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煤けた天井で、ガス灯が不規則な音を立てていた。ジッ、と微かな破裂音を立てて揺らぐ緑がかった炎が、このだだっ広い資料室の唯一の光源だった。文明開化の象徴であるはずの光は、しかし、ここでは墨と埃の匂いを助長させる触媒でしかない。空気が淀んでいる。古い和紙が吸い込んでは吐き出し続けた、数十年分の湿気とインクの匂い。埃は光の筋の中で無為に漂い、ゆっくりと床に積もっていく。
ジニアは、その紙の山に埋もれていた。場所は、内務省警保局が管轄する、この煉瓦造りの建物の地下だ。本来は欧州からの輸入書物を保管するための書庫だった場所が、今は「組織」から押収された膨大な資料によって占拠されている。洋装の袖はとうに捲り上げられ、白いカフスはインクで黒く汚れていた。
目的は、あの呪物――リョウメンスクナの「設計図」を描き出したとされる、「未来予知者」の特定。
机の上に広げられているのは、壬申戸籍の写し。そして、警視庁が創設されて以来の不審人物に関する捜査記録。寺社から押収された、組織の活動を示唆する文献の束。 ジニアは一枚一枚、それを手で繰っていく。指先は和紙の硬い繊維でささくれ、乾いた紙の感触だけが残っている。
これが、明治という時代の捜査の限界だった。情報はすべて紙にあり、紙を処理するためには、人間の目が物理的に文字を追うしかない。 ジニアの脳裏には、数時間前に別れたもう一つのチームの姿が浮かぶ。彼ら――Aルートの者たちは、幸運だった。彼らが追うのは「設計者」。物理的な痕跡を残す人間だ。使われた材料の仕入れ先、資金の流れ、潜伏先。足跡を追えば、いずれは辿り着ける。
だが、ジニアが追うのは「概念」だった。 「未来を予知した」という行為そのものは、いかなる台帳にも、いかなる証文にも残らない。 それは、ある人間の脳内で完結した現象だ。その現象が「設計図」という形で紙に吐き出され、それが「設計者」の手に渡り、呪物が建造された。ジニアの任務は、そのすべての起点となった、形のない「思考」の主を突き止めることだった。
別の山に手が伸びる。それは、世間を騒がせたオカルト記事の集積だった。錦絵新聞が、面白おかしく挿絵付きで報じた「千里眼」の女。「交霊術」で死者を呼び出すという男。 ジニアは、それらの記事を一枚ずつ、押収資料と照合していく。だが、どれもこれもが、興行師の誇大広告か、あるいは精神を病んだ者の戯言に過ぎなかった。そこには、あの精緻極まる呪物の設計図を描き出せるような、知性の欠片も見当たらない。 油のような臭みと、不快な甘さがあった。
焦燥感が、胃のあたりで冷たく固まっていく。壁に掛かった大きな柱時計が、重々しい音で時を刻んでいた。カチ、コチ、と。その一秒一秒が、呪物の「量産」という最悪の未来を引き寄せる音に聞こえた。
あの呪物は、矛盾の塊だった。万博という西洋近代の象徴に出品するために、超能力者という最も前近代的な「材料」を用いて建造された。西洋の工学思想と、土着のオカルトが、最悪の形で融合した怪物。 その「工学」の部分を担当したのが「設計者」ならば、「オカルト」の部分――未来という不確定な情報を「設計図」という確定した形に落とし込んだのが、「予知者」だ。どちらが欠けても、あの怪物は生まれなかった。
ジニアは、乾いた目で手元の資料を睨みつける。物理的な証拠が、ない。 あの呪物を破壊した一件で、現場にはおびただしい残骸が残った。肉片、木材、金属片。それらは今、この資料室のさらに奥で、塩漬けにされ、あるいは厳重に封印されている。破壊という行為は、必ず物理的な痕跡を残す。 だが、「予知」は何も残さない。
ジニアは立ち上がった。椅子が床の石畳を擦る、甲高い音が響く。このアプローチは間違っている。物理的な資料から、非物理的な存在を追うことはできない。それは、網で風を掬おうとするようなものだ。 ジニアは、ガス灯の光が届かない部屋の隅、冷たい窓に手を触れた。外は闇。この地下室には、今が昼なのか夜なのかを判断する材料すらない。
手詰まりだった。手作業での情報処理という、この時代の「人間の限界」が、ジニアの思考を壁際まで追い詰めていた。
超能力の類。それ自体はジニアにとって未知の領域ではない。これまで幾度となく、常識の枠を踏み越えた能力者たちと対峙し、その論理を解体し、無力化してきた自負がある。 だが、今、ジニアの手は標的に届いていない。指先が、その実体を捉えきれずに空を切る感覚。まるで水面に映った月を掴もうとするような、確かな手応えのなさが思考を鈍らせる。 ジニアは自嘲気味に息を吐いた。あの呪物、リョウメンスクナを破壊した一件。あまりに巨大な敵を打ち破ったことで、どこか精神が高揚しているのかもしれない。「浮かれている」。そう自覚するだけの冷静さは残っているが、その高揚が、普段ならば見逃さないはずの僅かな違和感を覆い隠している。
あるいは、単純な衰えか。ジニアはインクで汚れた自分の手の甲を見つめた。まだ若いはずの肌。だが、精神の瞬発力が、かつての鋭敏さを失い始めているのではないか。そうした疑念が、疲労と共に思考の隅にこびりつく。「年齢のせいか」。そう結論づけてしまえば楽だが、事態はそれを許さない。呪物の「量産」という最悪の未来は、待ってはくれない。一人で抱え込み、行き詰まることこそ、それこそが「老い」の証左ではないか。
ジニアは自嘲を振り払い、資料室の重い鉄製の扉に手を掛けた。ギイ、と錆びた蝶番が軋む音が、静まり返った地下に響き渡る。Aルートの支援、そして押収された「呪物」の残骸の物理解析。その両方を一手に引き受けている人物に、助言を乞うためだった。
ジニアは、数室離れた解析室の扉を叩いた。返事はない。構わず、扉を開ける。
そこは、資料室の乾いたインクの匂いとは対極の世界だった。ツン、と鼻を突く薬品の匂い。石炭酸、あるいはホルマリン。そして、それら化学薬品の匂いをもってしても隠しきれない、微かな「生臭さ」。部屋の中央、作業台の上には、あの呪物の一部――黒く変色した「材料」の断片が、ガラスの皿に載せられている。
サンドラは、顕微鏡のような最新の光学機器、おそらくはドイツ製だろうそれを覗き込み、ピンセットでその断片を突いていた。
「サンドラ」
ジニアが声をかけると、サンドラは顔を上げずに応じた。
「邪魔をしないで。今、神経繊維がどうやって木材と癒合しているのか調べている」
「手詰まりだ」
ジニアの単刀直入な言葉に、サンドラの動きが初めて止まった。彼女はレンズから顔を上げ、その無感情に近い瞳をジニアに向けた。
「あなたが? 珍しい。あのリョウメンスクナを仕留めた手腕は、どこへ行ったの」
「超能力相手は慣れている。だが、今回は違う。どうも、あの勝利で浮かれているらしい」
ジニアは、あえて自分の弱さを口にした。
「標的に手が届かない。水面に映った月を掴もうとするようだ。実体がない。・・・年齢のせいかもしれん」
「年齢」という言葉に、サンドラは僅かに眉をひそめたが、すぐに興味を失ったように視線を標本に戻した。
「あなたが追っているのは『幽霊』? それとも『人間』?」
「・・・人間だ。予知能力を持った、人間のはずだ」
「人間なら、必ず『目的』がある。その予知者が未来を見たとして、それでどうしたかったの。その予知を『必要とした』のは、いったい誰?」
サンドラの言葉が、ガス灯のノイズに塗れていたジニアの思考を、鋭利な刃物のように切り開いた。
そうだ。思考の軸が、ここで音を立てて切り替わった。
追うべきは「予知者」本人ではない。その得体の知れない能力を「必要」とし、その能力を「利用」した人間。「組織」だ。
「礼を言う」
ジニアはそれだけ告げると、踵を返し、再び自分の資料室へと駆け戻った。
サンドラは、再び顕微鏡を覗き込みながら、独り言のように呟いた。
「年齢のせいにする人間は、まだ若い証拠よ」
その言葉がジニアの耳に届いたかは、定かではない。
ジニアは、埃を吸い込むのも構わず、資料の山を崩し始めた。
探すべきは、錦絵新聞のオカルト記事ではない。「組織」の金の流れ。思想。行動原理。
ジニアは、床に積まれた資料の山から、最も分厚く、カビ臭い匂いを放つ和綴じの冊子を引きずり出した。「組織」が使用していた会計記録。大福帳だ。墨で書かれた勘定項目を、指先でなぞっていく。算盤の玉を弾くように、脳内で計算を繰り返す。「万博出品準備費」「材料費(甲)」「材料費(乙)」・・・。
そして、ジニアの指が、ある項目で止まった。「寄進」。
文明開化を謳歌し、西洋技術の粋を集めた万博に出品しようという組織が、一方で神仏に縋る。その矛盾こそが、この組織の本質だ。寄進先のリストの大半は、当時の政府とも繋がりの深い、江戸から続く著名な大寺院。これは政治的な繋がりを維持するための、当然の出費だろう。しかし、そのリストの最後に、一つだけ異質な項目があった。
飛騨の山奥。かつてリョウメンスクナの伝承が残る、まさにその土地。今は廃寺となっているはずの、無名の修験道の祠。他の寄進が、せいぜい銀何十円という単位であるのに対し、そこだけが突出していた。「金四百円」。明治初期において、それは高官の年収数年分に匹敵する、異常な金額だった。
何故、こんな山奥の、無名の祠に、これほどの金を。
ジニアは唾を飲み込み、ページを繰る。そして、その異常な寄進が実行された数日後。会計記録の「雑費」の項目に、ジニアは場違いな文字を発見した。「電信線敷設費(臨時)」。
電信。それは、主要都市間を結ぶ、この国の最も重要な情報インフラだ。近代日本の、その血脈とも言える。それがなぜ、会計記録の「雑費」として処理されている? そしてなぜ、飛騨の山奥の、迷信の塊のような祠への高額寄進と、これほど近い時期に記録されている?
