我が身は死人の世界

一ノ清たつみ(元しばいぬ)

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王都とギルド潜入

39.大切なひと

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 ジョシュアの気分は最悪だった。
 何も考えたくない。その一心で、ヴィネアに己の衝動をぶつける。他者に対してこんなにも激しい感情を覚えるのは、生まれて初めての事だった。

「ッ、クッソ、相っ変わらず魅了も効かないのかよ」

 舌打ちを打ちながらも笑みを絶やさないヴィネアに、ジョシュアは襲いかかっていた。今できるありったけの技術を駆使しながら、ただ、目の前の魔族を殺す事だけを考える。その心臓に、己の刃を突き立てる事だけを考える。
 その後の事は考えないようにした。考えたくもなかった。

――それは、駄目……早く、アンタが殺した事にしないと、名前――

 目の前にいるコレは、今までに自分が狩ってきた有害なだけのモンスターと同じものであると、そう思い込ませる。自分たちとは違うのだと、排除すべき者達であるのだと自分を納得させながら、ジョシュアは腹の底から湧き上がってくる衝動に身を任せるのだ。

――お願い、最期の、私の望み、叶えてよね。お兄ちゃん――?

 ただただ、目の前のモノを壊してしまいたくて仕方がなかった。例え自分がどうなろうとも構わない。できるはずもないのに、彼女の後を追うのだって構わないとさえ思っている。
 けれども。それでは、彼女に示しがつかないのだ。

――ちゃんと、アイツら、やっつけてね。

 自分の手で殺さねばならない。
 自分には似合いもしないそんな義務感に突き動かされるように、それ以上に腹に抱える激情に身を委ねるように、ジョシュアはただ無心でそれだけを考えた。
 ちょこまかと宙を飛び逃げ回るヴィネアは、ジョシュアのような吸血鬼と対峙する事に随分と手慣れているようだった。自分よりも倍程に早く動けるジョシュアの足蹴りや手刀を、すんでのところで巧みに躱してみせる。
 それに苛立ちを感じながら、ジョシュアは努めて冷静になるようにと自分自身に言い聞かせた。闇雲に攻撃しては当たるものも当たらないと分かっている。普段の冷静さを、赤毛と対峙していた時の事を思い出しながら心を落ち着けようと歯を食い縛った。

――私、ジョッシュのこと――

 いつもの自分ならば当然のようにできたはずだった。本心を奥の方に押し込めながら、言われるがまま相手の望むように動いてみせる。普段からしている事だ。
 だがそんな事ですら、今のジョシュアにはできなかった。心を鎮めようとする度、湧き上がってくる本心が邪魔をする。目の前の魔族を自分の手で、どうにかしてしまいたかった。
 これはみんな自分の所為ではないか。そう考え出すと、ジョシュアは止まらなくなってしまう。今、ここで考えるべき事ではない。分かっていた。
 考えてもどうしようもない、そんな思考を無理矢理終わらせる為に、ジョシュアは衝動に身を任せるだけだった。

──口をつけた途端、鼻腔に広がる覚えのある香りに目の奥がツンと熱くなった。けれどここで折れてしまう訳にもいかずジョシュアは、堪えながら喉を鳴らした。何日にも渡る拷問の末に疲れ果てた体は、ジョシュアの気持ちなど知った事かと貪欲にエネルギーを欲する。飲み疲れる、ということすらもなかった。まるでこれを、どこか待ち望んでいたかのような。決して無いはずの想像が、ジョシュアを一層責めさいなんだ。

 天井近くを飛ぶヴィネア目掛けて、壁を伝い足蹴を食らわせる。ジョシュアが攻撃のコツを掴んできた為か、ヴィネアはそれを躱しきれなくなってきているようだった。時折肌を掠るような手応えに、ジョシュアは更に攻撃のペースを上げた。
 時折壁と天井に爪を食い込ませながら、体が下に落ちるよりも前に壁や天井を蹴り返す。先程目にしたミライアや黒尽くめの吸血鬼がそうしていたように、ジョシュアは攻撃の手を緩めなかった。

