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この手を伸ばす先:ティレアヌス
眠れない夜が明ける時
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このままアウリスに帰れないのかもしれない。なら、諦められるよう荷物を整理した方がいいのかな。
明美の脳裏にそんな考えがよぎった。日記を書く手が止まった。時計を見ると夜の11時。さすがにフリーダはもう寝たと思う。私は……こんな考えが浮かんでしまったからには眠れないだろうな。
私はベッドから飛び出し、部屋履きに足を突っ込んだ。
クローゼットのドアを開けた。このクローゼットはやたら広い、衣装部屋とでも呼んだほうが良さそう。クローゼットの中には衣装がどっさり。主に春夏のドレス。冬ものはあまりない。ほとんどアウリスの方にある。ドレスをかき分け、クローゼットの中に入る。視界がパステルカラーで埋まる。手前のドレス、つまり夏物のドレスは淡い水色や黄色が多い。ほとんどフリルや金刺繍はついていない。だってほとんどティレアヌスの店で買ったドレスだから。ティレアヌスのドレスってめっちゃシンプル。
私はぷはぁと息を吐いた。背中やおでこから汗が止まらない。クローゼット暑い。蒸し焼きになりそう。クローゼットの片付けは今度……。寝室に戻ろう。向きを変え歩き出すと、鈍い音がした。つま先とおでこの痛みが急襲した。壁にぶつかった。ドレスのせいでほとんど視界を奪われているから。私はぐぬぬとしゃがみ込んだ。目の前にはスーツケース。たぶんつま先をスーツケースにぶつけて、躓いて壁におでこをぶつけた。ため息を吐いた。
重たいスーツケースをどうにかクローゼットから出した。ゴトンガタンと派手な音がした。ドアが開き、アンネリースが険しい顔を覗かせた。床にスーツケースを持ったまま座り込んでいる私を見たアンネリースの表情が微かに緩んだ。
「夜中にいかがなさったのですか?」
「ちょっと片付け。なんとなく思いついたの」
「手を貸しましょうか?」
「いいえ。ありがとう」
アンネリースはなにか言いかけてからそっと部屋から出た。時計を見るともう11時半。
私はバンっとスーツケースを開けた。わざと大きな音を立てているわけじゃない。中身はほとんど入っていないから、このスーツケースが重すぎるだけ。ドレスや化粧品、日記帳に裁縫籠など普段使うものは出した。中に入っているのは小さな箱。開けてみると木で作られたクローバーを模したペンダントだった。去年の記憶が瞬く間に蘇った。
結婚前にフリーダが贈ってくれたペンダントだった。確かティレアヌスに里帰りしていたフリーダからのお土産だった。懐かしくて懐かしくてあくびが出た。ペンダントを持ち上げランプの光に翳した。木の色のままのペンダントは火に翳すと暖かな後光を放った。
「懐かし~」
確かハイド伯爵が暗殺未遂に遭った後のことだった。
私は無事だったハイド伯爵のことを思いニマニマとした。人前では絶対にニマニマしないけどね。ハイド伯爵が無事で良かった~。
そう言えば……。
私はふっと真顔になった。もしあの時ハイド伯爵が亡くなっていたら私はどうなっていたんだろう? イギリスへ強制送還? それとも牢屋行き? 国王陛下の側妃? 無事だったから良かった。けれど……。
私は目を細めた。脳裏にフリーダの「いつか閣下とエルサ様がお心を通わせられる日が訪れますように」という祈りの言葉が過ぎった。
私はペンダントを握ったまま立ち上がった。
1年経っている。ハイド伯爵と結婚してから。未だ心が通っているとは言い難い。そもそもハイド伯爵に私は必要ないと思う。そうでなければハイド伯爵は新たにマカレナを娶らない。私を第二夫人には降ろさない。
