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下田物語-幕末の風景-
しおりを挟む天保の海
泰平の眠りの底に沈む日本が、黒船によって目を覚ました。
そのきっかけを作ったのが、ペリーといわれる。
が、それは誤りだ。
天保の頃、ペリーが日本に来る一〇年以上もむかし、既に日本は海外とのつながりを持っていた。国交を正式に結ばずとも、外国の舟は近海を渡り、その窓口となる土地の者にとっては赤ら顔も天狗のような鼻、入道のような背丈や声高な異国の言葉についても、実はそれほど畏怖ではない。彼らに直接触れることはなくとも、遠巻きに観て、聞いて、感じたことを話し合い、全部が全部を悪しく受け止めることもなかった。庶民がそうなのだから、直接の交渉に臨む武士にとっては日常茶飯事といってよい。
徳川が鎖国をしたという定説は、絶対的なことではなかった。庶民が勝手に異国人と触れ合うことを牽制している建前でしかない。このこと、鎖国というよりは〈海禁〉という言葉がふさわしい。事実、長崎の出島が海の玄関口とはいいながら、そこを遵守するのは幕府公認のオランダと清国のみで、その他の西洋諸国は、日本の、どの海域にも姿を現した。これが、現実だ。
天保一二年(1841)は多忙の年である。大御所・徳川家斉が亡くなるのと同時に、世にいう〈天保の改革〉が始まった。蘭学者がとかく目の仇にされ、幕府は何かと諸外国を敵視した。一方で、日本人の近代化も活性化した。伊豆代官・江川太郎左衛門英龍が韮山に西洋式鉄砲を鋳造したのも、この年のことである。開明的な人材が育ち、かつ、追われたという矛盾。
天保の改革は、弾圧と裏腹に開明飛躍の時代だった。
「海外から目を背けてはいけない」
そう叫ぶ人材は、この時期、多く輩出された。その開明の目的は多種多様で、砲術や農兵といった銃火器の組織化が目立つ。江川太郎左衛門英龍はただのインテリじゃない。神道無念流の岡田十松吉利に剣を学び、同門で達人の斎藤弥九郎とも懇意である。
「俺をただの青瓢箪と思うなよ」
道場の江川を知らぬ者には、想像のできぬ鼻息だ。しかし、事実、道場にいるときの江川英龍は別人である。
「あいつ、怒らせるなよ。ぶっ殺されても知らねえぜ」
斎藤弥九郎は砕けた口調でそう呟く。
「まさか」
と嘯く連中が、金でごろつきを雇ってこれを嗾けたが、絡んだ三人とも、翌朝には道端に斬り捨てられていたくらいである。
「誰も、見ていないし、あいつがやったなんて、分からないし」
「じゃあ、お前が直接刀に聞いてみろよ。俺が見ていてやる」
「いや、お前が行けよ」
「お前が」
という塩梅で、西洋に博識でありながら剣客。この面白い経歴を持つ優秀な代官の目には、世界に開けた日本をつくり、国内の近代化が必要な義務だと映る。
「湊を設け、海外から技術を取り入れることが急務なのだ。もっと貪欲でいい。知って困ることなど、何ひとつない」
こういう飛躍した人材は幕府の中枢に些かいる。が、地方代官としては極めて稀なることだ。役人はお上の云われるままに、黙って従うことこそ、いい仕事につながる。主義主張は決して持たない。
「おかみの申すことに従うのが、いい役人だ」
その常識に、そぐわない男だった。
「良きことならば、おかみを諫めてでも行動することが、薄っぺらくない忠義ってもんだ」
江川は現場の事実を声に訴えられる稀なる人物だった。こんな地方代官は、煙たがられるのが常なり。しかし、実務能力に長けることが、彼を無視できぬ存在に変えた。
このとき、江川太郎左衛門英龍と同じようなことを強く叫んだ者がいる。松代藩士・佐久間象山。こちらは更に踏み込み
「海の向こうで作れるものが、日本人に作れない筈がない」
そう公言した。
事実、佐久間象山はあらゆる分野の発明を、独学により成し遂げた。ペリー来航の遥か以前から、海外からの呼びかけにどう処するかと悩んでいたのが日本人だ。断るための苦慮ではなく、幕府の体面を重んじ相手と接する術の模索。相手の国のこと、肌の色のこと、文化のこと、産業のこと。日本人、ことに幕府の博識な者は、どのように処するかが問題であり、近づいてくる諸外国の状況については十分に知っている。学者である佐久間象山が蒸気機関の机上論理を承知しても、全くの不思議ではない。
ただし松代藩主は佐久間を嫌い、冷遇した。
近代化の黎明期。
日本を動かしたのは一己の天才だ。それは、紛れもない真実である。しかし国を動かすことだけが真実か。人は、有名無実な人間は、遥かに多くの営みを続けて国の基を支えている。彼ら、庶民のしたたかさは、時として天才を超える。
言葉は通じずとも、海の彼方の希人を日本人は受け入れた。役人に隠れた民間交流。日本は四方を海に囲まれているのだ、不思議ではない。
伊豆国下田。
この地もまた、海外に接する機が多い、江戸より遠く離れた湊町のひとつであった。
天保一二年一一月一〇日、この地に生まれた娘の数奇なる生涯は、後世の創意と偏見で悲劇性だけが誇張されたものであるが、少なくとも、似た境遇の少女たちのなかで、彼女ほど冤罪的な象徴もないだろう。
きち。
後世、ひとは彼女を謂われなき蔑称である〈ラシャメン〉と呼ぶ。
蟄虫啓戸
一
弘化四年の翌年、年号は嘉永と改まる。
七歳の娘・きちの目は、水平線に行き交う、見慣れぬ船を見つめている。きちは海の向こうの世界を他人事と思わず、いつ、あれが、こちらへ来てもおかしくはない現実を実感しながら、日々の生活のなかでこのことが
「一切無縁のこと」
と割り切ることの出来る、賢い性分であった。
この当時、下田は鄙びた地方の漁村に過ぎない。
「黒船が停泊など、できるわけがない」
誰もがいう。
しかし、見識ある者の目を通すと、極めて理想的な湾立地にあるらしい。それが現実味を帯びるのは、嘉永二年(1849)閏四月一二日のことだ。
「あれ、船がくるぞ」
漁民は下田の湾内に入り込んだイギリスの軍艦を指さした。この船の名は〈マリナー号〉という。浦賀を測量し、下田に寄った。勿論、幕府に無断で行なった。これは国際的にいえば違法にあたる行為だ。
「清のように未開の国、人のルールは適用しない」
などという侮りは多分にあった。亜細亜の諸国同様の見解で、イギリス人は日本を甘く臨んだのである。
下田奉行はこの無法に対し、すみやかな退去勧告を繰り返した。が、世界の海を征服することが当然の国である。その国の海軍は、当然のように日本を人以下の野蛮国を見下して、これを無視した。
「新しい島の発見だな」
彼らは平然と、湾内の測量準備を進めていた。
幾度もいう。これは重大な国際問題だ。
が、亜細亜の後進国という侮りがイギリスを支配していた。イギリスだけではない、ヨーロッパ諸国は海外に進出し、植民地という形で占領搾取を公然と行なっている。
これまでもイギリスは好き勝手をしてきた。紳士の国などと、やることと別の野蛮な行為を、罪悪感もなく推し進める。それがイギリスだ。
今度も、そのつもりだった。
翌日のことだ。
「韮山代官様がお出でじゃ」
みると、江川太郎左衛門英龍が小隊を率いて海岸に近づき
「警告である」
と、空に向けて数十もの銃を放った。驚いたのはイギリスである。見下していた亜細亜の島の原住民が、なんと銃を所持し、隊列を編成し操作するなどとは、思いも寄らなかったのだ。
雷のような音に、きちは耳を塞いでしゃがんだ。漁民たちも同様だ。聞いたことのない轟音は、まるで雷さまのようだと、口々に囁き合った。
「国旗はどうか?」
江川太郎左衛門英龍は近習に仰いだ。遠眼鏡を弄りながら
「英国かと」
「間違いないか?」
「はい」
「エゲレスの言葉、通辞はいるか?」
「佐吉殿がおります」
「よし、佐吉ついてまいれ。舟を出せ」
日本が国際情勢に後進的というのは、大きな間違いだ。日本を後進的に扱う表現は、後世、単に幕府を辱めるための印象操作の結果にすぎない。少なくとも亜細亜諸国で、日本だけは西洋の情報をしっかりと把握していた。
文化五年(1808)のフェートン号事件以来、幕府は毅然とした対応をとるためイギリス語通辞の育成を行っていた。文化八年には日本初の英和辞書『諳厄利亜興学小筌』も完成している。ましてや開明的な江川太郎左衛門英龍が、自らの手元に諸外国の言語に通じる者を多く置かぬはずはない。
舟が近づくと、マリナー号からは停船を促す恫喝の罵声が飛び交った。どうせ言語など亜細亜人にわかるまいという、侮りもあった。
「当地代官である。そちらの船長と話をしたい、今の暴言は聞かなかったことにしよう」
佐吉が流ちょうな英語で返答すると、船員たちは黙り込んだ。
縄梯子が下ろされ、先ずは江川太郎左衛門英龍が、次いで佐吉が登った。
「おいおい、韮山代官様は異国の舟に乗り込まれたぞ」
海岸の群衆は固唾を呑んで見守った。
やがて、交渉に赴いた二人が、梯子を伝って下りてくるのが映った。然程の刻は経っていないが、話し合いは無事に終わったのだろうか。
やがて、舟が砂浜に着き、江川太郎左衛門英龍はゆっくりとした所作で降りると、マリナー号を振り返った。
「銃隊は三つに分け、交替で黒船を見張れ。誰も上陸させること、罷りならぬ」
海岸に陣幕を張り、銃隊を配置するとともに、湾を見下ろす根姿山と須崎に大砲を据え、幟をいくつも並べた。これは威嚇である。射程が届かないまでも、上陸を拒む意思を伝えることは適う。
「群衆は散るべし」
江川の沙汰に、役人たちが野次馬を追い払った。
「小娘、行かぬと痛い目に会うぞ」
役人の叱責に、きちも立ち上がった。
「いつかは異人がこの浜にも来るんだろか」
「そんなことはない、さあ、早く去れ」
「そんなに怒らないで」
きちは足早に駆け出して行った。
マリナー号の側は絶句した。
よもや英語を理解する亜細亜人がいるとは思わず、ましてや西洋事情に通じる代官自らが直接交渉に臨むとは、想定外だった。そして、手並み鮮やかな包囲、これではどうすることもできない。
「出島よりオランダを通じ国際社会へ非道を触れよう。エゲレスのしたこと、そなたたちの女王の顔に泥を塗ることになるだろう」
という恫喝も、的確だった。
一三日、汽笛が長く響き、やがて、マリナー号は動き出した。
このことで下田の民衆は異人を恐れることよりも、むしろ興味を覚えた。商売にならないかと企む者が殆どだ。役人にバレなければ、したたかな庶民はどんなことでもやる。これが、世の中だった。
下田の手並は鮮やかだが、日本全土でこのように立ち回れるものではない。人材はいたが、そうでない、身分に胡坐をかいた者も少なくなかった。そういう者が代官をする湊は、何もできなかっただろう。
当時の諸外国は日本の開港を望んだ。なんということはない、長距離航海を安全に行うためには、太平洋に面した湊を望みたい。ごく自然なことだからだ。
かねてより海防の必要を訴える江川太郎左衛門英龍の真意は、異国船打払いを目的とするものではない。むしろ積極的に迎え入れ、その技術を取り入れることを大事と考えた。
これと同じ意見を叫んだのは、佐久間象山である。海防とは技術を学ぶだけに及ばず、狼藉に対する力でもあり、全部が全部の夷敵に対するところではない。
このことを、多くの攘夷論者が誤解した。
いまの日本は、海防イコール総打払いと考える者が多い。このたび下田にて江川太郎左衛門英龍がマリナー号を追い払ったのは、許可なき測量に対する、毅然とした態度に過ぎない。しかし、世間はそこまで思いを巡らせることがなかった。
異国船だから打払った。
結果だけが、事実として語り広まったのである。
このとき、世間では江川英龍が韮山に反射炉を構築したことが話題だった。といっても、庶民は反射炉が何か、全くわからない。
「おおい、そこの娘御」
襤褸をまとった旅人が三人、きちを呼び止めたのは、マリナー号事件の翌月のことだ。
「旅人さん、なんですか?」
「宛てもなく歩いていたら、海の見えるところへ来ちまっただ。ここは、どこだい」
「下田、豆州の下田ですよ」
「下田ってえと、熱海よりうんと先になるのかな」
「熱海の方が江戸に近いですね」
「そうなんか」
道を間違えたようだと、三人は口々に話し合った。きちは相手の素性が分からない。だからつい、旅籠なら案内すると答えた。
「いやな、あまり他人様にお見せできる面じゃあねえのだよ」
「訳ありですか」
「随分とはっきりした物云いの娘さんだ」
「漁師小屋なら一晩くらい、匿いますよ」
三人のうち、親分と呼ばれた男が大笑いしながら
「甘えようか、娘さん」
きちは知り合いの漁師に頼み込んで、一晩という約束で旅人を泊めることを承知させた。
「頭のいい娘さんじゃな」
随分と交渉達者だと、親分と呼ばれた男は感心した。はじいた干物を貰い、火を焚いて、それを焼いた。さすがに酒の調達は難しかったが、一行は多少を携行していたので、ちびちびとやることは出来た。
「じゃあ、娘さんは家に帰れ。また、明日の朝、きてくれや」
「火の始末だけは頼みましたよ、親分さん」
きちの言葉に、三人は愉快そうに笑った。
この一行がどこの誰かは、きちの知るところではない。熱海を引き合いにしたのだから、きっとそこに行くつもりだったのだろう。
下田に生まれた者は、生涯を下田で過ごす。外に出ることなど、一生のうちに殆どない。だから旅人には、ついつい親切にしてしまう。これは下田者の性分だ。
朝早く、きちは百姓家へ足を運び、玉子を分けてもらった。
「めずらしいな、きち」
応対した少年は滝蔵という。のちに少年は、数奇な運命を送るひとりとなる。
「ちょっと多めにおくれ」
「なんで」
「お客さんがいる」
「そうか」
疑いもせず、滝蔵は玉子を七つ、きちが手にする笊にいれた。それを持って漁師小屋へ走ると、三人はもう起きていた。きちが玉子を差し出すと
「こいつは贅沢だ」
そういって笑った。
やがて身支度を整え、油紙に包んだ何かをきちに手渡した。
「旅の途中で出会った親切な娘のことは、忘れねえ」
「親分さんも気をつけてね」
「じゃーあな」
きちは一行の名を聞かなかった。彼らもきちに深入りしなかった。家に戻って、油紙に包んだ何かを広げたら、天保通宝が二枚転がり落ちた。お金が入っていたことに驚いたきちは、慌てて母親・きわへと、これを差し出した。書面があった。
一宿の御礼が書き添えてあった。きちがこれを大人に読ませるだろうと、親分は想定したのだろう。従って文面もそれを想定したように簡潔なまとめをされていた。親分という人は、なかなかに人間を知っているようだ。
「これ……」
文を書いた者の名前をみて、きわは、眉を顰めながら質した。
「この人は、もう下田を発ったのだね」
「うん」
きわは少し考えた。
「この人が小屋に泊まったこと、漁師だけが知っているのだね」
「玉子を貰いに行ったから、滝蔵も知っている」
「そう」
ただの旅人と思っているなら大丈夫だろう。きわは、何度も頷きながら
「このお金は大事に貰っておこうね」
「いいの?」
「だけど、このことは人に話しちゃあ、いけないよ」
「うん」
差出人の名は、国定忠治と記されていた。
博徒の親分として国定忠治の名を知らぬ者はない。この年、忠治は子分の境川安五郎に跡目を譲り、上州の片隅で余生を送っていることになっていた。しかし根っからの自由人ゆえ、お忍びで熱海の湯を目指したのだ。きっと熱海に辿り着いて、極楽気分を満喫したことだろう。
翌年、田部井村の名主家に関東取締出役が踏み込んだことにより、国定忠治は捕縛された。上州一の大親分とうたわれた忠治は、新時代を待つこともなく、やがて刑場の露と消えた。
きちは旅人の正体を知らない。
国定忠治という博徒がどれほどの有名人か、庶民の感覚は伺い知れない。博徒とは、今日でいうヤクザと似て異なる。少なくとも日蔭の身でありながら、堅気を食い物にする外道とは異なる。少なくとも外道のことを博徒とは呼ばない。
が、庶民からすれば、招かれざる畏れであった。
ただ、きちは素性を知ることもなく、平然と接していたに過ぎないのだ。こんな出来事は、やがて子供の記憶から消えて忘れるものであった。
二
嘉永三年(1850)六月一一日、オランダ船が長崎に入港した。オランダ船からは世界の情勢が長崎奉行所にもたらされる。このことは〈風説書〉として、極秘のうちに江戸へ報告された。
「近いうちにアメリカが、何かしらの使節を日本に送るそうだ」
「イギリスが交易を求めてくる」
このような英米両国が通商を求める動きを伝えるオランダの真意は、独占している日本市場を侵される懸念に他ならない。
―亜米利加という新興国のことを、日本は知らない。
これまで教科書からそう読み解いた者は多い。事実、教育者もそういうつもりで指導しただろう。
しかし、日本が鎖国をしていたことは後世の誤解だ。調印に基づく国交を、行っていないだけに過ぎない。事実、民間的には十二分に交易を行っていたことは間違いない。人命優先の措置もあっただろう。したたかな商人が立ち回ったこともある。とにかく日本にやってきた外国人に、国内を徘徊する自由を与えていない。ただそれだけだ。そのことのみを鎖国と定義するなら、一応はそういう事になるが、大袈裟でもある。とにかく正式な国交を結ぶ相手を限定していた。ただ、それだけである。
よって、情報通である幕府開明派は、世界の動向を正確に理解していた。こののちの外交交渉について予期されること。その対策を練る時間と実力は、嘉永年間の徳川幕府には十分に備わっていた。
亜米利加を新興国といった。
西暦1776年の独立戦争以前から、この大陸はヨーロッパの植民地だった。それが独立し、先住民を追いやって、侵略の象徴のような骨格を為した。西暦1776年とは、日本でいう安永五年。間宮林蔵が誕生した翌年にあたり、ほかにも平賀源内がエレキテルを発明した年にあたる。田沼意次が老中として実権を奮った時代でもあり、この田沼はロシア外交を視野に入れた見識も備えた国際人だった。とまれこの時代をざっくりと表現するなら、おおよそ幕末黎明期の一〇〇年ほど前だと考えてよい。
「国の歴史を考えれば、日ノ本の方が古い格式を持つ」
これは、日本人の感性だ。
ヨーロッパから連綿と連なる多種多様な人種が混在するアメリカ合衆国は、白人至上主義という西洋の基本姿勢を受け継ぎ、搾取の正当性を掲げて海に出た。
このとき日本が、少なくとも幕府の中枢にいる人物たちが、それら諸事情をすでに知っていたとしたら、どうか。
今日まで我々が教育されたことに矛盾が生じる。
日本は中国・オランダ・琉球と国交を結び、その経由された国際情勢を知り、幕府の中枢では理解されていた。英語を日本人が解さないという認識も改めなければならない。江戸に幕府を開いた徳川家康の家臣・三浦按針は、イギリス人ウイリアム・アダムスである。日本はこのときから英語に触れていた。
幕末の大事件となるペリー来航。
庶民の驚きとは裏腹に、幕府はその動向も予見も、準備さえも、その来航する事前から行っていたのである。
嘉永五年(1852)、下田。
きちは一二歳。
当時の下田はマリナー号の一件以来、異人を特に意識せず、沖を往く蒸気船さえ平然と見る民情だった。伊豆は海流次第では難破船も漂着する。異人とくに西洋の紅毛人については、その扱いに慣れていた。代官所に届け出し、身柄を拘束してしまえば、遠巻きにコミュニケーションを試みても大目に見られていたのである。もっとも、番兵の気分次第では、追い散らされはした。
とまれ異国人に慣れていたのが、下田の民衆だ。
老若男女問わず。
きちも好奇心のかたまりだった。
「すげえな、鼻が天狗みてえだ」
いつだったか、滝蔵少年は、ひとつ年下の助蔵を誘い、垣根越しに保護された西洋人を眺めた。時おり視線が交わった。滝蔵は、愛想笑いを浮かべた。多くの日本人の反応だ。
「なあ」
助蔵が呟いた。西洋人は大人びて見えるが、不思議と、若いようにも映った。その目の色はひどく寂しそうだ。日本人と髪と肌の色が違い、言葉が異なるというだけで
「なんだか、同じだよなあ」
と呟く。
「そうかもな」
滝蔵もそう思えた。
こういう柔軟な日本人もいれば、敵視する者もいる。国学者は特にそうだ。攘夷という言葉は、この学問から誕生したものである。日本人の思考は多様だ。それでも直接異国の風に触れることが出来た下田は、日本において庶民も含めた、数少ない開明的な場所のひとつといえる。
この頃、きちは漁師小屋で働いていた。
いわゆる唐人お吉伝説は、売れっ子芸者が転落する様を盛り綴っただけの、極めて女性悲話的な創作である。そう、創作なのだ。
定説上、きちが村山せんの養女となったのは、弘化四年(1847)とされる。村山せんは河津城主・向井将監の愛妾だったとされている。が、実際のところ、その実在を含めて、このことは定かでない。なにより河津城など、戦国乱世の代物にて、徳川三〇〇年の世にあっては廃城されて久しい。そこには城主など存在しないのだから、妾がいるなどとは、お笑いぐさだ。
このあたりは、きちに綺羅を飾らせてから大きい落差の失墜を演出する意図が働いていたに過ぎない。
秀でた者が地に堕ちる悲劇性。日本人好みの物語の傾向ともいえよう。件の村山せんが、本当は実在するか否か、そのところは定かではない。早くにきちを破門にすることで、音信不通の人物に仕立てる作為とするならば、芸者きちを創作することも自然なものになる。
ひとつだけ云えること。
このときのきちには、芸事を習う動機も、そのための理由も一切ない。従って地域社会との共存のなかで、やれるべきことから生計を立てる一助を負うしかなかった。それが自然なことであり、名もない地方村の少女の、あるべき姿だった。
このときのきちは芸事など一切無縁、船頭達の洗濯女として、日銭の生計を立てていた。村山せんに養女という逸話が虚実である以上、洗濯女という境遇は、子供であるきちの労働面において、身の丈に合った仕事ともいえようか。
めりけん
一
「おれ、沖で黒船みたぞ」
漁師たちが異国船を語ることが増えた。黒船とは、総じて西洋船のことである。
誤解されるが、黒船とは、決して蒸気船だけに特化したものではない。帆走を主たる機関にするものもある。事実、織田信長の作らせた鉄甲舟をそう呼ぶものもいた。なんというか、木ではなく鉄の舟のことを、海の男たちは総じて黒船という。
このことは下田に限ったことではあるまい。全国的に、浸透した通り名だったと想像できる。
「紅毛の奴ら、おれに手を振ってきたぜ。思わずこっちも振っちまったよ」
一日の漁が終わると、男たちは褌一丁で焚火を囲み、他愛のない雑談を酒の話題にしたものだ。黒船のことは、よくよくこの場で話題になる。
「きち」
調子のいい初老の漁師は、きちに黒船の話をしてくれる。おかげで、朧げに想像して脳裏に描くこともできた。
「おじいの話はわかりやすいなあ」
きちが笑うだけで、場が和む。
「しかし、あいつらはどこの国からきたのだろうな。何日も、何日も、なにをしに来るのだろう。船の上で寝泊まりなんて、俺なら三日と我慢できないぜ」
漁師たちの話題は尽きない。
潮まみれの衣類を洗濯板でこすり、真水で拭い干す。かなりの量をこなすので重労働だ。すべて干し終わる頃に漁師たちは小屋を後にする。小屋の戸締りもきちの仕事だった。
「男って、汗臭いなあ」
きちはそういって小屋をあとにした。これはもう、日課のようなものだった。
