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本編
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作品の前にお知らせ
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
エレベーターの中は、雨の匂いで満たされていた。
廊下の突き当たり、壁に沿って貼られた何枚かのポスター。白い紙面を横切る「防犯」の二文字が、視界の隅で微かに光を反射していた。彼女はポスターの印字を読もうとはしなかったが、そこに書かれた緊急時の対応が、ニュースの見出しのように頭にへばりついている感覚がした。胃のあたりがじわりと収縮し、吸い込んだばかりの空気が、まるで内臓に詰まったかのように滞る。
立ち止まった足元で、濡れたタイルの表面が廊下の蛍光灯を鈍く映していた。靴底のゴム越しに、冷たい水がわずかな水たまりとなって輪郭を広げているのを感知する。彼女は無意味に、足裏でその水たまりを避けるように一瞬だけ姿勢を動かした。その動作は、箱の前に立つという行為がすでに、神経を張り詰めた作業であることを示していた。
呼び出しボタンの裏側から、エレベーターの箱を運ぶモーターの音が、低い唸りとなって近づいてくる。音はまだ遠く、数フロア下からゆっくりと上昇しているのが、金属を伝わる振動の残響だけで分かった。その振動が、廊下のコンクリートを通して彼女の足元まで伝わってくる。全身の皮膚がその微細な震えを警戒した。
親指が呼び出しボタンの冷たい金属の円に触れる。指先の皮膚が汗ばんでいるのが分かり、すぐに力を抜いた。ボタンの感触は冷たく、エレベーターホールにこもった濡れたコンクリートの匂いと、その冷たさが結びつく。
遠くで一度、「カツン」という音がしてモーターの音が減速した。一つ下の階にエレベーターが停車したのだろうか。呼吸が浅くなる。彼女の喉が、音もなく一度だけ上下した。唾を飲み込む行為が、全身の緊張をわずかに緩めようとする、ほとんど無意識的な反射だった。
エレベーターの扉は固く閉ざされたまま、金属の継ぎ目が垂直な黒い線となって立ちはだかっている。その隙間から、内部の空調で乾いた空気が、微かにビニールレザーと清掃剤の匂いを乗せて漏れ出してくる。外の廊下にある湿度の高い空気と、箱の内部にある乾燥した空気の対比が、鼻腔を通過する温度差となって感じられた。その小さな、箱の中に存在する異質な空気が、彼女の警戒心を増幅させた。
モーターの音は再び上昇に転じ、先ほどよりも高い音域を響かせ始めた。上昇する質量が、エレベーターシャフトを軋ませている微かな音と、彼女の心臓の鼓動が、一瞬だけ同じテンポで打っている錯覚に陥る。彼女の視線は扉上部の、小さな階数表示パネルの動かない数字に固定された。
ポスターの隅に貼られた「監視カメラ作動中」のシールが、僅かな安心を仮置きさせる。しかし、その安心はすぐに、この閉鎖的な空間に対する生理的な拒否感に塗り替えられてしまう。エレベーターという箱は、外部のコントロールが完全に断たれた、数分間の「密室」でしかない。
彼女は肩をわずかに持ち上げ、全身の力を抜こうと努めたが、背中側の筋肉は硬く張ったままだった。扉の継ぎ目から漏れる青白いLEDの光が、箱の到着を告げる直前の、最後の沈黙を切り裂く。
そして、電気的なロックが解除される「カチャ」という微かな音と共に、けたたましい到着音「チン」が廊下に響き渡った。
扉が、まるで彼女の息を吸い込むかのように、音もなく「スー……」と滑らかに開き始めた。
扉がスライドして開き、室内の青白いLEDが一気に視界を占めた。
彼女は深く息を吸い込む間もなく、反射的に一歩、箱の中へ踏み入った。空調が作り出すひやりとした風が、顔に張り付いていた外の湿気を切り裂く。内部の壁は鏡面仕上げのステンレスで、手すりが無機質な冷たさで横を走っている。床には前の客が残したであろう、細かく透明な水滴の跡がいくつも点在し、床材の模様に馴染むことなく鈍く光っていた。
すぐさま操作盤側の壁際に背を預けるように立ち、彼女は扉の方へ向き直った。操作盤の上部に設置された監視カメラの小さな赤点が、彼女を見下ろしている。その赤点に、わずかな安堵を覚える。しかし、それはエレベーターそのものへの恐怖を払拭するものではなかった。
扉が、モーターの摩擦音を伴いながら、再び閉じ始める。空間が縮まっていく圧迫感に、彼女の呼吸が一段と浅くなる。身体は硬く緊張し、特に肩の周りの筋肉が微かに強張っているのが分かった。手をどう置くべきか迷い、操作盤には触れず、ポケットに押し込むか、手すりに触れるか、一瞬逡巡した。
扉の隙間が、あと五センチほどに迫った瞬間――。
外から勢いよく、濡れた革靴の底が床を踏む「ペチャ」という水音と共に、人影が滑り込んできた。
動作に遠慮がなく、ほとんど無言で彼女の立つ側の空間に侵入してくる。濡れたコートの袖から、水が連続して床に滴り落ち、彼女の靴の横で急速に輪を広げた。その水音は、扉が閉まるモーター音よりも、耳に近く、鮮明に響いた。
彼は濡れた傘を折りたたみ、水気の多い布と革の匂いと共に、微かな整髪料か香水の香りがエレベーター内の乾いた空調とぶつかり、湿気となって立ち込める。
彼女の視線は、反射的にその男の顔を捉えかけた。びしょ濡れになった前髪から、水滴が頬を伝い、顎の輪郭で切れて落ちる。濡れた肌が青白いLEDの光を反射し、その横顔の線の美しさ、濡れた睫毛の長さが、瞬間的に視界に焼き付いた。
視線が一瞬だけ、まるで強い磁力に引かれたように、彼の顔に吸い寄せられる。しかし、すぐに彼女は慌てて視線を扉の継ぎ目に戻した。男は彼女の存在にもエレベーターの状況にも関心を払う様子がなく、スマートフォンを取り出す動作もなく、ただ無表情に、正面の表示パネルを見つめている。あいさつもなく、その無頓着な振る舞いが、この箱の中の圧迫感をさらに高めた。まるで、箱の恐怖と、予期せぬ他者(男)の警戒感が、心の中で合成されたかのように、心拍が速まるのを感じた。
彼は彼女に向かって一言も発しない。その「感じの悪さ」は、顔の良さというディテールとは裏腹に、極めて制御不能な他者性を際立たせていた。彼女の肩の強張りはさらに増し、手の位置は宙で迷ったまま、結局手すりを軽く掴んだ。その金属の冷たさだけが、彼女の意識を今この瞬間に留めようとした。
男の濡れた靴と彼女の靴との間の床に、水の流路ができつつあった。男のコートの袖から落ちる一滴一滴が、規則的なメトロノームのように水音を刻む。その水音の間隔を数えることで、彼女は心の動揺を落ち着けようとした。
エレベーターの扉は、最後の数ミリメートルを閉じ終えるために、重いモーター音と共に静かに動き続けた。そして、「カチッ」という電気的なロック音と共に、完全に閉鎖される。
密室の圧迫感が、一拍、彼女の呼吸を止めた。
完全に閉ざされたエレベーターは、予想に反してすぐに上昇を始めなかった。
モーターの唸りは静まり、箱全体が静止している。階数表示の数字は変わらず、扉が閉まる前に表示されていたフロアを固定したまま、青白いLEDを薄く光らせていた。彼女の胃のあたりに残っていた重い圧迫感は、この予期せぬ停滞によって、さらに冷たい違和感へと変わった。すぐに動き出すことが、「日常」への復帰の最低条件である。その条件が満たされないことが、彼女の喉を詰まらせた。
背中を壁に軽くつけたまま、彼女は全身の緊張を維持していた。操作盤の横に立つ彼女と、反対側の壁寄りに立つ濡れた男。二人の間には、濡れた床を分断するように、水の流路がうっすらとできていた。男のコートの裾から落ちた水が、エレベーター内のわずかな傾きを伝って、じわりと彼女の靴先の方へと細い筋を作ってくる。
彼女の視線は、再び監視カメラの小さな赤い光点に避難した。カメラは上部で光を放っているだけで、それ以上の実質的な機能は果たしていない。それでも、この密室において「見られている」という感覚は、彼女にとって最低限の均衡を保つための細い蜘蛛の糸だった。
男の顎のライン、濡れた髪の毛が描く額の輪郭が、視界の端に微かに捉えられる。彼の呼吸は、彼女のように浅く切迫したものではなかった。走ってきたわけではないのだろう。その一定した、静かな呼吸の音だけが、閉ざされた箱の中に残響する。男の濡れた靴は、両足の先端をわずかに開き気味にしており、すぐに動いて詰め寄るような意志は感じられない、ただ静止した姿勢だった。
その時、濡れたコートの袖口から、「ポタ」と一滴、水が落ちた。
水滴は床の透明な水たまりを打ち、その水紋が静かに広がる。
彼女は無意識に、その次の水音を待った。
「ポタ」――。
二度目の水音は、わずかに長い間隔を置いて響いた。彼女はそれを、頭の中で数える。その行為が、彼女の乱れていた心拍に、無理やり一定のテンポを与えようとする。一つ、二つ、三つ……。水音が落ちる間隔が、外界から隔絶されたこの密室における、唯一のメトロノームだった。
指先をポケットの縁に軽く触れさせていたが、気がつけば、彼女の右手の拳は無意識に固く握りしめられ、爪の先が手のひらの皮膚に食い込んでいる。その微かな痛みは、彼女の意識を「今、ここにいる」という一点に固定させた。
水滴を数えることに集中するうち、男の存在に対する「即時の、生理的な警戒」のピークが、わずかに過ぎ去っていくのを感じた。恐怖は消えていないが、観察できる程度には落ち着いた。
その間も、エレベーターは動かない。静止した箱の中の空調の風が、彼女の硬い喉元をひやりと撫でた。
不意に、階数表示のLEDの数字が、ほんのわずか、チカッと点滅した。
それは動き出す前の予兆、あるいは電気的な不安定さ。どちらか判別はつかない。しかし、その瞬間、彼女の握った拳から力が抜け、右手の親指が、操作盤の緊急停止ボタンでも、階数ボタンでもなく、**「開」**のボタンへと、じり、と近づいた。
階数表示の数字がチカッと点滅した直後、エレベーターの箱全体が、わずかに、しかし明確に揺れた。
その微かな振動が、彼女の神経を瞬間的に最大まで研ぎ澄ませた。身体の反射が、思考が介入するよりも早く、硬く握っていた右手を操作盤へと突き出した。手が触れたのは、非常停止ボタンでもなければ、行先階を呼ぶための数字ボタンでもない。それは、**「開」**と刻印された、薄い長方形のボタンだった。
親指の先端がボタンにめり込み、スイッチが深く沈む。その確かな手応えを感じた瞬間、箱が上昇に転じようとしていた微細なモーターの唸りが、再び静かに停止した。動きかけた箱の質量が、操作盤の指示によって強制的に静止させられたのだ。
彼女は、指を離さなかった。親指は「開」のボタンを押し続けている。じんじんと指先に力が集中し、爪の先とボタンの表面が触れ合う部分の皮膚が、薄く白くなっているのが分かった。
