1 / 1
脂身
しおりを挟む
筋肉ほど原始的かつ魅力的なものはない、人間はいつだってシンプルだ。
筋肉は狩猟、運動、軍事となんにでも使える上に、勉強を重んじられる時代ですら文武両道の概念はある、寧ろ過剰になったとすら言える、しかし日本では過剰な筋肉は好まれない…という傾向がニッチな傾向を生み出していた。
しかし、筋トレはこのストレス社会において最適なもので、常に筋トレをする事で健康を補い、精神を満たし、ストレスフルを生き延びる。翻って、人々は筋肉に依存してしまっているのだ。
そんな時代のなかで、マッチングアプリというツールがあり、それを利用することで、より効率よく肉体・精神双方に影響を与えることができる。
筋肉は、体脂肪が減れば誰でも持てるものであり、誰もが健康的な肉体を得られるようになる。
その二つを掛け合わせたあるアプリがある。国外最大規模のアプリであるFItmatchは今都市の中心のモニターで宣伝を打っている。ああ、そこのトラックはトレーニング道具の輸送ついでに広告をしている。そのトラックの映像もあのモニターと同じだ。売り上げがよく分かるだろう?まるで水浴びてなんか言ってるマッチングアプリのCMが手抜き低予算に見える。それよりも個人にフォーカスしている上に、データ的な分析、健康のサポート、医療機関としての側面となにもかもがアピールとして強い。じゃあ改めてCMの映像を確認しよう。
画面が切り替わる。都市の中心にそびえる大型ビジョン、その鮮やかな映像に、街行く人々は誰一人として驚かない。もはやこの光景は、日常の一部に溶け込んでいた。
カメラはモニターの画面にズームインする。その瞬間、キャスターの落ち着いた声が重なる。
「ご覧いただいているのは、現在都市圏で急速にユーザー数を伸ばしているマッチングアプリ『FitMatch』の最新CMです。」
画面には、筋肉質な男性や引き締まった女性がトレーニングをする姿が次々と映し出される。だが、単なる広告ではない。その下部には、リアルタイムでアクティブな登録者のパラメータが流れていた。
心拍数、筋肉量、脂肪率、基礎代謝といった数値が、まるで株価のように変動し、今この瞬間にアプリを利用している「空いている」男女の状態が可視化されていく。
キャスターは続ける。
「特徴的なのは、このユーザーインターフェースです。単なるプロフィール紹介ではなく、実際の身体データがリアルタイムで表示され、マッチングする相手の『今』がわかる仕組みとなっています。」
さらに、画面の端には小さく系列企業のロゴが並ぶ。
フィットネスジム、健康食品メーカー、さらには一部医療機関まで。その全てがこのアプリのエコシステムの中に含まれていた。
「つまり『FitMatch』は、単なるマッチングアプリの枠を超え、生活・健康・医療までを統合するプラットフォームとして急成長しているわけです。」
そして映像の最後、トラックの荷台広告とモニターのCMが完全に一致する。
キャスターはわずかに息をつき、冷静にまとめた。
「今や筋肉と恋愛、健康と経済、そのすべてが密接に結びつく時代と言えるでしょう。」
カメラは再び街の風景を映し、人々がその巨大なモニターを気にも留めず歩いていく様子で締めくくられた。
しかし――別に、日本ではそこまで話題になっているわけでもない。
むしろ、国の財政が危ういとか、医療費の増大が問題視されているからこそ、そういった分野に新しい風を吹き込むものとして、一部の政策関係者や医療機関が静かに導入を進めている、というだけの話だ。
そもそも、日本の社会は筋肉や運動といったものを「自己満足」か「体育会系」のものと切り捨てがちだ。
筋トレで心身が救われる、と言っても、それが公的に評価される日はまだ遠い。
国民の大半は、薬の値上げや年金の減少にため息をつき、政党や政府の無策さに呆れながら、目の前の生活に追われている。
そんな状況で、筋肉や健康の維持に投資できる余裕がある人間なんて、ごく一部だ。
もっとも――そのごく一部の一人が、僕の友人なのだが。
資産家の家に生まれ、自分でいくつも非営利団体を立ち上げ、医療費削減や社会貢献に奔走している、そんな変わり者。
彼は確かに「FitMatch」を絶賛していた。
「筋肉で社会は救えるんだ」なんて、本気で言っていた。
僕にも使ってみろと勧めてきたが、正直、僕は彼の広い交友関係の中の一人にすぎない。
本気で僕を気にかけているわけではないだろう。
彼の視界の中に、僕の存在はただの統計データの一つに過ぎない。
だからこそ、僕は別に断る理由もなかったし、深く考える必要もなかった。
ただ、筋トレをすること自体は、悪い話じゃない。
健康にもなるし、ストレスも減る。
何より、他にやることもなかった。
了解、
ふと、目の前のモニターから視線を外した。
手元のスマホが、無機質に僕の存在を待っていた。
彼の作った別のアプリ――筋トレ管理アプリは、すでに何度もお世話になっている。
きっかけは、大学入学直後、環境の変化と一人暮らしの不安から、何かしなければと始めた筋トレだった。
初心者向けのメニューから、毎日の記録、成長のグラフ化まで、彼のアプリは妙に実用的で、使い勝手が良かった。
結局、悔しいことに、それで助けられていた部分も少なからずあったのだ。
…だからこそ、今回も気が付けば、指が自然と動いていた。
「FitMatch」と検索し、インストールボタンに触れる。
強い意志があったわけじゃない。
誰かに会いたいわけでも、恋愛がしたいわけでもない。
ただ、何もしない自分に少しだけ嫌気が差したから。
彼の作ったアプリなら、きっと何かしら意味があるのだろうと、
そんな 半ば諦めのような気持ち が背中を押した。
インストールが完了し、アイコンが画面に並ぶ。
深呼吸一つ、ため息三つ。
「…はいはい、始めますよっと。」
まるでゲームのスタートボタンを押すように、僕はそのアイコンをタップした。
Wi-Fi圏外の街中で、ついモバイルデータを使ってしまった。まぁ、いいか。ギガが多少減ったところで、今さらだ。
アイコンが、そこにある。
たったそれだけなのに、急に手が止まった。
……そもそも、だ。
筋トレしてる女の子と、俺が付き合ったところで、どうするんだ?
