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第九章 魔女の記憶

9-5 目が覚めると、ビオラはいつも通りに笑っていた。

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 瞼を上げると、白い天井が視界に入ってきた。
 これは夢の続きなのか。──しばらく、ぼんやりとする意識の中で考えていると、聞き覚えのある声が俺を呼んだ。

「ラス、起きたかの?」
 
 声のする方を向くと、すぐ傍でビオラが俺の顔を覗き込んでいた。
 つぶらな赤い瞳が繰り返し瞬かれた。小さな口からほっと安堵の息がこぼれ、幼い顔に笑みが浮かんだ。

「まだ寝ぼけた顔をしておるの」
「ここは……」
 
 ズキズキと痛む頭を抱えるようにして体を起こしたことで、俺はベッドの上に中途半端な状態で倒れていたと気づいた。
 気を失う前の記憶が、おぼろ気に蘇った。
 そうだ。寝続けるビオラをベッドに降ろし、俺はその端に座った状態で魔力を移そうと試みたんだ。そのまま急激な魔力の損失で意識が保てなくなり、今まで気を失っていたようだ。

「ラスさん、大丈夫ですか?」
「うむ。まだ少し朦朧もうろうとしているようだが、問題はなさそうじゃ」
「良かったです。それでは、急いでお夕飯を調達してきます」

 俺を見てほっと胸を撫で下ろしたのはエイミーだ。彼女は床に置いてあったバッグを拾うと、慌ただしく部屋を出ていった。
 ふと視界に入った窓の外は、すっかり日が沈んで暗がりになっている。
 まだ明るい内にここへ辿り着いたことを考えると、俺は随分長いこと気を失っていたようだ。
 まだ力が入らない掌を見ながら、俺はビオラに声をかけた。

「ビオラ、大丈夫なのか?」
「何がじゃ?」
「何がって、お前、魔力が足らなくて」

 そう言いかけた俺は違和感に気づき、ベッドの上にと座るビオラを二度見した。
 ぼんやりとしていた意識が一気に覚醒した。何せ、そこに座っていたのは──

「おい……その姿!」
「うむ。幼女に戻ってしまったのじゃ」

 にこっと笑うビオラの姿は、六歳程度の幼女に戻っていた。

「エイミーが買ってくれたワンピースも、靴も、しばらくはお預けじゃの」
「どういうことだ。お前、成長したんじゃなかったのか?」
「あれは、何と言うか……」

 曖昧あいまいに笑ったビオラは、俺から視線を逸らした。
 
「誤魔化しみたいなものじゃ」
「……誤魔化し?」
「うむ。食ろうた魔力で体を活性化させようとしたのじゃが、存外、難しくての」
「それは、魔力の定着がってことか?」
「そんなとこじゃ。だから種族変化の魔法を応用して、十四、五の姿になってみたのじゃがの」
 
 実際、取り込んだ魔力を体内に分散して留めておくことは、やはり難しかったということか。
 種族変化の魔法で見た目だけ変えられたのは良かったが、それを維持するための魔力がさらに必要だった。そう残念そうに語るビオラは、小さな肩を落としてため息をついた。気を失うことで魔法が解けると思いきや、微量の魔力でそれは維持され続けたようだ。

「……なんで、すぐ、元に戻らなかったんだ」
「まさか気を失うほど魔力を費やすとは思わなかったのじゃ」

 維持できると高をくくっていたということか。
 ビオラのあまりにも呆れる判断に深々と息を吐くと、彼女は小さな唇をちょっと尖らせて視線を逸らした。

「あのまま、起きないかと思ったんだぞ」
「まさか解除が間に合わずに寝続けるとは思わなかったのじゃ」
「俺の魔力で足りなかったら、どうなってたか……少しは反省しろ!」

 自分でも驚くほどの怒鳴り声を発すると、ビオラはその瞳を大きく見開いた。そして、少し困ったように笑うと「すまぬ」と呟いた。

「何、笑ってんだ。俺は、真面目に──」

 説教の一つもしないと気が済まず、勢いのままに怒鳴り散らしてやろうかと思った。しかし、唐突にビオラが俺の首に両腕を回して抱き着いてきたことで、言いたいことが頭から綺麗さっぱり消えた。
 子どもらしい柔らかくてしっとりした頬が首筋に触れた。

「エイミーが買ってきた服を着て、浮かれておったのじゃ」

 小さな声が耳元で震え、温かな吐息がかかる。

「元の姿に近づけたと……」
「焦んなくても、ちゃんと封印を解けば戻れるだろう?」
「分かっておっても、嬉しかったのじゃ」

 小さな頭を撫で、柔らかなハニーブロンドの髪を指でくと、俺の首筋にぽたぽたと熱いものが落ちた。
 俺の首根っこにしがみついたままのビオラは、時折、鼻を鳴らしながら泣き続けた。それは幼女に戻ったことへ落胆したことへの涙か、それとも、目覚めることへ安堵しての涙なのか。
 
「ラス……妾を起こしてくれて、ありがとう」

 消えてしまいそうな声が耳元で、そう告げた。
 いつしか、俺の怒りはどこかに消えてしまった。その代わりに、夢の中で感じた焦燥感が込み上げてきた。
 小さな肩を抱き締めると、驚いたように、その身体がびくりと反応した。

「目が覚めてよかった。もう、無茶するなよ」

 そう忠告すれば、ビオラは再び泣き出した。
 泣かせるつもりはなかったんだけどな。
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