だ。
さらに、ヒロインは核心を突いた。
「ここで書いてることが、あの人たちの“全部”じゃないでしょ。あなたは、その断片で、全部を分かった気になりたいの?」
その一言は、主人公の推理ロジックを、一瞬で破壊した。そうだ。自分が知ろうとしているのは、あくまで「付箋というフィルターを通した断片」に過ぎない。その断片を暴いたところで、彼らの真実の恋に届くわけではない。逆に、彼らの物語を壊してしまうだけだ。主人公は、自分が知ろうとしていたことが、単なる詮索に過ぎなかったことに気づく(自分の中の一線に気づく)。
主人公は、手にしていた当番用の記録ノートを、ゆっくりと閉じた。その静かな動作が、「追跡を諦めた」という主人公の決断を、明確に示していた。
主人公は、ノートを返却カウンターに戻し、苦笑気味に言った。
「・・・やめとくよ。図書委員の仕事、そこまでじゃないし。僕が知るべき物語は、ここ(付箋)にはないってことみたいだ」
ヒロインは、主人公の決断を尊重するように、ただ静かに頷いた。
「うん、それでいいと思う。あなたが、作者でも審判でもなく、あなた自身でいるためにはね」
数日後の図書室は、静寂を取り戻していた。客は少なめで、誰もラブコメ冊子コーナーの棚に注視していない。廊下を曲がる前に耳に入る噂話も、今はもうない。
主人公は、棚の前に立ち、残された付箋の様子を眺めた。以前のような色彩の洪水は消え、木肌の表面には、まるで記念碑のように、数枚の付箋が控えめに貼られているだけだ。大半は、誰かが記念に持ち帰ったか、あるいは掃除当番が静かに処理したのだろう。理由は、もう誰も気に留めない。
主人公は、その残された数枚の付箋を、丁寧に剥がし、閲覧机に並べる。それは、この小さな戦場が残した、最後の痕跡だった。
付箋の内容は、もはや痴話喧嘩ではない。そこには、結果と、それに対する感謝の言葉が綴られていた。
「ここで勇気を出せました。ありがとう。」「別れたけど、ここで書かなかったら何も言えなかったと思う。」「ラブコメ、もう少し続いてほしい。私にとって、ここは練習場でした。」
成功も、失敗も、「ここを通過した」という痕跡が、短い文章に残されている。主人公は、その一つ一つをじっと読み、自分の物語の影響の多様さに改めて気づく。
ヒロインが、隣の椅子に静かに腰掛け、主人公と同じように付箋の群れを眺めた。
「ここ、告白して恋が始まった人と、別れてしまった人と、両方混ざってるんだね」ヒロインは、分類された付箋を指で軽く叩いた。「成功だけじゃなく、失敗も含めて、ここが恋の通過点になったってことか」
主人公は、思わずぼそっと独白めいた一言を漏らした。
「ラブコメって、うまくいく話ばっかり書いてるつもりだったんだけどな」
ヒロインは、主人公の言葉に、反論はしなかった。ただ、別れを告げる付箋を指し示し、静かに言った。
「うまくいかなかった人も、ここにいるよ。でも、何も言えずに終わるよりは、この付箋でちゃんと言えたことの方が、大切な気がする」
主人公は、その付箋の群れをもう一度見つめる。自分が書くラブコメは、ハッピーエンドという理想の枠組みの中にある。しかし、ここで起きた本物の恋は、その枠をはみ出し、終わりを迎えた物語も含んでいた。
だが、主人公は、その多様性を否定しなかった。むしろ、自分の物語が、その現実に混ざったことで、初めて奥行きを持ったような感覚を覚えた。
(自分が書くラブコメも、ここで起きた本物の恋も、どっちも間違いじゃない。)主人公の心の中で、哲学的な整理が始まる。
主人公は、その整理を心の中で一つのフレーズに収束させる。
(ここは、ちゃんと“終わり”がある場所なんだな)
それは、終わりがあるからこそ、新しい始まりがある、という意味でもあった。主人公は、付箋カップルの物語に区切りをつけ、ようやく自分の感情を整理し始める。
ヒロインは、主人公の横顔を見ていた。恋の結果の多様性を目の当たりにし、心のどこかで「だったら自分も」という、行動への小さな肯定感が芽生えていた。
図書室は、閉館間際の独特の薄暗さに包まれていた。窓の外は、すでに夕焼けの名残がわずかに残る、青とオレンジの曖昧な境界線だ(光の演出)。客の姿は、ほとんどない。二人のいる空間は、自然と静寂と親密さに包まれつつあった。
ヒロインは、閲覧席で、初期のラブコメ冊子(古い号)を手にしていた。彼女は、それをまるで大切なアルバムを扱うように、優しく開いている。
「これ、やっぱり好きなんだよね」
ヒロインは、そう自然に言って、冊子のあるページを、指でそっとなぞった。そこには、主人公が初期に書いた、あるキャラが勇気を出して一歩踏み出すシーンが描かれている。
主人公が「大げさだな」と笑おうとした瞬間、ヒロインが顔を上げ、彼の目を見る。主人公は、その澄んだ視線に、笑えなかった。
ヒロインは、ページから視線を外さずに、静かに言葉を続けた。
「この話読んだとき、ちょっとだけ人生変わったんだ」
主人公の心に、静かな驚きが走る。それは、最も聞くべきで、最も聞いてはいけない言葉だった。作者としての言葉が、誰かの人生という、最も重い領域に触れていたのだ。
