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第六章_三日前

一色_6-4

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「お断りします」
 その日も、一色の話を聞き終えた京はその言葉をはっきりと強い意志で言い放った。場所は元々は一色も夫として一緒に住んでいた、そして、今も妻の京と娘の楓が住んでいる家だ。数年前は暖かな食事を囲んだリビングのテーブルの上には、無機質で冷たい離婚届が広げて置いてある。そこには一色誠の欄だけが埋められていた。
 もう何度目かの協議だった。とはいえ、パターンは同じで一色から離婚をして欲しい、との申し出を行い、京が断るの繰り返しだ。
「誠。別に離婚したい、という貴方の意思を全て否定したいわけじゃない。尊重したい気持ちもあるの。だからこそ、理由を話して欲しいの」
 京の言葉も主張も一貫している。当然だ。一色は今、彼自身の本心は隠したまま離婚したい、と提示しているのだ。
「家族の為や」
「家族の為なら、貴方がいる方が良い」
 即答だ。強い意志――これは京の魅力の一つであり、一色も過去に影響を受けた部分でもある。
 過去には、
「他に好きな人ができた」
「愛がなくなった」
「自由になりたい」
 様々な嘘の理由を並べたこともある。しかし、全て見透かされ、真実なら当然のように返せるのに嘘だからこそ言いよどむような反論をされて、一色は何も返すことが出来ずに結果を先送り、それを繰り返して現在に至る。
 今となっては、もう下手な嘘はつかずに「離婚したい」とその言葉だけを述べ、何度も繰り返すことで相手が根負けすることを願うしかない状態だ。
「納得できる理由は――説明できない。いや、してくれないのね」
「……すまない」
「家族にも頼れない、打ち明けられない――その状況で貴方は大丈夫なの? 仲間はいるの? 独りではないの?」
「…………」
「貴方が思っている以上に、貴方になら頼られたいと思っている人はいるのよ。貴方が必要だと思っている人はいるのよ。私だって、楓だって、仕事の仲間だって、友達だって――」
「………………」
 京の感情のこもる言葉に一色は黙ることしかできなかった。彼女には彼が何故、離婚という決断が必要なのかその真実までは解らない。それでも、その決断が自分達のことを思ってのことだ、というのは解っているのだ。周囲のことを考えて動いてしまう人だ、と解っているのだ。
「……答えてくれないのね。帰って」
「……すまない」
 その日も、決して交わることのない平行線の協議は、当然の結末を迎えて解散となった。
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