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本編
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作品の前にお知らせ
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
金曜日の午後四時。 週末の熱気を孕み始めた市街地の一角、大型商業施設の広場は、これから始まる夜への期待でわずかに浮足立っていた。 行き交う人々は彩度が高い。学生の集団、ベビーカーを押す家族連れ、早めのディナーに向かうカップル。 その雑多な喧噪の中、周囲とは明らかに「仕上げ方」の異なる一人の男が立っていた。 男はショーウィンドウのガラスを利用し、さりげなく自身の映り込みを確認した。 ジャケットの裾、ネクタイのノット、髪の毛先。すべてがミリ単位で計算されている。 彼は左手首を返し、腕時計へ視線を落とした。 約束の十分前。完璧だ。 脳内で頭に叩き込んだ顧客データを反芻する。 (三十代後半、会社員。要望は『年下の落ち着いた彼氏』。エスコートは控えめに、話を聞く側に回ること) 口角を二ミリ上げ、表情筋を「傾聴モード」にセットする。 彼はレンタル彼氏だ。 この街ですれ違うどの男よりも、「理想の恋人」であるための訓練を積んでいるという自負がある。 その時、ジャケットの内ポケットでスマートフォンが短く震えた。
――同時刻。 同じ広場の反対側、噴水を挟んだベンチの陰に、一人の女がいた。 彼女もまた、周囲の風景から微かに浮いていた。 清楚なワンピースに、主張しすぎないカーディガン。メイクは「ナチュラルに見えるように時間をかけた」職人芸だ。 彼女は小さなハンドバッグの中身を、指先だけで確認した。 ハンカチ、ティッシュ、予備の絆創膏、口臭ケア用品。 (二十代前半、大学生。要望は『清楚だけどリードしてくれるお姉さん』。会話の主導権はこちらが握る。ただし、出しゃばりすぎないこと) 呼吸を整える。 彼女はレンタル彼女だ。 恋に夢を見る素人とは違う。代価に見合う「夢」を提供するプロフェッショナルだ。 彼女のバッグの中でもまた、スマートフォンが震えた。 広場の雑踏を切り裂くように、二つの通知音が重なる。 男と女は、示し合わせたように同時にそれぞれの端末を取り出し、画面をタップした。 専用アプリのメッセージボックス。 そこに表示された文字列を、二人は同時に網膜に焼き付けた。 『ごめんなさい。やっぱり恥ずかしくて行けません。今日の依頼はキャンセルで』 『すみません、急用ができて。キャンセル料は払うので、今日はなしにしてください』 文面こそ違えど、突きつけられた事実は同じだった。 男の眉が、ほんの一瞬だけピクリと跳ねた。 女の唇が、わずかに歪みかけた。
ドタキャン。 この業界では珍しくない事故だ。だが、彼らのプライドがそれを「よくあること」として処理することを拒絶した。 準備にかけた時間。美容院代。何より、「プロである自分」が、会うことさえなく拒絶されたという事実。 行き場のない熱が胸の奥で燻る。
しかし、二人はプロだった。 男は即座にスマホをポケットにしまい、涼しげな顔でショーウィンドウを見上げた。 女はスマホをバッグに滑り込ませ、何事もなかったように髪を耳にかけた。 周囲には、恋人に振られた惨めな姿など一切晒さない。 ただ、その瞳の奥だけが、冷ややかに光を失っていた。 広場の喧噪は変わらない。 世界から取り残された二人のプロフェッショナルだけが、ぽっかりと空いた時間を持て余し、それぞれの足で、偶然にも同じ「人の少ない休憩スペース」へと歩き出した。
手元にあるスマートフォンが、ただの黒い板のように重く感じられた。 男は、ショーウィンドウから視線を外し、小さく息を吐いた。 キャンセル料は発生する。金銭的な損害はない。規約上、このまま帰宅しても何の問題もないはずだ。 だが、足が動かなかった。 エンジンを温めきったスポーツカーがいきなりキーを抜かれたような、あるいは振り上げた拳が空を切ったような、奇妙な不完全燃焼感。 「……座るか」 独り言ともつかない音を喉の奥で鳴らし、彼は広場の隅にある木製のベンチへと向かった。 そこは植え込みの影になっており、浮かれた通行人の視線がある程度遮断される、広場における数少ない「死角」だった。
一方、女もまた、同じ磁力に引かれるように足を動かしていた。 ヒールの音が、コンクリートの上で虚しく響く。 今日のために新調したリップの色が、誰にも見られることなく乾いていく感覚が癇に障る。 (帰ればいい。分かってる) 理性はそう告げているのに、プロとしての本能が「現場」を離れることを拒んでいた。 せめて少し頭を冷やしてから。 あるいは、この理不尽な「空き時間」を埋めるための正当な理由を見つけてから。 彼女は無意識のうちに、人目を避けられるあのベンチを目指していた。 二人の距離が縮まる。 男がベンチの右端に腰を下ろしたのと、女が左端にアプローチしたのは、ほぼ同時だった。 ベンチの長さは三人掛け程度。 他人同士が座るには十分な距離だが、互いの存在を無視するには近すぎる。
男は、隣に座ろうとする人影に、反射的に視線を走らせた。 職業病だ。視界に入る人間を瞬時にカテゴライズし、対応ランクを決定する癖がついている。 (……なんだ、この女) 評価は一瞬で完了し、そして警戒へと変わった。 姿勢が良すぎる。 荷物を置く所作、スカートの裾を払う指先の動き、そして座った瞬間の膝の角度。 すべてが「見られること」を前提に計算され尽くしている。 ただの待ち合わせ客にしては隙がなさすぎる。まるで、自分と同じ種類の人間が纏う「鎧」のような。
女もまた、座りながら男を横目でスキャンしていた。 (……普通じゃない) 彼女のセンサーが反応する。 高級だが嫌味のないスーツの着こなし。手首に見える時計のブランドは、若者が背伸びして買うようなものではなく、「信頼」を演出するための堅実なチョイス。 何より、座っているだけで漂う「待機モード」のオーラが異質だ。 スマホを操作する指先すら優雅に見えるよう制御されている。 二人の間に、透明な壁のような沈黙が生まれた。 周囲の子供たちの笑い声や、噴水の水音が遠のいていく。 このベンチの上だけ、空気が真空パックされたように張り詰めていた。
互いに「只者ではない」と感じている。 だが、それを口に出すほど野暮ではない。 男はあくまで紳士的な仮面を被ったまま、沈黙の均衡を崩すことにした。これ以上無言で隣り合うのは、逆に不自然だと判断したからだ。 「……お待ち合わせですか?」 声のトーンは、完璧な「F(1/f)ゆらぎ」を含んでいた。相手に警戒心を抱かせず、かつ好印象を与える営業用の声。 女は視線をスマホから上げず、しかし口元に営業用の柔らかな笑みを貼り付けて応じた。 「ええ、まあ。……少し前までは、そうでしたけど」 含みのある言い方だった。 男は内心で眉をひそめる。その返答のテンポ、声の高さの調整。素人のそれではない。 「奇遇ですね。僕も似たような状況でして」 「あら、そうなんですか」 女はようやく顔を上げ、男と視線を合わせた。 目が笑っていない。 男もまた、穏やかな表情の下で冷徹に彼女を観察し返した。 彼らは直感していた。 目の前の人間は、自分と同じ穴の狢かもしれない。 だが、それは仲間意識を意味しない。 同じ漁場で獲物を狙う同業者か、あるいは似て非なる厄介な存在か。
「……お相手の方、急用でも?」 男が探りを入れる。 「ええ。急に怖気づいてしまわれたみたいで」 女はふふ、と上品に笑ったが、その言葉の端には隠しきれない棘があった。 「そちらは?」 「似たようなものです。直前になって自信をなくされたようで」 二人の会話は、水面下でのジャブの応酬だった。 互いに「客に逃げられた」という失態を認めつつも、その原因は「客の弱さ」にあると暗に主張し合っている。 自分のスキル不足ではない。あくまで相手側の問題だ、と。 そのプライドの高さが、同族嫌悪の火種となって燻り始めた。 男は脚を組み直した。つま先の角度まで完璧に。 女は髪をかき上げた。その仕草ひとつで周囲の視線を集めるように。
彼らはまだ知らない。 互いが「レンタル彼氏」と「レンタル彼女」という、鏡合わせの存在であることを。 ただ、目の前の相手が妙に鼻につく「プロっぽい何か」であることだけを確信し、静かに警戒レベルを引き上げていた。
広場を通り抜ける風が、少しだけ冷たさを増した。 男は組み替えた足のつま先を、リズムよく、しかし音は立てずに動かしている。それは彼が思考を整理する時の癖だった。 隣に座る女の「同類臭」は会話を重ねるごとに確信へと変わっていく。 ただの待ち合わせ客ではない。その整いすぎた所作、崩れない笑顔、そして何より、言葉の端々に滲む「業務的な思考回路」。
「……それで」 男は、あくまで世間話を装って切り出した。視線は噴水の水しぶきに向けたままだ。 「キャンセルされたとはいえ、撤収はされないんですか? お相手が来ないなら、待っていても時間の無駄でしょう」 カマをかけた。 もし彼女が普通の女性なら、「そうですね、もう帰ります」と言うはずだ。 だが、女の反応は違った。 彼女は膝の上で重ねた手を、白魚のような指先で軽く叩いた。 「ええ。普通ならそうするんですが……あいにくと、私の時間は既に『購入』されてしまっているもので」 「購入?」 「はい。システム上の決済は完了していますから。ここからの二時間は、厳密には私の私有時間ではないんです」 ビンゴだ。 男の目が細められた。 やはり、彼女は「売る側」の人間だ。 「……なるほど。先払い制、というわけですか」 「ええ。基本料金に指名料、それにデートプランのコーディネート費。すべてお支払い済みです。規約上、お客様都合のキャンセルは返金対象外。……そちらは?」 女が視線だけで問い返してくる。 男は短く鼻を鳴らし、肩をすくめた。 「同じです。僕の方も、事務所を通したクレジット決済で処理が終わっています。この後のディナー予約のキャンセル料も含めて、ね」
二人の間にあった「疑惑」が、「事実」として共有された瞬間だった。 レンタル彼氏。レンタル彼女。 呼び名は違えど、彼らは時間を切り売りし、夢を提供する幻影の恋人たちだ。 互いの正体を察した瞬間、空気は緩和するどころか、さらにピリついたものへと変質した。 同業者。 それはある意味で、最も気の抜けない相手だ。 自分の手口、演技の裏側、笑顔の値段を知り尽くしている人間が、すぐ隣にいる。 男は無意識に背筋をさらに伸ばし、ネクタイの結び目に触れた。だらしない姿は見せられない。 女もまた、顎の角度を数ミリ引き、首筋が最も美しく見える姿勢を取り直した。安い女だと思われたくない。
「……やりにくいですね」 男がぽつりと漏らした。 「同感です」 女が即答する。 「本来なら、濡れ手で粟、と喜ぶべき状況なんでしょう。何もせずに、規定のギャラが満額入るわけですから」 「ええ。労働なき報酬。効率だけで言えば最高の結果ですわ」 言葉とは裏腹に、二人の声には微塵も喜びがなかった。 むしろ、滲んでいるのは苛立ちだ。 彼らはプロだった。 プロフェッショナルとは、対価に見合うだけのパフォーマンスを発揮して初めて、その報酬を正当化できる生き物だ。 客が来ない。仕事がない。けれど金だけは入る。 それは彼らのプライドにとって、「詐欺」に近い居心地の悪さだった。
「タダ飯を食うようで、どうも寝覚めが悪い」 「私のサービスに価値がないと言われているようで、不愉快です」 二人の意見が、奇妙な形で一致する。 男はスマホを取り出し、アプリの管理画面を表示した。 残り時間:1時間50分。 ステータス:『稼働中』。 この文字が点灯している限り、彼は「誰かの彼氏」として振る舞う義務がある。たとえその「誰か」が不在だとしても。
「……規約には、『不測の事態でも、契約時間は指定場所近辺で待機すること』とあります」 男が画面を見ながら呟く。 「私の事務所も似たようなものです。『キャストは契約終了時刻まで、品位を保ち待機すること』」 女がため息混じりに続ける。 つまり、帰れない。 金を受け取ってしまった以上、彼らはこの場所に縛り付けられている。 あと二時間近く、何もしないまま、ただベンチを温めるだけの存在として。
「……最悪だ」 「……退屈ね」 二人の視線が、正面の広場を行き交うカップルたちに向けられる。 素人の恋人たちが、拙い手つきで手を繋ぎ、要領の悪い会話で笑い合っている。 普段なら「微笑ましいカモたち」と見下ろす光景が、今はひどく眩しく、そして妬ましかった。 彼らは「本物」だ。 自分たちは「偽物」ですらない、「在庫」だ。
男の指が、ベンチの縁を苛ただしげに叩く。 女のヒールが、コツコツと地面を刻む。 このまま二時間、地蔵のように座り続けるのか? 「業界トップクラス」を自負するこの俺が? 「リピート率ナンバーワン」の私が? プライドが、悲鳴を上げていた。 何かしなければ。 プロとして、この「空白の時間」を埋めるだけの何かをしなければ、自分が自分でなくなってしまう気がした。
男がゆっくりと顔を横に向け、女を見た。 女もまた、冷ややかな瞳で男を見据えた。 言葉にはしなくとも、その瞳は同じことを語っていた。 『この状況、どう処理するつもり?』 逃げ場のない「先払い」という檻の中で、二人のプロフェッショナルの矜持だけが、赤く熱を持ち始めていた。
広場の時計が、長針を一つ進めた。 カチリ、という機械的な音が、二人の鼓膜にはやけに大きく響いた気がした。 周囲の空気は依然として弛緩している。幸せそうな素人たちの雑音、無防備な笑い声。それらが波のように押し寄せてはベンチの周囲に張り巡らされた「プロ意識」という名の防波堤に当たって砕けていく。
男は、もう一度だけ自分の腕時計を見た。 残り時間はたっぷりある。ありすぎるほどに。 このままここで、石像のように座り続け、ただ時間が過ぎ去るのを待つのか。 それは「待機」ではない。「停滞」だ。 常にアップデートを欠かさない自分にとって、最も忌避すべき状態。
男は、隣の女を横目で見た。 彼女もまた、退屈そうに視線を遊ばせているが、その背筋は一度たりとも丸まっていない。 (……悪くない素材だ) 男の脳裏に、不遜なアイデアが閃いた。 彼女は同業者だ。それも、自分と同じくらいプライドが高く、おそらくは腕も立つ。 素人の顧客相手では決して得られない緊張感が、ここにはある。
「……提案があります」 男はあえて視線を広場に向けたまま、独り言のように切り出した。 「このまま二人で地蔵のように座っているのも、周囲から見れば不自然だ。……そう思いませんか?」 女が反応する。長い睫毛がゆっくりと持ち上がり、男を捉えた。 「ええ。同感ですわ。まるで売れないホストと、暇を持て余した訳あり女の集まりみたいで……美しくありません」 辛辣な返しだ。男は口元だけで笑った。 「なら、少し『有意義』な時間の使い方はどうでしょう」 「有意義?」 「互いに、余った時間を有効活用するんです」
男はここで初めて体を捻り、女と正対した。 その瞳には、顧客に向ける甘い光ではなく、挑戦的な鋭い光が宿っていた。 「僕はレンタル彼氏。君はレンタル彼女。……要するに、互いに『理想の恋人』を演じるプロだ。だったら、そのスキルをぶつけ合ってみるのも一興じゃないですか?」 女の目がすうっと細められた。 男の言わんとすることを、瞬時に理解したのだ。 「つまり……お互いを練習台にして、模擬デートをしろと?」 「練習台、という言葉がお気に召さないなら、『品評会』でもいい。……僕の相手役として、君がどれほどの水準にあるのか。少し興味がありましてね」 挑発だった。 明確な、上からの物言い。 普通なら怒って席を立つ場面かもしれない。 だが、女の唇に浮かんだのは怒りではなく、冷ややかな笑みだった。 彼女のプライドもまた、限界に達していたのだ。 客に逃げられ、行き場を失ったこのフラストレーション。それを解消するには、目の前のこの生意気な同業者を黙らせるのが一番手っ取り早い。
「あら……面白いことをおっしゃるのね」 女はバッグを持ち直し、優雅な動作で足を組み替えた。 「いいですわよ。ちょうど私も、自分のスキルが錆びつかないか心配していたところです。……でも、一つだけ言っておきますけれど」 彼女の声のトーンが、一段階下がった。 それは威嚇の低さではない。獲物を前にした肉食獣のような、静かな昂りを含んだ響きだ。 「私の彼氏役を務めるということは、それなりのハードルを越えていただかないと。……途中でボロを出して、恥をかかないでくださいね?」
「愚問ですね」 男は即答した。 「君こそ。僕のリードについてこられるかな」 言葉による契約が成立した瞬間だった。 バチッ、と視線の間で火花が散る幻覚が見えるようだった。 これはデートの約束ではない。決闘の申し込みだ。 互いに「相手を試してやる」「自分の実力を見せつけてやる」という、傲慢なまでのプロ意識。 それが、奇妙な共犯関係を結ばせた。
男が立ち上がる。 その動作一つ取っても、計算され尽くしていた。 ジャケットの裾を払い、背筋を伸ばし、一瞬で「疲れた同業者」の空気を捨て去る。 そこに立っていたのは、誰もが振り返るような、完璧な「彼氏」だった。 表情筋が再構築される。 皮肉げな笑みは消え、包容力のある、それでいて少し悪戯っぽい、絶妙な「理想の男」の顔へ。
女もまた、呼応するように立ち上がった。 ベンチから腰を浮かせた瞬間、彼女のオーラが変わる。 冷徹な鑑定眼を持った女はどこかへ消え、そこには可憐で、守ってあげたくなるような、しかし凛とした芯の強さを感じさせる「理想の彼女」が現れた。 小首を傾げる角度、指先の位置、吐息の混じり方。すべてが完璧な擬態。
(……ほう) (……やるじゃない) 内心で、互いに舌を巻く。 やはり、こいつは本物だ。 だからこそ、負けられない。 この茶番劇において、一瞬でも「素」を見せたり、相手のペースに飲まれたりした方が「下」になる。 それはプロとして、死んでも許容できない敗北だ。
男が、恭しく右手を差し出した。 エスコートの基本姿勢。 しかしその手は、「掴まってみろ」という無言の圧力を含んでいる。 「では、行きましょうか。……お姫様」 甘い声。鼓膜を直接撫でるようなバリトンボイス。
女は一瞬も怯むことなく、その手の上に、ふわりと自分の指先を重ねた。 触れるか触れないかの、絶妙な距離感。 体重を預けているようで、実は自立している指先。 「ええ。楽しませてくださいね。……ダーリン」 鈴を転がすような声。 だが、繋がれた手のひらから伝わってくるのは、愛情などではない。 互いの腹を探り合うような、ヒリつくような緊張感。
二人は歩き出した。 広場の雑踏の中へ。 肩と肩の間隔は五センチ。 恋人としては少し遠く、他人としては近すぎる、それぞれの「演技領域(テリトリー)」を侵さないギリギリの境界線。 視線は前を向いているが、全神経は隣の存在に集中している。 呼吸のリズム、歩幅のピッチ、瞬きの回数。 相手の微細な情報を収集し、解析し、自分の演技にフィードバックする。 誰も見ていない。 依頼人も、評価を下す第三者もいない。 それなのに、二人はかつてないほどに張り詰めていた。
金も発生しない、愛もない、ただの虚構の時間。 けれど今、この瞬間から、世界で一番過酷で、高密度な「デート」が幕を開ける。 互いの仮面を剥ぎ取ろうとする、静かな戦争の始まりだった。
歩き出した瞬間、二人の間に流れる空気が変質した。 広場から商業施設のメインエントランスへ向かう、わずか数十メートルの石畳。 そこは彼らにとって、ただの通路ではなく、最初の「リング」だった。