こっちは週3でやっとプロテインの飲み方が分かってきた程度だぞ。
フォームもまだまだ怪しいし、ベンチプレスなんてやっと自重プラスαを超えたくらいだ。
向こうはどうせ、毎日ジムに通ってて、デッドリフトのフォームも完璧で、サプリの飲み合わせまで管理してるような人間なんだろ?
話題にすらならねぇよ。
「今日の筋肉痛、どこですか?」
「どこを鍛えるのが好きですか?」
――そんな会話、何一つ成立しない。
ていうか、筋トレしてない人間にマッチングしたら、それはそれでおかしい。
向こうだって困るじゃん。
「なに?筋トレもしてないのにこのアプリ入れたの?」って、絶対なる。
自分が場違いだってことは、最初からわかってる。
……でも、じゃあなんで俺、筋トレしてるんだ?
別に誰かにモテたくて始めたわけじゃない。
健康になりたくて、自分の生活をちゃんとしたくて、それで続けてるだけだ。
だったら、筋トレしてる人と話してもいいんじゃないのか?
別に、マッチングしてすぐ恋愛しなくても、いいんじゃないのか?
……いやいや、でもさ。
俺が「こんにちは」って送ったところで、向こうが「ふーん、で?」で終わったら、どうすんだよ。
返信なかったらどうする?
そもそも開いてもいないかもしれないじゃん。
そんな思考がぐるぐると回って、気がつけば3分、5分と時間だけが過ぎていく。
画面の中の「FitMatch」は、静かに、無言で、自分の決断を待っていた。
意を決して、指先を動かした。
アプリのアイコンをタップすると、すぐに初期設定画面が現れた。
名前、生年月日、身長、体重、筋肉量、体脂肪率、心拍数、睡眠時間――。
筋トレ管理アプリと同期されているから、ほとんどのデータは自動的に反映されていた。
……まぁ、改めて見ると、なんとも中途半端な数値だ。
筋肉量は一般成人男性の平均よりほんの少しだけ上、体脂肪率も標準。
心拍数、代謝、可動域――全部「悪くはないけど特別でもない」。
筋トレを始めてから多少は改善したけど、
これで胸を張って「鍛えてます」なんて言えたものか。
自分が思っていたよりも、自分は凡庸だった。
ちょっと胸を張りたかっただけなのに、
現実は静かに、でも確実に僕を打ちのめす。
──と、そんな気分のまま、マッチング候補を何気なくスクロールしてしまった。
……そこで、息を飲む。
表示された女性たちの筋肉量や体脂肪率、パフォーマンススコアは――
明らかに、異次元だった。
しなやかで、強く、美しい。
まるで彫刻のように無駄のない、洗練された身体。
競技者かモデルかと思うほどのバランス。
プロフィール写真には、
笑顔でダンベルを持つ女性、
クライミングウォールの頂上でポーズを決める女性、
日常の一コマとしてランニング中の爽やかな笑顔を見せる女性――
誰もが、自分の肉体を誇りにしていて、
その肉体を、ただ「魅せるため」じゃなく「生きるため」に鍛えているのだと、写真一枚から伝わってくる。
僕とは……違う。
全然、違う。
ただ、純粋に、圧倒された。
それは恐れとか、引け目とか、そういうものを超えていて、
ただただ、美しいと思った。
筋肉って、こういうものなのか、と。
鍛えるって、こういうことなのか、と。
画面越しに、僕は自分の知らない世界を、ただ見つめていた。
しかし、考えが浅はかだった。
筋トレアプリの時もそうだったけど、彼の作るサービスはいつも、どこか人の判断力の隙を突いてくる。でも、やったからには、もう戻れない。月額、いや年額だったか…? それすら覚えていない。…どうしよう。俺、このまま誰ともマッチしなかったら、ひたすら数字だけ見せつけられて、「無駄な金払って孤独」みたいな状態になるんじゃないか?登録の流れで、いつの間にか「有料プラン」にしてしまっていた。無料プランでも良かったのに、妙に誘導が巧妙で、気が付けば有料プランの登録も完了していた。無料のままでも良かったはずなのに、思わず「フルサポート」「高精度マッチング」「データ解析強化」の文字につられてしまったんだ。どこか焦りのようなものが背中を押していたのかもしれない。改めて考えると、場違いな空間に身を置いたことへの不安ばかりが胸を満たしていく。果たして自分が筋トレをしている女性と付き合ったところで何を話すのか。日々積み上げていると言っても、ようやく初級者を抜け出した程度の身体で、彼女たちのような洗練された肉体美を持つ人間と何を共有できるというのか。逆に、鍛えていない女性と出会ったとしても、そもそもこのアプリを使う意味がどこにあるのか。そうした不安と妄想が延々と頭を巡り、結局インストールしたままアプリを閉じることも、マッチング画面を開くこともできずにいた。
いや、逆にマッチしても困る。
どうする?メッセージ送らなきゃダメなのか?
