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水たまりにそよぐ風
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「起きろよ」
顔を軽くたたかかれて、眼を醒ます。
寝ぼけた顔にその男前がキスした。
その唇はとても特徴的な厚みのある唇でいつもうっとりする…。
彼は愛車のアイドリングのためもう外に出てた。
震えるような手で唇を確かめた私は、ゆっくり眼を見開いた。
外では車の暖機運転をしている音が聞こえた。古い車なのでエンジンをかけて暫く暖機が必要なのを知ったのは、車好きな彼からだった。
ばっちり目が覚めたのは、その日が初めてだった。
学校の門でおろしてもらうと、面倒くさいように学生専用の駐車場へ車を運転するのを見て、ああ、今日は授業に出るんだ…と安心した。
二〇年後なんて来るのかと思ったら案外簡単に年をとっていた。
今年の学会は、高知県だった。
私は、学生とは別にタイムスケジュールを組んだので、そうまで煙たげられない存在だった。
空港からのタクシーを一台乗り付けると、
「高知総合研究センターまで」
と言って、外を眺める。
タクシーはすぐに発車した。少しだけ煙草の匂いが社内にした。懐かしい、甘くて苦い匂いだった。
「学会の学生さん?」
タクシー会社の少し目深にかぶった帽子が日差しを直に受けている。直日で相当まぶしいんだろう、ポケットからサングラスを取り出していた。
私は笑って、「学生じゃないんだけど…まあ、参加者です」そう言った。若く見られるのも、このナマっちろい体が、研究室から外に出てない証拠なんだろうなと思った。
「いやースマンのぉ。さっきまで派手派手しい学生がわんさか降りてきたきにー…あんたもそうだと思って」ハスキーな声は悪びれなく笑う。
私は、「今日は申込書の申請だけだから、後、ホテルでのんびりしようか、観光でもしようか考えてるところだ」と言うと、彼は当たり前のように、
「じゃあ、待ってるわー」
と、答えて車を駐車スペースに回しておくと言った。
重い荷物を持って、大きな煉瓦敷きの校庭を歩かなくていいと思うと気が楽になった。
「よろしく」
「四国初めて?」
「そう…でもない。高知は初めて」
「メジャーなところ、行っておく?」
営業トークにうんざりしながらも、時間つぶしにはなるかなという試案で、
「別に…すごく見たいとは思わないけど、旅の思い出?記念にはなるかな」
「そうそう…記念にはね」
車は本当に、メジャーなところをすいすいと走って行った。
海が太平洋なんだと、私は思った。
まぶしいくらいの太陽に、目眩が起きそうだった。
運転手の話はとてもとても心地よく、面白く時間が潰せたが、次の日を考えると、なんとか足摺岬までの遠出は勘弁してもらったくらいだ。
彼は「まめに水分補給しないと」と言って、自販機から何も言わずにぽんと私にジュースをサービスしてくれる。前交渉で半日周遊の金額にこれも含まれているのかと思ったが、彼は特別そんな顔もせず、風下に出るとジッポでショートホープを出して吸い始めた。休憩時間をマメに取るのは彼がヘビースモーカーだからだと納得した。手持無沙汰な私には「遅いお昼」と言って地元個人商店のハンバーガーを渡してくれた。紙袋には不死鳥のイラストが描いてあった。
「少し照れくさい。おっさんどうしだなぁ」と、私は少し笑った。
そうだ、ホープの匂いだ。
手袋をとった白い手には小さなホープがみるみる灰になっていった。
「…高知高校の、野球部…今、してるかな」
「野球?そりゃ練習位するけど、なんでそんなマイナーな学校?」
「知り合いが、その学校出たんだってだから、ついそう思っただけ」
彼は、野球で肩壊して…学校では他のクラブ活動に入ったんだ。吹奏楽部に。音楽の好きな私は彼のトロンボーンが好きで、色々な流行りの曲から金管楽器の入っている音楽をわざと勝手にテープに入れていたっけ。で、勝手に車のカセットに突っ込んだりして。流行りの歌の時には適当に流す癖に、微妙に私が入れてあった曲に黙って煙草を吸いながら聞いていたっけ。
お互い、連れがいた。
彼には一個上で教員免許を取っている、同じクラブのかわいいフルートの彼女がいた。うちの学校では女が少ないし、存在そのものが回りを穏やかにするような雰囲気のかわいらしい子だった。公認の中で有名だった。彼女はクラブには顔を出すけれど、授業で忙しいせいか、部外での付き合いを好んでする方ではなかった。私の連れは逆に、とてもじゃないが口から生まれてきたような奴だった。いつも、心の中で「黙れ」と、思っていた。
女が少ない学校はそういうものだった。
普通に助手席が優等席のように座り「今日はどこに行きますか?」と、夜のドライブを暗に誘っていた。私は、子守だった。