ジニアの脳裏で、二つの異質な点が線で結ばれた。異常な祠への寄進。そして電信。それは、オーケストラの中に紛れ込んだ、調律の狂った二つの楽器のように、明確な不協和音を奏でていた。
ジニアは確信する。あの祠は、単なる祈願の場所ではない。「組織」にとって、最新技術である「電信」と結びつく何らかの「機能」を持つ場所だった。その機能こそが、「未来予知者」の特定に繋がる鍵だ。
汽車は、文明の終着駅でジニアを降ろした。黒い煙を吐き出す鉄の塊は、ここまでが近代の限界だと告げるように、けたたましい蒸気を噴き上げて停止した。ここから先、飛騨の山奥へと続く道は、馬車に揺られ、最後は自らの足で登るしかない。
空気が変わった。都市を覆っていた石炭の匂いは消え、肺を満たすのは、冷たく湿った、濃密な樹木の匂いだった。雨が近いのか、土と苔の匂いが強く立ち上っている。
馬車が半日かけて登った山道は、やがて馬すら拒む獣道となった。ジニアは、革靴の底で腐葉土を踏みしめながら、ただ登った。案内人を雇うことはしなかった。警保局の身分を明かせば角が立つ。そして何より、この種の調査は、部外者の「目」を入れることで汚染される。「組織」があの祠を選んだのなら、それは「人目につかない」という絶対的な条件を満たしていたからに他ならない。
息が切れる。洋装の詰襟が汗で首に張り付き、不快だった。額の汗を拭い、見上げる。鬱蒼と茂る杉の木々が、空を覆い隠していた。光が届かない森の底は、昼なお暗い。音という音が、この深い緑に吸い込まれていく。耳に届くのは、自分の荒い呼吸音と、時折、梢を揺らす風の音だけだった。この静寂。この隔絶。これこそが、あの組織が求めたものだ。
半壊した鳥居が、苔むした姿で現れたのは、登り始めてから一時間ほどが過ぎた頃だった。そこが、大福帳に記された祠の跡地だった。建物は、もはや屋根の体を成していなかった。風雨に晒された木材は黒く腐り、自然に還ろうとしている。人の気配が途絶えて久しいことは明らかだった。
ジニアは、懐中からマッチを取り出し、携帯用のランプ、カンテラに火を灯した。頼りない炎が、湿った闇をわずかに押し返す。祠の内部を検分する。床板は抜け落ち、そこから雑草が伸びていた。祭壇があったであろう場所には、割れた陶器の欠片が散らばっているだけだ。高額な寄進。電信。その二つの要素が、この荒廃した風景と結びつかない。
「もし自分がその立場だったら」
もし、ここに「機能」を持たせるなら、どこに隠す? ジニアはカンテラを低い位置に掲げ、床板の残骸を注意深く観察した。あった。他の部分とは明らかに腐敗の進行が異なる一枚の板。人為的に補強された痕跡。ジニアはそこに指をかけ、力を込めた。湿った土の抵抗を受けながら、板が持ち上がる。
地下だ。カビと、埃とも違う、古い紙が凝縮されたような独特の匂いが、暗い穴の底から吹き上げてきた。
ジニアは躊躇わなかった。カンテラを先に降ろし、急な石段を慎重に下りていく。
地下は、驚くほど乾燥していた。壁は石で組まれ、結露を防ぐための工夫が凝らされている。外の荒廃が嘘のように、この空間は「保存」のために設計されていた。
そして、ジニアは息を呑んだ。空間を埋め尽くしていたのは、おびただしい数の写本だった。棚に整然と並べられた和綴じの冊子。それらは未来を占う経典や、呪術の儀式書ではなかった。
ジニアが一冊を手に取り、カンテラの光に翳す。そこに記されていたのは、日付。天候。米の相場。遠方の都市で起きた火事の報。それは「記録」だった。ただひたすらに、その日、この国で起きた出来事を「記録」し続けるための作業の痕跡。
なぜ。未来予知者が、なぜこれほどまでに「過去」に執着する?
