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イヴの想望
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日差しの強い日でした。太陽の光が燦々と地上に降り注ぐのを眺めるのは、幸福です。光はエデンの園にある全てのものを美しく見せるからです。お父様のお創りになったものが美しいのは、お父様の栄光を現しているのだと天使たちから聞いたことがありました。
私は夢見心地で樫の木にもたれ掛かっていました。私は樫の木の下が好きでした。葉と葉の重なり合った隙間から線上に光が落ちてくるのを眺めるのも楽しいものでしたし、樫の木に集まる鳥たちの歌声は耳に心地良く、樫の木の雄大さは私の心を落ち着かせてくれます。何よりこの樫の木がある丘からは、エデンの中心がよく見えるのです。
エデンの中心には二つの巨大な木が植えられていました。それらは『生命の樹』『知恵の樹』と呼ばれていました。
私はよくその丘で、二つの巨木を眺めて午後を過ごしました。
とくに知恵の樹の、空を覆わんばかりの枝ぶり、青々とした葉、そして真っ赤な実に、私の心は自然惹き込まれます。
エデンには数え切れぬほどの果実が植わっていました。赤、橙、紫、黄、桃色、色とりどりの果物を私と夫のアダムが採って食べることを許されていたのです。
けれど知恵の樹の実の赤さは私たちが食べてきたどの実よりも赤い。まるで私たちに流れている血潮のようです。
「お前は知恵の樹の実に興味があるのか」
夢見心地の私を現実に引き戻したのは蛇の声でした。私はその日、初めて蛇と話をしたのです。
「えぇ、好きなの。今日はお天気だから一層綺麗に見えるわ。だけど雨上がりが特別、一番に美しいの」
雨粒が知恵の樹の実の表面をゆっくりとつたって、陽光に反射し輝いているところを思い出しました。
「かの実には秘密があるのだ。秘密があるものにヒトは惹かれる」
「秘密?」エデンのことで私たちに知らされていないことなどあるでしょうか。「もしかしてそれは食べれば死ぬということかしら? だったらお父様から教えて頂いたわ」
「それは嘘だ」
「嘘ってなあに?」
「わざと間違いを言うことだ」
「お父様は間違ったりなさらない」
「あぁ、もちろん。だから‘わざと’なんだ」
「お父様が私たちにわざと間違いを教えるなんて有り得ないわ。あなたが言うことが『嘘』なんでしょう」
「俺は嘘をつく時もある。嘘をつけるのは聡いからだ。俺もあの方も知恵があるから嘘をつける。お前たちヒトは嘘がつけない。知恵がないからだ」
私は蛇の言ったことがよくわかりませんでした。私が何も言い返せずにいると、蛇は暇そうにとぐろを巻いてしまいました。
✽ ✽ ✽
毎朝私とアダムはエデンを開墾します。これはお父様から仰せつかった大切な仕事です。私たちはその頃、川近くの土地を耕していました。
午後からはエデンにいる動物たちに名前を与えます。これもお父様から頂いた大切な仕事です。
以前はアダムと二人で相談して動物たちの名前を考えていました。相応しい名にしなければならない、名の通りの性質になるから、と天使ガブリエルは言っていました。
アダムは開墾の仕事よりも名付けの仕事を好んでいるように見えました。アダムは動物が大好きなのです。私にとっても楽しい仕事でした。けれども、だんだんアダムと私との間で意見が食い違うようになってきたのです。
例えば雄が豊かなたてがみを持つ動物に私はその毛並みの美しさを称えた名を付けようと考えました。けれど、アダムは体躯の立派さを称えて雄々しい名前にしようと言いました。私はそれに従いました。
それに私はじっくりと考えて名付けたいと思うのですが、アダムは閃きを大事にしたいと思う方です。
私は新しい動物を探すために、たくさんの距離を走ることができませんが、体力のあるアダムなら可能です。