ただの書き割り…。
大きな大学の私立。それも学部で二年以上から専門教育に入ると雲泥もかけ離れてしまうというのに、遊びたいだけ遊んで何が悪いというほどの構えで、金魚のフンのような奴だった。試験になるとまるで自分が連れだ!どうだとばりに見せつけて学校へ来る。もちろんレポートは私のまる写しだった。だが逆に点が悪くなるのは私の方だった。教授陣もそう言う所だった。
グラウンドは野球じゃなくてサッカーの練習が行われていた。土埃で砂塵が舞っていた。
笑い声やどなり声が若々しかった。
「学生時代なにしてました?」
「ゲーセンとか…峠とか零四の時代でした。走り屋の先輩の車で夜中まで走ってて、ライト消して走ってビビったり。……貧乏学生でしたから、一年の時にね、郵便局の通帳残高の紙…派手な女が私の手から奪って勝手に見たことあるんですよ。百万円入っててチョー金持ちジャン。って。でもね、六年間でそれだけなんですよ。親は。二年の時にやっと奨学金がもらえるようになったときに、そいつらと縁を切りましたよ。別にもういいやって。あほな奴とくるんでつまらない毎日を過ごしててもいいことないし、人一人でも生きていくってね。…馬鹿でしたよ……一人は寂しかった」
何の気なしに私は、彼の前ではすべてを許してしまうように話している。旅の書き捨てというか、自分すらどうでもいい絵空事のように。
「ほら、野球部が帰ってきましたよ」
そう言われて見ると、正門の逆の方向から練習用ユニホーム姿で、全員が走りこんできた。
一人半裸なのがいて、それを見て私は笑った。
「そうそう、先輩が、練習試合で負けたらまっぱで走ってやるって言ってたな~。で、実行したんだって…よく警察に捕まらなかったよって、笑って教えてくれたことがあって…」
ショートホープのジジジッという燃える音が、金属音に消された。
野球部のミットの音とちょっと抜けた気合いの声がここまで聞こえてくるのを二人して見ていた。
二日間にわたる面倒な学会。つまらない学生の演説。お決まりどおりの質問。ここで勝手に部外者が突っ込みを入れたら、まっさきに主教授が立ちあがって返答をする。
今年も平年通りだ。この後の薄っぺらい懇親会をだるい目で見おくって、学生たちはさっさと夜のクラブやイベント会場へ出かけて行った。
私もしつこい同期や同じ分野のやつらとの言い合いになる前に抜けようと、算段していた。
タクシーは捕まるだろうか。
眠たいけど、腹が減ってたまらなかった。
そううつらうつら考えながら外に出た。
「OFF?」
彼はそう言った。
運転手が帽子を振って挨拶した。
「あれ?」
「金の匂いがするところにはハイエナがいるって…あんたみたいなの、高知城ひと回りされて、ホテルにご到着、なんてことになる口だよ」
そう言って、後ろを開けてくれた。
「酒は弱い方?」
「冷酒5本、飲んで倒れたことあった。それ以来瓶で5本飲まないことに決めた」
「そりゃ大した口だ」
彼は笑った。
居酒屋で二人して飲むなんて久しぶりだった。
あの時も、そうだった。
そしてトイレで倒れた私に「よわっちいやつ」と言ってたっけ。
「高知の人はザルなんですかね…」
「そりゃ、旨い酒あって、旨い魚あって、きれいなねーちゃんいたら食っちまうしかないでしょう。手をつけんのは罰が当たるっちやあ」
「そんなものですか…」
「そう、て」
初めてトイレでしたのは、彼のアパートだった。いつも通りの面子が遊びに来て、みんなが寝静まった時に、眼を覚まして、トイレから出た私の前に彼がいた。
そのままドアを譲ろうとしたら胸を軽く押され押し入られた。そして、気がついたら咥えてた。
「はじめて」と聞かれ、黙っていると、「どこで習った?」って聞かれたので「親父のエロビデオ」と答えた。彼のそこは少し前のめりに先が曲がっていた。出された精液にびっくりして飲み込むことができず、黙ってトイレのタンクに吐いてしまった。
彼はそのままトイレから出て行った。
居酒屋は陽気で楽しい店だった。
「なんで、こんなに生にんにくが…」
と、カツオに乗ってるにんにくスライスを見て、私は鼻血が出るんじゃないかと思ったくらいだった。
「美味いんだけどね…」
「美味いなら美味しそうに食いなよ。ゆっくりでいいから」
酒を注いでもらいながらそう言われてびっくりした。
へたくそな奴が女気取りで作る料理より上手な私が料理を作る。バイトから帰ってきた彼にビールを出して「美味そうに食いなよ」って言った。
彼女は彼に料理を作ってやらないのだろうか。と思ったが、勉強の遠慮しているのかどうかで、帰りしな同じバイト先にもぐりこんだ連れの家によく来るようになっていた。私は人数が多ければ多いだけ料理を作れるほどの自信はあったから…余計なことはあまり考えなかった。考えるのが嫌だったのかもしれない。
