ヘブンズ・コールセンター

伊阪証

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本編

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作品の前にお知らせ

下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069

他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。


天国の監査室に漂っているのは、清潔な無臭だけだった。 天井も、壁も、床も、すべてが境界の曖昧な淡い灰色で塗り込められている。光源が見当たらないのに影が落ちないその空間は、時間という概念が抜け落ちたかのように均質だった。
視界を埋めるのは、無数の背中が視界を埋めている。 私と同じ白い衣服を纏った同僚たちが、等間隔に並べられた無機質な机に向かい、身じろぎもせずに作業を続けている。彼らの間に会話はない。キーボードを叩く音すら存在しない。ただ、空中に展開された半透明のホログラムを指先で弾く、風切り音だけが微かに鼓膜を揺らしていた。 シュッ、シュッ、と。 まるで枯れ葉が擦れるような乾いた音が、終わることなく重なり続けている。
私は自身のデスクに視線を落とす。 眼前の空間に浮かぶウィンドウには、地上の「現在」が濁流のように流れ込んでいた。 ある男がコンビニエンスストアの募金箱に小銭を入れる映像。その直後、自動ドアが開かないことに苛立ち、店員に向かって舌打ちをする、歪んだ口元。 ある女がSNSに友人の幸福を祝うメッセージを打ち込む指先。その裏で、匿名のアカウントに切り替え、同じ友人への呪詛に近い嫉妬を書き連ねる瞳の暗さ。 善行と悪意、建前と本音。それらが混ざり合い、判別不能な泥のような塊となってモニターを埋め尽くしている。
私は慣れきった手つきで、それらを仕分けていく。 指先を右へ。青い光の粒子が舞い、『保留』のタグが付く。 指先を上へ。白い光が灯り、『不問』として処理される。 そして、指先を左へ。 赤い警告色が瞬き、そのデータは私の手元から消え去る。視界の隅にある『地獄候補』と刻印されたカウンターの数値が、また一つ跳ね上がった。
以前は精査が必要だったその赤い箱は、今や処理能力の限界を超えて膨張し続けている。私の指は、思考するよりも早く左へ弾く動作を記憶してしまっていた。
ふと、指先が止まる。 ウィンドウの中に映し出されたのは、煙草の煙が充満した安価な居酒屋の個室だった。 顔を赤くしたサラリーマン風の男たちが、ジョッキをぶつけ合い、飛沫を散らしている。
「──だからさあ、そんなの気にするだけ損だって。どうせ天国なんて、聖人君子みたいな奴しか行けねえんだろ?」 男の弛んだ声が、この無菌室のような監査室にはあまりに不釣り合いなノイズとして響く。
同席した男が、手羽先の骨を皿の外へ落としながら下卑た笑い声を上げた。 「違いねえ。それに聞いたぜ? どんなに悪いことしても、死ぬ瞬間に神様に『ごめんなさい』すりゃあ全部チャラで天国行きだ、ってな。神様ってのは心が広すぎて馬鹿なんじゃねえの」 「ギャハハ! じゃあ今はやりたい放題やっとくのが正解ってことかよ」
私は無意識に、その映像を凝視していた。 男たちの言葉は、汚濁にまみれている。彼らの精神状態を示すパラメーターは、赤黒い波形を描いて警告を発していた。 本来ならば、迷う余地はない。私の指は左へ動き、彼らを地獄行きのリストへ放り込むべきだ。それが仕事であり、このシステムにおける「正義」なのだから。
けれど、私の指は空中で凍りついたように動かない。 彼らの言葉──「どうせ天国なんて」「最後だけ謝ればいい」という侮蔑と甘え。それは、彼ら個人の資質の問題なのだろうか。それとも、そう思わせてしまっている構造の問題なのだろうか。
私は視線をウィンドウから外し、デスクの片隅に置かれた一冊の冊子へと向けた。 デジタルな光に満ちたこの部屋で唯一、質量を持った紙の束。装丁は擦り切れ、背表紙の文字は判読できないほどに劣化している。 私はその表紙に、そっと指先で触れた。 かつて、全ての天使が最初に叩き込まれた『基本教義』。 そこには、希望によって人を律する光、と記されていたはずだ。 今の地上を見下ろして、誰がその言葉を信じられるだろう。 希望は「甘え」に変わり、教えは「抜け道」として消費されている。 私の指先が、古い紙のざらついた感触を確かめるように強張る。
視線を戻す。 居酒屋の男たちはまだ笑っていた。 私は小さく息を吐き出し、彼らのデータを左でも右でもなく、保留を意味する「青」の箱へとゆっくり滑らせた。 システムが微かなエラー音を立てるが、私はそれを無視し、次のデータへと手を伸ばした。 赤い箱はもう、溢れかえりそうだった。
天国の上層に位置する「記録保管室」は、監査室とは質の異なる静寂に満ちていた。 天井は見えないほど高く、壁一面に光で織られた巨大な棚が聳え立っている。そこには、天地創造から現在に至るまでの全ての律法と、人間の精神史が「巻物」という形で眠っていた。
私は上層部からの命を受け、劣化が進んだ古い記録の修復作業に当たっていた。 指先で触れると、光の粒子が固まってできた紙が、さらさらと乾いた音を立てて展開される。
「……美しい」 思わず、声が漏れた。
私が広げたのは、人間という種がまだ幼かった頃の記述だ。 そこに記された文字は、流麗で、静かに温かかった。 『死の後に安らぎがあることを知れ。故に、今の生を慈しみ、隣人を愛し、穏やかに生きよ』
そこにあるのは純粋な希望の概念だけだった。恐怖で縛る言葉など一つもない。ただ、死への不安を取り除くことで、生をより良くしようとする、当時の認識が温かな光のインクで綴られている。
だが、巻物を読み進めるにつれ、私の指先は微かに震え始めた。 ある年代を境に、美しい筆致が乱れ始めるのだ。 流れるような文字は、次第に鋭角で、暴力的な線へと変わっていく。 インクの滲みは、まるで書き手の苛立ちをそのまま吸い込んだかのように黒く澱んでいた。
『何度諭しても、彼らは奪い合う』 『安らぎを与えると約束すれば、彼らは現世での努力を放棄する』
そして、既存の文章の行間に、殴り書きのような文字で、新たな概念が無理やりねじ込まれていた。
『罰が必要だ』 『恐怖がなくては、彼らは律せない』 『──地獄を用意せよ』
地獄。 その二文字だけが、ページを切り裂くような筆圧で刻まれている。 それは最初から計画されていた秩序ではないことが、その筆跡から読み取れた。期待を裏切られ続けた我々の祖先が、失望の果てに生み出した「システム修正」の痕跡だった。
「……酷い書き殴りだろう」 背後からかけられた声に、私は肩を震わせた。
