失恋専門医

伊阪証

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リサイクル・リサイタル

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第四病棟の四一三号室は、がらんどうだった。
つい三時間前まで篠田彰人――アキと呼ばれた青年が占有していたベッドは、今は白いマットレスが剥き出しになっている。西日が、窓ガラスの汚れを透かして床に歪んだ四角形を描き、空気中を舞う無数の埃を金色に照らし出していた。部屋に満ちているのは、死臭を拭い去るために撒かれた消毒用アルコールの、鼻を突く鋭い匂い。その揮発性の匂いの奥底に、拭いきれない汗と、わずかな排泄物の残滓、そしてこの汐見台病院特有の、古い潮風の匂いが混じり合ってこびり付いている。ここは、海沿いの古いサナトリウム(療養所)と内陸の総合病院が数年前に合併した、歪な構造をしていた。そしてこの第四病棟は、旧サナトリウム側の、いわば「終着駅」だ。
雨宮響は、その部屋の真ん中で、両腕を大きく広げる体操のような仕草をして、ひとつ息を吸い込んだ。
「・・・・・・アン!」
響は、まるで指揮者がタクトを振り下ろすように、その腕をベッドに向かって振り下ろした。
その動きは、看護師のそれと言うよりは、舞台役者の演目(レパートリー)に近い。響は小刻みなステップを踏みながら、剥がされたシーツ、枕カバー、患者衣の残骸を、リズミカルに医療廃棄物用の黄色いビニール袋へ放り込んでいく。タン、タン、タタン、という靴底の音。シーツが空気を切る、乾いた布の音。
響の額には玉の汗が浮かんでいたが、その口元は楽しげな曲線を描いている。時折、意味のないメロディを鼻歌で口ずさみさえした。それは、この場所――才能ある若者たちが、その才能を開花させることなく、ただ静かに朽ちていくのを待つだけの「第四病棟」という舞台において、響が自らに課した「役割」だった。
「死」という重苦しい終幕の後には、次の「ショー」のための迅速な舞台転換(セットチェンジ)が必要なのだ。響にとって、この遺品整理と清掃は、まさにその舞台転換に他ならなかった。
響は、アキが使っていたサイドテーブルの引き出しを開け放ち、中身を検める。使い古しのノート、数本のボールペン、コンビニのレシートの束。響はそれらを、まるで観客に中身を見せびらかすマジシャンのような手つきで段ボール箱に仕分けしていく。
その背後に、音もなく気配が立った。
響の鼻歌が、ぴたりと止まる。
リズミカルだった手の動きも、止まる。
響は、ゆっくりと、しかし芝居がかった優雅さで振り返った。
「やあ。冴子さん、いつからそこに?」
ナースステーションの主任である月島冴子が、入り口のドアフレームに寄りかかるようにして立っていた。彼女の白い看護服には、響のものとは対照的に、一切の乱れも汗の染みもない。その視線は、響の顔ではなく、響が今まさに仕分けしていた段ボール箱の中身に注がれていた。
「雨宮さん」
月島の声は、消毒液の匂いよりも冷たく、この部屋の温度を数度下げたように錯覚させた。
「あなたのその『ショー』は、ここでは不要よ」
響は、その言葉に対し、わざとらしく眉を吊り上げ、驚いたような顔を作ってみせた。それから、両手を胸の前で大げさに広げる。
「ショー! まさしく! 冴子さん、ショーは今、終わったばかりじゃないですか!」
響は、空になったベッドを指差す。
「素晴らしいカーテンコールでしたよ。彼――アキは、最後の最後まで、俺たち(オーディエンス)に背を向けて、アンコールには応えなかった。最高にクールな『退場』だ。そうは思わないかい?」
月島は、その響の「比喩」に取り合わず、一歩だけ部屋に踏み入った。彼女の視線が、響の目、その奥にあるはずの「何か」を射抜こうとする。
「・・・・・・ご家族への返却リスト、早く上げて」
それは、響のパフォーマンスを強制的に終了させる、事務的な通告だった。