「っぐ、」

 ヴィネアがそんな呻き声を漏らしたのは、幾度目かに手を突き出した時だ。ジョシュアの爪がその肩を抉った。
 微かな血臭に心が沸き立つ。ジョシュアはまるで、自分が自分ではなくなるような感覚を覚えていた。それでも構わないと思えるのは、今のジョシュアがそれを望んでいるからだったろうか。考えている暇などはなかった。

 戦況が動いたのはそれから間も無くだった。ジョシュアの足蹴を躱し損ねたヴィネアが、微かな悲鳴を上げながら地に落ちたのだ。
 ジョシュアはすかさず天井を蹴り、一直線に急降下する。その忌々しい翼を切り裂いてやろうと、右手を下から上へと斬り上げてみせた。
 だがその爪は空を切り、転がりながら避け、這いつくばるような体勢になったヴィネアは、再びその背の両翼を広げた。
 またしても宙に逃げられてしまう。あと一歩届かない歯痒さに、ジョシュアは舌打ちを打った。
 だがその時だった。突然、何かを裂く音が聞こえたかと思うと。ヴィネアの片翼がその場で散った。
 次いで響いた悲鳴と共に、聞き覚えのある叫び声が聞こえる。

「あああああッ!」
「陽に近づき過ぎた紛い者がっ、地にのたうって死に腐れ!」

 セナだった。片翼を失ったヴィネアが仰け反るように動きを止めたほんの一瞬。セナは下から剣を振り抜いた。胴体を逆袈裟に裂かれ、ヴィネアの悲鳴が呻きに変わる。
 そしてジョシュアもまた、その機を逃さなかった。
 ヴィネアは魔族だ。確実に心臓を抉らなければ、その生命を絶つ事は難しい。ミライアや赤毛のイライアスから教えられた知識だった。
 ジョシュアの右腕が、その胴体を捉えた。人体を突き破る感覚と共に、むせ返るような血の匂いが周囲に漂う。
 今やジョシュアは、その血液の香りに微塵も魅力を感じない。ましてや、家族の――愛した人の仇の血など。

 自分の腕にもたれかかるように、くたりとしたその体から力が抜けるのを感じて、ジョシュアはその時一瞬、呆けてしまった。呆気ない終わりに頭が追い付いていかなかった。
 終わった。そう思うのに、どうしてだか心は晴れなかった。
 この場で仇を打ったというのに。約束を守れたと思うのに。
 一度失ってしまったものは戻らない。それを分かっているからこそ、遣る瀬なかったのだ。
 ジョシュアの隣で剣を放り投げたセナが、その場で座り込み、俯いて顔を覆う姿がやけに目についた。調子者の彼の姿は、今やどこにも居なかった。きっとセナも、自分と同じような気分なのだろう。ジョシュアは漠然とそんな事を思った。

 だが、そんな時だった。
 声が聞こえたのだ。ジョシュアのすぐ近くで。ねっとりとするような忌々しい声が、耳に入った。

「これで、終わったと思ったか?」

 ジョシュアは途端、息が止まるような感覚を覚えた。
 抜け切っていたはずの体に再び力が入り、自分の右腕が目の前の魔族に両手で鷲掴まれるのを見た。今、殺したはずの魔族に。
 信じられないものを見る気分で、ゆっくりと持ち上がっていくその頭を眺めた。
 ジョシュアの目に映ったその顔には、相も変わらずいやらしい笑みを浮かべていた。獲物をいたぶる時のような、残虐な者の笑みだ。

「ざんねーん、今の俺に急所はないんだなァ……お前らにこの俺を殺す事はできない」

 言われた途端、ジョシュアの背筋に悪寒が走った。訳の分からないものにでも触れたような感覚で、腕に纏わりつくこの魔族のすべてが、気持ち悪く思えた。
 咄嗟にその体を突き放そうとするが、ヴィネアに両手で掴まれ阻まれる。いっそ引き寄せるように距離を詰め、その胴体から腕を抜き取る事が出来なかった。
 息を吹き返したその体が、血を噴き出しながらも再び動き出す。奇妙なことだった。