ジニアは、写本から視線を移し、納戸の奥を見つめた。そこに、あるはずのないものが鎮座していた。黒い金属の塊。壁に埋め込まれた、一台の電信受信機。文明の最先端であるはずの機械が、この土着信仰の闇の底で、埃を被っていた。
ジニアは、その冷たい金属に触れた。指先に、硬質な機械の感触が伝わる。この瞬間に、すべてのピースが嵌まった。理屈が、比喩を凌駕した。
ジニアの脳裏に、明治の日本地図が広がる。主要都市を繋ぐように、必死に敷設されていく電信網。あの組織は、そのインフラを私的に利用したのだ。全国各地から送られてくる「現在の出来事」の報告。それらは、この山奥の祠に集められ、即座に写本として記録された。未来予知のためではない。「過去(=現在)」を、揺るぎない一つの事実として「固定化」させるためだ。
「もし自分がその立場だったら」
不確定な「未来」を「予知」し、「設計図」として固定化したいなら、まず何をすべきか?その「未来」が導き出される起点となる「過去」を、揺るぎない一つの事実として確定、固定化させる。歴史の「ゆらぎ」を許さない。この祠は、未来を占う場所ではなく、歴史を編纂し、固定化するための儀式場だった。電信受信機は、その儀式を執り行うための、いわば祭壇だったのだ。
ジニアが追うべき「該当者」は、最初から間違っていた。探すべきは、「未来を見る者」ではない。呪物の設計図を描き出すために、まず、この国に張り巡らされた電信網を使い、流れ込む「現在」を「歴史」として編纂し、固定化した者。
ジニアが追うべき標的は、「予知者」ではなく、「記録者」だった。
その事実に到達した瞬間、ジニアは、カンテラの頼りない光の中で、自分が追う敵の、真の恐ろしさを垣間見た気がした。
山を下りたジニアが、警保局の薄暗い廊下に戻ってきたのは、それから二日後のことだった。汽車と馬車を乗り継いだ強行軍で、洋装は湿った土の匂いを微かに放ち、革靴は泥に汚れたままだった。だが、その足取りに迷いはなかった。地下の資料室に籠っていた時の、出口の見えない焦燥は消え、思考は硬質な確信によって研ぎ澄まされていた。
自分の資料室には戻らず、そのまま重要書庫の管理室へ向かう。
「閲覧申請を」
ジニアが乾いた声で告げると、当直の係官が眠たげな目でこちらを見た。
「対象は?」
「明治政府の公式な歴史編纂事業、その初期の人事檔案。特に、事業から追放、あるいは罷免された人物全員の記録を」
係官は、ジニアのただならぬ様子と、その申請内容の異様さにわずかに目を見開いたが、職務上、それ以上の詮索はしなかった。
「・・・承知しました。準備に時間がかかります。夕刻までに」
「今すぐだ」
ジニアの強い口調に、係官は怯んだように頷き、重い鍵の束を取りに立った。
捜索対象は、もはや「未来予知者」という曖昧な存在ではない。「特異な能力を持つ歴史編纂家」。「電信の私的運用に関与し得た人物」。この二つの条件を満たす者。
ジニアは、鍵が開けられた重要書庫の鉄の扉を押し開けた。資料室とは比較にならない、徹底した湿度管理。埃一つない空間に、上質な和紙と墨の匂いが満ちている。ここは、この国の中枢が「公式の歴史」として保存を選んだ記録が眠る場所だ。
ジニアは、該当する書棚から、分厚い檔案の束を引き抜き、閲覧室の机に広げた。ページをめくる、乾いた紙の音だけが響く。一人、また一人と、編纂事業から外れた学者たちの記録を検分していく。汚職、素行不良、思想的な対立。
そして、ジニアの指が、ある一枚の紙の上で止まった。
その学者は、編纂事業の中でも特に異端の思想を持っていたがために、追放されていた。「歴史は観測者によって確定する」。「電信網による全国の“現在”の同時記録こそが、未来永劫揺るぎない“過去”を作り出す唯一の道である」。ジニアが飛騨の地下でたどり着いた仮説と、恐ろしいまでに一致していた。
そして、その記録の最後には、こう記されていた。「異端の思想故に公職を追われ、その後、飛騨の山中に姿を消す。以降の足取り、知れず」。
これだ。この男こそが、ジニアが追うべき「記録者」であり、「設計図」の真の起点だ。
ジニアは、この男のさらに詳細な人事檔案――幼少期からの記録、師事した人物、交友関係――が収められている、別棟の機密書庫の閲覧許可を得るため、閲覧室を出た。
申請は、すぐに受理された。
だが、ジニアが機密書庫へ向かおうと廊下を曲がった瞬間、けたたましい鐘の音が、警保局の建物全体に鳴り響いた。火災報知だ。
ジニアの思考が、一瞬で凍りつく。周囲が慌ただしくなる中、職員の一人が叫ぶのが聞こえた。「火元は西棟! 機密書庫の第二閲覧室だ!」
ジニアは、走り出した。まさか。いや、偶然であるはずがない。自分が、あの学者の名前にたどり着き、その機密檔案を申請した、まさにその直後に?
現場に着くと、すでに煙が廊下に充満していた。火元は、分厚い鉄の扉で区切られた一室。すでに初期消火が始まっていたが、扉の隙間から漏れ出す煙は、紙が焼ける鼻を突く匂いを撒き散らしていた。
やがて火は鎮火された。
ジニアが、まだ熱気の残る室内へ踏み込むと、そこは惨状だった。火元は、明らかにジニアが申請した資料が準備されていた書棚だった。そして、その一角だけが、集中的に燃え落ちていた。他の書棚への延焼は最小限に食い止められている。まるで、最初からその棚だけを灰にするために火が放たれたかのようだった。
係官が、焼け残った目録を手に、呆然と呟く。「・・・駄目だ。閲覧申請のあった、あの学者の檔案・・・灰になってる」
ジニアは、その黒い灰の山を、無言で見つめていた。全身の血が、急速に冷えていく感覚。あの祠で感じた、敵の真の恐ろしさが、今、現実の脅威となって目の前に現れた。敵は、ジニアが「正解」に近づいたことを、ほぼリアルタイムで察知した。そして、即座に、警保局の、この中枢の、最も厳重であるはずの書庫で、火災という物理的妨害を引き起こした。
それは、ジニアの行動が、敵に筒抜けだったことを意味する。この警保局の内部に、ジニアの行動を監視し、敵組織に情報を流し、そして即座に動ける「内通者」が存在する。
ジニアは、自分がすでに「編纂された歴史」の上で踊らされている可能性と、これから相対する敵が、想像を絶するほど巨大で、そしてすぐ側にいるという事実を、静かに悟った。
場所は、ジニアが所属する内務省警保局の湿った地下室ではない。陸軍参謀本部の、そのさらに奥。地図にも存在しない作戦準備室。ここは空気が乾燥し、徹底して管理されている。聞こえる音は、ドイツから輸入されたばかりの最新型暗号解読機が、計算のために歯車を噛み合わせる微かな金属音と、壁に掛かった時計の秒針の音だけだ。インクと紙の匂いではない。機械油と、磨かれた床材の蝋の匂い。
鞍井は、その部屋の中央で、解読機が吐き出した数字の羅列と、押収された「組織」の暗号化された文書、そして警保局内部の人事檔案を、ただ無言で照合していた。性別も年齢も、その無機質な佇まいからは判然としない。ただ、その指先だけが、恐ろしい速度で紙の束をめくり、情報を処理していく。
そして、ついにその指が止まった。最後のピースが嵌まる。警保局内部の「内通者」。その名前が、動かぬ事実として確定した。
鞍井は立ち上がらなかった。机上の電信キーを叩き、別室に待機させていた部隊、私服を着用した憲兵隊に、ただ一言、作戦実行の暗号を送る。
「捕獲セヨ」
作戦行動は、水が流れるように完璧だった。鞍井の分析によれば、対象が最も無防備になる瞬間。帰宅し、緊張が緩む、日没直後のわずかな時間。
鞍井自身も現場にいた。対象が住まう、ごく平凡な長屋の一角。鞍井が手を挙げた瞬間、前後から憲兵隊が音もなく踏み込む。タイミングは、一秒の狂いもなかった。この奇襲からは絶対に逃れられない。鞍井はそうシミュレーションしていた。完璧な作戦だった。
だが。
室内は、もぬけの殻だった。踏み込んだ憲兵たちが、あっけにとられて立ち尽くす。部屋には、生活の匂いがまだ色濃く残っている。畳は磨き上げられ、塵一つない。
鞍井は、その静まり返った室内に、ゆっくりと足を踏み入れた。聴覚が、異常を捉える。音が、ない。住人がいるはずの時間なのに、その気配がまったくない。そして、嗅覚。長屋の古い木の匂いではない。微かに、茶の香りがする。
鞍井は、部屋の中央に置かれた小さな文机に目をやった。そこに、湯飲みが一つ、置かれている。まだ、湯気が立っていた。つい数十秒前まで、誰かがここに座っていたことを示している。そして、その湯飲みの横に、走り書きされた一枚の紙片。
「お早いお着きで」
その文字を見た瞬間、鞍井の全身に、これまで感じたことのない種類の、肌寒いほどの感覚が走った。驚き。それは、作戦が失敗したことに対するものではない。敵は、この完璧なタイミングでの踏み込みを、事前に「知っていた」。なぜ。どうやって。