「オーケー、マム。ボスのお言いつけとあらば」
響は、ふざけたように片手の敬礼をしてみせる。
月島は、それ以上何も言わず、響とは対照的に汗ひとつないその顔で、静かに踵(きびす)を返した。その足音が遠ざかるまで、響は敬礼の姿勢を崩さなかった。
廊下の角を月島が曲がり、その気配が完全に消える。
数秒の沈黙。
響の、顔から一切の表情が消えた。
さきほどまでのショーマン(フレディ・マーキュリー)然とした高揚感は霧散し、そこに立っているのは、冷徹な「観察者」としての雨宮響だった。
響は、深く、重い溜息をひとつ吐き出す。汗が、今さらになって顎を伝い、床に小さな染みを作った。
響の視線が、部屋の隅、ベッドと壁の隙間に落ちていた「何か」を捉える。
ゆっくりと近寄り、それを拾い上げる。
それは、アキが好んで吸っていた煙草の、潰れた空き箱だった。
響は、その箱を、まるで未知のウイルスでも検めるかのように、指先で注意深く回転させる。
そして、見つけた。
箱の裏側。ボールペンで殴り書きされた、いくつかの単語。
『リサイクル』
『心臓』
『お前なんかに』
そして、その横に走り書きされた、五線譜とも呼べないほどの、粗雑なメロディラインの断片。
響は、それを凝視する。
西日が、その箱を持つ響の指先を、赤く染めている。
響は、その「断片」を、白衣のポケットの奥深くへと滑り込ませた。
その口元に、月島が見せたことのない、獰猛とも言えるほどの、観客を前にしたショーマンの笑みが浮かび上がった。
「・・・・・・いいや、まだだ。アンコールが残ってる」
ナースステーションの蛍光灯は、深夜二時を回ると青白さを増し、肌の血色という血色を奪い去っていく。規則的に点滅する心電図モニターの電子音、換気扇の低い唸り、そして、誰かが仮眠室から持ち込んだまま放置している、冷え切ったコーヒーの澱の酸っぱい匂い。そのすべてが混ざり合い、第四病棟の夜を、まるで水底に沈殿する泥のように重くしていた。
雨宮響は、その水底を泳ぐように、音もなくナースステーションを横切った。
他の看護師たちは、カルテの入力作業に意識を沈ませているか、あるいは束の間の仮眠に落ちている。響のショーマンとしての「役割」は、今は求められていない。
響は、スタッフ専用の仮眠室の扉を開けた。
そこは、ナースステーションの人工的な光とは対照的に、月明かりだけが差し込む静かな暗闇だった。埃と、他人の寝汗の匂いがこもっている。響は、その一番奥にある、自分に割り当てられたロッカーの前に立った。
鍵はかけない主義だ。ここまでは誰も入ってこないという、油断があったのかもしれない。
響はロッカーの下段に押し込んでいた、使い古された黒いトランクケースを引きずり出した。それは響が看護学校時代から使っている年代物で、表面の合皮は擦り切れ、金属の縁は鈍い光を放っている。
響は、その冷たい床の上に胡坐をかき、トランクの留め金を、まるで儀式のようにゆっくりと外した。
パチン、パチン。乾いた音が二回、暗闇に響く。
蓋を開ける。
そこは、響だけの「バックステージ(楽屋)」だった。
几帳面にファイリングされた、故人たちの「断片」。黄ばんだ五線譜、詩が書きつけられたノートの切れ端、風景画のデッサン、カセットテープ、ボイスレコーダー、そして、デジタルデータが収められたUSBメモリの数々。
それらは、響の分類法によって、年度ごと、患者ごとに整然と並べられている。
響は、先ほどアキの病室から「収集」した煙草の空き箱を、そのコレクションの一番手前に、そっと置いた。
「・・・・・・」
響は、その「断片」たちを、愛おしむように指でなぞる。
アキの殴り書きのメロディ。その隣にある、三年前に亡くなった少女が遺した「言葉」のノート。その下にある、ギタリストだった青年が遺したコード進行のメモ。
響の「クール」な側面が、その頭脳(プロセッサ)が、猛烈な速度で回転を始める。
このメロディは、あの言葉を乗せるためにあるんじゃないか?
このコードは、この詩を支える柱になるんじゃないか?