扉は、閉まりきっていた状態から、ゆっくりと、しかし不確かな動きで再びスライドを始めた。「ウーッ」という摩擦音と共に、黒い継ぎ目が横へ移動し、外側の廊下の光と湿った空気が流れ込んでくる。
扉は全開には至らない。三分の一ほど開いた半端な位置で、動きを止めて静止した。
外から入り込む光が、床に落ちた水たまりの輪郭をくっきりと浮き上がらせる。そして、外の雨音が、閉ざされていたときよりも強く、はっきりとエレベーターの箱の中に流れ込んできた。滴が落ちるテンポも、雨音の背景に飲み込まれて聞こえなくなる。
彼女の親指は、ボタンから離れようとしない。指を離せば、扉は再び閉まり、上昇が始まるだろう。だが、指先はまるで接着剤で固定されたかのように、力を抜くことができない。親指を押している間だけ、この止まった箱の内部の圧迫感が、ほんの少しだけ弱く感じられる気がした。それは、論理的な理由ではなく、身体が作り出した、極めて個人的な感覚の言い訳だった。
反対側に立っていた男が、その動きを認識した。
彼の顔はまだ横向きのままだが、その視線だけが静かに動いた。まず、光が差し込んできた半開きの扉の隙間へ。次に、操作盤の上で白く沈む彼女の親指へ。そして、床に落ち、開いた隙間から入る光に照らされて光を反射する水たまりのラインへ。
男は何も言わない。文句も、確認の言葉もない。ただ、状況のディテールを、隅々まで観察している。その視線の動きから、「この人物は、感情的な反応ではなく、目の前の物理的な現象を冷静に分析する性質を持っている」という確信が、彼女の心に、静かに灯った。
親指はまだ「開」にいる。扉は開いたまま。
外の雨音が、すぐ近くの手すりを震わせるほど強く聞こえた。
扉は、三分の一ほど開いた位置で、静止したままだった。
彼女の親指は、相変わらず「開」ボタンを深く押し込んでいる。爪の周りの皮膚は薄く白くなり、指先に集中する力が、脈打つようにじんじんと伝わってきた。指先だけが、彼女の意志とは切り離された、別の生命体のように固執している。指を離すための明確なタイミングを探しているのに、ボタンを押しているこの不確実な時間だけが、なぜか長く感じられた。
扉の継ぎ目から、廊下の薄い蛍光灯の光が細く箱の中へ差し込んでいる。その光は、エレベーター内の青白いLEDとは異なる、やや黄色みがかった色合いで、床の水たまりを横切るように細い光の橋を作っていた。この光の橋が、箱の内部と外部を、水によって繋いでいるようだった。
扉の向こう、廊下の湿った空気が、金属と清掃剤の匂いが混ざる箱の中へ流れ込んでくる。外の雨音は、閉鎖時よりもいくらか強く、細い水流のように箱の中へ入り込み、静けさを揺らしていた。その外音があることで、密室の圧迫感はかろうじて緩和されていたが、その代わり、誰かに見られる可能性、つまり「制御不能な他者」の流入の可能性が、扉の隙間から常に滲み出ている状態だった。
操作盤の上部、通常は気づかないような小さな注意書きのシールに、彼女の視線が引きつけられた。「長時間ドアを開けたままにしないでください」。彼女はその警告を、目で追いつつも、指先を離そうとはしなかった。自分の行いが「異常な状態の延長」であることを、頭では理解している。にもかかわらず、指に込めた力が抜けず、ボタンの感触が、一種の錨のように彼女をその場に留めていた。
男は、依然として無言だった。彼は壁にもたれることなく、まっすぐに立っている。濡れたコートの裾からは、周期的に水滴が床に落ちていたが、彼の姿勢からは疲労や苛立ちといった感情的な情報は一切読み取れなかった。ただ、半開きの扉の隙間から差し込む光が、彼の横顔の稜線を僅かに際立たせ、濡れた睫毛の先に、小さな光の粒を灯していた。
彼は、彼女の押し続ける親指を、もはや観察していない。視線は扉の開口部ではなく、床、あるいは自分と彼女の間にできた水の筋に注がれているように見えた。彼は、この止まった箱、半開きの扉、そして親指の動作という、「発生した状況のディテール」だけを純粋に観察しているようだった。
彼女は、握っていない左の手で、着ていたジャケットの裾を無意識につまんでいた。生地の薄い感触が、わずかな現実感を与えてくれる。この行為は、この場から逃げ出したいという焦りではなく、この異常な状況下で、自己の存在を確かめようとする、ほとんど反射的な小動作だった。
扉の隙間から入り込む光が、わずかに揺らぐ。それは風ではなく、廊下の奥、角を曲がるようにして、何かの気配が生まれたことの予兆だった。
遠く、コンクリートの床に、靴のゴム底が吸い付くような、かすかな足音が近づいてくるのが聴覚の端で捉えられた。このまま扉を開けたまま押し続けていれば、誰かに見られる。その予感と共に、彼女の心拍は再び上昇を始めた。
扉の隙間から聞こえていたかすかな足音は、角を曲がり、明確にこのエレベーターホールへと近づいてきた。
彼女の心拍は、外の雨音の強さとは異なる、不規則な緊張の波を打ち始めた。このまま半開きの扉の前で押し続けていれば、誰かに見られる。その予感は、エレベーターそのものへの恐怖とは別の、社会的な視線に対する警戒だった。
人影が、扉の隙間から見える廊下の奥に現れた。傘をたたみかけ、書類の入った薄いバッグを抱えた、顔の判別はつかない誰か。その人物は、立ち止まらずにこちらへ向かってくる。
外の廊下の照明が、扉の隙間から箱の中へと一直線に差し込み、一瞬だけ、彼女と男の二つの人影を、ショーウィンドウの展示物のように鮮明に浮かび上がらせた。
廊下の人物は、半開きの扉と、その中に立つ二人を認め、立ち止まった。傘から滴る水が床に落ちる小さな水音が響く。その人物は、こちらの異常な状況(半開きのまま止まっていること)を認識した。しかし、じろじろと好奇の目で見ることはせず、ただ軽く会釈をする程度の反応で、彼女たちを通り過ぎた。
「どうぞ」という言葉もなかったが、その会釈と無関心な視線は、エレベーターを待つ人間が、半開きの箱の中に立つ二人の人間を「何か事情があって待機している一組の人間」として処理した、という事実だけを残していった。
廊下の人物が去っていく。彼女の視線は、その人物の通り過ぎた跡を追った。その視線の行き先をたどることで、彼女は初めて、自分と濡れた男の配置を客観的に知覚した。自分は操作盤の壁際、彼はその対角線上に静止している。箱の中に、まるで彫像のように並んでいる二人。外から見れば、自分はこの男と共に、この異常な静止状態を共有している人間なのだ。
それまで箱そのもの、そして指先に集中していた意識が、「この人と一緒の画に、自分が入ってしまっている」という方向に大きくねじれてズレた。頬のあたりに、わずかな熱が集まるのを感じた。それは恐怖とは違う、外の視線によって炙り出された自意識の火照りだった。
なぜ、指を離さなかったのか。今、離せばすぐに箱は動き出し、この共犯的な静止状態から逃れることができたはずだ。しかし、親指は動かない。指先に込める力が、この「開いている」という状態を維持することが、彼女自身の内的なねじれを肯定しているようだった。
足音は遠ざかり、ついに廊下の奥で完全に途絶えた。再び、エレベーターの箱の中に、濡れた布と整髪料の匂い、そして二人だけの、過剰なほどの静けさが戻った。
男は、外の人影が去ったことにも関心を示さない。彼は微動だにせず、ただ床を見つめている。彼の靴と彼女の靴の間を結ぶ水の筋は、そのまま留まっている。
二人の沈黙が、箱の中の静けさを極限まで高めた、その瞬間だった。
操作盤から、「ポーン、ポーン」という、電子音の警告ブザーが、静かに鳴り始めた。それは、「長時間ドアを開けたままにしないでください」というシールに呼応するかのような、細く、持続的な警告音だった。
「ポーン、ポーン」
電子音の警告ブザーは、止まることなく、しつこく箱の中に鳴り響いていた。扉は相変わらず半開きで、廊下の光と雨音の残響を細く取り込んでいる。この音が、彼女の親指が「開」ボタンを押し続けているという行為が、もはや個人の選択ではなく、エレベーターシステム全体にとっての機械的な異常であることを突きつけていた。
彼女はブザーの音に合わせて、無意識に親指にさらに力を込めていた。その力が、音への反射的な抵抗のようでもあり、この異常な状態を維持しようとする意地にも見えた。操作盤の階数表示の数字が、警告に同期するようにチカチカと不規則に点滅を始めた。
ブザーの周期的で平板な音が、約十秒続いた。そして、その音が一度静まった瞬間に、操作盤の小さなスピーカー穴から、電子音声が流れてきた。
「ドアが開いています。ご注意ください。」
機械的なイントネーションの定型文だった。物語や個人の内面とは一切関係のない、ただの状況説明。しかし、この冷たい機械の声が響いたことで、彼女は自分が「ドアを開けたままにしている」という、客観的な異常行為の実行者であることを、改めて自覚させられた。
自動音声が切れると、箱の中には再び、ブザー音の止まった直後の、過剰なほどの静けさが戻った。
その、真空のような一瞬の静寂を、別の音が破った。
「けっこう、しつこいですね。」
低く、やや湿り気を帯びた男の声だった。
声は、ブザーのように平板でもなければ、機械音声のように冷たくもなかった。彼の喉元から発せられたその生の声は、彼が着ている濡れたシャツの襟元、その奥の皮膚から立ち上る体温を伴って、彼女の耳に届いた。彼女がさっき数えていた、コートから落ちる滴のリズムとは違う、予測不能なテンポで、言葉が箱の中に残響した。
その声は、エレベーターの機械音声に対して発せられた、状況への雑感のように聞こえた。しかし、そのタイミングは、彼女の親指がボタンを押し続けていること、つまり「しつこい」行為そのものを含み持たせているようにも感じられた。
彼女の身体は、その声の意外な落ち着きと低さに、一瞬だけ、全身の緊張が緩むのを感じた。それと同時に、自分がこの状況を作り出している張本人であるという恥ずかしさが、潮のように襲ってきた。
指先に集まっていた力が、わずかに、制御を失って抜けていく。
彼女の唇から、言葉になるかどうかも分からない、か細い声が漏れた。
「すみません……」
その謝罪の反射的な一言が発せられた反動で、長らくボタンに押し付けられていた彼女の親指が、「開」のボタンの表面から離れた。
指が離れた瞬間、操作盤の警告ブザーが鳴りかけることなく静かに止まった。そして、それまで維持されていた半開きの扉が、「ウーッ」という、閉じるためのモーター音を響かせながら、再びゆっくりと動き始めた。
親指が「開」のボタンから離れた瞬間、扉は、それまでの半開きの静止状態を破り、重いモーター音を立てながら、閉じきる動きを再開した。