振り返ると、長い時を生きてきた古参の天使が、棚の整理をしながら私の手元を一瞥していた。その瞳に驚きや動揺はなく、ただ何千年と積もった埃のような疲労だけが浮かんでいる。
「それは、人がまだ、希望だけで動くと信じていた時代の記録だ」
「地獄を、本当に、作ったのですか」
「必要に迫られたのさ」 古参の天使は短く吐き捨て、棚の奥へと歩き去っていく。
私は再び巻物に視線を落とした。 地獄という罰則が追加された後の記述は、さらに混迷を極めていた。 乱暴な筆致で、さらなる追記がなされている。
『地獄を見せれば、彼らは恐怖で萎縮し、生きる活力を失う』 『故に、地獄は隠蔽せよ。天国の甘美な光だけを見せ続けよ』
それは矛盾に満ちた対症療法だった。 そして巻物の末尾には、当時の記録者の、諦めとも嘆きとも取れる観察記録が残されていた。
『失敗だ。彼らは死後の罰が見えないため、死を恐れなくなった。同時に、生の重さも忘れた。彼らはただ、天国という逃げ場を求めて、現世を疎かに消費し始めている』
私はその一節を、指でなぞり、止めた。 しかし今、天国の存在そのものが、人を堕落させ、乱している現実が、巻物の最後には残されていた。 この巨大な矛盾の連鎖が、今の「監査室」の惨状を生んでいるのだ。
私は巻物をゆっくりと巻き戻す。 古びた光の紙がきしむ音が、まるで何かが軋んで壊れていく音のように聞こえた。 この構造的な欠陥の中で、ただ判定を下し続けるだけでいいのだろうか。 私は、流麗な筆致で書かれていた最初の数行を、もう一度だけ脳裏に焼き付けた。
記録保管室を出た私は、古い回廊の突き当たりにあるテラスへと足を運んだ。 ここは天国の外縁部にあたり、手すりの向こうには遥か下界の景色が、まるで巨大なパノラマ写真のように広がっている。風が吹くたびに、地上の雑踏の音が、さざ波のように遅れて届いてくる場所だ。
私は手すりに寄りかかり、眼下の世界を覗き込んだ。 監査室のモニター越しに見る「データ」としての人間ではなく、生きた風景としての人間を見たかった。
視界をズームする。 郊外の小さな公園。ベンチに座る母親が、泣き出した幼児の背中を一定のリズムで叩いている。トントン、トントン。その手つきには迷いがなく、ただ子供の呼吸を整えるためだけの、静かな祈りが込められていた。
走る電車の中。吊革につかまる若者が、隣に立った老人に気づき、視線を合わせることなく体を半歩ずらす。言葉はない。ただ重心を移動させただけのその動作が、車内の空気をわずかに柔らかくする。
──彼らは、本来こうなのだ。 誰も見ていない場所で、誰かのために少しだけ自分を削る。普通の善が、地上の至る所に砂金のように光っている。
視線を移す。 郊外の墓地。一人の老女が、墓石の前で手を合わせていた。 彼女は何かを強く願うわけでも、不幸を嘆くわけでもない。ただ目を閉じ、小さく唇を動かした。
「またね」 その言葉が風に乗って微かに聞こえた。
そこには、天国への過剰な依存も、死への恐怖もない。「いつかまた会える場所がある」という静かな確信だけが、彼女の残りの人生を支える光となっていた。 これだ、と私は確信した。
これが、我々の祖先が最初に目指した「天国」の機能だったはずだ。死を恐怖の断崖ではなく、穏やかな続きの物語として提示することで、今を生きる背中を支える。
しかし、視線を少し横にずらせば、その理想は簡単に泥にまみれる。 繁華街の雑踏。
「マジでやってらんねー。ま、最後は天国行き確定でしょ、俺ら」 酩酊した若者の軽い言葉が、路地のゴミと共に吐き捨てられる。
天国という言葉は、今や免罪符か、あるいは現実逃避のためのジョークとして、消費されていた。 あの老女のような「正しい希望」と、若者のような「雑な解釈」。 この二つが混在する世界で、私たちはただ沈黙して彼らを「地獄行き」か「保留」かに振り分けている。
一方通行だ、と思った。 我々は高みから彼らを見下ろすだけで、彼らの迷いや、問いかけに答えようとしていない。 教義を書いた巻物を一方的に落とすだけで、彼らがそれをどう読み、どう誤解し、何に困っているのかを聞く耳を持っていなかった。
もし。 もしも、彼らの声を直接聞くことができたなら。 私の脳裏に、抽象的なイメージが浮かび上がった。 天と地を繋ぐ、無数の細い糸。 それは蜘蛛の糸のような細さかもしれないが、確かに双方を繋いでいる。
人間が迷った時、怒りに震える時、あるいは寂しさに押しつぶされそうな時。彼らが自らの意志で手を伸ばし、その糸を手繰り寄せる。 その先には、我々がいる。
『どうしましたか』 そう問いかけ、ただ話を聞く。 彼らの乱れた感情を、まずは受け止める。 断罪するためではなく、整理するために。
──コールセンター。 その単語が、不意に私の思考に降りてきた。 そうだ。特別な奇跡を起こす必要はない。ただの「窓口」があればいい。 無数の受話器が並ぶフロア。鳴り止まないベルの音。 それはきっと騒がしい場所になるだろう。罵詈雑言も飛んでくるかもしれない。 けれど、そこは天国が初めて、人間に対して「扉を開く」場所になるはずだ。 一方的な監査ではなく、対話による救済。
私は手すりを強く握りしめ、上層部の執務室がある方向へと歩き出した。
大天使の執務空間は、天国で最も静謐かつ、冷徹な場所だった。 高い天井を支える柱は純白の大理石だが、その間を埋めるのは宗教画ではなく、絶えず変動し続ける数値とグラフの光芒だ。ここは祈りの場ではなく、巨大な管理システムの制御中枢に近い。
私はその中央に立ち、一枚の光のプレートを大天使に向けた。 そこには、新たな機構の設計図が浮かんでいた。 地上と天国を物理的な回線で結ぶ概念図。 人間の感情を受け止め、濾過し、再び地上へと還元する循環のイメージ。
「──以上が、新たな『対話窓口』の提案です」 私の声は、広い空間に吸い込まれるように響いた。
「一方的な監査だけでは、地上の乱れは止められません。彼らが求めているのは、断罪ではなく、話を聞いてくれる『耳』です。自ら天国へ声を届ける手段があれば、彼らは再び希望を見出すはずです」
説明を終え、私は息を呑んで返答を待った。 正面に座る大天使は、表情を動かさない。 彼は私の提案書から視線を外し、手元の空間に展開されている地上のリアルタイム・モニタリングへと目を向けた。 彼の瞳は、蟻の行列を観察する子供のように、あるいはエラーログを点検する技術者のように、冷たく透き通っていた。 彼が見ているのは、個々の人間の悲しみではない。「人間」という種全体の、予測可能な行動パターンだ。
長い沈黙があった。 大天使の指先が、空中で軽く動く。地上の「依存度」を示すグラフが拡大された。
「……承認する」 返答は、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。 私が安堵の表情を浮かべるよりも早く、大天使は独り言のように続けた。