響が、その「組み合わせ(アセンブル)」の可能性に没頭し、その口元が再びショーマンの笑みを形作り始めた、その瞬間。
「――それが、あなたの『バックステージ』というわけね」
仮眠室の入り口。
ナースステーションの青白い光を背負い、まるで亡霊のように、月島冴子が立っていた。
響は、驚かない。
だが、そのパフォーマンスとして、ゆっくりと、心底驚いたかのように彼女を見上げた。
「冴子さん。ノックもなしに女性の楽屋を覗くなんて、趣味が悪い」
「トランクの中身を見せなさい」
月島の声は、命令だった。理屈そのものだった。
響は、芝居がかった仕草で肩をすくめ、トランクの蓋を、まるで「どうぞ」とでも言うように全開にした。
月島は、その中身――響が「収集」し続けた「断片」の数々――を、冷徹な視線で見下ろした。彼女の表情は変わらない。だが、その指先が、白衣のポケットの中でわずかに握りしめられるのを、響の「観察眼」は見逃さなかった。
「・・・・・・そう。これが、あなたの『仕事』だったのね」
月島が、ようやく口を開いた。
その声には、アキの病室で聞いた時のような事務的な冷たさではなく、地殻の底でマグマが沸騰するような、抑圧された「熱」がこもっていた。
「冴子さん、これは――」
「理屈で答えなさい、雨宮さん」
月島は、響の「比喩」を遮った。
「あなたは、いつからこれをやっている? この『墓荒らし』を」
「墓荒らし!」
響は、心外だと言わんばかりに立ち上がった。フレディ・マーキュリーが観客の野次に反論するように、人差し指を月島に向ける。
「違う! これは『アンコール』だ! 彼らがステージに遺していった『魂』の続きだ!」
「魂、ですって?」
月島は、初めて嘲笑うかのように、鼻で息を吐いた。「あなたは、それを『魂』と呼ぶのね」
月島は、一歩、響に近づいた。その圧力は、響のショーマンシップを、その派手な虚飾(メッキ)を剥がしにかかる。
「いい、雨宮さん。あなたの『理屈』で、私を納得させてみなさい。あなたのその『収集』行為が、医療従事者として、人間として、正しい行いであると。三千字――いいえ、この場で、あなたの持てるすべての言葉(ロジック)を尽くして、私に説明しなさい」
月島は、響に「土俵」を指定した。彼女の得意とする「理屈」の土俵に。
「あなたがやっていることは、ただの『自己満足(エゴ)』だ。あなたは、彼らの才能に自分を投影している。あなたがかつて果たせなかった夢を、彼らの『死』を利用して、このトランクの中で代理として叶えようとしている。違う?」
響の動きが、一瞬、止まる。
「あなたは、彼らの『死』を冒涜している。彼らがどれほどの苦しみの中で、それを遺したか。あるいは、どれほど遺したくなかったか。その葛藤を、あなたは『ショー』という安っぽい言葉で上塗りしている」
「・・・・・・安っぽい、だと?」
「そう、安っぽい。あなたのその派手な身振りも、芝居がかった口調も、すべてが。あなたは、死の『重さ』から目をそらすために道化を演じ、その道化のまま、他人の最も重い『遺品』を盗み出している。これは窃盗よ。そして、死者への冒涜だ」
月島の「理屈」は、完璧だった。正論であり、反論の余地のない、看護師長としての「正義」だった。
「さらに言えば」月島は続ける。「あなたは、あなた自身を壊している。私たちは『看取る』のが仕事だ。死にゆく者の苦痛を取り除き、穏やかな最期(エンディング)を迎えてもらう。それが私たちの『理屈』であり、『役割』だ。私たちは、彼らの人生の『伴走者』であっても、『後継者』になってはならない。あなたは、その一線を、そのトランクの蓋を開けるたびに越えている」
月島は、響の足元にあるトランクケースを、まるで汚物でも見るかのように一瞥した。