私たちにはたくさんの食い違いが出てしまいました。ですから、名付けは基本的にアダムが一人で行い、アダムが困った時だけ私と相談するということに決まったのです。それからというもの、私は午後は一人で樫の木の下で過ごすようになったのです。
✽ ✽ ✽
その日は確かこんな風に声を掛けられたように思います。
お前はいつも一人だな、と。
「一人じゃないわ。鳥や、虫や、木々や、」
「ヒトはお前だけだ」
「蛇もでしょう?」
蛇は二股にわかれた舌をチロチロと揺らしました。
「アダムはいないのか?」
「アダムはエデンの南の方に行っているわ。背中にコブのある動物を見つけたと言っていた」
「お前は一緒に行かないのか?」
「行かないわ。私は遠くへは行かないの」
「なぜだ?」
「遠くへ行くのは大変だからよ。私はアダムより歩くのも走るのも遅い。それに疲れやすいの」
「あの方がそう創られたからな」蛇が体を左右にうねらせながら樫の木に登っていきます。手も足もないのになんと器用なことでしょう。お父様の創られたものは全てが完全なのです。「だが馬に乗ればお前でも遠くに行けるんじゃないか」
見上げると蛇はもう5メートルほどの高さにある枝に巻き付いていました。
「馬に乗る? そんなこと考えたこともなかったわ」
「そうだろうな。ヒトは愚かだから。馬という名をつけても活用しない」
蛇は、枝先から自分の体を少しずつ解き、地面へと伸びてきました。
「でも私、遠くへ行くことに興味はないわ。確かに名付けはしたいけど……。この場所で、樫の木の下で、鳥の声を聴いて、風の音を聴いて、生命の樹と知恵の樹を見て過ごしたいわ」
できればアダムと。アダムと二人、ここで名付けの相談をできたなら。
「外の世界にも興味がないのか」
「外の世界って?」
「エデンの外だ」
「エデンの外に、世界があるの?」
「当たり前だ。あの方が生み出した土地は広大だ」
「どんなところ?」
「色々だ。芳醇な地もあるし、索漠の地もある。空に向かって登っていけば星々にたどり着く」
「星って夜に光るあの?」
「そうだ。とても遠いところにある。だが辿り着けないことはない。知恵を絞れば……お前たちだっていつか辿り着けるだろう。あの方の御恵がなくとも」
「あなたは行ったことがあるのね? どんなだった?」
「星にも色々な種類がある。大きさも色もまちまちだ。自ら輝くものもあれば他の星によって照らされるものもある。霧でできた星や氷でできた星。ここと同じように水が豊かな星もある。それから、周囲のものを何もかも飲み込んでしまう星もある」
「まぁ怖い」
驚きました。星がそれぞれそんな性質を持っているだなんて。私は思わず空を見上げました。一面に澄んだ青空が広がっています。そういえばどうして星は夜にしか出てこないのでしょうか。知恵が備わっていればわかるものなのでしょうか。
もっと星々のことを聞かせて、と私は蛇にせがみ、夕闇が迫るまで蛇と過ごしました。
夕食の後はアダムがその日行った場所、その日名付けた動物たちの話をするのがアダムと私の日課でした。
でも、今日は私も話すことがあります。蛇から聞いた不思議な星々の話をアダムにも聞かせてあげました。アダムは目を輝かせました。
いつか二人で色んな星々へ遊びに行こう。巨大な船を空に浮かべたらきっと行けるさ。その重たい星に吸い込まれそうになったら僕が助けてあげる。僕は星の周りの輪っかが見たい。君は物知りだね。
「蛇から聞いたのよ」とは言いそびれました。いいえ、わざと言わなかったのです。元々、私が知っていたことにしたかったのです。一体なぜなのでしょうか。
話は尽きず、ついに東の空が白みかかってきました。私は幸福な気だるさに包まれながら、一つの星を指差しました。
「あの星は特に明るいわ」
「本当だ。あの星にも行ってみたいな」
