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微睡みの夜は明けるべきか。

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 迫りくる、帰る朝あしたに。いつも上手に向き合うことができない。優しくて孤独な夜に包まれながら「夜明けなんて来なければいい」と、そっと想ってしまう。

 一方で口にする価値もないほど無意味な言葉だということを、わたしはよく知っていた。止まない雨はないように、明けない夜もないのだから。

 チチチ、と小鳥のさえずりが遠くの方で聞こえる。薄暗い部屋のカーテンの向こう側に澄みきった朝の気配を感じた。空が白み始めていた。

 ビロードのような滑らかさのあるタオルケットの中から、そっと抜けだす。でも、起こしてしまったみたい。何気なくベッドの上へ置いたわたしの手に彼の手のひらが重なる。

 しなやかな手の温もりに、つい気持ちが引っ張られそうになった。抗うようにして、わたしの思考が動く。

 ——ベッドの上での優しさなんて信用ならないはずなのに、例えば小説だとしたなら多少は意味のあるものとして扱われるのはなぜ? 信じたいの? でも、残念でした。勘違いしてはいけません。彼にとって、わたしはちょっとだけ都合の良い女なのです。


「もう行くの?」という彼の寝起きの掠れた声に、わたしの意識が引き戻される。「うん。今日は1限からだから。また後でね」

 あっさりと返事をして、身支度をする。部屋の隅のコンセントには、ピンク色の充電器が差しっぱなしになっていた。

 ——いわゆる浮気性の彼の部屋には、たくさんの女の影という影が蠢めいているのだけれど、彼は気づいていないのかな?

 脱衣所に落ちた長い髪の毛だったり、洗面台に置かれたハードコンタクトのレンズケースだったりが、わたしには存在意義を求めて闘っているように見える。でも、見えない戦争。「私が、あたしが、わたしが、アタシが」。

 例えば小説だとしたなら、落ちているのは髪の毛なんかではなくて、ピアスや口紅になるのかな? きっとお洒落な雰囲気で描かれるはず……?


 生活感の溢れまくった現実に、思わず笑いだしたくなった。事実は「そのくらいの程度のもの」で、わたし自身も「彼に遊ばれている悲劇のヒロイン」ではない。だから、わたしは足跡を残さないように注意しながらアパートを去る。

 淀みなく歩みを進めるうちに、徐々に辺りが明るくなっていく。空の寂しさが白い光で埋めつくされる。ぽっかりと穴が開くようなことはなかった。もし夜がなかったのなら、少し違う印象を受けたのかもしれない。

 朝焼けのホーム。静かに横たわるベンチへと腰かけた。始発の電車が来るのを、ひっそりと世界の片隅で待つ。いつもよりも長い時間だった。

 だから、心の中の虚しいモグラが地中から顔を出す。つぶらな可愛いらしい瞳で、わたしを見つめてくる。「たぶん、愛することに疲れちゃったんだよね。だって、1対1で人と向き合うことはしんどいでしょ?」

「ハイハイ。そうかもしれないし、そうでないかもしれないね」わたしは適当に返事をした。結局、恋愛ごっこをしてしまうのは、寂しさという一時の感情に流されるからだ。つまり、「お前のせいじゃ、ボケ」

 日常に帰るための電車が、アナウンスと共にホームへ滑りこんでくる。わたしを彼の元から早く遠ざけてくれればいいのに。両開きの扉から乗り込みながら、そう思った。
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