「私は、あなたのような看護師を、何人も見てきた。患者に深入りしすぎ、患者の『夢』を背負い込みすぎ、そして、患者が死ぬたびに、自分の一部も死んでいく。そうやって、心が擦り切れ、壊れていった者たちを。あなたのその『ショー』は、あなた自身を守るための防衛機制であると同時に、あなた自身を猛毒で蝕む『麻薬』でもあるのよ。近々、経営側が『病院の理念』そのものを見直すという噂もある。そんな時に、この旧サナトリウム病棟であなたのような『非合理』な存在が問題になれば、真っ先に排除されるのはあなたよ」
月島の「理屈」は、非の打ち所がなかった。響の行動の「本質」と、それがもたらす「未来(破滅)」を、正確に予見していた。
響は、数秒間、黙り込んだ。
その仮面が剥がれ落ち、クールな「観察者」としての響が、月島の完璧な「理屈」を分析する。
――ああ、そうか。
――冴子さん、あなたは「正しい」。
――あなたの「理屈」は、この病院においては、完璧な「正解」だ。
そして、響は、ゆっくりと、心の底からの笑みを浮かべた。
それは、ショーマンの派手な笑みではない。
すべてを理解し、その上で、まったく別の「理屈」を提示する、挑戦者の笑みだった。
「・・・・・・ブラボー」
響は、小さく拍手した。
「冴子さん、あなたの『理屈』は完璧だ。感動した。一言一句、その通りだ。俺はエゴイストで、墓荒らしで、麻薬中毒の道化師だ。その通り」
響は、月島を真っ直ぐに見据える。
「だが、冴子さん。あなたのその完璧な『理屈』は、致命的に、つまらない(・・・・・)」
「・・・・・・何ですって?」
「あなたの『看護』は、ただの『処理』だ!」
響の「比喩(メタファー)」が、今、反撃に転じる。
「あなたは、彼らの『才能』を、彼らの『魂』の叫びを、ただの『医療廃棄物』として、穏やかに、滞りなく、『処理』したいだけだ! 違うか!?」
「・・・・・・!」
「ここにいる連中が、何を遺して死んでいくか、あなたは本当に分かっているのか!? 彼らは『穏やかな最期』なんか望んでない! 彼らが欲しいのは『時間』だ! 完成させるための『時間』だ! それが叶わないなら、せめて、自分の『断片』が誰かに届くという『奇跡』だ!」
響は、自分の胸を強く叩く。
「俺の『看護』は、そこに応えることだ! あなたが言う『穏やかな死』なんてクソ食らえだ! 俺は、彼らの『魂』を、このトランク(バックステージ)で『リサイクル』し、最高の『アンコール』として、もう一度この世に叩きつけてやる! それが俺の『ショー』であり、俺の『看護』だ!」
「リサイクル・・・」月島は、アキの煙草の箱の言葉を、無意識に反復した。
「理屈と比喩を両立させろ、か」響は、病院の理念を呟く。「もっとも、その『理念』とやらも、経営が変わればあっさり書き換えられる代物だがな」
響は、月島を真っ直ぐに見据える。
「冴子さん、あなたの『理屈』には『詩』がない。俺の『比喩』には『理屈』がある。どっちが上か、ここで決着としようじゃないか」
二人の視線が、青白い光の中で激突する。
「・・・・・・わかったわ」
月島は、ゆっくりと一歩、後ずさった。
「あなたの言い分は理解した。だが、私はそれを『許可』しない。主任として、この第四病棟の『秩序(ロジック)』を守る責任者として、あなたのそのトランクケースの存在、および、その『リサイクル』と称する一切の活動を、公式に『禁止』する」
「禁止、ね」
「これは、最後通告よ。もし、あなたがその『ショー』を強行するなら、私はあなたをここから排除する」
月島は、それだけを言い残し、音もなく去っていった。
仮眠室に、再び響と「断片」たちだけが残される。
響は、月島が立っていた暗闇を見つめ、静かに呟いた。
「・・・・・・ショーは、止められないさ。冴子さん」
響は、トランクケースを閉じた。
「幕は、もう上がってるんだから」
月島冴子による「公式な禁止」通告は、第四病棟の夜の空気を、さらに重く、冷たく張り詰めさせた。ナースステーションは、電子カルテを打鍵する音だけが響く、静かな戦場と化した。他の看護師たちは、響と月島の間に走った決定的な亀裂を肌で感じ取り、そのどちらにも触れないよう、まるで薄いガラスの上を歩くように、息を潜めて業務をこなしている。
