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第一章

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 イーサンの家庭教師に採用されたと教授に報告したら、椅子から転がり落ちんばかりに驚かれた。どうも最初から不採用だと高をくくって、テオを推薦してくれたらしい。代わりの助手をどうしようかと、今更になって慌てふためいていた。

 なぜ選ばれたのかとやっかみ半分で聞かれたが、グランチェスター家の懐事情については伏せておいた。イーサンも触れ回られたくはないだろう。

 グランチェスター侯は今でも領地のカントリー・ハウスに住んでいるが、屋敷の維持も難しくなって来ているらしい。修繕費の捻出にも苦労しているようだ。

 イーサンがセントジェームズにアパートを借りていると聞いて、テオも切羽詰まった状況を理解した。真の大地主なら、社交シーズンを過ごすため、ロンドンに別荘のひとつやふたつ持っているのが普通だからだ。

 とは言え一等地にあるアパートは、なかなか立派だった。格子状のベイ・ウインドウがあり、モノトーンを基調とした幾何学的な室内装飾も素晴らしい。テオが住んでいた、外壁が煤煙でドス黒く汚れた、粗末な下宿とは大違いだ。

 年俸と年金が半額になっても、衣食住をまかなってくれるなら、決して悪い条件ではない。食事内容だってきっと豪華だろう。ヤマウズラの冷肉やサーモンのパイ包み、噂に聞くケジェリーとかいうカレー風味のライスが出るかもしれない。

 あまり食べ過ぎないようにしないと、とワクワクしながら食堂に赴いたテオは、テーブルに並んだ料理を見て立ち尽くす。フライドエッグにベーコンとバター付きパン、それに紅茶という、普段食べているものとまったく変わらないメニューだったからだ。

「遅かったな」

 口元をナプキンで拭いながら、イーサンが声を掛けてきた。テオは顔を引きつらせて、なんとか笑みを浮かべる。

「あ、えっと、おはようございます」
「なんだ、その顔は」
「いや、別になんでも」

 気落ちするテオを見て、イーサンはようやく理解したようだった。

「朝食に不満でも?」
「まさか、そんな」
「悪いが今後も食事には期待しないでくれ。これでもウォルターは、かなり頑張ってくれているんだ」

 執事のウォルター・マクレーンが、傍らで新聞にアイロンがけをしていた。乾ききっていないインクで、主人の手を汚させないためだろう。実に貴族らしい習慣だが、執事が料理を作るなんて聞いたことがない。

「あの、もしかして、コックはいないんですか?」
「コックどころか、メイドもいないぞ。人件費が高く付くからな」
「じゃあ繕い物や洗濯は」

「洗濯はさすがに外注するが、掃除や縫い物は自分でやる。もちろん君も例外ではないぞ」
「ちょっと待ってください。掃除はともかく針仕事はできませんよ」
「大丈夫、すぐ慣れる。僕だって最初は戸惑ったが、今はこの通りベストのボタンも付けられるようになった。うまいもんだろう?」

 イーサンは胸を張り、テオはそれ以上反論もできずに、朝食を食べ始める。
 今からでもこの仕事は断ったほうがいいかと悩んでいると、イーサンがアイロンのかけおわった新聞を広げた。何気なく紙面に目を走らせたテオは、フォークに刺したベーコンの欠片を取り落とす。

「ちょ、何をご覧になってるんです?」
「イラストレイテッド・ポリスニュースだが?」

 さも当然のようにイーサンが言い、テオは食事中にも関わらず、大慌てで新聞を取り上げた。

「こんなもの、労働者階級が読むものですよ!」

 少年が街頭に立ち、数ペンスで売りさばく俗悪な報道紙だ。一瞥しただけで刺激的なイラストが目に入り、凶悪な出来事やグロテスクな事件が、扇情的に取り上げられているのがわかる。

「だからなんだ?」

 不機嫌さを隠さず、イーサンがこちらを睨んでいる。

「イーサンが目にしていい類いのものではありません。どうせ読むなら、ロンドン・ガゼットかタイムズを」
「政府の広報やらインテリの論説は、もう十分なんだよ。この新聞のほうが、よほど社会的実践に有用な知識が含まれている」

 イーサンはテオから新聞を取り返し、とある記事を指さして言った。

「この女性の顔を見たまえ。顔面に強烈なパンチを浴びせられ、真っ黒なクマができている。結婚指輪を質に入れるのを拒んだだけで、夫から殴られたんだぞ」
「殴られたのは事実かしれませんが、絵描きが現場に居合わせたわけでもないでしょう。生々しいイラストで、読者の想像力をかき立てているだけです。イーストエンドではよくある、痴話げんかの一種ですよ」
「その結果、妻が夫に殺されても同じことが言えるのか?」

 イーサンはさらに紙面を繰って続ける。

「靴工房に夫のブーツを取りに行った妻が、未修理だったため手ブラで戻ったところ、腹いせに夫から蹴り殺されている。こっちの記事では保険金を掛けられた新妻が、浴槽で溺死させられたらしい」

 こぞってセンセーショナルな事件を集め、面白おかしく書き立てる質の悪い新聞に、いちいち胸を痛める必要などない。しかもイーサンにはなんの関係もない世界のことなのだ。

「やはり女性は結婚しないほうが、幸せなのかもしれないな……」

 イーサンが新聞を畳みながら、ポツリとつぶやいた。
 どういう意味だろう。テオは思わずハンケチーフを取り出し、額の汗を拭いた。イーサンもいずれは、しかるべき相手と結婚することになる。こんなくだらない三面記事で、結婚に幻滅されれば事だ。

「これはイーストエンドだから、起こることですよ。あそこは明らかに人口過剰ですからね、人々のフラストレーションも溜まっているんです」
「そのはけ口が、妻に向かっていると?」
「まぁ、それもあるでしょう。女性の立場が弱いのは世の常ですし、稼ぎの大半を酒代に変えていたら、夫婦仲が悪くなるのは道理だと思いますよ」

 イーストエンドでは誰もが狭い場所にひしめきあって暮らし、働きづめで疲労しきっている。逃げ場所はパブにしかなく、我を失うほど飲むことでしか、現実の辛さを忘れられないのだ。

「彼らはどんな酒を飲んでいるんだろう? ウィスキー? それともワインか?」
「まさか、スタウト・エールかダブル・ビールですよ。アルコール度数の高い混合酒です。泥酔専用の飲み物と言っていいでしょうね」
「飲んだことがあるのか?」
「いえ、話に聞くだけで」
「ならば、今から飲みに行こう」
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