どうか抱いてよテンペスタ

よもぎ

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五話


 ソーマは地に膝を突いて、レフィと眼を合わせる。未だ感情の読めないその眼差しでレフィを見つめながら、彼はゆっくりと片手を上げた。ソーマの唇が、緩慢に動く。
「肩」
「え……?」
「見してみ、肩」
「え、あ、は、はい……」
 投げられた声は、いっそ拍子抜けする程に軽く、普段のソーマのそれと、何も変わりはしなかった。レフィはそれにどう返せばよいのかも分からないまま、戸惑いがちに、肩を押さえていた手を外した。途端に、傷口から血が溢れ、ぼたぼたと地面を汚していく。
「うわあ、痛そ……お前よくこれで気絶しなかったな」
 ソーマが眉を寄せ、眼を細めながらレフィの傷口を観察する。痛そうと言うならば今この瞬間もあちこちでもんどり打っている彼等の方が余程深刻に痛そうなのだが、レフィはそれを口にするのはやめておいた。
「こ、このくらいなら、平気ですっ。レフィだって、純血の淫魔なんですから。このくらいへっちゃらです」
「そうかいそうかい。お前へっぽこの癖に根性だけはあるんだよなあ、無駄に」
「……褒めてますか?」
「褒めてるよ、ほーれ偉い偉い」
「わあっ」
 血塗れになったソーマの手が、レフィの頭を掻き回す。濃い血の臭いがして、嬉しいどころか怖いとしか言いようがないのだが、さすがにそれは言えなかった。レフィが大人しく頭を差し出し、ついでに揺らされることで傷口が地味に痛むことにも耐えていると、不意に頭に触れていた手が、肩の方へ滑り降りた。ソーマの掌が傷口の上に、しかし直接触れはしない程度の距離を持って重ねられる。同時に、傷の所為ではない熱をそこに感じた。体温よりもほんの僅かに高いような、心地よい熱だった。
 じんわりと肩が熱くなると共に、頭まで突き抜けるようだった痛みが、嘘のように引いていく。レフィが眼を丸くして肩を見れば、既にソーマは手を引いて、痕も残さず傷の消えた肌が見えるばかりだった。
「ま、魔王さま、これって……」
 疑う余地もない。治癒術だ。しかし、この場所は今、幻魔の秘薬の影響で魔術の類は使用出来ない筈ではなかったのか。レフィは疑問符を浮かべながらソーマの顔を窺うも、それに対する答えが降ってくることはなかった。
「他、どっか怪我してるところは?」
「え? あ、いえ……別に、ないと思います、けれど」
「そうか」
 ソーマはひとつ頷くと、ゆっくりとその場に立ち上がる。レフィは何も言えないまま、その姿を視線で追うことしか出来なかった。
「ならいい」
 独り言ちるようにそう呟いたソーマが、踵を返してレフィに背を向ける。彼が今、どんな顔をしているのかが見えないことが、何故だかレフィは、とても口惜しいような気になった。
「マリウス」
「ここに」
 ソーマが名を口にした瞬間、彼の前にマリウスが現れる。思わずびくりと肩を跳ね上げて、レフィはソーマとマリウスを交互に見つめた。マリウス程の上級魔族ともなれば、転移術のひとつやふたつ使えるのは当然のことではあるが、そうなるとやはり魔術が使えないというのは嘘だったか、あるいは効果がなくなったのか。眼を白黒させるレフィの前で、ソーマはマリウスに語り掛ける。
「今暫く城を空ける。後は頼んだ」
「どちらへ向かわれるおつもりで?」
「お前なら聞かなくとも分かると思ったがな」
「……一応お聞きしておきたいのですが、理由は」
「マリウス」
 マリウスの言葉に被せるようにして、ソーマが側近の名を呼んだ。粛々と伏せていた銀髪の青年の視線が、彼の主君に向けられる。
「俺は今、少し機嫌が悪い」
 刹那、レフィはマリウスが、今まで一度として見せたことのない表情をするのを目の当たりにした。ような、気がした。ほんの僅かの間のことで、見間違いだったかもしれない。けれどもレフィはその時、マリウスが、あの常に沈着冷静にして泰然自若としたマリウスが、愕然と息を呑み、恐怖にも似た感情を、その眼差しに滲ませたのを見たのだ。
「……大変失礼致しました。いってらっしゃいませ、魔王陛下」
 レフィが瞬きひとつの後にマリウスを見上げた時には、彼は既に有能な側近としての仮面を取り戻して、恭しく臣下の礼を取っていた。ソーマは返事を寄越さない。どんな顔をしているのかも、レフィには分からない。そうして、レフィがぼんやりと二人を見上げているうちに、ソーマは一瞬にしてその姿を消してしまったのだった。
「あーあ、知ーらない」
 黒い影が、その場から完全に消えてしまった後。マリウスが小さく呟いた言葉が、レフィに届く。落ち着いたマリウスにしては少し稚気を帯びた、どこか愉快そうにも感じられる声だった。
「ええっと、マリウス様……?」
