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あの時代の色香の残り
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あの日も私は長い長い坂道を登っている最中だった。
当時は寝ても起きても数日なら大丈夫なほど闊達に生きていた。
けれどもその日はとても暑くて、呼吸すらままならないほど眩暈がしていた。
新規な学校法人はどこも山の上に校舎が建っているし、友人と呼べる家は山の向こう側か、海べりか、はたまた向かい正面の対岸に大都市圏の端っこの岸壁かの馬鹿と呼べるほどの所ばかり住んでいた。
「どう?」
それは一度だけ手の甲が触れた瞬間だった。
その人に触れたのは、その時だけだ。
精霊の名においても誓っていい。
重い荷物を背負ったその人は気丈ながら微笑んだ顔に汗一つなかった。
それなのに、さらに自分の荷物までも背負おうとするしぐさを見せたのだ。
「いや、大丈夫です、あ、ほら峠の茶店と言うか、そこにバス停があるでしょ、そこで一休みしますよ」
と、いつもの細目で笑ってのけた。
「じゃ」
そういったのにその人もついでに隣で座ったのだ。
バス停のバスは一時間に一本も来ない。
車の通りはすごく多い。
なのに、そこは風が抜けてとても気持ちがよかった。
手持ちのジュースを飲むと、横に座っているその人が汗をかいているのが見える。
「いりません?あ、口つけたけど」
袖で拭うと普通に渡したつもりだった。
不思議な顔をされて、「ありがとう。優しいね」と言う。困ったのはこっちの方った。変に意識をさせる言い方だ。同じ人なのに…。
風が通るのがとても気持ちがよかった。
気が付けばうつらうつらとしていた自分にハッとなる。
何か不思議な果樹の香りがする。
南国の果樹のような甘く酸っぱい未成熟な果樹の木。
ちょうど車の免許を取っている最中だった。
ああ、そうだ、そこで右に曲がれと思っているのに、どうしても右に切れない。左へ左へ流されてしまう。
ハンドルが重たい。
大きな校庭に入ったものの。
絡まったようにハンドルの自由が利かない。
『ハイドロプレーニング現象って奴だ。』
目の前に見えるのは学校の校庭には必ずある朝礼台にぶつかる。
こういう時に流れに逆らってはいけない。
そうだ、習ったとおりにやれば何事もうまくいく。行くはずだ。ゆっくりとした進行でギリギリ車も擦らず曲がる、そして楕円に車は動く。
動けるようになれば、また右に切ればいいだけだ。
ハンドルは重たい四トンのトラックのハンドルのように重たい。
「切れたパワーステアリング」
後ろに座って身を乗り出しているフリーライダーの馬鹿の揶揄のせいでハンドルをきりすぎた。二度手間だと、初めてイラっときた顔をしたら、そいつは消えていなくなってしまった。たまに車に載せる同乗者はいてもいいだが、これは自分の車で自分で運転しているんだ。大事なところで邪魔だけは許さない。
「なんだっけなぁ。慣性の法則?ああ、物理苦手なんだ。ほんとに、純真たる文系なんだなぁ」
だんだんとハンドルが思うように動き出す、だが砂地を絡んで走る車のようにのろのろと重く走る。
汗だくで、自分の眼鏡が曇ってきたのにハッとなった。
難儀して八の字を書いた跡を残して車は向きを立て直した。
最初に戻ってしまったことに苦笑せずにはいられなかった。
真正面に私が眠っていた。
大きな木の下の根に頭を乗せて目を閉じていた。
だらしないおっさんが眠っている姿を自分が見ていた…ことを知った。
匂い。
子供の匂いだ。
日の光に当たった柔らかい匂いが近づいてくる。
顔がほころぶ。
『男と女二人もできた。上々だろ。それに、一つ仕事もリタイアして名誉顧問』
『お前の世渡り上手は凄いね。俺も見習いたいよ』
『これも一つの特技さ』
私は友人に話をしていた。
あの日、最後の執務室を後にすると振り返る勤務場所を見つめていた。
学校法人は私には大きすぎるなぁ。経営者としては一つの夢かもしれないが、時代にうまく適応しないとこうやって潰れる浮世だ。
そう思っていた。
友人と同じ窓を見上げていた。
『何を見ている?』
「あ、バス」
「乗ります、そこのバス、乗ります。幸い。今日は火曜日だ。変則のバス時間だった」
「…」
「また」
その人を振り返ることもなく私はあわててバスに乗った。
泣きそうな顔をする人を私は置いて逃げたようなものだった。
私では背負えない荷物を持った人を。
置いて逃げた。
「パパ」
「お父さんは少し疲れているのかしら」
と、子供らがいうのだからすぐに細目を開けて笑う。
「ちょっと横になっただけ」
と、妻にも笑う。
「駄目よ。枝を折ったら」
と、妻に叱られた。
握りしめて折ったであろう香木の香りはそこからしていた。
あの香りはこれに似ていたがやはり違う。
