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2杯目 ここは、ワインに任せて先に行け

教会とワイン

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 教会とワインは、切っても切れない関係だ。それは、禁酒法制定化においても例外ではない。



 ワインの紫を帯びた赤は、古来より血の色に見立てられ。神の血として、宗教的儀式において欠かせないものとなっており、教会があるところには必ずブドウ畑がある。



 むしろブドウの栽培が可能かどうかが宣教先の選定において重要な位置を占めていたとも言われるほどだ。大きい声では言えないが、かつて神と相まみえた聖人たちはワインで酔っぱらって幻でも見たんじゃないかと疑いたくなるほど教会とワインは深くつながっている。



 この国において、国民の多くは女神正教の敬虔な信者だ。故に、教会は強大な権力を有している。

そんな教会の、ワイン醸造の一切を禁ずることは国王をもってしても為すことができなかったのは当然と言えよう。



 では、女神正教の信者たちはワインだけは自由に手にすることができたかというとそうでもない。

意外なことに、禁酒法推進派には教会の人間も数多く含まれていたのだ。酒におぼれた信者たちを嘆く者達と、酒市場の独占を狙う者達の二つの派閥だ。



 急激な工業革命によって、人々の手に様々な酒が届けられるようになると社会に一つの問題が浮き上がった。



 より強く、より安価な酒が気軽に手に入れられるようになり、酒場の喧騒は一段と大きくなり。さらには、酒場の外にまで波及するに至った。



 路地裏では、酔っ払いが所かまわず用を足し。飲み込んだアレコレを吐いて回り。気が大きくなった小心者が乱暴に振舞い。元々、粗暴だったものはより傲岸となった。



 そんな堕落した人々の姿を見せられた教会は、即座に泥酔は背徳であると触れを出したものの。魔王という脅威がなくなり浮かれに浮かれていた人々の乱痴気騒ぎを鎮めるには至らなかった。

なれば、より強力な手段をもって取り締まるべきだと主張した教会の一派は、国王へと禁酒法制定の陳情を行った。



 本来であれば、禁酒法は個人的な道徳の問題であると国も取り合わなかったであろう。しかし、酒市場の独占を狙う一派の画策があわさり自体は混迷を極めていく。



 ワインは、ブドウの果汁を発酵されることで作ることができるが、その工法は同じ醸造酒であるビールに比べて酷く時間がかかり、更に穀物として各地で大量に生産される麦に比べてワインの原料となるブドウの収穫量は少ない。



 故に、ビールに比べて価格も高く上流層に好まれる酒であった。畑仕事を終え、人々が口にするのは圧倒的にビールの方が多かったのだ。



 工業革命による、大量生産はビールの価格低下に拍車をかけた。更には、アルコール度数の高い蒸留酒の台頭である。酒市場におけるワインの量は年々減っていき。ワイン醸造において利権を貪っていた一部教会一派は窮地に立たされる。



 その打開の一手こそ、禁酒法制定であった。市場における優位性を確保するべく、蒸留酒、ビール業界を貶めようと画策したのだ。



 だが、蒸留酒業界とビール業界が黙って指をくわえていたかというと全くそうではない。彼らは、業界内対立をそっくりそのまま禁酒法案制定に持ち込んだのだ。



 自身の業界により有利な禁酒法を制定すべく、彼らは競い合った。もし蒸留酒業界とビール業界が手を組み組織的に禁酒法に反対を唱えていれば、禁酒法が制定されることはなかったであろう。



 結果として、ワインを作る教会を除く他の酒造業は地下に潜ることとなり現在に至る。



 ただし、教会においても宗教的儀式で必要な分のみ醸造が容認されたため大々的に醸造を行うことはできなくなってしまい、自分で自身の首を絞めた形にもなっていた。とはいえ、明らかな逃げ道をつくることができたためワインは密に作られ続けている。