鞍井の脳裏に、数秒前の自らの思考が蘇る。「今だ。踏み込め」。あの瞬間、鞍井の脳内で発せられた「言語化出力」。それを、読まれた。鞍井自身の思考そのものが、敵によって「観測」されていた。
鞍井は、初めて、自分が狩る側ではなく、狩られる側の視点に立たされていることを理解した。
作戦準備室に戻っても、空気は変わらない。ドイツ製の暗号解読機が刻む、規則正しい金属音。磨かれた床蝋の匂い。
鞍井の思考だけが、先程の長屋で突きつけられた現実によって、再構築を余儀なくされていた。失敗。だが、その内実は精査する必要があった。
【(移動した)読心術の種類についての分析】
読心術と呼ばれるものには当然種類がある。一つ、言語化出力。相手の言語野の動きを分析し推定する。意識外の事には干渉出来ないし、相手に追い付ける頭脳が必要だ。これは軍事行動等の戦略を練る参謀等を狙ったものが有効だ。一つ、感情分析。体内の物質流動で感情を推定する。言語化に比べ研究されていて、賢馬ハンスを代表に動物が多く有している。脳は無意識な部分も多いので、個人での戦闘レベルになるとこちらの方に軍配が上がる。一つ、心理復元。前者二つにセットでついている事もあるが、相手の感情や行動から推定する・・・心理学を極めた結果だ。・・・つまり、考える規模だ。意識の一点に絞った言語化、全体的な思考を読み取る感情分析、それらの情報を元に推定する復元。この力の異質な点は、大体の人が有してはいないが経験則で模倣が可能、伝播性や共有性が高いのである。見透かされる事は、恐怖と畏敬であるが故に。しかし、人によってはそれを理由に甘えることもある。鞍井は、そのいずれにも該当しない。甘えることも、見透かされることも、彼という存在にとっては観測対象の一現象に過ぎなかった。
敵は、鞍井の「言語化出力」を読んだ。それは、意識の一点に絞った攻撃だ。鞍井の脳内分析は、即座に損害評価へと移行する。読まれたのは、作戦の「実行」という一点のみ。こちらの組織構成、人員、拠点、そして最終目的。その全体像は観測されていない。敵が把握したのは、鞍井という個人の、その瞬間の殺意と行動意図だけだ。こちらの「手の内」は、まだ明かされていない。敵は、鞍井という存在そのものが、どれほどの規模を持つ組織の一部であるかを、まだ知らない。それは、絶望的な失敗の中で見出した、唯一の光明だった。
「報告します」
部下の一人、私服の憲兵が音もなく入室し、一枚の紙を差し出した。傍受した電信記録の写しだ。
鞍井はそれに目を通す。発信元、内務省警保局、ジニア。宛先、同所属、解析室、サンドラ。文面は、カタカナで無機質に叩かれていた。
「シヨルイシヨウシツ。テガカリスベテナシ。シバラクキユウカヲトル」
部下が、事実だけを口頭で補足する。「発信は京橋の一般電信局から。ジニアの単独行動。監視、及び尾行の形跡は、今のところありません」
鞍井は、その紙片を指先で弾いた。ジニア。あの機密書庫の火災で、唯一の手がかりであったはずの「学者」の檔案を失った男。
鞍井の思考が、ジニアという存在を新たな変数として組み込み、高速で回転を始める。この電信の意味。二つの可能性がある。一つ、ジニアは本気で心が折れ、調査を放棄した。あの灰の山を見て、その「人間の限界」に直面し、失意の底にいる。一つ、ジニアは「内通者」の存在に気づいた。この電信は、敵の目を欺くための「欺瞞工作」の開始である。
鞍井は、そのどちらの可能性も否定しなかった。そして、即座に結論に達する。どちらでも構わない、と。
「もし自分がその立場だったら」
鞍井は、敵である「内通者」の立場でシミュレーションを行う。もしジニアが本気で休養するなら、敵は「脅威が去った」と誤認し、一時的に監視を緩めるだろう。もしジニアが「欺瞞工作」を演じているなら、敵はジニアの次の手を「観測」しようと、さらに監視を強める。どちらに転んでも、敵の意識は、ジニアという一点に集中する。
ジニアは、鞍井たちの存在に気づかぬまま、今この瞬間、敵の注意をすべて引き受ける、完璧な「囮」として機能している。あるいは、嵐の中でただ一本だけ立つ、避雷針か。
敵は、ジニアという捜査官が動いていることは知っている。だが、敵は、鞍井という分析官が、陸軍の暗部でこの盤面全体を俯瞰していることには、まだ気づいていない。ジニアの手の内も、鞍井の手の内も、敵には明かされていない。「そちらの手は明かされていないらしいから迎撃を任される」。鞍井は、上層部から与えられたその任務の真意を、今、正確に理解した。
この電信は、ジニアがサンドラに宛てた「甘え」であると同時に、鞍井にとっては、敵を迎撃するための、これ以上ない「誘い水」だった。
上層部からの返信は、鞍井の予測通りのものだった。「一任スル。手段ハ問ワズ。敵戦力ヲ補足セヨ」。その短い電信文は、鞍井の作戦準備室に届けられたのではない。陸軍参謀本部の、まったく別の部署を経由し、暗号化され、人手を介して鞍井の元に届けられた。この時点で、鞍井の存在そのものが、敵(内通者)の観測から隔離されている。
鞍井は、その紙片を無言で受け取ると、すぐに部下を呼んだ。だが、その指示は口頭ではなかった。そして、電信キーを叩くこともなかった。
この作戦準備室は、文明の最先端にある。ドイツ製の暗号解読機が歯車の音を立て、壁には最新の電信受信機が備え付けられている。だが、鞍井は、それら一切の機械に触れようとはしなかった。
敵は「言語化出力」を読む。もし、鞍井が部下に対し「北陸へ向かえ」と口頭で命じた瞬間、あるいは「ゲイゲキスル」と電信キーを叩いた瞬間、その「意図」が、まだ都のどこかに潜んでいる内通者の脳に傍受される危険性が、ゼロではない。鞍井は、長屋での一度の失敗を、二度繰り返すほど愚かではなかった。この迎撃作戦の成否は、敵の観測能力の「外」で、いかに迅速に部隊を配置できるかにかかっている。
鞍井は、墨と筆を要求した。機械油の匂いが支配するこの部屋で、その二つはあまりにも異質だった。
鞍井は、何の躊躇もなく、和紙の上に、驚くほど流麗な筆致で指示を書き記していく。それは、暗号化された命令文だった。
部隊の集結地点。北陸の旧城下町の、そのさらに外郭。
ジニアが降り立つであろう駅を監視する高台。
敵の実行部隊が潜伏しうる宿屋や廃寺のリスト。
そして、接触のルール。
「ジニアとの接触ヲ厳ニ禁ズ」
「敵部隊ノ補足ヲ最優先トセヨ」
「発砲ハ、敵ガ先ニ行ウタ場合ノミ許可スル」
書き終えた和紙は、蝋で封をされた。「伝令」。鞍井が短く告げると、室の隅に控えていた憲兵が、音もなく歩み出た。
「これを、第一、第三部隊へ。手段は問わん。汽車は使うな。電信もだ。馬で継げ。飛脚を使え」
憲兵は、その命令の異常性を理解しつつも、一切の表情を変えずに封蝋された書状を受け取り、敬礼し、退室した。
さらに、鞍井は別の書状を書き上げる。「第二部隊。北陸ヨリ東京へ戻ル全テノ鉄路、街道ヲ封鎖セヨ。ネズミ一匹、都ニ入レルナ」。その書状は、伝書鳩の足に括り付けられ、作戦準備室の窓から、東京の鉛色の空へと放たれた。
最新のインフラである電信網を、敵(内通者と学者)が私的に利用し、歴史を編纂しようとした。対する鞍井は、その電信網をあえて放棄し、最も旧来の、物理的な通信手段を行使する。情報戦は、すでに新たな局面に入っていた。
すべての指示を出し終えた後、鞍井は、部屋の中央に広げられた日本地図の前に立った。そこには、三色の駒が置かれている。
一つは、東京の地点にある「赤」。ジニア。まだ「囮」であることに気づいていない、最も危険な駒。
一つは、北陸の旧城下町に置かれた「黒」。鞍井が予測する、敵の実行部隊。
そして、その「黒」を包囲するように、北陸の地に点在する「白」。鞍井が今、放った部隊。
鞍井は、東京にある「赤」の駒を、指先で軽く弾いた。ジニアは、今ごろ「休暇」の申請を出し、北陸へ向かう汽車の切符を手配している頃だろう。失意を装い、あるいは欺瞞を胸に秘めて。
どちらでも構わない。「敵は必ず来る」。鞍井は、無機質な声で、誰に言うでもなく呟いた。「ジニアという餌に釣られて。我々は、その釣り人を狩る」
東京の作戦準備室。その冷たい空気の中で、三者の運命が、北陸の地で交錯しようとしていた。
幕は、静かに上がった。
ジニアは、その紙の山に埋もれていた。場所は、内務省警保局が管轄する、この煉瓦造りの建物の地下だ。本来は欧州からの輸入書物を保管するための書庫だった場所が、今は「組織」から押収された膨大な資料によって占拠されている。洋装の袖はとうに捲り上げられ、白いカフスはインクで黒く汚れていた。
目的は、あの呪物――リョウメンスクナの「設計図」を描き出したとされる、「未来予知者」の特定。
