障害者向け風俗の話

伊阪証

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車のワイパーがその動きを止める。フロントガラスに残った水滴が、対向車のヘッドライトを受けて乱反射した。雨は上がったが、道路はまだ黒く濡れ光り、タイヤが水溜まりを踏み砕く音だけが、低いエンジン音と共に車内に響き続けている。
佐倉梓、源氏名をケイと名乗る彼女は、助手席の後ろ、定位置に深く座り、窓の外を流れる夜景だけを視界に入れていた。湿ったアスファルト。滲んだネオン。コンビニエンスストアの、暴力的とも言える白い光。彼女の顔は、断続的に車内を横切るそれらの光によって、一瞬照らされ、すぐにまた影に沈んだ。
運転席の間宮が、ウインカーのレバーを倒す。カチ、カチ、カチ、と機械的な音が、無音だった車内の空気を区切った。
「……やっと止んだか。このまま降り続かれたら、マジで鬱になるとこだったわ」 間宮の声は、意図的に軽く作られている。だが、その声の表面張力の下には、何日もまともに眠っていない人間の、どうにもならない疲労が澱のように沈殿していた。
ケイは返事をしない。彼女の視線は、濡れた歩道を傘も差さずに歩く、見知らぬ男の背中を追っている。
「ケイちゃんさ、昨日いつ上がったの。俺、明け方に戻ったら、まだ事務所の電気ついてたけど」 間宮が、バックミラー越しにケイの顔色を窺おうとする。だが、後部座席は暗く、ミラーに映るのはぼんやりとした影だけだ。
「……三時、いえ、四時だったかもしれません」 ケイの声は、雨上がりの空気のように低く、湿っていた。
「うわ。それ、寝てねえじゃん。俺もだけどさ。マジでこの店、人使い荒すぎだろ。休憩なし、仮眠なし。俺ら、いつかぶっ倒れるぜ、これ」 間宮は、あはは、と乾いた笑い声を立てた。それは冗談でなく、事実だった。
ケイも、自分が最後にベッドで眠ったのがいつだったか、正確には思い出せない。疲労は、すでに彼女の思考の標準状態となっていた。頭には常に薄い膜が張り、現実の出来事が、一枚隔てた向こう側で起こっているように感じられる。
親が望んだレールの上、医学部の講義室で感じていた息苦しさとは、また種類が違う。あの頃は、未来への過剰な期待と、完璧な論理で構築された知識の重圧が彼女を窒息させていた。今は違う。今はただ、純粋な労働と、睡眠不足と、どうにもならない現実だけが、彼女の時間を埋め尽くしている。
彼女は、この仕事を選んだことを後悔していない。医者になること。それは、親の期待に応え、社会的な成功者という「理想の型」に自分をはめ込むことだった。そのレールから外れた今、彼女がいるのは「底辺の底辺」と呼ばれる場所だ。だが、ここにはもう、彼女に何かを期待する人間はいない。あるのはただ、客の切実な欲求と、それを処理するための技術と、自分の医学知識が皮肉な形で役立つという、冷たい現実だけだ。
「……お前さ、マジでなんでこんなとこいんだよ。医者になれたんだろ、本当は」 間宮の独り言のような呟きが、タイヤの水音の合間に滑り込んだ。
ケイは、窓の外から視線を外さないまま、小さく息を吸った。 「……娯楽がない私には、これがちょうどいい」 その声は、何の感情も乗せていなかった。ただ、事実を述べているだけだった。
間宮は、その言葉の意味を測りかねたように、バックミラーをもう一度見たが、結局何も言わなかった。
車が赤信号で停止する。強いヘッドライトの光が、真横から車内を貫いた。ケイの顔が、その光に数秒間、白く晒される。そこには何の表情も浮かんでいない。ただ、光が通り過ぎるのを待っているだけだった。
信号が青に変わる。カチ、カチ、カチ、とウインカーの音が再び鳴り響く中、車は黙って目的地へと滑り出した。
待機室の空気は、天井に設置された蛍光灯が放つ、青白い光によって飽和していた。
それは影の存在を許さない、均一で冷たい明るさだった。壁際にはスチール製のロッカーが並び、隅には使い古されたソファが置かれている。テーブルの上には、誰かが飲み残したエナジードリンクの空き缶と、中身の減ったティッシュの箱が無造作に転がっていた。
佐倉梓は、そのソファの端に座り、ロッカーの扉に映る自分のぼんやりとした輪郭を見ていた。昨夜、間宮の車で帰宅したのは明け方。数時間、意識を失うように眠り、シャワーだけを浴びて再びここに戻ってきた。疲労は、もはや彼女の身体の一部だった。思考は鈍く、まぶたの裏側が常にざらついている。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
「おはよー、ケイちゃん。早いね」
アズマだった。彼女は、梓とは対照的な、軽やかな足取りで室内に入ってきた。その声には、この部屋の澱んだ空気には不釣り合いなほどの明るい響きがあった。アズマは梓の隣を通り過ぎる際、ふわりと甘い香りを残していった。それは、彼女がいつも使っている、バニラ系の香水だ。
アズマは、大きな鏡が据え付けられたドレッサーの前に陣取ると、手早く自分の化粧ポーチを広げた。その仕草には、一切の淀みがない。彼女は、いわゆる一般的に美人のニューハーフだった。
だが、その評価は表層的すぎるとケイは思う。
アズマの持つ本質は、その造形ではなく、身体の隅々まで行き渡った「柔らかさ」にあった。
彼女が髪をかき上げる。指が、染められた明るい茶色の髪の間を滑らかに通り抜けていく。その動きは、まるで水が流れるようだった。
「あー、なんか今日、湿気多くない?巻いたとこ、取れてきちゃった」
アズマは鏡の中の自分に話しかけるように言い、ヘアアイロンの電源を入れた。その横顔は、蛍光灯の冷たい光の下でさえ、血の通った温かみを感じさせる。肌はきめ細かく、ケイ自身の、睡眠不足で青白く沈んだ皮膚とは明らかに異質だった。
ケイは、ソファから動かないまま、アズマの背中を見ていた。
「……そうですね」
乾いた声が、自分の喉から出たことに、ケイ自身が驚いた。
「ケイちゃん、昨日また遅かったんでしょ。間宮さんが言ってたよ。ちゃんと休まないと、お肌のゴールデンタイム逃しちゃうよ?」
アズマが、鏡越しにウインクしてみせた。その冗談に、ケイは反応を返すことができない。彼女の言う「ゴールデンタイム」という言葉が、あまりにも現実離れして聞こえた。自分は今、休憩のない労働と鬱気味の精神状態の、その底にいる。
(この人は、どうしてこんなに明るくいられるんだろう)
それは、ケイが常々抱いている疑問だった。この「底辺の底辺」と呼ばれる場所で、アズマだけが、まるで違う世界の法則で動いているように見える。彼女の明るさは、この冷たい待機室の空気に対する、唯一の抵抗のようでもあった。
アズマは、ヘアアイロンが温まるのを待つ間、今度は指先のケアを始めた。小さな瓶を取り出し、爪の根元に透明なオイルを塗り込んでいる。
ケイの視線が、その指先に吸い寄せられた。
白く、細く、しなやかな指。清潔に整えられた爪が、蛍光灯の光を小さく反射している。それは、この仕事の過酷さや、生活の疲弊とは無縁に見える、完璧に「手入れ」された指先だった。
ケイは、自分の手を見た。指先は荒れ、爪は短く切り揃えられているだけだ。医学書をめくり、今は客の身体を「確認するため」に触れる指。そこには、アズマが持つような「柔らかさ」や「装飾」は一切ない。
(依存)
自分は、アズマのこの「柔らかさ」に、無意識に寄りかかろうとしているのではないか。
疲弊しきった精神が、自分にはない「生」の輝き、このどうにもならない現実の中で唯一「美しい」と認識できるものに、救いを求めているのではないか。
ケイの呼吸が、一瞬だけ浅くなった。アズマの指先が、スローモーションのように見える。その指が動くたびに、自分の内側にある何かが、わずかに引き寄せられるのを感じた。
「……よし、温まった」
アズマが、軽やかな声と共にヘアアイロンを手に取った。
ケイは、強く、ゆっくりと息を吐き出した。そして、アズマの指先から視線を外し、再びロッカーの扉に映る自分の輪郭へと戻した。
「……少し、外の空気、吸ってきます」
「え?あ、うん。いってらっしゃい」
アズマは、鏡の中の自分の髪に集中したまま、明るく手を振った。
ケイは、アズマの返事を聞き終わる前に、待機室の扉を開けた。背後で、鏡に映る二人の姿があったはずだ。明るい光の下で、決して交わらない二つの影。
その沈黙は、蛍光灯の冷たいノイズだけが埋めていた。
訪問先のマンションの一室は、梓が知るどの客の部屋とも異なっていた。 ホテルのような無機質さも、生活感のある雑然さもない。 そこは、医療施設と住居の中間地点だった。空気は、加湿器と空気清浄機によって厳密に管理され、消毒液の匂いが、その人工的な清潔さの証明のように薄く漂っている。 サー、という換気扇の低い駆動音だけが、部屋の静寂を定義していた。
健太郎は、部屋の中央に置かれた電動車椅子の背もたれに、深く身を預けていた。彼は梓の入室に気づき、わずかに顔を上げたが、声は出さなかった。その視線には、緊張と、それを隠そうとする諦めのような色が混じっている。
梓は、その視線を受け止めない。彼女は挨拶もそこそこに、持参したバッグを床に置き、中から必要な器具を手早く取り出した。まず、薄いラテックスの手袋。
カサカサ、キュ、と乾いた摩擦音が響く。 彼女が両手に手袋をはめると、それは儀式のように、彼女の意識を「佐倉梓」から「ケイ」へと切り替えた。
「……失礼します」
彼女は、まず健太郎の車椅子のコントローラーに触れ、電源がオフになっていること、そして手動ロックがかかっていることを指差し確認した。安全の確保。それが第一手順だ。
「ベッドへ移ります。先に、お身体の状態を確認させてください」 梓の声は、この部屋の空気と同じくらい、温度を持たなかった。
彼女は健太郎の前に膝をつき、まず彼の足首を掴んだ。皮膚温は、やや低い。血行があまり良くない証拠だ。彼女はそのまま、ゆっくりと足関節を動かし、可動域を確認する。 (足関節:底屈・背屈ともに軽度の拘縮。筋萎縮は下腿三頭筋に顕著)
脳内で、かつて叩き込まれた医学用語が、冷静な所見として自動的に組み立てられていく。彼女は次に、膝、股関節と同様の手順を繰り返した。彼の脚は、ほとんど抵抗らしい抵抗を返さない。ただ、彼女の手の動きに従って、力が抜けきったまま持ち上がり、そして落ちる。
「腕、失礼します」 上肢も同様だった。肩関節、肘関節、手関節。彼の身体は、意志の力を失った、精巧だが機能不全に陥った機械のようだった。
「気分、悪くありませんか」 健太郎は、小さく首を横に振った。 (意識レベル:JCSゼロ。呼吸状態:安定。チアノーゼなし) 観察は完了した。
「では、ベッドに移します。少し身体が浮きます」 梓は、車椅子のアームレストを跳ね上げ、彼の背中と膝裏に自分の腕を滑り込ませた。この仕事のために最低限鍛えた筋肉を使い、彼女はためらいなく健太郎の身体を抱え上げる。思ったよりも軽い。筋肉が失われ、骨と皮膚だけになった人間の重さだ。
ベッドにゆっくりと降ろす。シーツが、パサリ、と乾いた音を立てて彼の身体を受け止めた。