「バイトのねーちゃんがさ、眼の前でぶっ倒れるの見てびっくりしたよ」
「炎天下でしたもんね。今日は特に」
同じバイト先にもぐりこんだ連れはまるで自慢げに、笑っていた。
だれも私の言葉なんか聞かない。
でも、彼だけが好き嫌いなくおかずを食ってくれた。
「そう言えば、長いイモってね…うちは砂糖入れるんですよ、それが普通だと思ってたんです。テレビでも麦ごはんに長いも入れて食うてやつで…そしたら砂糖入れてたの自分だけでみんな気持ち悪って」
「…」
「腹が立つから、醤油と鰹節乗せて別の料理にして出したんだけど、ひとりで自分ちはこれだって食ってました。そしたら、嫌な奴がいて、じゃあ、トマトにも砂糖?って聞きやがったんで、醤油で食うんだって言ったらこれまたみんなして気持ち悪いって…好きで食ってて悪いですかね。あれ…言葉乱暴ですね、すみません」
「気持ち悪くないよ…それにやっと自我出た見たで肩の力抜けたんじゃない」
酒に酔ったのもあるけれど、とても気持ちが良かった。たわいもない話が続く。けして詮索しないのが心地いい。
「髪…それ天然パーマなんですね…うらやましな。何一つ親に似てなかったせいで、ね。天パしたくて…今でこそメガネなんですけどねメガネ一族」
「天パって頭悪く思われるからあんまりほめられたことないけど」
彼の髪の毛は私の親父と同じ天パだった。
口数の少ない私は遊びに連れて行ってもらって出掛けても、深夜遅くなって夜更かしできないタイプですぐに眠ってしまう。
深く眠ることはなかったが、体が眠い状態になってしまうのだった。
その日も、彼のアパートで遅くまで、いつものメンバーと遊んでいた。
「こいつ、もう寝てやんの」
と言われて笑われていた。
続き二部屋開け放しの畳部屋の隅の奥で、私は眠っていた。
夜中に寄り添うように眠っているのが連れではなくて、彼だと知った時にはびっくりして、鼓動が一気に跳ね上がった。
やわらかく抱きしめるように寝返りをうった手が、念入りに体に入ってきた。厚い唇が首筋に当たっている。
じっとりと股間がしみるのが分かった。
「やりたい」
腰が抜けるほど甘いキスだった。
私は落ちた。
うっとおしい連れからも、モブでやかましく言う奴らからも、私と彼が遊んでいるのがかなり妬ましく思われていた。なんでこんなのがいつもいるのかと…言いたげに、遠まわしで嫌味を言われた。それでも彼は私をそばに置いてくれた。なぜだか理解できなかった。寝入った連れから見えない距離でかすめ取るように濃厚なキスをされたこともあった。
…だから距離を置いた。
私の連れの家から、確実に紳士的に帰れることができたから。
心地よい時期だった。
「じゃあ、帰るわ!」
とチャリで帰ると、数分後に、チャイムが鳴る。辛い現実の後に来るひと時の幸福。
ドアを開けると、
「ビールあるかや」
そう言って、部屋にあがりこむ。
ビールは買い置きしてあったり、なければワンカップ酒で我慢してもらっていた。当時はまだ飲酒運転もそこまで取り締まりが厳しくなかった時代だ。
彼とのセックスは一番合ってた。
というか、始めてイッタのは彼だった。
ちょうどその場所にあたって擦れるのだ。
後にも先にも他の奴らとやってもそれはたぶんイッタという感覚だけだった。
彼女がいるくせに…と思うことすら、その時は忘れていた。
しかも、セックスの時にゴムを使わないのも彼だけだった。
種つけかよ…シャワーで流れる白濁したものを見ると、いつもむなしさと、安堵感が流れていくようだった。
エイズという言葉が日本に上陸した時代に。
大概は彼のアパートに連れて行かれ、最低でも2回はしていた。何人も女がいるというと噂の、このたくましい筋肉が、私の体を突き上げる。
発狂しそうになるほどの嬌声を、「駄目だっちや。お隣は社会人なんだから」と言って、手元にあったパンツで口に押し込まれたこともあった。
その反動で連れとやるのが苦痛でしょうがなかった。自慰したほうがましだった。別れたい…なのに分れなかったは彼がいたから。彼がいつも飯を食いに来ていたから。
同期の連れの群れに群れるのももう嫌になった。けれど、連れのクラブに、彼がそこに確実にいるのを知っていたから…すべてのことに耐えた。
最高の不幸で最高の幸せな時を過ごした時期だった。
工学部は100人入って3人しか卒業生が出ないという恐ろしい学部だったので、彼の留年は決定してしまった。
「一緒に卒業しましょうよ」
当然、後2年は駄目だろうというのが鉄則だった。
ある時、布団の中で、昔、女とした場所で一番すごかった場所。っていうのを教えてくれた。
「公衆電話。ちょうど影になってて、場所的に死角で最高でさ」
「怖っ、見つかったらって…」
「それが、いいっちや」
