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おまけ
「それじゃ、先生、失礼します」
「ああ、気を付けてね、坂上くん」
ゼミ室の扉を後ろ手に締めると、坂上颯馬は腕時計を確認した。十六時二十五分。アルバイトの時間まで、まだ少し余裕がある。研究棟に寄ってから向かうとしても、十分に間に合うだろう。そう判じて、颯馬は自動扉を潜り、建物の外に出た。夏の気配が濃くなる五月。昨日の雨の所為で蒸した空気が肌を撫でる。
自転車置き場の脇を通って、研究棟の立ち並ぶ方へ足を向けながら、颯馬はひとつ大きな欠伸をした。昨夜は飲み会で随分寝るのが遅くなった。独り暮らしの颯馬に、生活の乱れを指摘するような親はいないが、今日は出来る限り早めにベッドに入った方がいいだろう。西陽を背に受けながら、颯馬は眠たげにコンクリートの道を歩く。
今日は学内にいる生徒が少ないのか、すれ違う人影はなかった。決して人通りの少ない道という訳でもないのに、周囲は随分と静かだ。大学というものは朝であれ夜であれ、大概どこかしらに人がいる。珍しいこともあるものだと、颯馬は大して気にはせず、のんびりと一人の道を歩いた。
(そういや農学部がジャガイモ配るつってたの、あれいつだっけ)
風もないのに広葉樹から葉が落ちるのを見ながら、颯馬はそんなことをぼんやりと考えた。その時だった。急に、目の前が眩むような、激しい頭痛に襲われたのは。
「っ、ぅ……!」
思わず立ち止まり、手近な街路樹に手を突こうとする。けれども平衡感覚もまともではなくなっていて、颯馬はその場によろよろと崩れ落ちた。頭の真ん中をがんがんと鈍器で殴られているような痛みが反響する。颯馬は生まれてこの方風邪すらも数える程しか引いたことのないような健康優良児で、勿論のこと持病などはない。激痛の走る頭を押さえながら、颯馬はこんな突発的な頭痛を引き起こす病気はあっただろうかと考えた。
(救急車、呼んだ方がいいかな……いや、待ってたら治るか? 治らなかったらバイト休んだ方がいいかな。シフト誰に代わって貰おう……)
そんなことをつらつらと考える間にも、頭痛は激しさを増していく。目の奥が霞んで、周囲の景色もぼやけて見えた。もしかするとこれは、緊急性の高い状態なのやもしれない。自分でどうにかするよりは、誰かに助けを求めた方がよいか。しかし颯馬の記憶の限り、周囲に人影は全く見当たらなかった。最悪このまま路上で突然死という可能性も大いに有り得る。
(そうなったら、新聞とかに載ったりするかな……いや、人一人死ぬくらい、そんな大事でもないか)
頭痛が酷くなるにつれ、視界がどんどん暗くなっていく。身体の感覚すらも、少しずつ痺れてなくなってきた。これはいよいよ危ないかもしれない。思考すらもぷつぷつと途切れて、うまく紡げなかった。もしもこのまま死ぬのだとしたら、今考えていることが最期の思考になってしまう。だとすれば少しは有意義なことを考えた方がよいだろうか。何か有意義なこと、颯馬にとって、意味のあること。
(……あ、トイレットペーパー切れてたじゃん)
それを最後に、颯馬の意識は闇の中に沈んでいった。
さわさわと葉擦れの音と、湿った土のにおいがする。颯馬がふと眼を覚ました時、最初に見たのは、風に揺られて落ちる木の葉だった。ひらひらと中空を舞い落ちた一枚の葉が、颯馬の胸の上に音もなく落ちる。それを指先で拾い上げながら、颯馬はのろのろと身体を起こした。
「……何処だ、ここ」