頭を軽く振り、胸元に手を当てた。お母さんがくれたペンダント、どこにあるんだろう? 胸元から手を離し、フリーダをペンダントを見た。
なるべく考えないようにはしていた。マカレナのことは可愛いと思っていた。でも今度ハイド伯爵が彼女を第一夫人とする。マカレナがいい子だからモヤモヤしてしまう。醜いよね。ハイド伯爵に恋をしたことなんてない。だから嫉妬するのもおかしい。でも割り切れない気持ちはある。ハイド伯爵は外国人てある私の出自を偽るため実の叔父様の名前まで使った。「彼は私を家族として受け入れてくれる」と期待してしまったからこそ。
つぅと涙がこぼれた。眠れない夜は嫌い。だって終わりのない暗い考えに陥ってしまうから。どうしようもなく死にたくなる。
この国に来て3年。なろう系なら主人公は何かを成している時期。でも私に出来ない。だって私が持っているものは全部与えられたもの。私は主人公にはなれない。
7、8歳くらいのころからずっと、死にたいという気持ちと抗っていた。継父にとって、母にとって私がいらない子だったとしても戦っていた。自分なりに。でも戦っていたんじゃない、見ないふりをしていただけだった。
首にペンダントを掛け、ベットに顔を埋めた。消えたい。見ないふりをしようとしたって無駄。この世界から消えたい。誰も私を必要としていないこの世界から。
顔を上げた。カーテンの隙間から光が差し込んでいる。カーテンを捲ると静かな朝日が輝き始めていた。時計を見ると5時だった。いつの間にか寝てたみたい。
階下からバタバタと足音が聞こえる。ダニエルはもう起きているのかな? うん、きっと起きて何らかの仕事をしている。この時間だと……そうね、お湯を沸かしたり朝食の準備をする誰かの使いっ走り。
私に何が出来るのかしら? 語学力は一丁前にあるのに役立たずのエアリー明美。私に何が出来るのかしら? 先日目尻を赤くしていたダニエルのために。使用人らの人間関係が原因なら女主人として何かか出来る。家庭の事情なら……、ご家族が亡くなったのなら慰められる。ご病気なら医者を遣わせばいい。私に出来ることかしら?
私は窓の鍵を開け、バルコニーに出た。夏の朝らしい爽やかだけど蒸し暑い風を浴びた。
閣下、私はどこまで手を出してもいい? いや、閣下が何と言おうと手を出そう。だって人間、いつかは死ぬんだから。生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きてその先で死ぬ。だから今はできる限りやってやる。
朝食を終えた後、私は図書室に入った。いつも通り本を取り、庭園へ向かいベンチに腰掛けた。背後ではダニエルが植物に水をやり、合間合間に雑草をむしっている。私はダニエルの方に顔を向けた。
「ダニエル。今話せる?」
「はい! ただいま!」
ダニエルはパッパッとじょうろを置き、手についた土を払い落とした。話せる状況ではないよね? ダニエルは子リスのように素早く私の前に立った。どう切り出せばいいのか考えながら私は微笑んだ。
「あなた、10歳だったよね」
「はい。秋には11歳になります」
「私が把握している限り、この別荘にいる人間ではあなたが1番年下ね」
ダニエルはちょっと嫌そうに「はい」と答えた。
私は「いじめられていない?」とダニエルの琥珀色の瞳を見つめた。
ダニエルは「はい、全くいじめられてはおりません。そのような噂があったら真っ赤な嘘です」と首を傾げた。
いじめじゃないなら良かった。ただ人間関係については見張れる限り見張ろうかなぁ。暇だし。さて人間関係が原因じゃないとしたら……。
「ダニエル、ご家族はいるの?」
「はい」
「何人家族?」
ダニエルは言葉が詰まったように唇を噛んだ。「3人です」と口を開いた。
「母と弟と僕の3人です」
「弟さんはおいくつ? どうしているの?」
