信長伝

夢酔藤山

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第一一話 挟み撃ち2

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               二


 長尾左衛門尉景仲の動きは、成氏勢が一歩出れば一歩退くといった、一定の距離を保つ行軍だった。この駆引きの最中に、小栗城の上杉房顕は脱する刻を得ただろう。
 長尾景仲がのらりくらりと行軍し、やがて籠城したのは、下野国只木山でだった。
「我らも随分と引っ張られたものですな」
 常陸国の小栗城を攻めていたのに、気がつけば下野国だ。ここは鎌倉からは遠い。兵站が伸びきることは、軍勢を維持するうえで不利であった。
「引き返しませぬか?」
 結城成朝が具申した。
「馬鹿を云うな、右馬助に笑われるわ」
 しかし、北関東は上杉勢の勢力圏である。いくら足利家発祥の地があるとはいえ、そのことも今は昔、深追いは危険であることを成氏も知らぬではない。
「上野の岩松左馬助に援護を求めようか」
 成氏は岩松持国を頼り、その援護で下総へ退くことが最善だと考えた。このとき岩松持国が白井城から南下する上杉勢と三宮原で激突していることを成氏は知らない。岩松持国のもとへ向かった使い番が、矢に貫かれた満身創痍で戻ってきたのは、一刻もせぬ頃だった。
「上杉勢が、こちらに……」
 そう告げて、使い番はこと切れた。
「しまった」
 成氏は、只木山から離れるよう陣触れした。
 長尾景仲が決戦を挑まず、成氏を引きつけたことには理由がある。その掌に転がされた成氏は、まんまと術中に陥っていた。城攻めに足りぬ兵力、伸びた兵站、それを囲むように別動隊が回り込む。
「袋の鼠だ」
 長尾景仲の高笑いが聞こえるようだと、成氏は地団太踏んだ。
 そうこうしている間に、三宮原で岩松勢を破った上杉勢が迫ってきた。やむを得ず野戦となった。淵名穂積原合戦は上杉勢が優勢となった。
「くそ」
 大規模な激戦だ。成氏はどうすることも出来なかった。
「全軍、撤退!」
 下総方面へ退く成氏を、城から出た長尾景仲が追撃した。
「くそ、逃げ足が速い」
 成氏はなりふり構わず逃げた。馬上の者はいいが、徒歩きの兵が大勢失われた。
 やがて上杉勢は追撃をやめたが、長尾景仲は自分の存在を誇示しつつ、今度は武蔵国騎西城に入った。只木山から、いや小栗城から、長尾景仲は意図してこの動きをしてきたのだ。明らかに成氏の目をこちらへ向けるためのものである。
「小癪な……この期に及んで何を企む」
 景仲の魂胆が読めぬ以上、深追いは危険である。この期に及んで、信長の言葉に耳を貸さなかった迂闊さに、成氏は臍を噛んだ。
「誰か、小栗城へ」
「なにか」
「武田八郎を呼ぶのだ。頼りとなるのは、武田である」
 騎西を攻めるべきか、下総まで退いて結城城にて立て直すべきか。その判断に迷った。いま、ここに武田信長がいたならば、迷うこともなかった筈だ。
(慢心が、こういうこととなった)
 成氏は父・持氏と異なる点がある。顧みる心を持っていることだ。何かに責任転嫁するような雑味がない。これは足利公方を仰ぐ家臣団にとって、新鮮な魅力だった。それがあるゆえ、更なる厄災を回避できた。
 そう思った矢先、事件は起きた。
 なんと、忠臣である結城の一族が内紛を起こしたのだ。思いもよらぬことだった。
「退路を確保するため、ただちにこれを鎮圧してまいります」
 結城成朝は成氏の本隊から離れざるを得なかった。
 悪いことは続くものだ。
(右馬助を蔑ろにした罰じゃわ)
 そう思うほどに落ち込んだが、今は打開を優先すべきだった。武田信長が成氏と合流したのは、二日後のことだった。