身体に付いた土を払いながら、周囲を見回す。背の高い木々が所狭しと立ち並び、その葉が空を覆っていた。湿度は高いが、気温は五月にしては過ごしやすいものだった。広がる葉のせいで辺りは薄暗いが、どうやら今は真昼の時間帯らしいと、影の落ち方から判断する。颯馬が最後に時間を確認したのは夕方だ。だとすれば、その翌日か、それ以上の日数、気を失っていたということだろう。あるいは……。
「三途の川のほとりにしちゃ、ちょっとジャングル感強いよなあ」
立ち上がって、身の回りを確認する。颯馬の最後の記憶と、着ている服は一致していたが、所持品などは全てなくなっていた。盗まれてしまったのだろうか。だとすればカード類は早急に利用停止したいところだが、生憎とスマートフォンも持っていないので、今すぐ電話を掛けることが出来ない。
ひとまずは何処か、人のいそうな場所を目指した方がいいだろう。交番が見付かれば話は早い。誰が何を思ってそうしたかは分からないが、颯馬は大学のキャンパスからいきなり見覚えのないジャングルめいた場所に移動させられていたのだ。倒れていた颯馬を見て、まず救急車を呼ぶことを考えずにそうしたのなら、相当な変人か、あるいは悪意を持った何者かの犯行だろう。
むしろ前者の方が怖い気もする、と考えながら、颯馬は見知らぬ土地を歩き出した。とりあえずは、まともに通れそうな道を探したいところだ。整備された道がどこかにあれば、そこが人のいる場所に繋がっている可能性が高い。
しかし、眼の覚めたところからほんの数十歩ほど歩いたところで、颯馬の足は止まってしまう。物理的に、止まらざるを得なかった。鬱蒼と木々が生い茂る中、突如として何者かの影が颯馬の眼前に躍り出たのだ。一瞬、野生動物の類かと思われた。随分と大きく、颯馬の胸に届きそうなほどある。熊の類なら厄介だと考えつつ、飛び出してきた何かに焦点を定めた颯馬は、思わずぽかんと口を開けた。
「……え、何? いや、誰って言った方がいい?」
颯馬の眼前にいるのは、小柄な人のような生き物だった。しかし、豚のような顔面や、つるりとした緑色の肌、尖った耳などは、人の特徴と呼ぶには少し難しい。しかししっかりと二足歩行であり、手には鉈のような武器を持っている。となると、人として扱うべきなのかとも迷ったが、結局颯馬は、暫定的に新種の類人猿的な何かだと思うことにした。
「あー……人語通じるか? こんにちは、初めまして、ハロー、ニーハオ、ボンジュール、グーテンターク、ボンジョルノ……あと何だっけ、ジャンボ?」
一応人であった場合を想定して話し掛けてみるものの、緑色の生き物は返事をする気配もなく、むしろぐるぐると唸って、颯馬を威嚇しているような様子だった。
「よし、人じゃないな、動物の方だなこれ」
落胆すべきか安堵すべきかよく分からないまま事実を確認し、颯馬は大きく頷く。と、次の瞬間、緑色の生き物は、地を蹴って颯馬に躍りかかってきた。
「──っ、と!」
錆び付いた刃物が、颯馬の胸を狙って振り下ろされる。後ろに下がってそれを避けた颯馬は、随分厄介なことになったと眉間を寄せた。これは俗に言う、命の危機というやつだ。今の一撃でよく分かったが、この生き物は紛れもなく颯馬に対して害意を持っている。相手は得体の知れない生き物で、未知の毒やら病原菌を持っている可能性は否定出来ず、更に武器を使用する程度の知能はあるらしい。それに対して颯馬は完全に丸腰である。一応体格はこちらが勝っているが、戦って勝てるかというと、そんなことより逃げ出した方がよっぽど賢いと思われた。
「これで死んだら、事故死扱いになんのかな……」
そんなことを呟きながら、颯馬は二撃目を避ける。緑色の生き物は、武器を使うことは出来るものの、どうやらあまり知能が高い訳ではないらしかった。攻撃の際に大きな叫び声を上げながら、大振りな動きで迫ってくる。颯馬は元々反射神経や運動神経には自信のある方だったので、避ける程度は造作もなかった。最悪、多少の負傷は覚悟の上で立ち向かうことも考えるべきかもしれない。
