5 / 57
有栖_1
有栖_1-2
しおりを挟む
「お腹空いた……」
定時に退社した有栖は帰り道に、自分の空腹を感じながら呟く。彼女としては残業するつもりだったし、夜食も食べるつもりだったので一色に定時退社するように告げられたことは予想外だった。彼としては有栖のストレスを配慮し、その判断を即座にしてくれるのは上司として有能であり、彼の性格が優しいことを証明している。一方で、有栖としても少々の罪悪感はあるものの素直にその配慮を受け入れてしまうのは、実際に肉体的にも、精神的にも疲労を感じていたからだ。
「それにしても暑い」
疲労の要因を睨むように、有栖は空を見る。
時刻は夕方。日はまだ高いがそれでも日中よりは日差しの棘は取れている。その代わり、地面に吸収されていた熱が吐き出されるように放出され、夕日に変わろうとしているのに未だ頑張ろうとしている太陽の熱に挟まれて暑い。日中は猛暑日、今は真夏日、夜になっても熱帯夜。それが連日も続けば、体力に自信がある有栖でも、外回りが億劫に感じ、苦手な事務仕事でもクーラーの効いている部屋で仕事ができるなら恋しく感じてしまうぐらいには疲労が溜まっていた。
「有栖さん」
帰宅して夕食を食べたら、風呂に入って早く寝よう、と思っていた有栖を聞き覚えのある声が呼びかけた。
「高本さん」
そこには買い物袋を手に持ったいつもランチを食べに行っている喫茶店のマスターである高本の姿があった。彼は近づくと、自然と横に並んで一緒に歩きだした。
「帰りですか?」
「はい。高本さんは? バーに切り替える時間帯じゃないですか」
「ちょっと食材に不安を覚えたので買い出しに」
「なるほど。あ、ランチの冷製パスタ美味しかったです」
「いえいえ……じゃあ本格的にメニューに組み込みましょうか」
「え?」
「いえ、こっちの話です。一杯、飲んでいきますか?」
「いや、今日は真っ直ぐ帰ります」
「そうですか。またの来店をお待ちしてます」
「明日のランチも行きますよ。あ、夜道は気をつけてくださいね。最近、物騒ですから」
「あー、切り裂き魔ですか?」
「知ってますか?」
「今、話題ですから。男女問わずナイフで切りつけられる被害が多発してますよね。女性に関しては大きな怪我をしている人もいますし」
「凶器を持って、自分より弱い奴を狙う卑怯者ですよ。そういった意味では高本さんも華奢に見えるから気をつけて――」
歩きながらテンポ良く会話をしていると、有栖のスマホが鳴った。すみません、と一言挟むと彼女はスマホを取り出す。画面には一色からの着信が表示されていた。彼女は画面をタップし、耳に当てた。
「イチさん、どうしました?」
『有栖、帰ってるところスマン。今どこや?』
有栖は現時点の場所を周囲を見渡しながら言った。
『その付近で傷害事件の疑いがある通報があった。もしかしたら、切り裂き魔かもしれん』
「解りました。現場に急行します。住所を教えてください」
有栖は通話を切ると、高本へと顔を向ける。
「すみません。急用が入りましたので自分はここで」
「はい、気をつけてください」
高本の笑顔に一礼すると有栖は駆け出した。その背中を見送っていた彼だったが、
「――あっ、これ」
先程まで有栖が立っていた場所に落ちていたハンカチを拾い上げると、彼は一つ息を吐き、小さく微笑んだ。
定時に退社した有栖は帰り道に、自分の空腹を感じながら呟く。彼女としては残業するつもりだったし、夜食も食べるつもりだったので一色に定時退社するように告げられたことは予想外だった。彼としては有栖のストレスを配慮し、その判断を即座にしてくれるのは上司として有能であり、彼の性格が優しいことを証明している。一方で、有栖としても少々の罪悪感はあるものの素直にその配慮を受け入れてしまうのは、実際に肉体的にも、精神的にも疲労を感じていたからだ。
「それにしても暑い」
疲労の要因を睨むように、有栖は空を見る。
時刻は夕方。日はまだ高いがそれでも日中よりは日差しの棘は取れている。その代わり、地面に吸収されていた熱が吐き出されるように放出され、夕日に変わろうとしているのに未だ頑張ろうとしている太陽の熱に挟まれて暑い。日中は猛暑日、今は真夏日、夜になっても熱帯夜。それが連日も続けば、体力に自信がある有栖でも、外回りが億劫に感じ、苦手な事務仕事でもクーラーの効いている部屋で仕事ができるなら恋しく感じてしまうぐらいには疲労が溜まっていた。
「有栖さん」
帰宅して夕食を食べたら、風呂に入って早く寝よう、と思っていた有栖を聞き覚えのある声が呼びかけた。
「高本さん」
そこには買い物袋を手に持ったいつもランチを食べに行っている喫茶店のマスターである高本の姿があった。彼は近づくと、自然と横に並んで一緒に歩きだした。
「帰りですか?」
「はい。高本さんは? バーに切り替える時間帯じゃないですか」
「ちょっと食材に不安を覚えたので買い出しに」
「なるほど。あ、ランチの冷製パスタ美味しかったです」
「いえいえ……じゃあ本格的にメニューに組み込みましょうか」
「え?」
「いえ、こっちの話です。一杯、飲んでいきますか?」
「いや、今日は真っ直ぐ帰ります」
「そうですか。またの来店をお待ちしてます」
「明日のランチも行きますよ。あ、夜道は気をつけてくださいね。最近、物騒ですから」
「あー、切り裂き魔ですか?」
「知ってますか?」
「今、話題ですから。男女問わずナイフで切りつけられる被害が多発してますよね。女性に関しては大きな怪我をしている人もいますし」
「凶器を持って、自分より弱い奴を狙う卑怯者ですよ。そういった意味では高本さんも華奢に見えるから気をつけて――」
歩きながらテンポ良く会話をしていると、有栖のスマホが鳴った。すみません、と一言挟むと彼女はスマホを取り出す。画面には一色からの着信が表示されていた。彼女は画面をタップし、耳に当てた。
「イチさん、どうしました?」
『有栖、帰ってるところスマン。今どこや?』
有栖は現時点の場所を周囲を見渡しながら言った。
『その付近で傷害事件の疑いがある通報があった。もしかしたら、切り裂き魔かもしれん』
「解りました。現場に急行します。住所を教えてください」
有栖は通話を切ると、高本へと顔を向ける。
「すみません。急用が入りましたので自分はここで」
「はい、気をつけてください」
高本の笑顔に一礼すると有栖は駆け出した。その背中を見送っていた彼だったが、
「――あっ、これ」
先程まで有栖が立っていた場所に落ちていたハンカチを拾い上げると、彼は一つ息を吐き、小さく微笑んだ。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる