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第八章 赤の魔女

8-5 五百年後の世界は輝かしいばかりじゃない。

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 ベッドから飛び降りたビオラはエイミーのすぐ傍へと上がり、白いシャツの襟を掴んで彼女の肩にかけた。
 胸元で輝く青い石を隠そうとしたのだろう。服の合わせを掴んだまま、小さな手が震えている。

「魔女さん?」
「……お主は、なぜ笑っておるのじゃ?」
「なぜって……これ、やっと手に入れた夜明けの星ルシフェライトなんですよ!」
「そのようなことを聞いてはおらん!」

 ビオラの剣幕にきょとんとしたエイミーは、少し考える素振りを見せた。だが、すぐに何か思いついたようで満面の笑みになる。
 
「えーっとですね、これのおかげで私は生まれ変われたんです。父も認めてくれて、私はレミントン家で工学と魔法の研究をするように──」
「バカか!」
 
 キラキラとした顔で話すエイミーに、ビオラはさらに怒鳴り声をあげた。

「全身に魔法陣を刻むなどと……その傷は一生残るのじゃぞ!」
「そうですね。でも、青の魔女のままでは、私と母は一生幽閉されて過ごしたでしょう。でも、今は自由なんです!」
「自由? そのような体に作り変えられて自由とな? 男と夜を過ごすことはおろか、夏に素肌を晒すことも出来ぬではないか!」
 
 俺の耳は幽閉という言葉に反応したが、怒り心頭しんとうといった様子のビオラは聞き逃したようだ。
 感情のままに声を荒げて、エイミーをにらんでいるビオラの赤い瞳には、今にも溢れそうな涙が浮かんでいた。
 瞬き一つしないのは、涙が零れ落ちるのを必死に堪えているのかもしれない。
 
「男の人ですか? 確かに夏も長袖を切るのは少々苦労ですが……でも、に何の価値があるんですか? 私は今、凄く楽しいですよ」
 
 参ったな。目をぱちくりとして首を傾げるエイミーは、全くビオラの怒りを理解していないようだ。

 二人の価値観は違う。そう言ってしまえばそれまでか。
 ビオラは意外と乙女なところがあるようだ。男と添い遂げる女の幸せを思い描くこともあるのだろう。片やエイミーは、発言から分かるが、色恋に全く興味がない。

 色恋という一点を見ても、二人の意見が噛み合わないのは一目瞭然だな。とは言え、なんとかビオラの気持ちを沈めなければ、話は進まない。
 この先しばらくは寝食を共にするのに、このままなってのも居心地が悪いな。

「ビオラ、落ち着け」
 
 ため息をつきそうになりながら、ビオラに声をかけると、邪魔をするなとばかりに俺のことまで睨んでくる始末だ。

「お前がそいつのことで泣く必要はない」
「……何じゃと?」
「そいつは、自分の意志でやっているんだ。俺たちが口を挟むことじゃない」
「しかし、女子おなごが──」
「性別は関係ないだろう。世の中には、生きるために体を売る奴がいる。罪に手を染めながら食いつなぐ奴がいる。それは、今も昔も同じだ」

 罪に手を染めながら。その言葉にびくりと肩を震わせたビオラは、エイミーのシャツから手を放した。
 
「そいつは、魔力を手に入れなければ生きていけなかった。それだけのことだ」
「しかし……」

 かぶりを振ったビオラの瞳から、ついに涙が零れ落ちた。小さな肩が戦慄わなないで、その顔が下を向く。
 
「エイミー、少し二人にしてくれるか?」
「はい。構いませんが……」
「下にカフェがあっただろう。そこで待っていてくれ。ビオラが落ち着いたら呼びに行く」
「承知しました」

 ベッドから降り、服を整えたエイミーはバックパック片手に部屋を出ていった。
 ドアの閉ざされる音が静かに響く。
 ベッドの上に取り残されたビオラの横に下ろし、うつむくその小さな頭に手を乗せた。

「ビオラ……お前の目に、この五百年後はどれだけ輝いて見えてるか知らないが、案外、暗い部分や汚れた世界もあるんだ」

 五百年前の魔法大国ネヴィルネーダがどう栄えていたか、俺は知らない。だが、今までのビオラの表情を思い出す限り、当時よりも輝かしいもので溢れているのだろう。もしかしたら、ビオラの知る庶民の生活はもっと貧しく、街中に死体が転がることもあったのかもしれない。

 今の時代、町に死体が転がるのはまれだが、明日をも知れぬ生活を送る人間もいる。見えにくくなっただけで、貧富の差も、厳しい現実ってのも存在している。

「魔術師にも色々いて、俺のように恵まれた環境ばかりじゃない。悪事に手を染めなければ生きていけない奴もいる。その例の一つが、おそらく、エイミーだ」
「……悪事」

 エイミーは戦争屋の娘だ。
 家業に関わっているのは間違いないだろうし、彼女の口ぶりからすると、そうしないと生きていけない環境下なのだろう。それは、五百年前にビオラが利用されて悪事の片棒を担いでいたことと重なるのではないか。

「お前になら、分かるんじゃないのか? 形は違うかもしれないが、エイミーも生きるために選んだんだ」

 エイミーには選択肢などなかったのかもしれない。それでも、幽閉という環境から抜け出すために、彼女は選んだ。
 小さな手が俺のシャツを必死に掴んだ。赤い瞳からは涙が零れ落ち、小さな体が縋りついてくる。
 どうやら、俺の言いたいことは伝わったらしい。

「あの魔法陣は、俺も胸糞悪いって思う。けどな……あいつを否定してやるな」
「あ、あ、あぁああっ!」
 
 言葉にならない声を上げて泣き叫んだビオラを抱きしめると、止めどなく溢れる涙が、俺の胸元を濡らした。
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