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第一章

⑤夏休みの短い帰省

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八月

 森の朝が、蝉の大合唱で始まる。窓を閉めていても、煩いことには変わりない。それでも俺は平気で眠り続けていられるが、圭吾けいごはどうやら眼を覚ましてしまうようだ。
 夜明けとともに眼を覚ました圭吾が、隣で眠っている俺の背中にピタリとくっついてくる。背後から手を回してきて俺に抱きつくのが、微かに浮上した意識の中で分かる。
 クーラーを効かせすぎている部屋は、朝方になると寒いくらいだ。圭吾の体温が俺も心地良いし、圭吾も俺の心音を聴いていると、また眠くなって少しウトウトできるらしい。
 きっと飼っている犬にも、こうして抱きついていたのだろう。犬の代用でも気分は悪くない。
 狭いベッドで一緒に眠るようになって、もう四か月が経った。二人の距離感はとても近く、そのことに疑問を感じることもなくなった。

「俺の前世、犬だったのかも」
 ただの戯言として、朝食のスクランブルエッグを突きながらそう呟けば、たまたま隣の席に座っていた美智雄みちおが、鋭い眼でこちらを見る。
「|光夜《こうや〉の前世は人間だ。人間の前世は人間に決まっている」
 大真面目な顔でそう言ってくる。
「そんなの美智雄にだって分からないだろ?な、圭吾」
 圭吾に話し掛けたのに、美智雄と一緒にいた天文部の奴が話に入ってきた。
「いや、美智雄の言う通り、例え光夜でも犬は無い」
「は?犬だよ、犬、ワンワン!」
 俺がムキになるのを見て失笑しやがった。やっぱり天文部の奴らは、いけ好かない。



 たった五日間の短い夏休み。寮に残っていることは許されない。皆が実家へと帰っていく。
 俺が帰るのは、生まれ育ったマンションではなく、中学三年の時に引っ越した平屋の一軒家。思い入れはないが、一応俺の部屋もある。
 家族は今回も留守だ。俺と顔を合わせないように、このタイミングで家族旅行に出かけている。まぁいい、いいんだ。その方が気楽だし。
 母さんが冷蔵庫にも冷凍庫にも、俺の好きな食べ物を密封容器に入れて作り置きしてくれている。パイナップルの入った酢豚もあった。それを食べられるだけで、十分にありがたい。
 ダイニングテーブルの上には「クーラーを強くしすぎて、寝冷えしないように」と、母さんの字で書かれたメモ紙と、小遣いと、学園と往復する交通費が置いてあった。

 妹はもう幼稚園生だ。俺の頭の中ではまだ二才くらいだけれど、リビングに飾られた写真の中にはおしゃまな女の子が写っている。もう俺のことは、覚えていないかもしれない。
 俺の部屋のベッドの上に、新品のパジャマが置かれていた。母さんが買ってくれたのだろう。パジャマで寝る習慣なんてないけれど、せっかくだからと着替えてみた。手も足も寸足らずでのツンツルテンで、酷いものだ。
 高校一年の時にぐっと背が伸びたから、母さんは俺の身長が標準よりも高くなっていることを知らない。まぁいい、いいんだ。
 
 夜。リビングの棚に入れてあるアルバムを、ソファに寝転びながら見返す。やっぱりどこかで圭吾に会っているのかもしれない、という気持ちがずっとあるから。写真の隅々まで圭吾の姿を探した。
 母さんと二人暮らしだった幼稚園の頃、母さんが義父と再婚して一緒に暮らし始めた小学校の頃、双子が生まれた時。
 普段は封じ込めている思い出が溢れて、何が悲しいのかも分からず、ギュっと胸が締め付けられる。胸の苦しさに耐えながら全ての写真を見返しても、アルバムの中に圭吾の気配はなかった。
 しんとした家の中で、圭吾の言っていたことを思い返す。もし本当に魂が一定期間の人生を繰り返すのであれば、弟は、その次の人生できっと長生きできるだろう。そんな絵空事に救われた気になる。

 帰省している数日の間、ほぼ家から出なかった。ベッドは妙に広く感じるから、タオルケットに包まりリビングのソファで寝るほうが、落ち着けた。
 昼間もソファに寝転びテレビを見て過ごす。高校生が背中を刺されて殺される事件のことが、繰り返し報道されていた。春休みにもワイドショーで見たこの事件、まだ続いているようだ。
 日本だけではなく、世界でも似たような事件が起きているらしい。犯人は同一ではなく、多数いるとの見方だけれど、一人も捕まっていないとのこと。
 この夏までに殺された高校生の数は、日本国内だけで十八人になったという。警察は被害者の共通点を必死に洗い出しているが、まだ判明しないと、アナウンサーが深刻な顔をして伝えていた。

 夏休み最後の日は雨だった。天気予報を見ると学園の辺りは大雨らしい。着てきた制服を身に着け、玄関に置いてあった紺色の傘を持って、朝早くに家を出る。
 母さんには「酢豚、美味しかった。パジャマもありがとう。傘を借ります」とメモ紙を残してきた。
 実家近所のコンビニに寄って、菓子を買い込む。グレープ味のグミもあるだけ全部買った。電車を乗り継いで、昼前の集合時間に間に合うよう学校の最寄り駅へと向かう。車内では、何をするでもなく、ずっと窓に当たる雨粒を見ていた。

 最寄り駅の集合場所で、キョロキョロと圭吾の姿を探す。屋根のある場所で美智雄と話しをしている後ろ姿を見つけただけでホッとして、口角が上がった。たった五日間、離れていただけなのに。
 圭吾は視線を感じたのかすっと振り向き、俺を見つけニコっと笑う。美智雄に何か言った後、傘を差しこちらに向かって小走りで近づいてきた。
「よっ」
「元気でした?」
「うん。圭吾は実家でゆっくりできた?」
「まぁ、それなりに」
 駅前のロータリーは三年生たちで込み合っていたから自分の傘を閉じ「入れてよ」と圭吾の傘に入った。
 二人の距離が近くなって、自分の居場所に帰ってきたように感じられる。
「何持って来たの?」
 圭吾のスクールカバンは、四月の時とは比べ物にならず、パンパンに膨らんでいた。
「光夜と一緒に食べようと思って」
 カバンのチャックを開けると、ヘアワックス以外にもポテトやコーンの揚げ菓子が入っているのが見えた。
「俺はいつものグレープ味のグミと、チョコレートと、海苔せんべい。圭吾の分もあるぜ」
 昨年までの俺は、休み明けってどんな気分だっただろう?もう思い出せない。以前は家も学園も、どちらに行っても「ただいま」という気分ではなかったのに、今の俺は「学園に帰る」と自然に思っている。
 俺は圭吾の「特別」だから。心の中で圭吾に「ただいま」と伝えた。

 夜。当たり前のように一緒のベッドに入った。やっぱり圭吾の側は安心する。最初は一緒に寝てやっているつもりだったけれど、いつの間にか、一緒に寝てもらっているのかもしれない。
「犬、元気だった?」
「クロウ、春よりもヨボヨボしてました。毛並みも悪くなっていて、散歩も嫌がって。老いには勝てないみたい。冬にはもう、会えないかもしれません」
 悲しそうな横顔だった。
「犬も魂を繰り返すのかな?」
「どうでしょう。そうだったらいいな、とは思います」
 ガンガンとクーラーを効かせた部屋の中で、圭吾の体温が温かい。なぁ、やっぱりどこかで会ったことがある気がするよ、圭吾に。そう思いながら、そっと唇を合わせる。
「おやすみ、圭吾」
「おやすみなさい、光夜」
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