廊下から差し込んでいた黄みがかった光の帯が、彼女の視界を横切りながら、細く、細くなっていく。その光が細くなるにつれて、エレベーターの中は、再び青白いLEDの人工的な照明だけに支配され、外界の色彩が完全に遮断された。開いていたはずの扉の隙間は、もう自分の指の感触を辿らなければ、その存在すら記憶から遠ざかってしまうような錯覚に陥る。
「ガチャン」という電気的なロックの音が響き、扉は完全に閉ざされた。外の雨音も、廊下の残響も、一切を遮断された箱の中には、再び二人の呼吸と、機械の内部の微かな唸りだけが残った。
扉が閉まりきったのを見届けた男は、「閉」ボタンに手を伸ばすことはしなかった。彼は、彼女の親指が離れただけで状況が進行したことを、黙って受け止めている。その無言の了解が、彼女の胸の内で、再び新たな種類の緊張を生んだ。
そして、箱全体が「フワッ」と、一瞬だけ沈むような独特の浮遊感を覚えた。
その直後、エレベーターは、唸りを上げるモーターの低音と共に、明確な上昇(あるいは下降)運動を開始した。足裏に伝わる振動が、彼女の身体の重心をわずかに前へと傾けた。この揺れが、静止時にはなかった、男との身体的な同期を意図せず生み出す。
男もまた、その揺れに合わせて、ほとんど気づかれないほど小さく、足の位置を調整した。彼の靴の周りに溜まっていた水たまりは、揺れに合わせて一瞬だけ形を崩し、水の表面が微細に波打ってから、すぐに新しい、静止した形を整えた。
彼女は、もう一度「開」ボタンを押して扉を開け、この「動き出した」という状態を止めることはできた。しかし、彼女の指は、操作盤の横で力が抜けたまま、静止している。自分で手放した逃げ道を、もう一度呼び戻すだけのエネルギーが、身体の中から湧いてこなかった。
視線が、階数表示のパネルを捉える。LEDの数字が、「チカ」と瞬き、そして、「ひとつだけ」進んだ。
数字が1つ進んだだけで、外の世界からの距離が急に伸びたように感じられた。それは、彼女の意思を超えて、箱が、そして時間が、進み始めていることを示す、絶対的な事実だった。
彼女は、その動き出した数字を見ているふりをしながら、実際には、視界の端で微動だにしない男の横顔を、反射的に捉えていた。
扉が閉まりきった後、エレベーターは唸りを上げながら、確実に上昇運動を続けていた。
彼女の足裏に、箱が持ち上げられている微細な振動と、床の金属の冷たさが伝わってくる。上昇が始まった瞬間、彼女は反射的に、予測できない衝撃に備えて目をきつく閉じてしまった。しかし、実際の揺れは、想像していたほど急激なものではなく、極めてゆっくりとした、滑らかな上昇だった。彼女はゆっくりと目を開けた。
背中に押し付けた壁のステンレスの冷たさが、箱の動きに合わせて微かに擦れる感覚がある。彼女の体重は、足の裏の前端へとわずかに移動し、身体全体が緊張したまま、この動きを受け入れようと構えていた。
操作盤の上部、青白いLEDの階数表示が、「チカ」と一瞬瞬き、数字がひとつ進んだ。
その光の変化だけが、この閉ざされた箱の中で、今、時間が確実に流れていることの唯一の尺度だった。数字がひとつ進むたびに、彼女の心臓の鼓動も、わずかに同じリズムで打っているような錯覚を覚える。
男は、壁に頼ることなく、垂直な姿勢を維持していた。彼もまた、箱の揺れに合わせて、靴底が床に吸いつくような小さな音を立てて、足の位置を調整する。その動作は最小限で、流れるような滑らかさだった。
彼女の視界の端に、その男の濡れた横顔の輪郭が、常に固定されて入っている。濡れた睫毛の先に、天井のLEDの光が小さな粒となって集まっていた。彼の濡れたコートの匂いは、空調によって拡散され、箱の中の金属の匂いと完全に混ざり合ってしまっていた。
二人の重心は、エレベーターの揺れによって、無意識のうちに同じ方向へと傾いていた。上昇する際の、わずかな浮遊感が、二人の身体を同時に前へと引き寄せようとする。揺れへの警戒心は、もはや箱そのものへの恐怖というよりも、「この揺れに、隣にいる人とどう対応するか」という、極めて近距離の人間関係へとフォーカスを移していた。この予測可能な「揺れ」の方が、さっきまでの、半開きでいつ止まるか分からない「静けさ」よりも、まだましに感じられた。
数字がまたひとつ、進んだ。
彼女は、自分がどこへ運ばれているのか、この箱が最終的にどこまで行くのか、という疑問を、身体の揺れと共に受け入れている。その間にも、男の呼吸の一定した音が、この狭い空間を満たしていた。
天井のどこか遠いところで、ワイヤが金属製のレールをこすりながら動いているような、かすかな「キュッ、キュッ」という音が聞こえ始めた。
その音は、これまでのモーター音とも、水滴の音とも違う、何らかの変調の予兆を含んでいるように感じられた。次の瞬間、箱が、上昇の勢いをわずかに変えるような、小さな違和感を伴う揺れを、身体全体で作り出した。
上昇を続けていた箱が、建物の構造的な継ぎ目に入ったのか、不意に「ガクン」と、想像していたよりも大きな衝撃を伴って一度揺れた。
その一音は、彼女の頭の中に貼り付いていた「事故の箱」というニュース映像の残像を、一瞬にして呼び戻した。身体は考えるよりも早く、バランスを保とうと反射的に動いた。体重を壁に押し付けながら、彼女の右腕は、空中で行き場を探し、すぐ隣に走る手すりへと向かって伸びた。
そのとき、彼女の指先が、目指した手すりの冷たい金属に到達する直前、別のものに触れた。
それは、金属よりもわずかに温かく、湿り気を帯びた、皮膚の感触だった。男の指先だった。彼は揺れに備えて、すでに手すりの上部に、わずかに指を添えていたのだ。彼女の爪と、彼の指の第一関節あたりが、ごく軽く、一瞬だけ触れ合った。彼の皮膚からは、まだ雨に濡れたような、わずかな冷たさが伝わってきたが、それは箱の壁の冷たさとは違う、生命の体温も同時に感じられた。
揺れは短く、すぐに収まった。床に溜まっていた水たまりは、衝撃で表面が小さく跳ね上がり、その波紋が急速に消えていった。男の靴は、衝撃の方向とは逆に、半歩分だけ彼女の側に滑っていたが、彼はすぐに重心を移動させ、元の姿勢に戻した。
彼女は触れた指先を、焼けるように熱く感じながら、反射的にその手を手すりから引き戻した。指先同士が触れ合った湿った冷たさと、体温の感触が、皮膚に長く残っている。さっきまで頼りなく冷たい箱の壁に背中を預けていたのに、いま触れたものは、ずっとやわらかかった。
彼女の視線は、まずその指先を追い、次に、行き場を失って力が入らない右手を、服のポケットの中に押し込んだ。
男は、このふいの接触について、何も示さない。彼は揺れの音に合わせて、小さく息を吸い込む音だけを立てたが、転びそうになることはなかった。彼の姿勢は、揺れの衝撃すら、己の重心の移動だけで吸収できると知っているようだった。
二人の足先の距離は、揺れによってわずかに縮んだままだった。数センチ。それは、静止していたあのときよりも、明らかに近かった。彼女は、体を守るために動いたはずなのに、その結果として、相手の存在が、以前よりも強く、近く、自分の中に侵入してきた事実だけが残った。
その間にも、エレベーターは上昇を続けた。操作盤の数字パネルは、揺れが収まったのを見届けるように、何事もなかったかのように次の階へ進んだ。
彼女の視線は、ポケットに押し込んだ指先から、手すりを横切り、動いた階数表示、そして最後に、男の肩のラインを捉えて、静かに止まった。
箱は上昇を続けていたが、揺れが収まった後も、彼女の意識は指先に集中したままだった。さっき触れた、湿った冷たさと体温の感触が、記憶として皮膚に残っている。
彼女の視線は、再び操作盤へと戻った。操作盤には、いくつもの階数ボタンが並んでいる。その中で、一つの数字だけが、周囲のボタンよりわずかに強い光を放って点灯していた。他のボタンは暗く、押された形跡がない。
彼女は、自分がエレベーターに乗り込む前に、意識のどこかで目的の階のボタンを押していたことを自覚した。そのボタンは、彼女がさっきまで「開」を押し続けていたボタンの、すぐ上に位置していた。
その点灯している数字を、彼女は目でゆっくりと追った。そして、その瞬間、ある種の驚きが、息を吸い込む反射と共に彼女を襲った。自分と同じ階数が、この閉ざされた空間で、唯一の目的地として光っていた。
男の視線が、点灯したその数字に注がれているのが、視界の端で分かった。
彼はその光る数字を、指でなぞるような動作を、視線だけで行った。
そして、小さく、しかし前回よりわずかに柔らかく聞こえる声で言った。箱の駆動音の上に乗る、その低い声には、感情的な抑揚はなかった。
「ああ……同じみたいですね。」
それは、ただの事実確認だった。このエレベーターの行き先が一つしかないという、機械的な状況の説明に過ぎない。しかし、その一言は、彼女の心の中で、さっきの物理的な接触よりも、もっと強く、二人の間に意図せぬ連続性を打ち立てた。
彼女は、返事をしようとして、喉の奥から空気が漏れる吐息だけで終わった。声にならなかった。代わりに、喉仏が小さく、一度だけ上下した。
同じ階で降りる自分たちを、さっき廊下から見た人物がいたら、どう見えただろう。彼女は、再び外の視線を想像してしまい、そのイメージの中で、自分とこの男が、まるで一つの流れの終点へ向かっているように見えた。それは「運命」といったご都合的なラベルではなく、「たまたま」という言葉では説明しきれない、微細な心の動揺だった。
彼女は、降りるときに、もう一度「開」を押すかどうかを、光っている数字を見るたびに考えてしまう。指は操作盤の側面に沿うように置かれている。いつでも「開」を押せる距離にあるのに、指先に込めるべき力の根拠が見つからない。
操作盤の数字は、次々と進んでいく。そして、目的階まで残り一つ、という階数を示す光が点灯した。
その階数が点滅し終えた瞬間、箱のモーターの唸りが、「キュッ」という小さな音と共に、減速の気配を伝えてきた。
エレベーターの箱全体が、わずかに沈み始める。
エレベーターの箱は、上昇の勢いを失い、目的階へと向けてゆっくりと減速を続けていた。
モーターの唸りは低い「ギー」というブレーキ音に変わり、箱全体がわずかに軋む。身体の浮遊感が薄れ、足裏にかかっていた体重が、徐々に重力に従って床の安定した面へと戻っていく感覚があった。彼女は、無意識のうちに姿勢を整え、両足の重心を、わずかに扉側へと移動させていた。
これは、箱が止まった後に、外へ踏み出すための「降りる準備」の動作だった。
反対側に立っていた男も、彼女と同じタイミングで、ほとんど気づかれないほど小さく、扉側へ重心を寄せた。二人の間にあった緊張の糸が、今度は「同じ目的地へ向かう協力者」としての、極めて短時間の同期へと変わっていた。