「なあ、お前って殺したら器物破損とかになったりする? 殺人……にはならないよな、たぶん。なったらちょっと困るんだけどなあ、殺人の前科持ちとかにはあんまりなりたくないし」
怒り狂ったように鼻を鳴らしながら襲い掛かってくる生き物の攻撃をひょいひょいと躱しながら、颯馬は隙を伺う。出来れば逃げる、それが無理そうなら可能な限り無力化する。とりあえずは、もう少し動きやすそうな場所に移動して──と、思っていたところ。
「……は?」
颯馬に襲い掛かった命の危機は、唐突な幕切れを迎えた。横手から風を切って飛んできた何かが、緑色の生き物の頭を、一直線に貫き通したのだ。濁った叫び声を上げた謎の生き物は、そのままぐらりと地面に倒れ込む。よく見れば、生き物の頭に刺さっているのは、一本の矢だった。
がさがさと、草を分け入る音がする。颯馬が顔を上げれば、木々の狭間を縫うようにして、近付いてくる人影があった。それは金髪の女だった。長い髪をひとつに纏め上げ、真っ白な肌には簡易な鎧のようなものを纏っている。容貌は溜息が出る程に美しく、残念なところがあるとしたら胸元が少し寂しいくらいのものだった。
「人……だよな、今度は」
少なくとも、颯馬の足元で絶命している生き物と比べたら、何倍も人らしい外見をしている。彼女の手には弓が握られており、背中には矢筒を背負っていた。どうやらこの女性が、颯馬の危機を救ってくれたらしい。金髪の女性は颯馬の許へ歩み寄ると、怪我のないことを確認するように爪先から顔に視線を辿らせて、にっこりと優しげな笑みを見せた。
「あ、どうも、ありがとうございます。助かりまし──」
「タッカラプト ポッポルンガ プピリットパロ」
「……はい?」
女性の口から放たれた、全くもって意味の分からない言葉の羅列を聞いて、颯馬はひくりと笑顔を引き攣らせた。女性はきょとんとした顔で、颯馬の顔を見上げている。再び口を開いた彼女の唇が何かを呟いたが、しかしそれも、颯馬が全く聞いたことのない言語だった。暫しの沈黙。女性が困惑した表情で頬に手を当てるのを見て、颯馬はようやく理解する。
これはどうやら、思っていたよりも随分と大変なことになっているらしい、と。
「ま、そーんなこともあったよね」
それから数えて数百年。立派な執務椅子に座り、お行儀悪くも机の上に脚を組んだソーマの膝で、レフィは彼の語る言葉を聞いていた。何の気なしに、レフィがソーマの過去を聞いてみたところ、つらつらと語られた、とんでもない出来事。今明かされた衝撃の事実に、レフィはただただ眼を瞠るばかりだった。
「じゃ、じゃあ、魔王様、もしかして元人間どころか、異世界のお方だったんですか……!」
「多分そういうことだろうな。いやあ、あの時はさすがに苦労したわ。言葉は通じないわ地理は分からんわ知らん生き物はわんさかいるわ、今まで生きてきた知識が丸ごとさっぱり使い物にならんかったからなあ。翻訳魔法使える魔法使いの爺さんに会わなかったら、さすがに死んでたかもな」
あっけらかんと笑いながら、ソーマは大したことでもないようにそう語る。しかし右も左も分からぬ状況で、裸一貫、異世界に放り込まれた彼の艱難辛苦がいかなるものであったか、レフィにはもはや想像も付かない。自分が同じような状況に置かれた時のことを考えると、背筋に氷が滑り降りるような心地だった。