雨宮響は、そのガラスの上で、あえてタップダンスを踊るように振る舞った。
「オーケー、皆さん! 深夜三時のおやつタイムだ! この雨宮響が、自販機で買った最高級のココアを振ル舞おう!」
その芝居がかった明るさが、張り詰めた静寂の中では、ひどく滑稽で、そして痛々しく響いた。誰もが、そのココアを受け取ろうとしなかった。響は、差し出した紙コップを持ったまま、数秒間、道化のように宙で静止し、やがて「おっと、冷めちまうな」と一人でそれを飲み干した。
月島は、その響の「ショー」を、ナースステーションの奥から冷徹に「観察」していた。彼女は、響が「暴走」することを見越している。響が、あの「バックステージ」を、この病院から持ち出す瞬間を、あるいは、再び開く瞬間を、監視しているのだ。
響は、内心の「クール」な部分で理解していた。このままでは、ショーは開演らない。月島の「理屈(ロジック)」は、この病棟の「秩序」そのものだ。それを突破するには、理屈ではない、圧倒的な「熱(カオス)」が必要だ。
午前四時。
仮眠を取る、と響は同僚に告げた。月島は、その背中に無言の視線を送る。
響は、あの仮眠室には向かわなかった。
ナースステーションから最も遠い、北棟の階段を昇る。そこは、もう何年も使われていない旧病棟に繋がる通路で、消毒液の匂いではなく、カビと埃の匂いが支配していた。
響の目当ては、屋上に続く扉の手前にある、小さな「礼拝堂」だった。
汐見台病院がまだ、旧サナトリウムとして華やかだった頃の遺産。今は、物置としてすら使われていない、忘れ去られた空間。
扉には、古びた南京錠がぶら下がっている。
響は、白衣のポケットから、一本の細い金属棒――折れたピンセットの先端を研いだもの――を取り出した。それは、この病院(バックステージ)のあらゆる「秘密の扉」を開けるための、響の「小道具(マスターキー)」だった。
数秒の、金属同士が擦れる、不快な音。
カチリ、と小さな手応えと共に、南京錠はその口を開けた。
響は、重い木製の扉を、軋ませないよう慎重に押し開ける。
途端に、閉じ込められていた埃が、乾いた匂いと共に響の鼻腔を刺した。
中は、完全な暗闇ではなかった。
高い天井近くにある丸窓から、海を照らす月明かりが、まるでスポットライトのように差し込み、床の一点を白く照らしている。
その光の中に、埃をかぶった古いピアノと、数脚の長椅子が、亡霊のように浮かび上がっていた。
ここだ。
ここが、今夜の「ステージ」だ。
響は、ナースステーションから密かに持ち出した、あの黒いトランクケースを、祭壇があった場所に置いた。そして、ピアノの蓋を、そっと開ける。鍵盤は、いくつかの歯が欠けたように黒ずんでいる。
響は、まず、アキの「煙草の空き箱」を、譜面台に立てかけた。
それから、トランクケース(バックステージ)を開け、次々と「断片(小道具)」を取り出していく。
三年前に亡くなった少女のノート。
五日前に亡くなった青年のコード譜。
響は、それらをピアノの上に並べ、月明かりを頼りに、その「組み合わせ」を開始した。
指が、鍵盤に触れる。
ポロン、と、調律の狂った、埃っぽい音が響いた。
響は、まず、アキの煙草の箱に書かれたメロディラインを、指一本で辿る。
それは、ひどく拙く、弱々しいメロディだった。死を目前にした人間の、最後の呼吸のような旋律。
「・・・・・・違う」
響は、呟いた。
「アキ、お前が本当に奏でたかったのは、こんな『弱々しい音』じゃないはずだ」
響の左手が、鍵盤の上を滑る。
ギタリストが遺した、マイナー調の、しかし情熱的なコードが、そのメロディに「肉体」を与えた。
音が、変わった。
弱々しい呼吸は、激情の「叫び」へと変貌した。
「そうだ、これだ!」
響のテンションが、昂り始める。
響は、詩人の少女が遺したノートを開く。そこに殴り書きされた『心臓』『リサイクル』という言葉が、月明かりに浮かび上がる。
「これだ!」