「弟は8歳です。新聞を売っています」
「お母様は? お元気?」
ダニエルはまた言葉に詰まったようだ。
「元気です。今は繕いものをしています。例えば兵隊さんのシャツとか!」
「あら、すごいのね」
兵隊のシャツなんて見たことないけどね。普通の縫い物より給料がいいのかな? それとも大量のシャツを縫うだろうから、安いの? ただ、3人家族なのに父親はいないんだ。私と同じ。
「弟さんも大きくなったらどこかのお屋敷で働くの?」
「たぶん、そうなります。僕ら兄弟も母もみんなそうしてきたので!」
矛盾に気付いちゃった。私は小さく首を傾げた。
「兄弟は弟さんだけじゃないの?」
ダニエルはパッと両手で口を隠した。私はダニエルの手を取った。
「お兄様、お姉様もいらっしゃるの?」
ダニエルは「兄はいません」と頭を振った。
「お姉様がいらっしゃるのね。家族に数えられていない、ということは別々に育ったの? 亡くなられたの?それともご結婚なさったの?」
「違います」
私はベンチの空いているスペースを軽く叩いた。
「座って。お姉様はどうなさっているの?」
ダニエルは腰掛けた。俯きシャツの裾を弄っている。
「姉はたぶん結核です。それで……仕事を辞めさせられました。医者は呼べないし……。なのに僕は会いに行っちゃだめって」
ダニエルは泣きじゃくっている。私は一瞬目をそらすようにアンネリースを見てから、ダニエルを見た。
「なぜダメなの?」
アンネリースがため息を吐いた。ダニエルは「えっ?」と声を漏らした。
「奥様に移したらまずいからです」
「私? 私、風邪知らずだよ。去年のは例外中の例外」
私は祈るように軽く目を瞑った。後ろのアンネリースに軽く手招きをし、小声で尋ねた。
「お医者さんを呼ぶのにはいくら掛かるの?」
「結核でしたら200ゴルディーほどになります」
「それってどれくらいすごいの?」
「庶民が触れることのあるのはせいぜい30スティアまででしょう」
「うげっ!」
私の持つ知識によると1ゴルディーは10スティアの100倍。200ゴルディーなんて私が出して許される金額? じゃあ……。
「ねえ。あなたのお姉様がいる所に私を連れて行ってくれない?」
「え!? でも奥様のお体に何かがあったら?」
「何かって?」
ダニエルは急に黙ってしまった。何で?
そのまま仕事に戻ったダニエルを見送った。アンネリースが静かに口を開いた。
「屋敷内では奥様のご懐妊の噂があります。私とフリーダ共になるべく耳に入らぬよう努めておりますが」
「え? そんなわけないじゃない」
「存じ上げております」
だから私は行っちゃダメなのか。ハイド伯爵が来たのは先々月。妊娠が発覚するまで普通何ヶ月掛かるの? ハイド伯爵が滞在していた時期はずっと同じ部屋で寝てたし、あり得ない話じゃない。
私は目を瞑りお母さんの姿を浮かべた。女の子は母親に似るって聞いたことがある。胸に手を当てた。私がちゃんと母親になれずはずがないから妊娠はしていないと思う。そもそもまた生理が遅れてるから、妊娠してないとは言い切れない。ま、この誤解が2、3ヶ月後には消えているでしょ。
私の知る限り妊婦には風邪が伝染っちゃいけない。たぶん風邪より結核の方がヤバいだろうし。そう言えば結核ってどのくらいヤバいんだっけ? 私の周囲には結核になった人はいなかった。結核って伝染るんだっけ? でも昔はバッタバタ亡くなっていたらしい。患者とその家族は差別を受けていたって何かの本で読んだことがある。
「もし私が結核になっちゃったらダニエルはどうなるの?」
「ハイド伯爵のご意思にもよりますが、ダニエルの未来は簡単に潰えるでしょうね」
お節介かもしれない。医療知識のない私には看病は無理。少なくとも弟さんだけでも預かれないかな? 小さな子どもは免疫力が低いし。ハイド伯爵夫人に何かがあったら世間的には大事だけど実際は大したことない。私はいない方がいいと思う。とは言え一応……。