次いで、体位調整。彼女はバッグから取り出した数種類のクッションを使い、彼の背中、腰、そして膝の裏に差し込んでいく。 (側臥位は呼吸筋を圧迫するリスク。仰臥位を維持。ただし仙骨部の除圧は必須) それは、性的なサービスのための体位ではなく、医療的な介助のための体位だった。 彼の身体が最も安楽で、かつ血流が滞らない角度を、彼女の医学知識が正確に割り出していく。
準備は整った。 梓は、健太郎の薄い掛け布団を静かにめくった。彼は、緊張で目を固く閉じている。
「……始めます」
彼女の手が、手袋越しに、健太郎の身体の、まだわずかに反応が残っている末梢神経が集中する部分へと伸ばされた。 彼女の指は、愛撫するためではなく、確認するために動く。どの程度の刺激が、どの程度の反応を引き起こすか。どの経路が、まだ生きているか。
最初は、何も起こらなかった。健太郎の身体は、彼女の精密な動きを受け入れているだけだ。 だが、彼女が手順を変え、ある一点に、持続的な圧を加えた瞬間。
健太郎の閉じられた両目が、カッと見開かれた。 彼の喉の奥から、「ヒュッ」という、空気が無理やり引きずり出されるような音が漏れた。
(現象だ) 梓は、冷静にそれを観察した。
彼の首筋から鎖骨にかけて、皮膚が一気に赤く色づいた。鳥肌が、腕全体に広がっていく。 (自律神経系の反射的応答。交感神経の亢進)
健太郎の身体が、弓なりにわずかに反った。それは意志による動きではない。脊髄が、彼の意識を飛び越えて引き起こした、純粋な生物学的現象だった。指先が、シーツを掴もうとして、空しく痙攣している。
梓は、手を止めない。彼女は、この「現象」が最大化するポイントを探り、手順通りの刺激を繰り返した。
健太郎の呼吸が、換気扇の音よりも大きく、荒くなっていく。喘ぎ声ではない。それは、呼吸筋が制御を失い、必死に酸素を取り込もうとする音だった。
やがて、彼の全身が、一度、大きく硬直した。 そして、次の瞬間、まるで糸が切れたかのように、全ての力が抜けきった。
梓は、静かに手を引いた。 健太郎は、荒い呼吸を繰り返しながら、天井の一点を、焦点の合わない目で見つめていた。彼の目尻から、生理的な涙が流れ落ち、こめかみを濡らしている。
(刺激による迷走神経反射の誘発。副交感神経への急激な移行) 梓は、それを分析した。感情の発生ではない。想定内の、現象の終息だ。
彼女は立ち上がり、バッグから清潔なタオルを取り出した。その動作にも、一切の感情は含まれていない。
サー、という換気扇の音と、健太郎の、徐々に落ち着きを取り戻していく呼吸音だけが、医療施設に似た冷たい部屋に、再び満ちていった。
店の裏口のドアは、錆びた蝶番が軋む音を立てて開いた。 一歩外に出ると、雨上がりの湿った空気が、待機室の乾燥した空気とは比べ物にならない密度で肌にまとわりついてくる。路地裏は、ビルの壁と壁に挟まれた、光の届かない谷間だった。
佐倉梓は、壁に背を預け、自動販売機の冷たい蛍光灯を見上げた。その青白い光が、彼女の疲労しきった顔色を、さらに不健康に照らし出している。彼女はポケットから小銭を取り出し、無機質なスロットに滑り込ませた。ガコン、という重い作動音の後、取り出し口に缶コーヒーが落ちる。
彼女はそれを取り出し、手のひらで包み込んだ。 熱い、というにはぬるいが、外気に冷えた指先には十分な熱源だった。
彼女は、光の届かない路地裏の暗がりへと数歩進んだ。そこは、近くの飲食店の排気口から漏れる油の匂いと、濡れたコンクリートの匂い、そして誰かが放置したゴミ袋の、微かな腐敗臭が混じり合う場所だった。
カシュ、と小さな音を立ててプルタブを引き上げる。立ち上る香りは、焦げた砂糖と、人工的なミルクの匂い。彼女はそれを一口、口に含んだ。熱い液体が喉を焼くが、味はほとんど感じない。 ただ、カフェインと糖分という「燃料」を、身体に流し込む作業だった。
その時、遠く、大通りに近い角の方から、甲高い笑い声が聞こえた。 アズマの声だ。
その声は、この薄暗く湿った路地裏にはあまりにも不釣り合いなほど、明るく、澄んでいた。客を見送っているのか、あるいは次の客と合流したのか。その笑い声は、彼女が今いる「底辺の底辺」の現実とは違う世界の音として、壁に反響した。
梓は、アズマの、鏡の前で見た完璧に手入れされた指先を思い出す。あの「柔らかさ」と「明るさ」。自分に無意識の依存を強いる、あの温かい輝き。
「……あーあ。やってらんねえな、マジで」 背後で、重いドアの開く音と共に、間宮の濁った声がした。彼も休憩に出てきたらしい。梓が振り向くと、間宮は火のついていない煙草を唇に挟み、ライターの火を擦っていた。
チッ、チッ、カチッ。 湿気で着火しにくいライターが、苛立たしげな音を立てる。ようやく点いた小さな炎が、間宮の、疲労で灰色のようになった顔を一瞬だけ照らし出した。彼は深く煙を吸い込み、それを、湿った空気の中へと吐き出した。 煙は拡散せず、彼の足元に重く沈殿する。
「……なぁ、ケイちゃんよ」 間宮は、壁に梓と同じように寄りかかり、煙草の先端の赤い光を見つめていた。
「俺ら、一体、何やってんだろうな。これ」 その問いは、答えを求めていない。ただ、どうにもならない現実に対する、行き場のない愚痴だった。
梓は、手の中の缶コーヒーを握りしめた。 (何をやっているか)
彼女の脳裏に、数時間前の、健太郎の部屋の光景が蘇る。 換気扇の音。医療施設のような清潔さ。そして、彼女の指先が引き起こした、純粋な生物学的「現象」。
意志を介さない痙攣。制御を失った呼吸。生理的な涙。 あれは、性愛ではなかった。介助でもなかった。
あれは、かつて彼女が医学部の実験室でラットの神経に行った刺激と、本質的には変わらない。ただ、対象が人間であっただけだ。
彼女の持つ「知識」が、最も歪んだ形で適用され、正確な結果を出した。その冷徹な事実に、彼女は満足すら覚えていた。
遠くで、またアズマの笑い声が聞こえた。
「……娯楽ですよ」 梓の声は、湿った空気に吸い込まれるように小さかった。
「は?」 間宮が、怪訝な顔でこちらを見た。
「娯楽です。……まだ、人間でいられる側の」 梓は、缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。ぬるくなった液体が、金属的な後味だけを舌に残す。
「……俺たちの、ね」 間宮は、その言葉の皮肉を理解できなかったようだった。ただ、不可解なものを見る目で梓を一瞥すると、短くなった煙草を携帯灰皿に押し込み、 「……ワケわかんねえよ。さ、戻るぞ」 とだけ言い残し、軋む音を立てて店の中に戻っていった。
後に残されたのは、梓一人だった。 彼女は、空になった缶を、潰れそうなほど強く握りしめた。キィ、と金属が軋む音が、静かな路地裏に響く。
彼女は、ゆっくりと、ため息を一つ吐いた。 その白い息は、疲労とも、安堵ともつかない、ただの呼気として吐き出され、路地裏の湿った夜気に混じり合い、輪郭を失い、静かに溶けて消えていった。




蛍光灯は消え落ちている。 早朝の待機室は、壁にかけられた大型テレビから一方的に放たれる、青白い光だけが光源だった。音量は絞られているが、男性キャスターの、感情を一切含まない低い声が、室内の冷えた空気を規則正しく震わせている。
ソファのスプリングは、もう何年も酷使されたせいで歪み、佐倉梓の身体を不自然な角度で受け止めていた。彼女はそこに深く沈み込み、ほとんど動かない。連勤による疲労は、すでに疲労という感覚を超え、身体の隅々にまで行き渡った重い「鉛」となっていた。 思考は、粘度の高い泥水の中を進むように鈍い。
彼女が最後にまともな睡眠をとったのは、いつだったか。 三日前か、四日前か。記憶は曖昧だ。過酷な労働スケジュールが、昼と夜の境界線を溶かし、今はただ、テレビの光によって強制的に「朝」であることが知らされているだけだった。
テーブルの上には、昨夜、あるいは一昨夜から溜まったままのゴミが散乱している。エナジードリンクの空き缶。中身がカラになったティッシュの箱。そして、間宮が吸い殻を山のように盛らせた、プラスチック製の簡易灰皿。その灰皿は、もう容量の限界を超え、テーブルの上にもいくつかの灰がこぼれ落ちていた。
梓は、ゆっくりと腕を上げた。その動作一つにも、全身の筋肉が軋むような抵抗を感じる。コンビニエンスストアの袋から、冷え切ったサンドイッチのパックを取り出した。消費期限は、今日の午前三時。ぎりぎりだ。
彼女は、その冷たいパンを、味覚のない舌の上で機械的に咀嚼した。味はしない。ただ、胃の中に何かを詰め込むという作業をこなしているだけだ。燃料補給。そうでなければ、次のシフトを乗り切れない。 インスタントコーヒーの、ぬるくなった液体でそれを流し込む。熱だけが、かろうじて食道を通過していく感覚を伝えた。
テレビ画面では、何かの事件の現場中継が映し出されている。ぼかされたモザイクの向こう側で、人々が何かを叫んでいる。
「……ん」 ソファの反対側で、毛布にくるまっていた塊が動いた。間宮だった。彼も、昨夜から事務所に泊まり込んでいた一人だ。彼は、獣のような低い呻き声を上げながら、ゆっくりと身を起こした。その顔は、睡眠不足と疲労で灰色にむくみ、目の下には、もはや消えることのないであろう深い隈が刻まれている。
間宮は、焦点の合わない目でしばらく虚空を見つめていたが、やがてテーブルの上の空の灰皿に気づき、それを無意味に指でなぞり始めた。 カラカラ、と乾いたプラスチックの音が響く。
「……最悪の目覚めだ」 彼の声は、砂利が擦れるように濁っていた。
テレビ画面が切り替わる。今度は、どこかの繁華街の映像。風俗店が摘発されたというニュースだった。警察官が段ボール箱を運び出す様子が、執拗に繰り返されている。障碍者向けの店ではない。だが、世間の「正義」を刺激するには十分な、扇情的な内容だった。
「……またやってら」 間宮が、吐き捨てるように言った。彼は、灰皿をなぞるのをやめ、苛立たしげに自分のこめかみを押さえた。
「障碍者向けの店ってさ、こういうのが一番怖いんだよな。俺らみたいな仕事、世間様から見りゃ、ただのゴミだ。叩かれる時は、一気に来る」 その言葉は、この待機室の澱んだ空気の中で、妙な現実味を帯びて響いた。昨日、健太郎の母親から受けたヒステリックなクレームの記憶が、梓の脳裏をかすめる。あれもまた、社会の「正義」の一形態だった。
梓は、テレビ画面を見ていなかった。 彼女の視線は、画面の少し横、何も映っていない壁紙の、小さなシミに固定されている。キャスターの声も、間宮の愚痴も、耳には入ってくるが、思考の表面を滑っていくだけだ。
(疲れた) ただ、それだけだった。
社会の正義。母親の怒り。倫理。そんなものは、このどうにもならない連勤の疲労と、鬱気味の精神状態の前では、あまりにも遠い場所にある概念だった。 今、彼女が切実に求めているのは、清潔なシーツの上での、数時間の完全な沈黙だけだ。あるいは、アズマの、あの現実離れした明るい声と、手入れの行き届いた指先の「柔らかさ」かもしれない。その無意識の渇望が、疲労という土壌の上で、ゆっくりと育っていることに、彼女はまだ気づいていない。
「……お前、やっぱ頭いいわ」 間宮が、昨夜の梓の言葉を思い出したかのように、嘲るように言った。 「“正義は無"……なんだっけ」