「はじめまして、筋肉すごいですね」って言うのか?それ、どう考えても気持ち悪いだろ。もし返ってこなかったら?もし返ってきたとして、話題が途切れたら?逆に、めちゃくちゃ意識高い系トークが返ってきたら?「タンパク質摂取量どれくらいですか?」とか、「サプリはマイプロ派?オプチ派?」とか、そんな話題、ついていける自信ない。…ああ、ダメだ。俺、絶対無理だ。やめときゃよかった。いや、今からでも解約だ。──その瞬間。
その時、不意に通知音が響いた。マッチングが成立した、という表示とともに、画面には一人の女性の名前とアイコンが浮かんでいた。驚いたのは、その直後だった。まだ何も送っていないのに、既にメッセージが届いていた。
唐突な耳につく衝撃的な音声。
「こんにちは。よろしくお願いします。」
短い、だが確かにこちらへ向けられた言葉だった。
スクリーン越しに見つめていた、あの筋肉の美しい人間が、自分に対して挨拶をしていた。
シンプルで、礼儀正しい文面。だけど、そこにいたのは、さっきまで写真で見て圧倒されていた、あの「別世界の住人」だった。心臓が跳ねる。スマホを持つ手が、汗ばんだ。どう返せばいいのか、まるで分からなかった。
結局ひとりで考えていても堂々巡りだった。
彼はスマートフォンを持ったまま、ふと大学のグループチャットを開いた。そこにいるのは、筋トレにもマッチングアプリにも興味のない、ごく普通の友人たち。昼休みにくだらない話で盛り上がる、気楽な人間関係だった。
彼は思い切って個別チャットを開き、一人にメッセージを送った。
「なあ、ちょっと相談していい?」
『は?何、女関係?』
間髪入れず返ってきた反応が、いかにもその友人らしくて、少しだけ気が抜けた。
「まあ…そうなんだけどさ。マッチングアプリで筋トレ好きな人とマッチして、でも俺みたいなのが相手していいのかなって」
数秒の沈黙。既読はすぐに付いていた。
『お前、バカじゃねぇの。』
画面に現れたその一言に、妙な説得力があった。
『そもそも向こうからメッセージ来てんだろ? なら向こうもお前に興味あるか、少なくとも拒否してねぇってことじゃん。深く考えすぎ。』
『つか、筋トレとか関係なくね? 話してから考えりゃいいだろ。』
『お前が筋肉で結婚するわけじゃあるまいし。』
あまりにも雑で、あまりにも正論だった。
そうだった。自分はマッチングアプリの世界に生きるわけでも、筋肉で人生の全てを決めるわけでもない。ただ、たまたまマッチした、ただの一人と、たった一度会話を始めるだけだ。それだけの話なのに、なぜこんなに身構えていたのか。
少しだけ肩の力が抜けた。
彼は改めてメッセージ画面を開き、入力欄に指を乗せた。
彼は静かに、そしてようやく指を動かした。
「こんにちは、マッチありがとうございます。
あまり慣れていないですが、よろしくお願いします。」
無難で、丁寧で、特徴のない挨拶。
これ以上でも、これ以下でもなく、ただまず返事をした。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、わずかに緩む。
送った。それだけで、何か一歩踏み出した気がした。
…だが、待てども画面に動きはなかった。
チャットアプリ特有の「既読」のマークも出ない。
リアルタイムで心拍数や活動量を表示するアプリのはずなのに、
今、この瞬間だけ、相手の存在が完全に沈黙していた。
さっきまで向こうから挨拶を送ってきたはずなのに、
どういうわけか、自分が送った瞬間、世界が静止したように感じる。
1分、3分、5分…。
スマホを置いても、視界の端でアイコンが気になって仕方がない。
まるで、自分のメッセージが世界から拒絶されたかのような感覚に、
落ち着きかけた心が、またわずかにざわめく。
とはいえ、相手にも都合はあるだろう。
トレーニング中かもしれないし、仕事や学業で忙しいのかもしれない。
スマホを見ていないだけかもしれない。
分かってはいる。分かってはいるのに、
なぜか「返事がない」という事実だけが胸に居座り続けた。
考えても仕方ない。そう思い直し、彼はもう一人の友人に連絡を取った。あの筋トレアプリの開発者であり、FitMatch自体の関係者でもある資産家の友人だ。
「なあ…これ、もしかしてサクラとか混ざってない?」
軽い冗談のつもりだった。だが、返ってきた答えは意外なものだった。
『あー、それ、多分だけど…うちじゃなくてコンサルが勝手に仕込んだ奴。』
あまりにもあっさりした返答に、一瞬言葉を失う。
『正直、アプリ自体のマッチング精度は悪くないけど、集客用にサクラを混ぜるって発想が古臭いコンサルが一部でやってるんだよね。こっちは健康目的とか社会貢献とか考えてるのに、営業数字しか見てない連中が勝手に派遣してる。』
言葉だけは冷静だが、その裏にある苛立ちは伝わってきた。
『まあ、正直迷惑してるけどさ。もしそれで問題になったら、俺に言って。会えなかったら返金するぐらいの準備はしてるから。』
その無駄に太っ腹な発言に、少しだけ肩の力が抜けた。たとえサクラだったとしても、損することはない。会えるかどうかなんて、まだわからないけれど。
でも、どうにも胸の奥には釈然としないものが残っていた。
あの、筋肉の美しい彼女が、そんな作られた存在だとしたら――。
それなら、あの一言は何だったのか。
彼はもう一度、スマホの画面を開いた。
まだ、返信はなかった。
もともと彼と資産家の友人とは、ただのユーザーと開発者という関係ではなかった。中学時代、偶然出会ったプログラミングのオンライン勉強会。互いに小さなコードを書き合い、時にはバグで笑い合い、時には深夜まで議論していた。才能も性格も正反対だったが、だからこそ互いに補い合い、友人として並び立っていた。彼が一般家庭で育ちながらもITや論理思考を鍛えたのは、その友人の刺激があったからだし、資産家の方も、金だけでは得られない実地の視点を彼から得ていた。
