信長伝

夢酔藤山

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第五話 日一揆3

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               三


 応永三三年(1426)六月二六日、足利持氏自ら鎌倉勢を率いて、信長討伐を開始した。軍勢は籠坂峠でなく、武蔵国から甲斐へ侵攻してきた。
 郡内での戦いは、地の利を生かした信長に分があった。しかし、多勢に無勢は覆い難い現実である。形勢が変わったのは、雁峠から武蔵国の軍勢が甲斐に侵攻したときだった。
 この進軍により、信長は郡内に閉じ込められた。更に七月二六日、白旗一揆が甲斐になだれ込んだ。
 このままでは、日一揆は全滅する。
「こうなったら」
 信長は猿橋の合戦後、単身、降伏することを決意した。
「おやめくだされ」
と、皆は引き止めたが、己と引換えに助命するという信長の意志は変わらなかった。
「伊豆千代丸のこと、皆が支えよ」
 これが信長の残した言葉だった。

 八月二五日、信長は持氏の本陣へ赴き降参の意を示した。
「そうか、降参か」
 持氏は満足だった。武勇に長ける武田信長を力で屈服できたこと、そして、目の前に頭を下げる姿をみたことを。
 武田信長は殺すに惜しい男だった。
「逸見に逆らったことは許しがたいが、お前が終生この鎌倉公方に尽くすというなら、罪一党を免ずる」
「よろしいので?」
「いかに?」
「仰せのとおりに」
 信長は鎌倉府へ連行され、代わりに日一揆は目溢された。
「それと」
 持氏は、こうもいった。
「伊豆千代丸の身柄を守護代に明け渡すべし」
「逸見ではなく?」
「跡部じゃ」
「さて?」
 首を傾げる信長へ、持氏はひとこと
「幕府に恩を売る、それだけだ」
 このとき、将軍・足利義持は体調が思わしくない。子はなく、このままでは将軍家が絶える恐れがある。ここで恩を売れば、次の将軍に持氏が任命される可能性だってあるのだ。
 将軍就任は鎌倉公方歴代の悲願だった。そのためならば、何でもする。伊豆千代丸はその生贄だった。
「伊豆千代丸の安全は保障されるのでしょうな」
「そのために、幕府からの付き人を要請してもいいと思う」
「願うものなら、小笠原右馬助殿のご家来を」
「歎願しよう」
 足利持氏は跡部駿河入道明海に出頭を命じ、伊豆千代丸の身柄を与える旨を発した。
「ただし幕府の意は、伊豆千代丸成人のあかつきは甲斐守護となすことにて、これが病死であろうとも、死なすことあれば跡部は滅ぼされること必定。その心づもりで守護代として務めるものなり」
 持氏の申し様は一方的だ。
 これでは脅迫に等しい。が、こうとも考えられる。
「御輿を担いで好きをする大義名分を得た」
 武田伊豆千代丸は信元の猶子だから、これある限りは、甲斐の実権は跡部の手の内にある。そういうことだった。

 この日、日一揆は伊豆千代丸を引き渡し、解散となった。無論、このままで終わるつもりはない。加藤入道梵玄は二手三手の先を読み、一揆の末端に至るまで指図した。そのうえで、表向きは日一揆の解散を宣言した。
 これより甲斐は、逸見と跡部の睨みあいの場となった。
 鎌倉府は次期将軍の座を睨んで、徹底して幕府に恭順する態度に出た。
 しかし、幕府にはどうでもいいことだ。このときの幕府は、信重を甲斐守護に据えるという考えだった。持氏はそのことを知らない。恩を売ったつもりでも、幕府はそう思っていなかった。伊豆千代丸は、もはや幕府の駒でもない。
 逸見有直は持氏に従い、神妙に徹した。何もかも、持氏が将軍の後釜になれば、丸く収まることだった。鎌倉に縛られた武田信長も神妙だった。今は我慢すべきだと、心を閉ざし、表向きは持氏の歓心を掴む行動に徹した。
 関東管領山内上杉安房守憲実は、持氏の下心はどうであれ、幕府と融和することが関東の安寧につながることだと、強く訴え続けた。憲実は若いながらも、感情的な持氏に振り回され、我慢しながらも、よくやっている。
「大したものだ」
と、信長は感心した。