男は隣を歩く女の気配に全神経を集中させていた。 レンタル彼氏における「歩行」は、極めて高度な技術を要する。 顧客の歩幅、ヒールの高さ、疲労度、その日の気分。それらを瞬時に計算し、半歩先導するか、あるいは横並びで寄り添うかを決定する。早すぎれば突き放した印象を与え、遅すぎれば頼りなさを露呈する。 男は、女のヒールの音を聞き分け、彼女の歩幅に合わせて自分のストライドを微調整した――つもりだった。 (……なんだ?) 男の眉が、前髪の下でわずかに動く。 調整が要らない。 彼が右足を踏み出すタイミングと、彼女が左足を踏み出すタイミングが、示し合わせたようにシンクロしている。 速度もだ。 彼が「この人混みなら少しペースを落とすべきだ」と判断し、コンマ数秒減速しようとした瞬間、女もまた同じ判断を下し、まったく同じブレーキをかけた。 まるで、二つの歯車が噛み合いすぎている機械のように、ノイズがない。 (……合わせているのか。僕に) 男は結論づけた。 彼女の技術だ。僕のペースを完全に読み切り、先回りして合わせているに違いない。 なんという観察眼。そして、なんという従順な演技(フリ)。
だが、主導権を渡すつもりはない。 「風が少し、冷たくなってきましたね」 男は、わざとらしくない範囲で、そっと女の右側へポジションを移した。 風上側に立つことで、彼女への風当たりを防ぐ。教科書通りの、しかし流れるような「守る男」のムーブ。 女は、その移動の意味を瞬時に悟ったはずだ。 女が顔を上げ、ふわりと微笑んだ。 「ええ。でも、不思議と寒くありませんわ」 完璧な返しだ。 「あなたが守ってくれているから」というニュアンスを、言葉にせずに含ませた。 男は内心で舌を巻く。 並の女なら「ありがとう」と言葉にしてしまうところを、彼女は雰囲気だけで返してきた。これなら周囲の雑音にかき消されることなく、二人の世界観を維持できる。
――一方、女もまた、戦慄に近い感覚を覚えていた。 この男、歩きやすい。 異常なほどに。 本来、レンタル彼女の業務において、男性客との歩行はストレスの連続だ。 歩くのが速すぎる、距離が近すぎる、あるいは無駄に周囲をキョロキョロする。それらをさりげなく修正し、誘導するのが彼女の仕事だった。 だが、この男には矯正すべき点が一つもない。 肩と肩の距離は、拳一つ分。 親密さを演出しつつ、歩行の邪魔にはならず、かつ服の素材が擦れて不快な音を立てない、計算され尽くした「聖域(サンクチュアリ)」が保たれている。 (私のペースに合わせているつもりね……生意気な)
女は、バッグを持つ手をわずかに揺らした。 男の手と触れるか触れないかの、誘惑のリズム。 もし彼が未熟なら、無意識に手を繋ごうとするだろう。あるいは、意識しすぎて距離を取るかもしれない。 だが、男の反応は冷徹だった。 彼の手は、女の手の揺れに合わせて、同じ波長で揺れたのだ。 触れない。 けれど、常に「数センチ横」にあり続ける。 まるで磁石の同極同士が反発し合いながらバランスを保っているような、見えない糸で結ばれたような緊張感。 はたから見れば、手を繋ぐ直前の、最も甘酸っぱい瞬間。 しかし当人たちにとっては、互いの「間合い」を見切るためのセンサーの擦り合わせに過ぎなかった。
二人は商業施設の巨大なガラス扉の前に差し掛かった。 自動ドアだ。 センサーが反応し、ガラスが開く。 男が動く。 彼はただ前を歩くのではなく、半身だけ先に踏み込み背中の手だけで「どうぞ」と促す仕草を見せた。 混雑した出口から来る客と、彼女の動線が被らないよう、自分の体を壁にしたのだ。 視線は彼女に向けず、あくまで周囲の安全確認をしているふり。 「エスコートしています」という押し付けがましさが一切ない。呼吸をするように自然な防衛行動。
(……やるじゃない。80点ってところかしら) 女は内心で採点しながら、その壁の守護を当然のように受け入れた。 そして、すれ違いざま、男の二の腕に、そっと指先を添えた。 ギュッと掴むのではない。 猫が飼い主に触れるように、一瞬だけのソフトタッチ。 「ありがとう」 声に出さず、唇の動きだけで伝える。 その瞬間、男の筋肉がピクリと反応したのを女は見逃さなかった。 (……よし) 揺らいだ。 完璧な鉄壁のエスコートに見えたが、予期せぬタイミングでの「感謝(リワード)」には慣れていないと見える。 女は心の中で勝ち誇った。 私が主導権を握る。あなたのエスコートさえも、私の演技を引き立てる舞台装置にしてあげる。
二人は施設の中へ滑り込んだ。 暖房の効いた暖かい空気が、二人を包み込む。 BGMのジャズ、香水の香り、無数のショップの照明。 きらびやかなデートスポットの中心で、二人のプロフェッショナルは並んで歩く。
「さて、お姫様。まずはどこへ?」 男が問いかける。 試されている、と女は感じた。 「どこでもいい」と答えれば主体性がない。「あそこに行きたい」と即答すればワガママに見える。 レンタル彼女としての模範解答は何か。 「そうですね……」 女は少しだけ視線を上げ、男の瞳を覗き込んだ。 上目遣い。角度は25度。最も虹彩が美しく輝き、かつあざとくなりすぎない黄金角。 「あなたが気になっているお店があれば、そこに行ってみたいです。……あなたの好きなものを、私も知りたいから」 カウンターパンチ。 判断を委ねつつ、「あなたへの興味」をアピールする高等テクニック。 男の目が、わずかに見開かれた。 一瞬の静止。 そして、男の口元に、先ほどまでとは違う、感嘆の混じった笑みが浮かんだ。
「……なるほど。そう来ますか」 「あら、お気に召しませんでした?」 「いいえ。……完璧な答えだ」 男は認めた。 この女、ただの同業者ではない。 反射神経、状況判断、そして台詞選びのセンス。どれを取っても一級品だ。 練習台? とんでもない。 これは、一瞬でも気を抜けば食われる、真剣勝負の場だ。 男の背筋に、武者震いに似た熱が走った。 面白くなってきた。 絶対に、この女の仮面を剥がしてやる。 「素」の顔で、俺の技術に降参させてやる。
「では、ご期待に添えるよう、最高プランでご案内しましょう」 男は自信たっぷりに言い放ち、歩き出した。 女もまた、優雅な笑みを崩さずに後に続く。 二人の足音は、相変わらず不気味なほどに揃っていた。 カツ、カツ、カツ。 それはまるで、一つの生き物が二つの体を使って歩いているかのような―― 本人たちだけが気づいていない「相性(ユニゾン)」を響かせながら、二人はきらびやかなフロアの奥へと消えていった。
二人が足を踏み入れたのは、モール内でも一際洗練された空気が漂う、輸入インテリアと雑貨のセレクトショップだった。 暖色のダウンライトが商品を照らし、微かに柑橘系のルームフレグランスが香る。 デート中のカップルが「将来の部屋」を夢想しながら巡るには、これ以上ない舞台装置だ。
男は入店と同時に視界の隅にある全身鏡で己の姿を確認した。 背筋、ジャケットの皺、そして隣に立つ女性とのバランス。 完璧だ。絵に描いたような「休日の理想的なカップル」が鏡の中にいる。 だが、その鏡に映る女の視線が、一瞬だけ鋭く自分を——いや、自分の「立ち位置」を計測したのを彼は見逃さなかった。 (……照明の位置を気にしているな) 男は内心で舌を打つ。 彼女は、ダウンライトが自分の顔に影を落とさない位置、かつ肌が最も綺麗に見える角度を瞬時に計算し、そこへ自然に移動したのだ。 恐ろしいほどの空間把握能力。 自分が彼女をエスコートしたつもりが、気づけば彼女にとっての「ベストな照明環境」へと誘導されていたのかもしれない。
「素敵な香りですね」 女が立ち止まったのは、アロマディフューザーのコーナーだった。 彼女は小瓶の一つを手に取り、鼻先に近づける。 その動作一つにも、無駄がない。 脇を締めすぎず、かといって開きすぎず。指先は瓶のラベルを隠さないように添えられている。まるでCMのワンシーンのようだ。
「ベルガモットか。……リラックス効果があるらしいですよ。最近、少し根を詰めすぎているんじゃないですか?」 男は、一歩後ろから声をかけた。 距離感は「親密だが、彼女のパーソナルスペースを圧迫しない」六十センチ。 そして声のトーンは、店内のBGMを邪魔しない、しかし彼女の耳には確実に届く低音の周波数にチューニング済みだ。 労わりの言葉を添えることで、「君のことを気にかけている」というアピールも忘れない。
女は瓶を置くと、ゆっくりと振り返った。 その表情は、男の予想通り、喜びと羞恥が三対七で混じり合った「守ってあげたくなる笑顔」だった。 「……バレちゃいました? あなたには敵わないなぁ」 完敗だ、と言わんばかりに小さく舌を出す。 (……嘘をつけ) 男の背筋が冷やりとする。 今の「敵わない」という台詞。そして舌を出すタイミング。 計算だ。百パーセントの演技だ。 彼女は「男の自尊心」をくすぐるための最適解を選んでカードを切ったに過ぎない。 俺が「観察力のある彼氏」を演じたから、彼女は即座に「見守られる健気な彼女」という配役に応じたのだ。
ラリーが早すぎる。 こちらの打った球が、バウンドする前にはもう打ち返されている。 二人は並んで店内を巡る。 周囲から見れば、美男美女の微笑ましいウィンドウショッピングだ。 だが、その内実は高度な情報戦の連続だった。 男がクッションを手に取れば、女は即座に「その色、あなたのソファに合いそう」とコメントする。 (俺の部屋など見たこともないくせに、「あなたのセンスを知っている私」を演出するテクニック) 女がペアのマグカップの前で立ち止まれば、男は「二人でコーヒーを飲む朝も悪くない」と囁く。 (将来を匂わせてドキッとさせる、レンタル彼氏の常套句) 隙がない。 互いに「正解」しか出さない。 会話のキャッチボールが一度も地面に落ちないのだ。 通常、デートというものはもっとノイズが混じる。聞き返し、沈黙、意見の不一致、照れ隠しの失言。 それらが一切ない純度一〇〇%の「模範解答」だけの空間。 あまりにも空気が滑らかすぎて、逆に窒息しそうになる。
(崩れない。鉄壁か、この女は) (ボロを出さないわね。本当に人間?) 二人はそれぞれのポケットの中で、見えないように拳を握りしめた。 笑顔を保つための表情筋が、微かに悲鳴を上げている。 相手が素人なら、適度に手を抜いて「自然な隙」を作ることもできる。だが、目の前の相手は同業者だ。 一瞬でも気を抜いて、素の「疲れた顔」を見せれば、そこを弱点として突かれる気がした。 「あら、お疲れですか?」なんて優越感たっぷりに言われた日には、プロとしての死を意味する。
その時だった。 二人の足が、同時にある棚の前で止まった。 そこにあったのは、シンプルだがデザイン性の高い、北欧製のフォトフレームだった。 「これ――」 「あ――」 声が重なった。 タイミング、声量、そしてイントネーションに至るまで、不気味なほど完全に一致していた。 二人はハッとして互いの顔を見る。 鏡を見ているようだった。 驚いたように少し目を見開き、すぐに照れたように笑い、そして「どうぞ」と譲り合うために口を開きかける動作まで。 シンクロ。 運命の赤い糸? 馬鹿な。 二人は瞬時にその現象を脳内で解析し、否定した。 (……売れ筋か) (……一番人気ね) 職業病だ。 二人とも、「今のトレンド」「万人に受けるデザイン」「プレゼントとして無難かつ高見えするアイテム」を常にリサーチしている。 この店の中で、最も「ハズさない」商品がこのフォトフレームだった。 ただそれだけの理由。 二人のデータベースが、同じ解を弾き出したに過ぎない。
「……お先にどうぞ」 「いえ、あなたが先に」 譲り合いの言葉すらハモりそうになるのを、互いにコンマ数秒のタイミングずらしで回避する。 男は、作り笑いの裏で冷や汗をかいた。 やりづらい。 自分の思考回路を読まれているようで、そして自分も相手の思考が読めてしまって、気持ちが悪い。 まるで、自分の分身とデートしているような錯覚に陥る。
女もまた、背筋に走る悪寒を隠して微笑んだ。 私の好みがバレているわけじゃない。これはマーケティングの結果よ。 勘違いしないで。 でも、この「心地よさ」は何? 私が何を言おうとしているか、彼が全部待ってくれているようなこの感覚。 ストレスがない。説明の手間がいらない。 プロ同士だからこその、阿吽の呼吸。 それが、客として対峙した時に、これほどまでに「麻薬的」な快適さを生むなんて。
「……気が合いますね、私たち」 男が、試すように言った。 その瞳は笑っていない。奥底で、獲物を値踏みする光が明滅している。 「ええ。……怖いくらいに」 女も受けて立つ。 視線が絡み合う。 甘い雰囲気ではない。 互いに「どこまでついてこれる?」と挑発し合う、剣豪同士の鍔迫り合いのような静寂。 ショーウィンドウのガラスに映る二人の姿は、誰が見てもお似合いの、幸せの絶頂にいる恋人たちだった。 しかし、その内側では、張り詰めたピアノ線がお互いの首元に突きつけられている。 触れれば切れる。 動けば絡まる。 この極限の均衡(バランス)こそが、プロの矜持。
男はポケットの中の手のひらに滲んだ汗を、強く握り込んで拭った。 女は、パンプスのつま先で床を一度だけ強く踏みしめた。 まだだ。 まだ崩れない。 この完璧な虚構(デート)の化けの皮が剥がれるまで、どちらが先に息を切らすか。 デッドヒートは、まだ始まったばかりだ。
雑貨店での「シンクロ」という事故の後、二人の間にわずかな沈黙が落ちた。 それは会話が途切れた気まずさではない。 演奏家が次の楽曲へ移る前に楽器のチューニングを確かめるような、あるいは剣士が一度刀を納めて間合いを測り直すような高度に職業的な「空白」だった。
男は、指先で眉間をわずかに押さえた。 今のタイミングの一致。あれは危険だ。 あまりにも呼吸が合いすぎると、どちらがリードしているのかが曖昧になる。 レンタル彼氏としての主導権(イニシアチブ)を取り戻さなければならない。相手のペースに合わせるのではなく、自分のペースに相手を巻き込んでこそのプロだ。
「……さて」 男はあえて事務的な響きを含ませて口を開いた。 「この店はこれくらいにして、次へ行きましょうか。まだ時間はたっぷりとあります」 女もまた、即座にその意図を汲み取る。 ここで甘ったるい余韻に浸るのは素人のすること。プロは常に次の展開(シーン)を構築する。 「ええ。お任せしますわ。……あなたのエスコート、今のところ悪くはありませんから」 上から目線の評価。 言葉の表面には、「私はまだあなたを査定中ですよ」という棘を残している。
だが、二人は気づいていない。 その声の温度が、入店した時よりも一度(いちど)ほど高くなっていることに。 相手を警戒して尖らせていた神経が、無意識のうちに「この相手なら変な気を遣わなくていい」という奇妙な安心感によって、わずかに摩耗していることに。
二人は店を出て、再びモールの通路へと踏み出した。 歩き出すその瞬間、肩と肩の距離が自然と決まる。 第一章、広場を歩き出した時は五センチだった。 互いの領域を侵さないための、礼儀としての距離。 しかし今、その隙間は限りなくゼロに近づいていた。 袖と袖が、歩行のリズムに合わせて触れるか触れないか。摩擦音こそしないが、互いの体温を布越しに感じ取れる距離。 通常なら、プロとして「近すぎる」と修正を入れる場面だ。 だが、男も女もその距離を修正しようとはしなかった。
(……彼女が寄せてきているのか?) 男は前を見ながら考える。 もしそうなら、これは彼女の攻撃だ。僕の懐に入り込み、心理的な壁を崩そうとする高等戦術。受けて立とうじゃないか。ここで退けば、「距離感に怯えた」という敗北になる。 (……彼が詰めてきているのね) 女もまた、前を見据えたまま思考する。 ボディタッチ一歩手前のプレッシャー。こちらの動揺を誘っているつもりかしら。甘いわ。この程度の距離感、仕事で慣れっこよ。逃げるわけがない。 互いに「相手が仕掛けてきた勝負」だと誤認している。 だから引かない。 結果として、傍目には「ぴったりと寄り添う恋人たち」が完成する。 その距離の近さが、二人の「相性」による磁力であることを、彼らは頑なに認めようとしない。
通路を行き交う人々の波を、二人は一つの生命体のように縫っていく。 男が右に体重をかければ、女は何も言わずにそのスペースへ滑り込む。 女が歩幅を半歩緩めれば、男は即座に速度を落として横並びを維持する。 視線の交錯すら、無言の会話となっていた。 ――あそこのカフェは混んでいる。 ――ええ、パスしましょう。 ――あのベンチは空いているが? ――座るにはまだ早いわ。 言葉など要らない。 目線と呼吸だけで、意思決定のプロセスが高速で処理されていく。 それは彼らが普段の仕事で味わっている「孤独な演義」とは対極にあるものだった。 常に相手の顔色を窺い、一方的にサービスを提供するだけの関係ではない。 投げれば返ってくる。 動けば連動する。 この異常なまでの「負荷のなさ(ストレスフリー)」を、彼らはどう処理していいか分からず、とりあえず「相手が優秀な同業者だからだ」という理屈の箱に押し込めていた。
ふと、ショーウィンドウの前で二人の足が止まる。 今度は、どちらともなく。 ただ、何となく「ここで止まるべきだ」という予感が重なっただけ。
「……フッ」 男の口から、短い吐息が漏れた。 笑いではない。 全力疾走した後のランナーが、荒い呼吸を整えるような、微かな熱を含んだ吐息。 女が横目で男を見る。 「何ですの? 急に」
「いいえ。……ただ、君という『教材』は、思ったよりも骨が折れると思いましてね」 強がりだ。 本当は、「楽すぎる」ことに恐怖していた。 気を抜くと、自分が演技をしていることを忘れそうになる。 この女の隣にいることが、まるで最初から決められていたポジションであるかのような、脳が溶けるような錯覚。それを振り払うための憎まれ口。
女もまた、その言葉の裏にある「焦り」には気づかない。 「光栄ですわ。……でも、まだ序の口ですよ。私の『本気』に、どこまで耐えられるかしら」 彼女もまた、虚勢を張る。 心拍数が、平常時よりもわずかに上がっていることを無視して。 これは仕事の緊張感だ。 絶対にそうだ。 あの雑貨店で指先が触れそうになった瞬間の、背筋を駆け上がった電流のような感覚。あれは単なる「プロ同士の覇気の衝突」だ。決して、ときめきなどという安っぽいエラーではない。
日は少しずつ傾き始めている。 モールの天窓から差し込む光が、黄金色を帯びてきた。 影が伸びる。 二つの影は、足元で一つに重なっている。
男は、ネクタイの結び目を指で触れた。 女は、髪を耳にかけ直した。 リセット。 再構築。 まだ、ボロは出していない。 まだ、主導権は渡していない。
「行きますよ」 男が歩き出す。 「ええ、ついて行きますわ」 女が続く。 その背中は、まだ戦う者のそれだった。 けれど、二人が纏う空気は、もはや「他人」のそれではない。 鉄壁の防御(ガード)を固めたまま、二人は互いの懐深くへと、気付かぬうちに踏み込んでいく。 勝負はまだ終わらない。 いや、本当の勝負――理性と本能の境界線での戦いは、ここからが本番だ。 均衡を保っているつもりの天秤が、すでに大きく傾き始めていることも知らずに、二人のプロフェッショナルは夕暮れの中へと歩を進めた。
モールの巨大な吹き抜け天井から降り注ぐ自然光が、白から茜色へとその色相を変え始めていた。 午後五時を回り、館内の空気は明らかに質を変えている。 放課後の喧噪を撒き散らしていた制服姿の学生たちは潮が引くように去り、代わって、仕事終わりの会社員や、夜の時間を楽しむための大人のカップルが姿を見せ始める。 「昼の部」の終わり。そして「夜の部」の始まり。 レンタル彼氏/彼女という稼業において、この時間帯の切り替わりこそが最も集中力を要する「魔の刻」だ。 疲れが出る。化粧が浮く。会話の種が尽きる。 素人がボロを出すなら、決まってこのタイミングだ。