だからこそ、今回も正直に言えばいい。そう思って相談した。だが――返ってきた答えは「一部の外部業者が勝手にやっている」という、曖昧な責任転嫁に過ぎなかった。
怒りが込み上げた。
「…お前がそんなつもりじゃなくても、現場は腐ってんだよ。」
そう呟いて、彼は独自に動き出した。
まず、相手女性のプロフィール写真からSNSを逆引きし、過去の投稿を解析。そこから特定のトレーニングジムの投稿頻度、着用ブランド、位置情報のズレを洗い出す。次に、ジムの会員名簿や地域のバイト求人サイト、学校の文化祭写真から一致する姿を確認し、氏名、通学先、バイト先まで割り出した。
彼女は地元の短大に通い、週3日ファミレスで深夜バイトをし、月収は推定5万円ほど。そこにアプリ運営からの副収入が加わっても、生活はギリギリの範囲にとどまっている。つまり、彼女もまた、「生活のためにやっている」ただの一人に過ぎない。
本当は、そこに怒りをぶつけるのは筋違いだった。
でも、納得できなかった。あの一言を、金で動くサクラが送ってきたのだとしたら、どこに本当の気持ちがあるんだ。
彼は匿名ブログを立ち上げ、全てを書いた。
筋トレマッチングアプリ「FitMatch」の裏側で、
いかに外部業者による偽ユーザーが登録され、
運営が表向きは健康志向を装いながら、
現場では利益目的で人を騙しているかを。
もちろん、彼女の名前や住所、学校名までは書かなかった。
だが、年齢や収入、生活環境から「サクラの雇用実態」を想像できる程度には、具体的に記した。
文章の最後には、こう付け加えた。
「このアプリは、筋肉と誠実さを繋げる場ではない。人の孤独につけ込むだけの、歪んだ市場だ。」
投稿ボタンを押す指は震えていなかった。
ブログ投稿を終えた彼は、一人でいたくなかった。
結局、資産家の友人に声をかけ、駅前の居酒屋に向かった。
「で、お前、結局それ全部調べたのかよ。マジでか。お前、頭おかしいって」
友人は笑いを堪えきれず、ジョッキを片手に腹を抱えていた。
「いや、普通そこまでやらねぇよ。サクラかどうか調べて終わりだろ、住所とか学校とか、怖ぇって。公開してない情報に色々入り過ぎだろ!」
からかうでもなく、本気で呆れた笑い声。それが逆に心地よかった。
「でもさ、それがサクラだろうが何だろうが、お前、ちゃんと筋トレ続けてんだろ? そっちのほうがすげーよ。」
乾杯の音もそこそこに、二人は久しぶりに気楽に時間を過ごしていた。
そうして二杯目を飲み終えた頃、友人のスマホが震えた。
「あー、はいはい、またどっかの自治体かなんかか?」
通知を見るなり、酔った頭のまま返事を書く。
「いいよ、使っていいって。どうせ広告費とかいらねぇから、勝手に使っとけって言っとけ」
相変わらず適当で、金にも肩書にも無頓着なやつだった。彼はその様子を見て、少しだけ肩の力を抜いた。世の中の仕組みなんて、案外こんなもんだ。筋肉も、アプリも、社会も、全部、完璧じゃない。
それでもまあ、生きていくしかないだろうと、
三杯目の酒を頼むのだった。
居酒屋で別れた後、酔いが一気に回り始めた。もともと酒に強いわけでもなく、気が緩んだ分、アルコールは容赦なく彼の頭を鈍らせていった。駅前の風はやけに心地よく、歩道のベンチに腰掛けた時には、もう足取りも覚束なかった。
その時、不意に誰かが彼の腕を引いた。
「…大丈夫?」
ぼんやりとした視界の向こう、女性の声が聞こえる。
「らいじょぶ。」
誰か知り合いだったか。いや、違う、こんな声、知らない。けれど抗う気力もなく、その手に導かれるまま、彼は夜の街を歩いていた。
どこかの階段を上がり、エレベーターに乗り、扉の音を聞いた気がする。布団の感触が背中を包み込んだ瞬間、意識は途切れた。
次に目を覚ました時、知らない天井が目の前にあった。
木目調のシンプルな天井。室内は整理され、無駄な装飾もない。スマートフォンを探そうとして、隣のソファに座る人影に気づいた。
彼女だった。
マッチングアプリで、勢いで送ったあのメッセージ。
画面越しに見た、あの筋肉質な輪郭と、落ち着いた目元。そのままの姿で、静かにこちらを見ていた。
どうしてこうなったのか、記憶は曖昧だった。
だが、確かにそこにいたのは、間違いなく「適当に返事した」相手だった。
ベッドから起き上がった彼に、美月は一瞬だけ目をそらした。
気まずそうにしながらも、そっと声をかける。
「…昨日、倒れそうだったから…仕方なく、ね。」
声は小さく、でも放っておけなかったという気持ちは隠しきれていなかった。
「…あんまり人と会うの得意じゃないけど、
困ってるの、見過ごせないし…。」
ソファの隅で、小さく丸まるように座ってスマホをいじっている。
それでも、逃げるようにしていた筋肉男たちと違って、
彼女は彼にだけは、ほんの少し素を見せていた。
「…お腹空いてるなら、作ったけど…食べる?」
視線は合わせない。けれど、
彼のために作ったことは、明らかだった。
お薬変えた影響を試してるせいで本調子ではないです。
筋肉は狩猟、運動、軍事となんにでも使える上に、勉強を重んじられる時代ですら文武両道の概念はある、寧ろ過剰になったとすら言える、しかし日本では過剰な筋肉は好まれない…という傾向がニッチな傾向を生み出していた。
しかし、筋トレはこのストレス社会において最適なもので、常に筋トレをする事で健康を補い、精神を満たし、ストレスフルを生き延びる。翻って、人々は筋肉に依存してしまっているのだ。
