星とぼくの出会いのきずな

Y.Itoda

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1章

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 階段を駆け上がり、倒れ込むようにして勉強机の椅子に座る。
「どおうわあああーーー」
 優しい柔軟剤が微かに香る。机にはうっすらと黒い滲んだ鉛筆の跡。

 鉛筆の匂い。

 何度も何度も必死に練習した、五さい文字『ななみ』。ふと、懐かしく思う。
 よし、少し落ち着こ……
 何? この情感は……私の心臓は、まだドキドキとしていた。
 机に倒れ込んだまま顔を横にして左腕の石を見る。
 私はただ、光る石のことを聞きに行っただけだ。──ちっ。髪乾かすの忘れたし。腕に触れた髪の毛は湿っていた。ドライヤーで乾かすべきか? いや、めんどくさい。
 足をバタバタさせるけど、何も解消にもならなかった。
 私は、ウォーキングから帰宅したのちに、シャワーを浴びて、部屋着に着替えてから、朝ご飯をかき込み、階段を駆け上がって、今、勉強するために机に向かっていた。
『時間を無駄にするな』
 夏期講習で散々言われている言葉で頭を殴られ、よし、と覚悟を決める。まずは苦手な国語の過去問題集を開いた。

 やってやる。

 私は両手で顔を、ぱしっと叩いてから、現状の課題の長文読解問題への施策に手をつける。
 とにかく過去問を解いてパターンを覚えていこう。参考書も手にした。
『長文を解く際に共通して必要なのは、文章を読む前に設問を読んでおくこと。それによって読んでいる途中で解答が可能となり、何が重要なのかを意識しながら読むことができる。まずは何を指しているかを理解する代名詞に線を引き、該当する単語に矢印をつけよう』
 私は、代名詞の、これ、それ、あれ、に線を引いて、矢印で該当する単語に印しをつけていく。
 ——なるほどね……確かに文と文がどのようにつながっているのか、わかるような気がした。この方法なら読む時間もかなり短縮できる。手応えを確信に変えるべく、次から次へと線を引いていった。

 ……。

 壁にかかった時計に視線を走らせるけど、針は半分も進んでいなかった。予定では、この一分が十分にも感じる時間も、あっという間に過ぎるはずだった。
 なのに、また馬鹿げたことを私は考えている。知らず知らずのうちに、神沢との会話の中の代名詞を探している。神沢が口にした『あのさ……』が、耳から離れなかった。
 ちょっと待った。七時半? てことは、夜ご飯の時間早めてもらわないと。え、服は何を着てこ?

「だめどあああーーー」

 胸の中のモヤモヤを空気一杯に吐き出して、また机に倒れ込む。
 だめだ。全然、集中できんっ。

「行ってきまーす」
 チリンチリン──。
 けっきょく何もできなかった……
 何をしてるんだー。受験生だろー。過ぎてしまった時間は二度と戻ってはこない。
 今更だけれども、貴重な時間を無駄にしてしまったことを後悔している。
 でも、足取りは軽かった。私は門扉を開けて一歩二歩と歩き出した。
 と、おう、と聞き慣れた声がした。
「こんな時間からどこ行くんだ?」
 面倒なやつに出くわした。心の中で無条件に舌打ちが出た。私は悪事がばれぬよう辿々しく答えた。
「あー。小春んとこ」
 快晴は、ふーん、とだけ口にして私を通り過ぎて行く。「何かあったら、おれんとこ電話してこいよー」
 私の、わかったー、と言う声が届いた頃には玄関のドアベルの音が聞こえた。
 ばれたか? 咄嗟とっさについた嘘に、しまったと思った。小春の家は反対方向だった。
 こりゃあ帰りが遅くなると電話かかってきそうだな……
 小春のところまで連絡がいく可能性も十分考えられた。あの勉強ばばあが、ただでおくはずがない。私は歩幅を広げて足を進めた。