 応永三五年(1428)一月一八日。将軍・足利義持が死去した。
 死に臨み、後継者の指名を義持は拒んだ。このままの状況では、持氏を選ばねばならぬ。その運命に、逆らったのだ。
 満済はその意を汲み
「されば鹿苑院殿の御子を神籤で」
「准后の思うままに」
「承知」
 神前にて籤をひき、義持の弟で仏門に帰依した三人から将軍を選ぶこととした。
 血筋的に問題はないが、出家した者を還俗させて将軍とするのは前代未聞だ。やはり政治経験のある持氏こそ、本来の将軍筋目であった。
 これを曲げるのは、人の感情そのものだった。
 義持の遺志として、神籤は青蓮院門跡義円を選んだ。義円は還俗し、名を足利義宣とあらためた。神籤により選ばれた義円は、癇癪が強かった。将軍となり、義宣と名乗るからには、思うままに振舞うと宣言した。
「くそがぁ、くそがくそがぁ!」
 当ての外れた足利持氏の怒りは、計り知れなかった。かくなるうえは実力で将軍の座を得るべしと、京都出兵を訴えた。
「道理に適わぬことです」
と、関東管領上杉憲実はこれを必死に阻止し、諌言した。これで一応は収まったが、以後、持氏は関東管領を蔑ろに扱った。
「まるでかつての禅秀入道様のときを彷彿させるものじゃわ。おそろしい」
と、多くの者が不安を囁き合った。
 この年、南朝系の小倉宮入道聖承が伊勢国司・北畠満雅のもとへ下った。これを機に北畠満雅が挙兵した。南朝の問題は、一統ののちも燻っていた。残党は学術上〈後南朝〉というが、当事者にとって、南北朝問題は決して終わっていなかった。
「これを焚付けたのが関東であることは、相違ないか」
 義宣は幕府宿老に二度、質した。
「歴代の鎌倉公方は、将軍家の座を欲しておりました。それが外れたことで、大いに憤慨された由。今度のことも幕府を蔑ろにする工作にて」
「ならば討伐あるのみ」
「もっと具体的な理由がなければ」
「つけあがらせるな!」
 この事件、裏で持氏が糸を引き、騒動を演出したことは事実だった。
 義宣は関東との戦さを想定し、こののちの対応を、管領・畠山満家に厳命した。北畠満雅は師走に討たれたが、伊勢の騒乱はその後も続いた。結果的には、幕府が騒動を圧倒したことになる。
 正長二年、正式に義宣は征夷大将軍に任じられたが、本人曰く、世を忍ぶ義宣(よしのぶ)の諱を不服とし、この機に義教と称した。将軍就任にあたり、鎌倉府は就任祝いを公然と否定した。
「無礼なことだ」
 義教は憤慨した。
 両者の対立は表面化され、武力衝突は時間の問題だった。

 永享四年(1432)四月、相模国大山不動伽藍造営が鎌倉府により行われた。
 奉加帳筆頭は足利持氏、次が上杉憲実である。鎌倉公方・関東管領という重職の序列としては当然のことだ。
「この並びは間違いではあるまいか」
 重職の者たちが戸惑った。山内上杉憲実が代表して、持氏に質した。鎌倉公方家に長く仕える由緒家のことを思えば、疑問となることだった。
「間違いにあらず。その通りである」
 持氏は強い口調で断言した。
 上杉憲実以降に記された奉加帳の名。なんと、武田信長の名が二位にあった。これは、信長が鎌倉府で慇懃に徹し、持氏が応えて重宝とした証ともいえる。
「この並びは間違いではあるまいか」
と、信長本人が申し出たのも、当然である。
「いいのだ。もう誰も文句云うな!儂が決めた事である!」
 持氏が声を荒げた。
 敵対し降将となった者が、こうまで重宝される事例はない。
「出過ぎ者め!」
 足利家に歴代で仕える者たちから見れば、腹立たしいことだろう。いい迷惑なのは、むしろ信長だ。
 この厚遇の背景にあるものを洞察した者は、自ずと頷く。無論、信長自身も見通していた。これは、持氏が幕府と武力衝突することを前提とした序列の改訂であると。
 仮に戦さとなったとき、前衛で障壁となる今川家と互角に立ち向かえるのは、武辺と知略に長け、百戦錬磨の武田信長だけである。重用するのは、そのためだ。
(そんなもん、興味ねえなあ)
 信長の本音だ。
 幕府と戦ったところで、何が得するというのだろう。
(それよりも、兄だ)
 高野山の兄・信重が甲斐に復帰すること、そうすれば丸く収まるのだ。
(そうなれば、跡部の奴らが甲斐にいる理由もなくなる。さっさと小笠原家に帰してしまえばいい。伊豆千代丸も救い出せるしな。ああ、それがいつになることやら)
 面白くもない鎌倉府の出仕。
 すべては甲斐にいる伊豆千代丸のためだ。信長は焦ることなく時期を待った。甲斐における一切の情報は、日一揆から月に二度ほど伝わってくる。
「ん?」
 その知らせが、事の急変を伝えたのは、翌年の正月明けだった。
 伊豆千代丸が虐待を強いられている。幕府の付け人は追い返され、跡部駿河入道明海の子・景家が伊豆千代丸を嬲ることを楽しみにしているのだと記されていた。
 信長はそのことを聞いて、拳を握り締めた。
「このままでは、いつか殺されてしまう」
 そう思うと、行動も早かった。三月一日、信長は鎌倉府から忽然と姿を消した。書き置きだけがひとつ、跡部討伐、とだけあった。
「さては、甲斐へ逃げたのだ」
 持氏は叫んだ。
 事実、信長は綿密な連携により兵馬を采配して、三日、跡部の屋敷へと夜襲を仕掛けたのだ。
「馬鹿な、八郎がどうしてここにいる!」
 夜の闇でも縦横無尽に兵を采配する武田信長。まるで鬼のようだと、跡部景家は震え上がった。
「このままでは殺される。輪宝一揆に合流すべし!」
 悲鳴のような跡部駿河入道明海の声に、跡部勢は総崩れとなった。跡部父子は逃げ出し、留まる兵は皆殺しとなった。
「八郎様、若はご無事です」
「おお、でかした」
 伊豆千代丸は救出され、信長とともに日ノ城へ入った。