「この世界の知識なんかなんもねえから食っていこうと思ったら身体使うしかなくて、そこらに湧いて出る魔物狩ってたらいつの間にか英雄とか呼ばれてて、気付いたら魔族んなってて、そんでも結局やる事が戦う事しかなかったから戦ってたんだけど、そのうち魔王だとかほざくオッサンが出てきて、まあたぶん頭の可哀想なアレなんだと思って倒したらほんとに魔王だったんだよな」
「はわぁ……そ、そんなことが……」
随分と掻い摘んで語られるソーマの半生だったが、随分と波乱万丈な過去を辿ってきたことは、その淡々とした説明口調からですら窺える。レフィが彼の立場だったなら、間違いなく自伝を執筆していただろう。現役魔王の執筆する自伝である。さぞかし話題を集めるに違いない。などと考えながら、レフィはソーマの頬に触れた。普段はそんな顔を少しも見せないが、彼が魔王に登り詰めるまでには、きっと悲しいことや苦しいことが沢山あったのだろう。そう思うと、レフィは胸の真ん中がぎゅっと引き絞られるような心地になるのだった。
「魔王様、いっぱい苦労されてきたんですね……よしよしです」
ソーマの頭を胸に引き寄せると、レフィは彼の黒髪を優しく撫でる。ついでに旋毛に口付けを落として精一杯甘やかしてみたところ、ソーマはいまひとつ複雑そうな顔をして眉間に皺を寄せるのだった。
「なんだろう……お前に慰められんのは、なんか屈辱だな……」
「ええっ! なんでですか! レフィはとっても真面目によしよししました!」
「いや、お前に哀れまれるのは、何かこう、俺の自尊心に抵触する」
「ひ、ひどい……」
普段そこいらの魔族にやれ無能だの出来損ないだの言われても、どこ吹く風とばかりに平然としているソーマである。そんな彼ですら自尊心が傷付くというのなら、レフィは彼に一体何だと思われているのだろうか。しょぼくれるレフィだったが、ソーマに顎を引かれ、ひとつ口付けをされると、そんな鬱屈とした感情は瞬時に吹き飛んだ。呆れ返る程単純なレフィであるが、それが何よりの取り柄でもある。
「そもそも俺は、別に酷い人生だったとか、そんな思ってないし」
「そうなんですか……?」
「まあなんやかんや色々あったけど、正直わりとどうでもいいというか……それに、あの時こっちに飛ばされてなかったら、お前にも会ってなかった訳だしな」
ソーマの腕が、レフィの腰を引き寄せる。頬を啄むように唇を落とされ、レフィは擽ったさに小さく肩を震わせた。こつりと額を合わせて、ソーマは闇色の瞳を穏やかに弛ませる。
「今、お前がこうして俺の腕にいるんなら、結果オーライってやつじゃねえの。俺がこの世界に飛ばされたのも、魔王になったのも、全部お前の為だと思えば──まあ、悪くはないよ」
「ま、魔王様……!」
胸の奥から熱いものが溢れ出して、レフィの身体を、魂を満たしてゆく。頬にじわじわと熱が上り、涙が零れ落ちそうになった。この幸福感には、いつまで経っても慣れる気がしない。高鳴る鼓動と溢れ返るような歓喜のまま、レフィがソーマの頬に触れれば、どこか悪戯に弧を描いた唇が、嘯くように囁いた。
「何、キスして欲しい?」
ソーマの指先が、薄く開いたレフィの唇に触れる。明確な意図を持って、低く艶めく声の響きに、レフィは堪らず背筋を戦慄かせた。頭の中がじんわりと熱くなって、思考が溶け始める。
「はい……欲しいです、まおうさまぁ……レフィのおくち、いっぱいかわいがって……」
ちゅ、と小さな音を立てながら、レフィはソーマの指先にそっと吸い付いた。強請るような眼差しでじっとソーマを見つめるだけで、腰がじんと重たくなる。黒瞳に鈍い光を宿しながら、ソーマは微かに濡れた指を、レフィの唇から引き離した。
「いいよ。いくらでもしてやるさ、かわいいレフィ」
「ん……っぁん……」
