泡立つ脳

伊阪証

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結末

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縫合糸が滑った。
左手は自らの皮膚を裂いた場所をなぞり、右手は神経接続の固定ポイントを探っていた。
血の匂いは、自分のものか彼女のものか判別がつかなくなっていた。
皮膚感覚は薄れていく。
冷却装置の起動音も、脳波の同期信号も、頭の奥でくぐもった残響のように流れていた。
気づけば、透は考えることを止めていた。
痛みも、焦りも、達成感もなくなっていた。
ただ、次に何をするべきかだけが、視界の端に浮かんでいた。
自分の手術は、簡素な応急処置だった。
毒素の排出は終えていない。
循環系の補助薬は自作の調合液を静脈から流し込み、代謝強化を無理やり起こしていた。
ミナの手術の合間に、注射器を三本──
神経刺激を二度。
縫合針を自分の腹と背に走らせるのは、もう五回目だった。
だが、すべては“同時”だった。
切り替えではない。順番でもない。
彼の脳は完全に“並列”で、作業の遷移と優先度を自動で振り分けていた。
手術が終わったのか、終わっていないのか。
自分が倒れたのか、立っているのか。
それすらも分からなかった。
いつの間にか、光が滲んでいた。
耳鳴りではない。記憶でもない。
どこかで、ミナが笑っているような──そんな音が聞こえた気がした。
その瞬間、すべてが途切れた。
世界が、ひとつ暗くなった。

潮風が緩やかに吹いていた。
島の夏はいつも静かで、音のない日差しが白く辺りを照らしていた。
コンクリートの坂道も、病院の白い壁も、どこか柔らかく見えるほどに、空気は穏やかだった。
彼女は小さな影たちに囲まれていた。
膝の上に顔を乗せている子、ただ手を繋いでいるだけの子、少し離れて壁にもたれている子。
それぞれが、好きな距離でミナの話を聞いていた。
もう何度も繰り返されてきた昔話。それでも誰も退屈そうにはしなかった。
彼女が語ることは、何かを教えるためのものではなく、ただそこにあった事実だった。
誰かの命が、誰かを繋いでいくという、それだけのこと。
ミナは一度、言葉を切った。
手元のカップに残った冷めたお茶に視線を落とし、それから、ふと顔を上げる。
視線の先に、見覚えのある人影が立っていた。
遠く、病院の裏手から回ってきたのだろう。
手を振ったわけでもない。ただ、そこにいた。
でも、それだけで充分だった。
ミナは何も言わず立ち上がった。
椅子を引く音に子供たちが一斉に顔を上げる。けれど、彼女はもう見ていない。
誰の手も取らず、何の挨拶もせずに、ただまっすぐに駆け出した。
風が音を連れてくる。
足音と、吐く息と、心臓の鼓動と──それだけの時間。
数秒もかからず、その身体は彼の胸に収まった。
言葉はなかった。ただ勢いのまま、腕を広げるより先に飛び込んだ。
そして、彼はそれを抱きとめた。
いつも通りの仕草で、まるで何年も同じようにしてきたように、当たり前のように。
すべては、そこに還った。

結局、彼らは正式な裁きを受けることはなかった。
それは幸運ではなく、選択だった。
透の研究は国際的な関心を引いたが、それが実際に何を意味するかを彼自身が一番よく知っていた。
その成果に触れた者たちは皆、声をひそめるか、口をつぐむか、あるいは殺し合った。
国家も企業も、彼を欲しがった。
しかし、彼の答えは一貫していた。
何も差し出さず、誰のものにもならず、すべてを持ったまま姿を消した。
逃げた先は、海の向こうの島だった。
かつて密輸の拠点として機能していたその場所は、今では名前も地図からも消えている。
だが、裏の世界ではひとつの伝説として語られていた。
犯罪組織の手によって守られ、孤立し、同時に最高級の知と技術と快楽が集まる空間。
彼とミナはそこにいた。
透は名義を変え、いくつもの論文を別人の名前で発表した。
一部は一瞬で削除されたが、コピーされたデータは裏ルートで拡散し、世界の技術革新の片隅に爪痕を残し続けた。
彼が姿を見せることはない。ただ、成果だけが定期的に現れる。
誰も接触しようとしない。手出しができないと分かっているからだ。
ミナは歌っていた。
だが表舞台ではない。
その声はクラブでも劇場でも流れず、衛星経由の暗号通信を通じて、招待された者だけに届く。
それでも彼女は中心だった。
アンダーグラウンドの世界で、名も持たない「歌姫」として、取引の場を支配していた。
二人は、世界の最先端を生きていた。
透は発明家や暗号学者と連携し、新しい装置、新しい薬、新しい道具を作り続けた。
それらは売られ、動かされ、時には命を奪い、時には命を救った。
彼らはもう元の名前では呼ばれていなかった。
それでも、誰もが知っていた。
その声、その精度、その静けさ。
どこにいても、誰の手にも渡らないということだけが、彼らの強さの証だった。