そんな時代のなかで、マッチングアプリというツールがあり、それを利用することで、より効率よく肉体・精神双方に影響を与えることができる。
筋肉は、体脂肪が減れば誰でも持てるものであり、誰もが健康的な肉体を得られるようになる。
その二つを掛け合わせたあるアプリがある。国外最大規模のアプリであるFItmatchは今都市の中心のモニターで宣伝を打っている。ああ、そこのトラックはトレーニング道具の輸送ついでに広告をしている。そのトラックの映像もあのモニターと同じだ。売り上げがよく分かるだろう?まるで水浴びてなんか言ってるマッチングアプリのCMが手抜き低予算に見える。それよりも個人にフォーカスしている上に、データ的な分析、健康のサポート、医療機関としての側面となにもかもがアピールとして強い。じゃあ改めてCMの映像を確認しよう。
画面が切り替わる。都市の中心にそびえる大型ビジョン、その鮮やかな映像に、街行く人々は誰一人として驚かない。もはやこの光景は、日常の一部に溶け込んでいた。
カメラはモニターの画面にズームインする。その瞬間、キャスターの落ち着いた声が重なる。
「ご覧いただいているのは、現在都市圏で急速にユーザー数を伸ばしているマッチングアプリ『FitMatch』の最新CMです。」
画面には、筋肉質な男性や引き締まった女性がトレーニングをする姿が次々と映し出される。だが、単なる広告ではない。その下部には、リアルタイムでアクティブな登録者のパラメータが流れていた。
心拍数、筋肉量、脂肪率、基礎代謝といった数値が、まるで株価のように変動し、今この瞬間にアプリを利用している「空いている」男女の状態が可視化されていく。
キャスターは続ける。
「特徴的なのは、このユーザーインターフェースです。単なるプロフィール紹介ではなく、実際の身体データがリアルタイムで表示され、マッチングする相手の『今』がわかる仕組みとなっています。」
さらに、画面の端には小さく系列企業のロゴが並ぶ。
フィットネスジム、健康食品メーカー、さらには一部医療機関まで。その全てがこのアプリのエコシステムの中に含まれていた。
「つまり『FitMatch』は、単なるマッチングアプリの枠を超え、生活・健康・医療までを統合するプラットフォームとして急成長しているわけです。」
そして映像の最後、トラックの荷台広告とモニターのCMが完全に一致する。
キャスターはわずかに息をつき、冷静にまとめた。
「今や筋肉と恋愛、健康と経済、そのすべてが密接に結びつく時代と言えるでしょう。」
カメラは再び街の風景を映し、人々がその巨大なモニターを気にも留めず歩いていく様子で締めくくられた。
しかし――別に、日本ではそこまで話題になっているわけでもない。
むしろ、国の財政が危ういとか、医療費の増大が問題視されているからこそ、そういった分野に新しい風を吹き込むものとして、一部の政策関係者や医療機関が静かに導入を進めている、というだけの話だ。
そもそも、日本の社会は筋肉や運動といったものを「自己満足」か「体育会系」のものと切り捨てがちだ。
筋トレで心身が救われる、と言っても、それが公的に評価される日はまだ遠い。
国民の大半は、薬の値上げや年金の減少にため息をつき、政党や政府の無策さに呆れながら、目の前の生活に追われている。
そんな状況で、筋肉や健康の維持に投資できる余裕がある人間なんて、ごく一部だ。
もっとも――そのごく一部の一人が、僕の友人なのだが。
資産家の家に生まれ、自分でいくつも非営利団体を立ち上げ、医療費削減や社会貢献に奔走している、そんな変わり者。
彼は確かに「FitMatch」を絶賛していた。
「筋肉で社会は救えるんだ」なんて、本気で言っていた。
僕にも使ってみろと勧めてきたが、正直、僕は彼の広い交友関係の中の一人にすぎない。
本気で僕を気にかけているわけではないだろう。
彼の視界の中に、僕の存在はただの統計データの一つに過ぎない。
だからこそ、僕は別に断る理由もなかったし、深く考える必要もなかった。
ただ、筋トレをすること自体は、悪い話じゃない。
健康にもなるし、ストレスも減る。
何より、他にやることもなかった。
了解、
ふと、目の前のモニターから視線を外した。
手元のスマホが、無機質に僕の存在を待っていた。
彼の作った別のアプリ――筋トレ管理アプリは、すでに何度もお世話になっている。
きっかけは、大学入学直後、環境の変化と一人暮らしの不安から、何かしなければと始めた筋トレだった。
初心者向けのメニューから、毎日の記録、成長のグラフ化まで、彼のアプリは妙に実用的で、使い勝手が良かった。
結局、悔しいことに、それで助けられていた部分も少なからずあったのだ。
…だからこそ、今回も気が付けば、指が自然と動いていた。
「FitMatch」と検索し、インストールボタンに触れる。
強い意志があったわけじゃない。
誰かに会いたいわけでも、恋愛がしたいわけでもない。
ただ、何もしない自分に少しだけ嫌気が差したから。
彼の作ったアプリなら、きっと何かしら意味があるのだろうと、
そんな 半ば諦めのような気持ち が背中を押した。
インストールが完了し、アイコンが画面に並ぶ。
深呼吸一つ、ため息三つ。
「…はいはい、始めますよっと。」
まるでゲームのスタートボタンを押すように、僕はそのアイコンをタップした。
Wi-Fi圏外の街中で、ついモバイルデータを使ってしまった。まぁ、いいか。ギガが多少減ったところで、今さらだ。
アイコンが、そこにある。
たったそれだけなのに、急に手が止まった。
……そもそも、だ。
筋トレしてる女の子と、俺が付き合ったところで、どうするんだ?
