信長伝

夢酔藤山

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第一話 鎌倉の火種 5

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               五


 政治を退いた禅秀にとって、世とのしがらみは無縁であった。
 しがらみとは、自身で選べるものでない。好まざるときに、招かれざる類が、推参してくるものなのだ。
 京からの文がきたのも、唐突なことだった。差出人は、将軍・義持の弟・義嗣である。
「読んだら、つまらぬことに巻き込まれる」
 そのまま捨ててもいい。しかし、誰かの目に留まると、知らず知らずの誤解になるだろう。読んで、破いてしまうべきだと、禅秀は思った。なぜだろうか、読まずに破くという心理が働かなかったのも、運命というより他なし。
「室町御所の相続に不服あり」
 つまらぬ文だった。
 関東鎌倉公方家が将軍になれぬ不服を抱くように、比類なき三代将軍・義満の同じ子でありながら
「病弱な兄が将軍、弟はつまらぬもの」
という諍いが生じていた。こうなったのも、人の感情ゆえだった。もともと義嗣は父である義満に寵愛され育てられた。それだけに、親の情と家督は別という意味が理解できない。
「本当は、父は儂に継いで欲しかったのだ」
 無論、勝手な思い込みに過ぎない。
 禅秀は顔を顰めた。
「つまらないいざこざは、面倒だ」
 禅秀は文を破いて燃やした。こんな危険なもの、焼いてしまうのが一番だった。
 が、義嗣はしつこい男だった。
「潔癖なる御方と聞いておりましたゆえ」
などと、失礼極まる使途僧を送り込んできた。文を破かれてもこちらの意図を伝える。そして陣営に引き込むため、図々しく振舞う。根負けしてくれるまで、人を変えてでも使者を送りつけるのだ。
 恐ろしい意思というべきだった。
 人間は根負けする生き物である。三顧の礼に例えられるように
「じゃあ、話だけでも聞いてやる」
と、門を開けてしまう。禅秀も、やはり根負けした。辟易しながらも、使途僧との対面に応じた。
「鹿苑院(足利義満)様は、権大納言(義嗣)様に将軍職を譲るはずでした。かかる急逝が惜しまれる。権大納言様の位階は、今の御所よりも上位にござる。これこそが正統の証にござる」
「ここは関東にて、御所様のことは畿内で片付けることが望ましいもの」
「鎌倉府にも似たような火種がござりましょう」
「知りませぬなあ」
「またまた、新御堂御所は禅秀様も身に覚えがあると申されましたが」
 ふと、手が止まった。顔をあげて、使途僧をみた。
「新御堂御所ですと?」
 これは足利満隆のことである。
「鎌倉公方成人までの仮の政務は新御堂御所、その補佐を禅秀様が為されてました。これを奪い取ったのは、他ならぬ鎌倉公方。共に憎むべき相手でございましょう」
「それは誤解じゃ。儂は恨んでなどおらぬ」
「新御堂御所は権大納言様とお手を組まれることを約されましたぞ」
「儂には関わりないこと」
「まことにそうでございましょうか」
 禅秀は答えに窮した。
「そのことに是非もござりますまい。ぜひとも権大納言様の将軍家就任のご助力を」
 禅秀は即答しなかった。できるはずがない。断り方が、見つけられなかった。
 このとき質の悪い因果が、もうひとつあった。
 かつて満隆に謀叛の嫌疑があったとき、和睦の証として養子に差し出されたのが持氏の弟・持仲である。父が生存の内は仲の良い兄弟だったが、こうして足利満隆の養子になってしまうと立場から思考も変わってくる。
「代理政務じゃなくずっと鎌倉府で励めたならば、養子のそなたが、次の公方になれたものを。儂も全力で支えただろうに、残念でならぬ」
 そうなると、持仲は兄を快く思わぬ。簡単な洗脳だ。持仲を公方にすれば、養父の満隆が実権を握れる。
 都からの誘いは、むしろ都合がいい機にやってきた。
「あとは」
 禅秀を引き込む利はあった。
「鎌倉公方の嫌がらせで政務から追われた悲劇の関東管領」
という美辞麗句。持氏打倒の意思を持つ者にとって、これほど都合の良い存在は他にない。
「関東管領を辞めさせられた禅秀入道が、大義名分を掲げて挙兵するのだ。綺麗な御輿である乙若様が後ろに控えておる。きっと公方を恨む者が結束するだろう」
 持仲は兄・持氏と同じ場で元服した。将軍の偏諱も同じもの。つまり、持氏に非があれば弟がこれに替わる下地があるわけだ。
 禅秀は関わりのない態度を貫いた。
「世間の同情は移ろいやすい。頼りにならぬものにて、足下を見誤ってはならぬ」
 禅秀は挙兵をしない態度を貫いた。
 根も葉もない噂は、すぐに鎌倉中に広まる。
「此れは只事ならず」
と、山内上杉安房守憲基が兵を集めた。
「何事か」
 持氏は騒ぎのことを聞き、一笑に付した。
「あれは腰抜けだ。何程のことやある」
 それよりも、下手な騒ぎで幕府に介入されたら面倒になる。
「よって騒ぎは慎むべし」
と、持氏は上杉憲基を諭した。
「禅秀入道に先んじられ候」
「黙れ。妙な噂がある以上、武力を用いれば後々が面倒。それよりも噂を消すことに専念いたすべし、いいな、自重せよ」
 持氏は慎重だった。
「だが、糸を引く叔父上をこのままにはしておかぬ。されど、今でなし」
 上杉憲基は渋々と従った。

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