と、笑っていた。
「…今日は学校へ行くんでしょう必須があるから」
朝、彼は面倒くさそうな顔をして私を学校まで律儀に送ったら、帰るかパチンコって感じで頭を掻いていた。
非常階段でこの前やってたって誰か言ってなかったっけ?学校内はメジャーすぎてエロくないのか…などと思ったりした。
それとも、一個上の彼女の紐に本当になるんだろうか。頭のいい彼女は、教員採用試験に難なく合格していた。彼女は不思議なことに縁もゆかりもない隣の県の教員免許を所得していたのを噂で聞いた。クラブの部員たちが「…愛のなせる技とはいえ普通には出来んわぁ」うちの学校からでも通える…そう考えると切なくなった。敵わないわ。
私はすべてに決別をした。
連れは捨てないでと、すがった。が、目に見えていた。捨てられると確実に単位が貰えない。食い損なう。目立たなくなる、そんなの、分かり切っていた。見え見えのすがりようだった。怒り狂った暴力をふるわれても決心は変わらなかった。こいつとのセックスは、もう嫌で仕方なかった。
連れのダチというものに、教室で会えば聞こえよがしに捨てた奴が悪いとさんざん嫌味を言われ、孤立し、ため息が出るほどの日々が続いた。
その時から夜ドアを開けなくなった。
独特の車の音が近くまで来て、チャイムの鳴る音とドアをたたく音、そして車がまた行ってしまう……その間、息を殺してドアの前でうずくまっていた。
押し殺しても、涙が止まらなくてしょうがなかった。
生き苦しくて…どうでもいいような奴と寝た。すぐに別れる結果になったが、そんなこと、どうでもよかった。ただ体が寂しかった。押しつぶされた心を体で紛らわせていた。
「この店から海近いですか?」
「歩いて10分ってところかな」
「酔い覚ましに歩いて…帰れるかな」
「ホテルと逆方向にあるかなんだら大丈夫やきーね」
私はふふふと笑った。
変な顔してると笑われた。
「海見たいんですよ。瀬戸内海で育ったから。和歌山の海も見たけど、夜は見たことないんです。黒潮に乗るな!って怒られて、海岸沿いをフナ虫見つけたりしただけで」
「危なっかしいな…まあ街灯もあるし」
勘定は私がさっさと払って、外に出た。
風は強かった。
けれども、強くて暖かかった。
「ほら」
そう言って手をつかんでくれた。
「恋人みたいですね」
とはしゃぐと、酔っぱらいをあやすように「こがいな年食った恋人なんかいらんわ」と言われた。
それでも私は嬉しかった。
手をつないだことはなかった。
彼と名前で呼んだこともなかった。
名前で…。
「名前、なんですか?」
「はっ」
「私は一里のイチリのイチって呼んでください。でも、ヒトリなんです、ずっと、誰かと居てもだれかと暮らしても、ずっと待っていたんです……あの場所で…。…初めて来たんです。あの人が育った場所がどんなところか、どんな空気だったのか知りたくなって…」
涙が止まらなくなっていた。
海岸は風も強くて、砂塵も舞っていて、足は半分淀んだ水たまりの中で気持ち悪くて、最悪だった。
最悪だった。
強く抱かれていたのに気がついたのは、相手の呼吸が聞こえた時だった。
「で、どうだった?」
「…いいところですね。ここは、おおらかな人が育つって場所で…夢見た通りのところでした。果てしない青い海が続く場所で、彼の言ったとおりでした」
ギュッと、私を支えてくれた。
「もうこれで終わり、これで終わらせられる…ずっと好きだった。言葉に出して言えなかった。言ってしまえば楽だったけど、言えなかった…あの人の代わりになってもいい、マブでも、妾でもいいからそばに居させてほしいって」
「その人の名前は?言っちゃえば。海のバカヤローって、感じでさぁ。楽になるかも」
「忘れた…名前。何もかも覚えてるのに、名前忘れた…」
「…そりゃないんじゃない」
私はそうかもしれないと、思って笑った。何もかも覚えて、何もかもを投げ捨てて、同じ場所で待ち続けていたくせに名前を忘れたなんて…知らなかったのか…最初から何も彼のことを知らなかったのかもしれない。
今抱きしめてくれた人の腕の太さに私は落ち着いて、ふわふわとした幸福感でホテルまでどう帰ったのかはわからなかった。
その日、久しぶりに安堵した気持で眠った。
次の日も、空港までタクシーで送って行ってくれたのは彼だった。
「また来なよ…今度は遊びに、いいところたくさん紹介するよ」
そう言って、彼はくたびれた名刺をくれた。
楷書体で池上貴俊と書かれてあった。
飛行機の中で呟く。
「なんだ、ひと文字違いかよ」
目を閉じると心の中で何度も何度も呼んだ名前が突然の如く思い出され、風に吹かれて飛んでいく。
『ヒトリ』
やさしい言葉で呼んで欲しかった。
本当に彼の女になりたかったのかも知れない。そう思うと涙が止まらなかった。飛行機が飛び立つのをを待つ間涙が溢れてきた。こぼれおちる涙が、こんなにも暖かいとは思わなかった。
