信長伝

夢酔藤山

文字の大きさ
上 下
30 / 49

第一〇話 鎌倉公方再興3

しおりを挟む
               三


 四月に入りすぐに、上杉憲忠は足利成氏を尋ねた。古河・関宿・水海の三城支配領土が無事に明け渡し出来た報告のためである。
「謀叛者に城を取り返されて、不満だろう」
「いえ」
 思っていても、口になどできない。
「壊れた関係は、簡単に戻れぬ。儂も、そなたも、互いには快く思わぬ間柄である。そのことは承知している」
 成氏の云いたいことは分かる。
 が、口にしても解決できないことだ。
「関東の治安を正すことが我らの使命。我らは過去の確執を捨て去り、こののち狼藉者あらば、これを排除すべきかと」
 憲忠が言葉を割り込ませた。
「それは違うぞ」
「はて」
「狼藉とは、物採りや野党の類をいう。関東は上杉だけの領内にあらず。領内で生じる諍いは、決して狼藉とは云わぬぞ」
 成氏は諭すように呟いた。
「仮に公方家再興に思いを馳せる者どもが、抵抗する者に抗ったとしたらそれは献身なり」
「なんと仰せか?」
「上杉家にとっては狼藉だろうが、我にして見れば可愛い忠節者よ。足利家再興を待つ者がいた。その者らの排除は出来ぬ」
 成氏の口元からは、薄ら笑みが零れる。
「上杉家は率先し、旧来の領土に戻るべし」
「それは出来ませぬ」
「鎌倉公方が排除されてからの六年間は、上杉家にとって都合のよい領地仕置であった」
「それも誤解です」
「そうでもあるまい。上杉一族は一枚岩でない。足利恩顧の豪族を取り潰し、所領を奪って宛がったこと、ひとつやふたつではあるまい」
 憲忠は何も云えなかった。
(かといって)
 上杉家を抑制すれば、それこそ成氏の思う壺ではないか。上杉家の弱体化を見定めたうえで、必ず成氏は報復をするだろう。
 ところでと、成氏は話題を変えた。
「先日、我のもとに、曽比千津島の領主・武田右馬助が訪れてきた」
「武田右馬助?」
 憲忠はその名を知らなかった。
「武田八郎といえば、覚えがあるだろう」
 恥ずかしながら過去の者として、武田信長のことは綺麗さっぱり忘れていた。
「して、それがなにか」
「相模は扇谷上杉家の支配。曽比にも、支配強要の干渉があったこと、苦情があった」
「まさか」
「幕府でも重く扱われる右馬助に強要するとは、扇谷の家臣も勇ましいことをする」
 面倒な話しになりそうだ。聞きたくなかった。
「判りました、さっそく無礼を止めさせます」
「いや、もう遅いんだ」
「は?」
「右馬助が我を訪れたその日、曽比は大森某とやらに武力で奪われた。右馬助は報復を企てたが、儂がここで庇護しておる」
「それは……知らぬ事でした」
「右馬助を怒らせたら、お前、殺されるぞ」
「……」
「その前に、大森とやらの命を助けてやったんだ。感謝して欲しいものだ」
 憲忠は返事に詰まった。
 事実、武田信長は亡き足利義教から貰った曽比千津島で、穏やかに暮らしていただけだ。上杉家が理不尽なことは結城合戦のときに疑ったが、まさか自らが理不尽を被るとは。信長が本気になれば、大森などという者に負けるつもりはない。しかし、そうすれば、甲斐に類が及ぶ。だから、関東公方に直訴したのだ。
 帰宅後、上杉憲忠は人を用いて、曽比千津島の一件を調査させた。
 状況は、すぐに判明した。信長の子・信高が支配強要に背いたことで、軍事行動に及んだことは事実である。
「武田右馬助は禅秀の一件で鎌倉公方と戦った勇者と聞く。このようなことも分からずに、扇谷は狼藉に及んだというのか」
 こういうことに、憲忠は見て見ぬふりをしたが、慣れると、別して虎の尾を踏むことになる。
「いつかは上杉家中の引き締めをしなければなるまい」
 が、それは今ではない。成氏を討つ。まずはここからだった。