男はエスカレーターのステップに立ちながら、一瞬だけ肩の力を抜こうとして——すぐに思い直し、さらに背筋を伸ばした。 (……危ない) 隣に立つ女の視線を感じたからだ。 彼女は少し前を向いたまま、ガラスの手すりに映る男の姿をチェックしているに違いない。 ここで「疲れた男」の背中を見せれば、減点対象だ。
男は逆に、女の足元へと視線を滑らせた。 七センチのピンヒール。 歩き始めてから一時間半。この広大なモールを練り歩き、一度も座っていない。 普通の女なら、とっくに「足が痛い」「カフェに入りたい」と泣き言を漏らす頃合いだ。 だが、彼女のふくらはぎのラインは、彫刻のように美しく緊張を保っている。重心のブレもない。 (……化け物か、この女は) 男は戦慄と同時に、奇妙な敬意を抱いた。 痛くないはずがない。疲れていないはずがない。 それでも彼女は、完璧な「彼女」という着ぐるみを脱ごうとしない。 その強情なまでのプロ意識が、男の闘争心に油を注ぐ。 君が崩れないなら、僕も崩れるわけにはいかない。
「……空気が、変わりましたね」 男が口を開いた。 声のトーンを、昼間よりも半音下げ、夜向けの落ち着いた周波数に切り替える。 女がゆっくりと振り返る。その動作の優雅さも、寸分の狂いもない。 「ええ。学生さんが減って、これからが『本番』の客層……といったところかしら」 彼女の言葉には、業界人特有のシビアな響きが含まれていた。
「通常なら、ここでお客様の疲れを察して、早めのディナーを提案するか、夜景の見える場所へ誘導するフェーズですが」 男が試すように言うと、女はふふ、と口元だけで笑った。 その笑みの端に、ほんのわずかな疲労の色——あるいは、気を許しかけている緩みが見えた気がした。 「教科書通りね。でも、あなたのお客様なら、そんな気遣いは無用なんじゃなくて?」 「……どういう意味です?」 「だって、あなたの隣にいるだけで、女性は緊張して疲れを忘れてしまうでしょうから。……悪い意味でね」 皮肉だ。 だが、その皮肉には、どこか「あなたの実力を認めている」という響きがあった。
男もまた、口角を上げて応戦する。 「手厳しいな。……君こそ、そのヒールでよく持ちますね。僕ならとっくにギブアップしていますよ」 「お褒めに預かり光栄ですわ。これくらい、プロなら当然のスキルですもの」
二人はエスカレーターを降り、再びフロアを歩き出す。 足音のリズムは、まだ揃っている。 だが、第一章の時のように「機械的に噛み合った」軽快なリズムではない。 一歩一歩が、少しだけ重い。 互いの疲労を無言で感じ取り、互いに「まだ歩けるか?」「まだ演れるか?」と問いかけ合うような、重厚なアンサンブル。
西日が二人の影を長く伸ばす。影は床の上で交差し、溶け合っている。 男は、自分の右肩が、女の左肩と触れそうな距離にあることを自覚していた。 本来なら修正すべきだ。 だが、体が動かない。 いや、脳のどこかで「この距離のほうが、互いのバランスを取りやすい」と判断してしまっている。 相手の体温を羅針盤にして、自分の立ち位置を決めているような感覚。 それはもう、演技の技術(テクニック)を超えた、本能的な依存に近い。
(……気のせいだ) 男は自分に言い聞かせる。 これは、相手の動きを監視するための至近距離だ。 (……勘違いしないで) 女もまた、自分に言い聞かせる。 これは、彼の隙を見逃さないための密着マークよ。 二人はまだ、自分の仮面が、夕日の熱で溶け出していることに気づかない。 完璧な「彼氏」と「彼女」の表情を張り付けたまま、二人は夜の帳が下りようとしている広場へと、重い、しかし確かな足取りを進めていった。
模擬デートは、消耗戦の様相を呈しつつ、いよいよ「感情」という名の地雷原へと踏み込んでいく。
二人が腰を下ろしたのは、モールの奥まった場所にあるカフェのテラス席だった。 メインストリートの喧騒が遠くに聞こえ、近くには観葉植物の緑がカーテンのように視界を遮っている。 夕闇が迫る中、テーブルには小さなキャンドルライトが置かれた。揺れる炎が二人の顔に複雑な陰影を落とす。 男の前にはブラックコーヒー。女の前にはハーブティー。 湯気が、冷え始めた外気の中で白く立ち昇っては消えていく。 カップに口をつけるまでの数秒間、二人は無言だった。 だが、それは第一章のような「探り合いの沈黙」ではない。 戦場の兵士が、一時的な停戦協定を結んで泥水をすするような、疲労と安堵が混じり合った静寂だ。
「……ふぅ」 女が、カップを両手で包み込みながら、小さく息を吐いた。 その吐息は、計算された色気のあるものではなく、肺の底に溜まった澱を吐き出すような、無防備な音だった。
男は、その隙を見逃さなかった。いや見逃してやるべきだと判断した。今の彼女を「減点」するのは、あまりにも無粋だと思ったからだ。 「悪くない店ですね」 男は、あえて店内の内装に視線を向けながら言った。 「座席の間隔が広い。照明も暗すぎず、明るすぎない。……プロとして、使える店だ」 仕事の延長線上の言葉。 女もまた、すぐにそのトーンに乗っかる。 「ええ。BGMの音量も適切ね。会話が途切れても気まずくならない、絶妙なボリュームだわ」 二人はまだ、鎧を脱ごうとしない。 「いい店だ」と素直に感動する代わりに、「商材として優秀だ」と評価することで、自分たちがプロであることを再確認している。
男はコーヒーを一口飲み、ソーサーにカップを戻した。 カチャン、と陶器が触れ合う音が、妙に大きく響いた。 「……君の演技を見ていて、思ったんですが」 男はカップの縁を指でなぞりながら切り出した。 「君は、あまり『自分』を出さないタイプですね。徹底して相手の鏡になろうとしている」 「あら、分析?」 「ええ。……疲れませんか? 自分を殺し続けるのは」 少し踏み込んだ問いだった。 しかし、夕暮れの魔法か、あるいはカフェの湯気のせいか。 女の反応は、予想よりも柔らかかった。 彼女はハーブティーの水面を見つめたまま、少しだけ目を伏せた。
「……疲れるわよ、そりゃあ」 ぽつりと、本音が落ちた。 男の指が止まる。 「でもね……楽でもあるの」 「楽?」 「ええ。誰かの理想を演じている間だけは、本当の私の……惨めな部分とか、どうしようもない欠点を、なかったことにできるから」 女は顔を上げず、独り言のように続けた。 「『完璧な彼女』でいる間は、私自身も、自分が素敵な人間に思えてくるの。……ただの錯覚なんだけどね」 それは、プロとしては失格に近い発言だった。 しかし男は、それを嘲笑うことができなかった。 胸の奥の、自分でも触れないようにしていた部分が、鋭く疼いたからだ。
「……分かりますよ」 男の声もまた、無意識のうちに低く、ざらついたものになっていた。 彼は視線をキャンドルの炎に移した。 「僕も……時々、分からなくなる。客に向けている笑顔のほうが、鏡で見る自分の顔よりも、ずっと人間らしい気がして」 男は自嘲気味に口角を上げた。 「誰かに必要とされたい、という欲求を、金で買われた『仕事』という形でしか満たせない。……僕たちは、欠陥品なのかもしれませんね」 言った直後、男はハッとした。 喋りすぎた。
だが、女は笑わなかった。 彼女はゆっくりと顔を上げ、男を真っ直ぐに見つめた。 その瞳は、演技の潤みではなく、もっと生々しい、共感の熱を帯びていた。 「……欠陥品、か」 彼女は、まるで大切な宝物の名前でも呼ぶように、その言葉を咀嚼した。 「でも、だからこそ……私たちは、誰かの寂しさに寄り添えるんじゃないかしら」 一瞬、時が止まった。 カフェのざわめきも、食器の音も、すべてが遠のいた。 テーブルの上の小さな炎だけが、二人の瞳の中で揺れている。 それは「同業者への理解」という枠を、明らかに超えていた。 傷の舐め合いではない。 もっと深い場所で、魂の形が似ていることを確認し合ってしまったような、決定的な共鳴。
男の心臓が、不規則に跳ねた。 危険だ。 この空気は、まずい。 これ以上踏み込めば、戻れなくなる。 彼は、必死で理性を総動員し、その空気を断ち切る言葉を探した。
「……ま、素晴らしい顧客サービス精神ですね」 男は、無理やりいつもの皮肉っぽい笑みを貼り付けた。 「自分の弱さすら商売道具にするとは。……やはり君は、一流だ」 それは、あまりにも下手なフォローだった。 女もまた、一瞬だけ寂しげに目を細めたが、すぐに完璧な微笑みを取り戻した。 「ええ。あなたこそ。……自己分析ができているキャストは、伸びますよ?」 彼女もまた、逃げた。 「素」が出かけた扉を、慌てて「プロ意識」という錠前で閉ざしたのだ。
二人は同時にカップの中身を飲み干した。 熱かったはずの液体はもうぬるくなっていた。 けれど、喉を通るその液体が、なぜか普段よりもずっと深く、身体の芯に染み渡る気がした。 会話は途切れた。 再び訪れた沈黙は、先ほどよりも柔らかく、そしてどこか切ない成分を含んでいた。 二人は視線を外し、それぞれ別の方向を見たふりをした。 指先だけが、カップの温もりを惜しむように、陶器の肌をなぞり続けていた。 これは仕事だ。 ただの時間調整だ。 そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の中に生まれた小さな「何か」が、無視できない重さを持って存在を主張し始めていた。
カフェを出た直後だった。
予報にはなかった通り雨が、アスファルトを叩きつけ始めたのは。
パラパラという警告音のような雨粒は瞬く間に視界を白く染めるほどの豪雨へと変わった。モールの屋外通路を行き交う人々が、悲鳴に近い声を上げて屋根のあるエリアへと走り出す。
「……走りましょう!」
男が短く声を張り上げた。
優雅なエスコートなどと言っていられない。彼は反射的に判断し、駅へと続く連絡通路の屋根を目指して駆け出した。
女もまた、七センチのヒールなどものともせずに反応した。
二人は雨煙の中を駆ける。
湿った風が頬を打ち、整えた髪が乱れる。だが、そんなことを気にしている余裕はない。
連絡通路の入り口付近は、同じように雨宿りを求めて殺到した人々でごった返していた。
濡れた床。傘を振るう人々の無遠慮な動作。湿気と熱気が充満する狭い空間。
そこは、整然とした「デート」の舞台とは程遠い、混沌とした避難所だった。
「きゃっ……!」
前方で、小さな悲鳴が上がった。
ずぶ濡れの子供が、母親の手を振りほどいて走り出し、その勢いのまま女の進行方向へ突っ込んできたのだ。
女はプロだ。とっさに身体をひねり、子供との衝突を回避した。
しかし、そこは雨が吹き込むタイルの上だった。
回避行動で重心を崩した彼女の細いヒールが、水膜の上で無情にも滑る。
摩擦係数を失った彼女の身体が、重力に従って背後へと傾いだ。
倒れる。
女の脳裏に、硬いタイルに後頭部を打ち付ける映像と、泥水にまみれて台無しになる衣装のイメージが走馬灯のように過った。
受け身を取らなければ。
プロとして、最低限の被害で――。
だが、彼女の背中が地面に届くことはなかった。
ドンッ、という鈍い衝撃。
痛覚が予期していた硬さではなく、熱を持った弾力のある壁が、彼女の落下を強引に食い止めていた。
男だった。
彼は、女が体勢を崩した瞬間、思考するよりも速く動いていた。
子供が飛び出してくる気配。彼女の回避動作。ヒールが滑る音。
それらを視覚と聴覚が捉えるより先に、彼の筋肉はすでに収縮を開始していた。
右腕を伸ばし、彼女の腰を引き寄せる。同時に左足を大きく踏み出し、自分の身体を楔(くさび)のように床に突き刺して二人の体重を支えきる。
完全に、反射だった。
「商品を守る」とか「顧客へのサービス」とか、そんな理屈が脳のシナプスを通る時間はなかった。
時が、止まった。
周囲の雨音も、人々のざわめきも、突然スイッチを切られたように遠のいた。
男の腕の中に、女がいる。
抱き留めた体勢。
あまりにも近すぎる。
男の鼻先には、雨の匂いに混じって、彼女の髪から漂うシャンプーの香りが鮮烈に突き刺さった。それは香水のような「他所行き」の匂いではなく、もっと根源的な、彼女という生命体が放つ甘い体温の匂いだった。
右手に伝わる彼女の腰のくびれの感触。
華奢に見えて、意外なほどしなやかな筋肉の張り。
そして、自分の胸板に押し付けられた彼女の肩から、ドクン、ドクンという速い鼓動が直接響いてくる。
女もまた、世界が収束する感覚に溺れていた。
目の前には、男の首筋がある。
濡れたシャツが肌に張り付き、喉仏が荒く上下しているのが見える。
支えてくれている腕の力強さ。
痛いくらいに強く、けれど絶対に離さないという意志のこもった拘束。
熱い。
雨に打たれて冷えたはずの肌が、触れている部分から火傷しそうなほどの熱を帯びていく。
男が、ゆっくりと顔を下ろした。
女が、驚いたように顔を上げた。
視線が絡む。
距離、十センチ。
互いの瞳の中に、雨に濡れた自分の情けない顔が映り込んでいる。
その瞳は、演技をしていない。
「大丈夫ですか、お客様」というプロの目はどこにもない。
ただの男と、ただの女が、互いの生存を確認し合うような、生々しい視線。
心臓がうるさい。
男は、自分の肋骨がきしむほどの心拍音を聞いた。
これはアドレナリンのせいだ。緊急事態だからだ。
そうでなければ説明がつかない。
なぜ、今すぐにこの腕を離すべきだと分かっているのに、指先が彼女の服を掴んだまま離そうとしないのか。
なぜ「無事でよかった」という安堵感が、胸の奥をこんなにも締め付けるのか。
「……っ」
数秒――あるいは永遠とも思える時間の後、女が小さく身じろぎをした。
その微かな動きが、凍り付いていた時間を再び動かした。
男は弾かれたように腕を解いた。
女もまた、見えない力に突き飛ばされたかのように、慌てて身体を離した。
失われた体温の空白に、冷たい湿気が入り込む。
その寒さが、急速に二人を現実へと引き戻した。
「……失礼」
男が、掠れた声を出した。
喉が渇いている。彼は咳ばらいを一つして、乱れたジャケットの襟を直した。
「足元が悪かったので。……つい、手が出ました」
つい。
その言葉の軽さが、今の重量感のある状況とあまりにも不釣り合いだった。
だが、そう定義するしかなかった。
これは危機管理だ。転倒による怪我を防ぐための、業務上の緊急避難措置だ。
「……いえ、助かりましたわ」
女もまた、視線を男の胸元あたりに彷徨わせながら、早口で応じた。
彼女の手が、自分の二の腕――さっきまで男の手が触れていた場所――を、無意識に擦っている。
「あの子にぶつかって、怪我でもしたら……賠償問題になりかねませんし。ナイスカバーです」
言葉を選べ。
もっと、事務的で、冷淡な言葉を。
そうしなければ、さっきの熱が身体に残って、顔に出てしまいそうになる。
周囲の音が、ようやく戻ってきた。
雨音、子供を叱る母親の声、足音。
日常だ。
ここはただの連絡通路で、自分たちはただの時間潰しをしている同業者だ。
男は濡れた前髪をかき上げた。
指先が微かに震えているのを、拳を握り込んで隠す。
「……行きましょう。濡れたままだと風邪を引く」
「ええ。……そうね」
二人は歩き出した。
だが、その距離感は、さっきまでとは決定的に違っていた。
先ほどまでの「吸い寄せられるような自然な近さ」ではない。
意識して、無理やり空けた「他人の距離」。
近づけば、またあの引力に負けてしまう。あの熱に触れてしまう。
それを本能的に恐れた二人は、不自然なほどのスペースを空けて、雨上がりの通路を並んで歩いた。
触れた場所が熱い。
男は右の手のひらに、女は左の腰に、消えない火種のような感触を残したまま。
それを「仕事の誇り」という薄い布で必死に覆い隠そうとしている姿は、もはや誰の目にも滑稽なほどに、不器用な恋人同士にしか見えなかった。
館内放送のチャイムが、柔らかなメロディと共に流れた。 『本日もご来店いただき、誠にありがとうございます。当施設は、午後九時をもちまして――』 無機質な女性アナウンサーの声が今日の「営業時間」の終わりを告げている。 モールの窓の外は、いつの間にか群青色に沈んでいた。 街路樹にはイルミネーションが点灯し、帰路を急ぐ車のヘッドライトが川のように流れている。 「昼」という舞台セットが撤去され、「夜」という現実に切り替わる時間。
男は、無意識のうちに歩調を緩めていた。 腕時計を見るまでもない。体内時計が、契約時間の終了が近いことを正確に告げていた。 残り、三十分弱。 第一章で「長すぎる」と絶望したはずのその時間は、今、奇妙な質量を持って彼の胃のあたりに重くのしかかっていた。
「……そろそろ、ですね」 男は、あえて感情を排したフラットな声で言った。 隣を歩く女もまた、視線を前方に固定したまま頷く。 「ええ。概ね、予定通りのタイムスケジュールですわ。……時間の管理(タイムキープ)に関しては、合格点といったところかしら」 彼女の評価は、相変わらず上からだ。 だがその声には以前のような鋭い棘がない。どこか角が取れ、丸みを帯びた響きが混じっている。 彼女もまた、歩く速度を落としていることに気づいていないのだろうか。 競歩のような速さで始まったこのデートは、今や、散歩と呼ぶにも遅すぎるほどの、緩やかなペースになっていた。
二人は、出口へと続く長い回廊を歩きながら、今日一日の「業務」を振り返る作業(レビュー)に入った。 それは、デートの余韻に浸る恋人たちの会話ではない。 プロジェクトの終了を目前に控えた同僚同士の、冷徹な反省会(デブリーフィング)の形を借りていた。
「序盤の雑貨店での振る舞い」 男が議題を挙げる。 「相手の好みを先読みしすぎました。あそこまで露骨に合わせると、逆に『作られた相性』だと勘繰られるリスクがある。……次回への修正点だ」 「そうね。でも、その後のリカバリーは悪くなかったわ。私の興味を否定せず、かつ自分の意見も挟む。……顧客満足度(CS)を高めるための基本メソッド、忠実に守れていました」 淡々と、互いの手口を解剖し合う。 そうすることでしか、この「名残惜しさ」を正当化できないからだ。 今、この胸にある重苦しさは、別れが辛いからではない。 長時間の業務による疲労と、反省すべき点が多々あることへのプロとしての自戒だ。 そう、自分に言い聞かせる。
「……さっきの雨の件ですが」 男が、少しだけ声を低くした。 あの接触事故。今日のハイライトであり、最もイレギュラーな事態。 「あれは、過剰防衛でした。客の身体に触れるのは、本来なら最小限に留めるべきだ。……プロとして、未熟だった」 あれはミスだ。 心臓が跳ねたのも、体温が移ったのも、すべては予期せぬトラブル(バグ)だ。 だから、ここで切り捨てる。
女は数歩歩いてから、静かに答えた。 「……いいえ。緊急避難としては、適切な判断だったと思います」 彼女は、自分の二の腕――彼が掴んだ場所――を、カーディガンの上からそっと撫でた。 「それに、あそこで支えてくれなければ、私の衣装も髪も台無しになっていた。……キャストとしての『商品価値』を守ったという意味では、評価に値する行動です」 嘘だ。 二人とも、嘘をついている。 「商品価値を守った」なんて理屈はどうでもいい。 本当は、ただ「守ってくれて嬉しかった」「守れてよかった」というシンプルな感情がそこにあるだけだ。 けれど、それを口にしてしまえば、この「模擬デート」というゲームオーバーの条件を満たしてしまう。 だから二人は、必死で「仕事」という包装紙で感情をラッピングし直す。
出口の自動ドアが見えてきた。 その向こうには、現実の世界が広がっている。 冷たい風、家路を急ぐ人々、そして「他人」に戻るための境界線。
(……まだ、終わりたくないのか?) 男の脳裏に、ふとそんな言葉がよぎる。 まさか。 俺はプロだ。時間は絶対だ。延長料金が発生しない限り、一秒たりともサービスはしない。 それなのに、なぜ足がこんなにも重い? なぜ、隣の女の横顔を、網膜に焼き付けようとしている?