顔を軽くたたかかれて、眼を醒ます。
寝ぼけた顔にその男前がキスした。
その唇はとても特徴的な厚みのある唇でいつもうっとりする…。
彼は愛車のアイドリングのためもう外に出てた。
震えるような手で唇を確かめた私は、ゆっくり眼を見開いた。
外では車の暖機運転をしている音が聞こえた。古い車なのでエンジンをかけて暫く暖機が必要なのを知ったのは、車好きな彼からだった。
ばっちり目が覚めたのは、その日が初めてだった。
学校の門でおろしてもらうと、面倒くさいように学生専用の駐車場へ車を運転するのを見て、ああ、今日は授業に出るんだ…と安心した。
二〇年後なんて来るのかと思ったら案外簡単に年をとっていた。
今年の学会は、高知県だった。
私は、学生とは別にタイムスケジュールを組んだので、そうまで煙たげられない存在だった。
空港からのタクシーを一台乗り付けると、
「高知総合研究センターまで」
と言って、外を眺める。
タクシーはすぐに発車した。少しだけ煙草の匂いが社内にした。懐かしい、甘くて苦い匂いだった。
「学会の学生さん?」
タクシー会社の少し目深にかぶった帽子が日差しを直に受けている。直日で相当まぶしいんだろう、ポケットからサングラスを取り出していた。
私は笑って、「学生じゃないんだけど…まあ、参加者です」そう言った。若く見られるのも、このナマっちろい体が、研究室から外に出てない証拠なんだろうなと思った。
「いやースマンのぉ。さっきまで派手派手しい学生がわんさか降りてきたきにー…あんたもそうだと思って」ハスキーな声は悪びれなく笑う。
私は、「今日は申込書の申請だけだから、後、ホテルでのんびりしようか、観光でもしようか考えてるところだ」と言うと、彼は当たり前のように、
「じゃあ、待ってるわー」
と、答えて車を駐車スペースに回しておくと言った。
重い荷物を持って、大きな煉瓦敷きの校庭を歩かなくていいと思うと気が楽になった。
「よろしく」
「四国初めて?」
「そう…でもない。高知は初めて」
「メジャーなところ、行っておく?」
営業トークにうんざりしながらも、時間つぶしにはなるかなという試案で、
「別に…すごく見たいとは思わないけど、旅の思い出?記念にはなるかな」
「そうそう…記念にはね」
車は本当に、メジャーなところをすいすいと走って行った。
海が太平洋なんだと、私は思った。
まぶしいくらいの太陽に、目眩が起きそうだった。
運転手の話はとてもとても心地よく、面白く時間が潰せたが、次の日を考えると、なんとか足摺岬までの遠出は勘弁してもらったくらいだ。
彼は「まめに水分補給しないと」と言って、自販機から何も言わずにぽんと私にジュースをサービスしてくれる。前交渉で半日周遊の金額にこれも含まれているのかと思ったが、彼は特別そんな顔もせず、風下に出るとジッポでショートホープを出して吸い始めた。休憩時間をマメに取るのは彼がヘビースモーカーだからだと納得した。手持無沙汰な私には「遅いお昼」と言って地元個人商店のハンバーガーを渡してくれた。紙袋には不死鳥のイラストが描いてあった。
「少し照れくさい。おっさんどうしだなぁ」と、私は少し笑った。
そうだ、ホープの匂いだ。
手袋をとった白い手には小さなホープがみるみる灰になっていった。
「…高知高校の、野球部…今、してるかな」
「野球?そりゃ練習位するけど、なんでそんなマイナーな学校?」
「知り合いが、その学校出たんだってだから、ついそう思っただけ」
彼は、野球で肩壊して…学校では他のクラブ活動に入ったんだ。吹奏楽部に。音楽の好きな私は彼のトロンボーンが好きで、色々な流行りの曲から金管楽器の入っている音楽をわざと勝手にテープに入れていたっけ。で、勝手に車のカセットに突っ込んだりして。流行りの歌の時には適当に流す癖に、微妙に私が入れてあった曲に黙って煙草を吸いながら聞いていたっけ。
お互い、連れがいた。
彼には一個上で教員免許を取っている、同じクラブのかわいいフルートの彼女がいた。うちの学校では女が少ないし、存在そのものが回りを穏やかにするような雰囲気のかわいらしい子だった。公認の中で有名だった。彼女はクラブには顔を出すけれど、授業で忙しいせいか、部外での付き合いを好んでする方ではなかった。私の連れは逆に、とてもじゃないが口から生まれてきたような奴だった。いつも、心の中で「黙れ」と、思っていた。
女が少ない学校はそういうものだった。
普通に助手席が優等席のように座り「今日はどこに行きますか?」と、夜のドライブを暗に誘っていた。私は、子守だった。
ただの書き割り…。