私はすっと立ち上がり、部屋へ向かった。遺言書でも書いておこう。
明美の脳裏にそんな考えがよぎった。日記を書く手が止まった。時計を見ると夜の11時。さすがにフリーダはもう寝たと思う。私は……こんな考えが浮かんでしまったからには眠れないだろうな。
私はベッドから飛び出し、部屋履きに足を突っ込んだ。
クローゼットのドアを開けた。このクローゼットはやたら広い、衣装部屋とでも呼んだほうが良さそう。クローゼットの中には衣装がどっさり。主に春夏のドレス。冬ものはあまりない。ほとんどアウリスの方にある。ドレスをかき分け、クローゼットの中に入る。視界がパステルカラーで埋まる。手前のドレス、つまり夏物のドレスは淡い水色や黄色が多い。ほとんどフリルや金刺繍はついていない。だってほとんどティレアヌスの店で買ったドレスだから。ティレアヌスのドレスってめっちゃシンプル。
私はぷはぁと息を吐いた。背中やおでこから汗が止まらない。クローゼット暑い。蒸し焼きになりそう。クローゼットの片付けは今度……。寝室に戻ろう。向きを変え歩き出すと、鈍い音がした。つま先とおでこの痛みが急襲した。壁にぶつかった。ドレスのせいでほとんど視界を奪われているから。私はぐぬぬとしゃがみ込んだ。目の前にはスーツケース。たぶんつま先をスーツケースにぶつけて、躓いて壁におでこをぶつけた。ため息を吐いた。
重たいスーツケースをどうにかクローゼットから出した。ゴトンガタンと派手な音がした。ドアが開き、アンネリースが険しい顔を覗かせた。床にスーツケースを持ったまま座り込んでいる私を見たアンネリースの表情が微かに緩んだ。
「夜中にいかがなさったのですか?」
「ちょっと片付け。なんとなく思いついたの」
「手を貸しましょうか?」
「いいえ。ありがとう」
アンネリースはなにか言いかけてからそっと部屋から出た。時計を見るともう11時半。
私はバンっとスーツケースを開けた。わざと大きな音を立てているわけじゃない。中身はほとんど入っていないから、このスーツケースが重すぎるだけ。ドレスや化粧品、日記帳に裁縫籠など普段使うものは出した。中に入っているのは小さな箱。開けてみると木で作られたクローバーを模したペンダントだった。去年の記憶が瞬く間に蘇った。
結婚前にフリーダが贈ってくれたペンダントだった。確かティレアヌスに里帰りしていたフリーダからのお土産だった。懐かしくて懐かしくてあくびが出た。ペンダントを持ち上げランプの光に翳した。木の色のままのペンダントは火に翳すと暖かな後光を放った。
「懐かし~」
確かハイド伯爵が暗殺未遂に遭った後のことだった。
私は無事だったハイド伯爵のことを思いニマニマとした。人前では絶対にニマニマしないけどね。ハイド伯爵が無事で良かった~。
そう言えば……。
私はふっと真顔になった。もしあの時ハイド伯爵が亡くなっていたら私はどうなっていたんだろう? イギリスへ強制送還? それとも牢屋行き? 国王陛下の側妃? 無事だったから良かった。けれど……。
私は目を細めた。脳裏にフリーダの「いつか閣下とエルサ様がお心を通わせられる日が訪れますように」という祈りの言葉が過ぎった。
私はペンダントを握ったまま立ち上がった。
1年経っている。ハイド伯爵と結婚してから。未だ心が通っているとは言い難い。そもそもハイド伯爵に私は必要ないと思う。そうでなければハイド伯爵は新たにマカレナを娶らない。私を第二夫人には降ろさない。
頭を軽く振り、胸元に手を当てた。お母さんがくれたペンダント、どこにあるんだろう? 胸元から手を離し、フリーダをペンダントを見た。