「人間は、弱く、脆い。放っておいても何かに縋ろうとする生き物だ」 彼は視線を私に戻すことなく、グラフの数値を指で弾いた。
「こちらから出向かずとも、向こうから勝手に声を上げてくれるというなら、監査の手間も省けるだろう。窓口を用意しておけば、彼らは我先にとそこへ列をなす」
「はい。彼らは、救いを求めているのですから」 私は頷いた。
だが、その瞬間に胸の奥で小さな棘が引っかかるのを感じた。 大天使の言う縋るという言葉と、私が意図した救いを求めるという言葉は、本質が決定的に食い違っているような気がした。彼は人間を信じているから許可したのではない。人間の浅ましさを計算に入れた上で、それがシステムにとって有益だと判断しただけだ。
大天使はもう私を見ていなかった。すでに次の業務へと意識を切り替えている。
「直ちに着手せよ。場所は第4区画を割り当てる」
「……はい。ありがとうございます」 私は深く一礼し、踵を返した。 背中で感じる大天使の視線は、最後まで体温を帯びることはなかった。
  
数日後。 雲の上に新設された「ヘブンズ・コールセンター」は、まだ真新しい設備の匂いがしていた。 無機質な監査室とは違い、ここには木目調のパーティションで区切られたブースが規則正しく並んでいる。各デスクには座り心地の良さそうな椅子と、一台の通信端末──古風な受話器の形をした入力装置──が置かれていた。 オペレーターとして配置された同僚の天使たちが、それぞれの席で少し緊張した面持ちで待機している。
私も自分の席に着き、ヘッドセットを耳に当てた。 目の前のランプはまだ消えている。 本当に、人間はかけてくるだろうか。 天国への電話なんていう、信じがたい話を。
不安がよぎった、その時だった。 フロアの隅にある一台の端末で、赤いランプがぽつりと点灯した。
ジリリリリリ……。 静寂を切り裂いて、最初の一本の呼び出し音が、天国のフロアに鳴り響いた。
ジリリリリリ。 右隣の端末が鳴った。 ジリリリリリ。 左斜め前の席でも、誰かが受話器を取り上げる音がした。 私の目の前にあるランプも、消灯してから三秒と経たずに、また暴力的な赤色を点滅させ始める。
ここは天国の第四区画、「ヘブンズ・コールセンター」。かつて私が、静かな希望の窓口として夢想した場所だ。 今のこのフロアを満たしているのは、希望の光ではない。鳴り止まない電子音と、オペレーターを務める天使たちの疲弊した低い声だけが、重く滞留している。
私は強張る指を開き、再び受話器を耳に当てた。
「──こちら、天国です」
『ふざけんなよ!』 挨拶を言い終わるよりも早く、鼓膜を劈くような怒号が飛び込んできた。
『なんであの子なんだよ! まだ五歳だぞ!? 毎日祈ってたじゃねえか、あんたらの教え通りに! 見てただろ!?』
「……はい。そのお祈りの記録は、確かに」
『だったら返せよ! 役立たずが!』 ガチャン、と乱暴に叩き切られる音。 ツゥー、ツゥー、ツゥー。 無機質な切断音が響く中、私は小さく息を吐き出し、手元のキーボードを叩いた。
ログ入力画面に『憤怒』『要請:生還(却下)』と打ち込む。エンターキーを押す指先が、わずかに震えているのが見えた。
すぐにまた、ランプが点く。 私は反射的に受話器を取る。
『ねえ、天国があるなら何したっていいんでしょ?』 今度は、粘りつくような若い男の声だった。
『俺さ、今から万引きしてこようと思うんだけど、死ぬ前に反省すればセーフだよね? 天使さん、許可ちょーだい』
「……教義の解釈に関するご質問は、自動音声ガイダンスの二番へ」
『チッ、使えねーな』 切断。ログ入力。『侮蔑』『教義の曲解』。
息を吸う間もなく、次のランプ。 『寂しいの……誰でもいいから、話を聞いてよ……』 『お前らのせいだ! 俺の人生がこんななのは、全部天罰なんだろ!?』 『母さんに伝えてよ、冷蔵庫のプリン食べたの俺だって……伝えてよぉ……』
慟哭。罵倒。懇願。嘲笑。 受話器の向こうから、地上に渦巻くありとあらゆる「負の感情」が、黒い泥のように流れ込んでくる。
フロアを見渡せば、数百人の同僚たちが皆、同じように背中を丸め、受話器にしがみついていた。 誰一人として笑っていない。 休憩スペースの真新しいソファには誰も座っておらず、ただひたすらに、呼び出し音と、謝罪と、事務的な復唱だけが繰り返されている。
私は自分の胸元を強く握りしめた。制服の上からでも、心臓の鼓動が不整脈のように乱れているのが分かる。呼吸が浅い。酸素がうまく吸い込めない。
窓のないこのフロアにいると、錯覚しそうになる。 地上にはもう、怒っている人間か、泣いている人間しかいないのではないか。 平和な日常などどこにもなく、世界はただ、天国へ向けて呪詛を吐き出すだけの地獄になってしまったのではないか。
ジリリリリリ。 思考を遮るように、目の前のランプがまた赤く染まった。 私は反射的に手を伸ばす。 受話器のプラスチックが、私の掌の熱で生暖かく湿っているのを感じた。
重たい防音扉が閉まると、世界から音が消えた。 コールセンターの喧騒から隔絶された「控えスペース」は、白い壁と数脚の椅子があるだけの殺風景な空間だ。 私は一番手前の椅子に深く腰を下ろした。
静かだ。 あまりに静かすぎて、逆に耳の奥で幻聴が鳴り続けている。 ジリリリリ。ジリリリリ。 鼓膜にこびりついた電子音の残響。 瞼を閉じると、さっきまで聞いていた怒号や泣き声が、不規則なノイズとなって脳裏を走る。 『返せよ!』『許さない!』『助けて!』
無意識のうちに、私の右手は宙を握りしめていた。そこにはもう受話器などないのに、プラスチックの感触を皮膚が記憶している。指の関節が白く浮き出るほどに、力が入ったまま解けない。
「処理効率が、低下している」 不意に、頭上から声が落ちてきた。
弾かれたように顔を上げると、管理業務を担当する上位天使が、手元の端末を見ながら立っていた。表情筋を一切動かさず、ただの事実確認として私を見下ろしている。
「え……いえ、まだ」
「数値に出ている」 管理者は私の言葉を遮り、空中にホログラムのグラフを展開して見せた。
「直近三時間のログ処理速度が、平均値より〇・四秒遅延している。感情抑制フィルターの摩耗率も危険域だ。君は直近七十二時間、離席申請を出していない」 淡々と並べられる数字の列を見て、私は言葉を詰まらせた。
自覚はなかった。ただ、鳴り止まない電話を取ることに必死で、時間の感覚すら溶けていたのだ。
「このままでは、君自身の精神汚染が深刻化する。システム全体の効率に関わる問題だ」 管理者は端末を操作し、私のステータス画面に『不可』のタグを貼り付けた。
「休暇を命じる。即時、この区画から退去しなさい」
「ですが、電話はまだ……」
「代わりはいる。君一人が壊れるよりも、ローテーションを維持する方が合理的だ」 彼は冷徹に言い放ち、そして付け加えるように言った。
「地上へ降りてくるといい」
「……地上、ですか」