大きな大学の私立。それも学部で二年以上から専門教育に入ると雲泥もかけ離れてしまうというのに、遊びたいだけ遊んで何が悪いというほどの構えで、金魚のフンのような奴だった。試験になるとまるで自分が連れだ!どうだとばりに見せつけて学校へ来る。もちろんレポートは私のまる写しだった。だが逆に点が悪くなるのは私の方だった。教授陣もそう言う所だった。
グラウンドは野球じゃなくてサッカーの練習が行われていた。土埃で砂塵が舞っていた。
笑い声やどなり声が若々しかった。
「学生時代なにしてました?」
「ゲーセンとか…峠とか零四の時代でした。走り屋の先輩の車で夜中まで走ってて、ライト消して走ってビビったり。……貧乏学生でしたから、一年の時にね、郵便局の通帳残高の紙…派手な女が私の手から奪って勝手に見たことあるんですよ。百万円入っててチョー金持ちジャン。って。でもね、六年間でそれだけなんですよ。親は。二年の時にやっと奨学金がもらえるようになったときに、そいつらと縁を切りましたよ。別にもういいやって。あほな奴とくるんでつまらない毎日を過ごしててもいいことないし、人一人でも生きていくってね。…馬鹿でしたよ……一人は寂しかった」
何の気なしに私は、彼の前ではすべてを許してしまうように話している。旅の書き捨てというか、自分すらどうでもいい絵空事のように。
「ほら、野球部が帰ってきましたよ」
そう言われて見ると、正門の逆の方向から練習用ユニホーム姿で、全員が走りこんできた。
一人半裸なのがいて、それを見て私は笑った。
「そうそう、先輩が、練習試合で負けたらまっぱで走ってやるって言ってたな~。で、実行したんだって…よく警察に捕まらなかったよって、笑って教えてくれたことがあって…」
ショートホープのジジジッという燃える音が、金属音に消された。
野球部のミットの音とちょっと抜けた気合いの声がここまで聞こえてくるのを二人して見ていた。
二日間にわたる面倒な学会。つまらない学生の演説。お決まりどおりの質問。ここで勝手に部外者が突っ込みを入れたら、まっさきに主教授が立ちあがって返答をする。
今年も平年通りだ。この後の薄っぺらい懇親会をだるい目で見おくって、学生たちはさっさと夜のクラブやイベント会場へ出かけて行った。
私もしつこい同期や同じ分野のやつらとの言い合いになる前に抜けようと、算段していた。
タクシーは捕まるだろうか。
眠たいけど、腹が減ってたまらなかった。
そううつらうつら考えながら外に出た。
「OFF?」
彼はそう言った。
運転手が帽子を振って挨拶した。
「あれ?」
「金の匂いがするところにはハイエナがいるって…あんたみたいなの、高知城ひと回りされて、ホテルにご到着、なんてことになる口だよ」
そう言って、後ろを開けてくれた。
「酒は弱い方?」
「冷酒5本、飲んで倒れたことあった。それ以来瓶で5本飲まないことに決めた」
「そりゃ大した口だ」
彼は笑った。
居酒屋で二人して飲むなんて久しぶりだった。
あの時も、そうだった。
そしてトイレで倒れた私に「よわっちいやつ」と言ってたっけ。
「高知の人はザルなんですかね…」
「そりゃ、旨い酒あって、旨い魚あって、きれいなねーちゃんいたら食っちまうしかないでしょう。手をつけんのは罰が当たるっちやあ」
「そんなものですか…」
「そう、て」
初めてトイレでしたのは、彼のアパートだった。いつも通りの面子が遊びに来て、みんなが寝静まった時に、眼を覚まして、トイレから出た私の前に彼がいた。
そのままドアを譲ろうとしたら胸を軽く押され押し入られた。そして、気がついたら咥えてた。
「はじめて」と聞かれ、黙っていると、「どこで習った?」って聞かれたので「親父のエロビデオ」と答えた。彼のそこは少し前のめりに先が曲がっていた。出された精液にびっくりして飲み込むことができず、黙ってトイレのタンクに吐いてしまった。
彼はそのままトイレから出て行った。
居酒屋は陽気で楽しい店だった。
「なんで、こんなに生にんにくが…」
と、カツオに乗ってるにんにくスライスを見て、私は鼻血が出るんじゃないかと思ったくらいだった。
「美味いんだけどね…」
「美味いなら美味しそうに食いなよ。ゆっくりでいいから」
酒を注いでもらいながらそう言われてびっくりした。
へたくそな奴が女気取りで作る料理より上手な私が料理を作る。バイトから帰ってきた彼にビールを出して「美味そうに食いなよ」って言った。
彼女は彼に料理を作ってやらないのだろうか。と思ったが、勉強の遠慮しているのかどうかで、帰りしな同じバイト先にもぐりこんだ連れの家によく来るようになっていた。私は人数が多ければ多いだけ料理を作れるほどの自信はあったから…余計なことはあまり考えなかった。考えるのが嫌だったのかもしれない。
「バイトのねーちゃんがさ、眼の前でぶっ倒れるの見てびっくりしたよ」
「炎天下でしたもんね。今日は特に」