「……正義はだいたい、無知の形をしてますよ」 梓は、冷えたパンの最後の一切れを口に押し込みながら、淡々と答えた。画面は見ていない。聞こえる音だけを受け流し、ただ、言葉を返した。
「知らないから、叩ける。自分とは無関係だと信じているから、断罪できる。それだけです」 「……ケッ。違いない」 間宮は、それ以上何も言わず、再びソファに身体を沈めた。
青白い光が、明滅を続ける。梓は、ゆっくりと瞬きをした。その重いまぶたの裏側で、ニュースの音も、間宮の存在も、すべてが遠ざかっていく。 ただ、冷たい疲労だけが、そこにあった。
その部屋は、待機室の青白い蛍光灯とは異なり、柔らかい昼光に満たされていた。 だが、その光は、窓から直接差し込む解放的なものではない。 すりガラスの向こう側、さらに厚いレースのカーテンを一枚隔てて、ようやく室内に届くことを許された、ろ過された光だった。それは、部屋の隅々にまで行き渡るが、影を作るほどの強さを持たない。無菌室の照明に似た、均一な明るさだ。 空調の低い駆動音が、サー、という一定のリズムで響き続けている。
佐倉梓は、壁際に設置されたスチール棚の前で、リネン類を数えていた。清潔なシーツ、バスタオル、フェイスタオル。指先が、乾いた布地の感触を確かめる。その動作は、感情を挟まない、単純な在庫確認の作業だった。連勤の疲労は、彼女の全身の関節に、薄い錆のようにこびりついている。
「――よいしょっと」 部屋の反対側で、アズマが大きなリネンカートから、畳まれたばかりのタオルを数枚取り出した。その声は、この静かな部屋には不釣り合いなほど、生命力に満ちている。
アズマは、そのうちの一枚を広げると、自分の頬に軽く押し当てた。 「あー、やっぱり洗いたてのタオルって、気持ちいいね。お日様の匂い」
梓は、数を数える手を止めない。 「……この部屋は、一日中陽が当たらない」 彼女は、アズマの言葉を、事実として訂正しなかった。ただ、観察した。
アズマは、梓とはあらゆる点で対照的だった。 一般的に美女と呼ばれる、整った造形。 だが、彼女の持つ力はそこではない。 彼女の存在そのものから発散される、体温とでも言うべき「柔らかさ」だ。 その明るさが、梓の疲弊しきった精神の、鬱屈した部分に無意識に作用し、依存の影を落としていることを、梓は自覚し始めている。 だから、彼女はアズマから距離を取る。
アズマは、棚にタオルを補充しながら、ふと自分の手のひらを見つめた。その指は、梓の短く切り揃えられた実用的な指とは違い、丁寧にケアされ、淡い色のネイルが施されている。
「私さ、こういう仕事してると、逆に思うんだけど」 アズマは、独り言のように、あるいは梓に聞かせるように言った。 梓は、棚卸しのリストボードに視線を落としたまま、返事をしない。
「触られるときって、結構、好きだよ」 その言葉は、柔らかい昼光の中で、奇妙な響きを持っていた。
梓のペンを持つ手が、一瞬、止まった。 (好き) 感情。この仕事において、最も不要で、最も危険な要素。
アズマは、梓の沈黙に気づかないように、続けた。その声は、どこか楽しそうだ。 「なんだか、人が生きてるって感じがして。あったかいし」
(生きてる) (あったかい) その二つの単語が、梓の脳内で、冷たい医学用語に変換された。
「生きてる」とは、バイタルサインが安定している状態。 「あったかい」とは、皮膚温が正常範囲内であるという事実。
梓が、昨日の健太郎に施した「手順」を思い出す。 彼女が触れたのは、「生きている」温かさではなかった。それは、刺激に対して「反射」する、生物学的な「現象」だ。
アズマの言う「生きてる感じ」は、梓の理解の範疇を超えている。 それは、アズマの持つ「柔らかさ」が、客の身体と共振して生まれる、情緒的な産物だ。
梓には、それがない。彼女にあるのは、過去の医学知識と、親の支配から逃れるために構築された、冷徹な論理(理性)だけだ。
(この人とは、根本的に違う) 梓は、アズマの明るさを「偽善」だとは思わない。
だが、それは「自分には絶対に不可能なやり方」だと認識していた。そして、その不可能こそが、自分をこの過酷な労働の中で、ギリギリ正気でいさせてくれる防御壁なのだと。
アズマに依存しかけている自分(無意識)が、アズマのその「柔らかさ」に触れてしまえば、自分は壊れる。 鬱気味の精神が、その温かさを「救い」だと誤認した瞬間、プロとしての境界線は崩壊するだろう。
だから、拒絶しなければならない。 梓は、ゆっくりと顔を上げた。
柔らかい昼光が、彼女の睡眠不足の顔を、まるで陶器のように白く照らしている。
「……私は、確認のために触る」 声は、乾いていた。
アズマの言葉が、その場にふわりと浮いていたが、梓のその一言によって、重さを持ち、床に落ちた。
「……え?」 アズマは、一瞬、何を言われたのか分からないという顔で、梓を見た。
「健太郎さんの時も、そうだった。どこが反応して、どこが機能していないか。それを確認する。それだけ」 梓の言葉は、この部屋の柔らかい光を、まるで手術室の無影灯のように冷たく変えた。
「……そ、そっか。ケイちゃんは、真面目だね」 アズマは、取り繕うように笑った。 だが、その笑顔は、さきほどの屈託のない明るさを失っている。
二人の間に、沈黙が落ちた。 空調の低い駆動音だけが、その沈黙の体積を、徐々に押し広げていく。
それは、親密さを拒む、明確な距離だった。 柔らかい昼光の下で、二人の間にある溝は、くっきりと照らし出されていた。
夕方。事務所の空気は、一日のうちで最も澱む時間帯だった。 西日が、汚れで油膜が張ったようになったブラインドの隙間から、粘り気のある橙色の光として差し込んでいる。 その光は、床に散らばった埃を金色に照らし出し、間宮がデスクで積み上げた、吸い殻で溢れかえる灰皿の山を不気味に浮かび上がらせていた。
サー、というパソコンのファンの音と、壁にかけられた安物の時計が、カチ、カチ、と乾いた秒針を刻む音。 それ以外は、連勤が続くスタッフたちの、深く沈んだ疲労の沈黙だけが満ちている。
佐倉梓は、自分のデスクで、訪問サービスの実施報告書をタイプしていた。その指の動きは、彼女の疲労とは無関係に、正確なリズムを刻み続ける。感情を排した、純粋な事務作業。彼女がこの過酷な労働の中で、かろうじて正気を保つための儀式でもあった。
間宮は、デスクに突っ伏したまま、時折「あー」とも「うー」ともつかない、獣のような低い呻き声を漏らしている。彼もまた、疲弊の限界に達していた。
その、澱んだ静寂を、けたたましい内線のベルが切り裂いた。 ビ、ビ、ビ、ビ――
間宮が、呪詛のように何かを呟きながら、億劫そうに受話器に手を伸ばす。 「……あー、はい、事務所……ああ、ケイちゃん宛?……おう、今代わる」
間宮は、受話器の送話口を手で雑に覆うと、死んだような目で梓を見た。 「……ケイちゃん。三番。なんか、スゲー声の甲高い女」
梓は、タイプしていた手を止め、一つだけ頷いた。そして、自分のデスクの内線ボタンを押す。 「はい、ケイです」 彼女の声は、報告書をタイプする音と同じくらい、フラットで無機質だった。
『っ、あんたね!』 受話器が、鼓膜が破れそうなほどの金切り声で震えた。
それは、昨日ニュースで聞いたような、社会的な「正義」の糾弾とは質の違う、もっと個人的で、粘着質な熱量を持ったヒステリーだった。
『昨日!うちの息子に、何をさせたの!』 健太郎の母親だ。
梓は、背もたれに体重を預けたまま、声のトーンを変えない。 「恐れ入ります。お客様のプライバシーに関わるため、お電話では」
『ふざけないで!』 声が、さらに甲高くなる。受話器が割れるのではないかと思うほどの音圧。
『あの、障害のある子を食い物にして!金儲けのために!私を無視して**、**勝手なことをして!恥を知りなさい!』
(私を、無視して) その言葉が、梓の鼓膜の奥、古い記憶が保存されている層を、鋭利なもので引っ掻いた。 目の前が、一瞬、白くなる。
風景がフラッシュバックする。 かつての実家。閉じられた子供部屋。床に叩きつけられた教科書。 そして、目の前で、顔を真っ赤にして叫ぶ、実の母親の顔。 (許可を取らないなんて、何様だ!) (私の言うことが聞けないのか!) (この、恥知らず!)
健太郎の母親の甲高い声と、実の母親のヒステリックな声が、受話器の内側で重なり合い、一つの「音」になる。 それは、他者の意志を許さず、自分の支配下から逸脱したものを、力の限り罵倒し、自己の正当性だけを叫び続ける、「母親構造」という名の音色だった。
『店長を出しなさい!あんたみたいな小娘じゃ話にならない!』 梓は、事務的に保留ボタンを押した。
事務所の奥、ドアが半開きになっている店長室に向かって、彼女は腹の底から、しかし感情を乗せずに、声を張り上げた。 「店長。三番にお電話です。健太郎さまのご家族から」
「あぁ!?今手が離せん!こっちで別の客と揉めてんだよ!適当にあしらっとけ!」 怒鳴り声だけが、壁に反射して返ってきた。
この場所は、常にそうだ。誰も、誰かを守らない。自分のことで手一杯だ。
梓は、保留を解除した。 受話器の向こう側で、母親がまだ何かを叫んでいるのが、くぐもって聞こえる。
「申し訳ありません。店長は現在、他の対応で手が離せません。ご要望については、私が責任を持って申し伝えます」
『……っ!』 女は、言葉にならない金切り声を上げると、一方的に電話を切った。
ガシャン!と、受話器が叩きつけられる、暴力的な音が響く。 ツー、ツー、ツー。 無機質な切断音が、梓の耳に届く。
彼女は、受話器を静かにクレードルに戻した。 事務所は、再び、元の静寂に戻った。 いや、さきほどよりも、もっと深く、冷たい沈黙が訪れていた。
カチ、カチ、カチ。 時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。
間宮が、恐る恐るという顔で、こちらを見ていた。彼は、受話器から漏れる音だけで、おおよその事態を察している。
彼女の中の何かが、軋んだ。 それは、怒りではない。悲しみでもない。 古い、錆びついた金属の扉が、無理やりこじ開けられようとして、きしむ音に近かった。
梓は、椅子の背もたれに預けていた体重を、ゆっくりと前方に戻した。 そして、一度だけ、背筋をス、と伸ばした。
それは、まるで冷たい金属が、加えられた圧力に反発して、元の硬い形に戻るかのような、静かな動作だった。 あの「音」は、彼女を壊すのではなく、彼女をより硬く、冷たく、固定させた。
彼女は、何も言わずに、再びキーボードに指を置いた。 報告書の、中断されたカーソルが、橙色の光の中で、静かに点滅を繰り返していた。
雨は、一時間ほど前に止んでいた。 店の裏口の、重い鉄製のドアを押し開けると、アスファルトの濡れた匂いが、淀んだ路地裏の空気と混じり合い、むっとした湿気となって佐倉梓の肌にまとわりついた。彼女は、その湿気の中に、まるで水中に沈むように、ゆっくりと一歩を踏み出した。
路地裏は、ビルの壁と壁に挟まれた、光の谷間だった。 唯一の光源は、路地の入り口に立つ、古びた橙色の街灯。その光は、アスファルトの上にできた無数の水たまりに反射し、二重、三重に歪んで揺らめいていた。まるで、割れた鏡の破片を撒き散らしたかのようだ。