彼女の視線は、操作盤に並ぶ「開」と「閉」のボタンの配置に注がれていた。さっきまで、彼女の親指は「箱からの脱出」あるいは「状況の維持」という、自分のための選択として「開」を押していた。しかし、今は違う。同じ階で降りる人間として、「先に扉を押しておくべきマナー」が、意識の表面に浮上していた。自分が先に降りるのか、この人が先なのか、単純な順番だけが気になってくる。
彼女の右手の指は、操作盤の横で浮いていた。その親指が、再び「開」のボタンへと、迷うように、しかし確実に、傾いていく。押すか、押さないか。その迷いのあいだ、指の方が先に、扉が開く方向へと動いている。
男は何も言わない。彼の視線は、操作盤のボタンから、閉じている扉の継ぎ目、そして扉の向こうの廊下の気配へと、鋭く行ったり来たりを繰り返している。彼女の指の動きも、彼の視界の隅には、一瞬だけ入っているようだった。
箱全体が、最下部で一度だけ「カクン」という小さな音を立てて、完全に動きを止めた。
エレベーターが静止した瞬間、頭上の階数表示パネルが、目的階の数字を静かに固定した。その光は、彼女の親指が「開」ボタンの表面から、ほんの数ミリ上に浮かんでいる姿を、薄く反射していた。
どちらが押すのか。あるいは、押さずに、扉が自動で開くのを待つのか。その一拍の静寂の中で、外の気配が、扉の向こうで待ち構えている。
エレベーターの箱は、目的階に向けて減速を続けていた。
モーターの低い唸りは徐々に音域を落とし、昇降機シャフトのどこかで「ギー」と短く鳴る金属音が響く。天井の蛍光灯の光が、速度が落ちるのに合わせて、わずかに揺らぎを見せる。彼女の足裏の重さは、不規則な浮遊感から解放され、均等に床へと戻っていく。その感覚が、彼女の身体に、間もなく外界へ踏み出す準備を促していた。
彼女の指は、操作盤の「開」と「閉」のボタンの上、数ミリのところに、ふわっと影を落としていた。指先は、箱の動き出しからずっと静止していたにもかかわらず、まるで箱よりも先に到着してしまいそうに感じられた。扉が開くまでのこの数秒間が、さっきまで上昇していた数階分の時間よりも、ずっと長く引き延ばされている。
以前、「開」を押したのは、密室への恐怖と、状況を制御したいという反射だった。しかし今、指は、扉が開くタイミングを待って、押すか押さないかを、明確に選択できる位置にいる。それは、自分のための逃げ道ではなく、同じ場所で降りるこの男のための、マナーとしての選択へと変わりかけていた。
男は、扉の正面寄りの位置で、微動だにせずに立っている。彼の濡れた靴のつま先は、彼女の靴のつま先と同じく、扉の方向、つまり外界へと向いていた。彼は軽く顎を引き、扉の継ぎ目に注視している。動き出しのときに見せていたような、全身の硬い警戒は薄れ、肩の力は少し抜けているようだった。
扉の継ぎ目の金属板越しに、廊下の気配が薄く伝わってくる。箱の中の空気とは異なる、外界の温度差が、金属を伝って指先に感じられるような錯覚に陥る。
操作盤の数字パネルは、目的階に近づいていた。最後に「ピッ」という極めて小さな電子音と共に、目的階の数字が、周囲の光を全て吸収したように明るく灯った。
その数字の光を、彼女は視線だけで捉えた。そして、箱全体が、最下部で一度、重い質量を伴って静かに停止した。
静止の瞬間、彼女の親指の付け根に、微かな力が込められた。それは、「開」のボタンへと、ほんの少しだけ、不可避的に傾く動きだった。扉が自動で開き始める、その直前の、一拍の「溜め」が、箱の中に生まれた。
エレベーターが完全に静止した直後、扉のロックが解除される音に続いて、到着ブザーが短く「ピン」と鳴った。
扉は、待機していたモーター音と共に、「シュー」という軽い摩擦音を立てながら、左右に自動でスライドし始めた。廊下の光が、再び彼女たちのいる箱の中へと、徐々に、しかし確実に流れ込んでくる。
扉が自動で開いている最中だったにもかかわらず、彼女の右手の親指は、迷いを断ち切ったかのように、操作盤の**「開」ボタンへ向け、沈み込んだ**。
指がボタンを押し込んだ瞬間に、箱の中から短い「ピッ」という電子音が響いた。それは、扉の自動開閉を制御するインジケーターランプが、彼女の操作によって再度点灯したことを示す音だった。彼女の指は、一度目の反射的な操作ではなく、意識的な選択として、このボタンを押し続けている。
扉が開く速度は変わらない。しかし、彼女がこの動作を行ったことで、「これ以上閉まらないように」「急かさないように」という、言葉にならない配慮が、その指先に込められていた。彼女は、自動で開いている扉に対して、「開け続ける」という意志を上書きしたのだ。
開いた扉の隙間から、夜のフロア特有の、半分消えた照明の景色が現れた。奥に伸びる長い廊下、そして左右に並ぶドア。箱の中の空気が、開口部から外へと流れ出ていく感覚があった。
男は、扉が開いていくにつれて、その開口部の景色を注視していた。そして、一瞬だけ、操作盤の方向へ視線を送った。彼の視線は、彼女の親指が「開」ボタンを深く押し込んでいるという事実を、確実に捉えた。眉も口元も、ほとんど動かない。だが、彼はこの行為が、もはや「逃げ道確保」ではなく、「扉を開いたまま留めている」ためのものだと気づいている。その事実だけが、二人の間に、目線による短い合意を生んだ。
彼女は、自分のバッグの位置を、ほんのわずかに背中側へ直した。それは、男が先に、スムーズに箱から出られるよう、わずかな空間を作るための小動作だった。押してしまってから、彼女は指を離すタイミングを再び失う。押し続けるあいだ、扉の向こう側の、すでに到着したはずの時間だけが、自分から遠ざかっていく気がした。
扉は、左右の壁に当たる寸前まで完全に開ききった。
彼女の親指は、まだ「開」ボタンに乗ったままだ。
男が、濡れた革靴の底を、エレベーター内の床から廊下の床へと踏み出し、最初の一歩を踏み出す。その動作が、箱の中の静止を破った。
扉は完全に開ききり、エレベーターの箱の中に、廊下の静かな照明と、空調の淀んだ空気が満ちてきた。
彼女の親指は、まだ「開」ボタンの上、数ミリのところに浮かんだまま、離れるタイミングを探っていた。自分が押し続けることで、この男に先に降りる余裕を与える、という意識的な選択が、指先に残っている。
男は、彼女に視線を向けることなく、静かに一歩を踏み出した。濡れた革靴の底が、箱の床から廊下の床へと移動し、「カタン」という小さな音を立てて着地する。その一歩によって、男の姿勢は彼女の横から、わずかに前に出た位置へと変わった。
彼は、そのまま廊下を歩き出すことはしなかった。
男は、箱から出て、完全に廊下の床に立ち位置を固定したところで、半歩だけ身体を箱の方へ向けた。その動きに合わせて、彼の濡れたコートの裾から、最後の水滴が床に落ちる。
彼の右手は、操作盤があるのとは反対側の、扉の外側、壁に埋め込まれた「開」ボタンへと迷いなく伸びた。
「ピッ」という短い電子音が響く。
男は、外側の「開」ボタンを、意識して押し込んだ。
その瞬間、彼女の親指に宿っていた「開け続けなければならない」という重い役割が、音もなく剥がれ落ちた。自分が長らく守っていた役目を、さっきまで無言で隣に立っていた手が、何の合図もなく、黙って拾い上げたのだ。
彼女の親指は、力を失い、操作盤から完全に離れた。もう押さなくてもいい。その事実に、彼女は安堵と、小さな驚きを同時に覚えた。その人が、自分のために、扉を「開いたまま留めてくれている」という、ささやかな協調の行為。
彼女の足が、ようやく動いた。箱の床から廊下の床へ。その一歩を踏み出したとき、足裏に伝わる固さの違いを強く感じた。扉のレールをまたぐときの、足首のわずかな緊張。それは、箱の外へ出てしまったことの、心許ない感覚と重なった。
男は、外側の「開」ボタンを押し続けながら、彼女が箱から出るのを静かに待っている。彼の指は、以前彼女が押していたときと同じように、ボタンを深く沈ませている。彼もまた、理由を説明することなく、「長押しする側」に自然に回ってしまったのだ。
彼女は箱から完全に外へ出て、男の少し後ろの位置に、静かに立ち並んだ。扉は、男の指によって、開いたまま固定されている。
彼女の親指は、さっきまでボタンがあった場所を、無意識に宙で探してしまう。そして、その指先に、再び熱が戻っているのを自覚した。
二人が廊下の床に立ち並び、扉の静止が完成された瞬間、男は、彼女の横顔へ一瞬だけ視線を動かした。その視線は、扉の向こうの景色でも、自分の指先でもなく、互いの立ち位置、つまり「今、二人はここで並んでいる」という事実を確認するように、静かに交差した。
男が外側の「開」ボタンを押し続けている間にも、エレベーターの箱の中から、再び電子音の警告ブザーが鳴り始めた。その「ポーン、ポーン」という規則的な音は、長時間の開閉を続けることへの、最後の催促だった。
ブザーが鳴りだしたのを確認した男は、黙って「開」ボタンから指を離した。
彼の指が離れた瞬間、扉は、自動制御へと戻った。モーター音を立てて、左右の扉がゆっくりと、しかし確実にスライドを始め、二人が立っている廊下側へと閉じてくる。
男は、扉が閉まり始めるのを横目で確認しただけで、立ち尽くす彼女の方には視線を向けなかった。彼は、廊下の奥へと、歩き出す動作に移った。その歩き出しのテンポは、急いでいるわけでもなければ、彼女を待つ気配もない、ごく自然な、ちょうど中間くらいのリズムだった。
彼女の視線は、扉が閉まっていくその軌跡を追った。開いていた隙間が、再び冷たい金属の線へと戻っていく。廊下側の空調の、淀んだ空気が、扉が閉まるにつれて、遠いコピー機の待機音や、ビルの奥から聞こえる「仕事終わりの音」と共に、彼女の意識を包み込んだ。
扉が「ガチャン」というロック音を立てて完全に閉まりきった。その瞬間、箱は、低いモーターの唸りを上げて、再び別の階へと上昇(あるいは下降)を始めた。彼女は、扉が完全に閉まる音を、後ろにしたまま立ち尽くすことを選んだ。振り返るかどうか、最後の瞬間まで迷ったが、振り返って、閉じた扉に映る自分の姿と、遠ざかる彼の背中の反射を見るよりも、背中で聞く方を選んだ。
親指の先端には、まだ「開」ボタンの硬さが、残像のように焼き付いていた。長時間の押下によって血が引いていた皮膚に、じわじわと温かい血が戻ってくる感覚がある。
彼女は、その親指を、開いた手のひらにぎゅっと握り込んだ。手のひらに残るのは、湿った冷たさではなく、自分の指先の熱だけだった。
エレベーターの扉は、完全に閉じたまま、箱はすでに遠い。中に誰もいないはずなのに、次にこのエレベーターに乗るとき、同じように「開」を押す自分を、彼女は想像してしまう。それは、恐怖からの反射ではなく、行為のくせとして、未来に残るかもしれない予感だった。
彼女は、握りこんだ親指の跡を、開いて確認した。
親指の跡だけ、少し白い。