 跡部駿河入道明海は、なぜ信長が鎌倉府を飛び出して電撃的に攻めてきたのか、調べてみて驚嘆した。事の発端が、景家の折檻だと知りその狭量を叱責した。
「八郎が甲斐のことを把握する乱波を残すこと、想定できなんだか」
「鎌倉に行けば二度と戻るまいと」
「お前、なんてことをしたのだ」
「力なき者は負け犬という、父上の教えに従ったまでにて」
「黙れ!」
 肩で息をしながら、跡部駿河入道明海はじろりと景家を睨んだ。
「力のないお前が、武田八郎に殺される。その理も受け入れられるというのか?」
「死にたくありません」
「考えもなしに事を起こすこと、阿呆の所業じゃ。このたわけめ!」
 信長の怒りを被ったからには、もはや和解をすることも能うまい。
「逸見の援軍を引き入れよ」
 こうなったら、信長に抗するすべてが連合し、逆に攻め込むしかない。持氏が信長を重用していることで、鬱屈していた逸見有直である。即座にこの企てへ一味した。
 四月に入ると、輪宝一揆が石和の跡部屋敷に結集した。逸見有直の軍勢もそちらへ向かう情報があった。
「これを奇襲するべきだな」
 信長は備えの薄い石和屋敷を攻めることを決断した。反対する者はない。信長の提案に、全員が賛同した。
 四月二九日朝、信長勢は日ノ城を出た。
「日一揆が城を出た」
 逸見の物見が報告した。石和奇襲を察した跡部・逸見連合軍も屋敷を出た。
 荒川で両軍は対峙した。
「奇襲は失敗か……」
 数の上では、日一揆は不利だった。信長は土屋平左衛門宗貞を呼び寄せると
「たぶん、勝てぬ」
 そう囁いた。
「今から退くことも」
「ああ、出来ぬ」
「それは、困りましたな」
 幸い、夕刻前の対陣。暗くなれば、用兵の妙は信長が長ける。それでも多くの兵を損なうだろう。
「平左衛門、頼みがある」
「奥方のことで?」
「お前の所領に預けたままだが、どうか暫く匿ってくれ」
「伊豆千代丸様は?」
「儂と一緒に行動する」
 ならば安心だと、土屋宗貞は笑った。
 合戦は、陽が沈むと同時に始まった。川上から渡河した跡部勢が攻め込むと、日一揆は支えることが困難になった。退路を奪われたら全滅する。
「退くべし、無駄死にするな」
 信長の声に、日一揆がどっと逃散した。
「追え、八郎を生かすな!」
と、跡部駿河入道明海が叫んだ。
 敵を突破して日ノ城にたどり着いた信長は、惨敗を認めた。失った兵は多い。
「儂と伊豆千代丸は、一度甲斐を離れる。皆は潜伏して、儂の帰る日まで生き永らえる事」
「しかし」
「生きてこそだ!」
 痛恨の敗戦だった。信長が向かったのは、信濃だった。
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