前年、土佐の漁師・中浜万次郎がアメリカの船でやってきて、琉球に降りた。この男は土佐の沖合で漂流し、アメリカの船に救助されただけでなく、かの国で生活をしてきたという貴重な経験を持っていた。
「メリケンのこつ、聞かせよ」
万次郎は琉球を内々に采配する薩摩藩主・島津斉彬から厚遇を受けた。そののちに、今度は長崎奉行所で切支丹の詮議を受けた。
「扱いがまるで違う」
と、些か不服ではあったが、宗教観の変化もなく、程なくして万次郎は土佐への帰国を許された。
中浜万次郎の調書は長崎奉行所から幕府へ報告されている。
「向こうの言葉を知るなら、捨てておけぬ」
と、開明的な幕府首脳陣は唸った。こののちきっと有為な人材として用いる術がある。人を育てる間に、生きた才を使うことこそ有為なのだ。中浜万次郎を野に置く無駄は出来ぬ。出自などどうとでもなるものだと、幕府首脳陣の考えは一致した。
「機会をみて幕臣に登用するべし」
このとき万次郎が長崎で報告した情報は、重要なものばかりだった。亜米利加が必要とする生活物資のなかに、鯨油がある。この鯨油を求めて、彼らは太平洋に船出をしていた。事実、万次郎を救助したジョン・ハウランド号は捕鯨船である。
「寄港先をかの国は求めている」
そう考えるのは自然だ。
立地からみれば、それは日本であることは自明の理といえよう。ホノルルを寄港地にしていても、広大な太平洋を補うことは出来ない。
遅かれ早かれ、アメリカはその目的のために訪れる。
そして、オランダからの情報ともそのことは一致した。これが、ペリー来航の予見につながる。あとは日本にとって、些かの不利益が生じさせない備えが大事であった。
中浜万次郎は有名な漂流者だ。
当時、他にも重要な漂流者たちがいる。
栄力丸。この船が漂流状態となったのは、 嘉永三年一〇月二九日。場所は難所で知られる熊野灘大王崎沖である。五二日ほど海を彷徨った末にアメリカ商船・オークランド号に救助された。助けられた乗員一一名は、サンフランシスコで歓待を受けた。彼らは日本へ帰還できるよう取り計らわれ、香港へ渡った。予定では東インド艦隊に同行し、日本に向かうこととなる。
しかし彼らは香港である人物に会った。
力松。モリソン号事件のときに漂流者となった人物である。力松は、伝手のないアメリカが外交カードとして漂流民を利用することを予見した。彼らもそれを自覚した。
「自力で帰ろう」
永力丸の船員は、モリソン号事件に関与した上海の日本人・音松に助けられ、後に清国の舟で帰国した。船員のひとり浜田彦蔵はアメリカに渡り、帰化した。彼はハリスに採用されて日本に戻ってくるのだが、それは後のこと。
少なくとも栄力丸船員で逃げなかったのは、仙太郎と呼ばれる男だけだった。彼らはアメリカへ向かったり、清国経由で長崎に向かったりしたとされる。仙太郎は大柄な東インド艦隊指揮官に誘われ、旗艦・サスキハナ号に乗った。
このサスキハナ号に乗る艦隊司令こそ、マ
シュー・カルブレイス・ペリーである。
二
嘉永六年(1853)七月八日、東インド艦隊は浦賀沖に現れた。恫喝による外交により、及び腰の幕府が鎖国を解除したのだと後世は伝える。
このこと、狂歌で評される。
大平之ねむけをさます上喜撰
(蒸気船添書き)
たった四はいで夜るもねられす
これは嘉永六年(1853)六月三〇日付の、日本橋の書店・山城屋佐兵衛が常陸土浦の国学者・色川三中に宛てた書簡に記されたものだ。云い得て妙の表現である。
が、考えてみよう。そもそも、日本は鎖国などしていないのだから、国交を開けという恫喝が成立しようがない。更に、ペリーの目的はアメリカが自由に使える捕鯨基地となるべき開港地の確保にすぎない。その要求に対する交渉の方針を事前検討したならば、幕府にとっての明瞭な柱と妥協の振り幅も定まるもの。
そうなれば、待ち構えたところに、予定通りペリーがやってきただけなのだという状況だと、理解できる。
このとき幕府は恫喝に狼狽えていない。
従って後世に伝わるような無様はあり得ない。交渉にあたり、まずは即答を避け、回答を引き延ばし、有利となる状況の熟成を外交的に企てた。
一方的にアメリカだけが潤う条約など、あってはならない。そういう毅然とした国際的な姿勢が、当時の幕府の交渉役には備わっていた。
物事の筋道を重んじる国。ペリーは軍人であると同時に、極めて紳士だった。日本の立場を重んじ、交渉の結果を急こうとせず、回答の結果を待ち一年後に来ることを約した。
この交渉にあたり、幕府にとって唯一の誤算があった。
将軍・徳川家慶の死去である。その死を知ったペリーは、猶予期間を無視して再び来航した。しかし、アメリカのお国柄はやはり調査済みだ。いかに個人が紳士であろうとも、人の窮地に付け入るのが列強の本質である。このこと、古今東西の倣いだった。
横浜の応接所で、最初の日米の会談が行われた。このとき勿体をつけていたものの、日本は当初から開港する方針を固めていた。十分に自国のメリットを織り込んでのことである。
このことを非難するのは、神仏や国体という非科学的な一面を重視する、一部の攘夷論者だけだった。彼らは人の話を理解することよりも、自己主張だけに固執する。その主張だけが正義で、あとは不正義と決めつけるような感情と衝動に奔る連中である。
「日本は神国であり紅毛に穢されること許し難し」
幕府の真意を読み切れない攘夷論者は、このとき過激な行動や論調を世間に振りまいた。
「幕府の弱腰が、清国のような憂き目を辿るだろう。神の国が穢れた異人に奪われること、堪え難し。幕府は国を売る腰抜けの連中である」
攘夷の者たちは、中途半端に学がある。蘭学者からアヘン戦争のことを伝え聞き、どこかで状況を知ったのだろう。それを思い、憂国の志士と称するのも、或いは一理あるかも知れない。
が、国と国のことは、一切の感情を廃したところにこそ交渉事がある。おかしな話だが、このとき感情優先で批判した連中の多くが、のちの明治政府の真ん中にいる。
彼らは幕府の行為を知った筈だ。弱腰ではない。政府機関として、十分な議論と研究を重ねて、開港に同意したのである。ただ知っただけで、理解しようとしなかっただけに過ぎない。
日米和親条約の交渉で凄まじい冴えを発揮したのは、林大学頭復斎の外交手腕だった。アメリカの真意は、あくまでも捕鯨基地の確保である。そのために必要な港を選択する主導権を、断じて相手に握らせてはならない。その卓越した交渉術で開港を認めた先は、箱館と下田だった。交渉の場を下田の了仙寺に移すことを約して、林復斎とペリーは条約を調印する。
三月三日に締結された日米和親条約。開港先に定めた下田と箱館がどういう場か、ペリーは知っておきたかった。
三月二一日、ペリーは艦隊を率いて下田に来航した。翌日、ペリーは供を連れ了仙寺を訪れた。日浄和尚と二人の小僧が、ペリー一行の対応をした。ペリーの通辞として同行した羅森は広東で雇われた清国人である。日浄が漢語を理解していたことが、羅森にとって幸いだった。
「人が多い」
見ると、境内には多くの土地の者がいた。ペリーを見物する者もいるが、どうやらそれだけではない。
「今日は、花祭りです」
そのようにペリーに伝えると、日本人の文化見識の高さに感嘆を示した。亜細亜のどの国でも、花を愛でるのは上流階級だ。しかし、日本人は庶民がそれを楽しむ。
「大したものだ」
ペリーは満足げに頷いた。
この群衆の中には子供も多い。物珍し気にペリーを見つめている。そのなかに、きちがいたか否かは知るところではない。
「この国は、治安がよいのでしょう」
羅森は口にした。
「なぜ、そう思う」
ペリーの問いに対し
「崇拝の寺社に賽銭をしても盗む者はおりません。家々の玄関が紙の障子戸ということは、盗みはおろか掠奪などの暴力事件がないことを伺えます。日本の侍は武器を持っていても、むやみに暴力を働かない。武器で人家を襲い、盗みを働く様子はありません」
羅森の回答は適切だ。これは、羅森自身が太平天国の乱で焼け出された経験があるから云えることだった。
「大海に接し安全な良港、町も清潔」
ペリーは下田の印象を日記に記した。反面、下田の者たちは、ペリーのことをどう感じただろう。
「赤い線だ」
黒船の旗艦であるポーハタン号には、船首から船尾まで赤い線が記されて派手だった。庶民は外国の舟に慣れていた。慌てふためく素振りもない。
誰いうともなく
「赤筋ぽーはたん」
などと指さすことになった。好奇心旺盛な庶民は、体格と裏腹に紳士的なペリーを好意的に受け止めた。横浜では恐がられた西洋人を、下田の庶民は恐がろうとはしない。それでも人見知りな態度を露わとする者も少なくない。ペリーの姿をみて、急いで戸を閉め、息を殺して身をすくめた。国際港として発展する以前の、どちらも自然な下田の姿だ。
「きち、異人の親分を観てきたか」
「ああ、舟は本当に赤筋だった」
「寺へは行ったか」
「うん」
「やっぱ、天狗みたいか?」
「顔は白いけど、でかかった」
「そうか、そうか」
漁師たちにとって、黒船が居ようが居るまいが、いつもの毎日である。
さて。
下田の住民と与り知らぬところで、迷惑なことに騒ぎを起こした余所者がいる。長州の吉田松陰だ。彼は下田湾内に停泊中の黒船に乗り込もうと、このとき密航を企てたのだ。吉田松陰の密航が露見したのは、あくまでもアメリカから拒絶されたためである。すなわち公の場から発覚した。
幕府にいわせれば、これは日本の恥でしかない。この恥を露呈した松陰の弟子たちが、こののち世を転覆するのだから、この時代の激しさや出鱈目ぶりは、日本史上極めて稀なのである。
下田の人にとって、吉田松陰という男はただの無名な旅人に過ぎない。旅籠岡方屋に草鞋を脱ぎ、蓮台寺温泉を往還するだけの人だった。密航者として捕らえられたあとで、吉田松陰の存在は下田の話題となった。野次馬こそ適わなかったが、多くの者が話題にした。
「沖で漂流しとけばいいのにな、黒船に拾って貰えて、簡単だぞ」
漁師たちは酒を呑みながら呟いた。
「案外、そういうものかもな」
と、子供のきちでさえ、そう思うのであった。
吉田松陰の身柄が幕府へ渡されるとき、たまたま日本人船員の存在が露見した。
「ノー、サム・パッチ」
彼はサム・パッチで日本人ではないと船員が庇ったが。彼の正体は、英力丸の仙太郎である。
「帰国にあたり身の安全を保証する。入牢することはない」
説得に対し、仙太郎はこれを固辞した。幕府の役人に囲まれる恐怖がまさり、彼はサム・パッチだと云い張った。結局、ペリーは船員である仙太郎を案じ、引き渡しに応じなかった。これが仙太郎の意思ならば、断じて日本へ渡すことはできない。
「私もメリケンへぇぇぇ」
見苦しい吉田松陰の有様は、どうにも好きになれないと、ペリーは首を振った。
ペリー艦隊は箱館巡見のため出港し、幕府は下田の交渉場所を整備するため、人材と資材を送り込んだ。活気に溢れるのは結構なことだが、地元民とのいざこざも多かった。良くも悪くも、この瞬間、日本一の熱量に包まれたのが、ここ下田である。
五月一二日、ペリー艦隊は再び下田へと姿を現した。先の巡見とは見違える市街整備の成果に、日本人の技術力が馬鹿にできないことをペリーは肌に感じた。
「ワンダホー」
日本人の印象を、ペリーは決して過小評価していない。それは事実だった。
協議は紳士的かつ友好的に、順調だった。
五月二二日。日米和親条約の細則一三箇条が締結された。先に横浜で締結したものを神奈川条約といい、今度のものを下田条約という。ペリーの通辞だった羅森は、滞在中、暇をもらっては下田を散策した。下田の庶民は勿論、役人も温和で、清国のような息苦しさは微塵も覚えることはなかった。
「大人、漢詩を書いてくれ」
羅森は扇子に漢詩を求められた。誰もが羅森の筆を望んだ。このことは、ちょっとした流行になった。
のちに一橋家用人に仕官する黒川嘉兵衛は、このとき下田奉行所支配組頭である。むっつりした表情を紅潮させて、いささか横柄ながらも照れくさそうに羅森の漢詩を求めてきた。
「おまえ、人気だな」
ペリーにも冷やかされた。冗談抜きで、千振にちかい扇子に、羅森はせっせと漢詩を書き残した。羅森も下田の書道家・松本雲松に書を貰った。有意義なひとときだった。
六月二日。長い汽笛とともに、ペリー艦隊は琉球へ向け下田から出港した。
震災、津波
一
ペリー来航で鎖国が終わったという定説は、誤りだ。
日本の教育は罪な誤解をしている。あくまでも開港をした、条約の締結をしたという、新しい出来事が生じたに過ぎない。
が。
アメリカ合衆国よりも早く、日本の開港を望み、足繁く訪れていた他国のプライドは、このことで大いに憤った。そのひとつが、ロシアだった。
ロシアと日本の国交交渉の歴史は古い。
西暦一七七八年、イワン・アンチーピンがロシア皇帝の国書を携え、修好条約を求めて来日した。当時の日本は、田沼意次が老中の時代だ。賄賂老中と卑下される田沼は、標榜とは真逆の優れた政治家である。この時期の、外国との条約が利か否か、総合的に解釈したうえで、総合的な拒絶をした。ただし、全くのノーではない。田沼意次は対ロシア外交の重要性も認めていた。これが破綻したのは、単に、田沼失脚という政治的な問題が重なっただけに過ぎない。
一七九九年、ニコライ・レザノフの開港交渉についても、幕府は拒絶した。レザノフはアラスカを植民地化し、極東をよく研究していた。田沼から政権を簒奪した松平定信は、しかし、田沼の全てを否定した訳ではない。ロシア外交について、松平定信は決して否定的ではなかった。漂着民となった大黒屋光太夫を引き取ることと引き換えに、ロシアとの国交樹立も口約束で成立するところまで積み上げていた。しかし、尊号一件で松平定信が失脚すると、外交能力のある老中がいなくなった。
後任の土井利厚は乱暴な見解を示した。
「相手の腹が立つような応接をすれば、露国も怒るだろう。そうすれば二度と来るまい。仮に武力を用いても、我が国の侍は些かも遅れを取らぬ」
国は生き物のようだと思う。最適なときに恰好な人材がいて、初めて血の通う外交が成立できる。日本は、田沼意次・松平定信と、二代つづけて対ロシア外交の研鑽がなされ、国交まではあと一息のところまで温めていた。古今東西の常であるが、つまらぬ政権崩しで失脚させたのちに座す、政権交代の為政者は有能とは限らない。これは近代や現代にもあてはまることだ。
このときの対ロシア国交について、幕府は無能だった。
「相手を怒らせればもう来ないだろう」
という見解は、まともな外交手腕ではあり得ない。が、現実として、このようなことが起きた。レザノフを半年ほど待ちぼうけさせた非礼は日本にある。〈文化露寇〉と称されるフヴォストフ事件が生じたのは必然で、しかも武士がロシアの兵器に抗しえなかった。これは大いなる失政だ。しかも、日本について有識であったレザノフが早世した。チャンスはつまらぬことで消えた。
幕府は後手となり、ロシアという国について研究する必要に迫られた。ゴローニン事件もあり、報復で商人・高田屋嘉兵衛が拉致されたこともあったが、両国は根気よく、国交の機が熟成するのを待った。その歴史を重ねてきた末に、まんまとペリーにしてやられたのである。
そのこと、決して面白い筈もない。
嘉永六年(1853)、長崎を訪れたエヴフィミー・プチャーチンは、根気よく国交交渉を行った。捕鯨港ではない、両者の、国と国との外交を、プチャーチンは強く望んだ。アメリカ建国の頃から、ロシアは日本との交渉を重ねていた。その外交成果の結実を、プチャーチンは強く望んでいた。
日露通好条約(下田条約)が締結されたのは、日米和親条約締結から一年近くが経過したのちの、安政元年(1855)二月のことだった。
「亜米利加とのことが、これまで溜め込んだことを大きく動かすこととなる」
幕府開明派は強く自覚したことだろう。
日露通好条約により、日露国境がはじめて明文化された。捕鯨港のこととは比べ物にならない高度な成果だ。択捉島と得撫(ウルップ)島の間に国境が定められ、樺太は日露雑居と定まった。雑居民問題の先送りといってよい。
この改正は明治になってから、〈千島樺太交換条約〉で相殺されることになる。日露外交はペリーのものとは比べ物にならない、紳士的かつ国益を重視したもので、信頼関係なくしてはあり得ないものだった。帝政ロシアにはまだ騎士道を重んじる風潮があった。これは武士道との共感にもつながった。
その舞台が、下田だった。
さて、避けられない出来事がある。
嘉永七年(1854)一一月四日辰の刻(午前八時頃)。駿河湾から熊野灘を震源地とする大地震が東海を襲った。推定されるマグニチュードは8.4、駿河・甲斐を中心に震度7を記録した。後世、学術的にいわれる南海トラフ巨大地震である。このとき房総半島から四国まで、大きな津波が発生した。下田も例に漏れない。プチャーチン乗艦は最新鋭艦ディアナ号である。このときディアナ号は下田の若の浦に停泊していた。
津波は、古来日本の沿岸部の宿命である。
ディアナ号は船体に6mの津波が直撃し、その水圧により、自力航行が不能な状態になった。津波は下田の漁村にも直撃し、沿岸を洗いざらい押し流した。
その日の夕方、プチャーチンは副官ポシェートと医師を連れ、下田奉行所に赴いた。
「被災救護をしたい」
困ったときは、外国のどうのと云ってなれないという申し出だ。川路左衛門尉聖謨と村垣淡路守範正は快く応じ、謝辞を述べた。
現在、稲田寺境内には高さ約 3.3m の石碑が建つ。〈津なみ塚〉という。側面には「嘉永七年甲寅十一月四日」と刻まれる。当時の下田奉行・伊沢美作守政義が自費で建立したものだ。そうしなければならぬほどの惨状が、このとき生じた。
下田の家屋は、ほとんどが流失あるいは倒壊した。
記録される溺死者等一二二人、被災戸数八七五戸。うち八四一戸が流失全壊であった。無事だった家はわずかに四戸のみ。津波は、下田富士の中腹まで駆け上がるほどと、伝えられる。
震災による復興は急務だが、この混乱の中でも、国と国との交渉が続けられた。必要とされることを、全力を以て成し遂げる。満身創痍となりながらも、国境人種を越えた日露の外交信念の賜物といえよう。
日露和親条約第二条は、かく記す。
今より後日本國と魯西亞國との境「ヱト
ロプ」島と「ウルップ」島の間に在るへ
し「ヱトロプ」全島夫より北の方「クリ
ル」諸島は魯西亞に属す「カラフト」島
に至りては日本國と魯西亞國との間に界
を分たす是まて仕來の通たるへし
両国との間で国境について明文された最初である。この公文をもとに、後年日露間において締結されたのが〈千島樺太交換条約〉である。更にいえば、大東亜戦争におけるサンフランシスコ講和条約でいうところの〈千島列島放棄〉は下田条約の状態に戻すのが正論だ。今日の実効支配は日露先達の誠意を踏み躙る行為である。ただし実効支配に出るソビエト連邦時代のロシア人は、思想を逸脱する別の民族とも例えられる。その末裔となる新興ロシアは騎士道精神のない搾取に邁進するだけの、忌まわしきロスケである。
さて。
下田には富士山が噴火のときに生じた、宝永地震の津波教訓がある。
「高所へ逃げろ」
というものだ。
生死の境目は、その津波の規模で明暗が決まる。境目に達する以前に飲み込まれた村人の多くは、二度と生きて下田に帰ることはなかった。
きちは母や姉ともども、このときは境目を越えて生き延びることが出来た。誰もが一瞬にして、家も財産も失った。着の身着のまま、命だけを握りしめて、それでも生き延びたのである。
下田の復旧は、生き残った者たちにより行われた。
老若男女を問わず、棲む家と、食べ物と暖を皆は回復することに努めた。根こそぎ流された場所へは、山から木を切って運んだ。使えそうな流木も用いた。生きていく民衆の力は強い。
きちもその一人だった。
幕末史上、注目すべき人物がいる。
桜田久之助、のちの下岡蓮杖。写真家である。下田出身で、もとは絵師をめざし狩野菫川に弟子入りしたのだが、ダゲレオタイプ、写真に心を惹かれ門を辞した。しかし写真を学びたくとも師はなく、かくなる上は異人がいる郷里下田で機会を得ようと、帰国。その途中で、この大震災に遭遇した。
幸い桜田久之助の家族は、津波の難を逃れた。しかし、伝手を探すより被災地復興を優先にしなければならない。実に苦労人だ。のちのハリス来航まで、桜田久之助の辛抱は続く。
西の上野彦馬、東の下岡蓮杖。日本写真の黎明が、下田にあった。
何はともあれ、プチャーチンの一番の悩みは、被災したディアナ号の修繕である。開港間もない下田は未完成。しかも修繕に必要なドックがない。
ディアナ号は最新鋭軍艦である。
いっそアメリカの助けで修理したらという声もあった。が、それは機密の漏洩を意味する。断じて堪えがたい。しかし、このままでは、どうしようもない。
そこで。
「日本人、器用である。手を貸して欲しい」
日本人の船大工に力を借りたいのだというプチャーチンの申し出に、下田奉行所は腐心した。人材はいる。その調達はどうとでもあるのだ。あとは修繕ドッグに代わる湾である。
「日本の舟は戸田でも造られる。そこへ行けば、なんとか設備だけは確保できるだろう」
ディアナ号をそこまで牽引できれば、戸田での修繕は可能かも知れない。その情報に希望を見出し、プチャーチンは決断した。
が、舟の損傷は、見た目だけで判断することは出来なかった。このときディアナ号の船体は、どうしようもないダメージを被っていたのである。
下田出航後、ディアナ号は大シケに遭遇した。激しい風浪に耐え切れず、宮島村沖合でディアナ号は沈没した。
ゼロからのスタートで洋式帆船を建造するしかない。
戸田の船大工は総動員でこれに取り掛かった。技術指導はロシア人が行なったが、このこと、戸田の技術者にしてみれば願ったりかなったりだ。
「洋式船の建造技術、ただで教えてもらうようなもんじゃ」
志のある者にとって、こんなチャンスは早々ない。いまは時代の変わり目であることを、多くの日本人が肌に感じている。貪欲に知識と技術を身につけた者が、次の時代に取り残されないのだ。
ここが、屁理屈をこねて世を騒がせるだけの無学侍と庶民の温度差だった。
庶民はしたたかだ。
生きるために、なりふり構わぬ底力を発揮する。
西洋式帆船の設計をしたのはロシア人乗員のアレクサンドル・コロコリツォフ少尉とアレクサンドル・モジャイスキーが行なった。日本は資材や作業員を提供し、支援の対価としてプチャーチンの帰国後、完成した西洋式帆船を譲渡するという契約だ。
日本側の設計責任者は韮山代官・江川太郎左衛門英龍と勘定奉行・川路左衛門尉聖謨。当時の幕府にとって、これ以上はないという開明的な人選だった。
ロシア人の指導で西洋帆船が戸田で建造されたのは、およそ三カ月。ゼロから始めた日本人の応用力は大したものだと、ロシア人たちは称賛した。
安政二年三月一〇日、進水式が挙行された。
船体のゆがみも傾斜も生粋の点でも、問題ないと判断された。塗装を行い、一六日には試験航海を行った。
「ハラショー!」
プチャーチンは感情を言葉にした。
「ウラー」
「ウラー、イポーニヤ」
ロシア人たちの歓声に混じり、土地の日本人たちも歓喜で万歳を叫んだ。ビギナーズラックという外来語があるが、まさに、はじめての工作物とは、得てしてのちの世に語り継がれる傑作となることが多い。この船の建造費用は純粋な材料費のみで、およそ四千両。技術習得の教材費とすれば、破格の安さである。