机の上に広げられているのは、壬申戸籍の写し。そして、警視庁が創設されて以来の不審人物に関する捜査記録。寺社から押収された、組織の活動を示唆する文献の束。 ジニアは一枚一枚、それを手で繰っていく。指先は和紙の硬い繊維でささくれ、乾いた紙の感触だけが残っている。
これが、明治という時代の捜査の限界だった。情報はすべて紙にあり、紙を処理するためには、人間の目が物理的に文字を追うしかない。 ジニアの脳裏には、数時間前に別れたもう一つのチームの姿が浮かぶ。彼ら――Aルートの者たちは、幸運だった。彼らが追うのは「設計者」。物理的な痕跡を残す人間だ。使われた材料の仕入れ先、資金の流れ、潜伏先。足跡を追えば、いずれは辿り着ける。
だが、ジニアが追うのは「概念」だった。 「未来を予知した」という行為そのものは、いかなる台帳にも、いかなる証文にも残らない。 それは、ある人間の脳内で完結した現象だ。その現象が「設計図」という形で紙に吐き出され、それが「設計者」の手に渡り、呪物が建造された。ジニアの任務は、そのすべての起点となった、形のない「思考」の主を突き止めることだった。
別の山に手が伸びる。それは、世間を騒がせたオカルト記事の集積だった。錦絵新聞が、面白おかしく挿絵付きで報じた「千里眼」の女。「交霊術」で死者を呼び出すという男。 ジニアは、それらの記事を一枚ずつ、押収資料と照合していく。だが、どれもこれもが、興行師の誇大広告か、あるいは精神を病んだ者の戯言に過ぎなかった。そこには、あの精緻極まる呪物の設計図を描き出せるような、知性の欠片も見当たらない。 油のような臭みと、不快な甘さがあった。
焦燥感が、胃のあたりで冷たく固まっていく。壁に掛かった大きな柱時計が、重々しい音で時を刻んでいた。カチ、コチ、と。その一秒一秒が、呪物の「量産」という最悪の未来を引き寄せる音に聞こえた。
あの呪物は、矛盾の塊だった。万博という西洋近代の象徴に出品するために、超能力者という最も前近代的な「材料」を用いて建造された。西洋の工学思想と、土着のオカルトが、最悪の形で融合した怪物。 その「工学」の部分を担当したのが「設計者」ならば、「オカルト」の部分――未来という不確定な情報を「設計図」という確定した形に落とし込んだのが、「予知者」だ。どちらが欠けても、あの怪物は生まれなかった。
ジニアは、乾いた目で手元の資料を睨みつける。物理的な証拠が、ない。 あの呪物を破壊した一件で、現場にはおびただしい残骸が残った。肉片、木材、金属片。それらは今、この資料室のさらに奥で、塩漬けにされ、あるいは厳重に封印されている。破壊という行為は、必ず物理的な痕跡を残す。 だが、「予知」は何も残さない。
ジニアは立ち上がった。椅子が床の石畳を擦る、甲高い音が響く。このアプローチは間違っている。物理的な資料から、非物理的な存在を追うことはできない。それは、網で風を掬おうとするようなものだ。 ジニアは、ガス灯の光が届かない部屋の隅、冷たい窓に手を触れた。外は闇。この地下室には、今が昼なのか夜なのかを判断する材料すらない。
手詰まりだった。手作業での情報処理という、この時代の「人間の限界」が、ジニアの思考を壁際まで追い詰めていた。
超能力の類。それ自体はジニアにとって未知の領域ではない。これまで幾度となく、常識の枠を踏み越えた能力者たちと対峙し、その論理を解体し、無力化してきた自負がある。 だが、今、ジニアの手は標的に届いていない。指先が、その実体を捉えきれずに空を切る感覚。まるで水面に映った月を掴もうとするような、確かな手応えのなさが思考を鈍らせる。 ジニアは自嘲気味に息を吐いた。あの呪物、リョウメンスクナを破壊した一件。あまりに巨大な敵を打ち破ったことで、どこか精神が高揚しているのかもしれない。「浮かれている」。そう自覚するだけの冷静さは残っているが、その高揚が、普段ならば見逃さないはずの僅かな違和感を覆い隠している。
あるいは、単純な衰えか。ジニアはインクで汚れた自分の手の甲を見つめた。まだ若いはずの肌。だが、精神の瞬発力が、かつての鋭敏さを失い始めているのではないか。そうした疑念が、疲労と共に思考の隅にこびりつく。「年齢のせいか」。そう結論づけてしまえば楽だが、事態はそれを許さない。呪物の「量産」という最悪の未来は、待ってはくれない。一人で抱え込み、行き詰まることこそ、それこそが「老い」の証左ではないか。
ジニアは自嘲を振り払い、資料室の重い鉄製の扉に手を掛けた。ギイ、と錆びた蝶番が軋む音が、静まり返った地下に響き渡る。Aルートの支援、そして押収された「呪物」の残骸の物理解析。その両方を一手に引き受けている人物に、助言を乞うためだった。
ジニアは、数室離れた解析室の扉を叩いた。返事はない。構わず、扉を開ける。
そこは、資料室の乾いたインクの匂いとは対極の世界だった。ツン、と鼻を突く薬品の匂い。石炭酸、あるいはホルマリン。そして、それら化学薬品の匂いをもってしても隠しきれない、微かな「生臭さ」。部屋の中央、作業台の上には、あの呪物の一部――黒く変色した「材料」の断片が、ガラスの皿に載せられている。
サンドラは、顕微鏡のような最新の光学機器、おそらくはドイツ製だろうそれを覗き込み、ピンセットでその断片を突いていた。
「サンドラ」
ジニアが声をかけると、サンドラは顔を上げずに応じた。
「邪魔をしないで。今、神経繊維がどうやって木材と癒合しているのか調べている」
「手詰まりだ」
ジニアの単刀直入な言葉に、サンドラの動きが初めて止まった。彼女はレンズから顔を上げ、その無感情に近い瞳をジニアに向けた。
「あなたが? 珍しい。あのリョウメンスクナを仕留めた手腕は、どこへ行ったの」
「超能力相手は慣れている。だが、今回は違う。どうも、あの勝利で浮かれているらしい」
ジニアは、あえて自分の弱さを口にした。
「標的に手が届かない。水面に映った月を掴もうとするようだ。実体がない。・・・年齢のせいかもしれん」
「年齢」という言葉に、サンドラは僅かに眉をひそめたが、すぐに興味を失ったように視線を標本に戻した。
「あなたが追っているのは『幽霊』? それとも『人間』?」
「・・・人間だ。予知能力を持った、人間のはずだ」
「人間なら、必ず『目的』がある。その予知者が未来を見たとして、それでどうしたかったの。その予知を『必要とした』のは、いったい誰?」
サンドラの言葉が、ガス灯のノイズに塗れていたジニアの思考を、鋭利な刃物のように切り開いた。
そうだ。思考の軸が、ここで音を立てて切り替わった。
追うべきは「予知者」本人ではない。その得体の知れない能力を「必要」とし、その能力を「利用」した人間。「組織」だ。
「礼を言う」
ジニアはそれだけ告げると、踵を返し、再び自分の資料室へと駆け戻った。
サンドラは、再び顕微鏡を覗き込みながら、独り言のように呟いた。
「年齢のせいにする人間は、まだ若い証拠よ」
その言葉がジニアの耳に届いたかは、定かではない。
ジニアは、埃を吸い込むのも構わず、資料の山を崩し始めた。
探すべきは、錦絵新聞のオカルト記事ではない。「組織」の金の流れ。思想。行動原理。
ジニアは、床に積まれた資料の山から、最も分厚く、カビ臭い匂いを放つ和綴じの冊子を引きずり出した。「組織」が使用していた会計記録。大福帳だ。墨で書かれた勘定項目を、指先でなぞっていく。算盤の玉を弾くように、脳内で計算を繰り返す。「万博出品準備費」「材料費(甲)」「材料費(乙)」・・・。
そして、ジニアの指が、ある項目で止まった。「寄進」。
文明開化を謳歌し、西洋技術の粋を集めた万博に出品しようという組織が、一方で神仏に縋る。その矛盾こそが、この組織の本質だ。寄進先のリストの大半は、当時の政府とも繋がりの深い、江戸から続く著名な大寺院。これは政治的な繋がりを維持するための、当然の出費だろう。しかし、そのリストの最後に、一つだけ異質な項目があった。
飛騨の山奥。かつてリョウメンスクナの伝承が残る、まさにその土地。今は廃寺となっているはずの、無名の修験道の祠。他の寄進が、せいぜい銀何十円という単位であるのに対し、そこだけが突出していた。「金四百円」。明治初期において、それは高官の年収数年分に匹敵する、異常な金額だった。
何故、こんな山奥の、無名の祠に、これほどの金を。
ジニアは唾を飲み込み、ページを繰る。そして、その異常な寄進が実行された数日後。会計記録の「雑費」の項目に、ジニアは場違いな文字を発見した。「電信線敷設費(臨時)」。
電信。それは、主要都市間を結ぶ、この国の最も重要な情報インフラだ。近代日本の、その血脈とも言える。それがなぜ、会計記録の「雑費」として処理されている? そしてなぜ、飛騨の山奥の、迷信の塊のような祠への高額寄進と、これほど近い時期に記録されている?