ひさしの先端や、壁を伝う配管の継ぎ目から、まだ雨の残滓が滴り落ちている。 不規則に水たまりを叩く、ピチャン、ピチャン、という音が、この湿った静寂の中で、唯一の時計の針のように響いていた。
梓は、壁に背中を預け、ゆっくりと息を吐き出した。 その息は、疲労の重さで白く濁り、橙色の光の中で一瞬だけ形を保ち、すぐに湿気へと溶けて消えた。
疲れた。 その感覚だけが、彼女の意識の全てを占めていた。 連勤による肉体的な疲弊。休憩のない労働がもたらす、脳の機能不全。そして、数時間前に浴びせられた、あの甲高いヒステリックな「音」。
(私を無視して) 健太郎の母親の声。 (許可を取らないなんて) 実の母親の声。
二つの「母親構造」が叩きつけた音は、彼女の中でまだ、低い周波数で反響を続けている。 それは、彼女の鬱気味の精神を、じわじわと蝕んでいた。
彼女は、この「どうにもできない場所」で、どうにか正気を保っている。それは、彼女が「感情」を切り離し、すべてを「思考」と「現象」として処理しているからだ。 だが、あの「音」は、その冷徹な処理能力を、わずかに麻痺させる毒だった。 彼女は、この路地裏の暗闇が、その毒を中和してくれることを知っていた。 ここは、社会の「正義」も「理想」も届かない、底の底。 光も、音も、意味も、すべてがこの湿ったコンクリートに吸い込まれていく。 この場所だけが、彼女の唯一の、冷たい安息所だった。
「――お疲れ様、ケイちゃん」 その静寂を破ったのは、彼女が今、最も聞きたくなかった、そして最も聞きたかったかもしれない、明るい声だった。
アズマが、梓の隣に、ふわりと静かに立っていた。 彼女も、ちょうど客を見送った帰りだったらしい。その顔は、この薄暗い路地裏でも、まるで内側から発光しているかのように白く見えた。一般的に美女と呼ばれるその造形は、橙色の光の下で、非現実的なまでの完璧さを持っていた。
アズマは、梓がまとっている重い疲労の空気など意にも介さず、屈託なく微笑んだ。 「さっきの電話、すごかったね。お母さん、ヒスっちゃってさあ」 アズマは、路地裏の湿気を払うように、軽く肩をすくめた。
その仕草、その声、その存在そのものが、梓が今いる「底」とは、あまりにも異質だった。 梓は、返事をしなかった。
ただ、アズマの隣にいることで、自分の疲労が、より一層、重く、醜いものとして浮き彫りになるのを感じていた。 無意識の依存。 この明るさに、この柔らかさに、寄りかかりたいという、鬱気味の精神が発する危険な信号。
梓は、その信号を理性で押し殺すため、アズマから視線を外し、足元の水たまりに映る、歪んだ街灯を見つめた。
「ああいうの聞くと、疲れちゃうよね」 アズマは、梓の沈黙を気にも留めず、続けた。その声は、どこまでも肯定的だ。
「……でも、私、やっぱり人を信じたいなって思うんだ」 その言葉は、まるで石ころのように、梓が見つめていた水たまりに投げ込まれた。
水たまりに映る、歪んだ光が、さらに細かく波紋を立てて砕け散る。 (信じる) その単語が、梓の鼓膜に突き刺さった。
それは、彼女が医学部で学んだどの知識よりも、彼女が親の支配から逃れるために構築したどの論理よりも、遠い場所にある言葉だった。 「信じる」とは、感情の最も無防備な形態だ。
それは、合理性を欠き、客観性を失い、自己を危険に晒す行為。 それは、あの「母親構造」が、最も好み、利用する、弱さの隙間だ。 アズマの明るさは、この「信じる」という無防備さ、無邪気さによって成り立っている。 それは、この「どうにもできない場所」においては、あまりにも、危険だった。
梓は、ゆっくりと顔を上げた。 彼女の視線が、アズマの、光の中で輝く瞳を、まっすぐに捉える。
「……信じるときは」 梓の声は、ひさしから落ちる雨の滴よりも冷たく、小さかった。
「もう、手遅れだよ」 アズマの笑顔が、凍りついた。 いや、凍りついたのではなく、まるでそこにあった熱が、一瞬にして奪い去られたかのように、表情が消えた。
彼女は、梓の言葉の意味を、理解しようと瞬きを繰り返した。 だが、二人の間に生まれた、言葉では解けない距離は、この湿った路地裏の空気よりも、重く、冷たかった。
アズマの「感情」と、梓の「理性」。 それは、水と油のように、同じ場所にありながら、決して交わることはない。
「……そっか」 アズマは、やがて、そう一言だけ呟いた。 その声には、もうさきほどの明るさの欠片も残っていなかった。
「……じゃ、お先に」 アズマは、梓から目をそらすと、踵を返した。 その背中は、来た時とは違い、どこか小さく見えた。
梓は、動かなかった。 彼女の視線は、アズマの背中に、まるで縫い付けられたかのように、固定されていた。
濡れた路地を横切り、大通りに近い、客待ちの車が停まっている角まで。 アズマが、車のドアを開け、その「柔らかい」身体を車内に滑り込ませ、ドアが閉まる、その瞬間まで。
(……今日も、見ていた) その事実に、梓は、アズマの姿が完全に視界から消えた後で、気づいた。
無意識の依存。 アズマの存在を、その光を、目で追ってしまう。 それは、疲労しきった精神が、無意識に、自分にはない「生」の輝きを求めている証拠だった。 そして、その「生」を、自分自身の冷徹な言葉で、今、傷つけた。
疲労が、足元の水たまりから這い上がってくるように、全身を包んだ。 梓は、ポケットから、くしゃくしゃになった煙草の箱を取り出した。 最後の一本。 それを唇に挟み、湿気で着火しにくいライターのホイールを、親指で強く回した。
カチ、カチ、カチッ。 三度目の火花で、ようやく小さな橙色の炎が点った。
その炎が、一瞬だけ、彼女の、何の感情も浮かんでいない、冷たく疲弊した顔を照らし出す。 彼女は、深く、煙を吸い込んだ。
細く吐き出された煙は、雨上がりの湿った夜気に混じり合い、輪郭を曖昧にし、水たまりに映る歪んだ光の中へと、静かに溶けて消えていった。
朝の光は、まだその強さを持っていない。 休憩室の、何年も掃除されていないであろう窓ガラスを通り抜けてくる光は、白く、薄く、力なく、室内に溜まった澱んだ空気を照らし出していた。その光の中で、無数の埃が、まるで意思を失った生物のように、ゆっくりと浮かんでは沈んでいる。
空気は、昨夜の、あるいはそれ以前から蓄積された、人間の疲労の匂いで満ちていた。 ソファに染み付いた汗の匂い。テーブルの上で山となった、冷たい吸い殻の酸っぱい匂い。そして、誰かが飲み残したまま放置した、エナジリードリンクの甘ったるい匂い。
佐倉梓は、その部屋の隅にある給湯スペースに、背中を丸めて立っていた。 彼女の身体は、連勤と睡眠不足の重圧によって、まるで深海にいるかのように重い。関節が、湿気を含んだ古い鉄のように軋むのを感じる。 鬱気味の精神状態は、この薄汚れた休憩室の風景を、さらに彩度の低いものとして彼女の網膜に映し出していた。
(……疲れた) その感覚だけが、今、彼女の意識の全てを占める、唯一の現実だった。
彼女は、プラスチックの柄がついた小さな電気ケトルに、水道水を注ぐ。ゴボゴボ、と空気が抜ける鈍い音。スイッチを入れると、ジー、という低い作動音が、この脱力した静寂を破った。
ソファでは、間宮が、昨夜からその場にいたかのように、死んだように横たわっていた。 彼は、梓が立てた物音で、わずかに身じろぎし、獣のような低い呻き声を上げた。
「……ん、あぁ?……朝かよ」 彼の声は、アルコールと睡眠不足で、原型を留めないほどに濁っていた。
間宮は、重い上半身をゆっくりと起こした。その顔は、疲労で灰色にむくみ、目の下の隈は、もはや皮膚の一部として定着している。彼は、テーブルの上の、自分の吸い殻の山を見て、忌々しそうに舌打ちをした。
「……最悪だ。昨日、結局あの後、店長と揉めてさ。俺、一睡もしてねえわ」 間宮は、ガシガシと、脂で汚れた頭を掻きむしった。
その時、電気ケトルが、カチリと小さな音を立てて沸騰を終えた。 梓は、ロッカーから自分のマグカップを取り出した。景品でもらった、何の変哲もない白い陶器。そこに、インスタントコーヒーの黒い粉末を、スプーンで二杯、無造作に放り込んだ。
沸騰した湯を、カップに注ぐ。 黒い粉末が、熱湯に一瞬で飲み込まれ、どす黒い液体が渦を巻いた。 湯と共に、白い湯気が、勢いよく立ち上る。 その湯気は、梓の視界を一時的に白く覆い隠し、休憩室の冷たい蛍光灯の光を、一瞬だけ柔らかく拡散させた。
「……マジで、疲れた」 間宮が、再び、心の底からの愚痴をこぼした。 彼は、昨夜のヒステリックなクレーム電話の記憶を、反芻しているようだった。
「結局さ、あの母親、なんなんだよ。本人より怒ってやがる。健太郎クン本人が、自分の意思で予約してんのにさ」 梓は、湯気で曇った自分の顔を、窓ガラスの反射に見ながら、スプーンでカップの中の黒い液体をかき混ぜ始めた。 彼女は、間宮の愚痴に、何の感情も抱かなかった。 それは、昨夜、彼女自身が、あの「音」の直撃を受けた瞬間に、すでに分析(解体)し終えた事実だったからだ。
「……自分を通さなかったことが、嫌なだけですよ」 梓の声は、立ち上る湯気と同じくらい、何の重さも持たずに吐き出された。 淡々とした、事実の確認。 それは、彼女が医学部で学んだ、症例に対する所見の述べ方と、何も変わらなかった。
「は?」 「あの母親にとって、息子はまだ自分の所有物なんです。その所有物が、自分の許可なく、自分の理解できない行動(性欲)を示した。だから、怒っている。それだけのことです」
「……うわ。お前、ほんと、ブレねえな」 間宮は、その冷徹な分析に、呆れたような、感心したような、複雑なため息をついた。
梓は、答えなかった。 ただ、カップの中の黒い液体を、無心にかき混ぜ続ける。 カシャ、カシャ、カシャ。 スプーンが、陶器のカップの縁に当たる、乾いた金属音が、静かな休憩室に響く。
カシャ。 その音。 その、硬い金属音が、彼女の耳の奥、昨夜こじ開けられた記憶の扉を、再び叩いた。
(許可を取らないなんて、何様だ!) 実の母親の、甲高い声の残響が、スプーンの金属音に、微かに重なった。 ヒステリックに歪んだ、あの顔。
カシャ。 (恥を知りなさい!) 健太郎の母親の、受話器を突き破ってきた、あの金切り声。
二つの「音」が、彼女の脳内で、完璧に一つの周波数となって共鳴する。 それは、彼女が最も忌み嫌い、その支配から逃れるために、医者という「理想」のレールを自ら踏み外してまで、この「底辺の底辺」に逃げてきた、「母親構造」という名の音色だった。
梓の、カップをかき混ぜていた手が、一瞬、止まった。 スプーンは、黒い渦の真ん中で、静止している。 白い湯気だけが、変わらず、ゆらゆらと立ち上り続けていた。
彼女の呼吸が、わずかに浅くなる。 間宮は、その一瞬の変化に気づかない。彼は、再びソファに深く沈み込み、天井を仰いで、別の愚痴をこぼし始めていた。
梓は、ゆっくりと息を吐き出した。 そして、止まっていた手を、再び、動かした。
カシャ、カシャ、カシャ。 乾いた金属音が、再び、規則正しいリズムを取り戻す。