「うん? ああ、すみません。こちらの話ですよ。災難でしたねレフィ」
「い、いえ……あの、でも、魔王様はどこへ行っちゃったんですか? 何か用事があって?」
「別に大したことじゃありませんよ。君は何も気にしなくてよろしい。精々魔界の一部が、軽く吹っ飛ぶだけですから」
「……え」
「ついでに種族がいくらか消えるでしょうが、それも君には特に関係ありませんね。大丈夫ですよ」
 にっこりと微笑んで、マリウスはレフィに歩み寄る。何をどう考えてもひとつも大丈夫な要素が見当たらない気がする、とレフィは思ったが、マリウスの有無を言わさぬ笑顔を前にしては、為す術もなかった。
「そんなことより君です。この死屍累々さん達は後で適当に処理するとして、とりあえずは、君を城まで移動させなければ。立てますか?」
「あ、はい。怪我も治して貰いましたし、平気で……」
 努めて明るく返事をしようとしたレフィの声が、途中から尻すぼみに小さくなる。別段、何処か怪我をしているという訳ではなかった。だが、立てない。どう足掻いても、立てる気配がない。レフィが自分が完全に腰を抜かしてしまっていることに、今更ながらに気付いてしまった。
「平気ではないようですね」
「あ、あの、ごめんなさい」
「いえ。まあ、想定の範囲内ですから。ほら、私に掴まってください」
 そう言って、マリウスはレフィの腕を己の首に回させた。そのまま、身体がふわりと抱き上げられる。マリウスの端正な顔が間近に迫って、レフィは思わず嘆息を零した。成り行き上とはいえ、彼の腕に抱き上げられるこの状況は、世の女性の方々の大層な恨みを買いそうだ。そんなことを考えられる程度には、レフィも落ち着きを取り戻してきていた。
「おや、君、見た目より重いんですね」
「ええっ、そ、そうですか? レフィ、でぶですか?」
 レフィを抱き上げたマリウスが放った率直な言葉に、レフィは衝撃と共に眼を瞠る。レフィ自身はまだ半人前とはいえ、淫魔というものはその生態上、見た目に対して少なからず拘りがあるものだ。万が一にもどっしりと太った淫魔などというものが生まれてしまったら、美意識の塊であるメフィストフェレスに抹殺されかねない。
「いえ、そういう訳ではありませんが……ふむ。よく見れば君は腿の辺りなど、案外肉付きがいいようですね。まあいいんじゃないですか。骨と皮だけよりは、抱き甲斐のある身体でしょう」
「そ、そうですか、よかった……」
「さて、とりあえずこのまま城へ転移しますが、幻魔の秘薬の効果が鬱陶しいので先に範囲外へ出ますね」
「あ、は、はいっ」
 マリウスの口ぶりからして、やはり秘薬の影響は続いているらしい。いまひとつ状況が読めなかったが、あまり気にしても仕方のないことだと思えたので、レフィは大人しく運ばれるに徹することにした。ぱきぱきと草を踏みながら、マリウスは迷いもなく歩みを進めていく。こういった時、出来るならば何か気の利いたことを口にしたかったが、生憎レフィはマリウスが好みそうな話題をよく知らなかった。
「レフィ」
「はい」
「今から言うのは私の独り言のようなものなので、適当に聞き流してください」
「は、はい……?」
 結局ただ黙って荷物となっていたレフィに、意外にもマリウスの方から話し掛けてきた。見上げてみるが、視線が交わることもなく、言葉通り独り言ちるような平坦な調子で、マリウスはつらつらと語り始める。
「私は、魔王陛下が元人間であることに不満を唱える者は、それこそ掃いて捨てる程見てきました。しかし、元人間が魔王であることを疑問視する者はいても、元人間でありながら魔王となれた理由について考えが至る者が殆どいないのは、一体何故なんでしょうねえ」
 マリウスの足元で、石化した草木がぱきぱきと割れていく。彼が辿っているのは、ちょうどレフィがここに来る時に通った獣道だった。よく見れば、周囲に大きな足跡が散見される。あのオーガ達のものだろう。あの時は焦っていて気付かなかったが、レフィがもっと冷静になって行動していれば、結果は変わっていたのかもしれなかった。
「魔王が何故、魔王たるか──この魔界で、それを理解する者は少ない。ゆえに、魔王陛下に対する種々の不満も上がってくるのでしょう。まあそれを揉み消したり宥めたりあれこれ便宜を図るのも、なかなか煩わしい仕事ですよ」
「マリウス様……」
「しかしね、レフィ。私が陛下の側近となってから今まで、何より腐心しているのは、そんなことではないんです。そんなくだらない仕事は、片手間に片付けてしまえばいい。私にとって、最も優先すべきものは、政務でも、軍務でも、各派閥のご機嫌取りでも、やる気のない魔王を適当に引き摺り出して体裁を取り繕うことでもない」
 マリウスの唇が、小さく笑みを形作る。僅かに口角を上げたその表情は、ぞっとする程美しく、しかし同時に、どこか薄ら寒い何かを孕んでいた。