ジニアの脳裏で、二つの異質な点が線で結ばれた。異常な祠への寄進。そして電信。それは、オーケストラの中に紛れ込んだ、調律の狂った二つの楽器のように、明確な不協和音を奏でていた。
ジニアは確信する。あの祠は、単なる祈願の場所ではない。「組織」にとって、最新技術である「電信」と結びつく何らかの「機能」を持つ場所だった。その機能こそが、「未来予知者」の特定に繋がる鍵だ。
汽車は、文明の終着駅でジニアを降ろした。黒い煙を吐き出す鉄の塊は、ここまでが近代の限界だと告げるように、けたたましい蒸気を噴き上げて停止した。ここから先、飛騨の山奥へと続く道は、馬車に揺られ、最後は自らの足で登るしかない。
空気が変わった。都市を覆っていた石炭の匂いは消え、肺を満たすのは、冷たく湿った、濃密な樹木の匂いだった。雨が近いのか、土と苔の匂いが強く立ち上っている。
馬車が半日かけて登った山道は、やがて馬すら拒む獣道となった。ジニアは、革靴の底で腐葉土を踏みしめながら、ただ登った。案内人を雇うことはしなかった。警保局の身分を明かせば角が立つ。そして何より、この種の調査は、部外者の「目」を入れることで汚染される。「組織」があの祠を選んだのなら、それは「人目につかない」という絶対的な条件を満たしていたからに他ならない。
息が切れる。洋装の詰襟が汗で首に張り付き、不快だった。額の汗を拭い、見上げる。鬱蒼と茂る杉の木々が、空を覆い隠していた。光が届かない森の底は、昼なお暗い。音という音が、この深い緑に吸い込まれていく。耳に届くのは、自分の荒い呼吸音と、時折、梢を揺らす風の音だけだった。この静寂。この隔絶。これこそが、あの組織が求めたものだ。
半壊した鳥居が、苔むした姿で現れたのは、登り始めてから一時間ほどが過ぎた頃だった。そこが、大福帳に記された祠の跡地だった。建物は、もはや屋根の体を成していなかった。風雨に晒された木材は黒く腐り、自然に還ろうとしている。人の気配が途絶えて久しいことは明らかだった。
ジニアは、懐中からマッチを取り出し、携帯用のランプ、カンテラに火を灯した。頼りない炎が、湿った闇をわずかに押し返す。祠の内部を検分する。床板は抜け落ち、そこから雑草が伸びていた。祭壇があったであろう場所には、割れた陶器の欠片が散らばっているだけだ。高額な寄進。電信。その二つの要素が、この荒廃した風景と結びつかない。
「もし自分がその立場だったら」
もし、ここに「機能」を持たせるなら、どこに隠す? ジニアはカンテラを低い位置に掲げ、床板の残骸を注意深く観察した。あった。他の部分とは明らかに腐敗の進行が異なる一枚の板。人為的に補強された痕跡。ジニアはそこに指をかけ、力を込めた。湿った土の抵抗を受けながら、板が持ち上がる。
地下だ。カビと、埃とも違う、古い紙が凝縮されたような独特の匂いが、暗い穴の底から吹き上げてきた。
ジニアは躊躇わなかった。カンテラを先に降ろし、急な石段を慎重に下りていく。
地下は、驚くほど乾燥していた。壁は石で組まれ、結露を防ぐための工夫が凝らされている。外の荒廃が嘘のように、この空間は「保存」のために設計されていた。
そして、ジニアは息を呑んだ。空間を埋め尽くしていたのは、おびただしい数の写本だった。棚に整然と並べられた和綴じの冊子。それらは未来を占う経典や、呪術の儀式書ではなかった。
ジニアが一冊を手に取り、カンテラの光に翳す。そこに記されていたのは、日付。天候。米の相場。遠方の都市で起きた火事の報。それは「記録」だった。ただひたすらに、その日、この国で起きた出来事を「記録」し続けるための作業の痕跡。
なぜ。未来予知者が、なぜこれほどまでに「過去」に執着する?