彼女は、マグカップを両手で包み込み、その人工的な熱を、冷え切った指先に感じた。 彼女の表情は、白い光の中で、固定されたまま、変わらなかった。
夕陽は、事務所のブラインドの隙間から、鋭利な刃物のように差し込んでいた。 その橙色の光は、空気中に浮遊する無数の埃を、まるで沸騰しているかのように金色に照らし出し、床の上には、光と影の、正確な縞模様を描き出している。
事務所の空気は、昨夜のヒステリックなクレーム電話の余韻で、まだ重く、粘り気を帯びていた。 誰もが、次の「面倒事」がいつ発生するかと、疲弊しきった神経の端を尖らせている。その緊張を含んだ事務的な静寂の中を、プリンターが、次の訪問スケジュールを吐き出すための、低い駆動音だけが、ジー、ジー、と一定のリズムで滑っていた。
佐倉梓は、そのプリンターの前に立っていた。 彼女の背中は、差し込む西日に対して、完璧な影を作っている。 連勤による疲労は、彼女の全身の感覚を鈍らせ、薄い膜で覆っていたが、その指先の動きだけは、機械のように滑らかで、正確だった。 彼女は、印刷されてくる書類の束を、一枚、また一枚と、指先で捌いていく。その動作に、焦りも、迷いも、感情の揺らぎも一切ない。
カチ、カチ、と壁の時計が乾いた音を立てる。
ソファで死んだように突っ伏していた間宮が、不意に鳴り響いた内線電話のベルに、呪詛を吐きながら受話器を取った。
「……あぁ?事務所だ、クソ。……はい、はい」 間宮の、疲労で濁りきった声が、事務的に相手の言葉を繰り返す。
だが、数秒後、彼の声のトーンが変わった。 「……え?あ、はい。……ご本人、ですか。はい、確認します。少々お待ちを」
間宮は、受話器の送話口を、汗ばんだ手で慌てて覆った。 彼は、信じられないものを見るような目で、梓の背中に視線を突き刺した。
「……おい、ケイちゃん」 声が、不自然に潜められている。
「……健太郎クンからだ。本人名義で、次回の予約、入れてきたぞ」
その言葉に、事務所の空気が一瞬で凍りついた。 プリンターの駆動音が、やけに大きく響く。
間宮の視線の先、事務所の奥、半開きになった店長の部屋のドアが、ギィ、と軋む音を立てて、さらに開いた。 「マジかよ!」 店長の、苛立ちを隠さない怒鳴り声が、室内に響き渡った。
彼は、受話器から漏れる客の声などお構いなしに、こちらに向かって叫ぶ。 「昨日あれだけ揉めたんだろうが!またあの母親から電話かかってくんだろうな!面倒くせえ!断れ!適当な理由つけて断っちまえ!」
間宮の顔が、店長の怒声と、受話器の向こう側の健太郎の存在との板挟みになり、絶望的に歪んだ。 「で、でも店長、ご本人からの、正式な……」
「うるさい!面倒事はごめんだっつってんだよ!」
ジー、ジー、とプリンターの駆動音が、変わらず続いている。
梓は、その騒動に一切関知しないかのように、棚から新しいクリップボードを取り出していた。
「……ど、どうすんだよ、ケイちゃん」 間宮が、助けを求めるように、すがるような目で梓を見た。
「また来るぞ、絶対。あの母親。今度は、店に乗り込んでくるかもしれねえぞ」 ガチャン。 プリンターが、最後の印刷を終え、静止した。
梓は、吐き出されたばかりの、まだ温かい予約確認書を手に取った。 そこには、「健太郎」という名前が、無機質なゴシック体で印字されている。 本人の主体。 昨夜、あの甲高い「母親構造」の声が、あれほどまでに否定しようとした、個人の意志。 それは今、この事務所では、ただの「事務手続き」として、紙の上に確定していた。
梓は、その書類を、他の書類と合わせてクリップボードに挟んだ。 その一連の動作は、水の流れるように滑らかだった。
彼女は、初めて、怯える間宮の方へ、ゆっくりと振り返った。 ブラインドの光が、彼女の顔を半分だけ、強く照らし出す。
「来ても、同じです」 彼女の声は、西日の光と同じくらい、何の温度も持たなかった。
「……え?」
「予約は、ご本人の意思で確定しました。これは、業務です。あの人が来ても、来なくても、何も変わりません」 梓は、受話器を握りしめたまま硬直している間宮の横を通り過ぎ、そのクリップボードを、所定の「訪問予定」と書かれた棚に戻した。
「誰も止められない」 その冷たい肯定の言葉は、健太郎の主体性を指しているようでもあり、あるいは、昨夜、彼女の脳内で共鳴した「母親の支配」という古い構造から逃れようとする、この世の全ての人間について語っているようでもあった。
彼女は、棚に背を向けた。 事務所は、店長の苛立った舌打ちの音と、間宮の絶望的なため息と、そして、ブラインドの隙間から差し込む光の中で、静止していた。
鏡が、蛍光灯の、感情を殺した白い光を、そのまま跳ね返していた。 控室の空気は、昨夜の湿気を含んだ外気とは対照的に、エアコンディショニングによって乾燥し、人工的に管理されている。その無機質な空間で、佐倉梓は、スチール製のロッカーの前に、ただ立っていた。
シフトが終わり、身体は、鉛を詰め込まれた袋のように重い。 連勤による疲弊と、慢性的な睡眠不足が、彼女の思考を、粘度の高い液体のように鈍らせている。 鬱気味の精神状態は、この蛍光灯の光を、さらに冷たく、突き刺すようなものとして認識させていた。
「お疲れ様、ケイちゃん」 背後で、明るい声がした。 振り返るまでもない。アズマだ。 彼女は、梓とは対照的に、まるで疲労という概念を知らないかのように、軽やかな足取りで控室に入ってきた。そして、梓の隣、自分専用のロッカーの前で立ち止まる。
アズマは、その「一般的に美女」と呼ばれる顔を、鏡に映しながら、満足げにため息をついた。 「あー、今日も頑張った。やっぱり、仕事の後のこの解放感、たまんないよね」 彼女は、昨日とは違う、新しいグロスを唇に塗りながら、鏡の中の梓に笑いかけた。
梓は、答えない。 彼女は、アズマのその屈託のない明るさが、自分の中の、重く沈殿した疲労と、どうしようもなく対照的であることだけを、ぼんやりと認識していた。
(この人は、強い) いや、違う。 (この人は、知らないだけだ) この「底辺の底辺」と呼ばれる場所の、本当の暗さ、どうにもならなさを。
アズマは、梓の沈黙を、いつもの「疲れ」として解釈したようだった。 彼女は、ポーチにグロスをしまいながら、昨日の騒動を思い出したかのように、明るい笑い声を立てた。
「そういえばさ、昨日のお母さん。すごかったね、電話。ああいうヒスっちゃう客、どこにでもいるよね。本当に」 アズマは、それを「よくあるトラブル」の一つとして、軽く片付けた。 彼女にとって、あの甲高いヒステリックな「音」は、通り過ぎてしまえば忘れていい、ただのノイズだった。
その認識が、梓の、疲労で鈍った思考の表面を、鋭く引っ掻いた。 (どこにでも、いる) それは、事実だ。 梓自身が、昨夜、帰り道で「形」として理解したことだ。健太郎の母親も、実の母親も、同じ「母親構造」の反響にすぎない。アズマの認識は、表層的ではあるが、間違ってはいない。 だが、アズマは、その「次」を見ていない。
梓は、ロッカーの冷たい金属の扉に、指先で触れた。 ひやり、とした感触が、皮膚から伝わる。
「……いるね」 梓の声は、低く、乾いていた。 ロッカーの中で、何かがカサリ、と音を立てる。
「でも」 彼女は、鏡の中のアズマではなく、鏡に映る、疲弊しきった自分自身の、焦点の合わない瞳を見つめながら、続けた。 「誰も、“いなくなった後”に、何が残るかなんて見ない」
その言葉は、アズマの明るい笑い声が作った空気を、一瞬で凍結させた。
「……え?」 アズマは、鏡越しに、きょとんとした顔で梓を見た。 その美しい顔が、梓の言葉の意味を、理解できずに停止している。
「“いなくなった後”って……なに?どういうこと?」 アズマは、この気まずい沈黙を、いつものように笑顔で流そうとした。 「もー、ケイちゃん、また難しいこと言ってる。哲学者みたい」
彼女は、そう言って、茶化すように笑った。 だが、梓は、もうそれ以上、何も言わなかった。 会話は、切られた。
これ以上、言葉を重ねても、この「柔らかさ」を持つ人間には、あの「音」が残した、硬く、冷たい残響――あの「壊れ方」の構造は、伝わらない。
アズマは、「いなくなった後」に何が残るかなど、考える必要のない世界で生きている。
梓の視線が、鏡の中のアズマから、ゆっくりと下へ落ちた。 アズマの手元。 彼女が、ロッカーの鍵を取り出すために、化粧ポーチを漁っている、その指先。
昨日も見た、完璧に手入れされた、淡いピンク色のネイル。 蛍光灯の光を、滑らかに反射している。
その爪は、この数日間の過酷な連勤や、ヒステリックなクレーム電話という現実の中で、一切、傷ついていない。
(生活の継続) それは、自分にはないものだった。
疲労に屈せず、鬱に沈まず、自分自身を「美しく」保つための、時間と、気力と、金銭。
それは、明日も今日と同じように「生活が続く」と信じている人間だけが持つことのできる、輝きだった。
梓には、ない。 彼女の生活は、この過酷な労働の中で、ただ「継続」しているだけだ。 彼女の指先は、医学知識を適用し、客の「現象」を「確認」するための、冷たい道具だ。
(依存) この美しい指先が、この屈託のない明るさが、自分を無意識に引き寄せる。
自分に「ない」ものを持っているからこそ、寄りかかりたくなる。
梓は、アズマのネイルから、視線を奪うように、自分のロッカーの扉を、強く開けた。 ガタン、と金属が擦れる、乱暴な音が響く。
「……着替える」 アズマが、その音に、びくりと肩を震わせた。
梓は、それに気づかないふりをして、ロッカーの暗い内部に、疲弊しきった身体を、押し込むように向けていた。
雨の匂いが、アスファルトから立ち上っていた。 数時間前に通り過ぎた雨雲が残していった湿気は、夜の冷たい空気と混じり合い、肌にまとわりつく、重いヴェールとなっている。アパートへの帰路は、いつもよりも暗く、静まり返っていた。
佐倉梓は、その湿気の中を、まるで水底を歩くように、重い足取りで進んでいた。 遠く、幹線道路を走る車の、水たまりを切り裂く音だけが、この静寂の中で、唯一の現実的な音として鼓膜に届く。
連勤による極度の疲労が、彼女の思考を鈍らせている。 鬱気味の精神状態は、この薄暗い夜道を、さらに彩度の低い、モノクロームの風景として網膜に映し出す。
今、彼女の意識を占めているのは、ただ、早くこの湿った作業着を脱ぎ、清潔とは言えないが、かろうじて「自分だけの」空間である、あのアパートの部屋に戻りたいという、生物的な欲求だけだった。
その、鈍くなった思考の表面を、不意に、あの「音」が引っ掻いた。 (私を無視して!) 甲高い、ヒステリックな「音」。 今日、受話器の向こう側で聞いた、健太郎の母親の声。 それは、もはや「声」ではなく、彼女の記憶にこびりついた、不快な「周波数」として再生される。
(恥を知りなさい!) (あなたのために!) ピチャンと、どこかの屋根から、水滴が落ちる音がした。
その音を合図にするかのように、彼女の脳内で、別の「音」が重なり始めた。 もっと古く、もっと深く、彼女の存在の根幹にまで染み付いた、実の母親の声。
(許可を取らないなんて、何様だ!) (私の言うことが聞けないのか!)