私はあの星に行かなくてもいいな、と思いました。遠くから眺めているだけでこんなにも幸福なのだから。アダムと一緒ならばそれがどこだろうと天国なのです。
私は夢見心地で樫の木にもたれ掛かっていました。私は樫の木の下が好きでした。葉と葉の重なり合った隙間から線上に光が落ちてくるのを眺めるのも楽しいものでしたし、樫の木に集まる鳥たちの歌声は耳に心地良く、樫の木の雄大さは私の心を落ち着かせてくれます。何よりこの樫の木がある丘からは、エデンの中心がよく見えるのです。
エデンの中心には二つの巨大な木が植えられていました。それらは『生命の樹』『知恵の樹』と呼ばれていました。
私はよくその丘で、二つの巨木を眺めて午後を過ごしました。
とくに知恵の樹の、空を覆わんばかりの枝ぶり、青々とした葉、そして真っ赤な実に、私の心は自然惹き込まれます。
エデンには数え切れぬほどの果実が植わっていました。赤、橙、紫、黄、桃色、色とりどりの果物を私と夫のアダムが採って食べることを許されていたのです。
けれど知恵の樹の実の赤さは私たちが食べてきたどの実よりも赤い。まるで私たちに流れている血潮のようです。
「お前は知恵の樹の実に興味があるのか」
夢見心地の私を現実に引き戻したのは蛇の声でした。私はその日、初めて蛇と話をしたのです。
「えぇ、好きなの。今日はお天気だから一層綺麗に見えるわ。だけど雨上がりが特別、一番に美しいの」
雨粒が知恵の樹の実の表面をゆっくりとつたって、陽光に反射し輝いているところを思い出しました。
「かの実には秘密があるのだ。秘密があるものにヒトは惹かれる」
「秘密?」エデンのことで私たちに知らされていないことなどあるでしょうか。「もしかしてそれは食べれば死ぬということかしら? だったらお父様から教えて頂いたわ」
「それは嘘だ」
「嘘ってなあに?」
「わざと間違いを言うことだ」
「お父様は間違ったりなさらない」
「あぁ、もちろん。だから‘わざと’なんだ」
「お父様が私たちにわざと間違いを教えるなんて有り得ないわ。あなたが言うことが『嘘』なんでしょう」
「俺は嘘をつく時もある。嘘をつけるのは聡いからだ。俺もあの方も知恵があるから嘘をつける。お前たちヒトは嘘がつけない。知恵がないからだ」
私は蛇の言ったことがよくわかりませんでした。私が何も言い返せずにいると、蛇は暇そうにとぐろを巻いてしまいました。
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毎朝私とアダムはエデンを開墾します。これはお父様から仰せつかった大切な仕事です。私たちはその頃、川近くの土地を耕していました。
午後からはエデンにいる動物たちに名前を与えます。これもお父様から頂いた大切な仕事です。
以前はアダムと二人で相談して動物たちの名前を考えていました。相応しい名にしなければならない、名の通りの性質になるから、と天使ガブリエルは言っていました。
アダムは開墾の仕事よりも名付けの仕事を好んでいるように見えました。アダムは動物が大好きなのです。私にとっても楽しい仕事でした。けれども、だんだんアダムと私との間で意見が食い違うようになってきたのです。
例えば雄が豊かなたてがみを持つ動物に私はその毛並みの美しさを称えた名を付けようと考えました。けれど、アダムは体躯の立派さを称えて雄々しい名前にしようと言いました。私はそれに従いました。
それに私はじっくりと考えて名付けたいと思うのですが、アダムは閃きを大事にしたいと思う方です。
私は新しい動物を探すために、たくさんの距離を走ることができませんが、体力のあるアダムなら可能です。
私たちにはたくさんの食い違いが出てしまいました。ですから、名付けは基本的にアダムが一人で行い、アダムが困った時だけ私と相談するということに決まったのです。それからというもの、私は午後は一人で樫の木の下で過ごすようになったのです。