製造された帆船は、ドックのあった戸田に因んで〈ヘタ号〉と名付けられた。
ヘタ号は二二日に日本を出港し、一五日後にペトロハバロフスクに到着した。日露通好条約は、こうした被災と犠牲を礎として、紳士的かつ理性的に締結されたのである。
二
開港した下田には、ある特権が亜米利加に与えられた。これを〈遊歩権〉といい、日米和親条約に盛り込まれている。
アメリカ人と下田の町民たちは、ここで異文化の交流を体験したともいわれるが、多分に監視下で行われ、過度な接触を制限されていたことは想像に易い。了仙寺ではアメリカ海軍軍楽隊によるコンサートが開かれたとも伝えられる。これは、日本最初の洋楽コンサートだ。
下田の人間は、日本で最初の開明的な民衆となった。横浜に居留地が設けられるまで、下田には異国の文化が溢れたとされるが、あながち嘘ではないだろう。
このこととは別に、下田の人間は、震災復興を独力で補わなければならぬ試練を負った。このとき幕府は救援をしたくても、出来ない状況だった。
安政二年(1856)一〇月二日。
あらたな大震災が発生した。安政江戸地震である。直下型地震として、江戸府内が壊滅的な被害となった。これを追いうちするように疫病が流行した。コレラである。
「神国に異人を入れたから、天がお怒りである」
「この病も、異人が持ち込んだものに違いない」
悪いことを都合でどうとでも云うのは、世の性だ。この無責任な流言飛語が、そのまま攘夷思想に結びついたのは、どうしようもない心理かもしれない。
数年前、肥後国に現れた妖怪が、疫病除けの札として江戸の庶民に流行した。アマビエという。これが初めてのアマビエ流行だった。そういう不確かなものに縋りたいほど、江戸は疲弊していた。
江戸の窮乏が伝わると、下田の民衆も文句を云っていられない。自分のことは自分でやる。それだけのことだった。
この安政年間、震災は江戸や下田だけではない。日本全土が壊滅的な震災を被った。それは、偶然の周期ともいえるし、連鎖的な偶発とも考えられる。そういう時期だったのだ。
被災とは、人の考えも左右するし、英邁な者を消耗させて命をも奪う。その最たる者が、江川太郎左衛門英龍である。開明的な老中・安倍正弘の信頼厚い江川英龍は、多くの仕事を抱えた。抱え過ぎたといってもいい。どうみても、これは過労死だ。
脳が擦り切れるような精神酷使。
疲労を重ねた肉体。
それでも探求心だけは、死の間際まで衰えることがなかった。
才能は、天才の源泉だ。その能力は、一己の死で霧散して、伝わらぬことは全て無に帰す。このこと、なんと無情なことだろう。少なくとも、あと五年生きていれば、江川太郎左衛門英龍の力が日本のために発揮されたことは間違いない。惜しまれる死だった。
もう一人いる。
老中・阿部伊勢守正弘。有為な人材を多く登用した。これからの時代に必要とされた人物も、やはり自然災害と無益な内政に神経をすり減らし、心身ともに消耗した。
彼が見出した人材は江川英龍だけではない。勝麟太郎・大久保一翁・永井尚志・高島秋帆といった、のちの幕末史に影響力を発揮した人物ばかりだ。それを野から発掘し抜擢したのが、安部正弘である。
人材がソフトなら、組織はハード。
講武所や長崎海軍伝習所の創設も、安部正弘の英断だった。これまでのソフト&ハードを総括すれば、まさに安政の改革と呼ぶのが相応しい。それほどの大功績である。後任の堀田正睦は阿部路線を継承した。井伊直弼が大老となるのは、三年後。
安政の世は、舵取りの意思が不明瞭な数年間を要する。
下田の人間にとって、異人は珍しくない。ペリー以降、そういう環境がすっかりと整った。
「別にこちらから近づくでもなし、どうでもない」
きちもそんな心境だった。
下田の玉泉寺は、ペリーが来たあとに、アメリカの領事館になることが定められた。まだアメリカから然るべき者は来ていないが、お寺はいろいろと大騒ぎだ。曹洞宗のお寺で知られる玉泉寺が、どういう経緯でこうなったのかは、誰も知らない。
かつて設けられていた下田奉行職。これが浦賀奉行に統合されたことで、長らく有名無実な状態だった。が、昨年、この役職は復活した。領事館が下田へ設置されたことがその理由である。
大目付兼海防掛・土岐頼旨は、かつての下田奉行職であった経験を持つ外交適任者である。下田が外交の場となることを卓見し、優秀な人材を抜擢するよう幕府に働きかけた。これに応じたのが、プチャーチンとの交渉で信頼を勝ち得た苦労人、川路聖謨である。これからの下田外交が、日本にとって、どれほど重要なものとなるものか、土岐頼旨も川路聖謨もよく洞察していた。井上清直は川路聖謨の実弟である。川路聖謨はこれを下田奉行に推挙した。
あとは、アメリカの外交官を待つだけだ。
日本が軽んじられぬよう、玉泉寺の領事館改装は、手を抜かぬよう徹底された。これが、日本人の矜持だった。
相手が思うよりもキチンと整える。
相手に明け渡す際も塵ひとつ残さぬ。
戦国の頃より、侍はこういう手際こそ美意識と学んでいた。泰平にあっても、この美意識だけは変わることがない。
きちは、身体はもう大人だった。
この時代、初潮があれば、もう大人と見做される。庶民の性は垣根が低い。貞操というものは、勿体つけた武士の世界だけのものである。男臭い漁師小屋で働くきちが、盛りの男たちに、いいように弄ばれることも自然だし、その実、主導権は女の側にあるよう誘導していく逞しさを身につけていくことも道理だった。
きちの初めては、面倒見のよかった初老の男だ。ガツガツしない分、破瓜はきつくもなかった。初老の男の愛撫は優しい。まだ膨らみきらぬ乳房に神経が集まるような程、指の調べで全身に電流が駆け抜けた。
「きちはいっぱい男を困らせる女になるがいいぞ」
初老の潮っぽい髪の香りは、嫌いではない。しわしわの魚臭い指が、こういう場では見たこともない生き物のようだ。生まれて初めて迎え入れた陰竿は、漲るような固さではない。それが丁度よかった。そんな交わりでも、破瓜の血は出る。
「若い奴はせっかちだから、こんなにのんびりはせぬぞ」
「でも、こういうの、嫌いじゃない。気持ちいいことは好きだ」
「安っぽい女になると、いかん。お前はもっと男を選べ」
「じゃあ、じいさんがいい」
「おふくろが卒倒するから、遊びだけにしとけ」
きちがぎこちなく、両手でふぐりを揉むと、また大きくなってきた。二度目の交わりは、もう少し長く、深かった。痛みらしい経験を知らずに、このときの交わりで、きちはすっかり〈女〉に開発されてしまった。
人の陰部とは、口に語らない部分が多分である。ただしこれは、奔放という一言であり、銭金により春をひさぐこととは、全くの別儀だ。きちを取り巻く性の部分は、庶民の生活のごく一部に過ぎない。それは、どこの、だれにも、平等な自然の摂理といってよい自然なことだ。
結果的にだれ彼の子を孕まぬだけ。
ただ、それだけのことである。
古今を問わず、性に関しては女より男子は奥手である。機能的に問題のない少年は、同世代に陰気を囁く勇気はない。誘う年増女がいなければ、いつまでも女を知らないままだ。不思議なことだが、男は、こういうことに関しては、極めて臆病なのである。
女になったきちには、目に見える今までの世界も、不思議と違って映った。きちが特別なのではない、女とは、そういう洞察力と感受性が増すらしい。
「おぉい」
きちに手を振るのは、滝蔵と助蔵のふたりだ。下田奉行所設置のため、役宅が急拵えされた。そのため畑や家の土地を失う者も多く、奉行所ではそういう家の子弟を足軽として召し抱えた。滝蔵も助蔵も、足軽に引き上げて貰ったのである。
「あ」
きちは、つい口元を隠して笑った。
滝蔵が女を知ったなと、なんとなく直感した。軽輩の少年は、役宅の使用女に襲われるという噂がある。きっと、母親よりも年増女に押し倒されてしまったのだろう。
想像するだけで笑いが込み上げてくる。
「なんだ、何が面白いんだ」
「え?」
「にやにやしてるぞ」
「ああ、今日も、大漁ならいいなって」
へんな奴だなと、滝蔵は訝しげに睨んだ。
きちは、話題を変えた。
「足軽になったのだから、あまり町の者と親しくしては駄目じゃないの?」
「異人を相手にするでなし。そんなに面倒なことは、ないよ」
「へえ」
助蔵は勤勉で、懐には、難しい書付を持っている。まだ字は覚えきれないが、こういうことが好きなのだろう。
「でもさ、奉行所がうちの土地を差し押さえてくれて、正直ホッとしたよ」
滝蔵が呟いた。
「なんでさ?」
「あの地震と津波で、うちは建て直すのが大変だったからな。建て直すくらいなら、差し押さえられて、足軽にしてもらった方が楽なのだよ」
「家の人はどうするの?」
「家と畑を別のところに貰えた」
そうだろうな。その方が、却って楽かもな。きちの家は、まだ震災の片づけが出来ないでいる。折れた梁や柱も、そのままだ。
「助蔵もそうなの?」
「ああ」
素っ気ないなと、きちは苦笑した。
下田の片隅にいる、まだ名もない少女と少年たち。安政という時代は日本中の若者を翻弄したといわれるが、彼らもまた同様である。
その生涯が激変した……と通説で囁かれた少女・きち。彼女以上に、この二人の少年もまた、その運命に翻弄され歴史の舞台へと引き上げられ振り回されるのである。
下田の少女と少年たち。
その激動は、すぐ目の前に近付いていた。
ハリス
一
アメリカの偉い役人が下田に来るという噂は、たちまち知れ渡った。そもそも玉泉寺を亜米利加の領事館にしたときから、こういうことは想定内である。もとより商魂たくましい連中が渦巻く海の集落は、このことを何としてでも商売に結び付けようと、多くの者たちが躍起になった。
「手に技でもあればなあ」
きちは相変わらず猟師小屋で働いていた。手に技もなく、知識もない、これが身の丈に合った生活だった。どうせこれまでも、ペリーやプチャーチンといった連中が来て、色々なことがあったのだ。今度やってくる異人も、そのような類だろう。
がめつい考えを持てるほど、きちは賢くはない。
だからいつものように、異人とは直接関わりのない、平穏な日常を過ごそうと思うのであった。
このとき、きちの美貌は下田の話題になっていた。恵まれた町民なら、もうとっくに縁談のひとつでも来たことだろう。しかし、きちの身分は、決して恵まれたものではない。
「よほどの道楽が過ぎるヒヒジジイが、座敷の慰みに」
買うくらいしか、きちの落ち着く先などない。
「もったいねえな」
誰もが、そう囁き合った。
ただ、商家や武家の若い男たちは、きちの美貌に大いに興味を持っていた。話をすればさばさばとした性格で、悪い印象もない。
男たちは思う。
「こういう女を組み敷いて、いい声で啼かせてみたい。どうだろう、力強く責め立てたならば、いったいどう喘ぐものかな」
「漁師の連中なら、知っているのだろうよ」
「勿体ねえなあ」
「俺だって、いい声で啼かせる自信あるぜ」
「助平の云う事は、やっぱ違うな」
あきれるほどの男の願望だ。
しかし、きちは生まれ育ちが悪い。父親は早くから行方をくらまし、母と姉とで暮らしている。その姉も、最近になって二人目の夫と別れたばかりと聞く。こういう家族構成が、ますますきちの身上を悪いものにした。仕事が仕事なだけに、必要以上に魚臭いし、更にはその周辺の男どもの影も臭う。
それだけだった。
戯れならいいが、嫁にすれば、その家の評判にも障る。それだけのことが、当時は大事なことだった。このままでは、美貌の持ち腐れといってよい。
「誰か気の利く家で養女に貰ってくれたらなあ。きっと、すぐにでも結納品を積み上げてみせるぜ」
世の男どもの気持ちも分らぬでないが、震災より間もないこのご時世には、所詮無理な夢ものがたり。
きちだけではない。
そういう野に咲く娘は、この当時、下田には案外と多かった。
タウンゼント・ハリス。
貿易商で、かねてより日本には強い関心を持っていた。東洋に進出したのも、本命は日本でのビジネスである。が、そのためには根回しや足場の拵えが大事だ。上海で会ったペリーに
「私を日本行きの船に乗せて欲しい」
と、強く望んだのだが、ペリーは港を開くこと以外のことは考えもなく、その願いは拒まれた。それでも諦めきれず、政財界に運動を続けた甲斐あって、1855年、フランクリン・ピアーズ大統領から初代駐日領事という大役を貰うことに成功した。
当時イギリスの外交官はエリートだ。反してアメリカはハリスのような在住商人に兼任させた。どんな身分の人間でも、突如として政治の場に参加するチャンスが得られる。これが〈若い国〉ゆえの特殊性であり、上昇志向者を満たすアメリカンドリームだった。
ハリスがどういう前身であるか、このことは後世の日本では、余りよく知られていないし、教えてもいない。きっとハリスは、アメリカで叩き上げた優秀な外交官吏なのだ。殆どの日本人は、そういう印象で認識しているだろう。
まさか、一国の交渉最前線を担うべき人物が、叩き上げの事務官ではなくビジネスマンだろうとは。教科書から読み取れない事実である。ましてや開国間もない日本とのデリケートな折衝の場にこういう人物を送り込むとは、なんとも驚きだ。
これが、若い国の、実に思い切った決断ともいえよう。かといって、これを人材薄の苦心とは云い切れない。チャンスのある国は、チャンスに強い人間を選択する。このときハリスが任されたことは、アメリカ合衆国においても重要なことだった。
この当時のアメリカが日本との間に望むもの。それは平和的開国に基づいた上での、独占市場の開拓だ。諸外国の権益介入を防ぎ、東洋進出の足掛かりとなること。日米通商条約はそのためのものであり、これを得るための全権公使がハリスだった。
「フェアプレイではなく、合衆国が主導の条約を結ぶこと」
アメリカ合衆国は欧州各国が先んじて進出したアジアに出遅れた。ゆえに日本だけでもと、このことを意気込むのは理解できる。しかし、日本を知り、関心を持つ者はなかなかいない。そのためにも、多少なりとも日本に興味を持つ人材を送り込むことが大事だった。ハリスの抜擢は適正であり合理的な判断である。
そしてわかったこと。
日本のサムライは戦闘民族である。無知の官吏を送り込んで決裂するリスクは、命懸けであった。さらにいえば、国際社会では日本を独立国とみなしている。ほかの未開なアジア諸国で植民地にしている状況とは、訳が違う。
仮にサムライを、ネイティブだったインディアンのように駆逐することがあったとしても、国際社会はアメリカの非道を厳しく糾弾するだろう。大きな痛手だ。商人上がりの者を差し向けて妥協点を探ること。この状況における建設的な手法だった。外交=戦争という発想を、あえて条約=ビジネスにこじつけるのは、商人の感覚ならではのもの。官吏や軍人に出来るものではない。この思い切った発想はアメリカならではのものだ。
安政三年(1856)七月二一日、ハリスは下田入りした。
日本語に不慣れなハリスは、日本が長くオランダとだけは国交を行なっていた点に注目した。オランダ語に長けた通訳兼書記官として、このときハリスが採用した男がいる。ヘンリー・ヒュースケンだ。ヒュースケンはオランダ語ができる。蘭学開明派の日本の役人との交渉には、なくてはならぬ男だった。ただ、若い男だからだろうか。好奇心が強いことは悪しきことではない。が、とりわけ日本の女性に執着的な関心があった。変質的な妄執だともいえる。この性癖さえなければ、彼は優秀な官吏にもなれるし、日本人を刺激する要因を生むことなく、のちの歴史に、好意的な意味でその名を刻むことが出来ただろう。
ハリスの入港時、とりわけ通辞事情は良好なものではなかった。アメリカの領事館ということで、日本側はオランダ語のできる通訳を設置しなかった。先のときにペリーが中国人の通訳を用意していた先入観が原因だ。そのためヒュースケンの活躍する場はなかった。
言語が通じないことで、諸事手違いが重な
った。そのため下田奉行・井上信濃守清直はハリスの入港を一時的に許可できない状態となった。この事態は好ましいものではない。
「この地の足軽二名がアメリカの言葉をよく学んでいるとのこと」
吉報だ。急ぎ呼んでくるよう、井上清直は指図した。呼ばれたのは、滝蔵と助蔵だ。
「その方ら、言葉を解すことが適うなら、これに応対せよ」
突然のことだったが、身振り手振り、滝蔵と助蔵はこの者がアメリカ総領事ハリスであることを通訳した。些細なトラブルもあったが、下田奉行所は上陸を許可することが出来た。
「サンキュー、ボーイ」
ハリスは微笑んで手を振り、滝蔵と助蔵も、頭を下げた。
この功績から、程なく滝蔵と助蔵は下田奉行所調役・脇屋卯三郎ならびに通訳・森山多吉郎付の給仕として、領事館への出仕が命ぜられた。これは、大出世だった。
噂は下田の市井に広まった。やっかみから悪口をばら撒く輩もいたが、小さい頃から二人をよく知る者たちは、それぞれの家へお祝いの言葉をかけた。
親たちは、何が何だか、てんてこ舞いだ。
「異人さんの近くで大変だけど、頑張れよ」
誰の口から出る言葉は、どれも同じに聞こえた。
この日、二人は道端できちに出会った。相変わらず魚臭いきちは、二人の立身を心から喜んだ。
「おれは領事官付、助蔵は通辞付だよ」
滝蔵は嬉々と笑った。
「どうやって御付が決まったのさ」
「なんとなくじゃね?」
「そうか」
了仙寺に努めている間は、色々と国の秘密を知ることになる。だから当分は家にも帰れないらしい。
「滝蔵、お母さん恋しくなって、夜泣きなんかするんじゃないよ」
「しねーよ、馬鹿」
そういうやりとりのあとで、きちは二人と分かれた。
玉泉寺に住込みとなった両名は、せっかくの機会だからと、アメリカからきた人間たちの監察をした。そして、人が天狗よと畏怖するものは全くない、極めて個性的で人間臭い連中だと知った。
ただし、交渉のことは大人の世界。
仕事の間は、アメリカ人に妥協という感情は一切ない。相手に同情する日本人的な考えがないのだ。
これには驚いた。
が、決して彼らは薄情ではない。
「キミタチハ、イツモ、ドウイウアソビヲスル?」
ハリスは厳格な交渉者だったが、子供には優しい。滝蔵にもよくしてくれる。好奇心旺盛で日本語を知りたがり、領事館の近所に暮らす子供たちとも接したいという想いを訴えた。基本的に、下田の人間は物珍しい異人に平気で接する。そして、これは国の外交上、許されるものではない。
「これ、ここにきたら駄目だ」
領事館に雇われた下田の者も少なくない。その子供たちが、親を求めて迷い込むことも多々あることだ。彼らのなかでは
「親が玉泉寺の和尚さんのところにいるから迎えに来た」
という感覚である。そのたびに、子供を追い払うのは役人の仕事だった。老人が覗き込むことも絶えない。好奇心からだ。しかし、これも追い払われた。
公的な官舎の秩序を重んじるのは、日本もアメリカも変わりはない。だから、ハリスにとって障りなく接することが出来る唯一の子供が滝蔵だったのである。
領事館の世話人は、ハリスが香港から連れてきた中国人五人。これが裁縫や料理など、ハリスの身の回りを世話した。彼らも日本がどういう国かはわかっていない。だから、滝蔵と助蔵という二人の日本人が、心強かった。ハリスは二人から日本語を学んだ。好奇心に、人種の壁などない。
「ミノマワリノコト、ジャポンノコトバデサシズデキルヨ」
ハリスはそういって笑った。
二
領事館の和やかさとは裏腹に、国交のことは容易ではなかった。
「一刻も早く大統領親書を渡したい」
ハリスは江戸へ行くことを望んだ。
「神州を土足で踏み荒らすこと、許し難し」
これを、水戸藩主・徳川斉昭を始めとする攘夷論者が拒絶した。改善の見込みも立たなかった。
「サムライの国は複雑と聞いていた。まさかこれほど合理的ではないことばかりが罷り通って、腹立たしいこと限りなし!」
ハリスはいつも怒っている風だった。一年も要して、若干の和親条約改定しか出来ず、進展もない。この頃から、ハリスは体調を崩しがちだった。
「お世話をする人、求めましょう」
ハリスを案じたヒュースケンは、下田奉行所へ米国軍医の来日許可を求めた。ハリスは二月に丹毒で吐血もしている。軍の医師を求めることは合理的な判断だ。しかし、軍艦の入港は国内の感情を左右する。幕府としても、却下せざるを得ない。
「公使への非礼をするならば、これまでまとまりかけていた全ての協議を白紙としよう。それだけではない。もしも、公使が亡くなるようなことになれば、日本が殺したと本国に報告するだろう」
ヒュースケンの恫喝だ。これには、困った。
下田奉行だけの独断で下せる問題ではない。かといって、軍艦を下田へ呼び込めば、国内の攘夷論者が刺激され、どのような暴動に至るか想像もできなかった。
ここで、ヒュースケンが対案を出した。
身の回りの清潔を保つ女性看護人の必要、である。
この要請は、状況判断で日本側から申し出たのではなく、あくまでヒュースケンからの要請だ。ここが、重要なところである。このことが逆になると、いわゆる御国のための尊い犠牲という美談にされてしまう。そうではない、必要の交渉がなされた。このことに日本が応じた。そういうことだ。
ハリスに一名、ヒュースケンに一名、気の利く若い娘を差し出すべし。ヒュースケンからの要求だ。
「看護が必要なのは、ハリス公使だけでいいのでは?」
「ノー、あなたたちも男だ。わかるだろう、私にも看護が欲しい。そういうことだ。皆まで云わせるつもりか」
「このこと、ハリス公使の承知であるか」
「勿論だ」
嘘である。
慰安の娘を差出せという下衆な振舞いが、まともな国交のうえで常に障害となることを、ビジネスマンであるハリスはよく知っている。若さを持て余し、極東の柔肌に飢えた若い通辞の独断が、このハレンチな要求につながったのだ。いや、ハリスに宛がう娘については、一切の性にまつわることがない。純粋に看護だ。だからそういう説明でハリスに認可を得ている。ヒュースケンも同様に世話が欲しいと説得し、その正体も知らずに同意を得たのだ。
下田奉行所では、このことを真剣に議論した。
ヒュースケンの指す看護人とは。
「西洋人は織田信長の時代から日本に訪れた。幕府ができて疎遠となったこともあるが、これまで貿易で多くの国と倭は約束事を交わしたものである。そのなかで、このような破廉恥なる申し出を被ったことなど、ただの一度としてない」
紳士的な外交をするためにやってきたからと、こちらは好意的に応接したつもりだった。
遊び女を提供しろ。
これは野盗や野武士の脅迫にも等しい。村を襲い居座った野盗が、村娘を出せと息巻く様にも聞こえる。
「こんなこと、腸が煮えくり返って仕方がねえ」
下田奉行所は独断で対処すべきか、幕府に決断を仰ぐか、判断に迷った。
「奴らの好きにはさせたくない」
井上清直の不快感は、奉行所全員の共感だった。
この頃、ハリスはアメリカ大統領からの全権委任者として、直接江戸へ乗り込み、将軍と直接話をさせろと申し出ていた。そのようなことが出来るものではない、だから下田という遠隔地に領事館を設置したのだ。それに、世は異人に寛大ではない。命の危険があるからという配慮でもある。
根っからの役人ではないハリスに、その理屈は通じない。
幕府は江戸への立ち入りを拒む姿勢だ。ならば下田条約を撤廃し、不履行請求を武力で求めるという半ばハッタリな強気も、ハリスは示した。
「面倒な爺だ」
これが、幕府の見解だった。
らしゃめん
一