 ここに来るのは三度目で、本日は二度目の朱色の鳥居だ。
 なるほど……
 本来なら夜は真っ暗なのか。
 お祭りのときとは打って変わって、辺りはひっそりとしていて、ほんのわずかな街灯と月の光だけが頼りだった。
 月が影をつくっている。
 ぼんやりと映し出されている鳥居は、まるで自身の繊細な心を表しているようで、何だか……
 照れ臭く受け入れがたくもあり直視できなかった。
 現在直属のキャラクターではない、新たな人格が確立されつつあるような……内側から迫ってくる恐怖心ともいえようか。
 ひとまず、月の光のありがたみだけを受け入れ、私は軽く屈伸をしたのち、鳥居に一礼と共に勢いよく地面を蹴り上げた。

 三度目のけもの道は感覚的に把握できるようになってきていた。
 そろそろ足元が悪るいトラップがある、なんてことも予想できた。そしてなにより気持ちに余裕があった。ペース配分もお手の物で、帰りの分の体力も計算済みだった。
 へへへ、と私は山道を知ったような気持ちになる。少し熱ってきたな、と立ち止まり、羽織っていた長袖のパーカーを腰に巻く。
 木々の隙間を縫うように吹く風に佇むと、肌寒いはずの風がちょうど良い。そういえば……
 と、魔女の猫と一緒に登ったことをふと思い出した。

「お待たせっ」
 かけた声に神沢は振り向き、こんばんは、と心地の良い返事に私は胸をほっと撫で下ろした。
「こんばんは」
 反射的に私の口からこぼれた言葉は、温泉の白い湯気みたいに、ぽやぽやと夜空へ消えていった。
 神沢の足元で光るライトは、キャンプなどで使うランタンという物だろうか。
 そのおかげで、すぐに神沢の存在も確認できたし、暗闇による恐怖心も全くなかった。何よりも相手の表情をきちんと把握できることに安堵した。
 私のためにわざわざ用意を? だとしたらちょっと嬉しいかも、と不覚にも思ってしまった自分をいましめる。
「どお? 見える?」
 私がゆっくりと距離を詰めて行くと、神沢はにこりとして言った。
「今宵は絶好の観測日和だね」

 覗き込んだ世界はまるで魔法の世界のようだった。
 満天の星の中にぼんやりと緑色の光を放つ星。長く尾を引くほうき星の姿。
 ものすごい速度で流れて見えるシルエットで、微動だにしない星は、この世界の時間という概念を曖昧とさせた。
 これは時間を操る魔法だ。

 ——この星は一体どこへ向かっているのだろうか?
 はて、このはかなさの末路は?

「どお?」
「すごい……」
「でしょ?」
 覗き込みながら、その声だけで神沢の喜んでいる顔は容易に想像できた。私はそっと望遠鏡から目を離した。
「彗星は太陽と最接近すると最も明るくなるんだけど、それが今日なんだ」
 今日が一番明るいなんて、得をした気分だった。
 と、同時に申し訳なくも思った。神沢はきっと、何日も前からこの日を待っていたはずで、新参者の私が良いとこ取りをしてしまっている気がしたからだった。
「せっかくだから一番きれいに見える彗星を見てほしくて」
 まあ、神沢は気にも留めないのだろうだけれども。