二つの「音」が、彼女の頭の中で混じり合う。 それは、違う人間が、違う場所で、違う日時に発した言葉のはずだった。 だが、その「音色」は、驚くほどに、似ていた。 いや、同じだった。
他者の意志を許さず、自分の支配下から逸脱したものを、力の限り罵倒し、自己の正当性だけを叫び続ける、甲高い、耳障りな、同一の響き。
梓は、立ち止まった。 アパートまで、あと数ブロック。 古い商店街の、今はもうシャッターが錆びついたままの、アーケードの入り口。 彼女は、まるで金縛りにあったかのように、その場に立ち尽くした。
(うるさい) そう思ったのは、怒りからではなかった。 ただ、その「音」が、あまりにも大きく、不規則に反響し続けるため、彼女の疲弊しきった思考が、正常に機能しなくなることへの、生理的な拒否反応だった。
「あなたのために」 「私を無視して」 「恥を知りなさい」 「何様だ」
言葉の意味は、もう、どうでもよかった。 それらは、ただの「音」の構成要素にすぎない。
重要なのは、その「音色」が、健太郎の母親も、実の母親も、そしておそらく、この世界の、似たような状況にある無数の人間たちによって、寸分違わず、同じように再生され続けているという、その「事実」だった。 彼女たちもまた、その「音」を、自分たちの母親から受け継いできたのかもしれない。
梓は、ゆっくりと息を吐き出した。 怒りではない。 悲しみでもない。 諦めですらない。
それは、分析でもなかった。 ただ、「形」として、理解しただけだった。
この「音」は、特定の個人が発生させているものではなく、この社会の、どうにもできない「構造」そのものが発している、環境音なのだと。
そう理解した瞬間、あれほどうるさく響いていた「音」が、ス、と遠ざかっていく。 それは、消えたのではない。
遠くを走る車の音や、ひさしから落ちる水滴の音と、同じレベルの、「背景」へと溶け込んでいっただけだ。
彼女は、自分がいる場所が、どうにもできない「底辺の底辺」であり、ここで聞こえる「音」もまた、どうにもできない「構造」の反響であるという、冷たい現実を、ただ、受け入れた。
彼女は、視線を落とした。 足元には、雨水が溜まった、小さな水たまりができていた。 その黒い水面が、アーケードの入り口に立つ、古びた橙色の街灯の光を、歪めて映し出している。
ピチャン。 また、どこからか、一滴の水滴が落ちた。
水たまりに映った、橙色の街灯の光が、その一滴によって、ぐにゃりと揺らいだ。 光の形は、一瞬で崩れ、水面の暗がりへと、静かに沈んでいった。
梓は、再び、アパートに向かって、重い足を、一歩、踏み出した。
乾いた光が、事務所の床に、埃の影を長く引き伸ばしていた。 それは、早朝の湿り気も、西日のような粘り気も含まない、昼過ぎの、ただそこにあるというだけの平板な光だった。 その光が、何日も掃除されていない窓ガラスを通り抜け、室内に溜まった澱んだ空気を、まるでレントゲン写真のように無慈悲に照らし出している。
佐倉梓は、その光の中で、昨日と何も変わらない事務作業を続けていた。 彼女の指先だけが、彼女の意志とは別の、独立した生き物のように、キーボードの上を規則正しく叩き続けている。 カチカチ、という乾いた音が、壁の時計の秒針の音と、不規則に重なっては、また離れた。
連勤による極度の疲労は、もはや彼女の標準状態だった。 身体は、常に薄い鉛の膜で覆われているかのように重く、思考は、鬱気味の精神状態によって、その明晰さを鈍らせている。
昨夜、彼女が自らの冷徹な言葉でアズマを拒絶したこと――あの「柔らかさ」に依存しかけている自分(無意識)を守るための、防衛的な攻撃――その記憶もまた、この重い疲労の中に、小さな棘のように残っていた。 だが、彼女の作業は、完璧だった。 感情がどうであれ、疲労がどうであれ、彼女がここで生きる術は、この「論理的な」作業を、正確無比に遂行することだけだ。
その、乾いた静寂の中を、プリンターが、次の訪問スケジュールを吐き出すための、低い駆動音だけが、ジー、ジー、と一定のリズムで滑っていた。
ドアが乱暴に開けられる音が破った。 「っしゃあ!」 間宮だった。彼は、ここ数日間の、ソファに沈み込む死体のような姿とは、まるで別人のように、妙に高揚していた。その灰色にむくんだ顔は、寝不足の疲労と、アドレナリンが混じり合った、不健康な赤みを帯びている。
「おい、ケイちゃん!聞いたかよ!」 間宮は、自分のデスクに鞄を放り投げるように置くと、梓のデスクに勢いよく寄りかかった。
梓は、キーボードを打つ手を止めない。 視線も、画面に表示された数字の羅列から動かさない。 彼女の集中を、外部のノイズで乱すことは、もはや誰にもできなかった。
「聞いてんのかよ!健太郎クンの件だよ!」 間宮は、梓のその無反応さに、わずかに苛立ちながらも、それ以上に、この「ニュース」を誰かに吐き出したいという欲求が勝っているようだった。
「店長、やったぞ、マジで!」 彼は、まるで劇の一場面を語るかのように、芝居がかった声色で続けた。 「さっき、あのヒステリックな母親に、店長が直接、電話しやがった!」
その言葉に、梓の指が、一瞬だけ、止まった。
(店長が?) 彼女の分析では、あの店長は、昨日の電話で「適当にあしらっとけ」と叫んだ、典型的な「事なかれ主義」の人間のはずだった。 それは、あの「母親構造」という名の、ヒステリックな「音」の前では、最も無力な存在のはずだった。
間宮は、梓が初めて反応を示したのを見て、満足げに続けた。 「俺も、横で聞いててビビったぜ。『ご予約は、ご本人の意思で確定しております』『これ以上の妨害行為は、業務妨害として警察に通報します』――だとよ」
間宮は、信じられないというように、大げさに肩をすくめた。 「『つきましては、今後、お母様が店に立ち入ることは、契約者のご意志に基づき、一切を禁止させていただきます』って!」
「……スッゲー揉めてたけどな。電話の向こうで、また金切り声上げてたけど、店長、一歩も引かねえの。『これは、うちの店の“ルール”なんで』の一点張りだ」
(ルール) その単語が、梓の思考の中で、予期せぬ重さを持って響いた。
梓は、ゆっくりと顔を上げた。 彼女は、高揚している間宮を見ていなかった。彼女の視線は、間宮の背後、乾いた光が差し込む、埃っぽい窓の外へと向けられていた。
昨日、彼女は、あの「母親構造」の「音」を、「どうにもできない環境音」として理解した。 それは、彼女の実の母親が、彼女の「医者になる」という論理的なレールを、「あなたのために」という感情的な「音」で破壊した、あの混沌(カオス)そのものだった。 彼女は、あの「音」からは、逃げるしかないと知っていた。
だが、今日。 この「底辺の底辺」と呼ばれる、どうにもできない場所で。 あの、無気力で、事なかれ主義だと分析していた店長が、その「音」に対し、「契約」と「ルール」という、絶対的な「論理」の盾を持って、対峙した。 そして、押し切った。
彼女は、この「底辺の底辺」こそが、最も「論理」から遠い、混沌とした場所だと信じていた。 だが、違った。 この、どうにもできない場所でこそ、最低限の「ルール」が、秩序を保つための、最後の砦として機能していた。
それは、彼女がかつて学んだ、医学の「手順(プロトコル)」が、患者の生死を分ける、最後の砦であることと、奇妙なほど似ていた。
「……論理を持つ人間が、一人でもいれば」 梓の声は、乾いた光と同じくらい、平坦だった。
「はあ?なんだよ、急に。哲学か?」 間宮は、梓の言葉の意味が分からず、不機嫌そうに眉をひそめた。
「ま、とにかく!これで一件落着だろ。あのババア、もう乗り込んでは来ねえよ。さすがにビビっただろ」
梓は、もう間宮を見ていなかった。 彼女は、キーボードの上に、指を戻す。
世界は、崩れていなかった。 あのヒステリックな「音」が支配する混沌ではなく、冷たいが、明確な「ルール」が、この場所を、かろうじて支えていた。
(世界は、まだ崩れていない) その、冷たい安堵が、彼女の疲弊しきった精神の底に、静かに落ちていく。
遠く、店の入り口の方で、来客を告げるチャイムの音が、チリン、と乾いたベル音となって、この静かな事務所まで、微かに響いてきた。
鏡が蛍光灯の感情を殺した白い光をそのまま跳ね返していた。 控室の空気は昨夜の湿気を含んだ外気とは対照的に、エアコンディショニングによって乾燥し人工的に管理されている。その無機質な空間で、佐倉梓はスチール製のロッカーの前にただ立っていた。
一人はアズマ。 彼女はこの無機質な光の中にあっても、まるで内側から発光しているかのように、その「柔らかさ」と「美しさ」を保っていた。彼女は新しく購入したらしいリップグロスを唇に乗せながら、鏡の中の自分に満足げに微笑んでいる。その仕草一つ一つが、彼女の持つ「生命」の肯定だった。
もう一人は佐倉梓。 彼女はアズマの数歩後ろ、光がわずかに届かない影の境界線に立っていた。 彼女の身体は連勤による疲弊によって、もはや他人のもののように重く鈍い。 鬱気味の精神状態は、この蛍光灯の光をさらに冷たく突き刺すようなものとして認識させていた。
昨日店長が下した「ルール」という名の「論理」。 それは梓が逃げ込んできたこの「底辺の底辺」が、彼女を支配したあの「母親構造」の混沌(カオス)とは違う、冷たい秩序によって守られているという驚くべき発見だった。
(論理は世界を支える) その理解は、彼女の中で一つの確信に変わっていた。
そしてその確信は、彼女がこれまで無意識に抱いていた「依存」――アズマの持つ、論理から最も遠い「温かさ」への、あの甘い寄りかかり――を、今、明確な「敵」として定義づけていた。
アズマの「温かさ」や「信じる」という感情論は、あの「母親構造」が使う「あなたのために」という言葉と同質の危険な混沌だ。 それは人を救うのではなく、人を支配し、判断を鈍らせ、最終的にはあのヒステリックな「音」へと変わる。 自分はもう二度とあの混沌には戻らない。
梓は鏡に映る疲弊しきった自分自身の冷たい瞳だけを見つめていた。
アズマが唇の仕上がりを確認し終えると、ふと鏡越しに梓のその尋常ではないほどの静けさに気づいた。 昨夜梓の冷たい言葉によって拒絶されたあの路地裏の湿った空気が、この乾いた控室にまで蘇ってきたかのようだった。
アズマは努めて明るい声を作った。 「……ケイちゃん、昨日の電話の件、店長がガツンと言ってくれたんだってね。間宮さんから聞いたよ。よかったじゃん、これで一安心だ」 アズマはそれが「共感」であり「慰め」であると信じて微笑みかけた。
だが梓はその「温かさ」を、まるで汚物でも見るかのように心の中で拒絶した。
「……よかった、ですか」 梓の声は蛍光灯の光よりも冷たかった。
「何がです。 業務上のトラブルが ルールに則って処理された。 ただそれだけのこと。 そこに良かったも悪かったもありません」
アズマの完璧に引かれた唇のラインがわずかに引きつった。 彼女の明るさが梓のその絶対的な「論理」の壁にぶつかり、音を立てて砕けた。
「……なんでそんな言い方するの」 アズマの声からさきほどの明るさが消え、戸惑いとわずかな非難の色が混じる。
「私、ケイちゃんのこと心配して……」 「やめてください」 梓の言葉がアズマの言葉を遮った。
その声は小さかったが、この部屋の空気を切り裂くほどの鋭利な刃物となっていた。
「……冷たいね、ケイちゃん」 アズマはもう笑っていなかった。 その美しい顔には、梓の理解できないほどの冷徹さに対する純粋な戸惑いと、そして拒絶されたことによるどうしようもない寂しさが浮かんでいた。
(冷たい) その言葉は梓にとって非難ではなく、むしろ自分が今正しく「論理」の側に立っていることの証明だった。
(温かさ) 彼女の脳裏に実の母親のあのヒステリックな「愛」が蘇る。 それは彼女を支配し、彼女の論理を焼き尽くそうとした暴力的な炎だった。 温かさとは安定した状態ではない。 それは何かが制御不能に消費されていく過程の副産物にすぎない。
梓は鏡の中のアズマから視線を逸らした。 彼女のその傷ついたような寂しげな表情をこれ以上見てはいけない。 それを見れば自分の鬱気味の精神があの「依存」の甘さを思い出し、せっかく築いた「論理」の壁が崩れてしまうかもしれないからだ。
彼女は鏡に映る自分自身の冷たい瞳だけを見据え続けた。
「温かさなんてものは」 梓は独り言のように静かに呟いた。
「それが燃え上がって何かを破壊している時にしか役に立たない」 アズマは息を呑んだ。
彼女はその言葉のあまりにも絶望的な意味を理解してしまった。 梓が彼女の持つ「温かさ」や「共感」をただの「破壊のエネルギー」としてしか見ていないというその事実を。
アズマはもう何も言えなかった。 彼女のさきほどまで血の通っていたはずの微笑みは、今はもうただの寂しさの抜け殻となってその顔に張り付いている。
梓はアズマに視線を向けない。 決して向けない。
二人の間にはもはや言葉は存在しなかった。 ただ控室の天井の隅にある換気口から聞こえるサーという風の音だけが、そのどうしようもない断絶の隙間を無感情に埋め続けていた。
