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一章 ラノベ作家の朝は早い

#1

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 ライトノベル作家の朝は早い……嘘です。

 ここは東京都武蔵野市にある団地の一室。印税が入ったので、それまで住んでいた新聞販売店の住み込み部屋から引っ越して一月が経つ。

「ずっと毎朝3時に起きていたのに早起きできなくなったなあ」

 この部屋の主は嘆息する。新聞配達の仕事を辞めて生活サイクルが狂ってしまったようだ。

「自分には少しおしゃれすぎるかもしれない」

 らしくない部屋なのは事実だが、そろそろ馴れてもいい頃だ。築年数はそこそこ古いが、有名アパレルメーカーとコラボレーションされたリノベーション工事が入り、部屋の内部は新築のデザイナーズマンションのような瀟洒な作りになっている。

 壁にかかった時計を見ると午前11時を過ぎていた。今日は土曜日。彼の時間割に大学の授業は無いが、午後近隣に用事がある。

「起きるか」

 若いころ、と言って今でも彼はまだ21歳だが、少年時代は旅をよくしていた。そのせいでどこでも寝ることができた。柔らかいベッドよりも、床の上に布団を敷いて眠る方が好きだった。キャラバンに参加し、行商人のテントにやっかいになることもあった。絨毯敷きだとなお良い。ここではフローリングの床の上に畳を2畳分買ってきてその上に布団を敷いて寝床とした。リノベーション会社のサイトではこの部屋と同じ間取りの白を基調とした部屋に、やはり白いシングルベッドが似つかわしいと推奨されていた。昼間出かける予定が無い日は、敷布団か掛け布団のどちらかをベランダに干している。

 季節は秋。暖かくも寒くもない過ごしやすい季節である。日は短くなってきたから、午後4時前には取り込んだ方がいいだろう。

 日課がある。

 MacBookの電源を入れてパスワードを入力する。小説を書き始めたころ、同じオフィスソフトを使用するのにもMacはWindowsマシンよりアプリの起動が遅く、アップデートが頻繁に入りなかなか作業に入れないのでまどろっこしいと思っていた。しかし最近は大学の講義の宿題でレポートを書く以外はワープロソフトで原稿を書くことも少なくなっていた。

 ワープロソフト以外にも、小説家にとって執筆に適したエディターソフトがいくつも存在してどれを使うかは作家の好みであるのだが、最近は特に小説家志望者に人気のwebサービスがあり、オンラインストレージにテキストを保存することが多い。

 Macを好むのは、音声認識と直感的な操作性が優れているからだ。

「hey,siri」

「はい、何をしますか」

 iPhoneユーザーにはお馴染みの機械音声が返事をする。

「サファリを起動して 小説家になろうよ を開く」

 webブラウザーの起動とともに特定のサイトを開くこともできた。

 このあたりはマシンが聞き取りやすいようなコツを要する。静かな部屋で、なるべく抑揚のない声で話すと指示を認識されやすい。

「小説家になろうよ」は月間10億ページビューを超えると言う創作系では屈指の人気サイトだ。ここに投稿して人気が出た作品は出版社から書籍化のスカウトが来る。

 2年前、大学の講義で小説の書き方を習った。その時には箇条書きの羅列でしかなかった文章を思うところあって書き直し、せっかくだからサイトに投稿をしてみた。

 この作品が多くの人に読まれるようになり、彼の心に火が付いた。小説賞に応募すれば審査員が作品を読んでくれ、評価の高いものは出版されることもあるが通常、読者は完成した作品のみを読む。執筆は本来孤独な作業であるはずなのだが、ネットで作品を公開することが一般的になった昨今では、書いたものを投稿すればすぐに読者がつき、次の更新を期待される。これが楽しく病みつきなる者も多いと言う。喩えるなら、小説よりも漫画作品の連載形式に近いかもしれない。以来、彼も毎日少しずつだがほぼ欠かさず内容を更新している。彼の名前は 東方勇(ひがしかた いさみ)。ペンネームは、 東上武(とうじょう たけし)とした。

 毎日1000文字ほど書いて投稿すると、100日で10万文字。文庫本一冊の文章量がだいたい12万文字ぐらいで300ページになると言われているが、改行やセリフの多さによっても変わってくる。

 週一回のペースで5000字ほど更新すると読みごたえがあると言うが、読み手の環境も多様でコンピューターの広い画面で読む者、スマートフォンで通勤や通学途中に読むもの、少なくなりつつあるがいまだにガラケーで読む者もいる。小さい画面で読む人には移動中の暇つぶしに毎日1000文字程度更新されるものを好む人もいるのだと言う。

 自分が書籍化の作業の中で多く時間を費やしたのが編集者の「もっと会話文を増やしましょう」という指示への対応だった。授業の課題として書いていたころの文章では場面や風景の描写が箇条書きで続くような説明的な文章だった。

 セリフ以外の説明の部分を「地の文」と言う。一般的な小説に比べるとライトノベルは軽妙な会話文が多いかもしれない。それを嫌う読書家もいるが、若者を中心に気楽に読めると人気がある。

 いま書いている作品は、書籍化された作品の最新話である。

「というか、ずっと一つの物語しか書いていない」

 いまやネット小説の投稿サイト出身の人気作家は多くいるが、実績ができると新作は書下ろしで出版社から刊行することが多い。他方、勇のように新作も変わらずネットで発表する作家もいた。出版社もどちらかを強いることは少ない。ネットに掲載すると無料で読めるが、宣伝効果も高く、本になった時にはネットに掲載された際の荒い文章が推敲され、美麗な挿絵や扉絵がつくので改めて購入する付加価値があるのである。

