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二話
こつこつと、控えめに叩かれた扉。ソーマがそれに返事をするより先に、扉の向こうから声が聞こえてくる。
「陛下、魔王陛下、起きていらっしゃいますか」
「起きてるよ」
「おやそうですか、これは珍しい。こんな時間までぐうたら寝てやがったら今日こそは頭の上から氷塊落としてやろうと思っていましたのに」
ソーマの返事を受けて、碌な許可もなく扉を押し開けたのは、一人の青年だった。すらりと背が高く、長い銀髪を後ろで纏めている。透き通るような碧眼に、眦を繊細に縁取る長い睫毛。白い肌や細い顎、すっきりと通った鼻筋は、溜息を誘う程に美しく整っていた。女性的ですらある美を内包した顔立ちは、魔族の中でも右に出る者は少ないであろうと確信させる。
「今日こそ、じゃなくて今日も、だろ、マリウス。あん時はマジで死ぬかと思ったわ」
「あん時って、もしかしてレフィが来た時に何故かベッドが水びたしになってたあの時ですか? マリウス様、そんなことしてたんですね……」
「あれはただのお試しですよ。今日のは本気でいくつもりでした」
思い出したくない過去を脳裏に過らせては、青い顔でソーマが起き上がる。にっこりと柔和な笑みを見せながら速足で近付いてくる青年は、ソーマの側近中の側近たる、上級魔族のマリウスであった。彼こそが、この魔界の影の王とすら噂される男である。実際に、ソーマが押し付けた政務や軍務の諸々を手配しているのは、このマリウスだ。魔界における実権を握っているのは、ソーマではなくマリウスだと、巷では真しやかに囁かれている。なお、その噂に関しても、魔王ソーマは特に否定してはいなかった。
「起きていらっしゃるなら結構ですが、そのだらしのない寝間着は今すぐ着替えてください。ほら、レフィ、君もべたべたとひっついていないで、魔王陛下のご支度を手伝って差し上げなさい」
「はぁい、マリウス様」
マリウスの言葉に、レフィは素直に頷いてソーマから離れる。既に半分脱げているようなソーマの寝間着をせっせと脱がしていくレフィを見て、ソーマがどこか不服そうに溜息を吐いた。
「お前、マリウスの言う事は聞くよな」
「だってマリウス様、怒ると怖いんですもの」
「まあ、それは同感」
文字通りの魔窟であるこの魔界において、魔王の名の下に辣腕を振るうマリウスの恐ろしさは、ソーマにせよレフィにせよ、身に染みて思い知っているものだった。この男には下手に逆らわない方がいい。もはや本能の領域で、それを学習している。もっとも、どちらかといえば彼等の感じている恐ろしさは、底知れぬ魔のそれというよりは、親から喰らう雷に近いものだったが。
レフィはソーマの寝間着を慣れた手付きで脱がせてしまうと、これまた勝手知ったるとばかりに魔王の礼装を持ち出してきて、いそいそと袖を通させた。元はと言えば、こういった仕事は専用の侍従の領分である。しかしながら、雑事に人を置くことをあまり好まないソーマは、長らく一人で身支度をしていた。そこにレフィが現れ、自ら楽しげにソーマの世話を焼くようになった結果、レフィは事実上、ソーマの召し抱える傍仕えのようになってしまっている。
「よーし、これで完成です。今日もかっこいいですよ、魔王様」
「はいはい、サンキュ」
「お礼は言葉よりも行動で示していただければ!」
きらきらと瞳を輝かせると、レフィはソーマに顔を寄せ、唇を尖らせてみせる。目蓋を閉じて、さあさあと楽しげに煽るレフィを見下ろすと、ソーマはおもむろに腕を上げて、レフィの頭を鷲掴んだ。
「そうかそうか行動な、はーいよくできまちたねーえらいえらーい」
「ううぇぇ、こ、子供扱いはやめてくださいよぉ」
乱暴な手付きでレフィの髪を掻き回して、ソーマは適当なところでレフィの頭を解放した。若干くらくらとしながら息を吐くレフィの頭上から、マリウスの声が落ちてくる。
「二人共、じゃれ合っている時間はありませんよ。ほら陛下、ご支度なさったなら早く来てください。今日も予定が詰まってるんですから」
「はぁ……なんでそう毎日毎日仕事ってのがあんのかなあ」
「貴方が怠けて何でもかんでも後回しにしようとするからですよ」
正論としか言いようのないマリウスの言葉を受けて、ソーマが口を閉じる。元々さして陽気な顔立ちでもないのに、余計陰鬱になってしまったソーマの顔を見上げて、レフィは精一杯に応援を口にした。
「魔王様、頑張ってください! レフィも頑張りますから」
「お前は何を頑張るんだよ」
「魔王様にいつでも抱いていただけるように準備して待ってますね!」