二人の唇が、ゆっくりと重なる。勝手知ったるとばかりに咥内に侵入してくるソーマの舌を受け入れながら、レフィはソーマの首に腕を回した。小さな舌を健気に差し出すレフィを甘やかすように、ソーマは互いの唾液を絡め合わせては細い喉に送る。敏感な粘膜を一番好きな強さで刺激され、レフィは心地よさそうに鼻を鳴らした。
「っふ、んんっ……ぁ、ふ、ぅ」
舌が擦れ合い、絡み合う度に、肌の粟立つような熱がレフィの腹を疼かせる。大きな手でレフィの頭を拘束しながら、ソーマは机から脚をどかすと、そこにレフィの身体を組み敷いた。蠢く舌が、角度を変え、喉奥までも掻き乱しては、レフィの性感を悪戯に煽っていく。ソーマの掌はするりとレフィの柔い胸元を辿り、指先が薄い布地の下に侵入した。
「あ、んんっ……ま、魔王さまぁ、だめですよぉ、ここじゃ」
「何が」
「あ、あの、だって……ここ、お仕事するところだから……ベッド、行かなきゃ……」
「堕落礼賛主義の淫魔とは思えねえ台詞だな」
「あうぅ、そ、そうですけどぉ……ひゃ、ぁんっ」
ソーマの指先が、レフィの胸の先端でつんと尖った部分を引っ掛ける。ぞわりと腰を浮かせながら、レフィはソーマの肩に縋って抵抗にもならない抵抗を見せた。
「あ、ぁ、まおうさま、んんぅ、昨日も、たくさん、しましたよぉ……」
「そうだな、お前また途中で落ちてたけど」
「……あぅ」
気まずそうに眉尻を下げて、レフィは言葉を詰まらせる。ソーマと肌を重ねることに対して、レフィは最近ようやく多少は慣れてきたと思えるようになったが、それでも正直なところ焼石に水であった。尋常ではない魔力と体力の差は、未だ埋まったとは言い難い。しかしながらこれはもうレフィの努力でなんとかなるようなものではなく、ソーマが化け物すぎるので仕方のないことなのだと、レフィ自身は主張したかった。
「う、で、でもぉ、するならちゃんと、ベッドに行ったほうが……」
「とか言いながら、こっちは離す気なさそうだけど?」
「──あ」
愉快そうに笑いながら、ソーマがレフィの腿を撫でる。そこでやっとレフィは気付いた。自分の脚が、ソーマの腰にしっかりと絡みついて、離すまいと拘束していることを。
「こ、これは、んと、そのぉ、不可抗力と言いますか……だってだって、レフィは淫魔なんですもんっ……」
「はいはいそうだな、かわいいかわいい」
「んっ……ぁ、ふぁ、あんっ、まおうしゃまぁ……っ」
宥めるように唇が啄まれ、ソーマの手がレフィの身体を撫で回す。敏感なところを指先で掠めるように触れられて、レフィはもどかしげに腰を揺らしては甘ったれた声を上げた。肌の上を男の手が滑る度、思考が茫洋とぼやけていく。レフィの中で淫魔の本能が否応なく目を覚まし、腹の奥がきゅんとせつなげに疼いた。
「んんっ、ぁ、らめぇ、きもちよく、なっちゃう……」
「いいよ、いくらでもなりな、レフィ」
「ぁ、はぅぅ、まお、しゃまぁ……ぁ、あっ、そこぉ、っあ、んんっ、そんなとこさわっちゃ、ぁ、あっ」
「好きだろ、ここ」
「あ、あっ、すきぃ、すきれす、ぁんっ……ふぁぁ、ぁっ、あ、ぁっ、いじわるしちゃ、ぁ、やぁぁ、っあ……」
──というところで、ずがん、だか、どがん、だか、よく分からないが、とにかく何か硬いものを思い切り叩き付けるような音と共に、背中から殴られるような衝撃が、レフィの身体を軽く浮かせた。
「っひゃぁ!」
全く想定していなかったところからの一撃に、レフィはびくりと肩を震わせ、丸く大きな眼を見開く。地震でも起きたかと思って身を竦ませながら、おずおずと視線を彷徨わせた、その先に。
「はーい、そこの脳味噌お花畑クソアホ公然猥褻共、お仕事の時間ですよー。というか、お仕事の時間でしたよー。さっきから。ずっと」