「現地の空気を吸い、視覚情報を更新する。それが精神摩耗の回復に最も効果的だというデータがある。これは推奨ではなく、メンテナンスのための業務命令だ」 管理者はそれだけ言い残すと、踵を返して去っていった。
一人残された私は、ゆっくりと息を吐き出した。 地上。 その単語を反芻した瞬間、強張っていた肩の力がふっと抜けた気がした。 椅子の背もたれに体重を預けてみる。 視界の隅に見える照明の光が、さっきまでよりも少しだけ明るく、柔らかく感じられた。 鼓膜の奥で鳴り続けていた幻聴が、波が引くように薄れていく。 ああ、そうか。 私は自分の手を見つめた。微かに震えている指先。 私は自分が思っている以上に、限界だったのだ。 「窓口」という狭い穴から覗く世界に、押し潰されそうになっていたのだ。
私は立ち上がった。 足取りは重いが、向かうべき場所は明確だった。 受話器の向こう側ではない、本物の世界へ。
地上に降り立った瞬間、最初に感じたのは「温度」だった。 天国の、あの一定に保たれた無菌室のような涼しさとは違う。アスファルトの照り返し、ビルの排気、そして無数の人間が発する体温。それらが混ざり合って、生ぬるく、しかし確かな質量を持った空気が肌を包んだ。
私は大通りを見下ろす歩道橋の上に立った。流れる景色を眺めた。 行き交う人々は、誰も私の存在に気付かない。私はただの透明な観測者として、そこに在った。
雑多な音が耳に届く。 車の走行音、信号機のメロディ、店先から漏れる音楽、誰かの笑い声。 けれど、そこに「怒号」はなかった。 コールセンターでヘッドセット越しに聞いていた世界は、常に誰かが叫び、泣き、呪っていた。だから地上とは、阿鼻叫喚の地獄絵図なのだと錯覚していた。
現実はどうだ。 目の前の横断歩道を渡るスーツ姿の男は、スマホを見ながらあくびをしている。 カフェのテラス席では、二人の女性がケーキを突きながら談笑している。 ベビーカーを押す母親が、ぐずる子供に何かを話しかけ、子供が泣き止むと、母親はふっと安堵の息をついて微笑んだ。 誰も、天に向かって拳を突き上げる者はいない。 誰も、見えない神を呪ってなどいない。 拍子抜けするほどに、世界は「普通」に回っていた。
私は手すりを握りしめた。 ──あの窓口には、届いていなかったのだ。 コールセンターに電話をかけてくるのは、耐え難い痛みや、どうしようもない不条理に直面した、ほんの一握りの人間たちだ。彼らの声は切実で、巨大で、私たちの聴覚を完全に占領する。
けれど、その背後には、こうして今日という日を何事もなく過ごし、電話をかける必要すらない圧倒的多数の「沈黙」が広がっていた。 数百のクレームの裏に、数億の穏やかな日常がある。 そんな当たり前の比率さえ、あの閉じた部屋にいると見失ってしまう。
天国というフィルターを通すことで、世界は実際よりも遥かに歪んで、絶望的に見えていたのだ。
ふと、視界の端で動きがあった。 歩道の脇にある小さな花壇の前で、一人の初老の女性が足を止めていた。 彼女は買い物袋を地面に置き、枯れかけた花を手で優しく撫でた。そして、そのまま静かに両手を合わせ、目を閉じる。 数秒にも満たない、短い祈り。 そこには「助けてくれ」という懇願も、「どうして」という問い詰めもない。 ただ、去っていった誰かへの挨拶か、あるいは今日という日への感謝か。 彼女は目を開けると、何事もなかったかのように荷物を持ち上げ、雑踏の中へと歩き去っていった。
その祈りは静かすぎて、コールセンターの受話器を鳴らすことはないだろう。 ランプを点滅させることも、ログに残ることもない。 けれど、それこそが私が信じたかった「希望としての天国」の形だった。
世界は、地獄ではなかった。 まだ、壊れてなどいなかった。 私は胸の奥にあった鉛のような重さが、少しだけ軽くなるのを感じた。 この景色を、あの電話口で怒鳴っている人たちにも見せてあげられたら。 そんな叶わぬ願いを抱きながら、私は再び歩き出した。 だが、この「案外平和な世界」が、どれほど脆いバランスの上にあるのかを、私はまだ理解していなかった。
まず、先ほどあなたが執筆された港でのシーンについて、私が提案した修正(地の文の客観化、比喩の強化、記号装飾の排除)を反映した最終版を改めて提示いたします。
都市の喧騒を抜け、私は潮の匂いが濃くなる港湾エリアへと足を向けた。 夕暮れ時の港公園は、穏やかな黄金色に染まっている。 波が岸壁を打つ、ザザァ、ザザァという規則的な音が、巨大な時計の秒針のように時間を刻む。 その向こう側、海と空の境界線に、白亜の巨大な客船が停泊している。 まるで海に浮かぶ城だ。夕日を反射して輝くその船体は、圧倒的な質量と美しさで風景を支配していた。
「ほら、並んで並んで! 船が入るように撮るよ」 楽しげな声がして、私は視線を下げた。 手すりの近くで、家族連れが記念撮影をしている。父親がカメラを構え、母親と二人の子供がピースサインを作っていた。
カシャ、というシャッター音。それに続いて弾けるような笑い声。
「すっげーでかいなあ!」 「今度あれに乗るんだよね?」 子供たちの瞳には、未来への期待だけが映っている。 私はその光景を、眩しいものを見るように細めた目で眺めた。 あそこには、「死」の気配など微塵もない。 不条理な暴力も、行き場のない呪詛もない。 ただ、今日という日が明日へ続き、楽しい計画が予定通りに行われると信じて疑わない、無防備な幸福があるだけだ。
私は胸に手を当てた。コールセンターで磨り減っていた心が、ゆっくりと熱を取り戻していくのを感じる。 守りたかったのは、これだ。 あの電話口で怒鳴り散らす声の主たちも、かつてはこうした風景の中にいたはずなのだ。 天国の仕事とは、このありふれた平穏が壊れてしまった時、せめてもの支えとして差し出される手でなくてはならない、と確信する。 世界は地獄ではない。 私はもう一度、そう確信しかけた。
ブオォォォォン。 不意に、腹の底を震わせるような重低音が響いた。 停泊中の客船が鳴らした汽笛だ。 それは出港の合図か、あるいはただの点検か。 人間たちには旅立ちのファンファーレに聞こえたかもしれない。子供たちは「わあ!」と歓声を上げてはしゃいでいる。
けれど、私にはその音が、どこか不吉な獣の咆哮のように聞こえた。 同時に、海風が強くなる。 一瞬だけ雲が夕日を遮り、公園全体に灰色の影が落ちた。気温が急激に下がる。 幸福な家族の笑顔が一瞬、暗い影の中に沈む。
──壊れやすい。 そんな直感が、氷柱のように背筋を突き抜けた。 この平穏は、強固な岩盤の上にあるものではない。何千、何万という偶然と、誰かの管理の上に辛うじて成り立っている、薄氷のようなバランスだ。 ひとつの歯車が狂えば。 ひとつの判断が遅れれば。 この笑い声は、一瞬にして悲鳴へと反転する。 私は、その可能性に気付いている唯一の観測者として、身震いをした。