 なぜ、つい先日まで酒を口にしたことが無かった俺が教会とワインの関係についてこれだけ詳しいか疑問に思うかもしれない。



 しかし、魔王軍が密造酒を運搬するランナーとして活動している以上、どうしても必要な情報だったのだ。



 ワインの流通は、現在は教会のみに認められている。儀式で使う分だけ購入できるということだから、それも当然だ。



 即ち、そこに魔王軍が介入する術はないと俺は見ている。あばら家を見張るうえで、教会を選んだのはただ単に立地が良かったわけではないのだ。



 まあそのおかげで、遊び人がこの部屋を離れることなくワインを飲めるわけなのだが。





「だからと言って、全ての教会にワインがあるわけではないと思うんだが」





「ふふん。私は、この教会に入った瞬間に匂いでわかったよ」





 遊び人の手には、既に陶器製の水差しが握られている。彼女の行動は実にすばやい。

 ドタバタと階下に降りて行ったかと思えば、あっという間に獲物を抱えて戻ってきたのだ。



 陶器の中身は、調べるまでも無い。樽から移されたばかりのワインに決まっている。





「匂いか、うーん……、わからんなあ」





「あおーん!」





 遊び人が、まるでオオカミのように遠吠えをあげた。どうやら鼻が利くことのアピールらしい。どこか子供っぽいおどけ方に、実はもう酔っているのではないかと疑ってしまう。





「しかし案外、簡単に譲ってくれたもんだな。いくら抜け穴があるといっても禁制品だぞ」





「教会は、そこら辺緩いからねー。それでは、勇者には悪いけどお先に一口! 私の瞳に乾杯!」





 水差しからグラスへとワインが注がれる音が部屋に響き渡る。

 そして、ワインが喉を通っていく音。俺の視線は、あばら家へと向いているため聞くことしかできないが、ワインが彼女の喉を滑り落ちていく姿がありありと見えるようだった。



 すると想像の効果だろうか、どこからか強く芳醇な香りが漂ってきたような気がする。いや、これは想像ではない。現実だ。 俺の鼻は、確かにワインの匂いを嗅ぎつけていた。





「ブドウの。いや、煮詰めたブドウが腐ったような匂いがする……」





「ぷひー。そりゃそうだよ。煮詰めてこそはいないけど、発酵と腐敗は同じことなんだから」





「よく考えると、よくそんなものを飲もうと考えたもんだな」





「そうね、偉大なる先人。ワインを初めて口にした人間に感謝しなくちゃ」





 遊び人の言葉に、俺は雄大なる歴史をさかのぼり。ワインの起源を想像する。

 口ひげをたくわえた一人の男が、清らかな水が静かに流れる川の辺で、石に腰を掛けブドウの甘味を楽しんでいる。



 おや? もう無くなってしまったか……と思いきや、足元に一粒のブドウを見つける。ほほっ、ラッキーじゃわい。 ブドウを川の水で洗い土を落とす。おやおや? これは、妙に柔らかいブドウじゃな。しかも何やら、強烈なにおいがする。どれ一口……。



 こんなところだろうか。

 彼の偉業を、ただの食い意地からの偶然と見るか、好奇心からくる勇気ある行動ととるかは人次第だろう。



 ただ世界的娯楽の発見という結果から見れば、彼こそが勇者と称されるに一片の疑いもない。

 まだ何も成し得ていない、俺よりは彼は遥か高みにいる……。





「ほれ、一口だけ飲んでみ」





 遊び人が、窓枠の上にコトンとグラスを置いた。

 グラスの半分に満たない程度のワインでも、俺の鼻孔を膨らますには十分の香りを立ち上がらせている。



 薄い月明りでは、ワインの鮮烈な赤も黒く濁った血の色に見えた。







「いや、まて。俺は、酒を口にするわけにはは……」





 勇者の直感が、突然騒ぎ出す。俺は、慌ててあばら家周りに集中する。しかし、窓の外に動きはない。その静けさときたら、まるで世界が丸ごと眠ってしまっているかのようだ。羨ましい。



 では、俺が感じたものは何か。勇者の直感は、俺に何を告げようとしているのだ。……窓の外で無ければ――部屋の中か。そこに答えがあるはずだ。



 俺は、この僅かな時間に起きた事象を、ひとつひとつ噛みしめるように遡っていく。



 グラスの半分にも満たないワイン。

 彼女の鳴らした喉の数。

 グラスにワインを注ぐ音……。





 そうか……答えは窓枠の上に、添え置かれたワイングラスだ!