こっちは週3でやっとプロテインの飲み方が分かってきた程度だぞ。
フォームもまだまだ怪しいし、ベンチプレスなんてやっと自重プラスαを超えたくらいだ。
向こうはどうせ、毎日ジムに通ってて、デッドリフトのフォームも完璧で、サプリの飲み合わせまで管理してるような人間なんだろ?
話題にすらならねぇよ。
「今日の筋肉痛、どこですか?」
「どこを鍛えるのが好きですか?」
――そんな会話、何一つ成立しない。
ていうか、筋トレしてない人間にマッチングしたら、それはそれでおかしい。
向こうだって困るじゃん。
「なに?筋トレもしてないのにこのアプリ入れたの?」って、絶対なる。
自分が場違いだってことは、最初からわかってる。
……でも、じゃあなんで俺、筋トレしてるんだ?
別に誰かにモテたくて始めたわけじゃない。
健康になりたくて、自分の生活をちゃんとしたくて、それで続けてるだけだ。
だったら、筋トレしてる人と話してもいいんじゃないのか?
別に、マッチングしてすぐ恋愛しなくても、いいんじゃないのか?
……いやいや、でもさ。
俺が「こんにちは」って送ったところで、向こうが「ふーん、で?」で終わったら、どうすんだよ。
返信なかったらどうする?
そもそも開いてもいないかもしれないじゃん。
そんな思考がぐるぐると回って、気がつけば3分、5分と時間だけが過ぎていく。
画面の中の「FitMatch」は、静かに、無言で、自分の決断を待っていた。
意を決して、指先を動かした。
アプリのアイコンをタップすると、すぐに初期設定画面が現れた。
名前、生年月日、身長、体重、筋肉量、体脂肪率、心拍数、睡眠時間――。
筋トレ管理アプリと同期されているから、ほとんどのデータは自動的に反映されていた。
……まぁ、改めて見ると、なんとも中途半端な数値だ。
筋肉量は一般成人男性の平均よりほんの少しだけ上、体脂肪率も標準。
心拍数、代謝、可動域――全部「悪くはないけど特別でもない」。
筋トレを始めてから多少は改善したけど、
これで胸を張って「鍛えてます」なんて言えたものか。
自分が思っていたよりも、自分は凡庸だった。
ちょっと胸を張りたかっただけなのに、
現実は静かに、でも確実に僕を打ちのめす。
──と、そんな気分のまま、マッチング候補を何気なくスクロールしてしまった。
……そこで、息を飲む。
表示された女性たちの筋肉量や体脂肪率、パフォーマンススコアは――
明らかに、異次元だった。
しなやかで、強く、美しい。
まるで彫刻のように無駄のない、洗練された身体。
競技者かモデルかと思うほどのバランス。
プロフィール写真には、
笑顔でダンベルを持つ女性、
クライミングウォールの頂上でポーズを決める女性、
日常の一コマとしてランニング中の爽やかな笑顔を見せる女性――
誰もが、自分の肉体を誇りにしていて、
その肉体を、ただ「魅せるため」じゃなく「生きるため」に鍛えているのだと、写真一枚から伝わってくる。
僕とは……違う。
全然、違う。
ただ、純粋に、圧倒された。
それは恐れとか、引け目とか、そういうものを超えていて、
ただただ、美しいと思った。
筋肉って、こういうものなのか、と。
鍛えるって、こういうことなのか、と。
画面越しに、僕は自分の知らない世界を、ただ見つめていた。
しかし、考えが浅はかだった。
筋トレアプリの時もそうだったけど、彼の作るサービスはいつも、どこか人の判断力の隙を突いてくる。でも、やったからには、もう戻れない。月額、いや年額だったか…? それすら覚えていない。…どうしよう。俺、このまま誰ともマッチしなかったら、ひたすら数字だけ見せつけられて、「無駄な金払って孤独」みたいな状態になるんじゃないか?登録の流れで、いつの間にか「有料プラン」にしてしまっていた。無料プランでも良かったのに、妙に誘導が巧妙で、気が付けば有料プランの登録も完了していた。無料のままでも良かったはずなのに、思わず「フルサポート」「高精度マッチング」「データ解析強化」の文字につられてしまったんだ。どこか焦りのようなものが背中を押していたのかもしれない。改めて考えると、場違いな空間に身を置いたことへの不安ばかりが胸を満たしていく。果たして自分が筋トレをしている女性と付き合ったところで何を話すのか。日々積み上げていると言っても、ようやく初級者を抜け出した程度の身体で、彼女たちのような洗練された肉体美を持つ人間と何を共有できるというのか。逆に、鍛えていない女性と出会ったとしても、そもそもこのアプリを使う意味がどこにあるのか。そうした不安と妄想が延々と頭を巡り、結局インストールしたままアプリを閉じることも、マッチング画面を開くこともできずにいた。
いや、逆にマッチしても困る。
どうする?メッセージ送らなきゃダメなのか?