「……帰ろう」 私は呟き、天を見上げた。 休暇は終わりだ。 地上はまだ平和だ。けれど、その平和が永遠ではないことを、私は知ってしまった。
私は足元の重力を断ち切り、空へと身体を浮かせた。 眼下で小さくなっていく港。 あの巨大な白い船が、黒い海の上で、頼りなく揺れているのが見えた。 まるで、これから訪れる運命を静かに待っている棺のように。 私はその光景を網膜に焼き付け、雲の上にある「職場」へと急いだ。 まだ、電話は鳴り止んでいないはずだから。
まず、先ほどあなたが執筆された船の沈没事故の予兆のシーンについて、私が提案した修正(カタカナ表記の統一、解説の排除、客観描写の強化)を反映した最終版を改めて提示いたします。
天国の監査室にあるモニターには、以前、私が地上で見たあの港が映し出されていた。 だが、その様相は夕暮れの穏やかな公園とはまるで異なっていた。 出航を間近に控えた港は、熱気と焦燥に支配されている。 白い巨体だった客船は、今や貪欲な捕食者のように口を開け、限界を超えた量の人と物資を飲み込み続けていた。タラップを昇る乗客の列は滞り、苛立ちの熱気が陽炎のように揺らめいている。 積み込まれるコンテナの山が、船の喫水線をジリジリと下げていく。本来の限界を示す赤いラインは、すでに波の下へと沈みかけていた。
モニターの視点を、船橋(ブリッジ)の裏手へと切り替える。 そこには、制服を着た男、運航管理を担当する者が、バインダーを片手に早足で歩いていた。 彼は立ち止まり、手元の安全点検リストを睨む。 項目は数十に及ぶ。『エンジン出力:正常』『通信機器:正常』『救命胴衣数:確認済』。
男はため息をつき、腕時計を見た。出発予定時刻まで、もう余裕がない。 彼は舌打ちを一回。 そして、まだ見ていない区画の項目に、機械的な手つきで『確認済』の印を叩き込み始めた。 バン、バン、バン。 乾いた音が連続する。彼の目は書類の上を滑るだけで、現場の機器など一度も見ていない。
男の足が止まったのは、甲板の端にある救命ボートの前だった。 ボートを覆う防水カバーが劣化し、大きく裂けている。その隙間から見える降下装置の滑車は、潮風に晒されて赤錆に覆われていた。 男の視線が、錆びた滑車に吸い寄せられる。 一瞬、その手が止まった。 報告すれば、出航は遅れる。整備には時間がかかる。会社からは「定時運行と利益確保」を厳命されている。 男は再び腕時計を見た。 そして、無言のまま、裂けた防水カバーを手で強引に引っ張り、錆びた部分を見えないように隠した。 彼はリストの最後の項目──『非常用設備』の欄に、力強く「良」の印を押した。
天国の監査室で、私は小さく息を飲んだ。 私の目の前にあるシステム画面で、この船を示すステータスアイコンが「緑」から「黄」へと変化したからだ。 『注意:リスク上昇』 『要因:人的怠慢・整備不良・過積載』 警告灯が静かに明滅する。
だが、それはまだ「死」を確定する黒色ではない。あくまで、人間たちが自ら積み上げたリスクの山を示す指標に過ぎない。 これは天災ではない。運命でもない。ただ、人間の選択が積み上がった結果だ。 私が介入できる権限は何もない。指先一つ動かすことは許されず、ただその黄色い警告を見つめることしかできない。
視線を乗客の列に戻す。 雑踏の中に、一人の若い女性がいた。 彼女は大きなキャリーケースを引きずりながら、立ち止まってスマートフォンを操作した。 画面に打ち込まれる短いメッセージ。 『今から乗るね。お土産楽しみにしてて』 送信ボタンを押した彼女の横顔には、ささやかな高揚感と、家族への愛情が浮かんでいる。 彼女は顔を上げ、巨大な船を見上げた。 その船底にある錆びついた滑車も、改ざんされたチェックリストも、何ひとつ知らないまま。 彼女は笑顔でタラップへと足をかけた。
ブオォォォォン。 重苦しい汽笛が鳴り響く。 それは出航の合図だったが、モニター越しに見る私には、巨大な鉄の棺が閉じる音のように聞こえた。 私は、黄色い警告灯が消えないままの画面を、祈るような気持ちで閉じた。 どうか、私の懸念が杞憂であってくれと願いながら。
まず、先ほどあなたが執筆された沈没事故の発生のシーンについて、私が提案した修正(カタカナ表記の統一、解説の排除、客観描写の強化)を反映した最終版を改めて提示いたします。
限界は、唐突に訪れた。 天候の急変による高波が、過積載で喫水線の沈みきった船体を横殴りに叩いた瞬間だった。 船内を、巨大な鉄骨がひしゃげるような不快な金属音が駆け抜けた。 悲鳴よりも先に、物理法則が牙を剥いた。 本来ならば固定されているはずの貨物コンテナが、留め具の劣化によって鎖を引きちぎり、雪崩のように滑り落ちる。重心を一気に失った船体は復元力を喪失し、大きく右舷へと傾いだ。
船内は天地が反転したような混沌と化した。 固定されていなかった自動販売機が、凶器となって通路を転がり落ちる。キャリーケースが、テーブルが、そして逃げ惑う人々が、低い方へと重力に従って崩れ落ちていく。
「ボートだ! 総員退船!」 船員の声が響くが、その動きは素人のように統率が取れていない。 一人が錆びついたウインチにハンドルを差し込むが、固着した歯車は動かなかった。
「駄目だ、降りない!」 「予備はどうした! 点検したはずだろ!」 「リストには『良』って書いてあったんだよ!」 怒号と絶望が交錯する中、傾きは四十五度を超え、海水が滝のようにデッキへと流れ込んできた。
混乱の渦中で、あの若い女性が、手すりに必死にしがみついていた。 その体はすでに半分、冷たい海水に浸かっている。 彼女の右手には、防水ケースに入ったスマートフォンが握りしめられていた。親指が震え、画面をタップする。 電波は圏外。 『ごめんね、まだ』 打ちかけのメッセージ。送信ボタンはグレーアウトしたまま。
彼女は誰かの名前を叫ぼうとして──口を開いた瞬間、巨大な波の壁が頭上から覆いかぶさった。 白い泡の中に、彼女の姿は一瞬で掻き消えた。 ドラマチックな別れの言葉も、最期の祈りも、海は待ってはくれなかった。ただ物理的な水量として、生命の活動を強制的に停止させただけだった。
  
同時刻、天国。 魂の受け入れゲートがある「入国管理フロア」は、異常事態に陥っていた。 普段なら、数分に一度、柔らかな光の粒子が静かに舞い降りるだけの場所だ。 だが今は、暴風雪のような光の奔流がゲートを叩いていた。 数百という単位の魂が、一斉に地上での肉体を失い、この場所へ弾き出されてきたのだ。
「識別班、急げ! 受け入れ枠を超過してる!」 「とりあえず仮番号で通せ! 精査は後だ!」 天使たちが声を張り上げ、光の塊を次々とレーンへ誘導していく。それは救済というより、ラッシュアワーの駅改札を捌く事務処理に近かった。
そして、その混乱は即座に第四区画へ飛び火した。 ヘブンズ・コールセンター。 フロア中の警告灯が、一斉に赤く染まる。