「いらんいらん、帰れ帰れ」
「むぅ、つれないこと言うんですから……」
拗ねた顔をしながらも、レフィは特段気にすることはなく、ソーマの背中を押した。この程度のやり取りならば、何度繰り返したことか分からない。レフィは多少のそっけなさで折れてしまうような、か弱い精神は持ち合わせていなかった。マリウスにせっつかれ、レフィに促され、ソーマは渋々といった様子で歩き出す。しかしその重い足取りは、部屋を出るその一歩前で、ふと動きを止めてしまった。
まだ何かごねるつもりなのか。そう考えて顔を上げたレフィを、ソーマがじっと見つめていた。引き結ばれた唇からは、何の感情も読めはしない。てっきり不機嫌そうな顔をしているとばかり思っていたレフィは、少しばかり動揺して、ソーマの背から手を離す。
「……魔王様?」
「なあレフィ」
「は、はい」
「お前さ、もし俺がお前を本当に抱いたとして、一人前の淫魔とやらになったら、その後はどうする気だ」
「へ……?」
レフィにとっては想定外の質問だった。ぱちりとひとつ瞬いたレフィは、その言葉の意図を窺うように、ソーマの顔を見上げる。しかしながら、ソーマは先程からぴくりとも表情を動かさないまま、凪いだ瞳でレフィを見つめるばかりだった。まごつくレフィの指が、無為に宙を掻く。常に饒舌なレフィの唇は、嘘のように不器用に言葉を探した後、多分な当惑を孕んでゆっくりと動いた。
「え、えと……一人前になったら……そしたら、うん、たぶん、他のみんなと同じように、人間界に下りて、立派な淫魔になれるように、頑張ります」
レフィが語ったのは、非常に当たり障りのない内容だ。常日頃、呆れ顔のメフィストフェレスから説教されている内容でもある。実際のところ、レフィにとってはソーマに抱かれることが目標であり、その先のことなど殆ど考えてはいなかった。それゆえ、淫魔としては至極常識的な、当たり前のことしか、答えることが出来なかったのだ。
「ふうん……ま、そうか。そりゃそうだよな」
「魔王様……?」
「気にすんな。別に大したことじゃない。行ってくる」
「え? は、はい。行ってらっしゃい……?」
レフィの返答にも特段反応を見せないまま、ソーマはレフィに背を向けた。要領を得ない様子のまま、レフィはソーマを見送り、ひらひらと手を振ってみせる。ぱたりと小さな音を立てて扉が閉まった後も、レフィは目を丸くしたまま、暫く茫洋と、その場に佇んだままでいた。
「いい加減、抱いて差し上げたらどうですか。向こうが抱いてくれと言っているんですし」
塵ひとつない魔王城の廊下。ソーマを引き連れて歩き出したマリウスは、開口一番、そう言い放った。彼の主君である魔王ソーマが、それで一体どんな顔をするものか、大凡予測が付いた上で。
「別に減るものでもないでしょう。私なら、さっさと抱いて放り出しますけどね」
「うるせえほっとけ。二十人から女囲ってるド美形と俺を一緒にされちゃ困るんだよ」
「据え膳喰わぬはなんとやら、とかいう言葉もありますよ」
「恥というならもういくらでも晒してんだろ、今更さ」
「成程それは確かに一理ありますね」
感心したようにマリウスが頷いてみせると、彼の背後でソーマが頬を引き攣らせた。素知らぬ顔で肩を竦めると、マリウスはわざとらしく溜息を吐く。当代魔王は元人間というところもあってか、あるいは単に個人としての価値観の違いか、マリウスには思考の読めない部分が多々存在した。
マリウスが見立てる限り、ソーマはレフィのことを、決して疎ましく思ってはいない。むしろ気に入っていると判じてよいだろう。基本的に他者と距離を置きたがるきらいのあるソーマが、ああも無体を許しているのがその証左だ。にも拘わらず、一向にレフィに手を出す気配のないソーマが何をしたいのか、マリウスには到底理解が及ばぬところだった。
「陛下……つかぬことをお聞きしますが、もしや不能ですか」
「いやあるわ。バリバリにあるわ能力。何ちょっと申し訳なさげにしてんだよ。やめろその憐れみの目は」
「おやそうですか。つまら……いえ、よかったです。ええとても」
「今つまらん言いかけたなお前」
「ははは、幻聴幻聴」
魔界の女ならば魅了されぬ者はいない笑顔を煌めかせながら、マリウスはひらりと片手を振った。実際、今の発言の九分九厘は冗談である。しかしながら、ほんの僅かな本気が混じっていたのも確かだった。
「まあ、どちらにせよ、私は陛下がきっちり働いてくだされば、文句はないんですけれど」