 いま、俺の目の前に置かれているワイングラス。これは、彼女が先ほど使用したばかりのものではないのか!? すなわち、これは関節キッス!



 グラスの中のワインの量が、その事実を確固たるものとしているではないか!



 なんという魔性の女だ……このようなことをされて、抗える男がいようか。いや、いまい。

 いや、落ち着け勇者の猛きリビドーよ。お前が成すべきことを思い出すのだ。お前は、魔王を倒すために旅をしているのだろう。この程度の誘惑に心踊らされて如何とする。





「ま、まあ一口だけなら……」





 大丈夫だ。落ち着くのはお前だ、俺の理性よ。ただの一口だけなら、酒に酔うこともあるまい。そのうえで、美少女と部屋に二人っきりという数奇な状況で、俺の猛きリビドーを抑制させるにはこの手段しかない。許せ。



 ワイングラスに手を伸ばす。手が、微かに震えている。

 勇者と呼ばれ魔王に一人立ち向かった俺が恐れているだと?いや、これは武者震いだ。



 自分を奮い立たせるも、手の震えは止まらず、グラスがカチンと音を鳴らした。





「おいおい、飲む前から酔っぱらっているの?」





「そそそんなわけ、あるか。ずっと同じ姿勢をとっていたから手が痺れちゃったんだよ」





 言い訳にしてはちょっと苦しかったかもしれない。





「……こぼしたりしたら大変なことになるからな?」





「こぼすわけないだろ」





 いや、手の震えが収まらない状況を鑑みるに。ありえないこともないか。





「もし、万が一こぼしたら、俺はどうなる?」





「豹変した私に、縊り殺されるかもしれないね」





 俺は、ワインの香りを楽しむふりをして何とか手の震えが収まる時間を稼いでからグラスを口へと運ぶ。ゆっくりと落ち着いて、ワインを口に含み。その味を確かめる。



 強烈に口内に広がる渋みと酸味が、意識を覚醒させる。その刺激のせいか、目からは少しだけ涙がこぼれおちた。な、なるほど、ワインは香りに見合った強い味を持っているのだな。