ジリリリリリリリリリ!! 数千のベルが同時に鳴り響いたかのような、耳をつんざく音圧。 私は反射的に受話器を取った。
『なんでだよ!!』 若い男の声だった。
『ニュース見たんだぞ! まだ沈むような船じゃなかっただろ! 神様が見てたなら止められただろ!』 隣の席の天使も、その隣も、全員が怒鳴られている。
『娘を返して! まだ旅行に行ったばかりなのよ!』 『おかしいじゃない、天国があるならなんでこんな酷いことするの!』 『助けてよ! 今すぐ奇跡を起こして引き上げて!』 私は唇を噛み締めた。
違う。 これは天罰ではない。神の気まぐれでもない。 私は知っている。あの船の管理者が、点検を怠り、利益のために定員を超過させ、錆びついたボートを見捨てたことを。 あなたたちの家族を殺したのは、天国の不在ではなく、地上の強欲だ。 喉元まで出かかったその言葉を、私は必死に飲み込んだ。 私たちは「窓口」だ。事実を告発する機関ではない。
「……お気持ちは、深く理解いたします」 訓練された定型句を返す私の声は、ひどく無機質に響いた。
『理解なんていらない! 奇跡を見せろよ!』 受話器の向こうからぶつけられるのは、行き場のない悲しみと、理不尽な怒り。 そのすべてが、何もしていない私たちへと降り注いでいた。


沈没事故から数時間が経過しても、コールセンターの狂乱は収まる気配を見せなかった。 私の端末も、他の全ての席と同様に、受話器を置いた瞬間に次のベルが鳴る状態が続いている。 多くの通話は、激情的だが短かった。 怒鳴り散らして切る者、一言「ふざけるな」とだけ告げる者、あるいは泣き崩れて会話にならない者。それらは嵐の雨粒のように、無数だが、一つ一つは一瞬の衝撃として通り過ぎていく。
だが、その通話は違った。 ジリリリリ。 表示された発信元IDは、さきほど──わずか十分前にも対応したばかりの番号だった。 私は眉根を寄せ、受話器を取った。
「……お電話ありがとうございます。天国コールセンタ──」
『あの子を返して』 挨拶を遮ったのは、押し殺したような、けれど煮えたぎるような女の声だった。
『さっきの担当は「記録する」って言ったわ。記録なんてどうでもいいの。今すぐあの子を、私の娘を返してよ』
「お客様、先ほども申し上げましたが、我々は地上の生死を操作することは……」
『できるはずよ! 天国なんでしょ!』 ドン、と受話器の向こうで何かを叩く音がした。
『毎日祈ったわ。毎週教会にも行った。寄付だってした。あの子は一度だって悪いことなんてしてない。それなのに、なんであんな冷たい海の中で死ななきゃいけないの!』
「……心中、お察しいたします」
『察するな! 仕事をしろって言ってるのよ! 私の祈りは契約だったはずよ。神様を信じる代わりに守ってもらう、そういう契約でしょう! 詐欺じゃない!』 彼女の言葉は、悲嘆から憤怒へ、そしてまた懇願へと、脈絡なく乱高下した。
私は手元のモニターを見る。 通話時間のカウンターが、警告色である赤に変わり、なおも数字を刻み続けている。 『30:00』三十分経過。 通常の通話処理時間の十倍だ。
この女性が回線を占有している間、救いを求めている他の声が、待機列の中でかき消されている。 システムが、彼女のIDに対して自動的にタグを付与していく。 『通話時間:過剰』 『リピート頻度:異常』 『判定:業務進行への著しい遅延行為』
『ねえ、聞いてるの天使さん』 女の声が、急に猫なで声のように湿ったものへと変わった。
『お願い。あの子だけでいいの。他の人はどうでもいいから、あの子だけ生き返らせて。私、なんでもするから。私の寿命をあげてもいいから……ねえ、聞いてる? 無視しないでよ』
「聞いております。ですが……」
『聞いてるなら叶えてよ!!』 鼓膜をつんざく絶叫。 私は思わず受話器を耳から離した。
彼女の痛みは分かる。理不尽な事故で娘を奪われた母親の、身を引き裂かれるような悲しみ。それは本来、天国が最も寄り添うべき感情のはずだ。 けれど、今の彼女は、システム全体から見れば明確な「障害」だった。 彼女が叫んでいるこの一秒の間にも、他の回線では別の悲鳴が拾われないまま消えていく。
「申し訳ございません。これ以上はお答えできません」 私は心を鉄にして、通話終了のボタンに指をかけた。
『待って、切らないで! まだ話は──』 プツン。 強制的な切断。
ツー、ツー、ツー。 無機質な電子音が戻ってきた瞬間、私は大きく息を吐いた。指先が微かに震えている。 モニター上の彼女のIDの横に、黄色いアイコンが灯った。 『要注意』マーク。 まだ地獄行きの決定打ではない。しかし、天国の業務を妨げる「敵性存在」への第一歩を示す印。
私はその黄色い光を、複雑な思いで見つめた。 被害者であるはずの彼女が、天国というシステムにおいては加害者になりつつある。 その矛盾を噛み砕く暇もなく、また次のベルが鳴り響いた。
事故から数週間が経過しても、監査画面上の「赤」は減るどころか、より濃く、深く凝固していた。 私は日課となった監査業務の一環として、特定のIDフォルダを開いた。 『対象:沈没事故被害者遺族(母)』 そこに並ぶ通話ログの羅列は、目眩がするほどの密度だった。 『通話回数:142回』 『総通話時間:58時間』 『内容分類:威嚇、懇願、教義への冒涜、オペレーターへの人格否定』 画面をスクロールする指が重い。 彼女の電話は、もはや悲しみの吐露ではなかった。天国の回線を物理的に塞ぎ、他の救済を妨げる「攻撃」へと変質していた。
ログの末尾に、システムが冷徹な判断を下す瞬間が訪れる。 『判定閾値超過』 『ステータス更新:要注意人物 → 地獄行き候補(確定)』 画面上の彼女の名前の横に、ドクロを模した黒いアイコンが静かに焼き付いた。
これで、彼女が寿命を終えた時、行き先は自動的に振り分けられる。 娘を奪われた被害者が、その悲しみの暴走によって、死後に娘と再会する権利さえ剥奪される。 あまりにも救いがない。だが、私にはその黒いアイコンを消す権限などない。
私は逃げるように、視点を地上の「現在」へと切り替えた。 薄暗いリビングルームが映し出される。 カーテンは閉め切られ、部屋の明かりは点いていない。唯一の光源は、つけっ放しのテレビ画面から漏れる青白い光だけだ。 ニュースキャスターが、沈没事故の運行会社による謝罪会見の様子を淡々と伝えている。
「ふざけるな……! 頭下げて済むと思ってるのか!」 母がテレビに向かって叫んでいた。その手にはスマートフォンが握りしめられ、画面にはまた天国への発信履歴が表示されている。 彼女の髪は乱れ、目は充血し、喉は枯れていた。地上への怒りと天国への怒りが、彼女の中で区別のつかない一つの炎となって燃え盛っている。