雑念を思考から追い出すと、マリウスは静かにそう告げる。彼自身、特段魔王の内心を詮索しようとした訳ではなかった。しかしながら、ソーマにとっては逸らした話題の方が、興の乗らないものであったらしい。マリウスがちらと振り向いた先で、ソーマはこれ以上ない程に大量の苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「向いてねえんだけどなあ、政治とか」
「ですから、私や他の者が、政務や軍務を、一部委任の上で陛下をお支えしているではありませんか」
「一部っていうか、むしろ大半だけどな」
「爽やかに笑いながら言わないでください」
「もうなんだったら、そのままお前が魔王になっちゃえばいいのに」
魔王という地位に微塵の未練もない声で、ソーマがそんなことを言う。マリウスは怒るでもなく、心底呆れ果てた顔をして、頭を抱えるばかりだった。巷では氷雪の貴公子などと噂される怜悧な美貌と鉄壁の仮面を誇るマリウスにこんな表情をさせるのは、魔界広しと言えどもソーマくらいのものである。
「なれる訳がないでしょう。私に魔王など務まりませんよ。その器がありません」
「俺でも出来てんのに、器もなんもありゃしねえだろ」
「……陛下。適当なことを言って私に全部押し付ける算段を立てる暇があったら、有意義な政策のひとつやふたつ考えてくださいませんか」
マリウスの背後で、ソーマがわざとらしい程ぎくりと肩を跳ね上げる。現時点で相当な割合の仕事をマリウスが引き受けているというのに、ソーマは隙あらば政務の類から逃げたがる節があった。ここまで徹底したやる気のなさは、いっそ感心すら抱かせる。
とはいえ、ある種致し方ない部分でもあった。ソーマは決して自ら望んで魔王となった訳ではない。本人は度々成り行きでそうなったと口にするが、まさしく彼にとってはそうとしか言いようのない経緯で魔王に就任したのだから。
かつて彼は、人間界においては英雄と呼ばれていた。数多の魔族をその手に掛け、救国の英雄と讃えられる存在だった。しかし彼は、あまりに魔族を殺し過ぎたのだ。万魔を殺し、その血を浴びた人間は、人の理を外れ魔道に堕ちる。万魔の呪いを受けたソーマは魔族となり、魔界に追いやられ、それでもただ頑なに、魔族を殺し続けた。それしかやる事がなかったから、と、かつてソーマはマリウスに、努めて軽い調子で語った。が、彼がそうして彼なりに真面目に仕事に勤しんだ結果、うっかり先代の魔王まで倒してしまい、そのまま彼が次代の魔王として君臨することになったのである。
別段魔族そのものに恨みがある訳ではないらしく、ソーマは魔王となること自体には、さして文句は言わなかった。しかし人間だった頃には平民階級であったソーマは、王としての振る舞いや煩雑な政務に対してどうしても敬遠してしまうのだ。元々王侯貴族として育てられた訳でもないのだから、それも当然のことと言える。しかし、それを加味しても、既に数百年単位で魔王を務めているのだから、いい加減多少は慣れて欲しいというのがマリウスの主張であったが。
「──あ、そうだ。いい事考えた」
やにわに明るい顔をして、ソーマが瞳を輝かせる。思いがけない言葉に、マリウスは軽く目を瞠った。今までソーマが自ら積極的に政務に口を出したことはない。マリウスとしても、口ではあれこれ言いこそすれ、本気でソーマに政治的手腕を求めていた訳ではなかった。
「おや、珍しい。陛下がそんな建設的なことを仰るなんて」
さすがにこれだけの期間魔王をやっていれば、そろそろ自覚も芽生えてきたのかもしれない。悪くはない傾向だと、マリウスは密かに相好を崩した。そんな彼の後ろで、ソーマは満面の笑顔を煌めかせながら、すこぶる陽気に言葉を繋げる。
「魔王領に遊園地作ろうぜ、遊園地。思い出したわ、俺、小さい頃遊園地のオーナーになるのが夢だったんだよな」
「陛下」
「あっすいません冗談です冗談、マジ自分ナマ言いましたすいません」
くるりと振り向きマリウスが投げた絶対零度の視線に、ソーマはコンマ数秒で諸手を挙げながらつらつらと謝罪を口にする。冷や汗をだらだらと流しながら平謝りに謝る姿は、何処の誰が見ても魔王とその腹心だとは思いもよらないことだろう。マリウスは盛大に、これみよがしに溜息を吐くと、心中で多少なりと魔王を見直した部分を根こそぎ塵にしてしまうことにした。この能天気で怠け癖のある魔王に、ほんの僅かでも期待した方が間違いだったとばかりに。どうやら魔王の腹心マリウスの苦労は、当然のように、今後も継続することになりそうだった。
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