「ほんときれい……」

 その、希望と少しばかり寂しさが入り混じった星は、肉眼でも見つけることができ、何となく神沢の雰囲気とだぶって見えた。
「でも、この彗星……もう終わっちゃうんでしょ?」
 今朝、神沢が言っていた言葉が、ふと脳裏をよぎる。
「そう。今日をピークにだんだんと暗くなっていく」
「この彗星……どうなっちゃうの?」
 暗くなるということは、太陽から離れて行くということなのだろうと思うけど。
 神沢は、うーん、と軽く首を傾げて彗星を見上げた。
「秒速六十キロで太陽系の外縁へ飛び去って、次に太陽に近づくのは五千年以上先って言われてるから、もう見ることはないかな……」
「五千年⁈」
 途方もない。人生百年を何回繰り返せばいいのだ。
「もし人類が滅亡していないのであれば、こんなふうに誰かが、あの彗星を見上げてるかもしれないけどね」
 こんな風に、と言う言葉がなんだかちょっぴり照れ臭かった。
 私は。五千年後に、私たちと同じシュチュエーションで夜空を見上げている男女を想像した。
「旅の途中で消滅する可能性もあるけどね」
「消滅?」
「彗星は氷に固体微粒子が混じった太陽系の小天体で、太陽に近づくと熱で氷が溶けることもあるから」
 私はこれまでの経緯からピンときた。「それが今日か」

 神沢を見た。

「そう」と、神沢は頷き「でも、今回はちょっと無理そうかな」
 おそらく稀な現象なのだろう。神沢の少し残念そうにする表情で悟った。
「接近のピークは過ぎてしまったから、このあとは太陽の表面をかすめるように通過して行くはずなんだ」
 私は、そっか、と呟いて三歩前に出た。
 遥か彼方からやってきた星の終わりにも興味があったけど、気づいたら、がんばれ、と小さく口ずさんでいた。私にも五千年もの猶予ゆうよがあれば、とも思う。
 そうすれば、『昨日きのう』という名の悪代官に、明日まで追いかけ回されることもないだろうに。
 地面ギリギリ端に設置された丸太の柵は、何とも頼りなく少し足元がすくんだけど、すぐに帳消しされた。目下には空の星たちとなんら遜色ないくらい星崎町が輝いて見えた。
「んー、やっぱ最高の眺めー」
 私は大きく両腕を上げて伸びをした。上を見上げれば星空、下を見ればふもとの夜景。
 息つく間もない日常から逃避できるほんのひとときの時間が、いつまでも続けばいいなと思った。
 ——ここは何気に穴場スポットなのでは。
 皆と共有したい気持ちはあるのだけど、何となく教えたくない、と考えている私は、やはり性格悪なのか。
 ──願い事? 後ろを振り向くと、神沢が目を閉じて両手を合わせていた。
「彗星にも願い事するの?」
 率直に訊いた。彗星と流れ星は違うのでは。
「この彗星にはもう会えないと思ったら、流れ星と似たようなもんかなって」
 神沢は笑って答えた。
「あー、なんかずるーい。彗星はずっと見えてるしっ」
 私も慌てて手を合わせて願い事をする。
 神沢は、はははと笑っている。その姿を見ていると私の胸にもおかしさが込み上げてきて、私たちはそろって大きな声で笑った。

 今、この瞬間は二人だけの世界。

 世間の呪いから解放されて自由になれた気がした。
 ほんのちょっとだけれども。
 おそらく……
 もう、家に帰らなくてはならない時間なのだろう。
 楽しい時間は容赦なく過ぎていく。
 夏の大三角のひとつ、デネブが光る。
 少しだけでいい。もうすこしだけ……
 まだ帰りたくないと、公園で駄々をこねて、いつまでも遠くの星へ向けて靴を蹴り飛ばしていた子供の頃の自分をふと思い出しながら、
 私は、あのほうき星に魔法をかけた。
 時間を溶かす魔法を。

「その石どこで?」
「お父さんからもらった。神沢は?」
「同じ。父親から」
「二つの石を近づけると何で光るんだろ?」
「わからない……でも」
「なに?」
「ひょっとしたら、星崎神社のご神体と関係があるのかもしれない」
「竜の石、ほんとにあるの?」
「わからない……あまり多くを語らない父親だったから。でも……石をもらったときに先祖代々伝わる言葉っていうのは聞いた」
「何それ?」
「空が灰になり大いなる清めの日が近づいたとき、欠けた石を持って戻った竜が、世界を邪悪から清め、平和に導きいれる……」
「——は?」
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