信長伝

夢酔藤山

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第一五話 都鄙和睦

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               一


 庁南の鄙びた山間は、武田信長の登場により活気が増した。
 戦さに長けた信長ではあるが、鎌倉や京での生活が、人の暮らす山村に為す経済や生産への変化を促すきっかけをもたらした。それは、経験のある者がもたらすことで、現実の利点を浮き彫りとする。自給自足の上総の生活を、他所から流通させて品を得たり、運んで稼ぐことへと大きく変えた。上杉支配のときにこれを試みたのは識者の時代だけだ。上総は自家の穀倉くらいの認識で、人を酷使させるだけの認識だった。
「武田様は我らが野盗にならずともよい生き方を与えてくれる」
 この一言には、庁南にも上総本一揆の加担が余儀なくされた現実を透かしている。
 その一々を咎める無粋を信長は慎んだ。代わりに、こちらへ従うならば与えられる従来の土地や生活を適う範囲で保証した。これに抗えば、無論容赦なく討伐した。自然と信長に逆らう者はいなくなった。
 人が集まれば知恵も増す。工夫もできる。制度も柔軟になり高度に発展するものだ。
 当然のことながら、暮らしやすい環境が整えられる。
 信長の人気は、そこから拡がっていった。上杉方とされていた上総国が、武田信長の登場により足利勢力へと塗り替わっていった。その背景には、内政や築城を学び得手とした、信長の子・信高の存在が大きい。信高はいまや頼りとなる信長の片腕になっていた。
 上総本一揆勢は、名高い武田信長と戦うよりは恭順を選んだ。賢い選択だ。しかし彼らにも意地というものがある。足利成氏と一揆の間に武田信長がいる存在意義は大きい。
「足利公方に辛い目に合わされた親父たちのことを思えば、その息子公方にも決して頭を下げない。ただし武田右馬助殿は鎌倉公方にも逆らって生き延びた剛の者。そのうえで公方に与されている。ゆえに降参するのは武田右馬助殿だけだ。その理屈も汲み取って欲しい。人というのは、簡単に想いを変えられぬことを分かって欲しい」
 清々しいへ理屈だ。信長は笑って許した。
「どちらでもいいことだ」
 信長にとっては、上総の平定が優先である。庁南は山に囲まれた場だが、拠点として望むものが不足していた。連立して攻守を補うものの目星はある。半島の中央部から西に流れを発する小櫃川の中流域にあるのが、交通の要所ともいえぬ辺鄙な丘陵山岳地域。真理谷である。庁南と真理谷。このふたつを軸として、信長は上総の各方面へと勢力を拡大していった。信長の支配した地は、内政が安定した。そのため百姓が多く移り住んだ。開墾が進み、生産が増えたことは、足利家にとっても有益だった。
「はやく平定して、公方様のもとへ戻らねばな。甲斐が心配じゃ」
 信長は戦さに明け暮れた。
 この年の如月は、寒さが厳しかった。温暖な上総でも、雪が降った。それがいけなかった。暖を奪われた信長が、高熱で床に就いたのは、そんな季節のことだった。
 月に幾度も古河との往復が重なった。戦場に出ることもあった。今度も古河から戻ったばかりで、きっと疲れていたのだろう。平癒の兆候は全くみえなかった。
「伊豆千代丸」
 信長は信高の幼名を口にした。熱で、意識が朦朧としていた。
「上総は公方様から拝領の地。里見と力を合わせて、守り抜くべし」
「はい」
 いま、甲斐はどうなっているのだろう。跡部が専横の限りを尽くしているのだろうか。すぐにでも飛んで行って、滅ぼしてしまいたい。その力があったのに、その機会だけに恵まれず刻を重ねてしまった。
 叔父の養子となって、本来ならば信高は甲斐守護職だったはずなのだ。
「世が世なら……そなたも運がない」
「しかし、上総も居心地がようござる」
「そうか」
「御所様に父上が引き留められたおかげで、京でも色々と学ぶことが出来申した。世の中に無駄な物などござらぬ」
 返事がない。信高は二度呼んだが、信長は返事をしなかった。手を取ると、高熱がみるみると冷たくなっていった。
「父上!」
 返事がなかった。とっさに、成氏から頂いた御旗を胸に押し当て
「これからのときに、公方様はお困りとなりますぞ!」
 そのときだ。
 カッと信長は両目を開いた。一瞬、頬が紅潮し、みるみると体温が上がった。
 白湯を差し出すと、信長は一気に干した。
 肩で息をしながら
「川を、渡り損ねた」
と、信長が呟いた。大きく息を吐きながら、川の向こうに兄・信重がいたとも告げた。
「兄者は儂に、甲斐を助けてくれと申された」
「ならば」
「馬鹿をいうな。上総から、どうやって甲斐へ行くというのだ」
「叔父上の頼みですぞ」
 無理だと、信長は笑った。信重には男子が一人いる。信守という者だ。実はこのとき、信守は既に死んでいる。信守の子・信昌は九歳で家督を継いだ。少年は狡猾な跡部父子には勝てまい。甲斐は跡部の国になる。武田家の男が絶えたら、きっとそうなる。近くにいるならば、信長とて一族のはしくれ、すぐにでも駆けつけただろう。
「それほどまでに、甲斐は、遠い」
 信長は、甲斐を見捨てる辛さを口にした。