それをもう一度握りこんだまま、彼女は、男が歩いていった廊下の奥の方へ、一歩遅れて足を出した。
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
エレベーターの中は、雨の匂いで満たされていた。
廊下の突き当たり、壁に沿って貼られた何枚かのポスター。白い紙面を横切る「防犯」の二文字が、視界の隅で微かに光を反射していた。彼女はポスターの印字を読もうとはしなかったが、そこに書かれた緊急時の対応が、ニュースの見出しのように頭にへばりついている感覚がした。胃のあたりがじわりと収縮し、吸い込んだばかりの空気が、まるで内臓に詰まったかのように滞る。
立ち止まった足元で、濡れたタイルの表面が廊下の蛍光灯を鈍く映していた。靴底のゴム越しに、冷たい水がわずかな水たまりとなって輪郭を広げているのを感知する。彼女は無意味に、足裏でその水たまりを避けるように一瞬だけ姿勢を動かした。その動作は、箱の前に立つという行為がすでに、神経を張り詰めた作業であることを示していた。
呼び出しボタンの裏側から、エレベーターの箱を運ぶモーターの音が、低い唸りとなって近づいてくる。音はまだ遠く、数フロア下からゆっくりと上昇しているのが、金属を伝わる振動の残響だけで分かった。その振動が、廊下のコンクリートを通して彼女の足元まで伝わってくる。全身の皮膚がその微細な震えを警戒した。
親指が呼び出しボタンの冷たい金属の円に触れる。指先の皮膚が汗ばんでいるのが分かり、すぐに力を抜いた。ボタンの感触は冷たく、エレベーターホールにこもった濡れたコンクリートの匂いと、その冷たさが結びつく。
遠くで一度、「カツン」という音がしてモーターの音が減速した。一つ下の階にエレベーターが停車したのだろうか。呼吸が浅くなる。彼女の喉が、音もなく一度だけ上下した。唾を飲み込む行為が、全身の緊張をわずかに緩めようとする、ほとんど無意識的な反射だった。
エレベーターの扉は固く閉ざされたまま、金属の継ぎ目が垂直な黒い線となって立ちはだかっている。その隙間から、内部の空調で乾いた空気が、微かにビニールレザーと清掃剤の匂いを乗せて漏れ出してくる。外の廊下にある湿度の高い空気と、箱の内部にある乾燥した空気の対比が、鼻腔を通過する温度差となって感じられた。その小さな、箱の中に存在する異質な空気が、彼女の警戒心を増幅させた。
モーターの音は再び上昇に転じ、先ほどよりも高い音域を響かせ始めた。上昇する質量が、エレベーターシャフトを軋ませている微かな音と、彼女の心臓の鼓動が、一瞬だけ同じテンポで打っている錯覚に陥る。彼女の視線は扉上部の、小さな階数表示パネルの動かない数字に固定された。
ポスターの隅に貼られた「監視カメラ作動中」のシールが、僅かな安心を仮置きさせる。しかし、その安心はすぐに、この閉鎖的な空間に対する生理的な拒否感に塗り替えられてしまう。エレベーターという箱は、外部のコントロールが完全に断たれた、数分間の「密室」でしかない。
彼女は肩をわずかに持ち上げ、全身の力を抜こうと努めたが、背中側の筋肉は硬く張ったままだった。扉の継ぎ目から漏れる青白いLEDの光が、箱の到着を告げる直前の、最後の沈黙を切り裂く。
そして、電気的なロックが解除される「カチャ」という微かな音と共に、けたたましい到着音「チン」が廊下に響き渡った。
扉が、まるで彼女の息を吸い込むかのように、音もなく「スー……」と滑らかに開き始めた。
扉がスライドして開き、室内の青白いLEDが一気に視界を占めた。
彼女は深く息を吸い込む間もなく、反射的に一歩、箱の中へ踏み入った。空調が作り出すひやりとした風が、顔に張り付いていた外の湿気を切り裂く。内部の壁は鏡面仕上げのステンレスで、手すりが無機質な冷たさで横を走っている。床には前の客が残したであろう、細かく透明な水滴の跡がいくつも点在し、床材の模様に馴染むことなく鈍く光っていた。
すぐさま操作盤側の壁際に背を預けるように立ち、彼女は扉の方へ向き直った。操作盤の上部に設置された監視カメラの小さな赤点が、彼女を見下ろしている。その赤点に、わずかな安堵を覚える。しかし、それはエレベーターそのものへの恐怖を払拭するものではなかった。
扉が、モーターの摩擦音を伴いながら、再び閉じ始める。空間が縮まっていく圧迫感に、彼女の呼吸が一段と浅くなる。身体は硬く緊張し、特に肩の周りの筋肉が微かに強張っているのが分かった。手をどう置くべきか迷い、操作盤には触れず、ポケットに押し込むか、手すりに触れるか、一瞬逡巡した。
扉の隙間が、あと五センチほどに迫った瞬間――。
外から勢いよく、濡れた革靴の底が床を踏む「ペチャ」という水音と共に、人影が滑り込んできた。
動作に遠慮がなく、ほとんど無言で彼女の立つ側の空間に侵入してくる。濡れたコートの袖から、水が連続して床に滴り落ち、彼女の靴の横で急速に輪を広げた。その水音は、扉が閉まるモーター音よりも、耳に近く、鮮明に響いた。
彼は濡れた傘を折りたたみ、水気の多い布と革の匂いと共に、微かな整髪料か香水の香りがエレベーター内の乾いた空調とぶつかり、湿気となって立ち込める。
彼女の視線は、反射的にその男の顔を捉えかけた。びしょ濡れになった前髪から、水滴が頬を伝い、顎の輪郭で切れて落ちる。濡れた肌が青白いLEDの光を反射し、その横顔の線の美しさ、濡れた睫毛の長さが、瞬間的に視界に焼き付いた。
視線が一瞬だけ、まるで強い磁力に引かれたように、彼の顔に吸い寄せられる。しかし、すぐに彼女は慌てて視線を扉の継ぎ目に戻した。男は彼女の存在にもエレベーターの状況にも関心を払う様子がなく、スマートフォンを取り出す動作もなく、ただ無表情に、正面の表示パネルを見つめている。あいさつもなく、その無頓着な振る舞いが、この箱の中の圧迫感をさらに高めた。まるで、箱の恐怖と、予期せぬ他者(男)の警戒感が、心の中で合成されたかのように、心拍が速まるのを感じた。
彼は彼女に向かって一言も発しない。その「感じの悪さ」は、顔の良さというディテールとは裏腹に、極めて制御不能な他者性を際立たせていた。彼女の肩の強張りはさらに増し、手の位置は宙で迷ったまま、結局手すりを軽く掴んだ。その金属の冷たさだけが、彼女の意識を今この瞬間に留めようとした。
男の濡れた靴と彼女の靴との間の床に、水の流路ができつつあった。男のコートの袖から落ちる一滴一滴が、規則的なメトロノームのように水音を刻む。その水音の間隔を数えることで、彼女は心の動揺を落ち着けようとした。
エレベーターの扉は、最後の数ミリメートルを閉じ終えるために、重いモーター音と共に静かに動き続けた。そして、「カチッ」という電気的なロック音と共に、完全に閉鎖される。
密室の圧迫感が、一拍、彼女の呼吸を止めた。
完全に閉ざされたエレベーターは、予想に反してすぐに上昇を始めなかった。
モーターの唸りは静まり、箱全体が静止している。階数表示の数字は変わらず、扉が閉まる前に表示されていたフロアを固定したまま、青白いLEDを薄く光らせていた。彼女の胃のあたりに残っていた重い圧迫感は、この予期せぬ停滞によって、さらに冷たい違和感へと変わった。すぐに動き出すことが、「日常」への復帰の最低条件である。その条件が満たされないことが、彼女の喉を詰まらせた。
背中を壁に軽くつけたまま、彼女は全身の緊張を維持していた。操作盤の横に立つ彼女と、反対側の壁寄りに立つ濡れた男。二人の間には、濡れた床を分断するように、水の流路がうっすらとできていた。男のコートの裾から落ちた水が、エレベーター内のわずかな傾きを伝って、じわりと彼女の靴先の方へと細い筋を作ってくる。
彼女の視線は、再び監視カメラの小さな赤い光点に避難した。カメラは上部で光を放っているだけで、それ以上の実質的な機能は果たしていない。それでも、この密室において「見られている」という感覚は、彼女にとって最低限の均衡を保つための細い蜘蛛の糸だった。
男の顎のライン、濡れた髪の毛が描く額の輪郭が、視界の端に微かに捉えられる。彼の呼吸は、彼女のように浅く切迫したものではなかった。走ってきたわけではないのだろう。その一定した、静かな呼吸の音だけが、閉ざされた箱の中に残響する。男の濡れた靴は、両足の先端をわずかに開き気味にしており、すぐに動いて詰め寄るような意志は感じられない、ただ静止した姿勢だった。
その時、濡れたコートの袖口から、「ポタ」と一滴、水が落ちた。
水滴は床の透明な水たまりを打ち、その水紋が静かに広がる。
彼女は無意識に、その次の水音を待った。
「ポタ」――。
二度目の水音は、わずかに長い間隔を置いて響いた。彼女はそれを、頭の中で数える。その行為が、彼女の乱れていた心拍に、無理やり一定のテンポを与えようとする。一つ、二つ、三つ……。水音が落ちる間隔が、外界から隔絶されたこの密室における、唯一のメトロノームだった。
指先をポケットの縁に軽く触れさせていたが、気がつけば、彼女の右手の拳は無意識に固く握りしめられ、爪の先が手のひらの皮膚に食い込んでいる。その微かな痛みは、彼女の意識を「今、ここにいる」という一点に固定させた。
水滴を数えることに集中するうち、男の存在に対する「即時の、生理的な警戒」のピークが、わずかに過ぎ去っていくのを感じた。恐怖は消えていないが、観察できる程度には落ち着いた。
その間も、エレベーターは動かない。静止した箱の中の空調の風が、彼女の硬い喉元をひやりと撫でた。
不意に、階数表示のLEDの数字が、ほんのわずか、チカッと点滅した。
それは動き出す前の予兆、あるいは電気的な不安定さ。どちらか判別はつかない。しかし、その瞬間、彼女の握った拳から力が抜け、右手の親指が、操作盤の緊急停止ボタンでも、階数ボタンでもなく、**「開」**のボタンへと、じり、と近づいた。
階数表示の数字がチカッと点滅した直後、エレベーターの箱全体が、わずかに、しかし明確に揺れた。
その微かな振動が、彼女の神経を瞬間的に最大まで研ぎ澄ませた。身体の反射が、思考が介入するよりも早く、硬く握っていた右手を操作盤へと突き出した。手が触れたのは、非常停止ボタンでもなければ、行先階を呼ぶための数字ボタンでもない。それは、**「開」**と刻印された、薄い長方形のボタンだった。
親指の先端がボタンにめり込み、スイッチが深く沈む。その確かな手応えを感じた瞬間、箱が上昇に転じようとしていた微細なモーターの唸りが、再び静かに停止した。動きかけた箱の質量が、操作盤の指示によって強制的に静止させられたのだ。
彼女は、指を離さなかった。親指は「開」のボタンを押し続けている。じんじんと指先に力が集中し、爪の先とボタンの表面が触れ合う部分の皮膚が、薄く白くなっているのが分かった。
扉は、閉まりきっていた状態から、ゆっくりと、しかし不確かな動きで再びスライドを始めた。「ウーッ」という摩擦音と共に、黒い継ぎ目が横へ移動し、外側の廊下の光と湿った空気が流れ込んでくる。