この当時、赤十字理論を知る日本人は未だいない。パリ万博で佐賀藩がこれを知るのは、およそ一〇年も先のことである。
看護人。
この曖昧な表現に、日本人は苦慮した。手当をする医師でもいい筈だが、ヒュースケンは娘を差出せと云ってきた。真意を知らぬハリスは、このことはさておき、安政四年三月七日に発した三度目の江戸入府嘆願も返事がないことから、下田条約の撤廃も辞さぬと騒ぎ訴えた。この下田条約を撤廃するという云い草が、幕府を大いに困らせることとなった。
ハリスの云い分は、つまりはこうだ。
下田より江戸へのぼり、皇帝(徳川将軍)との直接談判により日米間に互恵的な通商条約と、従来の条約よりも幅の広い修好条約を結ぶ。そのあとで、世界各国に向けこの条約のことを均霑せしむるものなり。ペリー交渉から日本のまことな開国へ改めることこそ、我が功績であるというところだ。
将軍との直答は許されない。
が、御前における老中の交渉ならば、やってやれない話ではない。このあたりは堀田正睦も承知のことだ。
「女のこと、だが」
幕府はハリスの要求なら聞いてやるべしと達した。そのことで苛立つのだろうという、下等な評価をしたのである。ハリスにとっては不名誉なことだが、とにもかくにも、交渉の公も看護の私も、まさしく公私の便宜を下田奉行に一任したのである。
「ならば、金で慰撫するよりないな」
異人を相手にするからには、遊郭へ身売りするより肩身の狭い想いをすることとなる。それなりの慰謝を前金で宛がい、務めが明けたら家族で下田を出て暮らしていける配慮が必要だった。
「だれか、心当たりはないか」
井上清直は脇屋卯三郎に質した。
「大名ならいざ知らず、異人で側女の役を負える者とは、いやはや」
看護人という名目は、よくお城に上がる侍女が殿様に望まれ、御手付きになることを連想させる。それっぽいことならば、武士の社会では常識といってよい。
が、相手は大名ではない。
「異人の妾、ううむ」
そういう目的の女性を宛がうことは、果たしてどうしたものか。少なくとも人ひとりの人生を、これで狂わせることになる。
「武家の女性は、ぜったいに駄目でしょう」
脇屋卯三郎は毅然と断じた。
「ならば、歳の頃に恰好な下田の娘を洗い出すよう」
井上清直は決断した。
先ず、高札が立った。募集に応じる者がいれば、探す手間が省ける。募集する名目は玉泉寺に居留する異人の世話というもので、住込みで期間は未定というものだ。仕事の内容は明確なものではないが、人々の目を引いたのはその御給金の額だった。
地震の余波で生活が苦しい者が最初に門を叩いた。しかし、多くは年齢で振るい落とされた。若い娘を望んでいることを知った町衆は、ああ、妾奉公だと、このときになり誰もが察した。
きちの姉・もとが金目当てで訪ねたが、やはり年齢が引っかかった。二度も離縁をしたもとにとって、羞恥心はない。手っ取り早く金が欲しい。
しかし、自分にその枠がないと知るや、もとの脳裏にふつと悪知恵が浮かんだ。
「母さんに相談が」
と、きちの留守中、母・きわに何事かを囁き、説得した。
「そんなこと」
「家のためになるんだから」
「きちが可哀想だよ」
「こんなに手当を貰えるのなら、何が可哀想なものかい」
その捲し立てる法外な給金の額に、母親の良心は見事にかき消えた。
通訳・森山多吉郎は、滝蔵を招いた。
「ハリスの看護人のこと、聞いているよな」
「ええ、でも、ハリス旦那に欲しいのは妾じゃなくて、本当に世話をしてくれる人のようですよ」
「そうなのか?」
「おれ、直接聞きました」
森山多吉郎は滝蔵を連れて、井上清直のもとへ赴いた。その是非を質され、滝蔵は目を丸くした。
「皆が勘違いしているようだ。儂は病気で不自由だから、軍医に代わり指図通りに世話をしてくれる手足となる者が必要なのだと、旦那はヒュースケンにそう伝えたのですよ」
「まさか」
「噓ではありません」
どういうことだ。
井上清直は本当にヒュースケンが妾を望んだのかと、強い口調で質した。誓って嘘は申さずと、森山多吉郎も即答した。
「ヒュースケンの要望とは違う」
「誤解では?」
だまれと、森山多吉郎は滝蔵を叱責した。
「くそったれ」
井上清直は顔色を変えた。ヒュースケンに一杯食わされたのだと、あらためて思い知らされた。自分の欲求不満を、人の病にかこつけて便乗したのだ。
「あの野郎」
斬り殺してやりたい衝動を、理性が押し留めた。
「で、ハリス付にという要望がひとり」
「誰だ」
「坂下町市兵衛後家きわの娘・きちです」
滝蔵は、思わず目を丸くして声を上げた。
「知り合いか?」
「はい」
「どういう女だ」
「どうって、いい奴ですよ」
「もう少し、具体的に」
「ええと、さばさばしていて、男だったら今ごろ友達になっていたと思うときがあります」
ううむと、井上清直は腕を組んだ。どうしようか、悩んだ末に、井上清直は脇屋卯三郎を呼んだ。
「きちは、自分から申し込んだのか」
「いえ、母親が申し出たものと聞いています。町年寄と名主の連署で選任届を奉行所へ提出していますので、手続きについては、不備もございませぬが」
「この前みたいに、婆あじゃあるまいな」
「裏付で、たしかにそういう娘がいると確認しております」
「そうか」
ちらと、滝蔵をみた。きちという娘が滝蔵の旧知ならば気の毒なことだ。しかし、相手がハリスならば間違っても躰に手を出されることはあるまい。
「わかった、採用しよう」
「は」
「ヒュースケンには誰か付きそうか?」
「まだ」
「ならば、そちらはもう少し待つ」
「はは」
きちなる者が、このままヒュースケン付に替えられたら、滝蔵に気の毒だ。井上清直なりの配慮である。滝蔵は賢い。察して、黙って平伏した。侍の子でないのが惜しいものだと、井上清直は頬を緩めた。
下田御用所役人・下田町名主・年寄の連名による選任で、明朝、奉行所へ出頭せよと報せがきたのは、五月二一日の夜だった。
「わたし?」
きちは目を丸くした。
「もう支度金も貰ったし、玉泉寺へ働きに行ってきておくれ」
母・きわは素っ気なかった。
「いくら貰ったの」
「大したものじゃないよ。でも、これで当分は安泰出来るだろうさ」
きわが伏せた支度金は、二五両の大金だった。金とは実に魔性で、貧しい家は、こうやって平然と子を売り飛ばしてしまうほどの力を持つ。
「困るよ」
「なにが」
「私にも仕事がある」
「漁師小屋なんて、放っておいてもいいからさ」
「そうじゃなくて」
「云うこと聞きなさい」
「聞くも何も、病気っぽいのよ」
「大したことないでしょ」
「なんか、へんな病気なのよ。男の人には云えないわ。とにかく、病気を貰ったみたい」
「どんな病気?」
「股のところが、被れているのよ」
見せてみろと、きわがきちの裾を捲った。異臭が、一瞬、鼻に付く。
「漁師なんか相手にするからさ」
「だってさあ」
「いいから、もうお金は返せないの。明日になったら、あんたは奉行所に行ってね」
それきり、きわは返事もせず、分不相応の夕餉を前にしながら鼻歌を歌っていた。
「奉行所へ行くよりも、朝早くに薬草を摘みに行きたいくらいだ」
もう、きちの声は母に届かなかった。
翌朝、奉行所に行くと、滝蔵と助蔵が待っていた。
「お前、こんな役目を志願したわけじゃないよな」
「当たり前でしょ。母さんが勝手に応募したのよ」
「お前の支度金は二五両だそうだぜ」
「二五両?」
目玉が飛び出る金額だ。
「いくらか、貰えたか?」
「まさか、いま金額を知ったばかりよ」
「おばさん、きちのおかげで金が入ったんだから、本人に渡してやんなきゃ駄目だろう」
「昨日の様子じゃあ、二五両だなんて知らないって云われそう」
実際、きち本人には、びた一文たりとも渡されていないのだ。これが現実である。
(ああ、わたしは売られたのだ)
と、悔しさと怒りで、きちは目の前が真っ白だった。
奉行所の白州へ通されると、幕を張った内側で女たちが
「着替えるのよ」
と、潮臭い服を剥ぎ取り、色鮮やかな単衣を手際よく着せていった。それが済むと、きちは下田奉行に面通しされた。
「お前がきちか」
「はい」
「病人が暮らすのに必要な手助けをするだけだ。難しい仕事ではない。頼むぞ」
「よくわかりませんが、はい」
きちは大勢の役人や町会所の偉い年寄りに囲まれて、下田富士を見上げながら稲生沢川の木橋を渡った。下田富士に生えている松が、風にそよぐのを見つめながら
「遊廓に売られるのって、こういう光景なのでしょうか」
と、近くの年寄りについ話しかけた。年寄りは顔を蒼くして、言葉も出ない。
「黙って歩け」
愛想のない役人の声が響いた。
領事館のある玉泉寺には、程なく着いた。この日、一泊させて、役人から切々と相手に対し無礼がないよう説諭が続いた。出来物のことを云いたくても、女性は寺にいない。給仕も男所帯だ。着替える時が、最初で最後のチャンスだったのである。
(このこと、誰に云えばいいのだろう)
きちは羞恥で顔を真っ赤にして、説諭など全く耳に入らなかった。見回すと、滝蔵と助蔵の顔が見えた。
領事館住まいはハリスとヒュースケン、香港で雇った五人の志那人、そして給仕である滝蔵と助蔵である。あとは通いで人が来るのみだった。いくらきちでも、秘所のことまで二人に話せそうにはなかった。
五月二三日。きちは初めてハリスと顔を合わせた。このとき、ハリスは微熱があり、横になったままの応接だった。
「きみは、少し臭うね」
ハリスの第一声を、滝蔵が通訳した。
「えっ」
きちは、思わず顔を真っ赤にして、何か粗相があったものかと、腋や掌の匂いを嗅いだ。
「そうじゃない、病的な臭いがする」
きちは、黙り込んだ。ここでやる仕事は、ハリスの着替え補助や洗濯・食事の介助だった。ただ、ひとつだけ難があるとしたら、ハリスは度を超す潔癖症であった。
「きみは、どんな仕事をしてきたのだ」
漁師小屋で潮まみれの洗濯をしてきたのだと、きちは答えた。下賤な女だと、ハリスは直感した。周囲の人間関係も、あまり立派なものではあるまい。
「で、この臭いだ」
ハリスが捲し立てるので、きちは観念した。
「みんなに云えなかった腫れ物があります。すぐ薬草を採りに行きたいくらい、困っています」
滝蔵は困惑した
「なんで黙っていたんだよ、きち」
「云える訳ないでしょ。近くに女の人もいないし、ずっと困ったまま、こうなって」
泣きそうなきちに、滝蔵は戸惑った。
「どうした、何を泣いている」
ハリスにどう伝えるか、滝蔵は悩んだ。何とか遠回しにつたえたつもりだが、しっしと、不愉快そうにハリスは上半身を起こした。
「なんということだ。きみは瘡毒ではあるまいな?こんな女性を近づけるとは、失礼にも程がある」
そういってハリスは怒鳴った。
滝蔵が宥めて、事情を説明したが、きちの病気が問題視され、遠ざけられたまま、呼ばれて三日足らずで、暇が出された。
ハリスは下田奉行所へ抗議した。
が、そもそも愛妾を求める美人局など、こちらも関知していないのだと、奉行の云えない本音を、森山多吉郎が声を荒げ訴えた。
「どういうことか」
「ヒュースケンは公使に便乗して妾を要求してきた。行き違いでこういう手筈になっても、文句を云われるのは筋違いだ」
「云いがかりである」
「ならばヒュースケン殿に直接お尋ねになればよろしい」
昨日、ヒュースケン付の看護人がきた。弥治川町平吉後家つじの娘・ふくという。ヒュースケンは男を持て余し、ハリスにかこつけて己の愛人を雇ったのである。看護人名目のふくは、ヒュースケンの慰みを仕事とした。
「看護人と娼婦が誤訳されている。君は私の言葉をどう伝えたのだ」
「私は男を持て余している。正直に申したのです」
そのことを知り、ハリスは顔から火が出るほどに恥ずかしさを覚えた。
「忌々しいオランダ人め!」
カッとなり罵倒したものの、こうまで為ってしまったものはどうすることも出来ない。ふくはヒュースケンの寵愛を受けることとなった。
三日で追い出されたきちは、家に戻って最初に
「この役立たず!」
母親から罵倒された。
罵倒しながらも、派手な生活をして、きちには一銭も渡そうとはしなかった。姉のもとと山分けしたから、手元には一〇両少々しかない。それで苛ついている様子だった。
二
きちのことは、ようは妾奉公ということではなかった。このことを知っている者は、かなり多かった。ただし、誤解を招く事態が、ヒュースケンの側から噴出した。ヒュースケンは男を持て余し、ハリスにかこつけて己の愛人を雇った。看護人名目のふくは、ヒュースケンの慰みを仕事とした。このため、きちもそういう仕事をしたのではあるまいかと、無責任な風聞が立った。
自然な浪騒だ。
その無責任な風聞のため、その後のきちは、毎日が地獄だった。
「明日から来ないでくれ」
異人と穢れた女は必要ないと、漁師小屋の態度は素っ気なかった。
「馬鹿をお云いでないよ。私は股が痒くて、そんなことなんかしていない。それよりも、小屋の誰かが私に変な病気を移さなかったかね。おかげで、とんだ迷惑さ」
股座が痒いのは、みんな同じだ。潮のせいでもあるし、不衛生とでもある。しかもきちを腕の中へ汲み伏した心当たりは誰にでもあった。きちは漁師の誰かにかぶれを移されたのだ。それでも、そんなことが口に出せないのが漁師の心情だった。
「とにかく、もうくるな」
きちは、こうして追い払われた。仕事を失ったのである。
「あんなメリケン人のために」
きちは母親に振り回されて、人生を棒に振った。支度金そのものさえ手に触れてもいない。なんと理不尽なことだろうか。
支度金二五両。
しかし、これほどのお金も、所詮はあぶく銭。何に使ったものやら、いつの間にか使い果たして、すっかり消えていた。どこをどう浪費したのか、きわにも、記憶がなかった。
金は、家族を壊す魔物だ。
「母さん、お金貸してくれない?」
似たような醜悪の面相で、もとがやってきた。そこにいたきちは、己を売り飛ばした姉を激しく打擲した。
「痛いのよ、この、汚らわしい〈らしゃめん〉が!」
もとは謝るどころか、逆上する始末。きちは、大切な家族の変わりように失望した。ここにいる二人は、姉でも母でもない。金で心が変わり果てた、全くの別の人だった。
(あんな金が、家族を殺したのだ)
そう思い、悔し涙が一条、頬を流れて落ちた。
きちは、家族を捨て、誰にいうでもなく下田を去った。
きわは、世間の風聞で娘が真っ当に働けなくなったとして、きちに代わり下田奉行所へ暇手当を請求した。
「娘を差出したのに、なんとひどい仕打ちだろう」
きわの言葉に、奉行所の者たちは当惑した。どの口が云うものかと、呆れて言葉すら出ない。
「娘を傷モノにされて、下田で生きていけなくなったんだ。これは一体、どうしてくれるというんだい」
きわは慰藉の金を要求した。元来ならいるべき八月までの給金三〇両を毟り取った。そんな大金さえ、浪費を重ねて、たちまちすっからかんだ。
「あれはひどい親だ、姉だ」
心無いことで、きちは下田にいられなくなった。全部、母親がやったことではないか。人の声は、下田に満ち溢れていた。きわも、もとも、その後は誰の関心に留まることはなかった。
安政四年五月二六日、日米和親条約を補完した全九か条の追加条約が締結された。世にこれを、下田条約という。
「もう、おちおちと休んでもおられん」
と、ハリスは床を出て、交渉を急いだ。
今度のことで、いちばん恥を掻いて、いちばん損をしたのは、誰でもない、きちひとりである。下田の者の多くは事情を知っていながらも、だれ一人きちに救いを差し伸べることをしなかった。
人の不幸は蜜である。
偽善は背徳の裏返しだ。
それがお互いの気まずさになった。きちが人知れず下田を去ってくれて、正直、誰もがホッとした。きちさえいなければ、小さな世界での人間関係を、上辺だけで維持できるものだと、安堵していた。
ハリスだって紳士然とふるまい、悪しき風評に毅然と処した。何もなかったことに撤したのだ。
一番得をしたのはヒュースケンだ。これほど小狡い奴はおるまい。忌々しいと思いながらも、ハリスは感情を奥に封じた。きちに対しては、多少なりとも罪悪感はある。その裏返しだろうか。ヒュースケンの情婦となったふくに、ハルスは優しい声を選んだ。
「ヤア、オフク、オフクメ」
これはふくではない、きちだ。そういうことで後ろめたさを払拭しようとする、ハリスなりの対処だった。ハリスは、善人であり過ぎた。
七月、アメリカの軍艦が下田へ入港した。きちを解雇したのち、ハリスが呼んだのだ。これが、交渉の起爆剤となった。軍艦が江戸湾に至れば、ペリーの騒ぎの再来だ。
ハリスの希望通り、江戸登城と大統領親書の受理が了承された。
この頃、軍医の勧めで、今度はきちんとした看護人が採用された。須崎町為吉の娘・さよが、ハリス付で採用された。男女のことは一切なかった。さよは五か月間務めたが、普通にお勤めし、円満な解雇をされた。その後においても〈らしゃめん〉と罵倒されることなく生活を送った。きちとは境遇が異なる。きちがそういう中傷誹謗にさらされたのは、生まれ育ちに対する人の偏見も大きい。
片やヒュースケンはふくと五か月、濃密な関係を続けてた。程なくヒュースケンは、ふくを解雇した。
「私は、一人の女で満足できるような安っぽい男ではないね。せっかくだったら、もっともっと日本の娘を味わいたい」
ふくを抱き飽きたから、という理由だ。
なんということはない。ヒュースケンがろくでもない男だったから、解雇されただけだ。これが本音だ。
皇帝のように侵略した土地の女を次々に我が物にしたい。この下品な心情が、ヒュースケンという人間だった。程なく新田町安兵衛の娘・きよを看護人にした。この娘はすぐに解雇された。よほど身体の相性が悪かったのだろう。三人目の看護人は殿小路町利兵衛娘・まつだ。まつとは長かった。一年一か月も関係が続いた。
ヒュースケンは、ただ女漁りをするために、日本へ来たのではあるまいか。
(まさかな)
ハリスは、そう思いたくはなかった。同じ男として、とても理解できない下劣なことだと、心から思った。思ったからこそ、その話題から避けた。けがらわしい話題だ。忘れたかった。
唐人とは、異人相手の遊女、らしゃめんという差別表現だ。実に生々しい感情を丸出しとした、蔑視の表現である。
人はきちを、らしゃめんと呼んだ。
事実でないだけに、蔑視が哀れだった。
うらぶれ
一
岩瀬肥後守忠震という男がいる。
下田というよりも、大きな意味では、この日本国にとって、なくてはならぬ働きをした人物だ。少なくとも、文官とは世間に知られないことが多い。岩瀬忠震の力量は、この当時のどの幕臣よりも大きなものであり、害意を持つ攘夷派を前にしようとも、その説得により理解へと導くことが出来た恐ろしい男だ。
ハリスは江戸に赴くことが正式に決した。ただ、無防備に将軍家を曝すこともできず、かといって異国の外交官に堂々渡り合う覚悟のある幕閣はいない。
「露国とのこと、見事だった。その才智、今度は江戸で見せて欲しいものだ」
四月に大老へ就任したばかりの井伊直弼は、岩瀬忠震に期待していると微笑んだ。そう、岩瀬忠震こそ、震災混沌の中で日露和親条約に導いた外交官なのである。
井伊直弼は開国論者だったが、勅許なしの条約調印は快く思っていない。もしもハリスが江戸城へ来たら、無理難題を将軍にぶつけてくるだろう。
将軍を大帝と認識するハリスは、しかし日本の複雑な朝廷の制度について理解しておるまい。幕府将軍は執政でまことの大帝は天皇だと知ったら、今度はきっと京に行くというだろう。
孝明天皇は異人嫌いだ。理由などない。ただの感情に過ぎない。それだけで通用するのは日本国内だけだ。
世界は動いていた。この渦のなかに日本がいる。慎重かつ間違いのなき選択を繰り返して、どうにか亜細亜諸国と同じ道を歩まぬ努力をしているのだ。好きだの嫌いだの、云ってる場合ではない。
「お公家は気楽でいいのう」
精一杯の悪態だった。
五月一六日、琉球使節江戸参府に伴い岩瀬忠震は御用取扱を務めた。この琉球国をアメリカは知っている。
「引いとぅーし付け入る。押しとぅーし恫喝する、隙みせぬ交渉こそ亜米利加相手ぬやり方であ」
琉球人の言葉に、岩瀬忠震は頷いた。
ハリスは下田でやきもきしていた。呼べど叫べど返事はなく、その焦燥は例えるものもない。
「ハリスの出府を認めるものなり」
堀田正睦はハリスの出府許可を主張した。阿部正弘は逆に、延期を訴えた。過激攘夷の封じ込めが出来ないことが第一だった。
岩瀬忠震はこれを説得した。アヘン戦争のことも説いた。
イギリスは戦争による占領が国策なのだと、まず相手の悪い点を挙げた。そのうえで滾々と国益を訴えて、見事に斉昭らの同意を得た。不運と云えば、安政江戸地震により、諸事混沌となったための感情の揺れだった。やはり攘夷だと、徳川斉昭は再び口にするようになっていた。
った。
一〇月七日、出府許可を得たハリスは下田を出発した。ハリスが江戸に入ったのは一四日、九段坂下の洋学研究所である蕃書調所に落ち着いた。二一日に登城が許され、将軍・徳川家定と謁見した。徳川家定の会見における粗忽な振舞いは、後世、奇病のように扱われ表現されることが多い。このとき、言語を発するまでには足踏みし、頭を反らす症状を示した。
しかしハリスは将軍が利発という印象を記録に残す。ビジネスマンは記録に世辞を綴ることはない。
将軍に大統領の国書を渡したのち、午後、ハリスは堀田備中守正睦の役宅において、老中始め幕府役人を前に演説を行った。 通商条約が如何に必要なものか。そのことについて、およそ一刻(2時間ほど)語られた。
「自由貿易の原則を維持しつつ、適度の関税を課することが富国強兵の途である」
ことを、ハリスは衆人に説いた。また、友好的な関係である外国として、先ずアメリカ合衆国と通商条約を結ぶことにより、強欲で好戦的な欧州諸国からの侵略を阻止できるのだとも強調する演説だった。
これは、今日でいう商品プレゼンとも、商業セミナーとも受け取れるような、ハリスなりの生きた言葉を用いたものだった。
ハリスは講師として英語で語り、ヒュースケンはこれをオランダ語に同時通訳をして、通詞達が日本語に通訳すると同時に記録した。
「素晴らしいことだ」
開国派で純粋な堀田正睦は、ハリスの手を取り合おうという意思に感銘を受けた。ペリーは捕鯨基地という考えしかなかったが、ハリスはビジネスマンだ。お互いが利を生むことこそ、基本なのだという信念を持つ。
このときハリスの訴えた言葉を理解したのは岩瀬忠震だ。
アメリカの目的は、純粋に国交と貿易である。岩瀬忠震は冷静かつ合理的にそのことを十二分に理解していた。
交渉は、互いの信頼に基づくところが大である。信頼があるからこそ、退くべきは退き、譲るべきは譲る。少なくともハリスと岩瀬忠震の間には、公私の別という厳しさと、それを越えた信頼があり、その話し合いによる妥協を導く真実の〈対話〉が存在していた。
のちにハリスは語る。
「余はアメリカの利益を最初に計ったが、その一方で日本の利益も損じないように努力をした。治外法権に関してはあの時点において仕方なかった。しかし余もイワセもそのことを意図的に企画し、不平等な形にしたのではない。関税は大事なものだ。余の本音は自由貿易がいい。しかし日本にとって輸出品は未知のものだ。関税はやむを得ない。これらの議論のために、イワセの主張も受け入れた。余の用意したの草案や原稿は、真っ黒になるほどペンを入れて訂正させられたし、主要の部分までも変更することがあった。しかし、これが最善のことだったし、結果的には満足している。日本の羨むべき点は、このような優れた全権委員を持ったことである。日本人は後の世まで、彼らを恩人と称えるだろう」