煌めく美貌に大輪の華のような艶やかな微笑みを浮かべて、たった今魔界の王の机に横合いからヤクザキックをぶち込んだ張本人が立っていた。その美の化身の如き笑顔を目の当たりにしたレフィの喉から、ひぃ、と掠れた悲鳴が零れる。思わずソーマの首にしがみつくレフィの頭をぽんぽんと撫でながら、ソーマが少しばかり引き攣った声を上げた。
「あー……マリウス、馬に蹴られるぞ」
「どうぞご心配なく。馬程度なら片手で捻り殺せますので」
「で、ですよねー」
「いやあ魔王陛下。仲睦まじげでなによりです。私が陛下からお引き受けした大事な仕事を真面目に勤勉にひとつひとつこなしている目の前で、執務室に淫魔連れ込んでイチャイチャイチャイチャイチャイチャ乳繰り合う暇がおありなんですから、今の倍はお仕事をお任せして大丈夫そうですね?」
「いや、これはまあ、その……ちょっと休憩を」
「陛下のそれは休憩ではなく怠慢と呼ぶんですよ」
マリウスが小脇に抱えた大量の書類を、机の上にどさりと乗せる。青い顔をしたソーマが、それから逃れるように執務椅子に沈んだ。ソーマの額から、冷や汗がだらだらと流れ落ちる。この間もぴくりとも崩れないマリウスの笑顔は、レフィが卒倒しそうな程に美しく輝いていた。
「では、これを夕刻までにきっちり終わらせてくださいね、魔王陛下」
「えっ無理」
「何が? 余裕がおありなんでしょう? 淫魔相手に発情でもしなければやってられないくらい暇なんでしょう? 出来ますね?」
その時、ぬるりとマリウスの手が伸びて、レフィの首根っこを捕まえた。死神に鎌を突き付けられたような気持ちで、レフィが息を呑む。思わずソーマに助けを求めようとしたレフィだったが、そんな暇すらなく、マリウスにべりべりと身体を剥がされてしまった。猫のように持ち上げられたまま、じたじたと暴れてみるが、全くもってそれが意味を為す様子はなく。
「マ、マリウス様ぁ……!」
「いいですか陛下。それが終わらなかった場合、レフィは数日ほど地下牢に閉じ込めさせていただきます」
「ひぇ、な、なんでですか!」
「何で? よくそんな台詞が吐けましたね。ここ最近、陛下が君と馬鹿の一つ覚えみたいにイチャつき倒しているせいで、前にも増して仕事が滞っているんです。よもや覚えがないとは言わせませんよ」
「うっ……」
マリウスの言葉が、レフィの胸にぐさりと刺さる。確かにマリウスの言う通り、ソーマに初めて抱かれたあの夜からこちら、浮かれたレフィはソーマにべったりと引っ付いて、ソーマの方もなんだかんだとレフィに構い倒しているのもあって、以前よりも更にソーマの怠慢が進んでいることは否定しようがなかった。色欲に狂わせ堕落に誘う淫魔としては、むしろ本望と言うべきなのではないかとも思われたが、マリウスの笑顔に向かってそれを言い放つ勇気は、レフィにはない。
「という訳なので、陛下が真面目に仕事をしてくださらない限り、レフィは地下牢行き決定になりますので、あしからず」
「う、うう、魔王様ぁ……」
「あー……」
半泣きになりながら、レフィは縋るような眼でソーマを見る。こうなってしまったら、ソーマに仕事をして貰うしかない。城の地下牢がどんな風になっているのか、レフィは見たことはないが、恐らくはたいへん寒いし、ベッドの寝心地は悪いし、虜囚が拷問にかけられる声が昼夜を問わずに響いているような、そんな場所なのではないかと思われた。そんな恐ろしい場所に放り込まれるなど、なんとしても御免被りたいところだ。
ソーマはレフィの顔を見て、マリウスの顔を見て、それから机の上に乗った書類を見る。そうしてもう一度、レフィの顔に視線を戻すと、ひとつ小さく溜息を吐いた。
「レフィ、頑張れよ。殺されることはないと思うから」
「ええええ! 待ってください! なんで魔王様が頑張らない方向でお話が進むんですかぁ!」