扉は全開には至らない。三分の一ほど開いた半端な位置で、動きを止めて静止した。
外から入り込む光が、床に落ちた水たまりの輪郭をくっきりと浮き上がらせる。そして、外の雨音が、閉ざされていたときよりも強く、はっきりとエレベーターの箱の中に流れ込んできた。滴が落ちるテンポも、雨音の背景に飲み込まれて聞こえなくなる。
彼女の親指は、ボタンから離れようとしない。指を離せば、扉は再び閉まり、上昇が始まるだろう。だが、指先はまるで接着剤で固定されたかのように、力を抜くことができない。親指を押している間だけ、この止まった箱の内部の圧迫感が、ほんの少しだけ弱く感じられる気がした。それは、論理的な理由ではなく、身体が作り出した、極めて個人的な感覚の言い訳だった。
反対側に立っていた男が、その動きを認識した。
彼の顔はまだ横向きのままだが、その視線だけが静かに動いた。まず、光が差し込んできた半開きの扉の隙間へ。次に、操作盤の上で白く沈む彼女の親指へ。そして、床に落ち、開いた隙間から入る光に照らされて光を反射する水たまりのラインへ。
男は何も言わない。文句も、確認の言葉もない。ただ、状況のディテールを、隅々まで観察している。その視線の動きから、「この人物は、感情的な反応ではなく、目の前の物理的な現象を冷静に分析する性質を持っている」という確信が、彼女の心に、静かに灯った。
親指はまだ「開」にいる。扉は開いたまま。
外の雨音が、すぐ近くの手すりを震わせるほど強く聞こえた。
扉は、三分の一ほど開いた位置で、静止したままだった。
彼女の親指は、相変わらず「開」ボタンを深く押し込んでいる。爪の周りの皮膚は薄く白くなり、指先に集中する力が、脈打つようにじんじんと伝わってきた。指先だけが、彼女の意志とは切り離された、別の生命体のように固執している。指を離すための明確なタイミングを探しているのに、ボタンを押しているこの不確実な時間だけが、なぜか長く感じられた。
扉の継ぎ目から、廊下の薄い蛍光灯の光が細く箱の中へ差し込んでいる。その光は、エレベーター内の青白いLEDとは異なる、やや黄色みがかった色合いで、床の水たまりを横切るように細い光の橋を作っていた。この光の橋が、箱の内部と外部を、水によって繋いでいるようだった。
扉の向こう、廊下の湿った空気が、金属と清掃剤の匂いが混ざる箱の中へ流れ込んでくる。外の雨音は、閉鎖時よりもいくらか強く、細い水流のように箱の中へ入り込み、静けさを揺らしていた。その外音があることで、密室の圧迫感はかろうじて緩和されていたが、その代わり、誰かに見られる可能性、つまり「制御不能な他者」の流入の可能性が、扉の隙間から常に滲み出ている状態だった。
操作盤の上部、通常は気づかないような小さな注意書きのシールに、彼女の視線が引きつけられた。「長時間ドアを開けたままにしないでください」。彼女はその警告を、目で追いつつも、指先を離そうとはしなかった。自分の行いが「異常な状態の延長」であることを、頭では理解している。にもかかわらず、指に込めた力が抜けず、ボタンの感触が、一種の錨のように彼女をその場に留めていた。
男は、依然として無言だった。彼は壁にもたれることなく、まっすぐに立っている。濡れたコートの裾からは、周期的に水滴が床に落ちていたが、彼の姿勢からは疲労や苛立ちといった感情的な情報は一切読み取れなかった。ただ、半開きの扉の隙間から差し込む光が、彼の横顔の稜線を僅かに際立たせ、濡れた睫毛の先に、小さな光の粒を灯していた。
彼は、彼女の押し続ける親指を、もはや観察していない。視線は扉の開口部ではなく、床、あるいは自分と彼女の間にできた水の筋に注がれているように見えた。彼は、この止まった箱、半開きの扉、そして親指の動作という、「発生した状況のディテール」だけを純粋に観察しているようだった。
彼女は、握っていない左の手で、着ていたジャケットの裾を無意識につまんでいた。生地の薄い感触が、わずかな現実感を与えてくれる。この行為は、この場から逃げ出したいという焦りではなく、この異常な状況下で、自己の存在を確かめようとする、ほとんど反射的な小動作だった。
扉の隙間から入り込む光が、わずかに揺らぐ。それは風ではなく、廊下の奥、角を曲がるようにして、何かの気配が生まれたことの予兆だった。
遠く、コンクリートの床に、靴のゴム底が吸い付くような、かすかな足音が近づいてくるのが聴覚の端で捉えられた。このまま扉を開けたまま押し続けていれば、誰かに見られる。その予感と共に、彼女の心拍は再び上昇を始めた。
扉の隙間から聞こえていたかすかな足音は、角を曲がり、明確にこのエレベーターホールへと近づいてきた。
彼女の心拍は、外の雨音の強さとは異なる、不規則な緊張の波を打ち始めた。このまま半開きの扉の前で押し続けていれば、誰かに見られる。その予感は、エレベーターそのものへの恐怖とは別の、社会的な視線に対する警戒だった。
人影が、扉の隙間から見える廊下の奥に現れた。傘をたたみかけ、書類の入った薄いバッグを抱えた、顔の判別はつかない誰か。その人物は、立ち止まらずにこちらへ向かってくる。
外の廊下の照明が、扉の隙間から箱の中へと一直線に差し込み、一瞬だけ、彼女と男の二つの人影を、ショーウィンドウの展示物のように鮮明に浮かび上がらせた。
廊下の人物は、半開きの扉と、その中に立つ二人を認め、立ち止まった。傘から滴る水が床に落ちる小さな水音が響く。その人物は、こちらの異常な状況(半開きのまま止まっていること)を認識した。しかし、じろじろと好奇の目で見ることはせず、ただ軽く会釈をする程度の反応で、彼女たちを通り過ぎた。
「どうぞ」という言葉もなかったが、その会釈と無関心な視線は、エレベーターを待つ人間が、半開きの箱の中に立つ二人の人間を「何か事情があって待機している一組の人間」として処理した、という事実だけを残していった。
廊下の人物が去っていく。彼女の視線は、その人物の通り過ぎた跡を追った。その視線の行き先をたどることで、彼女は初めて、自分と濡れた男の配置を客観的に知覚した。自分は操作盤の壁際、彼はその対角線上に静止している。箱の中に、まるで彫像のように並んでいる二人。外から見れば、自分はこの男と共に、この異常な静止状態を共有している人間なのだ。
それまで箱そのもの、そして指先に集中していた意識が、「この人と一緒の画に、自分が入ってしまっている」という方向に大きくねじれてズレた。頬のあたりに、わずかな熱が集まるのを感じた。それは恐怖とは違う、外の視線によって炙り出された自意識の火照りだった。
なぜ、指を離さなかったのか。今、離せばすぐに箱は動き出し、この共犯的な静止状態から逃れることができたはずだ。しかし、親指は動かない。指先に込める力が、この「開いている」という状態を維持することが、彼女自身の内的なねじれを肯定しているようだった。
足音は遠ざかり、ついに廊下の奥で完全に途絶えた。再び、エレベーターの箱の中に、濡れた布と整髪料の匂い、そして二人だけの、過剰なほどの静けさが戻った。
男は、外の人影が去ったことにも関心を示さない。彼は微動だにせず、ただ床を見つめている。彼の靴と彼女の靴の間を結ぶ水の筋は、そのまま留まっている。
二人の沈黙が、箱の中の静けさを極限まで高めた、その瞬間だった。
操作盤から、「ポーン、ポーン」という、電子音の警告ブザーが、静かに鳴り始めた。それは、「長時間ドアを開けたままにしないでください」というシールに呼応するかのような、細く、持続的な警告音だった。
「ポーン、ポーン」
電子音の警告ブザーは、止まることなく、しつこく箱の中に鳴り響いていた。扉は相変わらず半開きで、廊下の光と雨音の残響を細く取り込んでいる。この音が、彼女の親指が「開」ボタンを押し続けているという行為が、もはや個人の選択ではなく、エレベーターシステム全体にとっての機械的な異常であることを突きつけていた。
彼女はブザーの音に合わせて、無意識に親指にさらに力を込めていた。その力が、音への反射的な抵抗のようでもあり、この異常な状態を維持しようとする意地にも見えた。操作盤の階数表示の数字が、警告に同期するようにチカチカと不規則に点滅を始めた。
ブザーの周期的で平板な音が、約十秒続いた。そして、その音が一度静まった瞬間に、操作盤の小さなスピーカー穴から、電子音声が流れてきた。
「ドアが開いています。ご注意ください。」
機械的なイントネーションの定型文だった。物語や個人の内面とは一切関係のない、ただの状況説明。しかし、この冷たい機械の声が響いたことで、彼女は自分が「ドアを開けたままにしている」という、客観的な異常行為の実行者であることを、改めて自覚させられた。
自動音声が切れると、箱の中には再び、ブザー音の止まった直後の、過剰なほどの静けさが戻った。
その、真空のような一瞬の静寂を、別の音が破った。
「けっこう、しつこいですね。」
低く、やや湿り気を帯びた男の声だった。
声は、ブザーのように平板でもなければ、機械音声のように冷たくもなかった。彼の喉元から発せられたその生の声は、彼が着ている濡れたシャツの襟元、その奥の皮膚から立ち上る体温を伴って、彼女の耳に届いた。彼女がさっき数えていた、コートから落ちる滴のリズムとは違う、予測不能なテンポで、言葉が箱の中に残響した。
その声は、エレベーターの機械音声に対して発せられた、状況への雑感のように聞こえた。しかし、そのタイミングは、彼女の親指がボタンを押し続けていること、つまり「しつこい」行為そのものを含み持たせているようにも感じられた。
彼女の身体は、その声の意外な落ち着きと低さに、一瞬だけ、全身の緊張が緩むのを感じた。それと同時に、自分がこの状況を作り出している張本人であるという恥ずかしさが、潮のように襲ってきた。
指先に集まっていた力が、わずかに、制御を失って抜けていく。
彼女の唇から、言葉になるかどうかも分からない、か細い声が漏れた。
「すみません……」
その謝罪の反射的な一言が発せられた反動で、長らくボタンに押し付けられていた彼女の親指が、「開」のボタンの表面から離れた。
指が離れた瞬間、操作盤の警告ブザーが鳴りかけることなく静かに止まった。そして、それまで維持されていた半開きの扉が、「ウーッ」という、閉じるためのモーター音を響かせながら、再びゆっくりと動き始めた。
親指が「開」のボタンから離れた瞬間、扉は、それまでの半開きの静止状態を破り、重いモーター音を立てながら、閉じきる動きを再開した。
廊下から差し込んでいた黄みがかった光の帯が、彼女の視界を横切りながら、細く、細くなっていく。その光が細くなるにつれて、エレベーターの中は、再び青白いLEDの人工的な照明だけに支配され、外界の色彩が完全に遮断された。開いていたはずの扉の隙間は、もう自分の指の感触を辿らなければ、その存在すら記憶から遠ざかってしまうような錯覚に陥る。