なるべく考えないようにはしていた。マカレナのことは可愛いと思っていた。でも今度ハイド伯爵が彼女を第一夫人とする。マカレナがいい子だからモヤモヤしてしまう。醜いよね。ハイド伯爵に恋をしたことなんてない。だから嫉妬するのもおかしい。でも割り切れない気持ちはある。ハイド伯爵は外国人てある私の出自を偽るため実の叔父様の名前まで使った。「彼は私を家族として受け入れてくれる」と期待してしまったからこそ。
つぅと涙がこぼれた。眠れない夜は嫌い。だって終わりのない暗い考えに陥ってしまうから。どうしようもなく死にたくなる。
この国に来て3年。なろう系なら主人公は何かを成している時期。でも私に出来ない。だって私が持っているものは全部与えられたもの。私は主人公にはなれない。
7、8歳くらいのころからずっと、死にたいという気持ちと抗っていた。継父にとって、母にとって私がいらない子だったとしても戦っていた。自分なりに。でも戦っていたんじゃない、見ないふりをしていただけだった。
首にペンダントを掛け、ベットに顔を埋めた。消えたい。見ないふりをしようとしたって無駄。この世界から消えたい。誰も私を必要としていないこの世界から。
顔を上げた。カーテンの隙間から光が差し込んでいる。カーテンを捲ると静かな朝日が輝き始めていた。時計を見ると5時だった。いつの間にか寝てたみたい。
階下からバタバタと足音が聞こえる。ダニエルはもう起きているのかな? うん、きっと起きて何らかの仕事をしている。この時間だと……そうね、お湯を沸かしたり朝食の準備をする誰かの使いっ走り。
私に何が出来るのかしら? 語学力は一丁前にあるのに役立たずのエアリー明美。私に何が出来るのかしら? 先日目尻を赤くしていたダニエルのために。使用人らの人間関係が原因なら女主人として何かか出来る。家庭の事情なら……、ご家族が亡くなったのなら慰められる。ご病気なら医者を遣わせばいい。私に出来ることかしら?
私は窓の鍵を開け、バルコニーに出た。夏の朝らしい爽やかだけど蒸し暑い風を浴びた。
閣下、私はどこまで手を出してもいい? いや、閣下が何と言おうと手を出そう。だって人間、いつかは死ぬんだから。生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きて生きてその先で死ぬ。だから今はできる限りやってやる。
朝食を終えた後、私は図書室に入った。いつも通り本を取り、庭園へ向かいベンチに腰掛けた。背後ではダニエルが植物に水をやり、合間合間に雑草をむしっている。私はダニエルの方に顔を向けた。
「ダニエル。今話せる?」
「はい! ただいま!」
ダニエルはパッパッとじょうろを置き、手についた土を払い落とした。話せる状況ではないよね? ダニエルは子リスのように素早く私の前に立った。どう切り出せばいいのか考えながら私は微笑んだ。
「あなた、10歳だったよね」
「はい。秋には11歳になります」
「私が把握している限り、この別荘にいる人間ではあなたが1番年下ね」
ダニエルはちょっと嫌そうに「はい」と答えた。
私は「いじめられていない?」とダニエルの琥珀色の瞳を見つめた。
ダニエルは「はい、全くいじめられてはおりません。そのような噂があったら真っ赤な嘘です」と首を傾げた。
いじめじゃないなら良かった。ただ人間関係については見張れる限り見張ろうかなぁ。暇だし。さて人間関係が原因じゃないとしたら……。
「ダニエル、ご家族はいるの?」
「はい」
「何人家族?」
ダニエルは言葉が詰まったように唇を噛んだ。「3人です」と口を開いた。
「母と弟と僕の3人です」
「弟さんはおいくつ? どうしているの?」
「弟は8歳です。新聞を売っています」
「お母様は? お元気?」
ダニエルはまた言葉に詰まったようだ。
「元気です。今は繕いものをしています。例えば兵隊さんのシャツとか!」
「あら、すごいのね」