女もまた、視線を足元に落としていた。 コツ、コツ、というヒールの音が、心なしか寂しげに響く。 (……いい練習(トレーニング)になったわ) そう思うことにする。 彼のような高レベルな相手と渡り合えたことは、今後のキャリアにとってプラスになる。 それだけのこと。 また会いたいとか、連絡先を知りたいとか、そんな素人くさい未練は、このヒールの音と一緒に置いていくべきだ。
二人の間に、沈黙が落ちる。 気まずさはなかった。 ただ、終わってしまう時間を惜しむような、密度のある沈黙。 肩と肩の距離は、もう五センチもない。 服の袖が擦れ合う音が、静かな回廊にカサリカサリと響いている。 それを避ける素振りを見せないことが、今の二人にとっての、精一杯の「抵抗」だった。
「……出口ですね」 「……ええ、そうね」 言葉少なに確認し合う。 まだ、ゲートはくぐらない。 あともう少しだけ、この夢のような、戦いのような時間の端っこにしがみついていたい。 そんな「本音」を、プロフェッショナルの鉄仮面の下に隠して、二人はゆっくりと、あまりにもゆっくりと、最後の数メートルを歩き続けた。
出口への道程は、残酷なほど短く、そして優しかった。 西の空から射し込む夕陽は、建物の梁や柱を長く引き伸ばし、二人の足元に濃いオレンジ色の道を敷いている。 二つの影が、床の上を滑るように進む。 ある時は平行に並び、ある時は揺らぎながら重なり合い、一つの黒いシルエットとなって溶け合う。 影だけ見れば、それは完全に、離れがたい恋人たちの姿だった。
男は鞄を持ち替えた。 右から左へ。 彼女のいる側とは逆の手に荷物を持つことで、無意識のうちに、彼女との間にあった物理的な障壁を取り除いている。 それに気づいているのかいないのか、彼はあくまで仕事の話題を口にした。
「……これからの季節、繁忙期でしょう」 男の声は、凪いだ海のように穏やかだった。 「クリスマスに年末年始。孤独を埋めたい人々が殺到する。……体調管理には気をつけたほうがいい」 それは同業者としての助言(アドバイス)だ。 だが、その響きには、「君に倒れてほしくない」という、契約外の気遣いが滲んでいる。
女は、視線を少しだけ伏せて微笑んだ。 「ええ。覚悟はしていますわ。……あなたこそ。人気商売でしょうから、代わりは効かないんじゃなくて?」 「まさか。僕なんて、いくらでも替えの効く消耗品ですよ」 「……嘘ね」 女が小さく呟いた。 「今日のあなたの仕事ぶりを見ていれば分かるわ。……替えなんて、いない」 一瞬、空気が止まる。 それは賛辞を超えた、個人の肯定だった。
女はハッとしたように口元を少し引き結び、慌てて付け加えた。 「……という意味で、市場価値が高い、と言ったんです。あくまでマーケットの視点で」 「……恐縮です」 男は苦笑した。 その笑顔には、いつもの「キザな演出」が抜け落ちていた。 ふっ、と息が漏れるような、力の抜けた笑い。 鏡の前で練習したことのない、不格好だが温かい表情。
二人は歩き続ける。 話題は尽きない。普段なら「面倒な仕事の話」として切り捨てるような内容が、今はなぜか愛おしい。 「雨の日は、客足が鈍るか逆に重い案件が増えるかの二択ですが……」 男が言葉を濁す。 「今日は、そのどちらでもなかった」 「ええ。……珍しい日」 女が言葉を継ぐ。 「こういう……突発的な『実験』も、悪くはありませんね。たまには」 たまには。 その言葉の裏にある「またあってもいい」というニュアンスを、二人は聞こえないふりをした。
男は、隣を歩く彼女の横顔を盗み見た。 夕陽に染まった頬、長い睫毛、少しだけ開いた唇。 今日一日、散々観察し、分析してきたはずの顔だ。 それなのに、まだ見足りない気がする。 「データ収集」という名目では説明がつかないほど、その表情の微細な変化を目で追ってしまっている。
(……あ) 男は、何かを言いかけた。 名前だ。 今日一日、互いに「あなた」「そちら」と呼び合ってきた。 仕事ならそれでいい。名前など記号に過ぎない。 だが今、喉元まで出かかったのは、彼女の源氏名でも役名でもない、本当の名前を問う言葉だったかもしれない。 しかし、男は口を閉じた。 聞いてしまえば、この均衡が崩れる。 プロ同士という境界線が消え、ただの男と女になってしまう。それはこの「勝負」において、ルール違反のような気がした。
女もまた、男の視線に気づいていた。 いつもなら「見惚れているの?」とからかう場面だ。 けれど、彼女は何も言わず、ただ鞄のストラップをぎゅっと握り直した。 その視線が心地よいと感じてしまっている自分を、悟られたくなかったからだ。
二人の影が、また重なる。 夕陽が低い位置から射し込むせいで、影は実際の身長よりも遥かに長く伸び、二人の足元からずっと先、出口の向こう側まで続いていた。 まるで、二人の関係がこの先も続いていくことを暗示するように。
「……意外と、歩けるものですね」 男がぽつりと言った。 「え?」 「ヒール。……まだ、大丈夫そうですか」 男の視線が、彼女の足元に向けられる。 女は、痛むはずのつま先を、不思議なほど感じていなかった。 「ええ。不思議ね。……あなたの歩幅が、心地よかったからかしら」 最大のデレだった。 言葉にした瞬間、女は少し顔を赤らめ、すぐに「歩き方の技術(スキル)の話ですよ」という顔を作った。
男は、その言い訳を聞く前に、嬉しそうに目を細めた。 笑い声が、小さく響く。 あはは、という演技の笑いではない。 くすっ、という含み笑いでもない。 ただ、同じ空気を吸って、同じ温度を感じていることへの、安らぎの吐息のような笑い。
二人の間の空気は、第二章の「張り詰めた糸」とは明らかに違っていた。 糸はまだある。 けれどそれは、互いを縛り合う緊張の糸ではなく、二人を繋ぎ止める、解くのが惜しい絆のような柔らかさを帯びていた。
出口まで、あと数十メートル。 まだ話したいことがある気がする。 まだ聞きたいことがある気がする。 でも、それを言葉にすれば「仕事」が終わってしまう。 だから二人は、あえてどうでもいい天気の話や、シフトの傾向の話を繰り返しながら、一歩、また一歩と、終わりへのカウントダウンを噛み締めていた。
自動ドアが開くと、そこは完全な夜だった。 十一月の夜気は、空調で守られた館内とは別世界の鋭さを持っていた。 ビル風が吹き荒れる駅前のペデストリアンデッキ。 イルミネーションの光が、寒風に煽られた街路樹とともに激しく揺れている。 二人は、駅へと続く長い陸橋を歩いていた。 会話は途切れていた。 寒さのせいにするには、あまりにも意識的な沈黙だった。 互いの息が白く濁り、夜空に溶けていく様を、視線の端で確認し合う。 コートのポケットに手を突っ込み、少し背中を丸めて歩く男。 マフラーに顔を埋め、寒さに耐えるように歩く女。 その距離は、もう「五センチ」の攻防すら放棄され、肩が触れ合うほどの近さに縮まっていた。
信号待ち。 赤信号が、濡れたアスファルトに赤い線を引いている。 立ち止まった瞬間、突風が吹き抜けた。 「……っ」 女が小さく声を上げ目を細める。 風の悪戯は容赦がなかった。綺麗にセットされていた彼女のサイドの髪を煽り、緩く巻かれていたマフラーの端を巻き上げた。 長い髪が視界を覆い、マフラーがだらしなく肩から解け落ちる。 プロとして、すぐさま直さなければならない。
女が手を伸ばそうとした、その時だった。 男の手が、視界の端から伸びてきた。 女の手よりも速く、しかし驚くほど慎重な速度で。
「……そのままで」 短く、低い声。 男の指先が女の頬のすぐ横を掠めた。 冷え切っているはずの指先なのに、触れた瞬間そこから火花のような熱が伝播した。
男は、風に遊ばれた彼女の髪を、そっと耳の後ろへと流した。 その動作は、美容師のそれのように手際よく、けれど恋人が宝物に触れるように丁寧だった。 指の背が、女の耳たぶに触れる。 鼓膜のすぐそばで、衣擦れの音がした。
男の手は止まらない。 解けかけたマフラーの端を掴み、彼女の首元へと巻き直す。 きつく締めすぎず、かといって風が入らないように隙間を埋める、完璧な力加減。 男の手首が、女の鎖骨のあたりに触れた。
時間が、歪んだ。 周囲を行き交う帰宅ラッシュの足音も、遠くで鳴るクラクションも、すべてが水槽の外の出来事のように遠のいた。 世界には今、マフラーを整える男の手と、それを受け入れている女の呼吸しか存在しなかった。
近い。 男の顔が、女の目前にある。 彼の瞳の中に、街灯の光が小さく反射している。その奥にある感情の色までは、逆光で見えない。 けれど、吐息がかかる距離だ。 彼の匂いがする。 高級なコロンの香りは風に飛び、その下にある、煙草の残り香と、微かな汗と、体温の匂いが混ざった「男」の匂いが冷たい空気の中で鮮烈に鼻腔を揺さぶった。
心臓が、嫌な音を立てた。 ドクン。 それは、プロ失格の警鐘だった。 客にこんなことはしない。 髪を直すにしても、もっと距離を取る。 マフラーを直すにしても、こんなに長く指を留めたりしない。 これは侵食だ。 「サービス」という境界線を越えて、個人の領域に踏み込んでいる。
男もまた、自分の手が止まっていることに気づいていた。 整え終わったはずのマフラーから、手が離れない。 彼女の首元の温もりが、冷え切った指先を溶かしていく感覚が心地よすぎて、離れられない。 このまま抱き寄せたらどうなる? このまま、冷たくなった頬に手を添えたら? 脳裏をよぎる衝動は、もはや「演技プラン」などではなかった。
数秒。 あるいは、十秒以上。 二人は交差点の真ん中で、彫像のように動きを止めていた。 信号が青に変わる電子音が、ピヨピヨと鳴り響く。 その電子音が、魔法を解く合図となった。
男は、感電したようにパッと手を引いた。 女もまた、弾かれたように半歩下がった。 二人の間に、急激に冷たい風が入り込む。 気まずい。 いや、気まずいという言葉では軽すぎる。 見せてはいけないものを見せ合い、触れてはいけない場所に触れてしまった共犯者のような、重苦しい沈黙。
何か言わなければならない。 この空気を、「仕事」の枠に戻さなければならない。 男は、わざとらしく咳ばらいをした。 視線を、信号機の青い光へと無理やり固定する。
「……風邪を引かれては、困りますから」 男が絞り出した声は、自分でも驚くほど上ずっていた。 彼は慌てて、いつもの「キザな男」のトーンを被せ直す。 「商品管理も、僕の仕事のうちです。……最後まで、完璧な状態でいていただかないと、僕の評価に関わりますので」 酷い言い訳だった。 論理が破綻している。相手の体調管理など、レンタル彼氏の業務範囲外だ。 だが、そう定義するしかなかった。 「心配だったから」と言ってしまえば、それはもう告白になってしまうから。
女は、首元のマフラーを、自分の手でぎゅっと握りしめた。 そこにはまだ、彼の手の熱が残っている。 彼女は、伏し目がちに、震える声で笑おうとした。 「……そう。徹底しているのね」 声が揺れる。プロ失格だ。 でも、彼女は必死に続けた。 「ありがとう。……追加料金(オプション)の請求は、なしで頼むわね」 「……ええ。サービス(おまけ)です」
嘘つき。 二人とも、大嘘つきだ。 これがサービスなものか。 これが仕事なものか。 今の沈黙、今の指の感触、今の視線の熱量。そのどこにビジネスの要素があったというのか。 読者でなくとも、通りすがりの誰かが見ても分かるだろう。 それは、愛しい相手を寒さから守ろうとする、ただの男の行動だった。
信号が点滅を始める。 二人は逃げるように歩き出した。 しかし、その足取りは乱れていた。 男はポケットの中で拳を握りしめ、女はマフラーに顔を埋めて熱い頬を隠した。 言葉にはしなかった。 けれど、決定的な一線は、もうとっくに越えられていた。 もはや「判定不能」なのは、勝敗の行方ではない。 この感情に「仕事」という名前がついているのか、「恋」という名前がついているのか。 その区別だけが二人の中で完全に融解し、混ざり合ってしまっていた。
「お疲れ様でした」 「こちらこそ、お疲れ様でした」 氷点下の如く冷え切った業務終了の挨拶。駅の改札前、周囲には別れを惜しむ恋人たちが溢れているというのに、私たちだけが退職願を叩きつけた直後のような空気を纏っていた。
「では、本日の経費精算を」 「はい」 彼が財布から取り出したのは、驚くほど雑に丸められたレシートの束だった。ぐちゃり、と音がしそうなほどプレスされた感熱紙。財布の中で何ヶ月熟成されたのか分からないが、彼はそれを真顔で広げ、私の手元に突き出してくる。しかも一枚じゃない。二、三枚ある。
(……多くない?) 私は眉一つ動かさずにそれを受け取った。あくまで業務だ。中身を確認し、折半するか請求するかを判断しなければならない。 視線を落とす。そこに印字されていたのは、狂気じみた明細だった。
『恋人ロール プレミアムコース』 『カップル歩行距離:三二〇〇メートル(超過料金適用)』 『空気感調整オプション』 『沈黙フォロー料金(高度)』 『予期せぬ事件時対応チャージ』 『赤面対応・即時冷却費』
「…………」 「…………」 改札前の喧騒が、遠のいていく。 私の脳内で、何かが「ピタッ」と止まった。彼もまた、私が固まったのを見て動きを停止している。 数秒の沈黙。 世界から音が消えたような静寂の後、私たちの口から漏れたのは、全く同じ温度の、純粋な業務上の疑問だった。
「これ、普通こんなにオプション使わんよな?」 「……あ」 私の指摘に、彼が間の抜けた声を出す。 私たちは顔を見合わせた。 「え?」 「ん?」 「今日の……これ……」 レシートの明細と、彼の顔を交互に見る。 「……練習?」 「……練習の……度を超してないか?」
その瞬間、二人の脳内回路が同時にショートした。 客観的に見れば、これは「ぼったくりバーの明細」ではない。私たちが今日、無意識のうちにどれだけ過剰に「恋人」をやっていたかという、動かぬ証拠だ。 これだけのオプションを、息をするように自然に行使していた? 嫌いな相手に? 業務で? (……私ら今日、客より本気でサービスしとったんじゃ?) プロ意識という名のバグ。
その事実に気付いた瞬間、私たちの背筋がバネ仕掛けのように「ビッ!」と伸びた。 視線が泳ぐ。急激に増える手汗。私は無言でレシートを高速で折りたたみ、彼の胸ポケットにねじ込んだ。見なかったことにしたい。記録ごと抹消したい。 お互いの距離が、一歩ぶん、ズザザと音を立てて広がる。
「……ぎょ、業務、ですからね」 私の口から出た声は、自分でも引くほど1オクターブ高かった。 「ええ、業務ですとも」 彼もまた、明後日の方向を見ながら即答する。目が完全に死んでいるのに、口元だけが笑っている。
「では、お疲れ様でした」 「お疲れ様でした」 示し合わせたように声が重なった。第二章で見せたあの不快なシンクロが、ここでは滑稽な和音となって響く。 私たちは回れ右をし、それぞれの帰路についた。
背中を向けて歩き出した瞬間、私は心の中で叫んでいた。 (いやおかしいやろ!!) レシートの残像が網膜に焼き付いて離れない。 足がもつれる。 歩道橋の階段で一段踏み外しかけ、手すりにしがみつく。 振り返ると、彼も赤信号の横断歩道に突っ込みそうになって急ブレーキをかけていた。
私たちはプロだ。 だからこそ、この「過剰請求」の意味を、今は絶対に認めるわけにはいかないのだった。
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
金曜日の午後四時。 週末の熱気を孕み始めた市街地の一角、大型商業施設の広場は、これから始まる夜への期待でわずかに浮足立っていた。 行き交う人々は彩度が高い。学生の集団、ベビーカーを押す家族連れ、早めのディナーに向かうカップル。 その雑多な喧噪の中、周囲とは明らかに「仕上げ方」の異なる一人の男が立っていた。 男はショーウィンドウのガラスを利用し、さりげなく自身の映り込みを確認した。 ジャケットの裾、ネクタイのノット、髪の毛先。すべてがミリ単位で計算されている。 彼は左手首を返し、腕時計へ視線を落とした。 約束の十分前。完璧だ。 脳内で頭に叩き込んだ顧客データを反芻する。 (三十代後半、会社員。要望は『年下の落ち着いた彼氏』。エスコートは控えめに、話を聞く側に回ること) 口角を二ミリ上げ、表情筋を「傾聴モード」にセットする。 彼はレンタル彼氏だ。 この街ですれ違うどの男よりも、「理想の恋人」であるための訓練を積んでいるという自負がある。 その時、ジャケットの内ポケットでスマートフォンが短く震えた。
――同時刻。 同じ広場の反対側、噴水を挟んだベンチの陰に、一人の女がいた。 彼女もまた、周囲の風景から微かに浮いていた。 清楚なワンピースに、主張しすぎないカーディガン。メイクは「ナチュラルに見えるように時間をかけた」職人芸だ。 彼女は小さなハンドバッグの中身を、指先だけで確認した。 ハンカチ、ティッシュ、予備の絆創膏、口臭ケア用品。 (二十代前半、大学生。要望は『清楚だけどリードしてくれるお姉さん』。会話の主導権はこちらが握る。ただし、出しゃばりすぎないこと) 呼吸を整える。 彼女はレンタル彼女だ。 恋に夢を見る素人とは違う。代価に見合う「夢」を提供するプロフェッショナルだ。 彼女のバッグの中でもまた、スマートフォンが震えた。 広場の雑踏を切り裂くように、二つの通知音が重なる。 男と女は、示し合わせたように同時にそれぞれの端末を取り出し、画面をタップした。 専用アプリのメッセージボックス。 そこに表示された文字列を、二人は同時に網膜に焼き付けた。 『ごめんなさい。やっぱり恥ずかしくて行けません。今日の依頼はキャンセルで』 『すみません、急用ができて。キャンセル料は払うので、今日はなしにしてください』 文面こそ違えど、突きつけられた事実は同じだった。 男の眉が、ほんの一瞬だけピクリと跳ねた。 女の唇が、わずかに歪みかけた。
ドタキャン。 この業界では珍しくない事故だ。だが、彼らのプライドがそれを「よくあること」として処理することを拒絶した。 準備にかけた時間。美容院代。何より、「プロである自分」が、会うことさえなく拒絶されたという事実。 行き場のない熱が胸の奥で燻る。
しかし、二人はプロだった。 男は即座にスマホをポケットにしまい、涼しげな顔でショーウィンドウを見上げた。 女はスマホをバッグに滑り込ませ、何事もなかったように髪を耳にかけた。 周囲には、恋人に振られた惨めな姿など一切晒さない。 ただ、その瞳の奥だけが、冷ややかに光を失っていた。 広場の喧噪は変わらない。 世界から取り残された二人のプロフェッショナルだけが、ぽっかりと空いた時間を持て余し、それぞれの足で、偶然にも同じ「人の少ない休憩スペース」へと歩き出した。