交渉の全権を担ったのは、岩瀬忠震と井上清直だ。
ハリスは両名に感服した。下田に戻っても、ハリスは井上清直を信頼した。
交渉は成功した。あとは日本国内の信任だけだ。
しかし、これがいけなかった。
諸大名は開明的な者が少ない。島津斉彬や松平春嶽ほどの有識者ならいざ知らず、異人と手を組むことを、理由なく感情だけで拒絶したのである。堀田正睦の一計は、朝廷工作だった。勅許があれば、諸大名も納得する。その目論見はさらなる暗礁に乗り上げた。
朝廷はもっと物知らずで、傲慢だった。孝明天皇の異人嫌いが理由だ。が、何よりも幕府の困ることをしたいという、世界を知らぬ者の浅慮が、したり顔の諸大名以上に厄介だった。
公家は無知だ。人間を、国家を、世界を知らぬ。知らぬものに認可を望んで、何が出来ると云うのだ。
堀田正睦は失望した。
外国との戦争になりかねない外交の不履行、交渉を重ねて、これ以上のない最善の状況を整えたのだ。これを逃せば、五年後、一〇年後、日本の未来は清国のようになるは必定である。
「御老中にお願いの儀、これあり」
岩瀬忠震の目はギラギラしていた。堀田正睦も、同じ考えだ。
「いざとなれば腹を切る」
こうなったら、勅許なしで調印に踏み切るしかないという意思確認だった。
このとき幕府は将軍家の時期候補者選びで派閥が生じていた。岩瀬忠震らは一橋慶喜擁立に属し、紀州派の井伊直弼と政治的に意見が合わない。しかし、それを差し引いて今こそ国交の好機であることを、井伊直弼は理解していた。
「いっそ交渉不調なら、延期させよ」
井伊直弼は国交の機と知りながらも、時節の重要性を訴えた。朝廷も、諸大名も、思うほどに国際人ではないのである。
二
宇津木六之丞景福という男がいる。彦根藩士で、このとき井伊直弼の懐刀のような存在だった。この者を通じて、井伊直弼は岩瀬忠震の強硬な調印を押し留める説得をした。
「そなたの政敵は、恐れもって我が主にござる。もしもそなたが勅許を得んで条約締結をしたやったら、我が主は政敵として厳しゅう責め立てることやろう。老婆心ながら、ここは慎重になられたし」
宇津木景福は、じっと岩瀬忠震の目を見た。
「かたじけない」
岩瀬忠震は譲る気はなかった。譲って機を待つ刻もなかった。その理由があった。才ある者の命は、古今東西短いもの。このとき岩瀬忠震は労咳に冒されていた。
「いまこの最良を逃したら」
もう、次はないのだ。
日本が清国のようにならぬ最善の道のため、今こそ人柱になるのだと、岩瀬忠震は笑った。
宇津木景福の報告で
「まことか」
と、井伊直弼は岩瀬忠震の壮絶な決意を知り、息を飲んだ。無学で自己顕示欲しかない公家などとは、人間の器が違う。
「花を持たせてやりたいものだ」
見ぬふりをした井伊直弼もまた、漢だった。
安政五年(1858)六月一九日、日米通商条約が締結された。
「勅許もなしに不平等条約を取り決めたのは、極めて不遜。幕府の腰砕けが異人に恫喝されて同意しただけのことぞ」
騒いだ筆頭は、水戸斉昭だ。尊皇攘夷を語る者も、公家も、無学な諸大名も、その英断を責め蔑んだ。
尊皇攘夷活動家のひとり、福井藩士・橋本左内は、予てより岩瀬忠震の才能に感服していた。その才智を、左内はこう評す。
「急激激泉の如く、才に応じて気力も盛んに見えて、決断力もあり、知識もあったえ、断あり、識あり」
その岩瀬忠震は国内すべての批判を覚悟の上で、堀田正睦ともども調印に臨んだ。結果は想像を超えるものだった。
岩瀬忠震は橋本左内にかく伝えている。
「己たちは王倫と秦檜であると思わらるるであろう、この先難儀な重罪を問わらるるやもしれぬ」
死を賭した日米通商条約である。無論、このような背景があったことをハリスは知らない。ひとりのサムライの誠意に、ただただ感動を隠せなかった。
これを機に、外交の表舞台から、いや、ハリスの眼前から、岩瀬忠震は姿を消した。
六月二三日、井伊直弼の報復人事により、堀田正睦と松平忠固が老中から罷免された。同時に岩瀬忠震も作事奉行へ左遷された。日本最高の外交能力を持つ岩瀬忠震を左遷することは、大きな損失だった。井伊直弼は冷徹な政治家だと、世はそう囁いた。
が、結局、調印の責任者は大老である井伊直弼にある。岩瀬忠震の左遷など、政治的に意味をなさない。
「残りの余生を養生せよ」
宇津木六之丞景福は、井伊直弼の伝言と謝意を岩瀬忠震へと口上した。岩瀬忠震の死は、三年後のことである。井伊直弼より、やや長生きした。
日米通商条約の締結により、下田の領事館は閉鎖されることとなった。新しい領事館は横浜に設け、公使館が元麻布の善福寺に設けられた。日米修好通商条約の批准書を交換するために、日本人公使がアメリカへ渡るのは二年後である。日米通商条約調印の場となったポーハタン号で、渡海をするのだ。
ハリスは交渉においては、私心なく公正な見地で向き合った。その結果の通商条約には、間違いなく不平等なものがある。日本からの輸出品が特定されぬ以上、両国の思惟はギブ・アンド・テイクの交易にならない。
岩瀬忠震は承知の上だ。
だから諸藩に特産の輸出品開発を打診した。その深い思惟を理解することなく、ただ悪戯に我を主張し、攘夷という流行の言葉に思考を停止した。だから、拒絶された。
しかし、これを理解し形に出来たのは、薩摩藩のみだった。無理のないスタートだった。下田閉鎖にあたり、ハリスは井上清直と懇意を重ねた。
ハリスは岩瀬忠震のことを知り、心から悲しんだ。
「彼に代わる者は、この国にいるのだろうか」
外国人でありながら、ハリスの気遣いは優しい。井上清直の報告に、井伊直弼も胸を痛めた。
もしも、岩瀬忠震が一橋派でなければ。もしも、彼が病んでいなければ。
唯一無二の逸材であることは、井伊直弼も認めていた。
開国のこと、派閥を越えて同じ想いだった。井伊直弼とて、無能な公家どもに辟易していたし、物分かりが悪い水戸の御老公や攘夷を叫ぶ馬鹿どもへ失望を覚えていた。
このことが、やがて安政の大獄につながる。
ハリスが下田を辞するまでの間。
歴史の表舞台に紹介されぬことが多々あった。人の運命は最たることだ。
滝蔵と助蔵の人生は、ハリスと関わり大きく変わった。
二人はハリスに従い江戸に随行した。参勤交代のような行列で、ハリスの駕籠の脇に彼らは従った。江戸に入ると、ハリスは二人に衣装を用意してくれた。江戸でも三本の指に数えられる呉服商・白木屋で紋付裃の羽織である。公式の場で、二人はこれを着衣した。下田に戻っても、公式の場ではこれを用いた。
下田に戻ってすぐに、滝蔵はきちの母・きわと偶然会った。
「たき坊、何か恵んでくれよ」
再会の第一声がそれだった。うらぶれて、家もなく、襤褸をまとい野辺に身を横たえる乞食そのものだった。
「おばさんがきちを売ったのだろう。たくさんあったお金は、どうしたのさ」
「人が寄ってたかって、気が付きゃ、すっからかんさ。あれほど群れた連中も、金がなくなりゃ寄りつきもしないねえ」
「きちは、きちはどこに行ったのだ」
「うるさいねえ、恵む気がないなら、もうあっちへお行きよ」
金は、人を狂わせる。
幸せは、金がもたらすとともに、壊していく。
きちは、下田を出て行かざるを得なかった。今となっては、あのとき異人の妾と蔑んだ誰もが、どうして責めたのかさえ分からない。実際、妾となった者は、当たり前のように今も平然と下田で暮らしていた。きちを責めたあのときの群集心理は、謎だった。
人の成功は妬まれてこそだ。
妬む間もなく、精進する志を持つ者だけが凡庸と異なる結果を掴む。滝蔵と助蔵がそれにあたり、他者は彼らを妬む。その連鎖は、すべて己のこころ次第だ。
「幸運の女神には前髪しかない」
この諺を最初に口にしたのはレオナルド・ダ・ヴィンチだという。フランソワ・ラブレーという人物は、これを具体的に評した。
「機会(チャンス)は前頭だけに毛髪があり、後頭ははげている。もしこれに出会ったら前髪を捕えよ。一度逃がしたら、神様でもこれを捉える事は出来ぬ」
安政年間の日本で、これを体現できた者は少ない。
その稀なる者が下田にいた。
桜田久之助。
写真術を得るために下田へ帰国していた彼は、ヒュースケンに接触している。
「私はカメラのこと知らない」
そんなヒュースケンの、朧げな知識に張りついて、玉泉寺の御馳走係下番役に採用された。知識はなくとも、ヒュースケンは銀板写真を知っている。
「あなたはしつこいですね」
煙たがられても、桜田久之助は引き下がらなかった。遂にはヒュースケンも根負けした。
「江戸へ移って、落ち着いたら、本国から写真機機と技師を招こう」
そう云わせた。執念の勝利だった。ただその約束は、果たされなかった。
きちよ、どこへ
一
安政六年(1859)の正月を下田で過ごしたハリスは、領事館のいつもの食卓を味気ないと感じていた。
ハリスは和食が口に合わないため、食事については特別だった。牛を飼い、乳を飲み、牛が大きくなると山羊を飼った。鹿や猪が手に入るとそれが食卓に並び、雉や山鳥やウサギなども好んで食した。とにかく肉を欲したのだ。下田の野菜は進んで口にしたが、香辛料や南国食材は入港する船から得た。
「滝蔵、日本の食事はどうして味が薄い」
その問いに、滝蔵は困った。日常で困ったことはない、むしろ西洋の味こそ濃い。
「味はどうのこうの、それは私にも分かりません。その国の味に慣れるか、味付けを取り寄せるか、どちらかではないですか」
「そうだな、そのとおりだ」
滝蔵の答えは、ハリスの納得するものだった。後者に答えを求めたハリスは、入港する船から物資を調達することで、その答えを満たした。
正月の食卓は特別なものではないが、日本ではどうだろう。おせちというものは、どういうものか。
「滝蔵と助蔵の家のおせち、覗いてみたい」
「お断りします」
「少しだけでも見てみたい」
その申し出は、下田奉行所を通じて断られた。代わりに、下田奉行所から運ばれたのが、鏡餅だった。
「この殺風景なモニュメントは、食べ物なのか?」
鏡開きまでハリスは飾り物と信じて疑わなかった。
数日後、アメリカ軍艦ミシシッピー号が下田へ入港するという知らせが届いた。ヒュースケンに身辺を綺麗にするよう、ハリスは厳しい顔で指図した。
「いいか、女にうつつを抜かすことは認めないぞ」
「はあ」
「そんなことしてみろ、何よりも江戸では目立つ。恥だ。すべてはアメリカの品格に関わるものだ」
と、厳に慎むよう命じた。
「お前、いま何を考えた?」
「いや、別に」
「どうせ、元々はオランダ人だからと甘えていたら、サムライの国では絶対に痛い目に遭うぞ」
「はあ」
「いいな、死にたくなかったら、女に手を出すな」
ハリスの忠告は本気だった。
かつて江戸で調印に臨んだとき、ハリスは周辺視察を希望し、岩瀬忠震から制止された。それは、市中には好んで異人を斬る輩がいるという警告を意味していた。彼らの感情を融和させる時間が必要なのだという言葉に、ハリスは納得した。
あれからまだ半年にも満たないこの時期、女性の揉め事は必ず命取りとなるだろう。
これは、ヒュースケンのためを思う言葉だ。そのヒュースケンはいま、三人目の妾・まつを囲っている。下田で得た愛妾のなかで一番関係が長い。
「連れてはいけませんか」
「男の仕事に、女を挟むな!」
ヒュースケンにとって、仕事も女も同じなのだろう。この価値観だけは、ハリスの理解を得られない。
「ハリス旦那」
ふと、滝蔵は尋ねた。
「あのとき、どうしてきちを拒んだのですか?病気を持っていたからですか?」
「違うよ。あの娘は、志願した娘ではないだろう。親に売られた娘だ。とても雇うことは出来ない」
でも、そのために、きちは下田に居られなくなった。それを聞くと、ハリスも気に毒なことをしたと、呟いた。
「もしも、もしも病気じゃなく、ちゃんと働けるのならば、きちがいたら雇ってくれますか」
滝蔵は熱心だった。小さい頃からの知り合いが惨めにされたままでは、あまりに無念だった。昨年暮れまで、ハリスには、さよという看護人がいた。無事に努めて、いまはお役御免だ。誰からも責められる様子はない。
「お金じゃない、きちの名誉のためにも」
滝蔵は必死だった。
ああ、こいつにとって、あの娘は大事な友人なのだなと、ハリスは微笑んだ。いいよと呟いたものの、きちの行方はわからない。これでは、どうすることも出来なかった。
「もし、見つけたら、連れておいで」
ハリスの目は嘘をついていなかった。
三月、ミシシッピー号が下田に来た。ハリスはこれで江戸の公邸に向かうことを下田奉行所に届け出た。
「ただし、一度上海へいく」
「上海?」
「長崎も香港も観てこよう。横浜に据える領事を連れてきたいと考えている」
「世界の海に出られる自由が。羨ましいものです」
井上清直の言葉は、真実だった。
「相談がある」
「なにか」
「いま身辺に置いている二人の給仕も船に伴いたい。これからの日本人は、世界を知らなければいけないだろう」
滝蔵と助蔵のことだ。
「そのこと、一存でお願いするつもりでした」
井上清直は馬鹿ではない。若い才能を伸ばすことは、日本にとっても有益である。ハリスが去って二人を御役御免にしたのでは、確かに勿体ない話だ。
が、そのことを幕府へ、馬鹿正直に伺いなんぞ立てたら、刻を逸するだけだし、下手をしたら出過ぎた釘として二人の将来に影を落としかねない。
「表向き、二人は我が使いという建前で、長崎にでも出したことにしておこう」
そういって、井上清直は笑った。
融通の利く幕臣は、まだいたのである。
三月五日、ミシシッピー号は下田港を抜錨した。村山滝蔵と西山助蔵の二人は船に乗ったが、甲板にはいなかった。彼らは長崎への旅に出たこととして、親姉妹には外国へ出ることを伏せてある。知っているのは下田奉行・井上清直のみ。このことが露見したら、大事である。井上清直もただでは済むまい。
ハリスは井上清直のためにも、滝蔵と助蔵が船に乗っていない体裁に徹した。
「このまま、下田とおさらばとは、何だか寂しい限りだなあ」
船底で大欠伸をしながら、助蔵が呟いた。
ミシシッピー号は長崎・上海・香港を巡り、神奈川の新港へ向かうことになっていた。途中、下田には寄らない。二人の務めは、引き続き江戸で行なうこととなる。
ミシシッピー号は、ペリー来航時の艦隊に含まれていた。いわば日本との因縁浅からぬ軍艦である。こうしてハリスとも縁を持ったのだから、まさしく日本のために重用された舟と云ってよい。
しかし、その後のミシシッピー号は不幸だった。上海情勢に関与したのち、本国へ帰還。南北戦争に参戦し、やがては沈没する運命となる。ミシシッピー号にとって、この航海が最後の花道になるのは、不思議な縁であり、運命なのだといえよう。
さて。
下田より外の世界に出たのは、調印時の江戸に出た以来だと、二人は紅潮した。観るもの全てが、新鮮だった。
「富士山、でけえな」
舷側の丸い窓を覗き込む。駿河湾から見上げる富士は絶景だ。日本平も、三保の松原も映える。このまま西に向かうとして、富士山はどこまで見えるのだろう。
「よく晴れているし、上方まで見えるのだろうか」
「この際だから、観ておくべえよ」
じっと窓ごしに睨んでいる間に、二人はすっかりと船酔いになった。酒も知らぬ二人にとって、酔うという感覚も未知の体験だ。
何もかも、初めて尽くしだった。
安政年間の長崎は、多くの日本人が知らない、亜細亜社会の縮図だった。ビジネスマンの顔を持つハリスは、生き生きと国籍の異なる外国人に語り掛けていく。これが雑談ではなく、刻々と変わる世界情勢の情報収集であることを、滝蔵も助蔵も、知る由ない。
世界の情報が、長崎に集約されている。
それを理解しただけで、滝蔵は震えが止まらなかった。
二
下田を飛び出したきちの足跡は、公式に知られていない。当時の一民間人が日記を残すことなどなく、風聞や憶測でしか物事は推し量れない。事実、今日に伝わる唐人お吉伝説も、真実というより戯作として生まれた類で、脚色を重ねて原石も見えないのが実態だろう。ゆえに本編も小説として、きちの足跡を追いかけていきたい。
手に職もなく、外国語も知らず、生まれも育ちも悪い女が流れゆく先は、苦界と相場が決まっている。しかし、苦界の沼は底がなく、踏み入ったら抜け出すことはできない。きちは、漁師小屋で働いているときに、そのことを知識として知っていた。
「出来ることは何でもします。雇って下さい」
そう頼み込んで、街道を東へ、東へと、進んでいった。乞食のような暮らしにも慣れていたが、心まで落ちぬよう、きちは張りつめた緊張感を維持し続けた。その心根は自然と表情に出る。乞食ではないという毅然とした姿勢が、一応、相手には伝わった。
が、それが直ぐに仕事へ結びつくものではない。現実の厳しいところだった。
横浜。
アメリカとの条約により、開港地として白羽の矢が立った漁村である。その工事のため、この地にはかつてない程の活気が溢れていた。欲を持たなければ、仕事は、どんなものでもあった。新しい街とは、そういうものだった。
きちはここに流れて、賦役者の宿で働くこととなった。
有難いことに、ここでは前科も過去もない。働く意欲と時代を先取りする意思という〈いま〉があるだけだった。こういう場で、今だけのために、額に汗水流して働くことが出来ることだけが、きちにとっては、まことに有難いことだった。
横浜は街だ。村ではない。隣の者が何物かも分からない。閉鎖的な下田とは、何もかもが違う。良くも悪くも、様々な意味で、これまでの日本にはない新しい街だった。
横浜開港までの経緯は、幕府のなかでも変転の末の、しかし、なるべくして辿り着いたものだった。ペリーが上陸したからというだけの、安易な理由ではない。鎌倉時代以来の神奈川湊こそ、開港先にいいのでは、という意見だった。
「幕府百年の計のためには、あたらしい港を望むべし」
こう進言したのは、岩瀬忠震だ。
「下田では遠すぎる。神奈川では江戸に近すぎる。横浜から陸路で江戸入りすることを限定すれば、幕府にとっても目が届く好立地となる」
そんな都合のいいものかと、訝しがる者も少なくない。が、結局は、この言を入れて横浜の新地開発が始まった。しかし、功績者である岩瀬忠震は左遷により幕政の重きにはいない。結果的に旨味は後進のものとなった。
荒くれ者の多い普請場は、下田の漁師小屋にどこか似ていた。きちは些かも臆さない。
「あんた、いい度胸だ」
宿屋の女将はきちを可愛がった。
ゼロから興る普請場も、その作業が終われば祭りの仕舞いにも似た寂しさを纏い活気も失せる。この宿屋も、店を畳まなければならない。
(また仕事を探さなきゃならないな)
伝手もなければ宛てもない。探すならば、誰よりも早くに滑り込む必要がある。早々に宿屋を辞そう。
そう思った矢先のことだ。
「あんた、行く宛ないんだろ」
女将が、声を掛けた。
「次の仕事を探そうと思います」
「だったら、丁度いい。行く宛てがないなら、一緒に来な」
「ありがとうございます」
使用人の中で眼鏡にかなうのはきち一人だと、女将は笑った。こういう商売人にとって、きちの過去など、どうでもいいことだ。女将はそういう性分だった。
安政六年、世の中は横浜の活気とは裏腹の様にある。
安政の大獄。大仰な呼び名であるが、実は幕府内の報復人事と敵対関与者への仕置という、庶民的にはくだらないものであることを心にお留め頂きたい。
井伊直弼は専制君主ではない。卓見の盟主だ。田沼意次同様、後世の政敵側が脚色して悪党に塗り替えられた人物である。それ程の人物とでも云えようか。
安政の大獄の原点は、将軍継承の政争にある。
一橋派と紀州派。
ようは徳川家定に子がなく、それを望めぬゆえの養子。白羽の矢が立った二人の候補を巡り幕府内の対立が生じた。井伊直弼は筋目を重んじ、御三家のひとつ紀州家を立てた。しかし攘夷革命を好む者が担いだのが一橋家。御三卿の家であるが、当主・慶喜は水戸の徳川斉昭の子。
将軍家相続の筋目。
開港。
朝廷による無知の騒乱防止。
すべては平和路線である。井伊直弼は感情を別として、旧阿部路線の利点を継承したといえよう。
優秀な人材が安政の大獄で失われたという。たしかに優秀な者もいる。しかし法に照らせば罰せざるを得ない。橋本左内は一橋擁立の攘夷派だった。岩瀬忠震を信奉する開明的な思想を生かせなかった。それだけだ。吉田松陰に至っては、博識と裏腹に奇行が祟った。直情的で和を為せぬ部分があった。大老を殺すつもりだと口走ったため、獄門に処された。松陰のいいところもあるが、多くは井伊直弼を貶めるための、無理な神格化であることは否めない。
安政の大獄を悪政と後世に伝えたものは、華美禁止で閉塞感の在った天保の改革のような印象操作の部分が大きいだろう。反開国者のようにも脚色された筋書きも稀にある。
が、阿部時代に登用された勝海舟は一切の影響はない。勝の推薦者である大久保一翁は左遷されたが、これは一橋を推した報復人事だ。井伊直弼が矮小な器なら、勝にも影響があって然るべき。
この点をみるに、安政の大獄とは、反対の立場にいる者が誇張しただけに過ぎぬことである。それだけのことだった。
東海道筋の芝生村から横浜関内に至る新道を横浜道という。開港普請が終われば、多くの宿は店を畳む。
きちを雇う女将は先見の明があるようで、これからは海外貿易による往還が、この街道を賑わせると考えた。そこで二束三文の土地を野毛山に先行投資し、街道普請に併せて茶店を設けた。
「宿を畳んだら、こちらに移って商売をする。きちも、よろしく頼むよ」
「はい」
ありがたいことだと、きちは感謝した。
三月から六月の突貫工事で竣工した横浜道。野毛山を切通にして、茶店の場も申し分ない。後世、掃部山と呼ばれる山も近いが、この謂れは横浜開港の功績者として井伊掃部頭直弼の功績を讃えてのことというから、政治と庶民は、不一致なものだといえよう。
安政六年(1859)六月二日。横浜は開港した。
開港に先立ち、幕府は諸国へ横浜への出店を奨励する御触を発した。一旗揚げようと息を上げる大店や江戸湾内の廻船問屋その他の商人が夢をみた。
しかし、ハリスとの条約時、諸大名に触れた輸出品の開発など、どこも不十分、果たして何が売れるものかと、商人は思案の挙句、何でもいいからと持ち込んだ。
日本のシルクが評価された瞬間がここにある。
横浜最初の生糸取引は六月二八日。元町の芝屋清三郎の店に中国人通辞を連れたイギリス人イソリキがきた。生糸五俵を取引したのだ。売れたのは、甲州産である。
「外国人は生糸に興味がある」
この風聞が、生糸ブームの火付け役となった。
極東在勤のベテランとしての手腕を買われたサー・ラザフォード・オールコックが日英修好通商条約の批准書交換を主に置いた格好で駐日総領事として来日したのは、この頃のことである。
清国の腐敗堕落を目にしていたオールコックにとって、日本は軽視すべき極東の島国に過ぎない。
が、その先入観は誤りと気付いた。
後年、オールコックは、かく記す。
このよく耕された谷間の土地で、人々が、
幸せに満ちた良い暮らしをしているのを
見ると、これが圧政に苦しみ過酷な税金
を取り立てられて苦しんでいる場所だと
はとても信じられない。
ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向