同じバイト先にもぐりこんだ連れはまるで自慢げに、笑っていた。
だれも私の言葉なんか聞かない。
でも、彼だけが好き嫌いなくおかずを食ってくれた。
「そう言えば、長いイモってね…うちは砂糖入れるんですよ、それが普通だと思ってたんです。テレビでも麦ごはんに長いも入れて食うてやつで…そしたら砂糖入れてたの自分だけでみんな気持ち悪って」
「…」
「腹が立つから、醤油と鰹節乗せて別の料理にして出したんだけど、ひとりで自分ちはこれだって食ってました。そしたら、嫌な奴がいて、じゃあ、トマトにも砂糖?って聞きやがったんで、醤油で食うんだって言ったらこれまたみんなして気持ち悪いって…好きで食ってて悪いですかね。あれ…言葉乱暴ですね、すみません」
「気持ち悪くないよ…それにやっと自我出た見たで肩の力抜けたんじゃない」
酒に酔ったのもあるけれど、とても気持ちが良かった。たわいもない話が続く。けして詮索しないのが心地いい。
「髪…それ天然パーマなんですね…うらやましな。何一つ親に似てなかったせいで、ね。天パしたくて…今でこそメガネなんですけどねメガネ一族」
「天パって頭悪く思われるからあんまりほめられたことないけど」
彼の髪の毛は私の親父と同じ天パだった。
口数の少ない私は遊びに連れて行ってもらって出掛けても、深夜遅くなって夜更かしできないタイプですぐに眠ってしまう。
深く眠ることはなかったが、体が眠い状態になってしまうのだった。
その日も、彼のアパートで遅くまで、いつものメンバーと遊んでいた。
「こいつ、もう寝てやんの」
と言われて笑われていた。
続き二部屋開け放しの畳部屋の隅の奥で、私は眠っていた。
夜中に寄り添うように眠っているのが連れではなくて、彼だと知った時にはびっくりして、鼓動が一気に跳ね上がった。
やわらかく抱きしめるように寝返りをうった手が、念入りに体に入ってきた。厚い唇が首筋に当たっている。
じっとりと股間がしみるのが分かった。
「やりたい」
腰が抜けるほど甘いキスだった。
私は落ちた。
うっとおしい連れからも、モブでやかましく言う奴らからも、私と彼が遊んでいるのがかなり妬ましく思われていた。なんでこんなのがいつもいるのかと…言いたげに、遠まわしで嫌味を言われた。それでも彼は私をそばに置いてくれた。なぜだか理解できなかった。寝入った連れから見えない距離でかすめ取るように濃厚なキスをされたこともあった。
…だから距離を置いた。
私の連れの家から、確実に紳士的に帰れることができたから。
心地よい時期だった。
「じゃあ、帰るわ!」
とチャリで帰ると、数分後に、チャイムが鳴る。辛い現実の後に来るひと時の幸福。
ドアを開けると、
「ビールあるかや」
そう言って、部屋にあがりこむ。
ビールは買い置きしてあったり、なければワンカップ酒で我慢してもらっていた。当時はまだ飲酒運転もそこまで取り締まりが厳しくなかった時代だ。
彼とのセックスは一番合ってた。
というか、始めてイッタのは彼だった。
ちょうどその場所にあたって擦れるのだ。
後にも先にも他の奴らとやってもそれはたぶんイッタという感覚だけだった。
彼女がいるくせに…と思うことすら、その時は忘れていた。
しかも、セックスの時にゴムを使わないのも彼だけだった。
種つけかよ…シャワーで流れる白濁したものを見ると、いつもむなしさと、安堵感が流れていくようだった。
エイズという言葉が日本に上陸した時代に。
大概は彼のアパートに連れて行かれ、最低でも2回はしていた。何人も女がいるというと噂の、このたくましい筋肉が、私の体を突き上げる。
発狂しそうになるほどの嬌声を、「駄目だっちや。お隣は社会人なんだから」と言って、手元にあったパンツで口に押し込まれたこともあった。
その反動で連れとやるのが苦痛でしょうがなかった。自慰したほうがましだった。別れたい…なのに分れなかったは彼がいたから。彼がいつも飯を食いに来ていたから。
同期の連れの群れに群れるのももう嫌になった。けれど、連れのクラブに、彼がそこに確実にいるのを知っていたから…すべてのことに耐えた。
最高の不幸で最高の幸せな時を過ごした時期だった。
工学部は100人入って3人しか卒業生が出ないという恐ろしい学部だったので、彼の留年は決定してしまった。
「一緒に卒業しましょうよ」
当然、後2年は駄目だろうというのが鉄則だった。
ある時、布団の中で、昔、女とした場所で一番すごかった場所。っていうのを教えてくれた。
「公衆電話。ちょうど影になってて、場所的に死角で最高でさ」
「怖っ、見つかったらって…」
「それが、いいっちや」
と、笑っていた。
「…今日は学校へ行くんでしょう必須があるから」
朝、彼は面倒くさそうな顔をして私を学校まで律儀に送ったら、帰るかパチンコって感じで頭を掻いていた。