手元にあるスマートフォンが、ただの黒い板のように重く感じられた。 男は、ショーウィンドウから視線を外し、小さく息を吐いた。 キャンセル料は発生する。金銭的な損害はない。規約上、このまま帰宅しても何の問題もないはずだ。 だが、足が動かなかった。 エンジンを温めきったスポーツカーがいきなりキーを抜かれたような、あるいは振り上げた拳が空を切ったような、奇妙な不完全燃焼感。 「……座るか」 独り言ともつかない音を喉の奥で鳴らし、彼は広場の隅にある木製のベンチへと向かった。 そこは植え込みの影になっており、浮かれた通行人の視線がある程度遮断される、広場における数少ない「死角」だった。
一方、女もまた、同じ磁力に引かれるように足を動かしていた。 ヒールの音が、コンクリートの上で虚しく響く。 今日のために新調したリップの色が、誰にも見られることなく乾いていく感覚が癇に障る。 (帰ればいい。分かってる) 理性はそう告げているのに、プロとしての本能が「現場」を離れることを拒んでいた。 せめて少し頭を冷やしてから。 あるいは、この理不尽な「空き時間」を埋めるための正当な理由を見つけてから。 彼女は無意識のうちに、人目を避けられるあのベンチを目指していた。 二人の距離が縮まる。 男がベンチの右端に腰を下ろしたのと、女が左端にアプローチしたのは、ほぼ同時だった。 ベンチの長さは三人掛け程度。 他人同士が座るには十分な距離だが、互いの存在を無視するには近すぎる。
男は、隣に座ろうとする人影に、反射的に視線を走らせた。 職業病だ。視界に入る人間を瞬時にカテゴライズし、対応ランクを決定する癖がついている。 (……なんだ、この女) 評価は一瞬で完了し、そして警戒へと変わった。 姿勢が良すぎる。 荷物を置く所作、スカートの裾を払う指先の動き、そして座った瞬間の膝の角度。 すべてが「見られること」を前提に計算され尽くしている。 ただの待ち合わせ客にしては隙がなさすぎる。まるで、自分と同じ種類の人間が纏う「鎧」のような。
女もまた、座りながら男を横目でスキャンしていた。 (……普通じゃない) 彼女のセンサーが反応する。 高級だが嫌味のないスーツの着こなし。手首に見える時計のブランドは、若者が背伸びして買うようなものではなく、「信頼」を演出するための堅実なチョイス。 何より、座っているだけで漂う「待機モード」のオーラが異質だ。 スマホを操作する指先すら優雅に見えるよう制御されている。 二人の間に、透明な壁のような沈黙が生まれた。 周囲の子供たちの笑い声や、噴水の水音が遠のいていく。 このベンチの上だけ、空気が真空パックされたように張り詰めていた。
互いに「只者ではない」と感じている。 だが、それを口に出すほど野暮ではない。 男はあくまで紳士的な仮面を被ったまま、沈黙の均衡を崩すことにした。これ以上無言で隣り合うのは、逆に不自然だと判断したからだ。 「……お待ち合わせですか?」 声のトーンは、完璧な「F(1/f)ゆらぎ」を含んでいた。相手に警戒心を抱かせず、かつ好印象を与える営業用の声。 女は視線をスマホから上げず、しかし口元に営業用の柔らかな笑みを貼り付けて応じた。 「ええ、まあ。……少し前までは、そうでしたけど」 含みのある言い方だった。 男は内心で眉をひそめる。その返答のテンポ、声の高さの調整。素人のそれではない。 「奇遇ですね。僕も似たような状況でして」 「あら、そうなんですか」 女はようやく顔を上げ、男と視線を合わせた。 目が笑っていない。 男もまた、穏やかな表情の下で冷徹に彼女を観察し返した。 彼らは直感していた。 目の前の人間は、自分と同じ穴の狢かもしれない。 だが、それは仲間意識を意味しない。 同じ漁場で獲物を狙う同業者か、あるいは似て非なる厄介な存在か。
「……お相手の方、急用でも?」 男が探りを入れる。 「ええ。急に怖気づいてしまわれたみたいで」 女はふふ、と上品に笑ったが、その言葉の端には隠しきれない棘があった。 「そちらは?」 「似たようなものです。直前になって自信をなくされたようで」 二人の会話は、水面下でのジャブの応酬だった。 互いに「客に逃げられた」という失態を認めつつも、その原因は「客の弱さ」にあると暗に主張し合っている。 自分のスキル不足ではない。あくまで相手側の問題だ、と。 そのプライドの高さが、同族嫌悪の火種となって燻り始めた。 男は脚を組み直した。つま先の角度まで完璧に。 女は髪をかき上げた。その仕草ひとつで周囲の視線を集めるように。
彼らはまだ知らない。 互いが「レンタル彼氏」と「レンタル彼女」という、鏡合わせの存在であることを。 ただ、目の前の相手が妙に鼻につく「プロっぽい何か」であることだけを確信し、静かに警戒レベルを引き上げていた。
広場を通り抜ける風が、少しだけ冷たさを増した。 男は組み替えた足のつま先を、リズムよく、しかし音は立てずに動かしている。それは彼が思考を整理する時の癖だった。 隣に座る女の「同類臭」は会話を重ねるごとに確信へと変わっていく。 ただの待ち合わせ客ではない。その整いすぎた所作、崩れない笑顔、そして何より、言葉の端々に滲む「業務的な思考回路」。
「……それで」 男は、あくまで世間話を装って切り出した。視線は噴水の水しぶきに向けたままだ。 「キャンセルされたとはいえ、撤収はされないんですか? お相手が来ないなら、待っていても時間の無駄でしょう」 カマをかけた。 もし彼女が普通の女性なら、「そうですね、もう帰ります」と言うはずだ。 だが、女の反応は違った。 彼女は膝の上で重ねた手を、白魚のような指先で軽く叩いた。 「ええ。普通ならそうするんですが……あいにくと、私の時間は既に『購入』されてしまっているもので」 「購入?」 「はい。システム上の決済は完了していますから。ここからの二時間は、厳密には私の私有時間ではないんです」 ビンゴだ。 男の目が細められた。 やはり、彼女は「売る側」の人間だ。 「……なるほど。先払い制、というわけですか」 「ええ。基本料金に指名料、それにデートプランのコーディネート費。すべてお支払い済みです。規約上、お客様都合のキャンセルは返金対象外。……そちらは?」 女が視線だけで問い返してくる。 男は短く鼻を鳴らし、肩をすくめた。 「同じです。僕の方も、事務所を通したクレジット決済で処理が終わっています。この後のディナー予約のキャンセル料も含めて、ね」
二人の間にあった「疑惑」が、「事実」として共有された瞬間だった。 レンタル彼氏。レンタル彼女。 呼び名は違えど、彼らは時間を切り売りし、夢を提供する幻影の恋人たちだ。 互いの正体を察した瞬間、空気は緩和するどころか、さらにピリついたものへと変質した。 同業者。 それはある意味で、最も気の抜けない相手だ。 自分の手口、演技の裏側、笑顔の値段を知り尽くしている人間が、すぐ隣にいる。 男は無意識に背筋をさらに伸ばし、ネクタイの結び目に触れた。だらしない姿は見せられない。 女もまた、顎の角度を数ミリ引き、首筋が最も美しく見える姿勢を取り直した。安い女だと思われたくない。
「……やりにくいですね」 男がぽつりと漏らした。 「同感です」 女が即答する。 「本来なら、濡れ手で粟、と喜ぶべき状況なんでしょう。何もせずに、規定のギャラが満額入るわけですから」 「ええ。労働なき報酬。効率だけで言えば最高の結果ですわ」 言葉とは裏腹に、二人の声には微塵も喜びがなかった。 むしろ、滲んでいるのは苛立ちだ。 彼らはプロだった。 プロフェッショナルとは、対価に見合うだけのパフォーマンスを発揮して初めて、その報酬を正当化できる生き物だ。 客が来ない。仕事がない。けれど金だけは入る。 それは彼らのプライドにとって、「詐欺」に近い居心地の悪さだった。
「タダ飯を食うようで、どうも寝覚めが悪い」 「私のサービスに価値がないと言われているようで、不愉快です」 二人の意見が、奇妙な形で一致する。 男はスマホを取り出し、アプリの管理画面を表示した。 残り時間:1時間50分。 ステータス:『稼働中』。 この文字が点灯している限り、彼は「誰かの彼氏」として振る舞う義務がある。たとえその「誰か」が不在だとしても。
「……規約には、『不測の事態でも、契約時間は指定場所近辺で待機すること』とあります」 男が画面を見ながら呟く。 「私の事務所も似たようなものです。『キャストは契約終了時刻まで、品位を保ち待機すること』」 女がため息混じりに続ける。 つまり、帰れない。 金を受け取ってしまった以上、彼らはこの場所に縛り付けられている。 あと二時間近く、何もしないまま、ただベンチを温めるだけの存在として。
「……最悪だ」 「……退屈ね」 二人の視線が、正面の広場を行き交うカップルたちに向けられる。 素人の恋人たちが、拙い手つきで手を繋ぎ、要領の悪い会話で笑い合っている。 普段なら「微笑ましいカモたち」と見下ろす光景が、今はひどく眩しく、そして妬ましかった。 彼らは「本物」だ。 自分たちは「偽物」ですらない、「在庫」だ。
男の指が、ベンチの縁を苛ただしげに叩く。 女のヒールが、コツコツと地面を刻む。 このまま二時間、地蔵のように座り続けるのか? 「業界トップクラス」を自負するこの俺が? 「リピート率ナンバーワン」の私が? プライドが、悲鳴を上げていた。 何かしなければ。 プロとして、この「空白の時間」を埋めるだけの何かをしなければ、自分が自分でなくなってしまう気がした。
男がゆっくりと顔を横に向け、女を見た。 女もまた、冷ややかな瞳で男を見据えた。 言葉にはしなくとも、その瞳は同じことを語っていた。 『この状況、どう処理するつもり?』 逃げ場のない「先払い」という檻の中で、二人のプロフェッショナルの矜持だけが、赤く熱を持ち始めていた。
広場の時計が、長針を一つ進めた。 カチリ、という機械的な音が、二人の鼓膜にはやけに大きく響いた気がした。 周囲の空気は依然として弛緩している。幸せそうな素人たちの雑音、無防備な笑い声。それらが波のように押し寄せてはベンチの周囲に張り巡らされた「プロ意識」という名の防波堤に当たって砕けていく。
男は、もう一度だけ自分の腕時計を見た。 残り時間はたっぷりある。ありすぎるほどに。 このままここで、石像のように座り続け、ただ時間が過ぎ去るのを待つのか。 それは「待機」ではない。「停滞」だ。 常にアップデートを欠かさない自分にとって、最も忌避すべき状態。
男は、隣の女を横目で見た。 彼女もまた、退屈そうに視線を遊ばせているが、その背筋は一度たりとも丸まっていない。 (……悪くない素材だ) 男の脳裏に、不遜なアイデアが閃いた。 彼女は同業者だ。それも、自分と同じくらいプライドが高く、おそらくは腕も立つ。 素人の顧客相手では決して得られない緊張感が、ここにはある。
「……提案があります」 男はあえて視線を広場に向けたまま、独り言のように切り出した。 「このまま二人で地蔵のように座っているのも、周囲から見れば不自然だ。……そう思いませんか?」 女が反応する。長い睫毛がゆっくりと持ち上がり、男を捉えた。 「ええ。同感ですわ。まるで売れないホストと、暇を持て余した訳あり女の集まりみたいで……美しくありません」 辛辣な返しだ。男は口元だけで笑った。 「なら、少し『有意義』な時間の使い方はどうでしょう」 「有意義?」 「互いに、余った時間を有効活用するんです」
男はここで初めて体を捻り、女と正対した。 その瞳には、顧客に向ける甘い光ではなく、挑戦的な鋭い光が宿っていた。 「僕はレンタル彼氏。君はレンタル彼女。……要するに、互いに『理想の恋人』を演じるプロだ。だったら、そのスキルをぶつけ合ってみるのも一興じゃないですか?」 女の目がすうっと細められた。 男の言わんとすることを、瞬時に理解したのだ。 「つまり……お互いを練習台にして、模擬デートをしろと?」 「練習台、という言葉がお気に召さないなら、『品評会』でもいい。……僕の相手役として、君がどれほどの水準にあるのか。少し興味がありましてね」 挑発だった。 明確な、上からの物言い。 普通なら怒って席を立つ場面かもしれない。 だが、女の唇に浮かんだのは怒りではなく、冷ややかな笑みだった。 彼女のプライドもまた、限界に達していたのだ。 客に逃げられ、行き場を失ったこのフラストレーション。それを解消するには、目の前のこの生意気な同業者を黙らせるのが一番手っ取り早い。
「あら……面白いことをおっしゃるのね」 女はバッグを持ち直し、優雅な動作で足を組み替えた。 「いいですわよ。ちょうど私も、自分のスキルが錆びつかないか心配していたところです。……でも、一つだけ言っておきますけれど」 彼女の声のトーンが、一段階下がった。 それは威嚇の低さではない。獲物を前にした肉食獣のような、静かな昂りを含んだ響きだ。 「私の彼氏役を務めるということは、それなりのハードルを越えていただかないと。……途中でボロを出して、恥をかかないでくださいね?」
「愚問ですね」 男は即答した。 「君こそ。僕のリードについてこられるかな」 言葉による契約が成立した瞬間だった。 バチッ、と視線の間で火花が散る幻覚が見えるようだった。 これはデートの約束ではない。決闘の申し込みだ。 互いに「相手を試してやる」「自分の実力を見せつけてやる」という、傲慢なまでのプロ意識。 それが、奇妙な共犯関係を結ばせた。
男が立ち上がる。 その動作一つ取っても、計算され尽くしていた。 ジャケットの裾を払い、背筋を伸ばし、一瞬で「疲れた同業者」の空気を捨て去る。 そこに立っていたのは、誰もが振り返るような、完璧な「彼氏」だった。 表情筋が再構築される。 皮肉げな笑みは消え、包容力のある、それでいて少し悪戯っぽい、絶妙な「理想の男」の顔へ。
女もまた、呼応するように立ち上がった。 ベンチから腰を浮かせた瞬間、彼女のオーラが変わる。 冷徹な鑑定眼を持った女はどこかへ消え、そこには可憐で、守ってあげたくなるような、しかし凛とした芯の強さを感じさせる「理想の彼女」が現れた。 小首を傾げる角度、指先の位置、吐息の混じり方。すべてが完璧な擬態。
(……ほう) (……やるじゃない) 内心で、互いに舌を巻く。 やはり、こいつは本物だ。 だからこそ、負けられない。 この茶番劇において、一瞬でも「素」を見せたり、相手のペースに飲まれたりした方が「下」になる。 それはプロとして、死んでも許容できない敗北だ。
男が、恭しく右手を差し出した。 エスコートの基本姿勢。 しかしその手は、「掴まってみろ」という無言の圧力を含んでいる。 「では、行きましょうか。……お姫様」 甘い声。鼓膜を直接撫でるようなバリトンボイス。
女は一瞬も怯むことなく、その手の上に、ふわりと自分の指先を重ねた。 触れるか触れないかの、絶妙な距離感。 体重を預けているようで、実は自立している指先。 「ええ。楽しませてくださいね。……ダーリン」 鈴を転がすような声。 だが、繋がれた手のひらから伝わってくるのは、愛情などではない。 互いの腹を探り合うような、ヒリつくような緊張感。
二人は歩き出した。 広場の雑踏の中へ。 肩と肩の間隔は五センチ。 恋人としては少し遠く、他人としては近すぎる、それぞれの「演技領域(テリトリー)」を侵さないギリギリの境界線。 視線は前を向いているが、全神経は隣の存在に集中している。 呼吸のリズム、歩幅のピッチ、瞬きの回数。 相手の微細な情報を収集し、解析し、自分の演技にフィードバックする。 誰も見ていない。 依頼人も、評価を下す第三者もいない。 それなのに、二人はかつてないほどに張り詰めていた。
金も発生しない、愛もない、ただの虚構の時間。 けれど今、この瞬間から、世界で一番過酷で、高密度な「デート」が幕を開ける。 互いの仮面を剥ぎ取ろうとする、静かな戦争の始まりだった。
歩き出した瞬間、二人の間に流れる空気が変質した。 広場から商業施設のメインエントランスへ向かう、わずか数十メートルの石畳。 そこは彼らにとって、ただの通路ではなく、最初の「リング」だった。
男は隣を歩く女の気配に全神経を集中させていた。 レンタル彼氏における「歩行」は、極めて高度な技術を要する。 顧客の歩幅、ヒールの高さ、疲労度、その日の気分。それらを瞬時に計算し、半歩先導するか、あるいは横並びで寄り添うかを決定する。早すぎれば突き放した印象を与え、遅すぎれば頼りなさを露呈する。 男は、女のヒールの音を聞き分け、彼女の歩幅に合わせて自分のストライドを微調整した――つもりだった。 (……なんだ?) 男の眉が、前髪の下でわずかに動く。 調整が要らない。 彼が右足を踏み出すタイミングと、彼女が左足を踏み出すタイミングが、示し合わせたようにシンクロしている。 速度もだ。 彼が「この人混みなら少しペースを落とすべきだ」と判断し、コンマ数秒減速しようとした瞬間、女もまた同じ判断を下し、まったく同じブレーキをかけた。 まるで、二つの歯車が噛み合いすぎている機械のように、ノイズがない。 (……合わせているのか。僕に) 男は結論づけた。 彼女の技術だ。僕のペースを完全に読み切り、先回りして合わせているに違いない。 なんという観察眼。そして、なんという従順な演技(フリ)。
だが、主導権を渡すつもりはない。 「風が少し、冷たくなってきましたね」 男は、わざとらしくない範囲で、そっと女の右側へポジションを移した。 風上側に立つことで、彼女への風当たりを防ぐ。教科書通りの、しかし流れるような「守る男」のムーブ。 女は、その移動の意味を瞬時に悟ったはずだ。 女が顔を上げ、ふわりと微笑んだ。 「ええ。でも、不思議と寒くありませんわ」 完璧な返しだ。 「あなたが守ってくれているから」というニュアンスを、言葉にせずに含ませた。 男は内心で舌を巻く。 並の女なら「ありがとう」と言葉にしてしまうところを、彼女は雰囲気だけで返してきた。これなら周囲の雑音にかき消されることなく、二人の世界観を維持できる。
――一方、女もまた、戦慄に近い感覚を覚えていた。 この男、歩きやすい。 異常なほどに。 本来、レンタル彼女の業務において、男性客との歩行はストレスの連続だ。 歩くのが速すぎる、距離が近すぎる、あるいは無駄に周囲をキョロキョロする。それらをさりげなく修正し、誘導するのが彼女の仕事だった。 だが、この男には矯正すべき点が一つもない。 肩と肩の距離は、拳一つ分。 親密さを演出しつつ、歩行の邪魔にはならず、かつ服の素材が擦れて不快な音を立てない、計算され尽くした「聖域(サンクチュアリ)」が保たれている。 (私のペースに合わせているつもりね……生意気な)