 成氏は古河・関宿・水海を足利恩顧の者に回復することで、結城と連立する足利陣営の連携を構築した。このことで、成氏へ期待する旧公方派の者が、次々と役に立ちたいと名乗りを上げた。そのなかから、頼りとなる人材を、成氏は拾い上げた。
 里見刑部少輔家基の子・左馬助義実。
 かつては上州より結城合戦に参じた。その戦場で父が討たれ、辛くも逃れた者である。
「新田源氏であるか。しかし、等持院様の頃から足利に従う者ならば、申し分なし」
 成氏はその素性を知り、頼もしく覚えた。さっそく親衛隊のような側近として、里見義実を身辺に取り立てた。結城氏朝の子も生き残っていた。父が討死したとき、僅か三歳。成氏はこの者に諱を与え、成朝と名乗らせ近従とした。
 成氏は、父持氏のために忠死した者を重んじた。その縁者がいれば、身近に呼んで役を与えた。
「まるで、あてつけだ」
 上杉憲忠は面白くない。
 足利成氏の登用人材は、上杉氏やその家臣団にとって、すぐに反発となった。他意の有無は関係ない。それが、人の感情だ。持氏の恩顧を忘れぬように、憲実の恩顧を忘れぬ者もいる。成氏と真逆の想いを持つ者にとって、成氏は脅威であり、敵だ。十分な火種だった。上杉憲忠は、長尾景仲に成氏討伐の決行を促した。
 四月二〇日。
 稲村ヵ崎の岬に立った兵は、そこから微かに黒く横たわる和賀江島の影を確認した。そこで更に暫らく待機した。やがて、松明の群れが波間の彼方に揺らめいた。と思うと、松明は大きく振られた。
「きた!」
 見張りの兵は、松明を大きく振った。それを見て、次の者が松明を振り、更に次の者が松明を振った。稲村ヵ崎から腰越までの伝達は、あっという間のことだ。
「それ、長尾勢に遅れを取ったぞ。急いで巨福呂坂を下るべし」
 太田資清は采を振った。
 太田資清が建長寺山門前を駆け抜ける頃には、既に関東公方御所付近に怒号が響いていた。
「急げ、急げ!」
 資清は太刀を抜いて振り翳した。杉本寺までくると、辺りは混戦状態であった。資清はそのまま鎌倉第を目指して突き進んでいった。
「備中守殿、備中守殿か」
 長尾景仲の声がした。
「左衛門尉殿、遅くなりもうした」
「鎌倉第に永寿王の姿はござりませぬぞ」
「なんと?」
「ここで防戦しているのは、簗田・里見の兵にござる。どうやら気取られたようじゃ」
「どうして露見したのだ。ええい、退け、退け」
 この挙兵を察知した成氏は、僅かな供に囲まれて、江の島に退避した。二一日、それを追って、長尾・太田は兵五〇〇で腰越に押し寄せた。
「満潮か……」
 太田資清は荒らぶる波濤を、忌々しげに睨んだ。眼と鼻の先にある江の島へ渡るには、舟が必要であった。それも小舟ではなく、いくらか大規模のものである。遠浅の相模湾であったが、江の島周辺の海底は独特な地形だ。満潮になれば舟を要し、干潮になれば浅瀬を徒歩きできる。それも狭い道ゆえ、弓矢を射掛けられたら、為す術もない。
「やはり、舟で島の裏手から上陸するしかあるまい」
 長尾景仲の言葉に資清は頷いた。
「敵襲!」
 悲鳴にも似た声が響いた。急いで陣形を整えるよう太田資清が叫んだ。が、後方から崩された囲みは陣形を形成することを許さなかった。たちまち片瀬海岸は混戦状態となった。成氏の危機に駆け付けた千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱らが軍勢である。
 江島神社境内の外れからは、対岸の様子がよく見える。成氏はそれを傍観していた。
「御味方が勝ちました。備中守は海岸伝いに退いておりまする」
 供の声に、成氏は頷いた。
 この戦いの首謀者は扇谷上杉持朝で、山内上杉憲忠の知らぬものだった。そういう建前が空々しいものだと、成氏は苦笑した。
 この戦いを〈江の島合戦〉という。
しおりを挟む

処理中です...