響の「ショーマン」としての本能が、すべての「断片」を一つの「ショー」へと再構築していく。
響の鼻歌が、本気の「歌唱」に変わった。
アキのメロディは、もはや「主旋律」ではなかった。響のハイトーンのシャウトと、激しいピアノの和音の「一部」として、組み込まれていく。
「足りない!」
響は、ピアノを叩きつけるように弾きながら叫んだ。
「熱が足りない! これじゃ、ただの『再現』だ! 『ショー』じゃない!」
響の「自我」が、故人たちの「断片」を、今、食い破ろうとしていた。
アキのメロディを、少女の詩を、青年のコードを、すべて「雨宮響」という強烈な「個」の色に染め上げようと、その才能が暴走を始めた。
「アキ! お前の曲はこうじゃなきゃダメだ! 俺が、今、このステージで、お前を『完成』させてやる!」
ピアノが、悲鳴のような不協和音を奏でる。
響は、演奏しながら、椅子から勢いよく立ち上がった。
その興奮は、最高潮に達していた。
「熱が! 俺のすべてを、この『ショー』に注ぎ込む!」
響は、ピアノを弾くのをやめた右手で、自らの白衣の胸倉を掴んだ。
そして、そのボタンを、力任せに引きちぎった。
バチバチッ、とボタンが飛び散り、床に落ちる乾いた音が響く。
月明かりに、響の汗ばんだ肩と鎖骨が、白く露わになる。
響は、さらに、その白衣を完全に脱ぎ捨てようと、肩からずり下ろした。
故人の「断片」への敬意は、もはやない。
そこにあるのは、「断片」を利用し、自らの「ショー」を完結させようとする、ショーマンの剥き出しの「自我」だけだった。
響が、その白衣を完全に脱ぎ去ろうとした、その瞬間。
バタン!!!!
礼拝堂の重い扉が、壁に叩きつけられる、轟音(ごうおん)と共に開いた。
「――やめなさい、雨宮!!!!」
そこに立っていたのは、ナースステーションから全力で走ってきたのか、肩で激しく息をし、髪を乱した月島冴子だった。
月島は、その光景を――乱れた白衣を脱ぎかけ、ピアノの上で「断片」を散乱させ、狂乱した目で鍵盤を叩こうとしている響の姿を――瞬時に理解した。
響は、その「邪魔者」の登場に、一瞬、動きを止めた。
その隙を、月島は見逃さなかった。
月島は、数歩で響との距離を詰めると、響が再び振り下ろそうとした腕を、両手で掴み、押さえつけた。
物理的な、全力の「拘束」だった。
「離せ!」
響は、月島を振り払おうと、その腕を捩った。「今、いいところだ! 最高のショーが、今!」
「これは『ショー』じゃない!」
月島は、響の目を真正面から睨みつけ、怒鳴り返した。「これは『冒涜』だ!」
月島は、響の腕を掴んだまま、もう片方の手で、譜面台に立てかけられたアキの「煙草の箱」を指差した。
「それは『アキの曲』じゃない! あなたの『自我』を叩きつけているだけだ!」
月島は、響の体をピアノに押さえつけるようにして、その耳元で叫んだ。
「あなたは、託されたものを『壊す』気か!」
「・・・・・・!」
「壊す」
その、月島の「理屈」から放たれた単語が、響の昂りきった「比喩」の脳天を、冷たい鉄槌のように打ち抜いた。
響の全身から、力が抜けた。
フレディ・マーキュリーの「熱」が、急速に冷めていく。
響の目が、狂乱したショーマンの目から、いつもの「クール」な観察者の目に、戻っていく。
響は、自分の「行為」を、月島の「理屈」を通して、客観的に「認識」した。
自分が、何をしていたのか。
露わになった自分の肩。引きちぎられた白衣のボタン。めちゃくちゃに弾き散らかされたピアノの鍵盤。そして、それらすべてを見下ろしている、アキの「煙草の箱」。
「・・・・・・あ」
響は、その場に崩れ落ちるように、ピアノの椅子に座り込んだ。
押さえつけられていた腕が、だらりと垂れ下がる。
礼拝堂に、月島の荒い呼吸と、響の浅い呼吸の音だけが響いていた。
礼拝堂に、重い沈黙が落ちた。
響が引き起こした「熱」の嵐が過ぎ去り、後に残されたのは、絶対零度に近いほどの静寂と、床に散らばる白衣のボタン、そして月明かりに照らされて宙を舞う、おびただしい量の埃だけだった。
