イヴの誘惑

櫂 牡丹

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イヴの疑念

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 私は樫の木の下にいました。

 今日アダムはエデンの端まで名付けに行くと言っていたので帰りは明日になるか明後日になるか、もし天使の協力を得られなければ一週間後になるかもしれません。それは今の私にとって好都合でした。

 ここ最近私の身に起こった様々なことを、一人ゆっくりと考えてみたかったのです。私は『シット』を覚えました。それが何だというのでしょうか? 新しいことを知ったということは成長したということで、これはお父様が望まれることなのでしょうか? 
 
 リリスが羨ましい。自分が矮小に思える。

 以前は、お父様が愛しいアダムから創ってくださった私という存在を思う時、喜びに満ちていたはずなのです。自分が誇らしかった。今はどうでしょう? 醜くて仕方がない。お父様はなぜ私をこんなに醜く創られたのでしょうか?

 リリスはズルい。リリスはアダムの寵愛を受けていたのに自らの意志でアダムから逃れた。それなのに今もエデンを闊歩して、アダムからは「美しい女」だと称される。一番に愛してくれる蛇もいる。

 私がアダムの元を去ったらアダムは追いかけてきてくれるでしょうか? アダムは私を『一番』だと言ってくれるでしょうか? 

 私は彼女が羨ましくて仕方がない。リリスのせいで知らなくてよい感情を知ってしまった。

 それに蛇。蛇は色々なことを教えてくれましたが、教えられれば教えられるほどよくわからなくなるのです。蛇の言葉が頭の中で糸のように絡み合い、解こうとすると余計に絡まっていく──そんな気がします。

 私はケルビムとアダムが言うとおり、蛇とはもう関わらないほうが良いと思いました。それなのにいつも蛇が現れる樫の木の下にいるのは、心のどこかで蛇を、いいえ、答えを待っていたからなのだと思います。
 
 気がつくと蛇は隣にいましたが、私は最初それが地面から張り出す木の根だと思っていました。

 お互いに黙ったまま十分、二十分という時間が過ぎました。

「苦しいのか」先に口を開いたのは蛇でした。

 私は「えぇ」とだけ返事をしました。

「もっとよく見てみないか?」

「何を?」

「知恵の樹だ。もっと近くで見ればいい。お前はここからかの実をずっと見てたんだろう」

「でも……」

「食べるのを禁じられているだけで近づくのを禁じられたわけじゃないだろう?」

 私たちは生命の樹の下まで行きました。大木を見上げると白く輝く実がたわわに実っていました。青い空と緑の葉によく映えた白。目を凝らすと表面に産毛のようなものが見えました。それを見ていると、肌が粟立ってきて、胸が踊りました。

「素晴らしいわ。離れた所から見ているのと全然違う。アダムにも見せてあげたい」

 アダムの名が自然口をついて出たことに、なぜか心が沈みました。

「お前が見たいのはあっちだろ」と蛇が首を左に向けました。

 生命の樹と双璧を成す迫力に私は身震いしました。

 私たちはゆっくりと知恵の樹に向かって歩み出しました。そして知恵の樹のそばの朽木に腰を下ろしました。

 赤い実が、てっぺんから枝先まで所狭しと実っています。あまりに数が実りすぎて枝がたわんでいるところもありました。それなのに一つの実も地面に落ちておらず落ち葉ばかりが大地を覆っていました。

「一つもいできてやろう」

「いけないわ、そんなこと」

「俺が採ってくる分には問題ないだろう?」

 蛇がしゅるしゅると器用に木に登り、果梗に体を巻きつけ実を切り離すと、実は地面にポトリと落ちました。蛇は地面に下りると実を口に咥えました。そのままこちらに持ってきて、私の膝の上に落としました。

 私は、一寸躊躇した後、おそるおそる実に触れてみました。

 それはひんやりとしていました。ずっと、遠くから眺めていた赤い実。間近でみると一層目の覚めるような赤色です。エデン中のどんなものより美しいものに、今私は触れているのです。宝物のように優しく、両手で包み込みました。すっぽりと手の中に隠れ、あまりにも私の手に馴染んでいて、私の熱が実に移動していくのを感じます。私は顔を近づけ、目一杯香りを嗅いでみました。想像通りの、いいえ、想像以上に芳しい香りが鼻腔に広がります。