「おい! 逃げろ!」
「ははっ、またまた捕まえたぜ? 吸血鬼……しっかしまぁ、本当に色々とやらかしてくれちゃって。俺の計画もおじゃんだわ。数百年ぶりに死んだよ」

 ジョシュアは咄嗟にセナに向けて言葉を放った。本当にこのままでは、ヴィネアが何をするか分からない。自分達吸血鬼ならば兎も角、この場の人間達に何かされてはエレナに顔向けできない。必死だったのだ。だから、ジョシュアは気付けなかった。このヴィネアという魔族の本質に。

「この責任は取ってもらうからな、お前に」
「!」

 その場でジョシュアが息を呑むが早いか。
 ヴィネアは何と、まるで吸血鬼のように、ジョシュアの首筋に噛み付いてきたのだ──!
 この行動は流石に予測がつかず、ジョシュアはその場で身体を強ばらせる事しかできなかった。このヴィネアは吸血鬼ではないはず。ならば一体、どんな魔族なのか。

 その答えは間も無く判明した。
 噛み付かれてすぐ、ジョシュアの体の内から何かを吸い取られていくような感覚を覚えた。吸われてはいけない何かを。
 咄嗟に理解した。成る程、この魔族は“吸血”ではなく、精気を奪う“吸精”を行える魔族だ。今更そんな事に気付いても、ジョシュアには最早手遅れのように思えた。
 あっという間に身体に力が入らなくなった。ジョシュアは一歩も動けず、押し倒されるように背中から地面に倒れ込んだ。
 エレナから貰ったものを奪い盗られているような気がして大層不快だったが、このような状態では今更どうする事もできない。歯嚙みしながら、馬乗りに乗り上げてきたその身体を睨み上げた。
 しかし幸運にも、その状況は長くは続かなかった。この場に居るのは何も、ジョシュアやセナばかりではないのだ。
 ジョシュアを押し倒したヴィネアに、攻撃を加える者があった。

「うわッ! あっぶなッ」
「チッ」

 イライアスだった。先程までとは打って変わって、珍しく顔を顰めた彼がその首を狙っていた。生憎と突き出されたその爪は空を切ったものの、ジョシュアはその魔の手から逃れる事ができたのだ。
 時間にすればほんの数十秒の事だというのに。ジョシュアはもう、その場で立てない程に吸い取られてしまった。起き上がる事もままならない。

「やっぱ吸血鬼のは食いがいがあるなァ……頃合いか。おい、クロ! ここは放棄する。とっとと逃げるぞ」

 あの吸血鬼はミライアと対峙してもまだ、生きているのか。そういう驚きを胸に、ジョシュアはその場でうつ伏せに転がった。
 残された絞りカスのような力を振り絞って顔を上げれば、両翼で宙を飛ぶヴィネアが、天井に刻み込んだ魔法陣を展開させながら何かを待ち構えている所だった。
 確かに貫いたはずの胸の傷も失った筈の片翼も、始めから何事もなかったかのようにヴィネアは元通りに戻っていた。
 正真正銘、不死の化け物。この魔族を殺す手段はあるのか。少なくとも今のジョシュアには、思い付きもしなかった。
 逃げられてしまう。立ち上がれもしないジョシュアは、ただ指を咥えて見ている事しか出来なかった。
 吸血鬼は、他の魔族達に比べさほど魔術に明るい訳ではない。あの魔法陣には何らかの罠が張られているかもしれない。イライアスも判断しかねるようだった。それはほんの、一瞬の迷いだ。
 けたたましい音と共に、隣の部屋の壁を突き破りやってきたあの男が、ミライアの追跡を振り切りヴィネアの手を掴む。
 途端に魔法陣より発動したその魔術は、青紫色の光を放ちながら瞬く間に彼等を包み込む。その光は、ぐるぐると数秒程回転したかと思うと突然、パッと散り散りになって飛び散った。空に浮かぶ星の煌めきのように周囲に飛び散ったそれらが、すっかり光を失ってしまう頃には。
 二人の魔族は、姿を消してしまっていた。
 途端に静まり返った空間に、突入してきたミライアの微かな足音が響く。
 終わってすらいないのに終わってしまった。感じた事もない得も言われぬ喪失感に、ジョシュアは脱力する。