「ガチャン」という電気的なロックの音が響き、扉は完全に閉ざされた。外の雨音も、廊下の残響も、一切を遮断された箱の中には、再び二人の呼吸と、機械の内部の微かな唸りだけが残った。
扉が閉まりきったのを見届けた男は、「閉」ボタンに手を伸ばすことはしなかった。彼は、彼女の親指が離れただけで状況が進行したことを、黙って受け止めている。その無言の了解が、彼女の胸の内で、再び新たな種類の緊張を生んだ。
そして、箱全体が「フワッ」と、一瞬だけ沈むような独特の浮遊感を覚えた。
その直後、エレベーターは、唸りを上げるモーターの低音と共に、明確な上昇(あるいは下降)運動を開始した。足裏に伝わる振動が、彼女の身体の重心をわずかに前へと傾けた。この揺れが、静止時にはなかった、男との身体的な同期を意図せず生み出す。
男もまた、その揺れに合わせて、ほとんど気づかれないほど小さく、足の位置を調整した。彼の靴の周りに溜まっていた水たまりは、揺れに合わせて一瞬だけ形を崩し、水の表面が微細に波打ってから、すぐに新しい、静止した形を整えた。
彼女は、もう一度「開」ボタンを押して扉を開け、この「動き出した」という状態を止めることはできた。しかし、彼女の指は、操作盤の横で力が抜けたまま、静止している。自分で手放した逃げ道を、もう一度呼び戻すだけのエネルギーが、身体の中から湧いてこなかった。
視線が、階数表示のパネルを捉える。LEDの数字が、「チカ」と瞬き、そして、「ひとつだけ」進んだ。
数字が1つ進んだだけで、外の世界からの距離が急に伸びたように感じられた。それは、彼女の意思を超えて、箱が、そして時間が、進み始めていることを示す、絶対的な事実だった。
彼女は、その動き出した数字を見ているふりをしながら、実際には、視界の端で微動だにしない男の横顔を、反射的に捉えていた。
扉が閉まりきった後、エレベーターは唸りを上げながら、確実に上昇運動を続けていた。
彼女の足裏に、箱が持ち上げられている微細な振動と、床の金属の冷たさが伝わってくる。上昇が始まった瞬間、彼女は反射的に、予測できない衝撃に備えて目をきつく閉じてしまった。しかし、実際の揺れは、想像していたほど急激なものではなく、極めてゆっくりとした、滑らかな上昇だった。彼女はゆっくりと目を開けた。
背中に押し付けた壁のステンレスの冷たさが、箱の動きに合わせて微かに擦れる感覚がある。彼女の体重は、足の裏の前端へとわずかに移動し、身体全体が緊張したまま、この動きを受け入れようと構えていた。
操作盤の上部、青白いLEDの階数表示が、「チカ」と一瞬瞬き、数字がひとつ進んだ。
その光の変化だけが、この閉ざされた箱の中で、今、時間が確実に流れていることの唯一の尺度だった。数字がひとつ進むたびに、彼女の心臓の鼓動も、わずかに同じリズムで打っているような錯覚を覚える。
男は、壁に頼ることなく、垂直な姿勢を維持していた。彼もまた、箱の揺れに合わせて、靴底が床に吸いつくような小さな音を立てて、足の位置を調整する。その動作は最小限で、流れるような滑らかさだった。
彼女の視界の端に、その男の濡れた横顔の輪郭が、常に固定されて入っている。濡れた睫毛の先に、天井のLEDの光が小さな粒となって集まっていた。彼の濡れたコートの匂いは、空調によって拡散され、箱の中の金属の匂いと完全に混ざり合ってしまっていた。
二人の重心は、エレベーターの揺れによって、無意識のうちに同じ方向へと傾いていた。上昇する際の、わずかな浮遊感が、二人の身体を同時に前へと引き寄せようとする。揺れへの警戒心は、もはや箱そのものへの恐怖というよりも、「この揺れに、隣にいる人とどう対応するか」という、極めて近距離の人間関係へとフォーカスを移していた。この予測可能な「揺れ」の方が、さっきまでの、半開きでいつ止まるか分からない「静けさ」よりも、まだましに感じられた。
数字がまたひとつ、進んだ。
彼女は、自分がどこへ運ばれているのか、この箱が最終的にどこまで行くのか、という疑問を、身体の揺れと共に受け入れている。その間にも、男の呼吸の一定した音が、この狭い空間を満たしていた。
天井のどこか遠いところで、ワイヤが金属製のレールをこすりながら動いているような、かすかな「キュッ、キュッ」という音が聞こえ始めた。
その音は、これまでのモーター音とも、水滴の音とも違う、何らかの変調の予兆を含んでいるように感じられた。次の瞬間、箱が、上昇の勢いをわずかに変えるような、小さな違和感を伴う揺れを、身体全体で作り出した。
上昇を続けていた箱が、建物の構造的な継ぎ目に入ったのか、不意に「ガクン」と、想像していたよりも大きな衝撃を伴って一度揺れた。
その一音は、彼女の頭の中に貼り付いていた「事故の箱」というニュース映像の残像を、一瞬にして呼び戻した。身体は考えるよりも早く、バランスを保とうと反射的に動いた。体重を壁に押し付けながら、彼女の右腕は、空中で行き場を探し、すぐ隣に走る手すりへと向かって伸びた。
そのとき、彼女の指先が、目指した手すりの冷たい金属に到達する直前、別のものに触れた。
それは、金属よりもわずかに温かく、湿り気を帯びた、皮膚の感触だった。男の指先だった。彼は揺れに備えて、すでに手すりの上部に、わずかに指を添えていたのだ。彼女の爪と、彼の指の第一関節あたりが、ごく軽く、一瞬だけ触れ合った。彼の皮膚からは、まだ雨に濡れたような、わずかな冷たさが伝わってきたが、それは箱の壁の冷たさとは違う、生命の体温も同時に感じられた。
揺れは短く、すぐに収まった。床に溜まっていた水たまりは、衝撃で表面が小さく跳ね上がり、その波紋が急速に消えていった。男の靴は、衝撃の方向とは逆に、半歩分だけ彼女の側に滑っていたが、彼はすぐに重心を移動させ、元の姿勢に戻した。
彼女は触れた指先を、焼けるように熱く感じながら、反射的にその手を手すりから引き戻した。指先同士が触れ合った湿った冷たさと、体温の感触が、皮膚に長く残っている。さっきまで頼りなく冷たい箱の壁に背中を預けていたのに、いま触れたものは、ずっとやわらかかった。
彼女の視線は、まずその指先を追い、次に、行き場を失って力が入らない右手を、服のポケットの中に押し込んだ。
男は、このふいの接触について、何も示さない。彼は揺れの音に合わせて、小さく息を吸い込む音だけを立てたが、転びそうになることはなかった。彼の姿勢は、揺れの衝撃すら、己の重心の移動だけで吸収できると知っているようだった。
二人の足先の距離は、揺れによってわずかに縮んだままだった。数センチ。それは、静止していたあのときよりも、明らかに近かった。彼女は、体を守るために動いたはずなのに、その結果として、相手の存在が、以前よりも強く、近く、自分の中に侵入してきた事実だけが残った。
その間にも、エレベーターは上昇を続けた。操作盤の数字パネルは、揺れが収まったのを見届けるように、何事もなかったかのように次の階へ進んだ。
彼女の視線は、ポケットに押し込んだ指先から、手すりを横切り、動いた階数表示、そして最後に、男の肩のラインを捉えて、静かに止まった。
箱は上昇を続けていたが、揺れが収まった後も、彼女の意識は指先に集中したままだった。さっき触れた、湿った冷たさと体温の感触が、記憶として皮膚に残っている。
彼女の視線は、再び操作盤へと戻った。操作盤には、いくつもの階数ボタンが並んでいる。その中で、一つの数字だけが、周囲のボタンよりわずかに強い光を放って点灯していた。他のボタンは暗く、押された形跡がない。
彼女は、自分がエレベーターに乗り込む前に、意識のどこかで目的の階のボタンを押していたことを自覚した。そのボタンは、彼女がさっきまで「開」を押し続けていたボタンの、すぐ上に位置していた。
その点灯している数字を、彼女は目でゆっくりと追った。そして、その瞬間、ある種の驚きが、息を吸い込む反射と共に彼女を襲った。自分と同じ階数が、この閉ざされた空間で、唯一の目的地として光っていた。
男の視線が、点灯したその数字に注がれているのが、視界の端で分かった。
彼はその光る数字を、指でなぞるような動作を、視線だけで行った。
そして、小さく、しかし前回よりわずかに柔らかく聞こえる声で言った。箱の駆動音の上に乗る、その低い声には、感情的な抑揚はなかった。
「ああ……同じみたいですね。」
それは、ただの事実確認だった。このエレベーターの行き先が一つしかないという、機械的な状況の説明に過ぎない。しかし、その一言は、彼女の心の中で、さっきの物理的な接触よりも、もっと強く、二人の間に意図せぬ連続性を打ち立てた。
彼女は、返事をしようとして、喉の奥から空気が漏れる吐息だけで終わった。声にならなかった。代わりに、喉仏が小さく、一度だけ上下した。
同じ階で降りる自分たちを、さっき廊下から見た人物がいたら、どう見えただろう。彼女は、再び外の視線を想像してしまい、そのイメージの中で、自分とこの男が、まるで一つの流れの終点へ向かっているように見えた。それは「運命」といったご都合的なラベルではなく、「たまたま」という言葉では説明しきれない、微細な心の動揺だった。
彼女は、降りるときに、もう一度「開」を押すかどうかを、光っている数字を見るたびに考えてしまう。指は操作盤の側面に沿うように置かれている。いつでも「開」を押せる距離にあるのに、指先に込めるべき力の根拠が見つからない。
操作盤の数字は、次々と進んでいく。そして、目的階まで残り一つ、という階数を示す光が点灯した。
その階数が点滅し終えた瞬間、箱のモーターの唸りが、「キュッ」という小さな音と共に、減速の気配を伝えてきた。
エレベーターの箱全体が、わずかに沈み始める。
エレベーターの箱は、上昇の勢いを失い、目的階へと向けてゆっくりと減速を続けていた。
モーターの唸りは低い「ギー」というブレーキ音に変わり、箱全体がわずかに軋む。身体の浮遊感が薄れ、足裏にかかっていた体重が、徐々に重力に従って床の安定した面へと戻っていく感覚があった。彼女は、無意識のうちに姿勢を整え、両足の重心を、わずかに扉側へと移動させていた。
これは、箱が止まった後に、外へ踏み出すための「降りる準備」の動作だった。
反対側に立っていた男も、彼女と同じタイミングで、ほとんど気づかれないほど小さく、扉側へ重心を寄せた。二人の間にあった緊張の糸が、今度は「同じ目的地へ向かう協力者」としての、極めて短時間の同期へと変わっていた。
彼女の視線は、操作盤に並ぶ「開」と「閉」のボタンの配置に注がれていた。さっきまで、彼女の親指は「箱からの脱出」あるいは「状況の維持」という、自分のための選択として「開」を押していた。しかし、今は違う。同じ階で降りる人間として、「先に扉を押しておくべきマナー」が、意識の表面に浮上していた。自分が先に降りるのか、この人が先なのか、単純な順番だけが気になってくる。