予想の斜め上の返答に、レフィはマリウスに捕まったままじたばたと藻掻いた。必死で抗議を口にするレフィとは裏腹に、ソーマはどこか吹っ切れたようなさっぱりとした笑顔を見せて、机に積まれた書類をぽんと叩く。
「いやだって……この量はしんどいし……」
「筋金入りの怠け者根性ですねこれは。レフィ、本当にこのお方でよかったんですか?」
「うう……レフィは今、ちょっとだけ気持ちがぐらつきました……」
「はあ……全く仕方がないですね。では、こうしましょう」
呆れ顔で大きな溜息を吐くと、マリウスはレフィの身体を持ち上げて、ちょうど自身の顔の横に並べるようにする。端正な顔が近付くものの、今のレフィにとってそれは恐怖の対象でしかなかった。あからさまに怯えるレフィを片手にぶら下げながら、マリウスは笑みを深めてソーマに語り掛ける。
「地下牢行きはなしにします」
「えっ、本当ですか!」
「はい。その代わり、それが時間内に終わらなければ、私自ら、レフィの穴という穴に太くて硬いのをぶち込ませていただくことになります」
「ひっ……」
うっそりと笑いながら、マリウスが言い放った言葉。その薄ら寒い響きに、レフィは思わず身体を硬直させる。指先をがたがたと震わせながらソーマの方を見れば、彼は平然としたまま、手許でペンをくるくると回していた。
「はは、冗談。お前、女にしか興味ねえだろ」
「ええ、その通りですよ。しかし、嫌がらせで一発やらかす程度でしたら、いくらでも出来ますので」
「えっ」
「私も魔族ですから」
麗しい笑顔を全く崩さないまま、マリウスはソーマを見下ろしている。ソーマはぱたりとペンを取り落とすと、マリウスの眼差しをじっと見上げた。沈黙が下りる。ひとつ、ふたつ、と鼓動が打つ音が身体の内側から聞こえてくる。そうしてレフィが、十を数える頃になって、ソーマはゆっくりと、レフィと視線を合わせた。会話はない。が、両者の間に合意は成立した。
「……よーしボクとっても頑張っちゃうぞー」
「よろしい」
「ま、魔王様ぁ……!」
ソーマが引き攣った笑顔を浮かべながら、書類にペンを走らせる。それと同時に解放されたレフィは、ぴいぴいと泣きながらソーマの許へ逃げ込んだ。ソーマの座った執務椅子の後ろに隠れて、レフィはさめざめと涙を零す。こいつなら本当にやりかねないから今は逆らわんとこう。それがあの視線の交錯で交わした、二人の誓いだった。
「こ、怖かった、怖かったです魔王様……!」
「ちくしょう足元見やがって……」
「いや、元々あなたの仕事ですからね、これ」
三者三様の溜息が零れつつ、ようやくソーマの前に積まれた書類が減り始める。眉間に皺を寄せながらがりがりとペンを動かすソーマの後ろで、レフィはそわそわとその様子を見守った。ソーマの走らせるそのペンに、レフィの貞操が懸かっているのである。握る拳にも汗が滲もうというものだった。
「魔王様、頑張ってください! レフィは応援しています! がんばれがんばれ魔王様! まけるなまけるな魔王様!」
「いやそれ逆に気が散るわ」
「うぐぅ……」
容赦のないソーマの言葉にがっくりと項垂れて、レフィは大人しくソーマの仕事を見守るに徹することにした。こんな時、レフィが何かしら助けになれればよいのだが、魔界の王の仕事など、レフィに分かる筈もない。書類一枚取っても、レフィには何を書いているのだかまるで理解が出来なかった。
「つかお前、応援っていうんなら……そうだ」
先程よりも更に眉間に皺を増やしながら振り向いたソーマが、ふと何かに気付いたようにペンの動きを止める。その視線が、どこか不穏なものを孕んでいたような気がして、レフィは思わず少し仰け反った。そんなレフィの手首を掴むと、ソーマはレフィを手招きして、耳元に唇を寄せる。