兵隊のシャツなんて見たことないけどね。普通の縫い物より給料がいいのかな? それとも大量のシャツを縫うだろうから、安いの? ただ、3人家族なのに父親はいないんだ。私と同じ。
「弟さんも大きくなったらどこかのお屋敷で働くの?」
「たぶん、そうなります。僕ら兄弟も母もみんなそうしてきたので!」
矛盾に気付いちゃった。私は小さく首を傾げた。
「兄弟は弟さんだけじゃないの?」
ダニエルはパッと両手で口を隠した。私はダニエルの手を取った。
「お兄様、お姉様もいらっしゃるの?」
ダニエルは「兄はいません」と頭を振った。
「お姉様がいらっしゃるのね。家族に数えられていない、ということは別々に育ったの? 亡くなられたの?それともご結婚なさったの?」
「違います」
私はベンチの空いているスペースを軽く叩いた。
「座って。お姉様はどうなさっているの?」
ダニエルは腰掛けた。俯きシャツの裾を弄っている。
「姉はたぶん結核です。それで……仕事を辞めさせられました。医者は呼べないし……。なのに僕は会いに行っちゃだめって」
ダニエルは泣きじゃくっている。私は一瞬目をそらすようにアンネリースを見てから、ダニエルを見た。
「なぜダメなの?」
アンネリースがため息を吐いた。ダニエルは「えっ?」と声を漏らした。
「奥様に移したらまずいからです」
「私? 私、風邪知らずだよ。去年のは例外中の例外」
私は祈るように軽く目を瞑った。後ろのアンネリースに軽く手招きをし、小声で尋ねた。
「お医者さんを呼ぶのにはいくら掛かるの?」
「結核でしたら200ゴルディーほどになります」
「それってどれくらいすごいの?」
「庶民が触れることのあるのはせいぜい30スティアまででしょう」
「うげっ!」
私の持つ知識によると1ゴルディーは10スティアの100倍。200ゴルディーなんて私が出して許される金額? じゃあ……。
「ねえ。あなたのお姉様がいる所に私を連れて行ってくれない?」
「え!? でも奥様のお体に何かがあったら?」
「何かって?」
ダニエルは急に黙ってしまった。何で?
そのまま仕事に戻ったダニエルを見送った。アンネリースが静かに口を開いた。
「屋敷内では奥様のご懐妊の噂があります。私とフリーダ共になるべく耳に入らぬよう努めておりますが」
「え? そんなわけないじゃない」
「存じ上げております」
だから私は行っちゃダメなのか。ハイド伯爵が来たのは先々月。妊娠が発覚するまで普通何ヶ月掛かるの? ハイド伯爵が滞在していた時期はずっと同じ部屋で寝てたし、あり得ない話じゃない。
私は目を瞑りお母さんの姿を浮かべた。女の子は母親に似るって聞いたことがある。胸に手を当てた。私がちゃんと母親になれずはずがないから妊娠はしていないと思う。そもそもまた生理が遅れてるから、妊娠してないとは言い切れない。ま、この誤解が2、3ヶ月後には消えているでしょ。
私の知る限り妊婦には風邪が伝染っちゃいけない。たぶん風邪より結核の方がヤバいだろうし。そう言えば結核ってどのくらいヤバいんだっけ? 私の周囲には結核になった人はいなかった。結核って伝染るんだっけ? でも昔はバッタバタ亡くなっていたらしい。患者とその家族は差別を受けていたって何かの本で読んだことがある。
「もし私が結核になっちゃったらダニエルはどうなるの?」
「ハイド伯爵のご意思にもよりますが、ダニエルの未来は簡単に潰えるでしょうね」
お節介かもしれない。医療知識のない私には看病は無理。少なくとも弟さんだけでも預かれないかな? 小さな子どもは免疫力が低いし。ハイド伯爵夫人に何かがあったら世間的には大事だけど実際は大したことない。私はいない方がいいと思う。とは言え一応……。
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