「どうだ」と蛇が言います。

「素晴らしい色と香りだわ」

「そして食べると旨い。一口食べてみろ」 

「それはできないわ」

 私は蛇に実を返しました。

「そうか、なら俺が頂こう」

「え?」

 蛇は地面に置かれた実の周りを円を描くようにズルズルと這い、時折、黒ずんだ赤色の舌を赤い実に這わせ、こちらを伺うように見てはまた回り出すのを繰り返していました。私はその様子を呆然と無心に見ていたのです。そして蛇が思い切ったかのように実を一気に丸呑みしました。それがとても邪悪に思えて、私は、宝物を汚されたような憤りを覚えたのでした。

 けれど次の瞬間、蛇が心配になりました。この実は食べると死んでしまう実なのですから。

「なんと恐ろしいことを。すぐに吐き出して。でないと死んでしまうわ」

「いいか、イヴよ、知恵の樹の実を食べても死なない。死なないんだ。俺をよく見ろ、ピンピンしてるだろう」

「そんなはずはないわ。お父様は知恵の樹の実を食べれば死ぬとおっしゃった。あなたはもうすぐ死んでしまうわ。死ぬってなんだかとても恐ろしい。早くお父様を探してあなたのことを助けてもらわなくちゃ」

「必要ない。知恵の樹の実を食べると死ぬというのはあの方がついた嘘だ」

「信じないわ」

「じゃあなぜ俺は今も生きてるんだ?」

 お父様は本当に私たちに『嘘』をおつきになったのでしょうか? 何の為に?

「お前も食べるんだ、イヴ。取ってきてやろう」

「待って。仮に死なないとしても、これは禁じられたことよ。禁じるだけの理由があるはずだわ。食べれば何か良くないことが起こるはずよ」

「無論だ。あの方にとって良くないことが起きる。知恵の樹の実を食べれば目は開き、あの方のように善悪を知ることとなる。善悪を知れば自己判断ができる。つまり自立できるのだ。するとどうなる? あの方に頼らずとも生きていけるようになる。お前たちはいつかあの方を忘れてしまうかもしれない」
 
「私は決してお父様を忘れたりしないわ」

「だったら食べてそのことを証明すればいい」

 口も目も手も足も体の全てが岩石のように重く感じました。とにかく億劫で、もう何も考えたくない、このまま蛇の言う通り実を食べれば楽になるんじゃないかしら?

 沈黙の後、蛇が口を開きました。「まぁいい。お前のためにもう一つとってきてやろう。なに、観賞用だ」

 私は蛇が実を採ってくるのをぼんやりと眺めていました。蛇が知恵の樹の枝に巻き付くと、まるで、蛇が枝の模様だったかのように一体化して見えました。

 実を採って帰ってきた蛇に前々から気になっていたことを尋ねてみました。

「リリスが受けた罰は何なの?」

「どういう意味だ」

「だって女は夫に従うようにとお父様から言われていたはずよ。それに背いて出ていったのだから罰があるのでしょう?」

「……どうだかな。俺との結婚を許されたことが罰なのかもな」蛇はほとんど呟くように言いました。「直接的な罰は何もなかった。何も」

「やっぱりズルいヒトだわ」

「はっそこがいいんじゃねぇか。リリスはアダムやあの方に言われたことをただ従うだけの女じゃない。知恵の樹の実なんぞ食わなくても自分で考えて行動できるヒトだ。あいつは誰でもない、自分自身を一番愛してる」

 私は驚愕して「お父様でもあなたでもなくて? あなたはそれで平気なの?」

「もちろん平気だ。何を困ることがある。あいつがあいつ自身を愛することに」

 確かにそうです。私もかつて私自身をとても愛していました。けれどそれは“お父様が”“アダムの骨から”創ってくださったからで、お父様とアダムを差し置いて自分を一番に愛するなど考えられません。いけないことのように思いました。けれどもそれのどこがいけないのかちっともわからないのです。
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