 さて、彼はどんなジャンルの小説を書いているのか。このサイトにおいて一番人気があるのは、ファンタジー小説。なおかつ恋愛要素のある作品。ごく普通の学生が異世界から召喚魔法などによって呼び寄せられ、現地で現代知識を駆使して活躍するという筋立ての作品が定番であった。

 1時間ちょっと執筆活動を行い、文章を保存した。後でもう一回読み直して投稿する。

 桜堤団地の最寄り駅に武蔵境駅がある。若者の住みたい街NO.1の吉祥寺に近い地域だ。

 団地そばには東武ストアがあり、駅周辺にも飲食店は多い。が、今日のところは昨日買っておいた豆腐、納豆にご飯とみそ汁が朝昼兼ねる食事となった。

「そろそろ行くか」

 午後3時の約束だった。部屋を出て階段を降りる。同じ建物がずらりと並ぶ団地の中庭を歩いて二丁目方面に向かう。団地の区画をほぼ端から端まで歩く。

 団地にはコミュニティカフェと呼ばれる施設がいくつかある。コミュニティカフェとは住民が中心となって運営され、地域の交流や情報発信の拠点となる施設のことだ。運営者も行政がかかわっていたり、NPO法人であったり、施設やグループごとに取り組むテーマも異なる。

 勇が参加しているカフェは、彼の通う大学が運営に携わっていて、学生が一定時間数、ここでの活動に参加するとボランティアの単位も付与される。一般的に大学生が卒業するまでに習得しなければならない単位数は126単位。週一回の授業に1年間出席して試験の結果単位を得られれば4単位。前後期の半期いずれかで完結する科目であれば2単位が与えられる。

 とくに卒業が危ないような学生でも勇は無かったので、単位にこだわることは無かったが彼の執筆活動を知った教授から勧められてこのコミュニティカフェ「武蔵野ネット」に参加することにした。

「武蔵野ネット」は、二丁目端の棟の1階にある。ふとカフェの前で足を止めた。建物の壁にもたれるように地面に座っている少年がいる。その少年に勇は見覚えがあった。かつて旅をして暮らしていたころの同胞(はらから)によく似ている。もちろんその人物がいまここにいるはずはない。

(よく似ている、なんてものじゃない。バームに瓜二つだ。しかし年齢が合わない。世の中自分に似た人間が3人はいると言うけれど)

「やあ」と勇が声をかけると少年も無言で会釈をして返した。

 団地内は、中心に広場があるので大人の目が届きやすい。あちらこちらで子どもが集って遊んでいる。ボール遊びなどしているのは比較的低学年の子どもで、携帯ゲーム機をもって向かい合ってプレイしている子どもが目立った。それより幼い子どもは母親たちがおしゃべりをするかたわらで20センチほどの段差を登ったり降りたりの動作を繰り返していた。そんなことでも幼児には楽しいのだろう。中学生以上は部活動か外に遊びに行く姿しか見ない。この場にとどまることはしない。

 勇の目の前の少年は10歳前後だろうか。一人でたたずんでいるのは友だちと待ち合わせしているのだろうか。とくに不審に思うところもないのでそのままカフェに入った。

 今日は土曜日だから逆に見かけないが、平日は4時を過ぎて下校時間になるとカフェに顔を出す子どももいるらしい。カフェには交替で住民や大学のスタッフ・学生が詰めて施設管理をしている。

「あら、希望(のぞみ)くん。中に入りなさいよ」

 彼の名前は岬希望(みさき のぞみ)と言うそうだ。スタッフの方とは顔なじみのようだ。コミュニティカフェに限らず団地内の店舗は有事の際の子どもの退避場所にもなる。不審者に声をかけられたときとか子どもが逃げ込めるようにとのことだ。ただこれは完全なボランティアであり、施設でも日ごろ研修があったりすることも無いそうだ。だから勇ももし何かことが起きれば適切に対処できるよう心がけをしている。

 希望少年が屋内に入る。20畳ほどのスペースの半分が、テーブル席。1/3ほどのスペースが音響設備とデスク、キッチンになっている。コミュニティカフェは喫茶店ではないが、その気になれば営業もできそうだ。

 奥のスペースがステージになっていて発表会や音楽の演奏などもできるようになっている。希望少年もここで時間を過ごすことに慣れているようで違和感なくそこに座っている。

 勇はこれからやろうとしていることが小学生には理解できないだろうと思った。他に5名ほどの住民がいる。いずれも年齢は高く、希望は自治会の会合の隅に祖母父母に連れてこられた孫が一人座っているという風情だった。

 一つのテーブルは4人座れる大きさで、それらを4卓合わせて2列にした。勇は一番隅、希望少年と対角線の角に座り自分のPCを開いた。予め用意してくれていたプロジェクターにHDMIケーブルをつなぐ。彼はこれから本の作り方というワークショップを行う。住民を生徒に見立てての講義だった。

「前回は、物質としての本の作り方についてお話ししました。今日からは本の中身である物語の作り方について説明しようと思います」

 彼は学生である自分が他人に教えを授けるなんて考えたことも無かった。家庭教師のアルバイトをする大学生や教育実習に行く者もいるだろうが、自分はそういうタイプではなく、高校を卒業するまでは周囲に比べて平均的なコミュニケーション能力にも欠ける人間だと自他ともに認めていた。

 物書きを目指す人間はだいたいそうなのだが、とりわけ彼のコミュニケーション能力の不足には他の人間と違う理由もある。
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