部屋の空気は前回訪れた時と何も変わっていなかった。 人工的に管理された湿度。医療施設に特有の清潔だが、生の匂いを一切拒絶した消毒液の微かな香り。そして、部屋の隅でサーという低い駆動音を立て続ける換気扇。その音だけがこの部屋の時間の流れを無感情に定義しているようだった。
佐倉梓はその部屋の中央に立ち、電動車椅子に座る健太郎を見下ろしていた。 いや、彼女が見ていたのは、健太郎という「個人」ではない。彼女の目は、彼の身体の、前回よりもわずかに進行した「状態」を冷静に観察していた。
(頚部の筋力低下が顕著。頭部を支える力が、前回よりも明らかに失われている)
健太郎の顔は以前よりもわずかに下を向き、その視線を梓に向けることすら困難になっているように見えた。皮膚の血色も前回より悪い。連勤の疲労で鬱気味の梓自身の顔色と、どちらがより不健康か張り合っているかのようだ。
(病状は確実に進行している) その事実は、彼女の心を一切揺さぶらなかった。
それは医学生だった頃に学んだ、教科書通りのどうにもできない現実(予後)だ。彼女が今から行うことは、この「どうにもできない未来」に対して何一つ介入するものではない。「治療」ではない。
彼女がアズマの「温かさ」を拒絶した時、彼女の中で、この仕事の定義はより硬く、冷たく、明確なものへと再構築されていた。
アズマの言う「温かさ」や「信じる」という感情論は、あのヒステリックな「母親構造」の混沌(カオス)と同質だ。それは論理を破壊し、人を支配し、どうにもならない現実から目をそらすための麻薬でしかない。 この「底辺の底辺」を支えているのは、感情ではない。 店長が母親のヒステリーを退けた、「ルール」という名の冷たい「論理」だ。
そして、今から梓が行うこともまた、その「論理」の延長線上にある。
梓は持参したバッグから、使い捨てのラテックス手袋を取り出した。 カサカサ、キュ、と乾いた摩擦音が、換気扇の低い駆動音の合間に響く。
その音が、彼女の意識を最後の「佐倉梓」という個人的な疲労から切り離し、「ケイ」という名の、完璧な「論理(手順)」を遂行するだけの存在へと変えた。
「……失礼します」 前回と同じ、温度のない声。
彼女は健太郎の身体を、前回よりもさらに丁寧な、だが一切の躊躇のない動作でベッドへと移した。彼の身体は前回よりも軽く感じられた。失われた筋肉の重さだ。
体位調整。除圧クッションの配置。 すべてが定められた手順通りに、一定の「テンポ」で進められていく。 メトロノームが彼女の頭の中で、無音のリズムを刻んでいるかのようだった。
トン、トン、トン。 シーツを整える音。クッションを差し込む圧。
彼女の動作にはアズマが持つような「柔らかさ」は一切ない。 だが、そこには完璧に訓練された外科医の手術器具が持つような、絶対的な「正確さ」があった。
「……始めます」 彼女の手が健太郎の身体に触れた。
前回と同じ場所。神経がまだかろうじて生きている、末梢の部分。 彼女は指を動かし始めた。 その動きもまた、一定の「テンポ」を刻んでいる。
押す、引く、擦る、叩く。 その全てが感情的な愛撫ではなく、論理的な刺激の入力だった。
パサ、パサ、パサ。 シーツと彼女の手袋、そして健太郎の皮膚が擦れる、乾いた音だけが部屋に響く。
彼女の呼吸もその「テンポ」に同調し、浅く規則正しく繰り返される。 健太郎の呼吸もまた、その「テンポ」に引きずられるように徐々にリズムを合わせていく。
これは「未来(治療)」への行為ではない。 これは「過去(感情)」への行為でもない。 これはただ、「現在(いま、ここ)」に健太郎の身体が「存在」していることを、彼女の「論理(手順)」によって「確認」し、証明するためだけの行為だった。
彼女は健太郎の身体が発する、微細な「反応」を待っていた。 だが、それは前回のような、激しい痙攣や涙といった、感情的な「現象」であってはならなかった。
(論理は静かだ) (温かさは燃える時しか役に立たない)
彼女はアズマに放った、あの冷たい言葉を、この一定の「テンポ」の中で反芻していた。 あの言葉は正しかった。 アズマの「温かさ」は、健太郎のこの「どうにもならない未来」の前では、何の役にも立たない。それどころか、無責任な「希望」という名の毒を与え、彼を、そして自分自身を、混沌(カオス)に突き落とすだけだ。
必要なのは論理。 この「現在」を正確に認識し、受け入れる、冷たい「テンポ」だけだ。
パサ、パサ、パサ。 布擦れの音と二人の呼吸音だけが、部屋の中で一定のリズムを刻み続ける。
どれくらいの時間がその「テンポ」の中で過ぎ去っただろうか。 梓の指がある一点に、定められた通りの圧力を加えた、その瞬間。
健太郎の、浅く規則正しかった呼吸が、 ―――スッ、 と、ほんの0.5秒だけ深くなった。
そして、彼の頬の血の気を失っていた皮膚が、その部分だけわずかに赤く色づいた。 それだけだった。
前回のような、激しい痙攣も、涙も、声もない。 ただ、彼の「存在」が、彼女の「論理(刺激)」に対して、「現在(いま、ここ)」で、確かに「応答」したという、微細な、だが絶対的な「事実」だけが、そこにあった。
梓はその「現象」を冷静に観察した。 感情は動かない。 ただ、「論理」が「存在」を確認した。
彼女は手を止めない。 その微細な反応をさらに引き出そうと、力を強めたりはしない。 それは「感情」の領域だ。
彼女はただ、定められた「テンポ」を最後まで正確に、繰り返し続けた。 パサ、パサ、パサ。
やがて、メトロノームの針が最後の音を刻み終えるように、 梓の手がゆっくりと止まった。
一定の「テンポ」が終わり、部屋に完全な静寂が訪れた。 その静寂の中に、今まで「テンポ」の裏側に隠れていた、現実の「音」がゆっくりと戻ってくる。
サー、という、換気扇の低い駆動音。 窓の外、遠くを走る、救急車のサイレンの音。 階下の部屋から、微かに聞こえる、テレビの笑い声。
梓は健太郎の顔を見た。 彼は目を閉じていた。
だが、その表情は前回、激しい「現象」の後に見せた、消耗しきった虚無の表情ではなかった。 そこには何もなかった。 ただ、深く静かに眠っているかのような、穏やかな無があるだけだった。
梓は静かに立ち上がった。 彼女の「論理」は正しかった。 この「どうにもできない場所」で、必要なのは、混沌(カオス)としての「温かさ」ではなく、秩序(コスモス)としての「冷たさ」なのだと、彼女は、その静寂の中で確信していた。
控室の天井の隅に備え付けられた橙色の照明が、薄暗い部屋の空気を、暖色とは言い難い、疲弊した色彩で照らしている。 それは夜の帳が降りる前の、曖昧な時間帯の光だった。
佐倉梓は、その橙色の照明の下で、自分のロッカーの扉を静かに閉じた。 彼女の身体は、最後の気力を振り絞って行われた施術、そしてその後の事務作業によって、完全に空洞化していた。連勤の疲労と、鬱気味の精神状態は、彼女の皮膚と骨の間に重い影を落としている。
だが、彼女の顔には安堵の色はなかった。 安堵とは、緊張からの解放であり、「感情」の領域だ。彼女の心に残っているのは、「論理」が「混沌(カオス)」を退け、「安定」を勝ち取ったという冷たい確信だけだった。
「お疲れ様、ケイちゃん」 間宮が、いつもの疲れた声で、部屋の隅から声をかけた。 彼は、ソファに深々と腰掛け、次の客のリストを、生気の抜けた目で眺めている。
「お疲れ様です」 梓はその言葉に、全く同じ温度の無機質な返答を返した。 感情の交換はない。これはこの「底辺の底辺」で生き残るための最小限の社交辞令だ。
その時、ガチャリ、と扉が開き、アズマが入ってきた。 彼女は、一瞬、梓と目が合ったが、すぐに視線を逸らした。 前回、梓の「温かさは燃える時しか役に立たない」という冷徹な言葉によって、彼女の持つ「柔らかさ」は明確に拒絶された。二人の間には、もはや昨日のような親密さの影すら存在しなかった。
アズマは、自分のロッカーに向かい、小さく、そして努めて明るい声で、 「……お疲れ様、ケイちゃん」 とだけ言った。
「お疲れ様です」 梓は、それ以上の言葉を交わさなかった。 アズマの存在は、今や、彼女の「論理」を揺さぶる危険な「温かさ」ではなく、ただの「同僚」という客観的な記号でしかなかった。
間宮が、ロッカーの前で静止している梓を見て、あくびを噛み殺しながら言った。 「……お前さ、顔色悪すぎだろ。たまには休めよ。いくらなんでも、このままじゃブッ倒れるぞ」
梓は彼の方を向かない。 彼女は、壁に掛けられた鏡に、自分の全身を映し出した。 そこには、連勤で顔色は青白く、目の下には深い隈を刻んだ、疲弊しきった一人の女が立っていた。
だが、その瞳だけは濁っていなかった。 その目は、彼女が選んだ「論理」の冷たさで、鏡の中の自分自身を鋭く観察している。
(変わる) あの、ヒステリックな「母親構造」の混沌から逃れるためには、自分は「変わらなければならない」と思っていた。
だが、あの母親たちと同じ「音」を出す人間を、店長が「ルール」で退けたことで、その認識が変わった。
(変わらなくてもいい) この過酷な労働の中で、自分の精神を崩壊させずに「安定」させるためには、鬱気味の自分を、これ以上、追い詰める必要はない。
「変わる」ことは、エネルギーを消費する「変動」であり、それは「温かさ」と同じく、混沌(カオス)の領域だ。
「……変わる余裕は、ないんですよ」 彼女の声は独り言のようだった。 間宮への答えではない。 それは鏡の中の、疲弊しきった自分自身への、「論理」に基づいた冷たい自己確認だった。
「変われないこと」こそが、今、この「底辺の底辺」で、自分をギリギリのところで支えている、「救いの裏返し」なのだと。
梓は、鏡の中の自分の瞳を、最後まで見つめ続けた。 彼女の瞳に映っているのは、一人の女ではない。 **「職業としての自分」**という名の、冷たい「論理」の防衛壁だった。
彼女はその「安定」を確認し終えると、ゆっくりと鏡から視線を外し、控室の扉へと向かった。 チリン、と遠くで、来客を告げるベル音がした。 店の外は、もうすっかり夜の帳が降り、橙色の照明だけが、薄暗い路地裏を、不健康な色で照らしている。どこか遠くで、水たまりに落ちる水滴の音だけが、不規則に聞こえていた。
事務所にはまだ夜の冷気が残っていた。 早朝の薄い光が、窓ガラスの汚れを通り抜け、室内に溜まった澱んだ空気を均一に照らしている。壁にかけられた時計の針はまだ六時を指したばかりだ。
佐倉梓は、自分のデスクの上で、最終訪問のためのチェックリストを広げていた。 紙は、彼女の仕事において最も信頼できる存在だった。そこには感情も期待も支配的な「音」も存在しない。あるのは、イエスかノーかで答えられる、「論理」と「手順」という名の冷たい秩序だけだ。
彼女の身体は、連勤の疲労と鬱気味の精神状態によって鉛のように重い。だが、彼女の思考は、その疲労とは無関係に、昨夜得た「安定」の上で冷徹な明晰さを保っていた。
間宮は向かいのソファで、昨夜から続く寝不足のせいで灰色の顔をしたまま突っ伏している。彼は、梓の立てる微かな紙の音以外、意識がないかのようだ。
梓は彼に声をかけない。 会話は不要だ。 彼女は、チェックリストの項目を自分の指先で一つ一つ追っていく。
「備品の確認」 梓はリストの最初の項目に、細いボールペンの先端を当てた。 そして、無言で間宮の方に視線を送る。
間宮はその視線を受けて、呻き声と共に身体を起こした。 彼は何も言わない。梓との間には、言葉を介さない、長時間の共同作業によって確立された非言語的な手順がある。
彼はテーブルの上の段ボール箱から、滅菌済みのラテックス手袋の箱を取り出し、梓のデスクに滑らせた。 サリ、サリ、と、紙とダンボールが擦れる乾いた音が響く。
梓はそれを手に取り、チェックリストの最初の項目に、迷いのない正確な線で、チェックマークを書き入れた。
「薬剤の準備」 次の項目に、ペンの先端を移す。 再び、間宮に視線を送る。
間宮は今度は、ポーチに収められた消毒液と、使い捨ての潤滑剤のパックを取り出した。それらを梓のデスクに置く。プラスチックとプラスチックが触れ合う、微かな乾いた音。
梓はそれを確認する。その薬剤は、健太郎の皮膚に、前回問題を引き起こさなかったことを彼女は記憶していた。彼女の脳内にあるのは、感情ではなく、過去の「データ」だ。
ペンが次のチェックマークを書き込む。
(論理。論理が、私を支える) 彼女は、この無機質な段取りそのものが、あのヒステリックな「母親構造」という名の「混沌(カオス)」から世界を守る、唯一の「秩序(コスモス)」であることを知っていた。この行為は、彼女の鬱気味の精神を、かろうじて現実に繋ぎ止めるための命綱だ。
彼女の指先が、チェックリストの項目を追うたびに、乾いた「紙の擦過音」が、部屋の中に一定のリズムで響き続ける。
「移動経路の確認」 梓は目線を間宮に移した。
間宮は今度こそ、面倒くさそうに頭を掻きながら、小さく呟いた。 「……いつもの経路でいいだろ。もう、あのババアは来ねえよ。店長が、ケツ持ってくれたんだから」 彼の言葉には、安心ではなく、ただ疲労だけが滲んでいた。