その背後に、もう一人の影があった。 弟だ。 彼は部屋の隅、仏壇の前に置かれた座布団に、彫像のように座り込む。 膝の上で拳を握りしめ、身じろぎもしない。 母の絶叫が部屋を揺らしても、テレビから会社の社長が「安全管理に不備があった」と認める声が流れても、彼は反応しない。 ただ、その視線だけが、遺影の中の姉に固定されている。
泣いてはいなかった。怒鳴ってもいなかった。 その沈黙は、凪いだ海のように静かすぎて、逆に底知れない深さを感じさせた。 母が外へ向かってエネルギーを撒き散らしているのに対し、彼は内側へ、内側へと何かを沈殿させている。 光の届かない海底に、重たい錨を下ろしていくように。
プツン。 私は耐えきれず、地上の映像を切った。 真っ暗になったモニターに、私の顔がぼんやりと映り込んでいる。
無力だ。 天国のシステムは、母を「悪」と断定した。 地上の社会は、彼らから姉を奪ったままだ。 そしてあの家には今、行き場のない二つの魂が、限界まで張り詰めた状態で取り残されている。
このまま終わるはずがない。 監査画面に灯った黒いアイコンと、暗闇で沈黙する弟の背中。 その二つのイメージが、不吉な予感となって私の胸にこびりついたまま、離れようとしなかった。
その日、天国の監査室に流れる空気は、明らかに異質だった。 いつもは個々の生活行動が淡々と流れるだけのモニター群が、一斉に同じ映像、地上のニュース速報へと切り替わっていた。 画面の中、無機質なビルの一角が赤色灯の海に包囲されている。 黄色い規制線の向こうには、盾を持った機動隊と、カメラを構える報道陣の黒い塊。 『速報です。沈没事故を起こした運行会社の関連ビルに、男が立てこもっている模様です』 アナウンサーの緊迫した声と共に、画面下部に太字のテロップが流れる。 『沈没事故遺族による犯行か』 『人質を取って籠城中』 『復讐の可能性』
私は、その映像の中心にある、ブラインドが下ろされた窓を凝視した。 システムが自動的に、犯人と推定される人物のデータを照合し、私の手元のウィンドウに弾き出す。 『照合完了』 『関連ID:沈没事故被害者(死亡)』 『関連ID:コールセンター業務妨害指定者(母・地獄行き候補)』 そして、表示された顔写真。
私は息を飲んだ。 それは、あの薄暗いリビングで、母親の絶叫を背に、遺影の前でただ沈黙していた、あの青年だった。
「……あの家の、弟」 私の呟きは、周囲のざわめきにかき消された。 モニターからは、地上のコメンテーターの無責任な声が流れ続けている。 『気持ちは分かりますが、これは許されない暴挙です』 『正義のつもりかもしれませんが、ただの八つ当たりですよ』 『可哀想な被害者遺族から、凶悪な加害者へ転落しました』
彼らは青年を「個」として見ていない。 「遺族」「加害者」「暴走した若者」。 勝手なレッテルを貼り、その内側にある本当の意図や、個人の痛みには誰も触れようとしない。 それは、人間たちが天国に対して行っていることと酷似していた。 「救済の光」か「理不尽な管理者」か。
コールセンターのフロアからも、新たな種類の通話音が増え始めていた。 『おい、見てるか天国! お前らが事故を防がないから、こんな事件が起きたんだぞ!』 『あの犯人を地獄に落とせ!』 『いや、彼を助けてやってくれ!』 事件さえも、彼らにとっては天国への不満をぶつける燃料でしかない。
私はモニターの中の、閉ざされた窓を見つめ続けた。 あの時、彼は泣いていなかった。怒鳴ってもいなかった。 ただ静かに、何かを耐えていた。 その沈黙が破裂した結果が、この包囲網なのか。
画面上の彼のステータスはまだ『保留』のままだ。だが、このまま事態が悪化すれば、彼もまた母親と同じように『地獄行き』の烙印を押されることになる。 姉を失い、母を壊され、そして自分自身さえも。
「……また、救えないのか」 私はデスクの縁を強く握りしめた。 システムは冷徹に、現場の危険度レベルを引き上げ続けている。
私は監査モニターの視点を、建物の外壁から内部──遮光ブラインドで閉ざされた一室へと潜り込ませる。 そこは運行会社の会議室だった。 外の喧騒とは対照的に、室内には張り詰めた沈黙が満ちていた。 ブラインドの隙間から、赤色灯の回転する光が、規則的に壁を舐めている。その明滅が、室内の影を不気味に伸縮させていた。
部屋の隅には、三人の男女──会社の社員と思われる──が座り込まされている。 手首は結束バンドで拘束されているが、衣服に乱れはなく、外傷も見当たらない。床に血痕もない。 彼らは恐怖に怯えているが、暴行を受けた様子はなく、ただ「そこに留め置かれている」だけの状態だった。
その中心に、彼──弟がいた。 彼は上等な革張りの椅子ではなく、床に直接座り込んでいた。 右手には、刃渡りの短いナイフが握られている。 だが、その切っ先は人質に向けられてはいなかった。だらりと床に向けられ、彼の膝と一緒に小刻みに震えている。 ニュースキャスターが言うような「凶悪な立てこもり犯」の姿はどこにもない。そこにいるのは、追い詰められ、引き返す道を失った迷子のような背中だった。
彼の目の前のローテーブルには、一枚の写真立てと、しわくちゃになった新聞記事の切り抜きが散乱している。 写真は、笑顔の姉。 記事は、『安全管理の怠慢、浮き彫りに』という見出し。 彼はナイフを持っていない方の手で、何度も姉の笑顔と、冷徹な活字を行き来させる。
「……なんでだ」 掠れた声が、マイク越しに私の耳に届く。 「なんで姉ちゃんが……あんな……冷たいところで」 彼は人質を威嚇することなく、ただ虚空に向かって問い続けていた。
復讐のために乗り込んだのだろう。責任者を問い詰めるつもりだったのだろう。 けれど、いざナイフを抜いて人を縛り上げた時、彼は気付いてしまったのだろう。 どれだけ社員を脅しても、どれだけ会社を恨んでも、姉は帰ってこないという事実に。
『中野、聞こえているか! 武器を捨てて出てこい!』 窓の外から、警察の拡声器の声が響いた。
彼の肩が、跳ねる。 彼は反射的にナイフを強く握り直す。 人質たちが悲鳴を飲み込む気配を感じる。 だが、彼は立ち上がらなかった。人質にナイフを突きつけることもしなかった。 ただ、震える体で小さく丸まり、姉の写真盾を守るように抱え込んだだけだ。
私は監査画面のステータスを確認した。 『罪状:不法侵入・監禁・脅迫』 明確な罪だ。赤いタグが付いている。 だが──。 『殺害:なし』 『傷害:なし』 最も重い一線、取り返しのつかない領域には、まだ踏み込んでいない。
彼は止まっている。 怒りと悲しみの出口を見失い、社会的な制裁の恐怖に怯えながら、進むことも退くこともできずに凍りついている。 このまま突入が始まれば、彼は錯乱してナイフを振り回すかもしれない。あるいは、警察の発砲によって強制的に終わらせられるかもしれない。
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部屋の空気が、臨界点に達しようとしている。 外のサイレンの音が変わり、突入部隊の足音が遠くの廊下で響き始めている。