 なんとか喉を通すと、その強烈なインパクトが喉や、胃の中にも広がっていくのが感じられる。





「ビ、ビールよりきつい。ワインを飲んだ後だとビールが水に感じられるくらい、とにかく味が濃い……」





「お酒初心者にしてはなかなか言うじゃない」





「味だけじゃない。香りもだ。これはもうブドウの域を超えている。ブドウを煮詰めて腐らせた香り?前言撤回だ、まるで香水を煮詰めたかのような匂いだ」





「まるで香水を煮詰めたかのような匂いね。ねえ、知ってる?ワイン通って、ワインの香りを何かしらに例えようとするんだよね」





「じ、じゃあ、俺も立派なワイン通だな」





「あはは、そうかもね。流石、魔王を追い詰めるほどの才能をもった勇者様だ。たった一口で、その領域に立ってしまわれるとは」





 才能ねえ……。

 人々は、いつも俺の才能を褒めたたえる。俺自身の努力ではなく、俺の持つ「勇者」という才能をだ。



 女神より「耐性」という恩恵を受けているのは確かだ。そこは認めよう。だが、それだけでは到底魔王を追い詰めることなどできなかった。



 それができたのは、俺が「耐性」に甘んじることなく自らの剣を磨き続けたからだと自負している。



 彼女からすれば、本の冗談だったのだろうが。どうにも気を重くしてしまう。



 そうだな、話題を変えよう。





「……例えば、どんな風に例えるんだ」





「そうねえ、こんなのはどうかしら。濡れた犬が暖炉で乾かしてる匂い」





「は?」





「こんなのもあるわよ。猫のおしっこに、腐葉土!」





「ワインの香りの話をしているんだよな?」





「信じられない?全て、ワインの香りを指した言葉なのよ」





 到底、信じられない話ではあったが。ワインの強烈な香りを、具体的に表現するにはそれくらいの語彙を扱わないといけないのかもしれないと妙に納得してしまった。

 もしくは、酔っ払いの戯言と思うべきなのかもしれないが。





「なんとも……阿呆らしいな」





 言葉を選ぼうとするが、ついストレートに言ってしまう。





「そうね、私から言わせれば酔っ払いの戯言よ」





 うん、そこは少し同意するかな。





「そういえば、このワインには何か名前があるのか?」





「知らないわよ」





「知らないのか」





「そうよ。私ね、何処産の云々というワインがいいだとか、どこどこの蔵の何年物しか受け付けないだとか。そういう気取った酒の飲み方は大嫌いなのよ」





 どうやら、彼女の琴線に触れてしまったらしい。





「名前じゃなくて中身を見てほしいものだわ! 中身を!」





 俺には、彼女が単に酒の話をしているようには聞こえなかった。それほどに、彼女の言葉から強い語気が感じられた。



 「名前ではなく中身を見てほしい」この言葉は、彼女自身のことを言っているのではないだろうか。もしかすると、意外に高貴な生まれなのかもしれない。だとすれば、名前を教えてくれないというのも頷ける。



 まあ、何にしても彼女から無理に本名を聞きだすのはよしておこう。



 彼女は、千鳥足テレポートを扱うことができ、魔物から魔王軍の情報を引き出すのに長けた女。そういうことでいいではないか。





「うんうん、そうだな。俺も、君の名前より中身のほうを楽しみたいものだしな」





 ん……?なんか、彼女に同調しようとしたあまり、変なことを言った気がするが……いや、気のせいだろう。



 どことなく、部屋の中が静まり返った気がした。いや、見張りを行っているという状況もあって俺も遊び人も元々、声を潜めていたのだから当たり前か。だが、ほんの少しだけ。ほんの少しだけ、部屋に静けさが降りてきているような。



 俺は、その静けさに耐え切れず。再び声を開いた。





「し、しかし、さっきからワインの事をぼろくそに言っているな」





 少しの逡巡。





「そういうわけじゃあないけど……」





 これまで、歯に衣着せぬ物言いをしてきた遊び人にしては歯切れ悪い。

 再びの逡巡を得て、やっと話始めた。





「……気取って酒を飲む連中が嫌いなのよ。『酒は飲むものであって語るものではない』ってのが私の持論なのよ。ねえ、アンタもそう思うでしょ?」





「どうかな、時と場合によるかな。特に良い酒を飲む時はそれでもいいんじゃないか」





「そう……」





「けどまあ、二人で飲むのに気取る必要はないかな」





「そうよね!」





 非常にわかりやすい反応だ。まるで、年端もいかない少女じゃないか。

 酒瓶を片手にした朗らかな少女。なんか背徳的だ。



 さて、彼女の好感を勝ち得たところでここはもう一押しといってみようじゃないか。ダメ押しにこじゃれた台詞をかまして、さらに好感度を高めるのだ。





「――まあ、二人で飲むってのはいいかもな」





「なんで?」





「そりゃあ、二人なら一瓶開けるのに丁度いいからさ」





 ふむ……どうやら、俺には言葉選びの才能も備わっているらしい。

 これまで一人旅であったがために埋もれていた、俺のセンスがここにきて光輝くとは誰が予想しえただろうか。この一連の流れで、こじゃれた冗句を差し込むこのセンス。全く、俺って男は実に末恐ろしい奴だぜ。





「私は一人でも、一瓶開けられるわよ?」





「い、いや、そういう話じゃなくて――」





「ねえ、勇者」





 彼女は、俺の話を遮って続けた。





「そろそろ、結末を見越した方がいいと思うんだけど」





 物語の結末、それは魔王を倒し、世界に平和が訪れること。



 それは即ち、遊び人と俺との一時的なパーティーを解散するということ。



 まだ出会ったばかりなのに? 完全に虚を突かれ言葉に、俺は思わず見張りの役目を忘れ、彼女の方を振り返ってしまっていた。

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