勇者は魔王に剣を突き立てた

1-2

　彼は暗闇の中で微睡んでいた。
　何も無い、無のまま心地よく空間を彷徨っていた。今の彼には肉体は存在しない。寒さも暑さも、外気の温度すらも感じられない。
　ただただ、空中を浮遊していた。ここがどこかすらも、己が何なのかも分からぬままに浮遊していた。
　ただ唯一分かるのは、彼には成すべき事があると、まだ消える訳にはいかないというその意識だけ。そんな強い精神力で辛うじて己を維持しながら、彼は漂っていた。

　それがどれほどの期間続いたか。彼には何も解らなかったが、ある時ふと、何かに引き寄せられるのを感じたのだ。真っ暗な闇の中でふわふわと漂いながら、彼は抗うことなく流れた。

　流れ流れそして後、彼は突然、ハッキリとした声を聞いた。

『――エドヴァルド？』

　それが己に向けられたものだと理解出来る程、不思議と彼の中にも響いてくる声だった。記憶なぞは持ち合わせてもいないのに、どこか聞き覚えがあった。
　思念だか魔力だかに成り果てた彼に向かって、それは名前をハッキリと名を呼んだ。そこで彼は初めて自覚する。
　自分はエドヴァルドという存在だったと。

　名前は万物に力を与える。長年使われた道具ですら、名前によって力を得ることもある。故に彼もまた、名前を自覚することで実体を持つだけの力を得た。
　塵や魔力でしかなかったそれは、まず名前を取り戻した。例え存在自体が曖昧なものであっても、確かにカタチを得たのだった。

　彼に名前を与えたその声は、彼とは違いハッキリとした自我を持っていた。
　その声は、まるでひとのようにことばを続けた。

『やはりお前だろう、エドヴァルド……私との約束を果たそうとした、優しき偽善者』

　彼は実体は得たものの、それ以外は何もわからなかった。考える力すら持たない、力を内包した唯の黒い物体だった。
　それでも、己を呼ぶその声が心地好いのは確かで。勇者だの魔王だの、声の言った約束だのと、そういったものは全く分からない。だがそれでも、彼は声の下もとへと行きたくて仕方がなかったのだった。
　ふわふわと周囲を彷徨い、流されながら声の主を探した。流される彼に向かって、声は更に続けた。

『もうひとつ、頼まれてくれないか。私に、お前の力を少しだけ分けてほしい。今の私は、実体化するには弱り過ぎている。少しで良いのだ……私が体をまた得れば、すぐにお前にも体を与えるだけの力ならば取り戻せる。もう一度だけ、頼まれてくれ……頼むっ……』

　その声は本当に哀しげで。意識すら、知能すら持てなかったはずの力の塊は、何も感じるこ事はなく。しかし声の主の下もとへと着実に向かっていった。何の思考も意識も持たないはずなのに。引き寄せられるように声の主を探した。
　無事に声の下への辿り着いたその時には。彼は一片の躊躇もなく、全てを預けたのである。強く強く、何かを希いながら。



　荒れ果てた廃墟のような魔王城の中で。ただの力の塊が宙に浮かぶだけのその場所で、変化はゆっくりと起こった。
　場に残された小さな塵の山から突然、手が空高く突き出された。人のようで、それでいて黒い爪の鋭く伸びた力強い手が、まるで空を掴むようにゆっくりと。
　しばらく動きを確かめるかのようにその手は蠢いていたが、ふと誰かが気が付いた時には、それは上へ上へどんどん伸びていく所だった。始めは手首まで、それが肘から肩まで、そして――顔と胴体が現れていく。そして、全身が余すことなく現れるのは、それからすぐのことだった。

　その気配を察した魔王城は、その日大騒ぎとなった。
　魔王様が復活した――と。
　ざわざわと落ち着きなく歓喜に溢れた喧騒の中。涙ぐんだ魔人によって肩にマントを掛けられながら、俯き加減の魔王は穏やかに、優しい笑みで囁いた。自分の中にあるその気配に向かって。

「感謝する。これでお前は、私のモノだな。しばし眠ってくれ。次に会う時には、今度は私がお前に体を与えてやろう」

　魔王の中へ取り込まれながらも確かに自我を持ったそれは、与えられる心地良さに抗い切れず、ゆっくりと力を抜いていった。

「ゆっくりと眠れ。お前の悪夢はもう、終わったんだ――」

　ささやくような男の子守唄を最後に、そこで一旦、彼の意識は途切れることとなった。

「せめて夢の中では幸せを――」

　誰に聞かれるでもないその呟きは、まるで願いごとのように、空に溶けて消えた。



◇ ◇ ◇



「イェレ、人間共の様子はどうだ？」

　その男は、再び体を取り戻して間も無く、自室で宰相のその名を呼んだ。それからほとんど時を置かずして、どこかの空間から別の男が降ってきた。背中ほどの黒髪を後ろに結い、黒いローブに包まれたその男は。僅かにズレた眼鏡を右手で押し上げながら、左手に羊皮紙の束を携えていた。キリリとした彼の雰囲気とは裏腹に、その目は薄ら赤く腫れ、何かを耐えるかのようにその口はギュッと真一文字に結ばれている。
　それを、ベッドの上で起き上がりながら目の端に捉え、男の口が少しだけ笑みをたたえた。そんな男の様子が気怠そうなのは無理もない事だろう。つい今し方、その体を取り戻したばかりなのだから。
　声を掛けたいのだろうに、宰相イェレは私情も何もかも挟むこともなく、男に聞かれた事だけに応えていった。

「魔王様が復活なされた事には奴らも勘付いたようです。城へ入城しようと試みる間者が確認されました」
「対処は？」
「幻影により惑わせました」
「それでいい、我々も戦力を失いすぎた……国力が回復されるまでは戦闘は出来るだけ回避し、魔人達の避難を最優先させろ。しばらくは引き続き、お前に任せる。――すまないな」
「ッ承知、致しました。……魔王様」
「ん？」
「よくぞ、お戻りになりました。私を含め皆、信じておりました――」

　魔王の話が途切れ、一息つこうとしたその時。とうとう堪え切れなかったイェレから、歓喜の言葉が溢れ出た。
　魔王が敗れるなど、どんなに信じられなかった事か。そして、その帰還をどんなに待ち望んだ事か。口にせずとも、涙を堪えて震えるその様子からありありとそれが読み取れる。
　男はそれにただ一言、告げただけだった。

「皆には迷惑をかけたな。今、戻ったぞ――」


　それからしばらく、その部屋からは誰の声も聞こえず。その代わりに、何かを堪えるような微かな息づかいだけがその場には響いていた。