女は、バッグを持つ手をわずかに揺らした。 男の手と触れるか触れないかの、誘惑のリズム。 もし彼が未熟なら、無意識に手を繋ごうとするだろう。あるいは、意識しすぎて距離を取るかもしれない。 だが、男の反応は冷徹だった。 彼の手は、女の手の揺れに合わせて、同じ波長で揺れたのだ。 触れない。 けれど、常に「数センチ横」にあり続ける。 まるで磁石の同極同士が反発し合いながらバランスを保っているような、見えない糸で結ばれたような緊張感。 はたから見れば、手を繋ぐ直前の、最も甘酸っぱい瞬間。 しかし当人たちにとっては、互いの「間合い」を見切るためのセンサーの擦り合わせに過ぎなかった。
二人は商業施設の巨大なガラス扉の前に差し掛かった。 自動ドアだ。 センサーが反応し、ガラスが開く。 男が動く。 彼はただ前を歩くのではなく、半身だけ先に踏み込み背中の手だけで「どうぞ」と促す仕草を見せた。 混雑した出口から来る客と、彼女の動線が被らないよう、自分の体を壁にしたのだ。 視線は彼女に向けず、あくまで周囲の安全確認をしているふり。 「エスコートしています」という押し付けがましさが一切ない。呼吸をするように自然な防衛行動。
(……やるじゃない。80点ってところかしら) 女は内心で採点しながら、その壁の守護を当然のように受け入れた。 そして、すれ違いざま、男の二の腕に、そっと指先を添えた。 ギュッと掴むのではない。 猫が飼い主に触れるように、一瞬だけのソフトタッチ。 「ありがとう」 声に出さず、唇の動きだけで伝える。 その瞬間、男の筋肉がピクリと反応したのを女は見逃さなかった。 (……よし) 揺らいだ。 完璧な鉄壁のエスコートに見えたが、予期せぬタイミングでの「感謝(リワード)」には慣れていないと見える。 女は心の中で勝ち誇った。 私が主導権を握る。あなたのエスコートさえも、私の演技を引き立てる舞台装置にしてあげる。
二人は施設の中へ滑り込んだ。 暖房の効いた暖かい空気が、二人を包み込む。 BGMのジャズ、香水の香り、無数のショップの照明。 きらびやかなデートスポットの中心で、二人のプロフェッショナルは並んで歩く。
「さて、お姫様。まずはどこへ?」 男が問いかける。 試されている、と女は感じた。 「どこでもいい」と答えれば主体性がない。「あそこに行きたい」と即答すればワガママに見える。 レンタル彼女としての模範解答は何か。 「そうですね……」 女は少しだけ視線を上げ、男の瞳を覗き込んだ。 上目遣い。角度は25度。最も虹彩が美しく輝き、かつあざとくなりすぎない黄金角。 「あなたが気になっているお店があれば、そこに行ってみたいです。……あなたの好きなものを、私も知りたいから」 カウンターパンチ。 判断を委ねつつ、「あなたへの興味」をアピールする高等テクニック。 男の目が、わずかに見開かれた。 一瞬の静止。 そして、男の口元に、先ほどまでとは違う、感嘆の混じった笑みが浮かんだ。
「……なるほど。そう来ますか」 「あら、お気に召しませんでした?」 「いいえ。……完璧な答えだ」 男は認めた。 この女、ただの同業者ではない。 反射神経、状況判断、そして台詞選びのセンス。どれを取っても一級品だ。 練習台? とんでもない。 これは、一瞬でも気を抜けば食われる、真剣勝負の場だ。 男の背筋に、武者震いに似た熱が走った。 面白くなってきた。 絶対に、この女の仮面を剥がしてやる。 「素」の顔で、俺の技術に降参させてやる。
「では、ご期待に添えるよう、最高プランでご案内しましょう」 男は自信たっぷりに言い放ち、歩き出した。 女もまた、優雅な笑みを崩さずに後に続く。 二人の足音は、相変わらず不気味なほどに揃っていた。 カツ、カツ、カツ。 それはまるで、一つの生き物が二つの体を使って歩いているかのような―― 本人たちだけが気づいていない「相性(ユニゾン)」を響かせながら、二人はきらびやかなフロアの奥へと消えていった。
二人が足を踏み入れたのは、モール内でも一際洗練された空気が漂う、輸入インテリアと雑貨のセレクトショップだった。 暖色のダウンライトが商品を照らし、微かに柑橘系のルームフレグランスが香る。 デート中のカップルが「将来の部屋」を夢想しながら巡るには、これ以上ない舞台装置だ。
男は入店と同時に視界の隅にある全身鏡で己の姿を確認した。 背筋、ジャケットの皺、そして隣に立つ女性とのバランス。 完璧だ。絵に描いたような「休日の理想的なカップル」が鏡の中にいる。 だが、その鏡に映る女の視線が、一瞬だけ鋭く自分を——いや、自分の「立ち位置」を計測したのを彼は見逃さなかった。 (……照明の位置を気にしているな) 男は内心で舌を打つ。 彼女は、ダウンライトが自分の顔に影を落とさない位置、かつ肌が最も綺麗に見える角度を瞬時に計算し、そこへ自然に移動したのだ。 恐ろしいほどの空間把握能力。 自分が彼女をエスコートしたつもりが、気づけば彼女にとっての「ベストな照明環境」へと誘導されていたのかもしれない。
「素敵な香りですね」 女が立ち止まったのは、アロマディフューザーのコーナーだった。 彼女は小瓶の一つを手に取り、鼻先に近づける。 その動作一つにも、無駄がない。 脇を締めすぎず、かといって開きすぎず。指先は瓶のラベルを隠さないように添えられている。まるでCMのワンシーンのようだ。
「ベルガモットか。……リラックス効果があるらしいですよ。最近、少し根を詰めすぎているんじゃないですか?」 男は、一歩後ろから声をかけた。 距離感は「親密だが、彼女のパーソナルスペースを圧迫しない」六十センチ。 そして声のトーンは、店内のBGMを邪魔しない、しかし彼女の耳には確実に届く低音の周波数にチューニング済みだ。 労わりの言葉を添えることで、「君のことを気にかけている」というアピールも忘れない。
女は瓶を置くと、ゆっくりと振り返った。 その表情は、男の予想通り、喜びと羞恥が三対七で混じり合った「守ってあげたくなる笑顔」だった。 「……バレちゃいました? あなたには敵わないなぁ」 完敗だ、と言わんばかりに小さく舌を出す。 (……嘘をつけ) 男の背筋が冷やりとする。 今の「敵わない」という台詞。そして舌を出すタイミング。 計算だ。百パーセントの演技だ。 彼女は「男の自尊心」をくすぐるための最適解を選んでカードを切ったに過ぎない。 俺が「観察力のある彼氏」を演じたから、彼女は即座に「見守られる健気な彼女」という配役に応じたのだ。
ラリーが早すぎる。 こちらの打った球が、バウンドする前にはもう打ち返されている。 二人は並んで店内を巡る。 周囲から見れば、美男美女の微笑ましいウィンドウショッピングだ。 だが、その内実は高度な情報戦の連続だった。 男がクッションを手に取れば、女は即座に「その色、あなたのソファに合いそう」とコメントする。 (俺の部屋など見たこともないくせに、「あなたのセンスを知っている私」を演出するテクニック) 女がペアのマグカップの前で立ち止まれば、男は「二人でコーヒーを飲む朝も悪くない」と囁く。 (将来を匂わせてドキッとさせる、レンタル彼氏の常套句) 隙がない。 互いに「正解」しか出さない。 会話のキャッチボールが一度も地面に落ちないのだ。 通常、デートというものはもっとノイズが混じる。聞き返し、沈黙、意見の不一致、照れ隠しの失言。 それらが一切ない純度一〇〇%の「模範解答」だけの空間。 あまりにも空気が滑らかすぎて、逆に窒息しそうになる。
(崩れない。鉄壁か、この女は) (ボロを出さないわね。本当に人間?) 二人はそれぞれのポケットの中で、見えないように拳を握りしめた。 笑顔を保つための表情筋が、微かに悲鳴を上げている。 相手が素人なら、適度に手を抜いて「自然な隙」を作ることもできる。だが、目の前の相手は同業者だ。 一瞬でも気を抜いて、素の「疲れた顔」を見せれば、そこを弱点として突かれる気がした。 「あら、お疲れですか?」なんて優越感たっぷりに言われた日には、プロとしての死を意味する。
その時だった。 二人の足が、同時にある棚の前で止まった。 そこにあったのは、シンプルだがデザイン性の高い、北欧製のフォトフレームだった。 「これ――」 「あ――」 声が重なった。 タイミング、声量、そしてイントネーションに至るまで、不気味なほど完全に一致していた。 二人はハッとして互いの顔を見る。 鏡を見ているようだった。 驚いたように少し目を見開き、すぐに照れたように笑い、そして「どうぞ」と譲り合うために口を開きかける動作まで。 シンクロ。 運命の赤い糸? 馬鹿な。 二人は瞬時にその現象を脳内で解析し、否定した。 (……売れ筋か) (……一番人気ね) 職業病だ。 二人とも、「今のトレンド」「万人に受けるデザイン」「プレゼントとして無難かつ高見えするアイテム」を常にリサーチしている。 この店の中で、最も「ハズさない」商品がこのフォトフレームだった。 ただそれだけの理由。 二人のデータベースが、同じ解を弾き出したに過ぎない。
「……お先にどうぞ」 「いえ、あなたが先に」 譲り合いの言葉すらハモりそうになるのを、互いにコンマ数秒のタイミングずらしで回避する。 男は、作り笑いの裏で冷や汗をかいた。 やりづらい。 自分の思考回路を読まれているようで、そして自分も相手の思考が読めてしまって、気持ちが悪い。 まるで、自分の分身とデートしているような錯覚に陥る。
女もまた、背筋に走る悪寒を隠して微笑んだ。 私の好みがバレているわけじゃない。これはマーケティングの結果よ。 勘違いしないで。 でも、この「心地よさ」は何? 私が何を言おうとしているか、彼が全部待ってくれているようなこの感覚。 ストレスがない。説明の手間がいらない。 プロ同士だからこその、阿吽の呼吸。 それが、客として対峙した時に、これほどまでに「麻薬的」な快適さを生むなんて。
「……気が合いますね、私たち」 男が、試すように言った。 その瞳は笑っていない。奥底で、獲物を値踏みする光が明滅している。 「ええ。……怖いくらいに」 女も受けて立つ。 視線が絡み合う。 甘い雰囲気ではない。 互いに「どこまでついてこれる?」と挑発し合う、剣豪同士の鍔迫り合いのような静寂。 ショーウィンドウのガラスに映る二人の姿は、誰が見てもお似合いの、幸せの絶頂にいる恋人たちだった。 しかし、その内側では、張り詰めたピアノ線がお互いの首元に突きつけられている。 触れれば切れる。 動けば絡まる。 この極限の均衡(バランス)こそが、プロの矜持。
男はポケットの中の手のひらに滲んだ汗を、強く握り込んで拭った。 女は、パンプスのつま先で床を一度だけ強く踏みしめた。 まだだ。 まだ崩れない。 この完璧な虚構(デート)の化けの皮が剥がれるまで、どちらが先に息を切らすか。 デッドヒートは、まだ始まったばかりだ。
雑貨店での「シンクロ」という事故の後、二人の間にわずかな沈黙が落ちた。 それは会話が途切れた気まずさではない。 演奏家が次の楽曲へ移る前に楽器のチューニングを確かめるような、あるいは剣士が一度刀を納めて間合いを測り直すような高度に職業的な「空白」だった。
男は、指先で眉間をわずかに押さえた。 今のタイミングの一致。あれは危険だ。 あまりにも呼吸が合いすぎると、どちらがリードしているのかが曖昧になる。 レンタル彼氏としての主導権(イニシアチブ)を取り戻さなければならない。相手のペースに合わせるのではなく、自分のペースに相手を巻き込んでこそのプロだ。
「……さて」 男はあえて事務的な響きを含ませて口を開いた。 「この店はこれくらいにして、次へ行きましょうか。まだ時間はたっぷりとあります」 女もまた、即座にその意図を汲み取る。 ここで甘ったるい余韻に浸るのは素人のすること。プロは常に次の展開(シーン)を構築する。 「ええ。お任せしますわ。……あなたのエスコート、今のところ悪くはありませんから」 上から目線の評価。 言葉の表面には、「私はまだあなたを査定中ですよ」という棘を残している。
だが、二人は気づいていない。 その声の温度が、入店した時よりも一度(いちど)ほど高くなっていることに。 相手を警戒して尖らせていた神経が、無意識のうちに「この相手なら変な気を遣わなくていい」という奇妙な安心感によって、わずかに摩耗していることに。
二人は店を出て、再びモールの通路へと踏み出した。 歩き出すその瞬間、肩と肩の距離が自然と決まる。 第一章、広場を歩き出した時は五センチだった。 互いの領域を侵さないための、礼儀としての距離。 しかし今、その隙間は限りなくゼロに近づいていた。 袖と袖が、歩行のリズムに合わせて触れるか触れないか。摩擦音こそしないが、互いの体温を布越しに感じ取れる距離。 通常なら、プロとして「近すぎる」と修正を入れる場面だ。 だが、男も女もその距離を修正しようとはしなかった。
(……彼女が寄せてきているのか?) 男は前を見ながら考える。 もしそうなら、これは彼女の攻撃だ。僕の懐に入り込み、心理的な壁を崩そうとする高等戦術。受けて立とうじゃないか。ここで退けば、「距離感に怯えた」という敗北になる。 (……彼が詰めてきているのね) 女もまた、前を見据えたまま思考する。 ボディタッチ一歩手前のプレッシャー。こちらの動揺を誘っているつもりかしら。甘いわ。この程度の距離感、仕事で慣れっこよ。逃げるわけがない。 互いに「相手が仕掛けてきた勝負」だと誤認している。 だから引かない。 結果として、傍目には「ぴったりと寄り添う恋人たち」が完成する。 その距離の近さが、二人の「相性」による磁力であることを、彼らは頑なに認めようとしない。
通路を行き交う人々の波を、二人は一つの生命体のように縫っていく。 男が右に体重をかければ、女は何も言わずにそのスペースへ滑り込む。 女が歩幅を半歩緩めれば、男は即座に速度を落として横並びを維持する。 視線の交錯すら、無言の会話となっていた。 ――あそこのカフェは混んでいる。 ――ええ、パスしましょう。 ――あのベンチは空いているが? ――座るにはまだ早いわ。 言葉など要らない。 目線と呼吸だけで、意思決定のプロセスが高速で処理されていく。 それは彼らが普段の仕事で味わっている「孤独な演義」とは対極にあるものだった。 常に相手の顔色を窺い、一方的にサービスを提供するだけの関係ではない。 投げれば返ってくる。 動けば連動する。 この異常なまでの「負荷のなさ(ストレスフリー)」を、彼らはどう処理していいか分からず、とりあえず「相手が優秀な同業者だからだ」という理屈の箱に押し込めていた。
ふと、ショーウィンドウの前で二人の足が止まる。 今度は、どちらともなく。 ただ、何となく「ここで止まるべきだ」という予感が重なっただけ。
「……フッ」 男の口から、短い吐息が漏れた。 笑いではない。 全力疾走した後のランナーが、荒い呼吸を整えるような、微かな熱を含んだ吐息。 女が横目で男を見る。 「何ですの? 急に」
「いいえ。……ただ、君という『教材』は、思ったよりも骨が折れると思いましてね」 強がりだ。 本当は、「楽すぎる」ことに恐怖していた。 気を抜くと、自分が演技をしていることを忘れそうになる。 この女の隣にいることが、まるで最初から決められていたポジションであるかのような、脳が溶けるような錯覚。それを振り払うための憎まれ口。
女もまた、その言葉の裏にある「焦り」には気づかない。 「光栄ですわ。……でも、まだ序の口ですよ。私の『本気』に、どこまで耐えられるかしら」 彼女もまた、虚勢を張る。 心拍数が、平常時よりもわずかに上がっていることを無視して。 これは仕事の緊張感だ。 絶対にそうだ。 あの雑貨店で指先が触れそうになった瞬間の、背筋を駆け上がった電流のような感覚。あれは単なる「プロ同士の覇気の衝突」だ。決して、ときめきなどという安っぽいエラーではない。
日は少しずつ傾き始めている。 モールの天窓から差し込む光が、黄金色を帯びてきた。 影が伸びる。 二つの影は、足元で一つに重なっている。
男は、ネクタイの結び目を指で触れた。 女は、髪を耳にかけ直した。 リセット。 再構築。 まだ、ボロは出していない。 まだ、主導権は渡していない。
「行きますよ」 男が歩き出す。 「ええ、ついて行きますわ」 女が続く。 その背中は、まだ戦う者のそれだった。 けれど、二人が纏う空気は、もはや「他人」のそれではない。 鉄壁の防御(ガード)を固めたまま、二人は互いの懐深くへと、気付かぬうちに踏み込んでいく。 勝負はまだ終わらない。 いや、本当の勝負――理性と本能の境界線での戦いは、ここからが本番だ。 均衡を保っているつもりの天秤が、すでに大きく傾き始めていることも知らずに、二人のプロフェッショナルは夕暮れの中へと歩を進めた。
モールの巨大な吹き抜け天井から降り注ぐ自然光が、白から茜色へとその色相を変え始めていた。 午後五時を回り、館内の空気は明らかに質を変えている。 放課後の喧噪を撒き散らしていた制服姿の学生たちは潮が引くように去り、代わって、仕事終わりの会社員や、夜の時間を楽しむための大人のカップルが姿を見せ始める。 「昼の部」の終わり。そして「夜の部」の始まり。 レンタル彼氏/彼女という稼業において、この時間帯の切り替わりこそが最も集中力を要する「魔の刻」だ。 疲れが出る。化粧が浮く。会話の種が尽きる。 素人がボロを出すなら、決まってこのタイミングだ。
男はエスカレーターのステップに立ちながら、一瞬だけ肩の力を抜こうとして——すぐに思い直し、さらに背筋を伸ばした。 (……危ない) 隣に立つ女の視線を感じたからだ。 彼女は少し前を向いたまま、ガラスの手すりに映る男の姿をチェックしているに違いない。 ここで「疲れた男」の背中を見せれば、減点対象だ。
男は逆に、女の足元へと視線を滑らせた。 七センチのピンヒール。 歩き始めてから一時間半。この広大なモールを練り歩き、一度も座っていない。 普通の女なら、とっくに「足が痛い」「カフェに入りたい」と泣き言を漏らす頃合いだ。 だが、彼女のふくらはぎのラインは、彫刻のように美しく緊張を保っている。重心のブレもない。 (……化け物か、この女は) 男は戦慄と同時に、奇妙な敬意を抱いた。 痛くないはずがない。疲れていないはずがない。 それでも彼女は、完璧な「彼女」という着ぐるみを脱ごうとしない。 その強情なまでのプロ意識が、男の闘争心に油を注ぐ。 君が崩れないなら、僕も崩れるわけにはいかない。