「あのとき、好きな人に何も言えなくて、でもこのシーン読んで・・・」ヒロインの言葉は、そこで一瞬、途切れた(沈黙)。彼女は、その先の言葉を飲み込むように、唇をきゅっと結んだ。
「・・・結局、そのときは何もできなかったけどね」
ヒロインは、救われきらなかった過去を、言葉のオチとして付け加える。しかし、その「できなかった」という言葉の裏には、「それでも、あなたの言葉に背中を押された」という、言葉に背中を押された側の紛れもない実感が込められていた。
主人公は、ヒロインが自分の過去を、これほど正直に語ったことに、戸惑いを覚えた。彼は、ただ静かに、その事実を受け止めるしかなかった。
「それでも、読んでくれてたんだな」主人公は、そう言うのが精一杯だった。
内心では、自分の書いたものが、目の前のこの人の中に、今も残っているという事実に、震えるような静かな感動を覚えていた。主人公の書き手としての言葉と、一人の人間としての言葉を分けていた線が、この瞬間、少しだけ溶けた。
ヒロインは、再び付箋棚の方を見た。棚にはもう、騒々しい付箋はない。
「あの付箋の人たちも、そうだったのかもしれないね。あなたの書いた話に背中押されて、やっと何か言えた人」
主人公の言葉がきっかけとなり、付箋カップルは行動した。ヒロインもまた、行動しかけた過去がある。
主人公は、ヒロインの言葉に同意しながらも、作者としての限界を自らに課した。
「だとしても、最後に言うのは、俺じゃなくてその人たちだよ」主人公は、はっきりと返した。
(作者はきっかけしか渡せない。最後に言葉を発するのは、当人が勇気を持つ瞬間だ。)
ヒロインの視線が、棚から、言葉を発した主人公の横顔に戻る。そして、ほんの一瞬、彼女の唇が何か言いかけようと開いた。だが、次の瞬間、彼女はすぐに口を閉じ、言わなかった。
二人の間に流れる静かな間は、まるで告白寸前の、極度の緊張を含んでいた。
さらに数日後、図書室の閉館時間が近づいていた。窓の外の光は、すでにほとんど力を失い、室内の照明だけが、棚の木目と冊子を照らし出している。
主人公は、印刷したばかりの新しい号のラブコメ冊子の束を抱え、ラブコメ冊子コーナーの棚の前に立つ。今回の冊子は、一話目の前に、意図的に空白のページを一枚挟んである。タイトルも、目次も、一行の言葉もない。ただ、真っ白な余白だけだ。
「あれ、この白いページ、ミス?」
ヒロインが、片付けの手伝いを終え、棚の前に来て尋ねた。
主人公は、棚に新しい冊子を並べながら、軽く笑って答えた。
「ミスじゃないよ。たまには、読者に任せてもいいかなと思って」
(ここに書く言葉は、物語ではなく、現実のために取っておきたい。)主人公は、あえてその言葉を口にしなかった。
主人公は、残っていた付箋カップルの付箋の数枚を、古い号の冊子の巻末に、まとめて丁寧に貼り付けた。それは、もはや解決を求めるものではなく、「この年度の図書室で起きた出来事」としての、静かな記録(保存)だ。彼らの物語は、これで本当に終わりを迎えた。
棚に整然と並んだ、新しい冊子の束を眺めながら、ヒロインが口を開いた。
「ここ、本当に注文多いよね」
ヒロインの言葉は、付箋であれこれ書く読者、作者に判定を求めるカップル、そして、自分の恋に迷う作者自身の、すべてを含んでいた。それは、『注文の多いラブコメディ』というタイトルの、静かな回収だった。
主人公は、その言葉に、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうだね。読者も、作者も、図書委員も、好き勝手言いすぎたな。これで少しは静かになるといいけど」
閉館時間が近づき、最後の客が足早に図書室を出ていく。照明が一段暗くなった。
ヒロインは、カバンを肩にかけ、主人公に背を向けて出入口へ向かうふりをした。だが、出入口に達する手前で、立ち止まった。
彼女は、カバンから、一枚の付箋を取り出した。
主人公の見ている前で、ヒロインは棚に戻り、新しい号の冊子を一枚抜き取った。そして、その冊子の空白のページに、その付箋をぺたりと貼り付けた。
そこに書かれた言葉は、短く、そして明確だった。
「この続きは、あなたといっしょに書きたい。」
主人公は、一瞬、言葉を失った。呼吸が止まり、頭の中で、付箋カップルが繰り広げたあらゆる修羅場と懇願が、走馬灯のように駆け巡った。しかし、今、彼の目の前にあるのは、匿名でも物語の延長でもない、顔と名前を知っている相手からの、現実の言葉だ。
主人公の心臓が、ドクンと重く脈打つ。主人公は、今、沈黙を選ばない。ポケットからペンを取り出し、ヒロインが貼った付箋の、すぐ下の余白に、震える指先で一行だけ書き足した。
「よければ、図書室の外の話も、そこで。」
それを読み終えたヒロインは、顔を赤くし、照れながらも、幸せそうに笑う。彼女は、「注文の多い読者」から、主人公の「物語の共作者」へと、一歩を踏み出した。
主人公は、棚に冊子を戻し、ヒロインと共に図書室の出入口へと向かう。
「お先に失礼します」
二人が一緒に図書室を出ていく。背後には、新しい冊子と、そこに貼られた一枚の付箋、そして主人公の手書きの一行だけが残された。
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