ジニアは、写本から視線を移し、納戸の奥を見つめた。そこに、あるはずのないものが鎮座していた。黒い金属の塊。壁に埋め込まれた、一台の電信受信機。文明の最先端であるはずの機械が、この土着信仰の闇の底で、埃を被っていた。
ジニアは、その冷たい金属に触れた。指先に、硬質な機械の感触が伝わる。この瞬間に、すべてのピースが嵌まった。理屈が、比喩を凌駕した。
ジニアの脳裏に、明治の日本地図が広がる。主要都市を繋ぐように、必死に敷設されていく電信網。あの組織は、そのインフラを私的に利用したのだ。全国各地から送られてくる「現在の出来事」の報告。それらは、この山奥の祠に集められ、即座に写本として記録された。未来予知のためではない。「過去(=現在)」を、揺るぎない一つの事実として「固定化」させるためだ。
「もし自分がその立場だったら」
不確定な「未来」を「予知」し、「設計図」として固定化したいなら、まず何をすべきか?その「未来」が導き出される起点となる「過去」を、揺るぎない一つの事実として確定、固定化させる。歴史の「ゆらぎ」を許さない。この祠は、未来を占う場所ではなく、歴史を編纂し、固定化するための儀式場だった。電信受信機は、その儀式を執り行うための、いわば祭壇だったのだ。
ジニアが追うべき「該当者」は、最初から間違っていた。探すべきは、「未来を見る者」ではない。呪物の設計図を描き出すために、まず、この国に張り巡らされた電信網を使い、流れ込む「現在」を「歴史」として編纂し、固定化した者。
ジニアが追うべき標的は、「予知者」ではなく、「記録者」だった。
その事実に到達した瞬間、ジニアは、カンテラの頼りない光の中で、自分が追う敵の、真の恐ろしさを垣間見た気がした。
山を下りたジニアが、警保局の薄暗い廊下に戻ってきたのは、それから二日後のことだった。汽車と馬車を乗り継いだ強行軍で、洋装は湿った土の匂いを微かに放ち、革靴は泥に汚れたままだった。だが、その足取りに迷いはなかった。地下の資料室に籠っていた時の、出口の見えない焦燥は消え、思考は硬質な確信によって研ぎ澄まされていた。
自分の資料室には戻らず、そのまま重要書庫の管理室へ向かう。
「閲覧申請を」
ジニアが乾いた声で告げると、当直の係官が眠たげな目でこちらを見た。
「対象は?」
「明治政府の公式な歴史編纂事業、その初期の人事檔案。特に、事業から追放、あるいは罷免された人物全員の記録を」
係官は、ジニアのただならぬ様子と、その申請内容の異様さにわずかに目を見開いたが、職務上、それ以上の詮索はしなかった。
「・・・承知しました。準備に時間がかかります。夕刻までに」
「今すぐだ」
ジニアの強い口調に、係官は怯んだように頷き、重い鍵の束を取りに立った。
捜索対象は、もはや「未来予知者」という曖昧な存在ではない。「特異な能力を持つ歴史編纂家」。「電信の私的運用に関与し得た人物」。この二つの条件を満たす者。
ジニアは、鍵が開けられた重要書庫の鉄の扉を押し開けた。資料室とは比較にならない、徹底した湿度管理。埃一つない空間に、上質な和紙と墨の匂いが満ちている。ここは、この国の中枢が「公式の歴史」として保存を選んだ記録が眠る場所だ。
ジニアは、該当する書棚から、分厚い檔案の束を引き抜き、閲覧室の机に広げた。ページをめくる、乾いた紙の音だけが響く。一人、また一人と、編纂事業から外れた学者たちの記録を検分していく。汚職、素行不良、思想的な対立。
そして、ジニアの指が、ある一枚の紙の上で止まった。
その学者は、編纂事業の中でも特に異端の思想を持っていたがために、追放されていた。「歴史は観測者によって確定する」。「電信網による全国の“現在”の同時記録こそが、未来永劫揺るぎない“過去”を作り出す唯一の道である」。ジニアが飛騨の地下でたどり着いた仮説と、恐ろしいまでに一致していた。
そして、その記録の最後には、こう記されていた。「異端の思想故に公職を追われ、その後、飛騨の山中に姿を消す。以降の足取り、知れず」。
これだ。この男こそが、ジニアが追うべき「記録者」であり、「設計図」の真の起点だ。
ジニアは、この男のさらに詳細な人事檔案――幼少期からの記録、師事した人物、交友関係――が収められている、別棟の機密書庫の閲覧許可を得るため、閲覧室を出た。
申請は、すぐに受理された。
だが、ジニアが機密書庫へ向かおうと廊下を曲がった瞬間、けたたましい鐘の音が、警保局の建物全体に鳴り響いた。火災報知だ。
ジニアの思考が、一瞬で凍りつく。周囲が慌ただしくなる中、職員の一人が叫ぶのが聞こえた。「火元は西棟! 機密書庫の第二閲覧室だ!」
ジニアは、走り出した。まさか。いや、偶然であるはずがない。自分が、あの学者の名前にたどり着き、その機密檔案を申請した、まさにその直後に?
現場に着くと、すでに煙が廊下に充満していた。火元は、分厚い鉄の扉で区切られた一室。すでに初期消火が始まっていたが、扉の隙間から漏れ出す煙は、紙が焼ける鼻を突く匂いを撒き散らしていた。
やがて火は鎮火された。
ジニアが、まだ熱気の残る室内へ踏み込むと、そこは惨状だった。火元は、明らかにジニアが申請した資料が準備されていた書棚だった。そして、その一角だけが、集中的に燃え落ちていた。他の書棚への延焼は最小限に食い止められている。まるで、最初からその棚だけを灰にするために火が放たれたかのようだった。
係官が、焼け残った目録を手に、呆然と呟く。「・・・駄目だ。閲覧申請のあった、あの学者の檔案・・・灰になってる」
ジニアは、その黒い灰の山を、無言で見つめていた。全身の血が、急速に冷えていく感覚。あの祠で感じた、敵の真の恐ろしさが、今、現実の脅威となって目の前に現れた。敵は、ジニアが「正解」に近づいたことを、ほぼリアルタイムで察知した。そして、即座に、警保局の、この中枢の、最も厳重であるはずの書庫で、火災という物理的妨害を引き起こした。
それは、ジニアの行動が、敵に筒抜けだったことを意味する。この警保局の内部に、ジニアの行動を監視し、敵組織に情報を流し、そして即座に動ける「内通者」が存在する。
ジニアは、自分がすでに「編纂された歴史」の上で踊らされている可能性と、これから相対する敵が、想像を絶するほど巨大で、そしてすぐ側にいるという事実を、静かに悟った。
場所は、ジニアが所属する内務省警保局の湿った地下室ではない。陸軍参謀本部の、そのさらに奥。地図にも存在しない作戦準備室。ここは空気が乾燥し、徹底して管理されている。聞こえる音は、ドイツから輸入されたばかりの最新型暗号解読機が、計算のために歯車を噛み合わせる微かな金属音と、壁に掛かった時計の秒針の音だけだ。インクと紙の匂いではない。機械油と、磨かれた床材の蝋の匂い。
鞍井は、その部屋の中央で、解読機が吐き出した数字の羅列と、押収された「組織」の暗号化された文書、そして警保局内部の人事檔案を、ただ無言で照合していた。性別も年齢も、その無機質な佇まいからは判然としない。ただ、その指先だけが、恐ろしい速度で紙の束をめくり、情報を処理していく。
そして、ついにその指が止まった。最後のピースが嵌まる。警保局内部の「内通者」。その名前が、動かぬ事実として確定した。
鞍井は立ち上がらなかった。机上の電信キーを叩き、別室に待機させていた部隊、私服を着用した憲兵隊に、ただ一言、作戦実行の暗号を送る。
「捕獲セヨ」
作戦行動は、水が流れるように完璧だった。鞍井の分析によれば、対象が最も無防備になる瞬間。帰宅し、緊張が緩む、日没直後のわずかな時間。
鞍井自身も現場にいた。対象が住まう、ごく平凡な長屋の一角。鞍井が手を挙げた瞬間、前後から憲兵隊が音もなく踏み込む。タイミングは、一秒の狂いもなかった。この奇襲からは絶対に逃れられない。鞍井はそうシミュレーションしていた。完璧な作戦だった。
だが。
室内は、もぬけの殻だった。踏み込んだ憲兵たちが、あっけにとられて立ち尽くす。部屋には、生活の匂いがまだ色濃く残っている。畳は磨き上げられ、塵一つない。
鞍井は、その静まり返った室内に、ゆっくりと足を踏み入れた。聴覚が、異常を捉える。音が、ない。住人がいるはずの時間なのに、その気配がまったくない。そして、嗅覚。長屋の古い木の匂いではない。微かに、茶の香りがする。
鞍井は、部屋の中央に置かれた小さな文机に目をやった。そこに、湯飲みが一つ、置かれている。まだ、湯気が立っていた。つい数十秒前まで、誰かがここに座っていたことを示している。そして、その湯飲みの横に、走り書きされた一枚の紙片。
「お早いお着きで」