非常階段でこの前やってたって誰か言ってなかったっけ?学校内はメジャーすぎてエロくないのか…などと思ったりした。
それとも、一個上の彼女の紐に本当になるんだろうか。頭のいい彼女は、教員採用試験に難なく合格していた。彼女は不思議なことに縁もゆかりもない隣の県の教員免許を所得していたのを噂で聞いた。クラブの部員たちが「…愛のなせる技とはいえ普通には出来んわぁ」うちの学校からでも通える…そう考えると切なくなった。敵わないわ。
私はすべてに決別をした。
連れは捨てないでと、すがった。が、目に見えていた。捨てられると確実に単位が貰えない。食い損なう。目立たなくなる、そんなの、分かり切っていた。見え見えのすがりようだった。怒り狂った暴力をふるわれても決心は変わらなかった。こいつとのセックスは、もう嫌で仕方なかった。
連れのダチというものに、教室で会えば聞こえよがしに捨てた奴が悪いとさんざん嫌味を言われ、孤立し、ため息が出るほどの日々が続いた。
その時から夜ドアを開けなくなった。
独特の車の音が近くまで来て、チャイムの鳴る音とドアをたたく音、そして車がまた行ってしまう……その間、息を殺してドアの前でうずくまっていた。
押し殺しても、涙が止まらなくてしょうがなかった。
生き苦しくて…どうでもいいような奴と寝た。すぐに別れる結果になったが、そんなこと、どうでもよかった。ただ体が寂しかった。押しつぶされた心を体で紛らわせていた。
「この店から海近いですか?」
「歩いて10分ってところかな」
「酔い覚ましに歩いて…帰れるかな」
「ホテルと逆方向にあるかなんだら大丈夫やきーね」
私はふふふと笑った。
変な顔してると笑われた。
「海見たいんですよ。瀬戸内海で育ったから。和歌山の海も見たけど、夜は見たことないんです。黒潮に乗るな!って怒られて、海岸沿いをフナ虫見つけたりしただけで」
「危なっかしいな…まあ街灯もあるし」
勘定は私がさっさと払って、外に出た。
風は強かった。
けれども、強くて暖かかった。
「ほら」
そう言って手をつかんでくれた。
「恋人みたいですね」
とはしゃぐと、酔っぱらいをあやすように「こがいな年食った恋人なんかいらんわ」と言われた。
それでも私は嬉しかった。
手をつないだことはなかった。
彼と名前で呼んだこともなかった。
名前で…。
「名前、なんですか?」
「はっ」
「私は一里のイチリのイチって呼んでください。でも、ヒトリなんです、ずっと、誰かと居てもだれかと暮らしても、ずっと待っていたんです……あの場所で…。…初めて来たんです。あの人が育った場所がどんなところか、どんな空気だったのか知りたくなって…」
涙が止まらなくなっていた。
海岸は風も強くて、砂塵も舞っていて、足は半分淀んだ水たまりの中で気持ち悪くて、最悪だった。
最悪だった。
強く抱かれていたのに気がついたのは、相手の呼吸が聞こえた時だった。
「で、どうだった?」
「…いいところですね。ここは、おおらかな人が育つって場所で…夢見た通りのところでした。果てしない青い海が続く場所で、彼の言ったとおりでした」
ギュッと、私を支えてくれた。
「もうこれで終わり、これで終わらせられる…ずっと好きだった。言葉に出して言えなかった。言ってしまえば楽だったけど、言えなかった…あの人の代わりになってもいい、マブでも、妾でもいいからそばに居させてほしいって」
「その人の名前は?言っちゃえば。海のバカヤローって、感じでさぁ。楽になるかも」
「忘れた…名前。何もかも覚えてるのに、名前忘れた…」
「…そりゃないんじゃない」
私はそうかもしれないと、思って笑った。何もかも覚えて、何もかもを投げ捨てて、同じ場所で待ち続けていたくせに名前を忘れたなんて…知らなかったのか…最初から何も彼のことを知らなかったのかもしれない。
今抱きしめてくれた人の腕の太さに私は落ち着いて、ふわふわとした幸福感でホテルまでどう帰ったのかはわからなかった。
その日、久しぶりに安堵した気持で眠った。
次の日も、空港までタクシーで送って行ってくれたのは彼だった。
「また来なよ…今度は遊びに、いいところたくさん紹介するよ」
そう言って、彼はくたびれた名刺をくれた。
楷書体で池上貴俊と書かれてあった。
飛行機の中で呟く。
「なんだ、ひと文字違いかよ」
目を閉じると心の中で何度も何度も呼んだ名前が突然の如く思い出され、風に吹かれて飛んでいく。
『ヒトリ』
やさしい言葉で呼んで欲しかった。
本当に彼の女になりたかったのかも知れない。そう思うと涙が止まらなかった。飛行機が飛び立つのをを待つ間涙が溢れてきた。こぼれおちる涙が、こんなにも暖かいとは思わなかった。
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