「とことん、気に食わん奴らよ。……またしても逃げられたわ」

 珍しく顔を顰め、剣呑な雰囲気でボソリと言い放ったミライアの様子からは、どこか焦燥のようなものが感じられる。珍しい事だった。
 ジョシュアの感じたあれらの不気味さは、どうやら間違いではなかったらしい。死なない魔族とミライアにも殺せない吸血鬼。
 魔王が存在するという話も、あながち嘘ではないのかもしれない。
 ぐるぐると渦巻く何かに足を突っ込んでしまったような気分で、ジョシュアは逃げるように額を地面に押し付け目を瞑った。

 閉じた目の奥で、幼い頃の彼女が笑いかけてくる。お転婆で活発で、しょっちゅう傷を作っていた彼女は、その時はまだジョシュアを名前では呼ばなかった。お兄ちゃん、と可愛らしく誘ってはジョシュアを様々な所へと連れ回した。
 それは幼い少女から大人の女性へと成長する中でも変わらず。ジョッシュ、と愛称で呼ぶようになってからも必ず、ジョシュアを連れて歩いた。
 あの日。初めてジョシュアと道を別つことになったあの日、ジョシュアには彼女が不安を必死で堪えているように見えた。
 彼女はその時既に、パーティの長として立っていなければならなかったのだ。どんなにジョシュアと共に在りたくても、彼女には彼らを率いる責任があった。ジョシュアはそれを逆手に取った。
 このまま自分の道を突き進んでくれと。ジョシュアもまた、そんな彼女の活躍を望んでいるのだと。そう主張して曲げなかった。
 ハンターになって、自分達のような孤児を少しでも減らす事。彼女がそれまで掲げてきた信条を、そこで終わらせて欲しくはなかった。
 離れてからも、彼女の活躍はジョシュアも良く耳にした。誰かにそれを漏らすような機会は訪れなかったけれど、身内の出世話は彼にとっても喜ばしいものだった。
 例え彼女が、ジョシュアの事をすっかり忘れてしまっていたとしても、それはそれで仕方の無い事だと思っていた。
 だからこそ、この王都で再会したあの日、ジョシュアを一目で見破った彼女に驚いた。ちゃんと、自分は彼女の中で生きていたのだと。人間としてのジョシュアが、その時救われた気がした。


「大丈夫、“影の”? 動ける?」

 ジョシュアの思考は、そこで現実へと引き戻された。彼をそう呼ぶのは、この場においてはあの男、赤毛のイライアスしかいない。
 ジョシュアはハッとして、俯いたままその問いにゆっくりと応えた。

「いや……今は、まだ」
「うーん……そんじゃ、俺のあげとく? アレに精気吸われたんじゃあ、しばらくそのままだよ」
「そうか……なら、もらう」

 最早戸惑いもなく、差し出された手首から血液を口にする。最期に口にした彼女の味を忘れたくは無かったが、疲れ果てた体は喜んで赤毛を受け入れた。慣れ切ってしまった男の血が、ジョシュアに再び立ち上がる力を与える。
 ジョシュアがこの場で嘆いていても何も変わらない。歩みを止めてはいけない。前を見て、残されたものを胸に抱きながら、行先を進むしかないのだ。
 当たり前のことを当たり前に受け入れようとしながらも実のところ受け入れられず、ジョシュアの心は途方に暮れた。

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