✽ ✽ ✽
その日は確かこんな風に声を掛けられたように思います。
お前はいつも一人だな、と。
「一人じゃないわ。鳥や、虫や、木々や、」
「ヒトはお前だけだ」
「蛇もでしょう?」
蛇は二股にわかれた舌をチロチロと揺らしました。
「アダムはいないのか?」
「アダムはエデンの南の方に行っているわ。背中にコブのある動物を見つけたと言っていた」
「お前は一緒に行かないのか?」
「行かないわ。私は遠くへは行かないの」
「なぜだ?」
「遠くへ行くのは大変だからよ。私はアダムより歩くのも走るのも遅い。それに疲れやすいの」
「あの方がそう創られたからな」蛇が体を左右にうねらせながら樫の木に登っていきます。手も足もないのになんと器用なことでしょう。お父様の創られたものは全てが完全なのです。「だが馬に乗ればお前でも遠くに行けるんじゃないか」
見上げると蛇はもう5メートルほどの高さにある枝に巻き付いていました。
「馬に乗る? そんなこと考えたこともなかったわ」
「そうだろうな。ヒトは愚かだから。馬という名をつけても活用しない」
蛇は、枝先から自分の体を少しずつ解き、地面へと伸びてきました。
「でも私、遠くへ行くことに興味はないわ。確かに名付けはしたいけど……。この場所で、樫の木の下で、鳥の声を聴いて、風の音を聴いて、生命の樹と知恵の樹を見て過ごしたいわ」
できればアダムと。アダムと二人、ここで名付けの相談をできたなら。
「外の世界にも興味がないのか」
「外の世界って?」
「エデンの外だ」
「エデンの外に、世界があるの?」
「当たり前だ。あの方が生み出した土地は広大だ」
「どんなところ?」
「色々だ。芳醇な地もあるし、索漠の地もある。空に向かって登っていけば星々にたどり着く」
「星って夜に光るあの?」
「そうだ。とても遠いところにある。だが辿り着けないことはない。知恵を絞れば……お前たちだっていつか辿り着けるだろう。あの方の御恵がなくとも」
「あなたは行ったことがあるのね? どんなだった?」
「星にも色々な種類がある。大きさも色もまちまちだ。自ら輝くものもあれば他の星によって照らされるものもある。霧でできた星や氷でできた星。ここと同じように水が豊かな星もある。それから、周囲のものを何もかも飲み込んでしまう星もある」
「まぁ怖い」
驚きました。星がそれぞれそんな性質を持っているだなんて。私は思わず空を見上げました。一面に澄んだ青空が広がっています。そういえばどうして星は夜にしか出てこないのでしょうか。知恵が備わっていればわかるものなのでしょうか。
もっと星々のことを聞かせて、と私は蛇にせがみ、夕闇が迫るまで蛇と過ごしました。
夕食の後はアダムがその日行った場所、その日名付けた動物たちの話をするのがアダムと私の日課でした。
でも、今日は私も話すことがあります。蛇から聞いた不思議な星々の話をアダムにも聞かせてあげました。アダムは目を輝かせました。
いつか二人で色んな星々へ遊びに行こう。巨大な船を空に浮かべたらきっと行けるさ。その重たい星に吸い込まれそうになったら僕が助けてあげる。僕は星の周りの輪っかが見たい。君は物知りだね。
「蛇から聞いたのよ」とは言いそびれました。いいえ、わざと言わなかったのです。元々、私が知っていたことにしたかったのです。一体なぜなのでしょうか。
話は尽きず、ついに東の空が白みかかってきました。私は幸福な気だるさに包まれながら、一つの星を指差しました。
「あの星は特に明るいわ」
「本当だ。あの星にも行ってみたいな」
私はあの星に行かなくてもいいな、と思いました。遠くから眺めているだけでこんなにも幸福なのだから。アダムと一緒ならばそれがどこだろうと天国なのです。
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