ピアノの鍵盤は、響が叩きつけた不協和音の残響を、まだ微かに引きずっているようだった。
雨宮響は、乱れた白衣を肩からずり落としたまま、その場に座り込んでいた。ショーマンの仮面は完全に剥がれ落ち、その下から現れた「クール」な素顔は、まるで舞台装置の故障(トラブル)を目の当たりにした演者のように、戸惑いと、自らが引き起こした惨状への冷静な「分析」とが入り混じった、複雑な色を浮かべていた。
月島冴子は、響を押さえつけていた腕を、ゆっくりと下ろした。
彼女の呼吸もまた、激しい運動の直後のように乱れていたが、その目は、響の「暴走」の残骸――散らばった楽譜、開け放たれたトランクケース、そして何より、我を失っていた響自身――を、冷徹に、診断を下す医師のように「観察」していた。
響は、動かなかった。
月島も、動かなかった。
この空間にあるのは、二人の人間の呼吸音と、埃が床に積もる音だけだ。
数分が、数時間にも感じられるほどの時間が流れた。
響は、ゆっくりと、まるで錆びついた機械人形のように、床に落ちていた自分の白衣のボタンを一つ、拾い上げた。その冷たいプラスチックの感触が、響の「クール」な理性に、現実の「重さ」を突きつける。
先に沈黙を破ったのは、月島だった。
彼女は、響の隣には座らなかった。数歩離れた、響を見下ろせる長椅子に、まるでそこに埃ひとつないかのように、背筋を伸ばして腰を下ろした。
「・・・・・・」
月島は、言葉を探すように、一度、目を伏せた。そして、再び目を開けた時、その瞳には、先ほどの激昂とは異なる、「理屈」の光が戻っていた。
「雨宮さん」
その声は、もはや怒鳴り声ではなかった。冷たく、重く、そして決定的な「判断」を含んだ声だった。
「あなたの『理屈』と、私の『理屈』。どちらが正しいか、あの時、あなたは私にそう言ったわね」
響は、ボタンを握りしめたまま、月島を見上げた。
「今、この礼拝堂で、あなたは、あなたの『比喩』がいかに脆く、危険なものかを、あなた自身で『証明』した」
月島は、響がめちゃくちゃに弾き散らかした、詩人のノートを指差す。
「あなたは、彼らの『声』を聴こうとしなかった。あなたは、彼らの『断片』を、自分の『ショー』を盛り上げるための、ただの『燃料』として消費した。それは『継承』じゃない。それは『冒涜』であり、あなたが最も忌み嫌うはずの、才能の『廃棄』よ」
月島の「理屈」は、ナイフのように正確に、響の「罪」を抉(えぐ)り出した。
響は、反論できなかった。
響が「クール」な理性を失い、剥き出しの「自我」で暴走したことは、紛れもない事実だったからだ。
「・・・・・・その通りだ」
響は、乾いた声で認めた。「俺は、アキの曲を、あの少女の詩を、壊そうとした」
「そうよ」
月島は、冷たく言い放った。
礼拝堂に、再び沈黙が訪れる。
だが、この沈黙は、先ほどのものとは質が違った。これは「断罪」の後の、空白だった。
響は、これで、自分は「排除」されるのだと「納得」した。
月島の「理屈」が勝利し、響の「比喩」は、その危険性を証明した上で、完全に敗北したのだ。
響が、立ち上がろうとした、その時。
「――だが」
月島が、その空白を破った。
響は、動きを止める。
月島は、立ち上がり、今度は響の隣、ピアノの方へと歩み寄った。
そして、響が「暴走」の最中に叩きつけていた、例の、アキの「煙草の空き箱」を、月島は、そっと拾い上げた。
月明かりが、その小さな「断片」を照らす。
「・・・・・・だが、雨宮さん」
月島は、響に背を向けたまま、静かに続けた。
「あなたの、その狂気じみた『熱』がなければ、この、煙草の箱に書かれた『声』は、あのトランクケースの暗闇の中で、永遠に誰にも聴かれることなく、眠ったままだった」
響の目が、見開かれた。
月島は、ゆっくりと響の方へ振り返った。
その表情は、もはや「主任看護師」のそれだけではなかった。