 叛いたという結城一族は、山川兵部少輔氏義である。成朝は電光石火で江川を渡り、山川城を包囲した。
「結城の一族でありながら、昔から山川は本家に逆らってきた。奴らは先の結城合戦でも一族の足並みを乱していた」
 それだけに、成朝の憎悪は激しかった。自ら采配を揮い、逃げ道や裏道に至るまで兵を潜ませた上で、総攻撃を行なった。意図的に皆殺しを徹底させたのだ。
 先陣の多賀谷下総守高経勢が奮戦の末、大手門が抉じ開けた。それを見届けると、成朝は総攻撃に転じた。山川城はその日のうちに陥落した。氏義の頸はとうとう獲れなかったが、内乱を成朝は短期間で平定した。
 信長は物見を放ち、各地の状況を整理したうえで
「古河へ退きましょう」
と打診した。
「なぜ古河か?」
 成氏の疑問は当然だ。
「関宿城には梁田勢、野田城も健在。結城さえ平定されれば三方を守られる要害となりましょう。河川も多く天然の濠となりますれば、防備には最適の地でござる」
「防備か」
「こちらから攻めること、どうか考えてはなりません。敵の狙いは未だ測りかねます」
 結城平定の報せが古河に届くのは、間もなくのことだった。

 古河に布陣する足利勢は、じっと動かず状況を探った。
 関宿城の簗田持助、野田城の野田右馬助も状況を探ることとなり、それを気取られぬよう斥候を配置して、遠巻きに騎西を囲む陣構えを固めた。
「お待たせした」
 結城成朝が戻ってきた。聞けば道筋の随所で謀叛が生じ、このような局地戦が随所で行なわれているのだと報じた。
「まるで、何かの刻を稼ぐかのようで、攻めても手応えはござらぬ。妙な心地じゃわ」
 結城成朝の言葉に、信長は顔色を変えた。
 上杉が時間稼ぎをする利点はなにか。こちらは上杉憲忠を討って、状況的には永享の大乱に似た形である。そのとき上杉勢は何をした。
「幕府」
 信長は低く呟いた。
 もしも上杉側が幕府に援軍要請をしていたら、どうなるか。今川家には手を打ったが、成氏が上杉憲忠を討った事実は間違いない。
「御所様が」
 成氏も蒼白だ。きっと、同じことを考えているに違いない。
「鎌倉に使い番を出す。防備を固めて、鎌倉府を死守すべし!」
 成氏の下知を多くの者は理解できなかった。
「公方様の仰せ、こういうことだ」
と、信長が言葉を発した。
「上杉は、幕府の援軍を待っているのだ。先の永享の戦さを思い出せ。鎌倉が陥落したら、我らは拠点を失うこととなる」
 まさかと、諸将はざわついた。
「勿論、憶測だ。憶測ではあるが、最悪に備えることは必要である」
 成氏も叫んだ。
 勘違いであればいい。が、こういう不吉は、得てして当たるもの。
 このとき、幕府先鋒として今川勢がひたひたと駿河路を東に急いでいた。幕府を留めることは、出来なかったのだろう。
「はめられた」
 これが長尾景仲の策だった。
 もしも幕府勢が押し寄せたら、北関東で合戦している場合ではない。かといって、急に背を向けたら、今度こそ長尾景仲は攻めに転じて矢を射かけるだろう。
「北と、西」
 挟み撃ちだ。
 敵の術中に陥った。
 足利成氏はこの未曽有の危機に、打開する策もない。
「八郎の諫言を足蹴にしなければ……」
 成氏は項垂れた。
「いまはそのような時ではござらぬ。鎌倉を守ること、これ以上のことはござらぬ!」
 武田信長が叱責した。
 天運はまだ尽きぬ、信念を強く持つべしと叫ぶ信長に、若い者たちは顔を上げた。


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