「……空気が、変わりましたね」 男が口を開いた。 声のトーンを、昼間よりも半音下げ、夜向けの落ち着いた周波数に切り替える。 女がゆっくりと振り返る。その動作の優雅さも、寸分の狂いもない。 「ええ。学生さんが減って、これからが『本番』の客層……といったところかしら」 彼女の言葉には、業界人特有のシビアな響きが含まれていた。
「通常なら、ここでお客様の疲れを察して、早めのディナーを提案するか、夜景の見える場所へ誘導するフェーズですが」 男が試すように言うと、女はふふ、と口元だけで笑った。 その笑みの端に、ほんのわずかな疲労の色——あるいは、気を許しかけている緩みが見えた気がした。 「教科書通りね。でも、あなたのお客様なら、そんな気遣いは無用なんじゃなくて?」 「……どういう意味です?」 「だって、あなたの隣にいるだけで、女性は緊張して疲れを忘れてしまうでしょうから。……悪い意味でね」 皮肉だ。 だが、その皮肉には、どこか「あなたの実力を認めている」という響きがあった。
男もまた、口角を上げて応戦する。 「手厳しいな。……君こそ、そのヒールでよく持ちますね。僕ならとっくにギブアップしていますよ」 「お褒めに預かり光栄ですわ。これくらい、プロなら当然のスキルですもの」
二人はエスカレーターを降り、再びフロアを歩き出す。 足音のリズムは、まだ揃っている。 だが、第一章の時のように「機械的に噛み合った」軽快なリズムではない。 一歩一歩が、少しだけ重い。 互いの疲労を無言で感じ取り、互いに「まだ歩けるか?」「まだ演れるか?」と問いかけ合うような、重厚なアンサンブル。
西日が二人の影を長く伸ばす。影は床の上で交差し、溶け合っている。 男は、自分の右肩が、女の左肩と触れそうな距離にあることを自覚していた。 本来なら修正すべきだ。 だが、体が動かない。 いや、脳のどこかで「この距離のほうが、互いのバランスを取りやすい」と判断してしまっている。 相手の体温を羅針盤にして、自分の立ち位置を決めているような感覚。 それはもう、演技の技術(テクニック)を超えた、本能的な依存に近い。
(……気のせいだ) 男は自分に言い聞かせる。 これは、相手の動きを監視するための至近距離だ。 (……勘違いしないで) 女もまた、自分に言い聞かせる。 これは、彼の隙を見逃さないための密着マークよ。 二人はまだ、自分の仮面が、夕日の熱で溶け出していることに気づかない。 完璧な「彼氏」と「彼女」の表情を張り付けたまま、二人は夜の帳が下りようとしている広場へと、重い、しかし確かな足取りを進めていった。
模擬デートは、消耗戦の様相を呈しつつ、いよいよ「感情」という名の地雷原へと踏み込んでいく。
二人が腰を下ろしたのは、モールの奥まった場所にあるカフェのテラス席だった。 メインストリートの喧騒が遠くに聞こえ、近くには観葉植物の緑がカーテンのように視界を遮っている。 夕闇が迫る中、テーブルには小さなキャンドルライトが置かれた。揺れる炎が二人の顔に複雑な陰影を落とす。 男の前にはブラックコーヒー。女の前にはハーブティー。 湯気が、冷え始めた外気の中で白く立ち昇っては消えていく。 カップに口をつけるまでの数秒間、二人は無言だった。 だが、それは第一章のような「探り合いの沈黙」ではない。 戦場の兵士が、一時的な停戦協定を結んで泥水をすするような、疲労と安堵が混じり合った静寂だ。
「……ふぅ」 女が、カップを両手で包み込みながら、小さく息を吐いた。 その吐息は、計算された色気のあるものではなく、肺の底に溜まった澱を吐き出すような、無防備な音だった。
男は、その隙を見逃さなかった。いや見逃してやるべきだと判断した。今の彼女を「減点」するのは、あまりにも無粋だと思ったからだ。 「悪くない店ですね」 男は、あえて店内の内装に視線を向けながら言った。 「座席の間隔が広い。照明も暗すぎず、明るすぎない。……プロとして、使える店だ」 仕事の延長線上の言葉。 女もまた、すぐにそのトーンに乗っかる。 「ええ。BGMの音量も適切ね。会話が途切れても気まずくならない、絶妙なボリュームだわ」 二人はまだ、鎧を脱ごうとしない。 「いい店だ」と素直に感動する代わりに、「商材として優秀だ」と評価することで、自分たちがプロであることを再確認している。
男はコーヒーを一口飲み、ソーサーにカップを戻した。 カチャン、と陶器が触れ合う音が、妙に大きく響いた。 「……君の演技を見ていて、思ったんですが」 男はカップの縁を指でなぞりながら切り出した。 「君は、あまり『自分』を出さないタイプですね。徹底して相手の鏡になろうとしている」 「あら、分析?」 「ええ。……疲れませんか? 自分を殺し続けるのは」 少し踏み込んだ問いだった。 しかし、夕暮れの魔法か、あるいはカフェの湯気のせいか。 女の反応は、予想よりも柔らかかった。 彼女はハーブティーの水面を見つめたまま、少しだけ目を伏せた。
「……疲れるわよ、そりゃあ」 ぽつりと、本音が落ちた。 男の指が止まる。 「でもね……楽でもあるの」 「楽?」 「ええ。誰かの理想を演じている間だけは、本当の私の……惨めな部分とか、どうしようもない欠点を、なかったことにできるから」 女は顔を上げず、独り言のように続けた。 「『完璧な彼女』でいる間は、私自身も、自分が素敵な人間に思えてくるの。……ただの錯覚なんだけどね」 それは、プロとしては失格に近い発言だった。 しかし男は、それを嘲笑うことができなかった。 胸の奥の、自分でも触れないようにしていた部分が、鋭く疼いたからだ。
「……分かりますよ」 男の声もまた、無意識のうちに低く、ざらついたものになっていた。 彼は視線をキャンドルの炎に移した。 「僕も……時々、分からなくなる。客に向けている笑顔のほうが、鏡で見る自分の顔よりも、ずっと人間らしい気がして」 男は自嘲気味に口角を上げた。 「誰かに必要とされたい、という欲求を、金で買われた『仕事』という形でしか満たせない。……僕たちは、欠陥品なのかもしれませんね」 言った直後、男はハッとした。 喋りすぎた。
だが、女は笑わなかった。 彼女はゆっくりと顔を上げ、男を真っ直ぐに見つめた。 その瞳は、演技の潤みではなく、もっと生々しい、共感の熱を帯びていた。 「……欠陥品、か」 彼女は、まるで大切な宝物の名前でも呼ぶように、その言葉を咀嚼した。 「でも、だからこそ……私たちは、誰かの寂しさに寄り添えるんじゃないかしら」 一瞬、時が止まった。 カフェのざわめきも、食器の音も、すべてが遠のいた。 テーブルの上の小さな炎だけが、二人の瞳の中で揺れている。 それは「同業者への理解」という枠を、明らかに超えていた。 傷の舐め合いではない。 もっと深い場所で、魂の形が似ていることを確認し合ってしまったような、決定的な共鳴。
男の心臓が、不規則に跳ねた。 危険だ。 この空気は、まずい。 これ以上踏み込めば、戻れなくなる。 彼は、必死で理性を総動員し、その空気を断ち切る言葉を探した。
「……ま、素晴らしい顧客サービス精神ですね」 男は、無理やりいつもの皮肉っぽい笑みを貼り付けた。 「自分の弱さすら商売道具にするとは。……やはり君は、一流だ」 それは、あまりにも下手なフォローだった。 女もまた、一瞬だけ寂しげに目を細めたが、すぐに完璧な微笑みを取り戻した。 「ええ。あなたこそ。……自己分析ができているキャストは、伸びますよ?」 彼女もまた、逃げた。 「素」が出かけた扉を、慌てて「プロ意識」という錠前で閉ざしたのだ。
二人は同時にカップの中身を飲み干した。 熱かったはずの液体はもうぬるくなっていた。 けれど、喉を通るその液体が、なぜか普段よりもずっと深く、身体の芯に染み渡る気がした。 会話は途切れた。 再び訪れた沈黙は、先ほどよりも柔らかく、そしてどこか切ない成分を含んでいた。 二人は視線を外し、それぞれ別の方向を見たふりをした。 指先だけが、カップの温もりを惜しむように、陶器の肌をなぞり続けていた。 これは仕事だ。 ただの時間調整だ。 そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、胸の中に生まれた小さな「何か」が、無視できない重さを持って存在を主張し始めていた。
カフェを出た直後だった。
予報にはなかった通り雨が、アスファルトを叩きつけ始めたのは。
パラパラという警告音のような雨粒は瞬く間に視界を白く染めるほどの豪雨へと変わった。モールの屋外通路を行き交う人々が、悲鳴に近い声を上げて屋根のあるエリアへと走り出す。
「……走りましょう!」
男が短く声を張り上げた。
優雅なエスコートなどと言っていられない。彼は反射的に判断し、駅へと続く連絡通路の屋根を目指して駆け出した。
女もまた、七センチのヒールなどものともせずに反応した。
二人は雨煙の中を駆ける。
湿った風が頬を打ち、整えた髪が乱れる。だが、そんなことを気にしている余裕はない。
連絡通路の入り口付近は、同じように雨宿りを求めて殺到した人々でごった返していた。
濡れた床。傘を振るう人々の無遠慮な動作。湿気と熱気が充満する狭い空間。
そこは、整然とした「デート」の舞台とは程遠い、混沌とした避難所だった。
「きゃっ……!」
前方で、小さな悲鳴が上がった。
ずぶ濡れの子供が、母親の手を振りほどいて走り出し、その勢いのまま女の進行方向へ突っ込んできたのだ。
女はプロだ。とっさに身体をひねり、子供との衝突を回避した。
しかし、そこは雨が吹き込むタイルの上だった。
回避行動で重心を崩した彼女の細いヒールが、水膜の上で無情にも滑る。
摩擦係数を失った彼女の身体が、重力に従って背後へと傾いだ。
倒れる。
女の脳裏に、硬いタイルに後頭部を打ち付ける映像と、泥水にまみれて台無しになる衣装のイメージが走馬灯のように過った。
受け身を取らなければ。
プロとして、最低限の被害で――。
だが、彼女の背中が地面に届くことはなかった。
ドンッ、という鈍い衝撃。
痛覚が予期していた硬さではなく、熱を持った弾力のある壁が、彼女の落下を強引に食い止めていた。
男だった。
彼は、女が体勢を崩した瞬間、思考するよりも速く動いていた。
子供が飛び出してくる気配。彼女の回避動作。ヒールが滑る音。
それらを視覚と聴覚が捉えるより先に、彼の筋肉はすでに収縮を開始していた。
右腕を伸ばし、彼女の腰を引き寄せる。同時に左足を大きく踏み出し、自分の身体を楔(くさび)のように床に突き刺して二人の体重を支えきる。
完全に、反射だった。
「商品を守る」とか「顧客へのサービス」とか、そんな理屈が脳のシナプスを通る時間はなかった。
時が、止まった。
周囲の雨音も、人々のざわめきも、突然スイッチを切られたように遠のいた。
男の腕の中に、女がいる。
抱き留めた体勢。
あまりにも近すぎる。
男の鼻先には、雨の匂いに混じって、彼女の髪から漂うシャンプーの香りが鮮烈に突き刺さった。それは香水のような「他所行き」の匂いではなく、もっと根源的な、彼女という生命体が放つ甘い体温の匂いだった。
右手に伝わる彼女の腰のくびれの感触。
華奢に見えて、意外なほどしなやかな筋肉の張り。
そして、自分の胸板に押し付けられた彼女の肩から、ドクン、ドクンという速い鼓動が直接響いてくる。
女もまた、世界が収束する感覚に溺れていた。
目の前には、男の首筋がある。
濡れたシャツが肌に張り付き、喉仏が荒く上下しているのが見える。
支えてくれている腕の力強さ。
痛いくらいに強く、けれど絶対に離さないという意志のこもった拘束。
熱い。
雨に打たれて冷えたはずの肌が、触れている部分から火傷しそうなほどの熱を帯びていく。
男が、ゆっくりと顔を下ろした。
女が、驚いたように顔を上げた。
視線が絡む。
距離、十センチ。
互いの瞳の中に、雨に濡れた自分の情けない顔が映り込んでいる。
その瞳は、演技をしていない。
「大丈夫ですか、お客様」というプロの目はどこにもない。
ただの男と、ただの女が、互いの生存を確認し合うような、生々しい視線。
心臓がうるさい。
男は、自分の肋骨がきしむほどの心拍音を聞いた。
これはアドレナリンのせいだ。緊急事態だからだ。
そうでなければ説明がつかない。
なぜ、今すぐにこの腕を離すべきだと分かっているのに、指先が彼女の服を掴んだまま離そうとしないのか。
なぜ「無事でよかった」という安堵感が、胸の奥をこんなにも締め付けるのか。
「……っ」
数秒――あるいは永遠とも思える時間の後、女が小さく身じろぎをした。
その微かな動きが、凍り付いていた時間を再び動かした。
男は弾かれたように腕を解いた。
女もまた、見えない力に突き飛ばされたかのように、慌てて身体を離した。
失われた体温の空白に、冷たい湿気が入り込む。
その寒さが、急速に二人を現実へと引き戻した。
「……失礼」
男が、掠れた声を出した。
喉が渇いている。彼は咳ばらいを一つして、乱れたジャケットの襟を直した。
「足元が悪かったので。……つい、手が出ました」
つい。
その言葉の軽さが、今の重量感のある状況とあまりにも不釣り合いだった。
だが、そう定義するしかなかった。
これは危機管理だ。転倒による怪我を防ぐための、業務上の緊急避難措置だ。
「……いえ、助かりましたわ」
女もまた、視線を男の胸元あたりに彷徨わせながら、早口で応じた。
彼女の手が、自分の二の腕――さっきまで男の手が触れていた場所――を、無意識に擦っている。
「あの子にぶつかって、怪我でもしたら……賠償問題になりかねませんし。ナイスカバーです」
言葉を選べ。
もっと、事務的で、冷淡な言葉を。
そうしなければ、さっきの熱が身体に残って、顔に出てしまいそうになる。
周囲の音が、ようやく戻ってきた。
雨音、子供を叱る母親の声、足音。
日常だ。
ここはただの連絡通路で、自分たちはただの時間潰しをしている同業者だ。
男は濡れた前髪をかき上げた。
指先が微かに震えているのを、拳を握り込んで隠す。
「……行きましょう。濡れたままだと風邪を引く」
「ええ。……そうね」
二人は歩き出した。
だが、その距離感は、さっきまでとは決定的に違っていた。
先ほどまでの「吸い寄せられるような自然な近さ」ではない。
意識して、無理やり空けた「他人の距離」。
近づけば、またあの引力に負けてしまう。あの熱に触れてしまう。
それを本能的に恐れた二人は、不自然なほどのスペースを空けて、雨上がりの通路を並んで歩いた。
触れた場所が熱い。
男は右の手のひらに、女は左の腰に、消えない火種のような感触を残したまま。
それを「仕事の誇り」という薄い布で必死に覆い隠そうとしている姿は、もはや誰の目にも滑稽なほどに、不器用な恋人同士にしか見えなかった。
館内放送のチャイムが、柔らかなメロディと共に流れた。 『本日もご来店いただき、誠にありがとうございます。当施設は、午後九時をもちまして――』 無機質な女性アナウンサーの声が今日の「営業時間」の終わりを告げている。 モールの窓の外は、いつの間にか群青色に沈んでいた。 街路樹にはイルミネーションが点灯し、帰路を急ぐ車のヘッドライトが川のように流れている。 「昼」という舞台セットが撤去され、「夜」という現実に切り替わる時間。
男は、無意識のうちに歩調を緩めていた。 腕時計を見るまでもない。体内時計が、契約時間の終了が近いことを正確に告げていた。 残り、三十分弱。 第一章で「長すぎる」と絶望したはずのその時間は、今、奇妙な質量を持って彼の胃のあたりに重くのしかかっていた。
「……そろそろ、ですね」 男は、あえて感情を排したフラットな声で言った。 隣を歩く女もまた、視線を前方に固定したまま頷く。 「ええ。概ね、予定通りのタイムスケジュールですわ。……時間の管理(タイムキープ)に関しては、合格点といったところかしら」 彼女の評価は、相変わらず上からだ。 だがその声には以前のような鋭い棘がない。どこか角が取れ、丸みを帯びた響きが混じっている。 彼女もまた、歩く速度を落としていることに気づいていないのだろうか。 競歩のような速さで始まったこのデートは、今や、散歩と呼ぶにも遅すぎるほどの、緩やかなペースになっていた。
二人は、出口へと続く長い回廊を歩きながら、今日一日の「業務」を振り返る作業(レビュー)に入った。 それは、デートの余韻に浸る恋人たちの会話ではない。 プロジェクトの終了を目前に控えた同僚同士の、冷徹な反省会(デブリーフィング)の形を借りていた。
「序盤の雑貨店での振る舞い」 男が議題を挙げる。 「相手の好みを先読みしすぎました。あそこまで露骨に合わせると、逆に『作られた相性』だと勘繰られるリスクがある。……次回への修正点だ」 「そうね。でも、その後のリカバリーは悪くなかったわ。私の興味を否定せず、かつ自分の意見も挟む。……顧客満足度(CS)を高めるための基本メソッド、忠実に守れていました」 淡々と、互いの手口を解剖し合う。 そうすることでしか、この「名残惜しさ」を正当化できないからだ。 今、この胸にある重苦しさは、別れが辛いからではない。 長時間の業務による疲労と、反省すべき点が多々あることへのプロとしての自戒だ。 そう、自分に言い聞かせる。
「……さっきの雨の件ですが」 男が、少しだけ声を低くした。 あの接触事故。今日のハイライトであり、最もイレギュラーな事態。 「あれは、過剰防衛でした。客の身体に触れるのは、本来なら最小限に留めるべきだ。……プロとして、未熟だった」 あれはミスだ。 心臓が跳ねたのも、体温が移ったのも、すべては予期せぬトラブル(バグ)だ。 だから、ここで切り捨てる。
女は数歩歩いてから、静かに答えた。 「……いいえ。緊急避難としては、適切な判断だったと思います」 彼女は、自分の二の腕――彼が掴んだ場所――を、カーディガンの上からそっと撫でた。 「それに、あそこで支えてくれなければ、私の衣装も髪も台無しになっていた。……キャストとしての『商品価値』を守ったという意味では、評価に値する行動です」 嘘だ。 二人とも、嘘をついている。 「商品価値を守った」なんて理屈はどうでもいい。 本当は、ただ「守ってくれて嬉しかった」「守れてよかった」というシンプルな感情がそこにあるだけだ。 けれど、それを口にしてしまえば、この「模擬デート」というゲームオーバーの条件を満たしてしまう。 だから二人は、必死で「仕事」という包装紙で感情をラッピングし直す。
出口の自動ドアが見えてきた。 その向こうには、現実の世界が広がっている。 冷たい風、家路を急ぐ人々、そして「他人」に戻るための境界線。
(……まだ、終わりたくないのか?) 男の脳裏に、ふとそんな言葉がよぎる。 まさか。 俺はプロだ。時間は絶対だ。延長料金が発生しない限り、一秒たりともサービスはしない。 それなのに、なぜ足がこんなにも重い? なぜ、隣の女の横顔を、網膜に焼き付けようとしている?