きの良い農民はいないし、またこれほど
穏やかで実りの多い土地もないと思う。
(『大君の都』より)
日本を軽視する者、搾取の種とする者、技術力の高さに称賛する者、清潔な国民性を驚く者。開かれた窓から見える日本を、諸外国の個々の感性は十人十色で観察し、少なくともこれまでのアジアとは異なる高度な文化水準を彼らは知った。開いた港に驚いたのは、迎えた日本人だけではないのである。
その時点で日本人を深く理解していたハリスは、諸外国に先んじる存在だった。
三
六月八日。ハリスは香港より江戸へと至り、公使館である善福寺に入った。諸外国の公使は、日本に通じるハリスを頼り、一々と挨拶にきた。諸外国は日本という国の表面だけしか知らぬ者も多かった。ハリスはそのことに厳しかった。日本に失礼な言動を用いる公使に対しては容赦しなかった。
「何を偉そうに」
反発する国もあった。が、ハリスの厳しさには、命にかかわる訓戒の意も含まれている。
「サムライを侮れば、死ぬ」
アメリカの横浜領事館は本覺寺に設けられた。領事ドールを支える通訳は、上海でハリスに採用されたジョセフ・ヒコ。彼はあの浜田彦蔵である。アメリカへ渡り洗礼し、国籍を取得した。だから人種は日本人でありながら、国籍はアメリカという表現が正しい。
「讃岐の生まれだきん、お江戸に近いところは不慣れや。言葉くらいしかお役に立てません」
讃岐言葉丸出しのジョセフ・ヒコは、臆せぬ笑みでドールをみた。ドールにとっては、このような男でさえ頼らねばならない不安が渦巻いていた。
ジョセフ・ヒコはかつて、オールコックに通訳を売り込んだことがある。しかし彼は日本を軽視していた。
「汚い猿め、阿片でも吸わせてやろうか」
といい、門前払いにした。東洋人はみな同じだという選民思想もあったのだろう。
日本の通訳に東洋人の力は頼りたくない。ただそれだけの理由で、ジョセフ・ヒコは採用されなかった。そのジョセフ・ヒコがアメリカ領事館にいると知ったオールコックは、隣の芝生の青さを感じたように、あいつは使えた人材だったのかも知れぬと、その失敗を大いに反省した。これはオールコック個人の失敗ではない。イギリス本国が、すべてにおいて、日本を誤解していた。それは総じて〈軽視〉といってよい感情だ。
イギリスだけではない。ハリスを除けば、アメリカから来た者とて総てが日本を理解している訳でもないのだ。
無理のないことだ。
開港直後の横浜は、一獲千金を狙うヤマ師の群がるフロンティアにも似た熱気に包まれていた。例えるなら、ゴールドラッシュを夢見る得体のしれぬ連中を惹きつける魅力。新規マーケットという野望。そのためには手荒なことも許されるという、アジア植民地の前例もあった。
好奇心旺盛な異人は、日本人を甘く見ていた。
「黄色い猿の都合に、どうして合わせるというのだ」
不服を持つ者もいた。遊歩区域という原則はあるものの、日本人のすべてが温厚で友好的ではない。
日本人は温厚だ。
温厚な者が怒るときほど、始末の悪い者はない。
それよりもサムライには気をつけることだ。この自戒は日本で生きていく上で、忘れてはいけないことだった。
そのことを最初に体験したのが、ロシアだった。
ロシア使節ムラビヨフの艦隊乗組であるローマン・モフェト海軍少佐と水兵イワン・ソコロフは、コックを伴い青物屋徳三郎方で食料品の購入を済ませ、店外にて攘夷された。
オールコックは日本人の凶暴な一面を知らない。
「中華を占領したように、これを口実に国を盗れる」
と、ロシア人を煽った。そのうえでお零れを頂く算段だ。
サムライはスイッチが入れば、最凶の戦士として、死ぬまで戦闘を止めぬ恐ろしさを持つ。オールコックの無知といえた。
「幕府に抗議し賠償を求めたし!」
日本に遅れてやってきたイギリスは、サムライなどは宣教師が伝導した時代の遺物くらいにしか思っていない。しかし、誤解だ。人を斬る技に卓越したサムライという生き物は、今なお日本に存在している。技も昇華して、斬る決断をしたならば躊躇いもなく凶刃を奮うのだ。
ロシアはアメリカと異なり、日本とは百年の交渉を重ねてきた。サムライの平素と戦時の格差を知っていた。そして、開港を抉じ開けた以上、反感を持つサムライに留意する必要がある。この海軍少尉は、注意を怠ったに過ぎない。ロシア使節ムラビヨフの思惟は、慎重だった。
「馬鹿げてる。これを口実に、賠償も土地も何もかも取り上げてしまえばいいのに」
清国ならばとっくに弱みに付け込めるのにと、オールコックは侮蔑した。
「ロシアはイギリスとは違う」
「何が違う」
「人を騙して侵略する恥知らずではない」
オールコックは言葉を失った。そして、諸国はアヘン戦争の大義名分を蔑んでいることを、思い知らされた。
横浜開港最初の攘夷。ローマン・モフェトとイワン・ソコロフは死亡し、コックは重傷を負った。七月二七日の出来事だった。神奈川奉行・水野忠徳が本件の責任者となったが、対応を部下に丸投げする無責任な態度を諸外国から批判された。そのため外国奉行をすぐに解任された。死者の丁重な埋葬と、開港地の永久管理、ロシア側の要求に幕府は応じ、謝辞した。日露両国の優しい対応は、諸外国を戸惑わせるのみならず、攘夷派のサムライたちを増長させる結果となった。
ローマン・モフェトとイワン・ソコロフ、両名は現在、横浜外国人墓地22区(元町側通用門/ルゥーリー記念門付近)に葬られている。
江戸元麻布の善福寺に設けられたアメリカ公使館。ハリスは諸外国との応対で忙しい。このときヒュースケン付で公使館に属した桜田久之助は、かつての絵の師である狩野菫川から至急の呼び出しを受けていた。
「宮仕えなんですがねえ、私は」
「こっちもだよ」
「何なんです、師匠」
「こないだ千代田のお城が焼けたのは、お前も知ってるだろう。再建にあたりお城の襖絵を狩野派が負うこととなった。しかし、どうにも手が足りないのだ。お前、手伝え!」
「困ります」
「そうだ、こっちも困る」
「見逃して下さいよ。こちとら門人じゃなくなったんですから」
「そこを曲げて頼んでいるんだよ」
「そんな横暴、命令じゃないですか」
「そうだ、命令だ」
これじゃあ、埒が明かない。第一、外国の公使館に籍を置く者を用いることは、攘夷派を刺激しかねない。なにより仕事を掛け持ちすることなど、出来るものではなかった。
結局、絵の御用が優先されるものとして、そちらに専念するため桜田久之助はヒュースケンのもとを泣く泣く辞した。
「とんだ迷惑だぜ」
悪態を繰り返しながら、桜田久之助は狩野菫川を手伝うことになった。
世に無駄なことはない。
手に職を付けた者の誠意には天が応える。このとき奮起した甲斐あって、桜田久之助は百両の報酬を手にした。
「こんだけあれば、やり直せる」
これを元手に横浜へ向かった桜田久之助の運命は、前途が開けた。下岡蓮杖という写真家への第一歩は、フロンティアの地・横浜から始まる。
青雲の志を胸に横浜道を歩く桜田久之助と、野毛山の茶屋で働くきち。運命はふたりを交差させるだけだった。お互い名前も顔も知らぬ同郷者同士、仮に目があったところで、ただのそれきりに過ぎない。
桜田久之助が横浜へ向かったのは安政六年の暮れ。その頃のハリスは、来月に迎える遣米使節団の協議のため、毎日のように堀織部正利煕・村垣淡路守範正・永井玄蕃頭尚志と顔を合わせた。日米修好通商条約の批准書交換が目的だ。アメリカ領事館との連携もあり、毎日のように文書が往還される。機密文書である以上、飛脚には託せないこともあり、公館付の日本人がこれを請け負った。
このときヒュースケンに関する由々しき事態が生じた。
悪い癖だ。
横浜の遊女屋に年季奉公として出された筈の麻布坂下町久次郎の娘・つるを七月に手元へ置いた。よほどお気に入りなのか、遂に、つるを孕ませたのである。
下田時代から外国奉行を悩ませた問題がある。
「看護人の月経が止む事態に処すること」
すなわち懐妊だ。下田では事なきを得たが、よりによって、ヒュースケンは江戸でやらかしてくれた。
「子は混血」
このことは、世間に知られると面倒である。開港早々、異人が女を漁っているという風評に繋がる。認知すれば、攘夷を騙る者がさらに凶刃を振るうかもしれないし、大衆は彼らを支持しよう。
「よりによって」
一番憤慨したのは、ハリスだった。
あれほど云い含めたのに、女のことで国家としての信頼を大きく左右される。しなくてもいい面倒を、ハレンチなオランダ野郎が、勝手に持ち上げてくれたのだ。しかも遣米使節を一ヶ月前に控えた重要な時期に。
「忌々しいオランダ野郎め!」
公にすることは出来ない。
ハリスは滝蔵と助蔵を招くと
「神奈川奉行へ、直々に」
と、密書を託し、使いを依頼した。既に念押しのため、飛脚を以て、神奈川奉行に滝蔵と助蔵なる使いが赴くことを知らせている。
「もう、知っているよな」
助蔵はヒュースケン付だから、ハリスの云いたいことは理解していた。日本の国民感情が妙なことになれば、公使としてのハリスの立場すらない。開港して間もないこの時期、諸外国にも迷惑をかけてしまう。
「このこと、闇のうちに処理したいのだと、よくよく伝えて欲しい。件の子供は、余が責任を以て対処し、世に知られぬよう穏便に処するものである」
ヒュースケンを解雇したいが、いま、この押し迫る時期に、それも叶わないことだ。ハリスは辛そうに呟いた。
元麻布から横浜までの行程は、山の手から品川宿へ下り東海道を下るのが早い。少し下って見上げると、善福寺の大銀杏がまだ見える。
「五〇〇年以上の銀杏だってな、あれ」
助蔵が呟いた。
「五〇〇年も昔って、見当もつかないや」
滝蔵も呟いた。
善福寺の大銀杏、正しくは浄土真宗の開祖・親鸞が杖を挿したら芽吹いたという伝説がある。お寺のことに疎い若者たちにとっては、それが凄いかどうかも分からないこと。今は、分を弁えぬ身の上で神奈川奉行に会うことこそ、気が重い。
「ありのままを話していい、責任は余にある」
ハリスはそういう。
しかし、ドールから罵倒されるか厭味を云われるか、面と晒されるのは二人である。これは、辛い役目だ。
「さっさと片付けて、横浜見学でもしようじゃないか」
「ああ、そうだな」
この日は領事館に泊まり、衣服を整え明日に神奈川奉行所へ出頭、翌日起つ予定だから、横浜見物の時間は十分ある。領事館のある本覺寺は神奈川宿にある。かの有名な『東海道中膝栗毛』には
爰は片側に茶店軒をならべ、いずれも座
敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたし
て、浪うちぎはの景色いたってよし
と記される。
本覺寺を神奈川湊の見下ろせる景勝地と評した。が、滝蔵と助蔵にはそのような情緒など微塵も感じる余裕はなかった。
神奈川奉行所は戸部村宮ヶ崎に奉行役所を置く。滝蔵と助蔵は朝一番で出頭した。出頭は、領事ドールと通訳のジョセフ・ヒコも一緒だ。ドールはひととおりの釈明をし、ジョセフ・ヒコが通訳した。それを補足するように、村山滝蔵がハリスの言葉を伝えた。
「日本人なのに、いちいちご苦労だな」
輪番で応じるのは、来月、遣米使節に参加する村垣淡路守範正だ。プチャーチンの頃に下田へ赴任していたこともあり、軍艦奉行に今年配された井上清直から若い二人がハリス付だと聞いてはいた。
「アメリカ公使館で不始末を処するとのこと。何卒、事を穏便に」
「通訳はオランダ人だったか」
「はい」
「ハリスも不運だったな」
日本とて、攘夷の浪人には手を焼いている。悪戯に騒ぎを大きくしたくない。
「で」
「はい」
「生まれた赤子はどうするのだろうか」
ドールは、殺すと明言した。それを、滝蔵が制した。
「公使はそこまで明言していません」
ドールが睨んでも、滝蔵は殺す意思は別だと強く主張した。ただ処するという意思だと、重ねて訴えた。
「母子ともに口を封じるのは簡単だ。しかし、後味が悪い」
「はい」
「じきに解雇するのなら、母子ともどもオランダ人と国外に出すのがいい。子には親は選べぬ。不憫なことだ」
「御配慮、ありがとうございます」
村垣範正は二人の面相に、微笑んだ。二人とも、いい仕事をする相だ。これからの時代は、能ある若者が頭角を現すだろう。
「いつか、お前らも海を渡れるといいな」
つい、言葉をかけた。
「そんな日がくるでしょうか」
「我らだって行けるのだ。あり得ない話じゃないだろう」
村垣範正は木村摂津守喜毅と親しい。よって頭脳は堅物な幕閣よりは、些か軟らかい方だ。輪番が村垣範正だったのは、二人の幸運といってよい。
ドールは馬車で先に帰った。
ジョセフ・ヒコが、二人を横浜に案内した。このときの横浜は多国籍の湊だ。しかし、長崎よりも落ち着かないカオスであった。
「国際的な港は、たいがい暗黒街や秘密結社が出来る。そういうものが、綺麗事ではない面から治安を保つんだよ」
海外を知るジョセフ・ヒコの言葉は、説得力があった。
「長崎も?」
「ああ」
じきに横浜も落ち着く。その頃には、表に出来ない何かしらの結社が出来上がっているはずだ。
「そんなものかな」
「下田には、そんなことなかったのか?」
「いや、わからなかった」
「きっと、あったと思うよ」
「下田は明け透けな土地だし、みんな正直だけど、余所者がくれば直ぐに広まっちまう。うん、田舎だった」
だから下田は闇の面で適合せず、引き払われたのだろうと、ジョセフ・ヒコは呟いた。
みろよと、ジョセフ・ヒコは玉楠を指した。
あの木の下でペリーが調印したのだと告げると、滝蔵と助蔵は、しげしげと玉楠を見上げた。
「ペリーが来たときは、俺たちもまだ子供だったなあ」
横浜は若い湊町だった。
きちを雇う女将は、もともと神奈川宿の料亭下田屋の仲居頭で、その槍手を買われて横浜の普請宿を任された。野毛山の茶店もその一環だ。その女将からみても、きちの働きぶりは感心するところが大きい。
「おまえさえよければ、大女将に会わせてもいい」
下田屋できちんと働かないかという誘いだ。滅多にある話ではない。
「よろしくお願いします」
働いているときだけは、郷里でのことを忘れられる。それに、拾って貰った恩をもっと返したい。屋号が下田でも、そんなことはどうでもいい。
下田屋は江戸初期に創業された老舗の腰掛茶屋・さくら屋が前身である。広重の浮世絵にもさくら屋が描かれた。それほどの老舗茶屋だった。安政年間、下田屋は遠州屋嘉兵衛が経営する旅籠に成長していた。人手は欲しいが、誰でもという訳にはいかぬ。大女将・くには、きちのことが気に入った。嘉兵衛も納得のうえで、師走に入ると下田屋で働き出していた。
アメリカ領事館のある本覺寺と下田屋は道を一度折れるだけでおよそ三町(300m程)離れるに過ぎず。本覺寺住職と嘉兵衛は親しい。
「アメリカさんのために、本堂も真っ白に何かで塗られてしまった」
領事館だからと、すべて白ペンキを塗られたのである。そういう愚痴もいえる間柄だった。遠州屋嘉兵衛も開港時、横浜に伊万里を扱う肥前屋を開店させたが、貨幣の交換比率の不正を定めるために設けた罪を負った。この当時は、誰もが、叩けば誇りの出る身の上である。
その夜、ジョセフ・ヒコの計らいで、滝蔵と助蔵に一席設けられた。といっても、三人だけである。
「ドールは肝が小さいからいけない。江戸に帰ったら調子のいいことをハリスに云って、どうにかドールに花を持たせてやれ。子供を助けて欲しいと漢気をみせたことにしといてやれば、ハリスから褒められるだろう。あいつ、きっと機嫌が直る」
滝蔵はでしゃばった。ヒュースケンが孕ませた子供を殺すといったドールを、つい、滝蔵が制した。
「俺には、なんの権限などないのに」
でも、黙っていられなかった。だから、とっさに口を出した。これでは、領事の面目は丸潰れだ。
「ああ、俺はやはり嫌われたんだな」
「かまうものか。あいつ、だれ彼かまわず日本人のことを軽く見ているんだぜ」
宴の場は、下田屋だった。名前だけでも懐かしい気持ちになるだろうと、ジョセフ・ヒコが気を使ったのだ。
「ここの親父も癖者だけど、世の中を綺麗に回すのは、そういう奴だよ」
「さっきの、暗黒街とかいう話か?」
助蔵はそういう話に興味があった。ヒュースケンはハリスの目を盗んで女を漁り、そのため助蔵が痛い目に遭うこともある。こういうことを知れば、対処法があるに違いない。
「やめとけ、そういう闇には、触らぬ神に祟りなしだぜ」
「そうかな」
「そうさ」
「そうだな、分かった」
「それよりも、そのヒュースケンという奴。このままでは、殺されるぞ」
「誰に」
「世の中だ」
どういう意味だと、助蔵は質した。公使館の空気、江戸の空気、時代の空気、それに逆らう奴は誰かが執行者となって、世の中に成り代わり処断に転ずる。そういうものなのだ。
「いいか、赤子を生んだら、女ともどもヒュースケンをここへ連れてこい。すぐに日本から離れるんだ」
「逃がすのか」
「それしかないよ」
どれくらい経っただろう。
ジョセフ・ヒコは酒が弱く、厠に行ったきり戻らない。助蔵はとっくに潰れている。滝蔵は酔うに酔えず、ちびちびと残る酒を集めていた。
「お客さん、空いた膳を片付けますよ」
襖から声がした。
「おねがいします」
滝蔵は乾いた声で、そちらをみた。襖が開いた。仲居がひとり、いた。
「……き、ち?」
滝蔵は目を丸くした。
「どうかしたのかい、きち」
声が響いた。
「いえ、すぐに片づけます」
きちは襖を閉めて、潰れている助蔵を一瞥した。
「あんたたち、どうしてここへ」
きちは滝蔵にここに来た理由を質した。
「いや、おれ、江戸のアメリカ公使館で働いている。助蔵もだ」
「あのハリスとかいう人のところ?」
「おれ、お願いしたんだ。ハリス旦那も、あのときはひどい仕打ちをしたと反省している。もしもよかったら、今度こそちゃんと雇いたいって」
「いいわよ、もう」
「きち」
空いた皿を集めながら
「私ね、今でもハリスのことを恨んでいるよ」
と、きちは呟いた。ハリスを恨むことで、金に目がくらんで子供を売り飛ばした母親のことを、憎まずにいられるのだ。そうでもしなければ、やってやれないだろう。嚙み殺すような呟きに
「そんなこと」
滝蔵には言葉が見つからなかった。
「母さんのこと、死ぬほど憎んでも、それでどうだというの。だれ彼しらぬハリスって人を恨むことで、少しでも憎い気持ちが和らぐのなら、その方がいいじゃない」
「で、和らいだのか」
「そんなこと、あるわけないよ!」
きちは、乱れそうな感情を必死で堪えた。
「ごめん、滝蔵。江戸には行けない」
滝蔵には言葉もなかった。
そのときだ。
階下で悲鳴が上がった。何かしらの事件のためか、捕り方が、下田屋へ踏み込んだのである。どうやら狙いは、主人の遠州屋嘉兵衛らしい。昔の脛はいつになっても消えぬものである。この日、客も従業員も、みな捕えられた。
ジョセフ・ヒコも助蔵も酔い潰れている間に牢へぶち込まれた。滝蔵は逆らわなかった。二本差しでも、特に武芸をしている訳ではない。争えば負けるのは分かっていた。
「なんか、寒いな」
ジョセフ・ヒコは牢内で目が覚めた。大した根性だ。
「ここ、牢屋か?」
助蔵は心細げだった。
「じきにドールが何とかするさ。しかし、あいつ、また怒り狂うんだろうな。まいっちゃうぜ」
翌日、三人はアメリカ領事館からの裏付で釈放された。翌朝、江戸へ発つときになっても、下田屋の者は釈放されていなかった。
「従業員のきちという女、顔見知りだ。下田屋に帰ってきたなら、連絡先を聞いておいて欲しい」
滝蔵の依頼に、ジョセフ・ヒコは頷いた。
二人が元麻布に着いたのは夕方だった。ハリスへ母子のことを報告すると
「ドールはそんなことを云わない。お前、つまらぬ気を利かせたつもりか」
「余計なことをしました」
「いや、よく云ってくれた。子供には罪などないのだ」
出産ののちにヒュースケンの身の振りを考えると、ハリスは頷いた。ドールに宛て、滝蔵が子を殺せといったのを制止してくれて有難うと、真逆の文書を発するケアも、ハリスを忘れなかった。領事館の空気も、これで少しは柔らかくなるだろう。
年の瀬が近づくにつれ、ハリスが老中のもとへ足を運ぶ回数も増えた。滝蔵も助蔵も、駕籠へ添うように随行した。
あの日、きちに会ったことも、ハリスを憎んでいることも、ハリスには報告できていない。
(どう云えばいいのか)
全く分からない。
ジョセフ・ヒコの報せで、下田屋はかなりの金銭を支払うことで許されたらしい。きちはまだ下田屋にいるが、口を利いてくれないという。
(いいさ)
そこにいると分かっただけで、滝蔵は充分だった。
サムライ、海を渡る
一
安政七年(1860)正月、アメリカ公使館は新年を迎えた歓びを忘れ、あと半月に控えた遣米使節の調整事務で、上へ下へと大わらわだった。幕府のお偉い方が善福寺に参じ、御付の若い者も神妙に従った。この若者たちも、遣米使節で海を渡る者たちだ。
「公使付給仕の者は、遣米の船には乗れないのかい」
屈託ない笑みで尋ねるのは、一七歳の立石斧次郎教之だ。
「斧次郎殿の物云いは、いつも突然だな」
「だって、お前らだって、メリケンには行ってみたいだろう?」
立石斧次郎は、下田で過ごした経験がある。ハリスが下田にきたとき、叔父の立石得十郎が英語に着目し、ハリスの近くにと連れて来られたのだ。滝蔵と助蔵とは、そのときから顔見知りである。
筋がいいものか、斧次郎はすぐに英語のコツをつかんだ。
その後、長崎海軍伝習所で一年学び、神奈川運上所通弁見習に就任、通辞である叔父・得十郎の養子となって、遣米使節同行を許されたという訳だ。
「俺たちはハリス旦那の傍で働くのが仕事だから、海の向こうなんて、行けるわけない」
助蔵が呟いた。
善福寺はアメリカ公使館だが、先見性のある若い日本人が語学を学ぶため住込みでやってくる。下田に立石斧次郎が来たのと同じ理由だった。通弁御用で住み込んだ益田徳之進は一二歳。滝蔵と助蔵もたじろぐ、熱心な少年だ。
「おれ、いつか異国を観る」
これが口癖の徳之進、のちに三井物産の創設者となる益田孝の若き日の姿である。
遣米使節は、正使がアメリカ軍監ポーハタン号に乗船する。もう一隻、難破に備えた護衛艦として、日本がオランダに発注した蒸気船〈咸臨丸〉が随行するという。
「で、斧次郎殿はどちらに乗るので」
「ポーハタンだよ」
「赤筋ポーハタンか」
「なんだい、それ」
「下田で流行した言葉さ。船体に赤筋があるのさ」
面白いことをいうと、斧次郎は笑った。
日米修好通商条約第十四条にこうある。
条約批准のために日本使節団がワシント
ンを訪問するが、何らかの理由で批准が
遅れた場合でも、条約は指定日から有効となる。
これは交渉当時の日本側委員の提案によるもの。すなわち岩瀬忠震の意図が反映されていた。しかし、井伊直弼により失脚した岩瀬忠震に、その出番はない。それでも幕府は条約の規定に従い、遣米使節を送る必要がある。
この人選は、決してハリスの得心するところではない。最初の交渉があまりにも完璧かつ高潔だったことから、それに携わる人物を期待した。しかし日本は攘夷と開国を巡る将軍後継者問題に振り回され、多くの人物が左遷若しくは失脚した。それらは優秀な人材だったがゆえ、後任者の質は低く自分本位、ハリスに対する接し方すら誠意を逸した。
「条約調印以来それにかかわった要人は左遷された。いまは余に不敬な態度をとる者を使者に立てようとは、如何な了見だ」