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天国のフロアで、私の目の前のランプが一つだけ、静かに点灯した。 ジリリリリ。 周囲の喧騒とは違う、透明な呼び出し音が聞こえた。 モニターには『発信地:立てこもり現場』『ID:あの家の息子』の文字。
私はゆっくりと息を吸い、受話器を取り上げた。
「……こちら、天国です」
『なあ』 受話器から聞こえたのは、張り詰めた糸が切れそうな、乾いた声だった。
『母さんは、ここにかければ救われるって言ってた。……嘘だろ、そんなの』
「……救いがあるかは、お客様次第です」
『俺、どうすればいい』 彼の声が震え始めた。
『復讐してやるつもりだった。でも、こいつらも……ただの社員だ。殺したくない。でも、もう戻れない。外には警察がいる。俺は、地獄に行くしかないのか?』
私はモニターを見た。 彼のステータスは、赤と黄色を行き来している。
私はマニュアルにはない言葉を選んだ。 「まだ、決定しておりません」
『え?』
「あなたはまだ、誰も奪っていない。地獄への扉は、まだ開いていません」 受話器の向こうで、彼の呼吸が止まる気配がした。
「終わらせる場所は、選べます。これ以上、誰も傷つけずに終えるなら……その選択は、正しく記録されます」 沈黙が落ちた。
地上の映像の中で、青年がゆっくりと顔を上げる。 彼は部屋の隅で震える人質たちを見た。 テーブルに散らばる姉の笑顔の写真を見た。 そして、自分の手に握られたナイフを見た。
姉なら、どう言うだろうか。 母のようになってほしいと願うだろうか。
彼の手から力が抜けた。 カラン、と乾いた音がして、ナイフが床に転がった。
「……行け」 彼は人質たちに、顎でドアをしゃくった。
「警察が来る前に、行け」 人質たちが慌てて立ち上がり、転がるように部屋を出ていった。 部屋には、彼一人だけが残された。
『……これでいいのか?』 受話器越しに、彼の力ない問いかけが届く。 それは誰への問いだったのか。私か、姉か、それとも自分自身か。
私は、静かに、けれど明確に答えた。 「はい。あなたのその選択は、天国にて受理されました」
『そうか……』 青年の声に、微かな安堵が混ざった。 『姉ちゃんに、胸張れるかな』
「ええ。必ず」 プツン。 通話が切れた。
私の手の中で、受話器が温かいまま沈黙した。 何万件もの罵倒を聞き続けてきたこの耳に、今の彼の最後の吐息だけが、全く違う重さを持って残っていた。 初めてだ、と思った。 このコールセンターが、本来あるべき「人を律し、希望を持たせるための装置」として機能したのは。 たとえそれが、あまりにも遅すぎた対話だったとしても。


地上では、すべてが一瞬の出来事だった。 人質たちが廊下へ走り出た直後、青年はゆっくりと両手を上げ、ドアの前に姿を現した。手には何もない。敵意もない。 だが、極限まで張り詰めていた現場の空気は、その無防備な動作を「降伏」として処理しきれなかった。
誰かの「動いた」という鋭い叫び声。 無線機のノイズと、フラッシュバンの炸裂音が重なる。 そして、乾いた銃声が一つ。 モニターの中、青年の体が糸の切れた人形のように背後へ弾かれる。 彼は自分が撃たれたことに気付く間もなく、仰向けに倒れ込む。その瞳は、天井の蛍光灯を映したまま、急速に焦点を失っていく。 姉の写真が、血だまりの端で静かに濡れていた。
  
天国の「入国管理ゲート」。 さきほどの騒乱が嘘のように静まり返ったその場所に、光が一粒、舞い降りた。 光は人の形を結び、あの青年の姿となった。
彼の身体には、銃創もなければ、拘束の跡もない。手にはナイフもスマートフォンも握られていない。 彼はきょとんとした顔で、自分の掌を見つめ、周囲の白い回廊を見渡していた。ここがどこなのか、自分がどうなったのか、まだ理解していないようだった。
私は監査画面の前に立ち、彼の最終判定プロセスを見守っていた。 画面には、彼の人生のログが高速で流れていく。 『出生:沈没事故遺族の家系』 『環境要因:母による長期間の精神的圧迫・コールセンター妨害への関与』 『直近行動:不法侵入・監禁・脅迫』 赤い警告タグが次々と並ぶ。通常であれば、これだけで地獄行きのバスに乗せられるコースだ。
だが、ログの最後の一行で、スクロールが止まった。 『最終選択:他者の解放・暴力の放棄』 『契機:天国への通話による自律的な判断』
上位の判定者が、その行を無言で見つめている。 長い沈黙の後、判定者の指先が空中で一つだけ動いた。 システム音が鳴る。 画面を埋め尽くしていた『地獄行き候補』の赤いアイコンが消える。 代わりに、柔らかい白色の光と共に『天国行き』の刻印が灯る。
情状酌量ではない。システムが、彼の最後の行動を「善」として計算し直した結果だ。 彼は、人を殺さなかった。 復讐の連鎖を、自らの死を代償にして断ち切った。 その事実は、どんな教義よりも重い。
ゲートの先にいる青年が、ふと顔を上げた。 遠く離れた監査席にいる私と、視線が合ったような気がした。 彼は私の顔を知らない。だが、その表情がふっと緩んだ。 さっき電話越しに言葉を交わした相手がそこにいることを、魂の感覚で理解したのかもしれない。 彼は何かを言おうとするが、やめる。 ただ小さく肩の力を抜き、案内された光の扉の向こうへと、静かに歩き去っていった。 その背中は、地上で見せた強張ったものではなく、長い旅を終えた旅人のように安らかだった。
私は視線を地上のモニターに戻した。 そこではまだ、残酷な物語が消費され続けている。 『速報です。立てこもり犯の男が死亡』 『身勝手な動機による凶行』 『警察の対応は適切だったのか議論へ』 『危険な家族の背景とは』 彼には「加害者」というラベルが貼られ、永遠に剥がされることはないだろう。地上の人間たちは、彼が最後に何を選んだのか、その真実を知る由もない。
天国があるせいで、母は狂い、姉の死は歪められ、彼は追い詰められた。 私たちが作ったこのシステムが、彼らを乱したのだ。
それでも。 私はコールセンターのフロアを見渡した。 相変わらず警告灯は赤く染まり、無数のベルが鳴り響いている。 世界は救えない。 人間の怒りも悲しみも、止めることはできない。
けれど、あの青年のように、最後の瞬間にこの「窓口」の声を聞き、踏み止まれる人間が一人でもいるのなら。 地獄へ落ちるはずだった魂を、一つでも天国へ拾い上げることができたのなら。
私は自分の席に戻り、ヘッドセットを耳に当てた。 ジリリリリ。 目の前のランプが激しく点滅している。
私は深く息を吸い込み、震えの止まった指で、受話器へと手を伸ばす。 
「──お電話ありがとうございます。こちら、天国です」
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