そうは思ったが、すぐに枝を捨てた。
そして子供らを誘ってグローブを握り走った。
当時は寝ても起きても数日なら大丈夫なほど闊達に生きていた。
けれどもその日はとても暑くて、呼吸すらままならないほど眩暈がしていた。
新規な学校法人はどこも山の上に校舎が建っているし、友人と呼べる家は山の向こう側か、海べりか、はたまた向かい正面の対岸に大都市圏の端っこの岸壁かの馬鹿と呼べるほどの所ばかり住んでいた。
「どう?」
それは一度だけ手の甲が触れた瞬間だった。
その人に触れたのは、その時だけだ。
精霊の名においても誓っていい。
重い荷物を背負ったその人は気丈ながら微笑んだ顔に汗一つなかった。
それなのに、さらに自分の荷物までも背負おうとするしぐさを見せたのだ。
「いや、大丈夫です、あ、ほら峠の茶店と言うか、そこにバス停があるでしょ、そこで一休みしますよ」
と、いつもの細目で笑ってのけた。
「じゃ」
そういったのにその人もついでに隣で座ったのだ。
バス停のバスは一時間に一本も来ない。
車の通りはすごく多い。
なのに、そこは風が抜けてとても気持ちがよかった。
手持ちのジュースを飲むと、横に座っているその人が汗をかいているのが見える。
「いりません?あ、口つけたけど」
袖で拭うと普通に渡したつもりだった。
不思議な顔をされて、「ありがとう。優しいね」と言う。困ったのはこっちの方った。変に意識をさせる言い方だ。同じ人なのに…。
風が通るのがとても気持ちがよかった。
気が付けばうつらうつらとしていた自分にハッとなる。
何か不思議な果樹の香りがする。
南国の果樹のような甘く酸っぱい未成熟な果樹の木。
ちょうど車の免許を取っている最中だった。
ああ、そうだ、そこで右に曲がれと思っているのに、どうしても右に切れない。左へ左へ流されてしまう。
ハンドルが重たい。
大きな校庭に入ったものの。
絡まったようにハンドルの自由が利かない。
『ハイドロプレーニング現象って奴だ。』
目の前に見えるのは学校の校庭には必ずある朝礼台にぶつかる。
こういう時に流れに逆らってはいけない。
そうだ、習ったとおりにやれば何事もうまくいく。行くはずだ。ゆっくりとした進行でギリギリ車も擦らず曲がる、そして楕円に車は動く。
動けるようになれば、また右に切ればいいだけだ。
ハンドルは重たい四トンのトラックのハンドルのように重たい。
「切れたパワーステアリング」
後ろに座って身を乗り出しているフリーライダーの馬鹿の揶揄のせいでハンドルをきりすぎた。二度手間だと、初めてイラっときた顔をしたら、そいつは消えていなくなってしまった。たまに車に載せる同乗者はいてもいいだが、これは自分の車で自分で運転しているんだ。大事なところで邪魔だけは許さない。
「なんだっけなぁ。慣性の法則?ああ、物理苦手なんだ。ほんとに、純真たる文系なんだなぁ」
だんだんとハンドルが思うように動き出す、だが砂地を絡んで走る車のようにのろのろと重く走る。
汗だくで、自分の眼鏡が曇ってきたのにハッとなった。
難儀して八の字を書いた跡を残して車は向きを立て直した。
最初に戻ってしまったことに苦笑せずにはいられなかった。
真正面に私が眠っていた。
大きな木の下の根に頭を乗せて目を閉じていた。
だらしないおっさんが眠っている姿を自分が見ていた…ことを知った。
匂い。
子供の匂いだ。
日の光に当たった柔らかい匂いが近づいてくる。
顔がほころぶ。
『男と女二人もできた。上々だろ。それに、一つ仕事もリタイアして名誉顧問』
『お前の世渡り上手は凄いね。俺も見習いたいよ』
『これも一つの特技さ』
私は友人に話をしていた。
あの日、最後の執務室を後にすると振り返る勤務場所を見つめていた。
学校法人は私には大きすぎるなぁ。経営者としては一つの夢かもしれないが、時代にうまく適応しないとこうやって潰れる浮世だ。
そう思っていた。
友人と同じ窓を見上げていた。
『何を見ている?』
「あ、バス」
「乗ります、そこのバス、乗ります。幸い。今日は火曜日だ。変則のバス時間だった」
「…」
「また」
その人を振り返ることもなく私はあわててバスに乗った。
泣きそうな顔をする人を私は置いて逃げたようなものだった。
私では背負えない荷物を持った人を。
置いて逃げた。
「パパ」
「お父さんは少し疲れているのかしら」
と、子供らがいうのだからすぐに細目を開けて笑う。
「ちょっと横になっただけ」
と、妻にも笑う。
「駄目よ。枝を折ったら」
と、妻に叱られた。
握りしめて折ったであろう香木の香りはそこからしていた。
あの香りはこれに似ていたがやはり違う。
そうは思ったが、すぐに枝を捨てた。
そして子供らを誘ってグローブを握り走った。
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