「魔王様……?」
「お前さ、俺がこの仕事終わらせたら──」
潜めた声が、レフィの耳に囁き掛ける。ごにょごにょと続く言葉を聞いて、レフィはふんふんと頷いていたが、やがて顔を真っ赤に、そして次の瞬間には真っ青に染めて後ずさりした。
「そ、そそそそ、そんなこと! 出来ません! むりですむりですっ、そんなことしちゃったら、レフィは、レフィは……!」
「いやでもさあ、折角ならケツを叩かれるより、眼の前に人参ぶら下げた方が、馬も喜んで走るってもんだろ? なあマリウス」
「ふむ……何をお話しになったのかは知りませんが、魔王様が真面目に働いてくださるのなら、私は賛成ですよ」
「だ、だめですっ! こ、こんなの、こんなの、しちゃったら、レフィほんとに、だめになっちゃう……っ」
つい先程ソーマに泣きついた筈だったというのに、今度はマリウスの方に逃げ出しながら、レフィは必死になって拒絶した。今のソーマの言葉を反芻するだけで、背筋がぞっと総毛立つ。しかし同時に、淫魔の本能の部分が、どくどくと脈を打つように期待している気配がするのが、ひどく恨めしかった。頬に両手を当ててぶんぶんと首を横に振るレフィを眺めながら、ソーマはどこか泰然と、唇を動かす。
「……マリウス」
「はい」
「レフィが俺の言ったことをやってくれるなら、俺は時間までにこの倍の量終わらせる」
「ま、魔王様? 何を──ひえぇっ!」
瞬間、マリウスの手が瞬きひとつの間も許さずレフィを捕まえた。再びマリウスの片手にぶら下げられながら、レフィはひんひんと啜り泣いて弱々しく抵抗する。恐る恐る背後を振り向いてみれば、マリウスが今まで見たこともないような爽やかな笑顔でサムズアップしていた。
「素晴らしいですね。やはり世の中、愛の力が全てです。愛は魔界を救う」
「マ、マリウス様? マリウス様! 待っ……あぁぁ身体が動かないですよぉ!」
マリウスが当然のように無詠唱で行使した拘束術が、レフィの自由を奪う。手足が全く動かせない状況でマリウスに抱えられたレフィは、魔王の執務室にある大きなソファに、恭しいほど丁寧にそっと横たえられた。魔界とは思えぬ、慈愛の聖母の如き微笑みを見せたマリウスが、優しくレフィの額を撫でる。
「さあ、レフィ。君の愛しい魔王陛下がお仕事を終わらせるまで、こうしていい子で待っていましょうね。私も別に、二人の仲を邪魔したい訳ではありませんから。仕事が終われば、後はもう、何処で何をしようがされようが、どうぞご自由に」
「マリウス様、マリウス様ぁ! ひどいです、レフィを生贄になさるおつもりですね! ひどいひどい、レフィのじんけん、人権は!」
「はは、面白いことを言いますねレフィ。魔界に人権なんてある訳がないでしょう」
「うわぁぁん絶対王政ー!」
レフィの嘆きが、魔王の執務室に虚しく谺する。
その後、珍しく本気を出した魔王は宣言通りに溜めた仕事を一括で終わらせた後、泣き疲れたレフィを抱いて執務室を後にした。翌日、側近の前に現れた彼は、いつにも増して、晴れ晴れとした表情をしていたという。
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スノウマン(ユッキー)
BL
平凡顔・ヒモ・家事能力無しの黒は、恋人であるイケメン俳優の九条迅と別れたがっている。それは周りから釣り合ってないと言われたり、お前の事を愛してない人間なんて止めておけと忠告されたからだ。だが何度黒が別れようとしても、迅は首を縦に振らない。
迅の弟である疾風は、兄は黒の事を特別扱いしてると言うが――。黒は果たして迅と別れることが出来るのか!?