有栖と奉日本『真夏のモンスター』

ぴえ

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「お腹空いた……」
 定時に退社した有栖は帰り道に、自分の空腹を感じながら呟く。彼女としては残業するつもりだったし、夜食も食べるつもりだったので一色に定時退社するように告げられたことは予想外だった。彼としては有栖のストレスを配慮し、その判断を即座にしてくれるのは上司として有能であり、彼の性格が優しいことを証明している。一方で、有栖としても少々の罪悪感はあるものの素直にその配慮を受け入れてしまうのは、実際に肉体的にも、精神的にも疲労を感じていたからだ。
「それにしても暑い」
 疲労の要因を睨むように、有栖は空を見る。
 時刻は夕方。日はまだ高いがそれでも日中よりは日差しの棘は取れている。その代わり、地面に吸収されていた熱が吐き出されるように放出され、夕日に変わろうとしているのに未だ頑張ろうとしている太陽の熱に挟まれて暑い。日中は猛暑日、今は真夏日、夜になっても熱帯夜。それが連日も続けば、体力に自信がある有栖でも、外回りが億劫に感じ、苦手な事務仕事でもクーラーの効いている部屋で仕事ができるなら恋しく感じてしまうぐらいには疲労が溜まっていた。
「有栖さん」
 帰宅して夕食を食べたら、風呂に入って早く寝よう、と思っていた有栖を聞き覚えのある声が呼びかけた。
「高本さん」
 そこには買い物袋を手に持ったいつもランチを食べに行っている喫茶店のマスターである高本の姿があった。彼は近づくと、自然と横に並んで一緒に歩きだした。
「帰りですか?」
「はい。高本さんは? バーに切り替える時間帯じゃないですか」
「ちょっと食材に不安を覚えたので買い出しに」
「なるほど。あ、ランチの冷製パスタ美味しかったです」
「いえいえ……じゃあ本格的にメニューに組み込みましょうか」
「え?」
「いえ、こっちの話です。一杯、飲んでいきますか?」
「いや、今日は真っ直ぐ帰ります」
「そうですか。またの来店をお待ちしてます」
「明日のランチも行きますよ。あ、夜道は気をつけてくださいね。最近、物騒ですから」
「あー、切り裂き魔ですか?」
「知ってますか?」
「今、話題ですから。男女問わずナイフで切りつけられる被害が多発してますよね。女性に関しては大きな怪我をしている人もいますし」
「凶器を持って、自分より弱い奴を狙う卑怯者ですよ。そういった意味では高本さんも華奢に見えるから気をつけて――」
 歩きながらテンポ良く会話をしていると、有栖のスマホが鳴った。すみません、と一言挟むと彼女はスマホを取り出す。画面には一色からの着信が表示されていた。彼女は画面をタップし、耳に当てた。
「イチさん、どうしました?」
『有栖、帰ってるところスマン。今どこや?』
 有栖は現時点の場所を周囲を見渡しながら言った。
『その付近で傷害事件の疑いがある通報があった。もしかしたら、切り裂き魔かもしれん』
「解りました。現場に急行します。住所を教えてください」
 有栖は通話を切ると、高本へと顔を向ける。
「すみません。急用が入りましたので自分はここで」
「はい、気をつけてください」
 高本の笑顔に一礼すると有栖は駆け出した。その背中を見送っていた彼だったが、
「――あっ、これ」
 先程まで有栖が立っていた場所に落ちていたハンカチを拾い上げると、彼は一つ息を吐き、小さく微笑んだ。
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