「私たちは」と月島は言う。「日々、擦り切れていく。若すぎる才能が、目の前で、あまりにも無造作に『処理』されていくのを見続けることで、私たちの心は摩耗していく。私は、その『摩耗』を防ぐために、『理屈』という名の分厚い壁を築き、患者と距離を取ることを『正義』としてきた」
月島は、響のトランクケースを一瞥する。
「あなたの『収集』は、その壁を内側から破壊する、許されざる『違反行為』だ。だが、同時に」
月島は、響を真っ直ぐに見据えた。
「あなたのその『エンジン』だけが、私たちが『処理』するしかなかった彼らの『断片』を、再び『意味』のあるものとして動かすことができる。・・・・・・それが、この数時間で、私が導き出した『結論』よ」
月島は、響の前に立ち、アキの「煙草の空き箱」を、響の目の前に突きつけた。
「やり直しなさい」
それは、命令だった。
「・・・・・・え?」
「聞こえなかった?」月島は、冷たく繰り返す。「やり直しなさい、雨宮さん。今度こそ、あなたの『ショー』ではなく、篠田彰人の『アンコール』として」
響は、月島の顔と、突きつけられた「断片」を、交互に見た。
月島の目は、本気だった。それは「理屈」と「比喩」がせめぎ合い、その二つを両立させるという、困難な道に今まさに足を踏み入れようとする者の目だった。
「・・・・・・正気か、冴子さん」響は、掠れた声で言った。「俺は、また『暴走』するかもしれない。また『脱ごう』とするかもしれない。その時、あんたは――」
「止めるわ」
月島は、響の言葉を遮った。
「あなたが『自我』に飲まれ、託されたものを『壊そう』とするなら、私は、何度でもあなたを『取り押さえる』。それが、あのトランクケースの中身を見てしまった、私の『責任』よ」
月島は、深々と、心の底から疲れたような溜息を一つ吐き出した。
「まったく、面倒なものを拾ってしまった」
響は、月島のその言葉を聞いて、数秒間、呆然とし――やがて、その口元に、ショーマンではない、心の底からの、弱々しいが確かな「笑み」が浮かんだ。
「・・・・・・ああ。そうか」
響は、差し出されたアキの「煙草の箱」を、まるで聖杯でも受け取るかのように、両手で、そっと受け取った。
「それこそが、『リサイクル・リサイタル』、か」
月島は、答えなかった。
ただ、乱れた白衣をそのままにしている響を、咎めるような視線で一瞥した。
「・・・夜が明ける。私はナースステーションに戻る」
月島は、響に背を向け、礼拝堂の出口へと向かう。
「朝のミーティングまでには、その無様な格好を直しておきなさい。それと、この礼拝堂の鍵は、今後、私が『管理』する。経営側の連中が、この場所の価値を理解できるとは思えない。ここは、私たちが守る」
それは「赦し」であり、「共犯」の宣言だった。
バタン、と扉が閉まる。
一人残された礼拝堂に、夜明け前の、冷たい青い光が差し込み始めていた。
響は、引きちぎられた白衣のボタンを拾い集めるのをやめた。
彼は、受け取ったばかりの「煙草の箱」を、再び、ピアノの譜面台に立てかける。
そして、ピアノの椅子に、今度は深く、厳かに座り直した。
響は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
響の指が、鍵盤に触れる。
今度は、不協和音ではない。
アキが遺した、あの弱々しくも、確かにそこにある「メロディ」の、最初の、たった一つの音が、夜明けの礼拝堂に、静かに響き渡った。

そして、翌日の話だ。
汐見台病院で数年前まで医者を務め、その傍ら株で成功し、経営権を勝ち取った医者がいた。
その名も天城セイ。
また、病院は天美病院と合併、主に建物の老朽化という問題と汐見台の抱える医者の不足を同時に解決した。
朝礼にて、彼は語らう。
「失恋専門病院、大幅強化のお知らせだ。今日から私がトップだ。気楽に行こう。テイク・イット・イージーだ。よろしく。」
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