その文字を見た瞬間、鞍井の全身に、これまで感じたことのない種類の、肌寒いほどの感覚が走った。驚き。それは、作戦が失敗したことに対するものではない。敵は、この完璧なタイミングでの踏み込みを、事前に「知っていた」。なぜ。どうやって。
鞍井の脳裏に、数秒前の自らの思考が蘇る。「今だ。踏み込め」。あの瞬間、鞍井の脳内で発せられた「言語化出力」。それを、読まれた。鞍井自身の思考そのものが、敵によって「観測」されていた。
鞍井は、初めて、自分が狩る側ではなく、狩られる側の視点に立たされていることを理解した。
作戦準備室に戻っても、空気は変わらない。ドイツ製の暗号解読機が刻む、規則正しい金属音。磨かれた床蝋の匂い。
鞍井の思考だけが、先程の長屋で突きつけられた現実によって、再構築を余儀なくされていた。失敗。だが、その内実は精査する必要があった。
【(移動した)読心術の種類についての分析】
読心術と呼ばれるものには当然種類がある。一つ、言語化出力。相手の言語野の動きを分析し推定する。意識外の事には干渉出来ないし、相手に追い付ける頭脳が必要だ。これは軍事行動等の戦略を練る参謀等を狙ったものが有効だ。一つ、感情分析。体内の物質流動で感情を推定する。言語化に比べ研究されていて、賢馬ハンスを代表に動物が多く有している。脳は無意識な部分も多いので、個人での戦闘レベルになるとこちらの方に軍配が上がる。一つ、心理復元。前者二つにセットでついている事もあるが、相手の感情や行動から推定する・・・心理学を極めた結果だ。・・・つまり、考える規模だ。意識の一点に絞った言語化、全体的な思考を読み取る感情分析、それらの情報を元に推定する復元。この力の異質な点は、大体の人が有してはいないが経験則で模倣が可能、伝播性や共有性が高いのである。見透かされる事は、恐怖と畏敬であるが故に。しかし、人によってはそれを理由に甘えることもある。鞍井は、そのいずれにも該当しない。甘えることも、見透かされることも、彼という存在にとっては観測対象の一現象に過ぎなかった。
敵は、鞍井の「言語化出力」を読んだ。それは、意識の一点に絞った攻撃だ。鞍井の脳内分析は、即座に損害評価へと移行する。読まれたのは、作戦の「実行」という一点のみ。こちらの組織構成、人員、拠点、そして最終目的。その全体像は観測されていない。敵が把握したのは、鞍井という個人の、その瞬間の殺意と行動意図だけだ。こちらの「手の内」は、まだ明かされていない。敵は、鞍井という存在そのものが、どれほどの規模を持つ組織の一部であるかを、まだ知らない。それは、絶望的な失敗の中で見出した、唯一の光明だった。
「報告します」
部下の一人、私服の憲兵が音もなく入室し、一枚の紙を差し出した。傍受した電信記録の写しだ。
鞍井はそれに目を通す。発信元、内務省警保局、ジニア。宛先、同所属、解析室、サンドラ。文面は、カタカナで無機質に叩かれていた。
「シヨルイシヨウシツ。テガカリスベテナシ。シバラクキユウカヲトル」
部下が、事実だけを口頭で補足する。「発信は京橋の一般電信局から。ジニアの単独行動。監視、及び尾行の形跡は、今のところありません」
鞍井は、その紙片を指先で弾いた。ジニア。あの機密書庫の火災で、唯一の手がかりであったはずの「学者」の檔案を失った男。
鞍井の思考が、ジニアという存在を新たな変数として組み込み、高速で回転を始める。この電信の意味。二つの可能性がある。一つ、ジニアは本気で心が折れ、調査を放棄した。あの灰の山を見て、その「人間の限界」に直面し、失意の底にいる。一つ、ジニアは「内通者」の存在に気づいた。この電信は、敵の目を欺くための「欺瞞工作」の開始である。
鞍井は、そのどちらの可能性も否定しなかった。そして、即座に結論に達する。どちらでも構わない、と。
「もし自分がその立場だったら」
鞍井は、敵である「内通者」の立場でシミュレーションを行う。もしジニアが本気で休養するなら、敵は「脅威が去った」と誤認し、一時的に監視を緩めるだろう。もしジニアが「欺瞞工作」を演じているなら、敵はジニアの次の手を「観測」しようと、さらに監視を強める。どちらに転んでも、敵の意識は、ジニアという一点に集中する。
ジニアは、鞍井たちの存在に気づかぬまま、今この瞬間、敵の注意をすべて引き受ける、完璧な「囮」として機能している。あるいは、嵐の中でただ一本だけ立つ、避雷針か。
敵は、ジニアという捜査官が動いていることは知っている。だが、敵は、鞍井という分析官が、陸軍の暗部でこの盤面全体を俯瞰していることには、まだ気づいていない。ジニアの手の内も、鞍井の手の内も、敵には明かされていない。「そちらの手は明かされていないらしいから迎撃を任される」。鞍井は、上層部から与えられたその任務の真意を、今、正確に理解した。
この電信は、ジニアがサンドラに宛てた「甘え」であると同時に、鞍井にとっては、敵を迎撃するための、これ以上ない「誘い水」だった。
上層部からの返信は、鞍井の予測通りのものだった。「一任スル。手段ハ問ワズ。敵戦力ヲ補足セヨ」。その短い電信文は、鞍井の作戦準備室に届けられたのではない。陸軍参謀本部の、まったく別の部署を経由し、暗号化され、人手を介して鞍井の元に届けられた。この時点で、鞍井の存在そのものが、敵(内通者)の観測から隔離されている。
鞍井は、その紙片を無言で受け取ると、すぐに部下を呼んだ。だが、その指示は口頭ではなかった。そして、電信キーを叩くこともなかった。
この作戦準備室は、文明の最先端にある。ドイツ製の暗号解読機が歯車の音を立て、壁には最新の電信受信機が備え付けられている。だが、鞍井は、それら一切の機械に触れようとはしなかった。
敵は「言語化出力」を読む。もし、鞍井が部下に対し「北陸へ向かえ」と口頭で命じた瞬間、あるいは「ゲイゲキスル」と電信キーを叩いた瞬間、その「意図」が、まだ都のどこかに潜んでいる内通者の脳に傍受される危険性が、ゼロではない。鞍井は、長屋での一度の失敗を、二度繰り返すほど愚かではなかった。この迎撃作戦の成否は、敵の観測能力の「外」で、いかに迅速に部隊を配置できるかにかかっている。
鞍井は、墨と筆を要求した。機械油の匂いが支配するこの部屋で、その二つはあまりにも異質だった。
鞍井は、何の躊躇もなく、和紙の上に、驚くほど流麗な筆致で指示を書き記していく。それは、暗号化された命令文だった。
部隊の集結地点。北陸の旧城下町の、そのさらに外郭。
ジニアが降り立つであろう駅を監視する高台。
敵の実行部隊が潜伏しうる宿屋や廃寺のリスト。
そして、接触のルール。
「ジニアとの接触ヲ厳ニ禁ズ」
「敵部隊ノ補足ヲ最優先トセヨ」
「発砲ハ、敵ガ先ニ行ウタ場合ノミ許可スル」
書き終えた和紙は、蝋で封をされた。「伝令」。鞍井が短く告げると、室の隅に控えていた憲兵が、音もなく歩み出た。
「これを、第一、第三部隊へ。手段は問わん。汽車は使うな。電信もだ。馬で継げ。飛脚を使え」
憲兵は、その命令の異常性を理解しつつも、一切の表情を変えずに封蝋された書状を受け取り、敬礼し、退室した。
さらに、鞍井は別の書状を書き上げる。「第二部隊。北陸ヨリ東京へ戻ル全テノ鉄路、街道ヲ封鎖セヨ。ネズミ一匹、都ニ入レルナ」。その書状は、伝書鳩の足に括り付けられ、作戦準備室の窓から、東京の鉛色の空へと放たれた。
最新のインフラである電信網を、敵(内通者と学者)が私的に利用し、歴史を編纂しようとした。対する鞍井は、その電信網をあえて放棄し、最も旧来の、物理的な通信手段を行使する。情報戦は、すでに新たな局面に入っていた。
すべての指示を出し終えた後、鞍井は、部屋の中央に広げられた日本地図の前に立った。そこには、三色の駒が置かれている。
一つは、東京の地点にある「赤」。ジニア。まだ「囮」であることに気づいていない、最も危険な駒。
一つは、北陸の旧城下町に置かれた「黒」。鞍井が予測する、敵の実行部隊。
そして、その「黒」を包囲するように、北陸の地に点在する「白」。鞍井が今、放った部隊。
鞍井は、東京にある「赤」の駒を、指先で軽く弾いた。ジニアは、今ごろ「休暇」の申請を出し、北陸へ向かう汽車の切符を手配している頃だろう。失意を装い、あるいは欺瞞を胸に秘めて。
どちらでも構わない。「敵は必ず来る」。鞍井は、無機質な声で、誰に言うでもなく呟いた。「ジニアという餌に釣られて。我々は、その釣り人を狩る」
東京の作戦準備室。その冷たい空気の中で、三者の運命が、北陸の地で交錯しようとしていた。
幕は、静かに上がった。
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