 長禄二年(1458)五月二五日、将軍・足利義政の弟・政知が京を発った。
 このことは以前から知らされていたことだ。現在の関東公方を廃して、幕府将軍と血筋の新しい公方を鎌倉に送る。その補佐を上杉がすることで元の関東に服すべし、というものだ。
 幕府のすることは、関東の望むことではなかった。
 あくまでも幕府の都合だけに過ぎない。足利成氏側にも、上杉一族にとっても、利もなく有難くもない押し付けられた善意というものである。誰も望んでいないのだ。望むくらいなら、とっくに上杉は成氏と講和している。
 この期に及んで、新しい公方など無用だった。
 期待に反し、上杉方は将軍の弟・足利政知を拒んだ。政知は関東の誰からも拒まれた。将軍の弟という肩書に有難味さえ求められなかった。結局、伊豆を越えて関東に入ることも出来なかった。帰ろうにも、帰る術すら奪われた。政知は堀越という地に落ち着き、そこを居住の場とするしかなかった。〈堀越公方〉という私称で、誰でもいいから支援をすることを声に出すだけだった。
 思えばこれも哀れなことだ。
 すぐにでも京へ迎えさせればいいのだが、将軍・足利義政はすっかり興味を削がれた心境だ。だから、帰れとも進めとも云わなかった。この時点で足利政知は見殺しにされた。
 これまでの幕府将軍は、対立の中で関東との融和を求めてきた。万人恐怖と囁かれた足利義政でさえも、持氏に怒りを覚えながら妥協点を探り、関東への御教書を濫発した。
 足利義政は担ぎやすい御輿だ。口も出さぬ御輿を担ぐ幕府管領たちの大事な大義名分だった。自らの痛みを伴う決断を一切行わなぬ薄っぺらい男。それが義政だ。今度のことで、関東では将軍の値打ちを大いに下げた。そんなことさえも気付かなかった。
 もはや関東では、将軍に対する有難味がない。
 享徳の乱は、都を焼き尽くした応仁の乱に先立つ、戦国乱世の扉であった。その扉を開いたのは足利成氏や上杉一族だったかも知れない。が、閉じられる扉に楔を打ち込んで二度と修復できなくしたのは、ひょっとしたら無能な室町将軍だったかもしれぬ。

 このとき、関東随所では戦さの火の手が燃え広がっていった。
 その中で上総国の戦さは、大規模から局地的に変わっていった。これはすべて武田信長の功績だ。局地戦ということは、全体支配があってこその表現である。武田の支配に対する局地戦、という意味だ。
「八郎は我が意をよく理解し体現できる男である」
 足利成氏は信長をそう評した。信長は、足利成氏の期待に十分応えたのである。そのうえで、武田信長は子や孫に上総の多くを任せて、自らは安房で苦戦している里見義実の援軍に徹した。安房は上総よりもしたたかな豪族が多く、さぞや里見義実も苦労させられているだろう。
 庁南から安房へ向かう途中が久留里である。水の豊富な久留里は、信長の時代から二〇〇年のち、千葉県最古の酒蔵の城下町となる。


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