女もまた、視線を足元に落としていた。 コツ、コツ、というヒールの音が、心なしか寂しげに響く。 (……いい練習(トレーニング)になったわ) そう思うことにする。 彼のような高レベルな相手と渡り合えたことは、今後のキャリアにとってプラスになる。 それだけのこと。 また会いたいとか、連絡先を知りたいとか、そんな素人くさい未練は、このヒールの音と一緒に置いていくべきだ。
二人の間に、沈黙が落ちる。 気まずさはなかった。 ただ、終わってしまう時間を惜しむような、密度のある沈黙。 肩と肩の距離は、もう五センチもない。 服の袖が擦れ合う音が、静かな回廊にカサリカサリと響いている。 それを避ける素振りを見せないことが、今の二人にとっての、精一杯の「抵抗」だった。
「……出口ですね」 「……ええ、そうね」 言葉少なに確認し合う。 まだ、ゲートはくぐらない。 あともう少しだけ、この夢のような、戦いのような時間の端っこにしがみついていたい。 そんな「本音」を、プロフェッショナルの鉄仮面の下に隠して、二人はゆっくりと、あまりにもゆっくりと、最後の数メートルを歩き続けた。
出口への道程は、残酷なほど短く、そして優しかった。 西の空から射し込む夕陽は、建物の梁や柱を長く引き伸ばし、二人の足元に濃いオレンジ色の道を敷いている。 二つの影が、床の上を滑るように進む。 ある時は平行に並び、ある時は揺らぎながら重なり合い、一つの黒いシルエットとなって溶け合う。 影だけ見れば、それは完全に、離れがたい恋人たちの姿だった。
男は鞄を持ち替えた。 右から左へ。 彼女のいる側とは逆の手に荷物を持つことで、無意識のうちに、彼女との間にあった物理的な障壁を取り除いている。 それに気づいているのかいないのか、彼はあくまで仕事の話題を口にした。
「……これからの季節、繁忙期でしょう」 男の声は、凪いだ海のように穏やかだった。 「クリスマスに年末年始。孤独を埋めたい人々が殺到する。……体調管理には気をつけたほうがいい」 それは同業者としての助言(アドバイス)だ。 だが、その響きには、「君に倒れてほしくない」という、契約外の気遣いが滲んでいる。
女は、視線を少しだけ伏せて微笑んだ。 「ええ。覚悟はしていますわ。……あなたこそ。人気商売でしょうから、代わりは効かないんじゃなくて?」 「まさか。僕なんて、いくらでも替えの効く消耗品ですよ」 「……嘘ね」 女が小さく呟いた。 「今日のあなたの仕事ぶりを見ていれば分かるわ。……替えなんて、いない」 一瞬、空気が止まる。 それは賛辞を超えた、個人の肯定だった。
女はハッとしたように口元を少し引き結び、慌てて付け加えた。 「……という意味で、市場価値が高い、と言ったんです。あくまでマーケットの視点で」 「……恐縮です」 男は苦笑した。 その笑顔には、いつもの「キザな演出」が抜け落ちていた。 ふっ、と息が漏れるような、力の抜けた笑い。 鏡の前で練習したことのない、不格好だが温かい表情。
二人は歩き続ける。 話題は尽きない。普段なら「面倒な仕事の話」として切り捨てるような内容が、今はなぜか愛おしい。 「雨の日は、客足が鈍るか逆に重い案件が増えるかの二択ですが……」 男が言葉を濁す。 「今日は、そのどちらでもなかった」 「ええ。……珍しい日」 女が言葉を継ぐ。 「こういう……突発的な『実験』も、悪くはありませんね。たまには」 たまには。 その言葉の裏にある「またあってもいい」というニュアンスを、二人は聞こえないふりをした。
男は、隣を歩く彼女の横顔を盗み見た。 夕陽に染まった頬、長い睫毛、少しだけ開いた唇。 今日一日、散々観察し、分析してきたはずの顔だ。 それなのに、まだ見足りない気がする。 「データ収集」という名目では説明がつかないほど、その表情の微細な変化を目で追ってしまっている。
(……あ) 男は、何かを言いかけた。 名前だ。 今日一日、互いに「あなた」「そちら」と呼び合ってきた。 仕事ならそれでいい。名前など記号に過ぎない。 だが今、喉元まで出かかったのは、彼女の源氏名でも役名でもない、本当の名前を問う言葉だったかもしれない。 しかし、男は口を閉じた。 聞いてしまえば、この均衡が崩れる。 プロ同士という境界線が消え、ただの男と女になってしまう。それはこの「勝負」において、ルール違反のような気がした。
女もまた、男の視線に気づいていた。 いつもなら「見惚れているの?」とからかう場面だ。 けれど、彼女は何も言わず、ただ鞄のストラップをぎゅっと握り直した。 その視線が心地よいと感じてしまっている自分を、悟られたくなかったからだ。
二人の影が、また重なる。 夕陽が低い位置から射し込むせいで、影は実際の身長よりも遥かに長く伸び、二人の足元からずっと先、出口の向こう側まで続いていた。 まるで、二人の関係がこの先も続いていくことを暗示するように。
「……意外と、歩けるものですね」 男がぽつりと言った。 「え?」 「ヒール。……まだ、大丈夫そうですか」 男の視線が、彼女の足元に向けられる。 女は、痛むはずのつま先を、不思議なほど感じていなかった。 「ええ。不思議ね。……あなたの歩幅が、心地よかったからかしら」 最大のデレだった。 言葉にした瞬間、女は少し顔を赤らめ、すぐに「歩き方の技術(スキル)の話ですよ」という顔を作った。
男は、その言い訳を聞く前に、嬉しそうに目を細めた。 笑い声が、小さく響く。 あはは、という演技の笑いではない。 くすっ、という含み笑いでもない。 ただ、同じ空気を吸って、同じ温度を感じていることへの、安らぎの吐息のような笑い。
二人の間の空気は、第二章の「張り詰めた糸」とは明らかに違っていた。 糸はまだある。 けれどそれは、互いを縛り合う緊張の糸ではなく、二人を繋ぎ止める、解くのが惜しい絆のような柔らかさを帯びていた。
出口まで、あと数十メートル。 まだ話したいことがある気がする。 まだ聞きたいことがある気がする。 でも、それを言葉にすれば「仕事」が終わってしまう。 だから二人は、あえてどうでもいい天気の話や、シフトの傾向の話を繰り返しながら、一歩、また一歩と、終わりへのカウントダウンを噛み締めていた。
自動ドアが開くと、そこは完全な夜だった。 十一月の夜気は、空調で守られた館内とは別世界の鋭さを持っていた。 ビル風が吹き荒れる駅前のペデストリアンデッキ。 イルミネーションの光が、寒風に煽られた街路樹とともに激しく揺れている。 二人は、駅へと続く長い陸橋を歩いていた。 会話は途切れていた。 寒さのせいにするには、あまりにも意識的な沈黙だった。 互いの息が白く濁り、夜空に溶けていく様を、視線の端で確認し合う。 コートのポケットに手を突っ込み、少し背中を丸めて歩く男。 マフラーに顔を埋め、寒さに耐えるように歩く女。 その距離は、もう「五センチ」の攻防すら放棄され、肩が触れ合うほどの近さに縮まっていた。
信号待ち。 赤信号が、濡れたアスファルトに赤い線を引いている。 立ち止まった瞬間、突風が吹き抜けた。 「……っ」 女が小さく声を上げ目を細める。 風の悪戯は容赦がなかった。綺麗にセットされていた彼女のサイドの髪を煽り、緩く巻かれていたマフラーの端を巻き上げた。 長い髪が視界を覆い、マフラーがだらしなく肩から解け落ちる。 プロとして、すぐさま直さなければならない。
女が手を伸ばそうとした、その時だった。 男の手が、視界の端から伸びてきた。 女の手よりも速く、しかし驚くほど慎重な速度で。
「……そのままで」 短く、低い声。 男の指先が女の頬のすぐ横を掠めた。 冷え切っているはずの指先なのに、触れた瞬間そこから火花のような熱が伝播した。
男は、風に遊ばれた彼女の髪を、そっと耳の後ろへと流した。 その動作は、美容師のそれのように手際よく、けれど恋人が宝物に触れるように丁寧だった。 指の背が、女の耳たぶに触れる。 鼓膜のすぐそばで、衣擦れの音がした。
男の手は止まらない。 解けかけたマフラーの端を掴み、彼女の首元へと巻き直す。 きつく締めすぎず、かといって風が入らないように隙間を埋める、完璧な力加減。 男の手首が、女の鎖骨のあたりに触れた。
時間が、歪んだ。 周囲を行き交う帰宅ラッシュの足音も、遠くで鳴るクラクションも、すべてが水槽の外の出来事のように遠のいた。 世界には今、マフラーを整える男の手と、それを受け入れている女の呼吸しか存在しなかった。
近い。 男の顔が、女の目前にある。 彼の瞳の中に、街灯の光が小さく反射している。その奥にある感情の色までは、逆光で見えない。 けれど、吐息がかかる距離だ。 彼の匂いがする。 高級なコロンの香りは風に飛び、その下にある、煙草の残り香と、微かな汗と、体温の匂いが混ざった「男」の匂いが冷たい空気の中で鮮烈に鼻腔を揺さぶった。
心臓が、嫌な音を立てた。 ドクン。 それは、プロ失格の警鐘だった。 客にこんなことはしない。 髪を直すにしても、もっと距離を取る。 マフラーを直すにしても、こんなに長く指を留めたりしない。 これは侵食だ。 「サービス」という境界線を越えて、個人の領域に踏み込んでいる。
男もまた、自分の手が止まっていることに気づいていた。 整え終わったはずのマフラーから、手が離れない。 彼女の首元の温もりが、冷え切った指先を溶かしていく感覚が心地よすぎて、離れられない。 このまま抱き寄せたらどうなる? このまま、冷たくなった頬に手を添えたら? 脳裏をよぎる衝動は、もはや「演技プラン」などではなかった。
数秒。 あるいは、十秒以上。 二人は交差点の真ん中で、彫像のように動きを止めていた。 信号が青に変わる電子音が、ピヨピヨと鳴り響く。 その電子音が、魔法を解く合図となった。
男は、感電したようにパッと手を引いた。 女もまた、弾かれたように半歩下がった。 二人の間に、急激に冷たい風が入り込む。 気まずい。 いや、気まずいという言葉では軽すぎる。 見せてはいけないものを見せ合い、触れてはいけない場所に触れてしまった共犯者のような、重苦しい沈黙。
何か言わなければならない。 この空気を、「仕事」の枠に戻さなければならない。 男は、わざとらしく咳ばらいをした。 視線を、信号機の青い光へと無理やり固定する。
「……風邪を引かれては、困りますから」 男が絞り出した声は、自分でも驚くほど上ずっていた。 彼は慌てて、いつもの「キザな男」のトーンを被せ直す。 「商品管理も、僕の仕事のうちです。……最後まで、完璧な状態でいていただかないと、僕の評価に関わりますので」 酷い言い訳だった。 論理が破綻している。相手の体調管理など、レンタル彼氏の業務範囲外だ。 だが、そう定義するしかなかった。 「心配だったから」と言ってしまえば、それはもう告白になってしまうから。
女は、首元のマフラーを、自分の手でぎゅっと握りしめた。 そこにはまだ、彼の手の熱が残っている。 彼女は、伏し目がちに、震える声で笑おうとした。 「……そう。徹底しているのね」 声が揺れる。プロ失格だ。 でも、彼女は必死に続けた。 「ありがとう。……追加料金(オプション)の請求は、なしで頼むわね」 「……ええ。サービス(おまけ)です」
嘘つき。 二人とも、大嘘つきだ。 これがサービスなものか。 これが仕事なものか。 今の沈黙、今の指の感触、今の視線の熱量。そのどこにビジネスの要素があったというのか。 読者でなくとも、通りすがりの誰かが見ても分かるだろう。 それは、愛しい相手を寒さから守ろうとする、ただの男の行動だった。
信号が点滅を始める。 二人は逃げるように歩き出した。 しかし、その足取りは乱れていた。 男はポケットの中で拳を握りしめ、女はマフラーに顔を埋めて熱い頬を隠した。 言葉にはしなかった。 けれど、決定的な一線は、もうとっくに越えられていた。 もはや「判定不能」なのは、勝敗の行方ではない。 この感情に「仕事」という名前がついているのか、「恋」という名前がついているのか。 その区別だけが二人の中で完全に融解し、混ざり合ってしまっていた。
「お疲れ様でした」 「こちらこそ、お疲れ様でした」 氷点下の如く冷え切った業務終了の挨拶。駅の改札前、周囲には別れを惜しむ恋人たちが溢れているというのに、私たちだけが退職願を叩きつけた直後のような空気を纏っていた。
「では、本日の経費精算を」 「はい」 彼が財布から取り出したのは、驚くほど雑に丸められたレシートの束だった。ぐちゃり、と音がしそうなほどプレスされた感熱紙。財布の中で何ヶ月熟成されたのか分からないが、彼はそれを真顔で広げ、私の手元に突き出してくる。しかも一枚じゃない。二、三枚ある。
(……多くない?) 私は眉一つ動かさずにそれを受け取った。あくまで業務だ。中身を確認し、折半するか請求するかを判断しなければならない。 視線を落とす。そこに印字されていたのは、狂気じみた明細だった。
『恋人ロール プレミアムコース』 『カップル歩行距離:三二〇〇メートル(超過料金適用)』 『空気感調整オプション』 『沈黙フォロー料金(高度)』 『予期せぬ事件時対応チャージ』 『赤面対応・即時冷却費』
「…………」 「…………」 改札前の喧騒が、遠のいていく。 私の脳内で、何かが「ピタッ」と止まった。彼もまた、私が固まったのを見て動きを停止している。 数秒の沈黙。 世界から音が消えたような静寂の後、私たちの口から漏れたのは、全く同じ温度の、純粋な業務上の疑問だった。
「これ、普通こんなにオプション使わんよな?」 「……あ」 私の指摘に、彼が間の抜けた声を出す。 私たちは顔を見合わせた。 「え?」 「ん?」 「今日の……これ……」 レシートの明細と、彼の顔を交互に見る。 「……練習?」 「……練習の……度を超してないか?」
その瞬間、二人の脳内回路が同時にショートした。 客観的に見れば、これは「ぼったくりバーの明細」ではない。私たちが今日、無意識のうちにどれだけ過剰に「恋人」をやっていたかという、動かぬ証拠だ。 これだけのオプションを、息をするように自然に行使していた? 嫌いな相手に? 業務で? (……私ら今日、客より本気でサービスしとったんじゃ?) プロ意識という名のバグ。
その事実に気付いた瞬間、私たちの背筋がバネ仕掛けのように「ビッ!」と伸びた。 視線が泳ぐ。急激に増える手汗。私は無言でレシートを高速で折りたたみ、彼の胸ポケットにねじ込んだ。見なかったことにしたい。記録ごと抹消したい。 お互いの距離が、一歩ぶん、ズザザと音を立てて広がる。
「……ぎょ、業務、ですからね」 私の口から出た声は、自分でも引くほど1オクターブ高かった。 「ええ、業務ですとも」 彼もまた、明後日の方向を見ながら即答する。目が完全に死んでいるのに、口元だけが笑っている。
「では、お疲れ様でした」 「お疲れ様でした」 示し合わせたように声が重なった。第二章で見せたあの不快なシンクロが、ここでは滑稽な和音となって響く。 私たちは回れ右をし、それぞれの帰路についた。
背中を向けて歩き出した瞬間、私は心の中で叫んでいた。 (いやおかしいやろ!!) レシートの残像が網膜に焼き付いて離れない。 足がもつれる。 歩道橋の階段で一段踏み外しかけ、手すりにしがみつく。 振り返ると、彼も赤信号の横断歩道に突っ込みそうになって急ブレーキをかけていた。
私たちはプロだ。 だからこそ、この「過剰請求」の意味を、今は絶対に認めるわけにはいかないのだった。
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