彼女の右手の指は、操作盤の横で浮いていた。その親指が、再び「開」のボタンへと、迷うように、しかし確実に、傾いていく。押すか、押さないか。その迷いのあいだ、指の方が先に、扉が開く方向へと動いている。
男は何も言わない。彼の視線は、操作盤のボタンから、閉じている扉の継ぎ目、そして扉の向こうの廊下の気配へと、鋭く行ったり来たりを繰り返している。彼女の指の動きも、彼の視界の隅には、一瞬だけ入っているようだった。
箱全体が、最下部で一度だけ「カクン」という小さな音を立てて、完全に動きを止めた。
エレベーターが静止した瞬間、頭上の階数表示パネルが、目的階の数字を静かに固定した。その光は、彼女の親指が「開」ボタンの表面から、ほんの数ミリ上に浮かんでいる姿を、薄く反射していた。
どちらが押すのか。あるいは、押さずに、扉が自動で開くのを待つのか。その一拍の静寂の中で、外の気配が、扉の向こうで待ち構えている。
エレベーターの箱は、目的階に向けて減速を続けていた。
モーターの低い唸りは徐々に音域を落とし、昇降機シャフトのどこかで「ギー」と短く鳴る金属音が響く。天井の蛍光灯の光が、速度が落ちるのに合わせて、わずかに揺らぎを見せる。彼女の足裏の重さは、不規則な浮遊感から解放され、均等に床へと戻っていく。その感覚が、彼女の身体に、間もなく外界へ踏み出す準備を促していた。
彼女の指は、操作盤の「開」と「閉」のボタンの上、数ミリのところに、ふわっと影を落としていた。指先は、箱の動き出しからずっと静止していたにもかかわらず、まるで箱よりも先に到着してしまいそうに感じられた。扉が開くまでのこの数秒間が、さっきまで上昇していた数階分の時間よりも、ずっと長く引き延ばされている。
以前、「開」を押したのは、密室への恐怖と、状況を制御したいという反射だった。しかし今、指は、扉が開くタイミングを待って、押すか押さないかを、明確に選択できる位置にいる。それは、自分のための逃げ道ではなく、同じ場所で降りるこの男のための、マナーとしての選択へと変わりかけていた。
男は、扉の正面寄りの位置で、微動だにせずに立っている。彼の濡れた靴のつま先は、彼女の靴のつま先と同じく、扉の方向、つまり外界へと向いていた。彼は軽く顎を引き、扉の継ぎ目に注視している。動き出しのときに見せていたような、全身の硬い警戒は薄れ、肩の力は少し抜けているようだった。
扉の継ぎ目の金属板越しに、廊下の気配が薄く伝わってくる。箱の中の空気とは異なる、外界の温度差が、金属を伝って指先に感じられるような錯覚に陥る。
操作盤の数字パネルは、目的階に近づいていた。最後に「ピッ」という極めて小さな電子音と共に、目的階の数字が、周囲の光を全て吸収したように明るく灯った。
その数字の光を、彼女は視線だけで捉えた。そして、箱全体が、最下部で一度、重い質量を伴って静かに停止した。
静止の瞬間、彼女の親指の付け根に、微かな力が込められた。それは、「開」のボタンへと、ほんの少しだけ、不可避的に傾く動きだった。扉が自動で開き始める、その直前の、一拍の「溜め」が、箱の中に生まれた。
エレベーターが完全に静止した直後、扉のロックが解除される音に続いて、到着ブザーが短く「ピン」と鳴った。
扉は、待機していたモーター音と共に、「シュー」という軽い摩擦音を立てながら、左右に自動でスライドし始めた。廊下の光が、再び彼女たちのいる箱の中へと、徐々に、しかし確実に流れ込んでくる。
扉が自動で開いている最中だったにもかかわらず、彼女の右手の親指は、迷いを断ち切ったかのように、操作盤の**「開」ボタンへ向け、沈み込んだ**。
指がボタンを押し込んだ瞬間に、箱の中から短い「ピッ」という電子音が響いた。それは、扉の自動開閉を制御するインジケーターランプが、彼女の操作によって再度点灯したことを示す音だった。彼女の指は、一度目の反射的な操作ではなく、意識的な選択として、このボタンを押し続けている。
扉が開く速度は変わらない。しかし、彼女がこの動作を行ったことで、「これ以上閉まらないように」「急かさないように」という、言葉にならない配慮が、その指先に込められていた。彼女は、自動で開いている扉に対して、「開け続ける」という意志を上書きしたのだ。
開いた扉の隙間から、夜のフロア特有の、半分消えた照明の景色が現れた。奥に伸びる長い廊下、そして左右に並ぶドア。箱の中の空気が、開口部から外へと流れ出ていく感覚があった。
男は、扉が開いていくにつれて、その開口部の景色を注視していた。そして、一瞬だけ、操作盤の方向へ視線を送った。彼の視線は、彼女の親指が「開」ボタンを深く押し込んでいるという事実を、確実に捉えた。眉も口元も、ほとんど動かない。だが、彼はこの行為が、もはや「逃げ道確保」ではなく、「扉を開いたまま留めている」ためのものだと気づいている。その事実だけが、二人の間に、目線による短い合意を生んだ。
彼女は、自分のバッグの位置を、ほんのわずかに背中側へ直した。それは、男が先に、スムーズに箱から出られるよう、わずかな空間を作るための小動作だった。押してしまってから、彼女は指を離すタイミングを再び失う。押し続けるあいだ、扉の向こう側の、すでに到着したはずの時間だけが、自分から遠ざかっていく気がした。
扉は、左右の壁に当たる寸前まで完全に開ききった。
彼女の親指は、まだ「開」ボタンに乗ったままだ。
男が、濡れた革靴の底を、エレベーター内の床から廊下の床へと踏み出し、最初の一歩を踏み出す。その動作が、箱の中の静止を破った。
扉は完全に開ききり、エレベーターの箱の中に、廊下の静かな照明と、空調の淀んだ空気が満ちてきた。
彼女の親指は、まだ「開」ボタンの上、数ミリのところに浮かんだまま、離れるタイミングを探っていた。自分が押し続けることで、この男に先に降りる余裕を与える、という意識的な選択が、指先に残っている。
男は、彼女に視線を向けることなく、静かに一歩を踏み出した。濡れた革靴の底が、箱の床から廊下の床へと移動し、「カタン」という小さな音を立てて着地する。その一歩によって、男の姿勢は彼女の横から、わずかに前に出た位置へと変わった。
彼は、そのまま廊下を歩き出すことはしなかった。
男は、箱から出て、完全に廊下の床に立ち位置を固定したところで、半歩だけ身体を箱の方へ向けた。その動きに合わせて、彼の濡れたコートの裾から、最後の水滴が床に落ちる。
彼の右手は、操作盤があるのとは反対側の、扉の外側、壁に埋め込まれた「開」ボタンへと迷いなく伸びた。
「ピッ」という短い電子音が響く。
男は、外側の「開」ボタンを、意識して押し込んだ。
その瞬間、彼女の親指に宿っていた「開け続けなければならない」という重い役割が、音もなく剥がれ落ちた。自分が長らく守っていた役目を、さっきまで無言で隣に立っていた手が、何の合図もなく、黙って拾い上げたのだ。
彼女の親指は、力を失い、操作盤から完全に離れた。もう押さなくてもいい。その事実に、彼女は安堵と、小さな驚きを同時に覚えた。その人が、自分のために、扉を「開いたまま留めてくれている」という、ささやかな協調の行為。
彼女の足が、ようやく動いた。箱の床から廊下の床へ。その一歩を踏み出したとき、足裏に伝わる固さの違いを強く感じた。扉のレールをまたぐときの、足首のわずかな緊張。それは、箱の外へ出てしまったことの、心許ない感覚と重なった。
男は、外側の「開」ボタンを押し続けながら、彼女が箱から出るのを静かに待っている。彼の指は、以前彼女が押していたときと同じように、ボタンを深く沈ませている。彼もまた、理由を説明することなく、「長押しする側」に自然に回ってしまったのだ。
彼女は箱から完全に外へ出て、男の少し後ろの位置に、静かに立ち並んだ。扉は、男の指によって、開いたまま固定されている。
彼女の親指は、さっきまでボタンがあった場所を、無意識に宙で探してしまう。そして、その指先に、再び熱が戻っているのを自覚した。
二人が廊下の床に立ち並び、扉の静止が完成された瞬間、男は、彼女の横顔へ一瞬だけ視線を動かした。その視線は、扉の向こうの景色でも、自分の指先でもなく、互いの立ち位置、つまり「今、二人はここで並んでいる」という事実を確認するように、静かに交差した。
男が外側の「開」ボタンを押し続けている間にも、エレベーターの箱の中から、再び電子音の警告ブザーが鳴り始めた。その「ポーン、ポーン」という規則的な音は、長時間の開閉を続けることへの、最後の催促だった。
ブザーが鳴りだしたのを確認した男は、黙って「開」ボタンから指を離した。
彼の指が離れた瞬間、扉は、自動制御へと戻った。モーター音を立てて、左右の扉がゆっくりと、しかし確実にスライドを始め、二人が立っている廊下側へと閉じてくる。
男は、扉が閉まり始めるのを横目で確認しただけで、立ち尽くす彼女の方には視線を向けなかった。彼は、廊下の奥へと、歩き出す動作に移った。その歩き出しのテンポは、急いでいるわけでもなければ、彼女を待つ気配もない、ごく自然な、ちょうど中間くらいのリズムだった。
彼女の視線は、扉が閉まっていくその軌跡を追った。開いていた隙間が、再び冷たい金属の線へと戻っていく。廊下側の空調の、淀んだ空気が、扉が閉まるにつれて、遠いコピー機の待機音や、ビルの奥から聞こえる「仕事終わりの音」と共に、彼女の意識を包み込んだ。
扉が「ガチャン」というロック音を立てて完全に閉まりきった。その瞬間、箱は、低いモーターの唸りを上げて、再び別の階へと上昇(あるいは下降)を始めた。彼女は、扉が完全に閉まる音を、後ろにしたまま立ち尽くすことを選んだ。振り返るかどうか、最後の瞬間まで迷ったが、振り返って、閉じた扉に映る自分の姿と、遠ざかる彼の背中の反射を見るよりも、背中で聞く方を選んだ。
親指の先端には、まだ「開」ボタンの硬さが、残像のように焼き付いていた。長時間の押下によって血が引いていた皮膚に、じわじわと温かい血が戻ってくる感覚がある。
彼女は、その親指を、開いた手のひらにぎゅっと握り込んだ。手のひらに残るのは、湿った冷たさではなく、自分の指先の熱だけだった。
エレベーターの扉は、完全に閉じたまま、箱はすでに遠い。中に誰もいないはずなのに、次にこのエレベーターに乗るとき、同じように「開」を押す自分を、彼女は想像してしまう。それは、恐怖からの反射ではなく、行為のくせとして、未来に残るかもしれない予感だった。
彼女は、握りこんだ親指の跡を、開いて確認した。
親指の跡だけ、少し白い。
それをもう一度握りこんだまま、彼女は、男が歩いていった廊下の奥の方へ、一歩遅れて足を出した。
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