ハリスの追及に、老中・脇坂安宅は
「国内のこと、干渉不要」
と取り合おうとしなかった。そういう状況での調整は、決して穏便に組み立てられるものではない。
「滝蔵、使いを頼む」
「どちらへ」
「氷川神社のあたりにいる、安房守という男に手紙を持って行ってくれ」
「ああ、軍艦操練所教授方頭取の勝様のことですね」
ハリスの手紙を持参し、滝蔵が勝安房守の屋敷を訪れたのはその日の昼過ぎだった。
「待たせたね、おいらも一応忙しいんでね」
勝安房守は肩書きに似合わぬ、べらんめえ口調で、滝蔵の前に現れた。
「で、おめえさんはハリスの手紙に何が書いてあるか、知っているのかい」
「いえ」
「だろうな、涼しい面してるもんな」
些かムッとしないでもない。何が書いてあるのか、滝蔵は伺った。
「おめえと、おめえの連れのことが書いてあるよ」
「はい?」
「遣米使節の乗船者に空きがあれば乗せてくれろというんだ。こちとら、遊覧船じゃねえんだぜ」
ハリスが、滝蔵と助蔵のために、考えていたのだ。ひょっとしたら、立石斧次郎との話を聞かれたのかもしれない。
「勝様、いまの話」
「ああ、今となったら難しいだろうさ。だいたいポーハタンは知らねえが、咸臨丸は日本人が操艦するんだよ。足手纏いは御免だ。すまねえがハリスには、よく云っといてくれろ」
立ち上がった勝安房守は、それきり振り返ることなく退室した。あっという間のことだった。
「そうか、駄目だったか。お前たちには世界を見てきて欲しかった。残念だ」
ハリスは落胆した。
最高な形で江戸調印ができたのに、しこりの残るワシントン調印となるかも知れない。そんな不安でいっぱいだった。ハリスが何を不安に覚えていたのか、滝蔵たちには理解できなかった。
ヒュースケンの不誠実さは、性に関することに限られていた。とにかく、若い日本の女が好きで堪らなかった。性癖というよりも、一種の病気かも知れない。
いま、つるを孕ませた。
これが国際問題になるものかと、ハリスが気を揉んだところで、ムラムラすると本人はさっぱり忘れてしまう。
芝浦の船頭松蔵の娘・さと。ヒュースケンが狙っていると判明すると、さとの身柄はただちに保護された。
「チャンスは、まだある」
ヒュースケンは、この娘に手を出す機会を狙っていた。愛妾が孕んでいるそのときに、もう外の女を物色しているのである。
「おい、オランダ野郎。いい加減にしろよ」
ハリスはヒュースケンを叱責した。全く懲りていないのかと、罵声すら浴びせた。
「私は若い。仕方がない」
「ならば公的な立場を辞してから、そういうことをすればいい。今すぐ通辞を辞職しろ」
と、ハリスは詰った。そのたびにヒュースケンは詫びを入れる。この繰り返しだ。
「お前、暫く横浜に行ってこい」
ハリスはそういって、江戸から厄介を遠ざけようとした。遣米使節の出向前、患うことばかりだ。
「女の揉め事など、勘弁して欲しい」
「自然なことではないのか」
「お前は異常だ」
一八日まで領事館の書類整理を手伝うよう命じられたヒュースケンが、おとなしくしている筈がない。隙をみては横浜港へ出て、岩亀楼で女郎遊びに興じた。そうだ、これはもう、病気なのである。領事館周辺でも徘徊した。下田屋で働くきちとヒュースケンが顔を合わせるのは、時間の問題だった。
「ああ、貴女。下田で知っていた。公使のところにいたヒト、おきちさあん」
ヒュースケンはきちを覚えていた。ふくを寵愛したものの、きちも一緒に慰み者にしたいと、当時のヒュースケンは思っていた。そのきちが、ここにいる。
「おきちさあん、ふくのこと忘れたい。優しくします」
何をいっているのだ、気持ち悪いと、きちは思った。
店の者が出てきて、きちを奥へ匿った。ヒュースケンの行動が神奈川宿の話題になりそうだと、領事館はハリスに引き取りを要請した。受け取ったハリスは、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした。
滝蔵と助蔵は引き取りの使いを任された。
神奈川宿に着くと、ドールが激しい口調で英語を捲し立てた。
「ハリスに云っておけ。合衆国に泥を塗るつもりか!」
ああ、怒っているのだなと、二人は思った。
ヒュースケンは神妙だった。
「助蔵、私は何が悪い。美しいと思うから、ヤパンセ(日本の娘)を愛しているだけだ」
助蔵は頭を振った。
ヒュースケンは何か思い違いをしている。日本はすべてにおいて異人を受け容れた訳ではない。困ったときの愛想笑いさえ、彼は好意と受け止めている。
「斬られるぞ、ヒュースケン」
「どうして、私、わるくない」
「郷に入っては郷に従え。日本の言葉だ。ハリス旦那はこれを理解しているよ。でもヒュースケンは理解していない」
「わからないよ、わからない」
もともとヒュースケンは文化人ではない。石鹸職人の息子で、アメリカンドリームを夢見た移住者だ。オランダ人のコミュニティで低所得の仕事を転々とするだけの日々、たまたま求人で知った通辞の仕事に飛びついただけで、そこに国交や国家という重い圧があると意識していない。採用したハリスが、たまたま商人だから目が出ただけのこと。志のないヒュースケンにとって、日本は楽園過ぎたのだ。
顧みれば、まともな外交官従者が
「看護人を」
と呼びかけて、それを口実に妾を取り換え弄ぶ様など、あってはならないことだ。そんなデタラメが、たまたま下田という田舎だったから成立した。そしてここは江戸であり横浜、アメリカのなさり様を世界が注目している。
ヒュースケンには、その意識がない。
「日本に来て下男を雇った。馬も手に入れた。アメリカンドリームだ。次は姫にも結婚を申し込めるだろう。植民地の王も夢ではない」
それくらいの認識なのだ。
「ヒュースケン、日本では好き勝手したら命取りだ。ハリス旦那はいつも云っているだろう」
「おきちさんに求愛したくらいで大袈裟だ」
助蔵は怪訝そうに、滝蔵をみた。
「下田屋の騒ぎは、それが原因か?」
「つるは懐妊だ。男は我慢できない。さとからも引き離された。おきちさんに求愛して、何が悪い」
どうしようもない色ボケだ。
滝蔵は、二本差しを置いた。丸腰になったうえで
「歯ぁ食いしばれ!」
渾身の力でヒュースケンを殴り飛ばした。
ドールは、呆気に取られて立ち尽くした。
この男のために、きちは家族が壊された。ハリスほどの高潔さもない匹夫は、これまでも、そしてこれからも、多くの日本人の家族を壊していく気がしてならない。
いや、見ず知らずの家族など、どうでもいい。きちの運命を壊したのは、ヒュースケンのくだらぬ性癖のためだった。それだけは断言できた。
「何する、滝蔵」
「殺されないだけ、我慢しろよ」
「何だって」
「俺だって、お前を許していない」
同郷の者の悲しみは、観ているだけでも辛いのだ。
「もういい、わかった」
ジョセフ・ヒコが割って入った。そして、ポカンとしているドールをみた。
「ハリスは、どうしようもない通辞を雇ったらしい」
ジョセフ・ヒコはドールにそう説明した。
「とにかく迷惑だ、江戸へ連れて行ってくれ」
ドールは捲し立てた。ただでさえ忙しいのだ。馬鹿馬鹿しいことに関わっている暇はない。
助蔵は丁重に詫びた。
準備することもあり、ヒュースケンは後日、迎えが来ると云うことで話をまとめた。その間、一切の外出を禁じることをドールは明言した。怒りに震えながらも、理性的な処置だった。
遠州屋嘉兵衛の母・くには下田屋の大女将。つまり屋主である嘉兵衛よりも、いざとなれば決定権を持つ女傑といえよう。
「この騒ぎは、客商売でいいことのない印象をばら撒いた。この原因は、どこにあるんだい?」
嘉兵衛は店の者たちの証言により
「メリケンの通辞が、きちに求愛したためだとか」
「きち?どうしてきちなのさ」
「その異人は、きちのことを知っていたようなんです」
「ふ……ん」
くには腕与した。元々きちのことは訳ありだと思っていたが、異人絡みとなれば穏やかではない。大女将として、このことは知っておくべきだと思った。
「きちを呼んでおくれ」
「きちを?」
「こういうことは直に聞くべきだ」
「早速に」
嘉兵衛は立ち上がり、きちを呼んだ。きちは、神妙だ。この騒ぎの原因が自分にある以上、ここから出ていくことこそ最善の解決だと考えていた。
年の功だけではない、洞察は女ならではのものだろう。
「嘉兵衛は席を外しておくれ」
くにが呟いた。
「下田屋の主は私です」
「俺には立ち会う資格がある」
途端、くにが嘉兵衛を張り倒した。
「女でなければ話せないことが、世の中にはたんとある」
「しかし」
「焦れったいねえ。鼻たれ小僧はあっちに行け。そう云っているんだよ。ぶっ殺されたくなきゃあ、さっさと出ていかないか」
この母親の剣幕にかかれば、遠州屋嘉兵衛もたじたじだ。
二人きりになったところで、くには煙管に手を伸ばしながら、じっときちの目を覗き込んだ。
「あんたの昔には興味はなかった。これまでも、詮索する野暮はしたくはない。でも、騒ぎが起きてしまったのだから、店を預かる立場としては、聞かざるを得ない」
「はい」
きちは神妙だ。
煙草をくゆらせながら、くには、ふっと笑った。
「大した女だね。でも、最初に云っておく。身の上を話したから、はい、さようならという訳にはいかないんだよ。あんたには、これからも働いて欲しいのさ」
「そういうわけには」
「野毛山での働きっぷりは、誰もが評価している。ここに来てからも、ちゃんとしているじゃないか。あんたに落ち度はない。それだけは最初に云っておくよ」
きちは、言葉に詰まった。
大女将とは、なんと大きな人間だろう。下田にはいなかった器の人間だ。こういう人間が下田にいたならば、村を捨てて逃げ出すこともなかっただろう。母親がそういう人だったら、どんなによかっただろうか。
「話します」
きちは下田でどう過ごし、ある日、ハリスがやってきて、家族がめちゃめちゃになったことを話した。途中から嗚咽が混じったが、くには黙って最後まで聞いた。
「そうか、らしゃめん呼ばわりか」
随分と下田の男は、惨いことをしたものだ。くには、きちの境遇に理解を示した。
「あんたは、騒ぎの原因なんかじゃない。下田のときのように、被害者だ。頭を下げて詫びるのは、相手の親玉のハリスだろうさ。まあ、直接来られるわけじゃないから、人を使ってでも詫びにくるのが、人の上に立つ者の責任だよ」
きちは、言葉が見つからなかった。追い出されることも十分に覚悟していたのに、お前は悪くないという。悪いのは男だといい、責任者にあるという。そういう考え方など、したこともなかった。
「きちの慰謝料は、下田での手当が相場だね」
「一銭も手にしたことがないので、分かりません」
「相手の気持ち次第さ」
心ある男ならば、異人だろうと誰だろうと、あのときと同じにと思う筈だ。そう思わないような男など、屑だとも吐き捨てた。
「これは店の沽券にも関わる。メリケンが出さないなら、横浜の奉行所に訴える。女の人生は、紙屑ほどに軽くはないのさ」
くには断じた。
本気だろう。
「大女将には感謝の言葉もみつかりません」
「気にしなくていい。あんたはここで雇われる者、雇い主は親も同然だ。当然のことなんだよ」
「しかし」
「恥ずかしいことを、よくも打ち明けてくれた。ありがとう」
くにの言葉に、きちは声を上げて泣いた。
人の真心というものを、きちは初めて触れたような気がした。母親からも、これほどの言葉をかけてもらったことが果たしてあっただろうか。
「屋主、おい屋主。嘉兵衛、いるんだろう。返事しないか」
バタバタと音を立てて、嘉兵衛が駆け込んできた。
「出て行けといいながら、今度は呼びつける。何なのですか、一体……」
その言葉を制して、紙と筆を用意するようくには告げた。そして、江戸のアメリカ公使館へ使いを出すとも口にした。
嘉兵衛はギョッとなった。
「いったい、なぜ?」
「慰謝料をふんだくる」
「はあ?」
「きちも被害者だ。お店の評判も傷つけた。悪いと思うなら、誠意を以て応える。その相手が異人だという訳だよ」
「やめてください。ただでさえ、うちには疚しいところがある。目を付けられているんですよ」
「なら、尚のことさ」
くには賠償のことを簡潔に記し、きちのこともしっかりと記述した。下田時代の汚点を、ハリスがどう処するものか、これは見物である。
くにの使いに発ったのは、結局、遠州屋嘉兵衛だった。人任せにしても、仔細を把握しなければならないし、母親が意に沿わぬ結果になったときの云い訳を考える時間も欲しかった。行く足取りは重かったが、笠を深くかぶり旅に出ることは
「随分と久しいものだ」
と、嘉兵衛は思うのであった。品川宿まで来ると、そこは目的地のようなものだ。
門番にハリス宛ての書状を差し出すと
「すぐにお会いになる」
嘉兵衛は寺の離れに通された。そこにも西洋式の椅子があって、和と洋がアンバランスな状態だった。
「待たせました」
ハリスに随行する滝蔵・助蔵が言葉を発した。
「横浜の下田屋の主でござる」
嘉兵衛から挨拶した。助蔵が通訳する。頷くハリスの表情は強張っているようにも映った。
(そちらが怒るのは筋違いだ)
そう思わぬでない嘉兵衛は、じっとハルスの所作を観察した。その動きは、妙に硬かった。
「このたびのこと、ご迷惑をお掛けました」
滝蔵が明言し、直立不動のハリスが頭を下げた。
これには、遠州屋嘉兵衛も仰天した。メリケンの偉い人が、名もなき男に頭を下げたのだ。こんなこと、日本の役人なら絶対にやらないだろう。
(こいつは、たいした親分だ)
嘉兵衛は言葉を失った。
ハリスが何事かを口にした。異国の言葉だ。滝蔵がそれを聞き、日本の言葉に正した。
「この手紙にあること、早急に手配します。いま直ぐというわけにはいきませんので、後日、私が下田屋さんへお届けします。約束します」
しげしげと、嘉兵衛はハリスをみた。
恐そうに感じた表情であるが、よく見れば、瞳の色はさておき澄んだもので誠実さが漂っていた。嘉兵衛も商人のはしくれ、ああ、この人は商人目線で物事を対処してくれているのだと、直感した。根拠はない、そう感じたのだ。
「ええと」
嘉兵衛は滝蔵をみた。
「うちの大女将もしたたかだが、義理人情には厚い。そちらの偉い人の気持ちは、よく伝えておきましょう」
「ありがとうございます。非は、誤った者を用いている当方にございます。そのこと、ハリス公使も心より悔いているところです」
「君は日本人だね」
「二人とも、きちの同郷です」
「そうか」
ハリスの配慮には、この二人に免じた面も多々あるに違いない。人の上に立つ意味では、この異人には感銘さえ覚えた。
すべてを納得の上で、遠州屋嘉兵衛は横浜へ戻った。
「きちか……全部、オランダ野郎が引っ掻き回した下田のことが、事をここまで大きくしてしまった。全部、私の不徳だ」
ハリスは肩を落とした。
日本人と対等に向き合ってくれるだけでも凄い事なのに、非を認め、これの善処に苦慮する。
(ハリス旦那は、尊敬できる男だ)
滝蔵も助蔵も、心からそう思うのであった。
しかし、嘉兵衛は分からなかった。どうして、ヒュースケンのような男を暇に出さないのか。ハリスにとってはマイナスでしかない男ではないか。
「ハリス旦那も辛いんだ」
そっと呟く助蔵の言葉に、雇用主の葛藤がある。察して欲しいと、助蔵も呟いた。
遠州屋嘉兵衛が辞すと、ハリスは助蔵に質した。通訳を介さずに答えたのは、ヒュースケンをなぜクビにしないのかと聞かれたことだろうと。
「ヤマト言葉、分かるように?」
「バカいうな、日本語は難しい。しかし、今度のこと、突き詰めればヒュースケンを雇った私に問題がある」
「はい」
「私は、あれを野放しには出来ないのだ。日本に連れてきた責任がある。それに、アメリカが手放せば、イギリスあたりが抱え込む。しかしオールコックは打算的で利己主義だ。ヒュースケンが女の問題を起こしても、誠意を以て対処するまい。結果、攘夷の火に油を注ぐ」
そこまで考えて、ヒュースケンという毒を飲み込んでいる。ハリスの度量に、滝蔵も助蔵も感動した。
「ヒュースケンは日本の外へ出す。そこまでが、私の責任だと考えている。二人には余計な苦労をさせるが、勘弁してくれ」
「そんなこと」
小さい事だった。
ハリスの目元には小皺が増えた。ただでさえ難しい日本との国交責任者の重さ。それに加えるヒュースケンの問題。
「ハリス旦那があれほど気を患っているのにさ、きっとあいつは、なんとも思っていないのだろうな」
それがヒュースケンなのだろう。
これまでは、どうでもいい奴と滝蔵は思っていた。今度のことで、滝蔵はすっかりヒュースケンが嫌いになっていた。
遠州屋嘉兵衛は、くににハリスの人間性を伝えた。誠意ある男だとも告げた。
「これだから男は……」
くには苦笑した。
「誠意は、銭だよ」
「慰謝料は払うそうです」
「いつ」
「追って手配すると」
「お顔をみるまでは信じられないねえ」
そう口にしながらも、一方で、くにの手紙に怒りもしなかったハリスの懐深さは大したものだという驚きもある。
(これまで横浜にきた、どの国の役人とも違うのかな)
これが、くにのハリス評だった。
「きちを呼んでおくれ」
「私は人払いで?」
「わかっているじゃないか」
くには、意地悪そうに、それでも明るく微笑んだ。
きちが来ると、ハリスのことを伝えた。
「別に、私はお金が欲しいわけではありません」
きちは、素っ気なく呟いた。
くには、そのことに触れるつもりはない。ただし、相手が誠実な人間であることだけは伝える必要を感じていた。逆恨みも仕方あるまい。が、それだけで救われる者もいるわけがない。
「金はねえ、汚いものだけと云えないんだよ」
ただそれだけを、くには呟いた。
数日後、滝蔵は下田屋へ赴き、ハリスに代わって謝罪した。きちは、滝蔵と会おうとしなかった。ハリスへの感情が悪化したかどうかは、誰も知るところではない。
くにが滝蔵の相手をした。
(正直そうな坊やじゃないか)
くには滝蔵の印象を、好意的に受け止めた。
「おれはきちの同郷者です。辛い想いで国を出たのに、また辛い目に遭わせてしまったことを悔やんでいます。きちのこと、どうかお願いします」
滝蔵は真摯に申し出た。
「あんたは悪い人ではなさそうだ」
くには、滝蔵の手を握りながら
「任せなさい」
と請け負った。
滝蔵はその足でドールを訪れ、身柄の拘束をされているヒュースケンを受け取ると、急ぎ江戸へ引き上げた。
皮肉なものだ。
英語とオランダ語のできる通辞は諸外国にも需要がある。謹慎させたいのに、ヒュースケンは江戸で引っ張りだこである。
「悪い虫が出ないよう、腕づくで取り押さえる猛者を脇に置いておく必要がある」
公使館護衛に雇っているのは、直参旗本深津摂津守の家人も務めた幕臣・江原素六である。昌平黌で学んだ秀才で、講武所に属す文武両道の男だ。
「ヒュースケンに目を光らせる者をつけて欲しい」
ハリスの依頼に、江原素六は腕に覚えある用心棒をつけさせた。実際は護衛ではなく、ヒュースケンを警戒するという、ちぐはぐな任務である。
江原素六、明治になり沼津へ移り住む義侠の男である。
一月七日、イギリス公使館のある東禅寺門前で、公使オールコック付の通訳・小林伝吉が殺害される。攘夷は常に身辺にあることを、楽天主義者であるヒュースケンは自覚していなかった。
二
一月一三日、幕府蒸気船咸臨丸が品川湊を出帆した。軍艦頭取・木村摂津守喜毅が艦の責任者であるが、乗員を統率していたのは副頭取の勝安房守である。何事においても江戸っ子気質で飾り気のない勝は、日本人が単独で臨む大航海にもかかわらず
「ちょいと出てくるよ」
と、近所に散歩へ行くような口調で、玄関から家族に声をかけたと伝わる。
この船には木村喜毅付ということで福沢諭吉が乗船し、克明に船内や外国のことを記録している。美辞麗句的には、日本人最初の太平洋横断だ。しかし、実際にはジョン・マーサー・ブルック海軍大尉以下のアメリカ水兵が介添えし、ほぼ彼らの力で航行したことが伺える。ただし日本人の名誉を付け加えるならば、咸臨丸の帰路は純粋に、日本人だけで操船していた。そのことを申し添えよう。
日米修好通商条約批准書交換の主役は、ポーハタン号に乗る正使だった。咸臨丸の航海は、あくまでも正使一行とは別の護衛という大義名分に過ぎない。
蒸気船の汽笛は、腹に響く。
品川沖の汽笛は、元麻布まで聞こえた。高台から望めば、品川湊が手に取るように映る。
「君たちも、あれに乗せたかった」
ハリスの呟きが、滝蔵と助蔵には嬉しかった。
咸臨丸はすぐに外洋へ出なかった。浦賀に停泊し、準備を整え、一九日に出港した。
ポーハタン号は一八日に品川を出、横浜で四日間停泊したのち二二日に出港した。
遣米使節。
それはサムライが正式な幕府の任務を負い、大海原を越えてアメリカへ行くという、大冒険を意味していた。
サムライたちの大航海は、リアルタイムで、日本国内の歴史にどれほどの影響を与えたものか。恐らくは関与せず、庶民もそれを知らずにいたのだろうと思う。
そして、攘夷が定着する。
二月五日、横浜本町通りにおいてオランダ人船長W・デ・フォスと商人J・N・デッケルが斬り殺された。下手人は定かではない。オランダ領事ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックは殺害現場へ赴き検死を行ない、駐日オランダ弁務官ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスへ報告した。オランダと日本のつきあいは長い。それがこういうことになった。ドンケル・クルチウスは幕府に犯人の検挙と処刑を要求した。
「攘夷などと、馬鹿なことを」
どうせ水戸藩だろうと、井伊直弼は憤慨した。この時期、徳川斉昭が幕府の足並みを乱す行動を公然と行っている。あり得ることではある。しかし、下手人を特定するに至らなかった。
幕府はオランダへ一七〇〇両の賠償金を支払った。これが幕末期の日本が諸外国へ支払う賠償金の前例となる。
幕府の諸外国へ向けた初動は、極めて理性的で誠実なものであった。おかしなもので、時間の経過とともに人材も、制度も、対応も、ボロボロに崩れていく。そうさせている元凶が朝廷であり、いたずらにテロルを好む長州といった西国諸藩だ。これら悪膿にも似た連中が、一〇年もせぬうちに日本の国政を簒奪してしまう。己の罪を隠して、幕府から国を守ったようなお伽噺を紡ぐのだ。
そして、テロルの最たる惨劇が起きた。
三月三日。大雪のなか、登城の鐘とともに井伊直弼は彦根藩邸を出た。桜田門までのわずか数百メートル、その途中で水戸藩士の襲撃を受け、井伊直弼は落命した。
世にこれを桜田門外の変という。
井伊直弼の圧政から有志が義挙したような印象操作もあるが、これはテロル以外の何物でもない。そして報復人事の武力反撃という一面もあった。
重ねていおう。
井伊直弼を暗君と指す根拠はない。政敵の淘汰や報復という狭量な一面は否めないものの、日本の開国に向けた歴代老中の方針を井伊直弼は順守した。国際社会のなかの日本という位置づけを、井伊直弼は理解していた。
日本は神国という閉鎖的な思想者が、開明的な指導者を、国際社会における最も卑劣な行為〈テロル〉で殺害した。
これが桜田門外の変である。
「あれは脱藩者であり、水戸は与り知らぬ」