「あのお方を、本気にさせないことです」
 形よい唇が、ゆっくりとそう紡ぐ。マリウスの視線が、その時初めて、レフィを見下ろした。長い睫毛に縁取られた彼の眼差し。そこに宿る感情を、一体何であると表現すればよいのか、レフィにはまるで分からなかった。
「あのお方がその気になってしまえば、三界ひっくるめて、数日もあれば更地に変わるでしょう。遍く命を刈り取り、森羅万象を破壊し得る。魔王たるとは、そういうものだ。しかし、何より厄介なのは、あの冗談めいた力そのものではない」
 草を踏む音が、規則的に聞こえる。既にあの、折り重なる呻き声も、噎せ返るような血の臭いも、遠く消え去っていた。それゆえに、些細な音が、随分と大きく感じられる。その静かな足音が、何故だかレフィの胸を、ひどくざわつかせた。
「当代魔王陛下は、あのお方には──根幹が存在しない。私の知る限り、歴代魔王は皆、どういった方向性であれ、欲望や野望といったものが、行動原理にありました。それゆえ侵略を、破壊を、殺戮を好んだ。しかし、陛下は違う。あのお方には、魔王であることへの執着もなければ、求める未来も、何もない。この魔界に、いえ、それ以外の全ての世界にも、まるで興味がないんですよ。それゆえ保守的で、怠惰で、行動を起こさぬと……何も知らぬ魔族達は、それを不満に思うのでしょう。しかし、彼等は気付いていない。野望を持たぬ魔王が、いかに恐ろしいものであるかを」
「……そ、それって、どういう」
「あのお方がひとつ気まぐれを起こすだけで、この魔界は消えます。それこそ塵ひとつ残さずにね。あのお方は、それをすることに、一切の躊躇いなどないということです。この魔界の、いえ、天界も、人間界も、どの世界においても、魔王陛下は呼吸をするのと同じだけ自然に、万物を破壊し、殺戮してしまえる。何一つも顧みることはなく、無慈悲に、冷酷に、理由もなく、目的もなく、不意に巻き起こる嵐のように。根幹がないとは、そういうこと。あれは、正真正銘の化け物です」
 レフィは何も言えなかった。恐らくは言う必要もなかったが、発言を求められたとしても、まともな言葉は出てこなかっただろう。ちっぽけな半人前の淫魔にとっては、随分と規模が大きすぎて、己の持てる価値基準の物差しを、とっくの昔に超越していた。マリウスの口にする魔王という言葉と、レフィの想像する魔王その人が、まるで結び付いてくれない。
「私がいかに魔界の実権を握ろうと、決して魔王になどなれません。なりたいとも思いません。あれほど完全に、完璧に、魔王たるに相応しい者を、私は他に知りません」
 謳うようにつらつらと、マリウスは語る。しかしそこまで話したところで、不意に小さく息を吐くと、どこか皮肉を孕んだような笑みを見せた。
「……とはいえ、元々はただの人間ですから、過度に警戒する必要もないでしょうがね。むしろそうすることこそが引き金になる可能性もある訳で──全くもって、厄介で、面倒で、クソ迷惑なことこの上ない。だからこそ私は、君の存在にはある種期待していたのですが」
「え、え、レフィですか……?」
 今の話の流れで自分にお鉢が回ってくるとは思わず、レフィは思わず裏返った声を上げた。大きな眼を瞬かせて唖然と口を開けるレフィを見下ろし、マリウスは愉快そうに、笑みを深める。
「ええ、そうですよ。しかし、どうやら、諸刃の剣だったようですね。まあ、今更どうしようもないですが……っと」
 前触れもなく、マリウスが立ち止まる。彼の話を半分も理解出来ないまま、レフィはただひたすら困惑するばかりだった。マリウスの長い独り言とやらを聞いて、どう反応すればよいか、全く見当も付かない。理解が及ばなさ過ぎて、途中から空の色ばかり見つめてしまった程度には。
「抜けました。今から君を城まで運びますので、大人しくしているように」
「は、はいっ。分かりました」
 レフィが改めてマリウスの首にしがみつけば、周囲に転移陣が形成される。呪文のひとつもなくここまで完璧に転移術を使用出来る者は、魔界広しと言えどもそう多くはない。ふわりと魔力の風を感じると共に、周囲の景色が白んでいく。そうして視界が完全に白に染まってしまう、それより一瞬前に、レフィの耳に届いた言葉があった。
「という訳で、恐らくこれから君は苦労するでしょうが、精々頑張ってくださいね」
「……え?」
 思わず顔を上げたレフィだったが、その時には既に、転移術が発動した後だった。マリウスの言葉が、レフィの聞き違いだったのか、そうでないのかも、分かりはしない。けれどもレフィの胸には、彼の放った言葉が、奇妙に強い印象になって、いつまでも残り続けた。


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