本来、この技術は世界を救うはずだった。
脳の損傷も、退行性の病も、異常タンパクによる破壊も。
いずれ克服できる──そう信じて、透は構築した。
確かに、完成度はまだ未熟だった。
だが、確かに手応えもあった。
ミナを救えたのは、その証拠だった。
彼女の神経系は崩壊寸前だったにもかかわらず、機能は再生され、声も戻った。
再構築された歌声は、音響学的にも純度が高く、何より「生きた証明」として残った。
それでも──救えたのは、彼女ひとりだった。
どれだけ構造を再現しても、他の個体には適合しなかった。
似たような症例に応用しても拒絶反応が出た。
透が導き出した再構築式は、彼女の脳にだけ、唯一対応していた。
ある意味では奇跡だった。
ある意味では、無力だった。
科学者としての矜持が、ほんの少しだけ痛んだ。
もし、本当に人類を救うための技術だったなら──なぜ、彼女しか救えなかったのか。
なぜ、それを必要とする他の人間には届かなかったのか。
あるいは、届かせなかったのか。
考えれば考えるほど、その問いは透自身を追い詰めた。
そしてそのたびに、彼は彼女の手を握っていた。
結果として誰も救えなかったとしても。
たったひとり、彼女だけは──この技術で、命を繋いだ。
それだけで、もう十分だったのかもしれない。
けれど、透の胸にはまだ、確かに落胆が残っていた。

問題は──アリスの方だった。
技術者としても医者としても優秀で、性格も破綻していた。
依存傾向が強く、特に性に対しては徹底的に甘かった。
現在、七人目を身ごもっている。
セックス依存は治らなかった。
むしろ以前より拍車がかかった。
彼女は今、ローガンと一緒に“隔離施設”にいる。
カルテルが用意した半監禁環境、贅沢だが出口のない檻の中。モーテルみたいな感じの建物で、結構強固に作られている
ローガンの様子は、傍から見れば健康だった。
脈拍も正常、内臓もまだ持つ。
だが、何かが――明らかに何かが、おかしかった。
妙に白い。
肌の色ではない。髪でもない。
“全体的に白っぽく見える”のだ。
輪郭が薄いというか、目が滑るというか。
まるで存在感そのものがギャグ漫画的にフェードアウトしかけているような──そんな印象だった。
あやす子供の合間に、ミナはふと呟いた。
「ローガン、なんか最近・・・白くない?」
カルテルの警備員が、飲みかけの水を吹きそうになって堪える。
「お、おいそれ言うかよ・・・いや、分かるけど・・・。」
「いや、あれ絶対“白目むいてないけど白目”って感じだよ。死ぬ前のギャグ描写だよ。」
「やめろって・・・あれ、まだ生きてんだから。」
「生きてるけど、あれ“生きてる風”ってやつだから。」
ローガンは、柵の向こうで子供の哺乳瓶を振っていた。
いつものように微笑み、静かに座っていた。
言葉数は少ない。視線の焦点も、どこか定まっていなかった。
確かに、死んではいなかった。
でも──生きてる実感があるかといえば、それも微妙だった。
それでもアリスは、そんなローガンを抱きしめて言った。
「もう一人、作ろうか。」
白くなったローガンは、反応しなかった。
あるいは、できなかったのかもしれない。
ミナは、また別の赤ん坊にミルクを与えながら、深くため息をついた。今日も白かった。
透と警備員に近付くミナに軽く礼をする、彼女は赤ん坊の背中をとんとんしながら、視線を逸らさずに答えた。
「・・・あれでも、生きてる方よ。多分。」
少しの沈黙があった。
「ローガンはね、恩人なの。」
「・・・ああ。」
「同時に、事の発端でもある。あの医者を拾ったのも、放したのも、彼。」
「・・・だから、このくらいの罰と、褒美は、然るべきだと思う。」
ミナの声は、冷たくなかった。
憎しみでも、同情でもない。
ただ、筋を通すように淡々と。
柵の向こうでは、ローガンが子供の服を直していた。
白く、静かに、笑いながら。
それが罰か、褒美か、あるいは両方なのか──もう誰にも分からなかった。
透とミナの子供は、結局、長くは生きられなかった。
手術は、完璧だった。
透が切り開き、数理で導いた術式は、ミナを生かした。
だが、生まれてきた命は、そこまで持たなかった。
小さな体は、脳を守れなかった。
タンパク質の転写に耐えられず、わずかな時間を残して、静かに息を引き取った。
ミナは泣いた。
叫んだ。
喉を潰しそうなほど泣いたが、透の前では一度だけ、首を振った。
「・・・ごめんね。私のための技術を、信じてくれたのに。」
透は何も言わなかった。
その背中に向けて、彼女は頭を下げ続けた。
それでもミナは、すぐに立ち上がった。
心理的な回復は、彼女自身が一番驚くほど早かった。

理由は一つ。
透が作ったこの技術は、確かに不器用だった。
誰も彼も救える万能の奇跡ではなく、たった一人を確実に救う、頑固な数式だった。
ミナは、それで十分だった。
「私は生きてる。覚えてる。だから、あなたの勇姿を忘れない。」
そう言って、ミナは笑った。
透の傍で、台所に立ちながら、何気ない口調で呟いた。
「ねぇ、透。」
「どうかしたか?」
「・・・忘れてたけど、結婚しない?子供も増えたし、式場を軽く作ってさ・・・ふふ・・・。」
「・・・それは名案だな。」
次に泡立つのは、きっとケーキだろう。
それとも、開けるシャンパンかもしれない。
少なくとも、もう彼女の脳が泡立つことはない。
「ん!」
・・・そうでもなかった。
性能が向上した分、彼女の脳はオーバーヒートしやすくなっていた。
考えるだけで頬が熱くなる。
結婚式、ベール、誓いの言葉──そんな光景を想像するだけで、湯気が出そうだった。
その湯気の奥で、ミナは確かに笑っていた。
未来を選んだ者の、柔らかく、あたたかな笑みだった。



もうちょいかっこよくしときゃよかったかもしれん。

ミナ

若干ゃエヴァ感ある。

アリス

悪いが私は性転換しきったらなんか興奮減るタイプなんだ。

ローガン

槍いります?
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