徳川斉昭は己の思想を忠実に体現した実行者すら庇うことはなかった。しかし、そのような詭弁は通じない。徳川御三家といえども、幕府大老を白昼堂々と暗殺して見逃されることは許されない。水戸征討論さえも幕府にはあった。会津藩主・松平容保が双方の体面を保つ名目を進言しなければ、水戸徳川家はこのとき消滅しただろう。
「くるっている」
ハリスは日本の光と影をみた心地だ。
優秀な人材がいても、いつどこで芽を摘まれ殺されるか知れぬ、それが日本だ。
遣米使節団はこのことを未だ知らない。
神奈川宿の下田屋が再び手入れで踏み込まれ、遠州屋嘉兵衛が牢に投獄されたのは、同じ桜の季節のことである。
「まあ、ほんの少しの辛抱だな」
遠州屋嘉兵衛の偉いところは、状況を悪く受け止めないことだ。元凶である売買レートの問題については、事実、遣米使節の小栗豊後守忠順が話題にしている。遅かれ早かれ、このことは公が解決すべき部分のひとつである。
ただし、牢内で座して待つのも生産的でないと、嘉兵衛は独学で易を勉強した。このことは、後世はおろか現代に影響を持つ存在に化けるのだから、歴史とは面白い。
それはそれで、下田屋は主が捕えられて、それでもどうにか商売にはなったが、数年後には店を手放すこととなる。
そのとき、きちは店を辞して、再び行方知らずとなった。
さて。
三月九日、ポーハタン号はサンフランシスコへ入港。日米修好通商条約批准書の調印と視察、ここで多くのサムライが国際感覚を身につけた。
立石斧次郎教之は、奇妙な現象の中心にいた。まるでアイドルのように、熱狂的ファンがつきまとった。警戒心のない彼は、アメリカ人にとって愛玩動物のような匂いを発していたのだろう。トミー・ポルカというイメージソングまで誕生した。
「何がトミーか分からないけど、まあ、いいじゃん」
トミーとは、立石斧次郎の幼名・為八からと云われる。日本では実名を口にせず、官命や仮名、親しければ幼名で語りかける。誰かが為八と口にして、アメリカ人にはそう聞こえたから、トミーと命名されたものだろう。使節駐米中は日本から来たアイドル・トミーの独壇場といってよい。
このとき使節一行は、フィラデルフィアの新聞で
「タイクン暗殺」
の報を知った。桜田門外の変のことだ。しかし状況は理解できず、いまは当初任務を遂行するしかなかったのである。
安政七年は三月一八日に〈万延〉と改元される。
遣米使節団の当初目的が達成されると、正使は北大西洋航路で諸国を巡り、九月二七日に品川へ帰国した。それに先立ち、咸臨丸は太平洋横断の当初目標を達成、独力で帰国した。五月五日のことである。浦賀へ着いた咸臨丸の乗員は、ここではじめて桜田門外の変を知る。翌日、品川へ帰着したのちは神奈川港警備を命じられ、咸臨丸は江戸横浜間を往復する。
その間、攘夷は常に国内に渦巻いていた。
七月、将軍謁見を果たしたイギリス公使オールコックは、富士登山を試みた。純粋にスポーツとしての登山に興じ、彼は富士が信仰の対象という意識はなかった。富士宮から登ったと記録にはある。分かる限り、外国人で最初の富士登山者だ。富士宮から登る富士山は、頂上眼下に伊豆半島が突き出すように映える。天城の山系は背骨のようだ。
「あの先に、下田があるのだな」
オールコックはハリスが国交を温めた下田の地を踏んだこともなく、恐らく興味も持たなかった。現実主義者なのだろう。
八月一五日、徳川斉昭が没した。幕府にとって頭痛の種だったこの狂犬が撒いた種は、水戸学と攘夷を醸した〈尊皇攘夷〉という思想に成長していた。
このことは、日本にとっての厄災といえた。
尊皇すなわち天皇を奉じる義挙を騙るテロルを美化する風潮は、国家の体形を崩す勢いで拡大していった。
ハリスは、この異常な空気を危険視した。
その不安は、遂に的中する。
攘 夷
一
つるは無事に男子を出産した。もう、このままにしておけぬと、ハリスは呟いた。個室にヒュースケンを呼ぶと、年明け早々にも母子ともどもアメリカへ送り出すと告げた。
「日本人が好きなのに、なぜ帰される。帰されたら失業者だ。女も子どもも、養うことなどできないよ」
と、ヒュースケンは食ってかかった。
「それは、お前の性癖がいけないのだ」
「分からない、分からないよ」
「もう、分かって貰おうとは思わない、これは決定だ」
ヒュースケンは最後までハリスの言葉が示す意味を理解しなかった。態度が荒れたのはそれからだ。門限を破るまで徘徊し、泥酔して帰ってくることもあった。それまでの男だったのだと、ハリスは叱る気にもならなかった。
師走の風は人恋しい。
ヒュースケンは、ふと、見知る面影を視界に留めた。
「おぉ、おきちさーーーーーん」
江戸にきちが居るはずない。しかし、あれはきちの物腰だ。私には分かると、ヒュースケンは追いかけた。女は、逃げた。高輪の町場を過ぎると、大名屋敷の街割が続く。このようなところに、色情した異人がひとり入り込めばただでは済まされぬことを、ヒュースケンは理解していなかった。
万延元年(1860)一二月四日。
ヘンリー・ヒュースケンは芝赤羽新門前町中の橋北で暗殺された。
「あれほど気をつけろと云ったのに」
ハリスは憤慨した。
奇行の果てにヒュースケンが斬られたのは当然のことだ。日本を甘く見るなという諸外国への見せしめという役割で、ヒュースケンは最後の大きな仕事をしたのだと、ハリスは呟いた。そうでも口に出さなければ、やりきれない結果だった。
江戸町奉行所の調書によれば、ヒュースケンは何事か女の名前のような奇声を上げて走っていたという。女の名前のようなというだけで、具体的には分からない。
「まさか、きちじゃあるまいか」
滝蔵が呟いた。
「都合よすぎるだろ」
助蔵が首を傾げた。
「でも、追いかけるほどの女って、顔見知りくらいだよな。だとしたら、きちであっても不思議じゃないよ」
「滝蔵も、きちのことは気にしすぎだ」
「そうかな」
「そうさ」
そうだろうか。いや、そうかもしれない。そんなに都合のいい話があるわけがないと、滝蔵も苦笑いを浮かべた。
残されたつると男子。ヒュースケンの死後、その後の足跡は歴史より消える。市井に溶け込んだのか、国外へ流れたものか、少なくともアメリカ公使館から姿を消したことだけは確かだった。
ヒュースケンの暗殺は、アメリカ公使館に大きな波紋をよんだ。あの暗殺は日本国が黒幕で、暗殺を差し向けた仕業かという流言飛語が原因だった。もちろん、それは、根も葉もない噂に過ぎない。
ただし、井伊直弼死後、幕府は攘夷の黒幕たる朝廷と結び〈公武一和〉を推進している。これが噂の原資とするなら、アメリカ公使館の憶測は、云い得て妙、であった。
「このままでは堪えられない。いつ公使館が焼討ちされるか、わかったものではない」
ハリスの制止を振り切るように、公館務めのアメリカ人は、一六日に本覺寺にあるアメリカ領事館へ移った。残るのはハリスだけだった。
幕府は慌てて公使館付のアメリカ人に、誤解であると弁明し江戸帰還を呼びかけた。
ヒュースケンの暗殺に際し、幕府は彼の慰労金として洋銀四千ドル、その母に扶助料六千ドル、あわせて一万ドルを弔慰金として支払うことで事件を落着した。ハリスにしてみれば、平素ならば、このような野蛮なる出来事を決して納得はしない。しかし、ヒュースケンには常からの迂闊さがあった。いつ斬られても不思議はなかった。これで丸く収める以外の方法は、見つけられなかった。ちゃんと質すことの出来なかったハリスにも、この結末には間接的な責任があったからだ。
幕府にとって、攘夷は頭痛の種だった。
場当たりのように異人をひとりふたり斬るたびに、幕府から多額の出費が伴われた。もっと有益なことに用いるべき資産が、一部の馬鹿どもの勝手で、無駄に浪費されていった。そのため外国御用出役を新設し、異人警護に努めたが、効果はなかった。
「暗殺の動機は決して明かにせず、下手人を探そうともしない」
ヒュースケンの死に、不信感を抱いたのはアメリカ人だけではない。各国公使は会議を開き、ただちに江戸からの撤退と、強い抗議活動を決議した。旗を振るのはオールコックだ。
「いたずらな過剰行動を慎むべきだ」
ハリスの主張は聞き入れられることはなかった。
諸外国の公使は、日本人というものを理解していない。ただ清国やアジアの国々で出来たように、植民地的な搾取の場と時期を求めていた。ハリスの指摘にあるように、アジア諸国にはない鋭い牙を日本人は持っている、その大事なことについて、彼らは理解していなかったのだ。
サムライとは、恐るべき傭兵である。
だから決して刀を抜かせてはいけないのだ。そのための理性を、日本人は持っていることを、ハリスは発信した。
「傭兵であっても、きちんと理性ある対話のできる相手なのだ」
と、ハリスは諸国の公使に繰り返し説いた。
同時期、横浜居留地に住むアメリカ人商人フランシス・ホールは、ハリスの評判を口汚く記録に記した。日本人と上手に振舞うハリスに敵意を向けたものだ。それぞれの日本観は十人十色ともいえようが、的確だったのはハリスであることに違いはない。
年が変わった。
年号もすぐに〈文久〉と変わった。攘夷というテロルは、個人標的から組織的なものに変わった。江戸の公使館が次々と焼討ちされた。
ヒュースケンの後任で通辞に任じられたのは、アントン・L・C・ポートマンという男だ。二度のペリー来航で通辞を担当した人物である。かつてペリーはハリスが日本へ赴く際、ポートマンを推挙した。それほどの日本通といえる人材だった。
五月二日付の〈七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書〉について、ハリスはポートマンに翻訳させアメリカ本国へ送達した。この男の仕事は事務的で、的確にして早かった。なお、八月一日付のエイブラハム・リンカーン大統領からの書簡には、ヒュースケン殺害の補償履行までは、開市延期を含む一切の譲歩をしないという厳しい言葉があった。こちらの後ろめたい事情には、関知していない。関知できないとも受け取れる。
ハリスは江戸で的確に公使としての使命を果たした。最初に日本の門を開いたという責任感があった。
「ハリス旦那のことを、皆は誤解している」
滝蔵と助蔵の声は、響くものではなかった。
さて。
公使館を見上げる品川宿は、物騒な連中が常に徘徊していた。その主なところは、長州藩士である。そういう場を公用で通行することは物騒であると、滝蔵も助蔵も、市井に出るときは羽織袴を付けず帯刀も控えて行動した。幾度も、これは怪しい輩とすれ違うことがあった。が、地が百姓である。
「お前は幕吏か」
白昼襲われる幕府の役人も少なくないが、二人は一度たりとも呼び止められることはなかった。
「きち?」
品川の界隈でよく似た女をみた。
「なんで下田屋にいるきちが、江戸に出てきたんだろうな」
「ああ、下田屋は潰れていたよ。いま、新しい買い手がついているって、ヒコから教えて貰った」
助蔵がそう語った。するとヒュースケンは、死の直前に、本当にきちを認めて追いかけたのかも知れない。
「じゃあ、きちは神奈川宿から」
「いなくなったな。どこに行ったのだろうな」
「……」
「滝蔵も俺も、きちは他人だぜ」
「わかっているよ」
「あまり肩入れしても、仕方ないだろ」
「でも、昔の知り合いが、ハリス旦那のことで落ちぶれたのなら」
「それだって、関係ないことだ」
たぶん、助蔵のいうことは正しい。身内でもない、ただの同郷者。きちのことで心を惑わせる理由などなかった。
それでも滝蔵は、気になるのだ。
これは、きっと好意ではない。ハリスに関わり過ぎた自分が、ハリスに代わって救ってやらねばと、勝手に思い込んでいるのだ。偽善だった。
「品川で見たのが、間違いではないと云い切れない。けど、探し様がないや」
神奈川宿から品川宿に女が流れても不思議はない。滝蔵は品川へ出る機会を増やした。攘夷の輩との衝突を避けるため、袴を脱ぎ、刀を置いた。
ひと月もすれば、品川宿の路地まで知り尽くし、どの店が、どの商いで、どの諸藩が出入りしているくらいは朧げに察することも出来た。地方から出てきた女が、ひとりで働ける場所は、たかが知れている。
漁師小屋で日々汗臭い洗濯に勤しんだきちにとって、旅籠の住込みは楽な仕事だろう。品川宿の旅籠は平と飯盛に大別される。訳ありで流れた女が飯盛に居つくのは、初心な滝蔵にだって理解できた。
「こちらに、豆州下田からきた二十歳前後の女はおらぬかな」
正面から尋ねたところで、誰が教えてくれようか。駆け引きの知らぬ初心な若者のことは、それでもその界隈の話題にはなる。きちがいたならば、きっと耳にするだろう。滝蔵は根気よく品川を歩いた。
そのうち、どこそこに女がいると話しかける者もいた。その殆どは、からかい目的の悪戯だ。痛い目に遭うこともあったが、滝蔵が幕府の用人であることが分かると、誰も悪戯しなくなった。
ふた月も経ったが、きちの消息は皆無だった。
「その子、あんたのイロかい?」
木賃宿の婆が口にした。
「不幸な同郷の女です」
多くは云えなかった。云えるわけがない。過去を隠しているきちを辱める資格は、滝蔵には全くなかった。
そう。これはただの同情だった。
「案外と横浜にいるんじゃないか」
そういう者もいた。それも一理ある。しかし、一瞥で認めたことを滝蔵は信じた。きっと、品川にいる。そう信じて、半年が過ぎた。
しかし、滝蔵がきちの姿を見つけることは遂になかった。
この当時、アメリカ国内では南北戦争がはじまっていた。その渦中、健康を理由に、ハリスは日本の公使を退官したい旨をリンカーン大統領に申し出ていた。
ハリスが日本に来て、五年が経過しようとしていた。
二
エイブラハム・リンカーン大統領の親書を将軍・徳川家茂へ直接手渡し、おおよその活動を終えたハリスは、体調不良を理由に、公使退任の手続きを進めた。幕府側はハリスの慰留を求めてきたが、これは社交辞令だろう。
滝蔵がこのことを知ったのは、師走の暮れだった。
「下田からずっと支えてくれて、ありがとう」
ハリスは滝蔵と助蔵の手を握った。
「ご退任は、いつになるのですか」
「三月か、もしくは四月か」
もうすぐだ。
ハリスがいなくなったら、ここにいてもいいのだろうか。ふと、滝蔵は思った。
「お前たちはアメリカ公使館と日本をつなぐ、かけがえのない者たちだ。よかったら、これからもアメリカと日本をつないで欲しい。でも、決めるのは君たちの自由だ」
「自由?」
日本にはない言葉だ。自分で、自分の為すことを決めること。なんと素敵な響きだろう。
「その気になれば、アメリカを訪れたっていい。下田に帰ってもいい。ここに留まることもアリだ。それを自分で決めるんだ。それが自由だよ」
ハリスは世間から誤解される男だ。傲慢にして不遜、物事を強引に推し進め逆らえば報復も辞さぬ。そのような人物ならば、五年もの間、外国公使など務められるものか。それが、ハリスだった。
ハリスは文久二年四月に日本を発った。
いい潮時だった。この年は生麦事件が起き、異国人にとって厳しい風当たりが目立った。いいときに、ハリスは日本を去った。
下田の庶民が世界へ飛び出すか、地に臥すか。
この時代の分水嶺は誰にもあって、チャンスの前髪を掴めた者だけが、国際社会を実感できる新時代の〈国民〉へと変わることが出来た。滝蔵はきちの行方を捜しつつ、ハリスの後任であるロバート・プリュインのもとで公務を果たした。誠実なプリュインは、滝蔵と助蔵へ渡米を誘った。幕府差し許しの公式な渡海だ。
滝蔵はチャンスを掴んだ。助蔵は跡取りという理由で家族に反対され、そのチャンスを失った。
二人の運命は、これで分水嶺の如く分かれた。そして、互いに異なる経験を積んだのちに、明治の世になってから、アメリカ公使館で再会する。
「ハリス旦那のこと、きちは何も悪くない」
滝蔵が渡米するまえ、助蔵や幼馴染は下田で記念の集合写真を撮った。滝蔵は下田の者たちに、きちが犠牲者だと訴えた。彼らも納得した。
しかし、世間のうわさとは、そう簡単なものではない。
ハリスがどうであろうと、ヒュースケンが下田滞在したことで、知る限り三人の乙女が処女を散らした。この事実は、総じてメリケンの娼婦というレッテルにつながる。
滝蔵は、きちと幼いころから親しかった。それだけに、このことだけが、心の底から残念だった。
滝蔵が下田を去る日。
きちが、ひょっこりと下田に戻ってきた。
「心配したぞ」
滝蔵はきちの手を取った。きちも、頷いた。これは、友情だな。男にも女にも隔てない友情だなと、互いに感じた。実際、ふたりの間に恋愛感情などない。それだけに自然な所作であり、打算的な仕草すらない。
きちをひどく扱った者は、ここには大勢いた。その真実もしらず、風評だけで皆と一緒に詰った。そうすることに疑問すらなかった。それが空気だからだ。
それだけに、今はきちにどう接していいか分からない。ただ、あのときは酷いことをしたのだと、彼らは自覚していた。
「ごめんな、きち」
口々に出せる者もいれば、声に出せず俯く者もいる。
「お前のおっかさんも、姉ちゃんも、ここには誰もいないよ。余所者も増えたし、出て行った者もいる。でも、ここは他人の村じゃない。きちが生まれ育った処だ。堂々と、ここで暮らしてもいいんだ」
「でも」
「ふらりと下田に来たのは、そういうことなんだと。今まで辛かった分を、ここで取り戻せばいいじゃないか」
滝蔵は力強く云った。
「そうだな、そうしろよ」
助蔵も笑った。
「分かっただろう。きちは下田にいてもいいんだ。遠慮なんかいらねえよ」
滝蔵の言葉に、きちは頷いた。
「なあ、そうだろう」
滝蔵の言葉に、周囲から否定の声はなかった。大衆とは無責任だが、そういうものだった。
「いいな、俺は今から海の彼方へ行ってくるから。俺が戻ってくるまでは、下田から出て行くんじゃねえぞ。絶対だからな」
その言葉に、きちは微笑んだ。
攘夷とは、夷敵を討つという思想だ。
文久二年の時点で、勤皇も佐幕も、サムライの誰もが、心に攘夷の志を抱いた。長州も、上洛したばかりの会津も、その走狗たる新選組も、誰も、だ。この思想が二転三転し、三年もせぬうちに、勤皇を口にする輩の思想は、いつしか幕府を討つというものへ変わっていた。あの吉田松陰の弟子たちが、内政と外交の要である幕府を倒そうというのは、単に勢いと思いつきだけだった。
「幕府を倒して、何をする」
それほどの考えも持ってはいなかった。
ただノリと勢いで、幕末という時代を勝手に血祭りへと演出し、士農工商を巻き込んで、多くの血を流した。
当時の幕府には、日本の未来を描ける優秀な男がいた。
勝海舟と、小栗上野介。ふたりは遣米派遣により、アメリカ合衆国を直接目の当たりにしている。観て、聴いて、触れて、識っていた。この見識は、噂と想像だけのテロリストなどには及ばぬ、得難い知識と経験に彩られていた。
小栗の描いた未来予想図は、幕府主導の近代化だ。そのための行動も行っていた。秀才である小栗は、幕府のことだけを強く思い望んだ。一方の勝は、徳川だけの中央集権を否定し、アメリカ合衆国で見知った議会制を理想とした。優秀な人材を、身分を問わず広く在野から集うのだ。勝のこの考えは、日本に新しすぎた。
ひとつの物を観て、異なる見解を抱く。両者の理想は、海外を知る日本人として、甲乙つけがたい未来予想図だった。
が。
結果として、思慮の浅い討幕派たちは、幕府を否定した。それは容易に勝をはじめとする幕閣開明派の考えに寄り添うことでもあった。未来を描けぬ者たちは、人の言葉を口にすることで、己の体裁を保ち体面を得るものだ。
「京では、一会桑(一橋家・会津藩・桑名藩)に苦しめられた。奴らへ仕返しせにゃあ、修まらぬ。皆殺しじゃあ」
ただそれだけの報復のため、長州は反社会的な過激を重ねた。幕府は、でたらめな連中の勢いを結びつく〈時代の勢い〉だけの作用で、崩壊への道を辿り始める。
日本のために起つなどと、討幕の連中は考えてもいない。
すべては後付けの云い訳に過ぎず、過激に酔い、美しく死にたいという自虐観をないまぜとしながら討幕の志とした。このとき、真に日本という国のため、為すべきことを思案し、実行に努めていたのは、他ならぬ幕府だけである。
気がつけば、攘夷などと口にする者はいなかった。
「攘夷はもう古いよ」
そんなことを口にするのが、開明派ではないところが恐ろしいところだった。とまれ日本刀だけではなく、侍も、懐に短筒を忍ばせるご時世だ。重火器に精通する者もいる。
「幕府を討つことで松陰先生の恨みも晴れる」
長州人の思慮は浅い。
国内が内乱となれば諸外国の餌食にもなるだろう。
「清国のことを反面教師にしなければならぬ」
彼らから信奉された勝安房守はそれを憂いた。口にも態度にも出し、阻止奔走に尽くしたのは、勝の弟子の坂本龍馬だった。
攘夷は音をひそめた。
代わりに不都合な人物を暗殺する天誅が横行した。そのために、坂本龍馬は天誅の兇刃に斃れた。時代は、下田にいては分からぬことばかりの、速き群雲のように架けていった。
幕末は、やがて流血と惨劇の果てに、文明開化の美辞麗句に飾られた明治の御聖代へと移り変わる。
こういうふうたに
その後のきちが、下田でどう過ごしたか、定かではない。
明治ともなれば、シーボルトの娘をはじめ、混血の子供が世に出ている。野にもそういう子がいただろう。そのことは、とても自然な時代である。
だからこそ。いつまでも〈らしゃめん〉などと、無責任な言葉で人を傷つけるなど、とんだ時代遅れだ。公使館が引き払われた下田には、あれほど最先端だった文明の飛躍も西洋の臭いもない。もとの静かな海の田舎だった。
きちは思う。
「あれは、いったい何だったのだろうか」
日本中、どこよりも早く国際的となった下田。和洋混在の名残を、強く歴史に刻んだ。
そんな下田に戻ったところで、正直なところ、きちの居場所はなかった。それでも髪結いの仕事がもらえただけでもよかった。時期は明確ではないが、建前と本音、市井にある女のなかには、きちへ同情する者もいたのだ。そうでなければ、異人の娼婦と蔑む者に、女が自分の髪を任せるだろうか。
歴史とは、かくも残酷で無責任なものである。
後世は、流言飛語を重ねて、嘘と事実の区別さえ分からなくなってしまった。そのうえで、時代にあわせて、更に逸話の脚色を重ねた。悲劇のヒロインにすら誇張されたところで、それすら、真実からはほど遠い。
「もしも、春をひさぐ看護があったとしたら、それは誰かのことだろう」
それは、きちではない。後任の誰かがやったこと。そのことを一番叫びたかったのは、きちだろう。
唐人おきち、らしゃめんの物語。
だれも、その真実を知らない。
下田の海風だけが、真実を知っている。
了
【協力】
◇下田開国博物館
◇河津町教育委員会
【参考資料】
「ハリスとヒュースケン
・唐人お吉 ― 物語の虚実」
尾形征己・著
下田開国博物館・発行
こちら文献写しを尾形征己氏より提供
【参考文献】
「幕末邂逅の町 下田」
肥田 実・著
下田開国博物館・発行編集
「ハリスとヒュースケン
唐人お吉 物語の虚実」
尾形征己・著
下田開国博物館・発行
「戊辰の横浜」
横浜市歴史博物館
横浜開港資料館・編集
横浜ふるさと歴史財団・発行
「生麦事件と横浜の村々」
横浜市歴史博物館・編集
横浜開港資料館・協力
横浜ふるさと歴史財団・発行
「港都の黎明 ブレンワイド日記から」
横浜開港資料館
神奈川新聞社
DKSHジャパン㈱・発行
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