彼は、店長が「ルール」で対抗したという事実を、個人的な「面倒事の回避」としてしか捉えていない。
梓は彼の言葉を無視した。 彼女はチェックリストの項目を指で叩く。
「口頭での確認は不要です。書面でお願いします」
間宮は面倒くさそうにため息をついた。その息は、前の日から持ち越された疲労の匂いがした。
彼は地図のコピーを取り出し、主要な交差点と、万が一の迂回経路を、油性のマーカーで印をつけ始めた。 サリサリサリ。 マーカーのペン先が紙に走る乾いた音が響く。
(万が一の備え。それは、感情ではできない)
梓の脳内では、「ルール」がさらに強固なものとして組み上げられていく。 彼女は、間宮が地図に印をつけ終えるのを待ち、その地図を受け取ると、チェックマークを書き込んだ。そのペンのインクが、地図の紙の上に、冷たい黒い痕跡を残す。
「顧客情報の最終確認」 彼女は健太郎のカルテを手に取った。
そこには、病状の進行、前回施術後の反応、そして、母親からのクレームの経緯が事務的に記録されている。
彼女は、その記録の中に、感情的な「揺らぎ」を探す。 あの、健太郎の目尻から流れた一筋の涙(会話③)。 あの、アズマの指先(会話⑭)。
だが、記録にはない。あるのは、数字と事実、そして「論理」だけだ。
(この無機質な記録こそが、私を救う)
彼女は、カルテの最終確認の項目にチェックを入れ、静かにそれを閉じた。 カサカサ、サリサリ。 紙と紙が擦れ合う、規則的な音が、この早朝の事務所で、まるで彼女の心臓の鼓動のように持続的に響き続ける。
全ての段取りが、これで整った。
梓は、疲労で鉛のように重い身体をゆっくりと立ち上がらせる。
「間宮さん」 「あぁ?」
「出発します」
間宮は、返事をする前に、再びソファに沈み込んだ。 梓は、それ以上何も言わない。
彼女は、書類の束を小脇に抱え、事務所の扉に向かって静かに歩き出した。 デスクの上には、間宮が吸い殻を放置した灰皿と、そして、彼女が最後まで無言で処理し終えた、数枚の紙のコピーが静かに残されていた。
部屋の空気は前回訪れた時と全く変わらない冷たさと清潔さを保っていた。 その中に人工的な空調の音と、そして、健太郎の静かだが浅い呼吸音が響いている。この最終施術は、梓にとってすでに感情を排除した「業務」であり、論理の最終確認の場だった。
梓は手袋をはめ、無言で健太郎の横に立った。 前回の訪問から、健太郎の身体の動きはわずかだが確実に鈍くなっている。彼の視線は天井を向いたまま、彼女に気づいているのかどうかすら定かではない。
「……失礼します」 彼女の言葉は、必要最小限の作業報告だった。
梓はまず彼の体位を調整する。身体を支える筋肉が前回よりもさらに弛緩しているため、関節を支える手の角度を前回よりも数ミリ単位で調整する必要があった。
(肘関節は三頭筋の緊張が消失。前腕が過伸展しないよう、角度を十度浅く)
彼女の脳内では解剖図と数値計算が同時に進行している。 彼女の指先が触れる。それは感情的な愛撫とは最も遠い場所にある、「完璧な技術」だった。
触れる角度。 彼女の指は、筋組織が最も緊張を強いられない、皮膚に対して常に七十度の角度を保つ。それは健太郎の身体に無駄な抵抗を生じさせないための、最も「客観的」な角度だ。
触れる圧。 力は常に一定。迷走神経を刺激しすぎることなく、しかし、末梢神経がその刺激を確実に脳へと伝達できるよう、最小限の力を維持する。それは前回、彼女がアズマに放った「温かさは燃える時しか役に立たない」という言葉の逆説的な実行だった。 温かさ(感情)は混沌を生む。冷たさ(論理)は秩序(コスモス)を生む。
触れる時間。 一箇所に留まるのは四秒。そして次の箇所へ移動する前に二秒の「間」を置く。その間は、彼の身体が前の刺激を処理し次の刺激を受け入れるための猶予時間だ。この精密なテンポが、彼女の脳内にあるメトロノームによって規則正しく刻まれている。
パサ、パサ、パサ。 布擦れの音だけが部屋に響く。
梓の呼吸は規則正しく浅い。 健太郎は目を閉じている。彼の身体は、梓のこの冷徹な「論理(手順)」を完全に信頼し受け入れているようだった。
梓は、この行為の中に、前回まで感じていた、自己への罰(親への反抗)という感情をもう探さなかった。
この行為は罰ではない。 これは、健太郎という客の、「どうにもならない現実」の中にある「尊厳」を、彼女の持つ「知識」と「論意」によって、完全に擁護し証明する行為だった。
(治療ではない。これは、尊厳の擁護だ)
施術は前回よりも長く続いた。 健太郎の身体の反応が希薄になっているため、より多くの部位をより入念に一定の「テンポ」で刺激する必要があったからだ。 梓の疲労は極限に達していた。 だが、彼女の指先は決して震えない。疲労も鬱もこの「論理」の前では無力だった。
施術の終盤。 彼女の指が、規定通りの圧を、彼の脊髄に近いとある一点に加えた、その瞬間。
健太郎の身体全体に、微かな波紋のような弛緩の動きが走った。 それは前回のような激しい痙攣ではない。 ただ、彼の全身を覆っていた、わずかな緊張の膜が、フッと解き放たれたような静かな動きだった。
彼の唇がわずかに開いた。 その時、梓の耳に届いたのは、彼の喉の奥から漏れる微かな「音」だった。 それは喘ぎ声でも呻き声でもない。
ただ、彼の呼吸が、 ――スーッ、 と、深く静かに、そして明確に「安定」した音だった。
(現象だ) 梓はその「音」を冷静に聞いた。 安定した呼吸。それは、副交感神経が優位になり、身体が「安全」を認識したという、最も客観的な「バイタルサイン」だった。
彼女の技術が、健太郎の身体に、最も論理的で最も安全な「安息」をもたらしたという、何よりも雄弁な証明だった。
梓は規定の時間を守り、手を引いた。 彼女の動作はそのまま、彼に掛けられた薄い掛け布団を整えるという、介助の手順へと移行する。 最小限の音と動作。
健太郎は目を閉じたままだった。 その表情は安堵でも快楽でもない。 そこにあったのは、もはや外界の何物にも脅かされない、完全な「無」だった。
梓は静かに立ち尽くした。 換気扇の音だけが響く。
彼女の耳には、健太郎の深く、安定した、規則正しい呼吸音が届いていた。 それは、「感情」という混沌から切り離され、「論理」という秩序によって完全に守り抜かれた「尊厳」の音だった。
梓は、この「音」を聞きながら、自己の歪みと冷徹な理性が、初めて、他者の救済という形で完璧に機能したことを静かに確信した。 この「冷たさ」こそが、このどうにもできない場所での、唯一の「優しさ」だったのだ。 そして、その行為が、彼女自身の「存在の価値」の冷たい確固たる土台となった。
佐倉梓は全ての介助を終え、ベッドサイドの薄い掛け布団をゆっくりと彼の身体に沿って整えた。その動作にはもう施術中のような精密な「テンポ」はない。 あるのは、すべての作業を終えた後の静かで冷たい業務の終結だけだ。
彼女は静かに一歩、ベッドから離れた。 部屋は再び、換気扇のサーという低い駆動音と、そして健太郎の深く規則正しい呼吸音だけが満たしている。
梓は彼に「失礼します」と告げて、そのまま退出の準備に入ろうとした。 その時だった。
目を閉じたままだった健太郎が、わずかに上瞼を震わせた。 そして、重い皮膚を押し上げるようにして、ゆっくりとその視線を梓の立っている場所に向けた。彼の目は疲労でかすんでいるが、焦点は明確に梓の姿を捉えている。
彼の唇が微かに動いた。 その動きは、何かを口にするにはあまりにも小さな、わずかな筋肉の痙攣のようだった。 だが、その喉の奥から、くぐもった、しかし確実に「言葉」を形作った音が、静寂の中に落ちた。
「……きょうは」 その言葉は、彼の身体の全ての力を集め、絞り出すようにして発せられた。
彼の頬の血の気を失っていた部分に、わずかな、だが明確な血潮の赤みが、滲むように広がった。 「……よかった」
「ありがとう」ではない。 「気持ちよかった」でもない。
それは感情の交換を伴う言葉ではなかった。 ただ、彼の「存在」が、この冷徹な「論理(手順)」によって最も深い安寧を得たという、「事実」の確認だった。
彼の言葉は、感謝ではなく、純粋な「肯定」だった。 梓は、その言葉を目を逸らさずに受け止めた。
彼女の顔には何の表情も浮かばない。 しかし、彼女の脳内では、「論理」という名の確信が、最後の楔を打ち込まれた。
彼女は口を開かない。 ただ一度、ゆっくりと頷いた。
それは感情的な「共感」ではない。 客の身体が発した「現象(安寧)」を、論理的な「所見(肯定)」として梓が受け入れ、そして、その「事実」を承認したという、冷たい「論理」の応対だった。
健太郎は、梓のその頷きを見て、再び静かに目を閉じた。 梓は、彼の身体にもう一度だけ視線を向けた。 そして、この冷たい安寧の空間に、もう余計な音や動作を残さないように、静かに踵を返した。 彼女の足音は、消毒液の匂いがする床の上で、微かな音すら立てなかった。
店の裏口のドアが軋む音を立てて閉じた後、佐倉梓は夜の湿った路地裏の空気の中に静かに立ち尽くした。
事務所の橙色の照明は背後で重く沈み、裏口の外は街灯の光も届かない深い暗闇が支配している。 遠くで聞こえるのは、幹線道路を走る車の均一な騒音だけだ。
彼女は自動販売機で買ったばかりの缶コーヒーを両手で握りしめた。 その金属の表面から伝わってくる、芯の冷たさが、連勤の疲労で熱を持った彼女の指先に鋭く突き刺さる。それは痛覚ではない。その冷たさだけが、彼女をこの「現在(いま、ここ)」という現実に確実なアンカー(錨)で繋ぎ止めてくれる唯一の感覚だった。
彼女は、その冷たさを感じながら、ゆっくりと裏口の壁に背中を預けた。 頭は重い。身体は鉛を詰め込まれたように沈んでいる。鬱気味の精神状態は、この夜の闇を、彼女自身の内面の空虚さと寸分違わず同じものとして認識させていた。
缶コーヒーを、カシュ、と小さな音を立てて開ける。 中身は、昨日飲んだものと全く同じ、人工的な甘さと微かな金属の味がする液体だ。 彼女はそれを一口飲む。味覚は麻痺しているが、その液体が胃の中に落ちていく「感触」だけは、はっきりと捉えることができた。
彼女は目を閉じた。 (よかった) 数時間前、健太郎が発した、その短く噛みしめるような言葉が、脳内で反響する。
それは感情的な「感謝」ではなく、彼女の「論理」と「手順」が、彼の身体と精神に「安定」という名の「秩序」をもたらしたという「事実」の承認だった。
彼女はあの「温かさ」を拒絶した。 アズマが持つ、あの「愛」や「共感」という混沌(カオス)は、あのヒステリックな「母親構造」の「支配」と同じ周波数を持つ。 それは安寧をもたらさない。破壊と混乱しかもたらさない。
だが、彼女の「冷たさ」は違った。 彼女の「知識」と「論理」は、この「どうにもできない場所」で、客の「尊厳」を守り切るという、最も純粋な行為を達成した。
それは、彼女がかつて目指した「医術」の、最も歪んだ、しかし最も本質的な形態だった。
(私は、ここに立つ) 彼女の意識の奥底で、その確信が冷たい輝きを放つ。
彼女は親の望む「理想の道」から外れ、自己を罰するために、この「底辺の底辺」へ逃げてきた。だが、この場所こそが、彼女の「歪み」と「知性」が最も効果的に、そして論理的に、**「存在の価値」**を獲得できる唯一の場所だった。
彼女はゆっくりと目を開けた。 遠く、ビルの壁の上層部で、オレンジ色のネオンが、無表情な光を放っている。
その向こう側、この街に住む無数の人間たちは、彼女の存在も、彼女の仕事も、健太郎の切実な欲求も、何も知らない。彼らの日常は、彼女の孤独な闘いには一切の関心がない。
その「無関心さ」こそが、彼女の「静かな安定」を支える、もう一つの土台だった。
梓は冷たくなった缶コーヒーを口元に運んだ。 そして、その液体を飲み込む代わりに、深くゆっくりと息を吐き出した。
その息は夜の冷気に触れ、白い霧となって、彼女の顔の前に一瞬だけ形を作った。 その「息の白さ」は、彼女自身の「存在」の儚さと、過酷な労働による疲弊を示していた。
だが、その白い霧は、完全に消えることなく、夜気に混じり合い、ゆっくりと拡散していく。 (続いている) それは、彼女の呼吸がまだ「続いている」という、唯一の事実。 彼女の「論理」が、まだ、彼女の身体を制御し続けているという、冷たい証明だった。
梓は、その缶をもう一度強く握りしめた。 歩かない。
アパートに帰れば、また眠りに落ち、明日の連勤が待っているだけだ。 そして、その「連勤」こそが、彼女の「論理」を維持し、アズマの「温かさ」への依存を断ち切るための唯一の手段だ。
彼女は、その場から一歩も動かなかった。 ただ、この「底辺の底辺」の路地裏に、疲弊しきった身体を、静かに硬く、固定したまま、そこに立ち続ける。
夜の時間が、彼女の横を、冷たい風となって通り過ぎていく。 その「静止」こそが、彼女が獲得した、歪んだ「存在の価値」の、最後の余韻だった。


そして、彼女の話を私はこのアクリル板越しに聞いていた。
中々に面白いエスノグラフィーであった。
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