「はじめまして、筋肉すごいですね」って言うのか?それ、どう考えても気持ち悪いだろ。もし返ってこなかったら?もし返ってきたとして、話題が途切れたら?逆に、めちゃくちゃ意識高い系トークが返ってきたら?「タンパク質摂取量どれくらいですか?」とか、「サプリはマイプロ派?オプチ派?」とか、そんな話題、ついていける自信ない。…ああ、ダメだ。俺、絶対無理だ。やめときゃよかった。いや、今からでも解約だ。──その瞬間。
その時、不意に通知音が響いた。マッチングが成立した、という表示とともに、画面には一人の女性の名前とアイコンが浮かんでいた。驚いたのは、その直後だった。まだ何も送っていないのに、既にメッセージが届いていた。
唐突な耳につく衝撃的な音声。
「こんにちは。よろしくお願いします。」
短い、だが確かにこちらへ向けられた言葉だった。
スクリーン越しに見つめていた、あの筋肉の美しい人間が、自分に対して挨拶をしていた。
シンプルで、礼儀正しい文面。だけど、そこにいたのは、さっきまで写真で見て圧倒されていた、あの「別世界の住人」だった。心臓が跳ねる。スマホを持つ手が、汗ばんだ。どう返せばいいのか、まるで分からなかった。
結局ひとりで考えていても堂々巡りだった。
彼はスマートフォンを持ったまま、ふと大学のグループチャットを開いた。そこにいるのは、筋トレにもマッチングアプリにも興味のない、ごく普通の友人たち。昼休みにくだらない話で盛り上がる、気楽な人間関係だった。
彼は思い切って個別チャットを開き、一人にメッセージを送った。
「なあ、ちょっと相談していい?」
『は?何、女関係?』
間髪入れず返ってきた反応が、いかにもその友人らしくて、少しだけ気が抜けた。
「まあ…そうなんだけどさ。マッチングアプリで筋トレ好きな人とマッチして、でも俺みたいなのが相手していいのかなって」
数秒の沈黙。既読はすぐに付いていた。
『お前、バカじゃねぇの。』
画面に現れたその一言に、妙な説得力があった。
『そもそも向こうからメッセージ来てんだろ? なら向こうもお前に興味あるか、少なくとも拒否してねぇってことじゃん。深く考えすぎ。』
『つか、筋トレとか関係なくね? 話してから考えりゃいいだろ。』
『お前が筋肉で結婚するわけじゃあるまいし。』
あまりにも雑で、あまりにも正論だった。
そうだった。自分はマッチングアプリの世界に生きるわけでも、筋肉で人生の全てを決めるわけでもない。ただ、たまたまマッチした、ただの一人と、たった一度会話を始めるだけだ。それだけの話なのに、なぜこんなに身構えていたのか。
少しだけ肩の力が抜けた。
彼は改めてメッセージ画面を開き、入力欄に指を乗せた。
彼は静かに、そしてようやく指を動かした。
「こんにちは、マッチありがとうございます。
あまり慣れていないですが、よろしくお願いします。」
無難で、丁寧で、特徴のない挨拶。
これ以上でも、これ以下でもなく、ただまず返事をした。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが、わずかに緩む。
送った。それだけで、何か一歩踏み出した気がした。
…だが、待てども画面に動きはなかった。
チャットアプリ特有の「既読」のマークも出ない。
リアルタイムで心拍数や活動量を表示するアプリのはずなのに、
今、この瞬間だけ、相手の存在が完全に沈黙していた。
さっきまで向こうから挨拶を送ってきたはずなのに、
どういうわけか、自分が送った瞬間、世界が静止したように感じる。
1分、3分、5分…。
スマホを置いても、視界の端でアイコンが気になって仕方がない。
まるで、自分のメッセージが世界から拒絶されたかのような感覚に、
落ち着きかけた心が、またわずかにざわめく。
とはいえ、相手にも都合はあるだろう。
トレーニング中かもしれないし、仕事や学業で忙しいのかもしれない。
スマホを見ていないだけかもしれない。
分かってはいる。分かってはいるのに、
なぜか「返事がない」という事実だけが胸に居座り続けた。
考えても仕方ない。そう思い直し、彼はもう一人の友人に連絡を取った。あの筋トレアプリの開発者であり、FitMatch自体の関係者でもある資産家の友人だ。
「なあ…これ、もしかしてサクラとか混ざってない?」
軽い冗談のつもりだった。だが、返ってきた答えは意外なものだった。
『あー、それ、多分だけど…うちじゃなくてコンサルが勝手に仕込んだ奴。』
あまりにもあっさりした返答に、一瞬言葉を失う。
『正直、アプリ自体のマッチング精度は悪くないけど、集客用にサクラを混ぜるって発想が古臭いコンサルが一部でやってるんだよね。こっちは健康目的とか社会貢献とか考えてるのに、営業数字しか見てない連中が勝手に派遣してる。』
言葉だけは冷静だが、その裏にある苛立ちは伝わってきた。
『まあ、正直迷惑してるけどさ。もしそれで問題になったら、俺に言って。会えなかったら返金するぐらいの準備はしてるから。』
その無駄に太っ腹な発言に、少しだけ肩の力が抜けた。たとえサクラだったとしても、損することはない。会えるかどうかなんて、まだわからないけれど。
でも、どうにも胸の奥には釈然としないものが残っていた。
あの、筋肉の美しい彼女が、そんな作られた存在だとしたら――。
それなら、あの一言は何だったのか。
彼はもう一度、スマホの画面を開いた。
まだ、返信はなかった。
もともと彼と資産家の友人とは、ただのユーザーと開発者という関係ではなかった。中学時代、偶然出会ったプログラミングのオンライン勉強会。互いに小さなコードを書き合い、時にはバグで笑い合い、時には深夜まで議論していた。才能も性格も正反対だったが、だからこそ互いに補い合い、友人として並び立っていた。彼が一般家庭で育ちながらもITや論理思考を鍛えたのは、その友人の刺激があったからだし、資産家の方も、金だけでは得られない実地の視点を彼から得ていた。
だからこそ、今回も正直に言えばいい。そう思って相談した。だが――返ってきた答えは「一部の外部業者が勝手にやっている」という、曖昧な責任転嫁に過ぎなかった。
怒りが込み上げた。
「…お前がそんなつもりじゃなくても、現場は腐ってんだよ。」
そう呟いて、彼は独自に動き出した。
まず、相手女性のプロフィール写真からSNSを逆引きし、過去の投稿を解析。そこから特定のトレーニングジムの投稿頻度、着用ブランド、位置情報のズレを洗い出す。次に、ジムの会員名簿や地域のバイト求人サイト、学校の文化祭写真から一致する姿を確認し、氏名、通学先、バイト先まで割り出した。
彼女は地元の短大に通い、週3日ファミレスで深夜バイトをし、月収は推定5万円ほど。そこにアプリ運営からの副収入が加わっても、生活はギリギリの範囲にとどまっている。つまり、彼女もまた、「生活のためにやっている」ただの一人に過ぎない。
本当は、そこに怒りをぶつけるのは筋違いだった。
でも、納得できなかった。あの一言を、金で動くサクラが送ってきたのだとしたら、どこに本当の気持ちがあるんだ。
彼は匿名ブログを立ち上げ、全てを書いた。
筋トレマッチングアプリ「FitMatch」の裏側で、
いかに外部業者による偽ユーザーが登録され、
運営が表向きは健康志向を装いながら、
現場では利益目的で人を騙しているかを。
もちろん、彼女の名前や住所、学校名までは書かなかった。
だが、年齢や収入、生活環境から「サクラの雇用実態」を想像できる程度には、具体的に記した。
文章の最後には、こう付け加えた。
「このアプリは、筋肉と誠実さを繋げる場ではない。人の孤独につけ込むだけの、歪んだ市場だ。」
投稿ボタンを押す指は震えていなかった。
ブログ投稿を終えた彼は、一人でいたくなかった。
結局、資産家の友人に声をかけ、駅前の居酒屋に向かった。
「で、お前、結局それ全部調べたのかよ。マジでか。お前、頭おかしいって」
友人は笑いを堪えきれず、ジョッキを片手に腹を抱えていた。
「いや、普通そこまでやらねぇよ。サクラかどうか調べて終わりだろ、住所とか学校とか、怖ぇって。公開してない情報に色々入り過ぎだろ!」
からかうでもなく、本気で呆れた笑い声。それが逆に心地よかった。
「でもさ、それがサクラだろうが何だろうが、お前、ちゃんと筋トレ続けてんだろ? そっちのほうがすげーよ。」
乾杯の音もそこそこに、二人は久しぶりに気楽に時間を過ごしていた。
そうして二杯目を飲み終えた頃、友人のスマホが震えた。
「あー、はいはい、またどっかの自治体かなんかか?」
通知を見るなり、酔った頭のまま返事を書く。
「いいよ、使っていいって。どうせ広告費とかいらねぇから、勝手に使っとけって言っとけ」
相変わらず適当で、金にも肩書にも無頓着なやつだった。彼はその様子を見て、少しだけ肩の力を抜いた。世の中の仕組みなんて、案外こんなもんだ。筋肉も、アプリも、社会も、全部、完璧じゃない。
それでもまあ、生きていくしかないだろうと、
三杯目の酒を頼むのだった。
居酒屋で別れた後、酔いが一気に回り始めた。もともと酒に強いわけでもなく、気が緩んだ分、アルコールは容赦なく彼の頭を鈍らせていった。駅前の風はやけに心地よく、歩道のベンチに腰掛けた時には、もう足取りも覚束なかった。
その時、不意に誰かが彼の腕を引いた。
「…大丈夫?」
ぼんやりとした視界の向こう、女性の声が聞こえる。
「らいじょぶ。」
誰か知り合いだったか。いや、違う、こんな声、知らない。けれど抗う気力もなく、その手に導かれるまま、彼は夜の街を歩いていた。
どこかの階段を上がり、エレベーターに乗り、扉の音を聞いた気がする。布団の感触が背中を包み込んだ瞬間、意識は途切れた。
次に目を覚ました時、知らない天井が目の前にあった。
木目調のシンプルな天井。室内は整理され、無駄な装飾もない。スマートフォンを探そうとして、隣のソファに座る人影に気づいた。
彼女だった。
マッチングアプリで、勢いで送ったあのメッセージ。
画面越しに見た、あの筋肉質な輪郭と、落ち着いた目元。そのままの姿で、静かにこちらを見ていた。
どうしてこうなったのか、記憶は曖昧だった。
だが、確かにそこにいたのは、間違いなく「適当に返事した」相手だった。
ベッドから起き上がった彼に、美月は一瞬だけ目をそらした。
気まずそうにしながらも、そっと声をかける。
「…昨日、倒れそうだったから…仕方なく、ね。」
声は小さく、でも放っておけなかったという気持ちは隠しきれていなかった。
「…あんまり人と会うの得意じゃないけど、
困ってるの、見過ごせないし…。」
ソファの隅で、小さく丸まるように座ってスマホをいじっている。
それでも、逃げるようにしていた筋肉男たちと違って、
彼女は彼にだけは、ほんの少し素を見せていた。
「…お腹空いてるなら、作ったけど…食べる?」
視線は合わせない。けれど、
彼のために作ったことは、明らかだった。
お薬変えた影響を試してるせいで本調子ではないです。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
大丈夫のその先は…
水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。
新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。
バレないように、バレないように。
「大丈夫だよ」
すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m
帰国した王子の受難
ユウキ
恋愛
庶子である第二王子は、立場や情勢やら諸々を鑑みて早々に隣国へと無期限遊学に出た。そうして年月が経ち、そろそろ兄(第一王子)が立太子する頃かと、感慨深く想っていた頃に突然届いた帰還命令。
取り急ぎ舞い戻った祖国で見たのは、修羅場であった。
ヒロインだけど出番なし⭐︎
ちよこ
恋愛
地味OLから異世界に転生し、ヒロイン枠をゲットしたはずのアリエル。
だが、現実は甘くない。
天才悪役令嬢セシフィリーネに全ルートをかっさらわれ、攻略対象たちは全員そっちに夢中。
出番のないヒロインとして静かに学園生活を過ごすが、卒業後はまさかの42歳子爵の後妻に!?
逃げた先の隣国で、まさかの展開が待っていた——
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる