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4杯目 ブリューな気持ち

眠れない夜と働き者の勇者

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 魔王の秘密基地への奇襲攻撃は、十日後の深夜から明け方にかけて行われることとなった。司教の情報によると、基地内には魔王軍でも精鋭と呼ばれる魔物たちが溢れているらしい。当初は一人で乗りこむつもりだったが、司教の勧めもあって教会の僧兵たちを引き連れていくこととなった。その準備に日を要するとのことだ。手数が多ければ、魔物を逃がしてしまう恐れも少なくなる。断る理由はなかった。


 司教は、教会の宿舎に泊まれるよう手配すると申し出てくれたが、俺はそれを辞退した。久方ぶりに眠れない夜を過ごしたせいか、頭が割れるように痛く、重かったからだ。人の出入りが多い教会では、ゆっくり休むことは難しいだろう。俺は、街外れの安宿に部屋を取ることにした。

 
 宿のベッドに横になる。安宿だけあって、やたらに固いが文句は言うまい。今は、一刻も早く床につきたかった。宿に辿り着くころには、頭痛はさらに凶悪なものになっていた。


 そういえば、眠れない夜を過ごしたのはいつ以来だろうか。魔王を取り逃がし、一人で魔王を追っていた頃は、まともに睡眠をとれた日のほうが少なかった。そして、たとえ眠ることができたとしても、それは体力と精神が限界を迎えることで僅かな時間だけ意識が飛んでしまうもので、それは睡眠というよりも気絶に近かった。


 当時の俺は、そういう生活に慣れてしまっていた。魔王を取り逃がしてしまったことへの罪悪感や不安、焦燥感に苛まれることはあっても眠れないことは気にも留めていなかった。だが、こうして、たった一晩の徹夜だけで苦しんでいる自身の様子をみるに、それは勇者の耐性の力によるものではなかったのだろう。慣れることで、眠れない苦しみや痛みに鈍感になっていただけで、痛みは確かにそこにあったのだ。


 俺が、朝を清々しい気持ちで迎えられるようになったのは彼女と出会って、酒を飲むようになってからだ。


 酒には、俺の抱える不安や、のしかかる責任感を一時的に和らげる力があった。いや、今にして思えば、その力は彼女にこそ宿っていたのかもしれない。彼女と共に酒を酌み交わし語らう時間が、俺に安らぎを与えてくれていたのだ。


 ふと嫌な予感が頭の隅をよぎる。慌てて、教会からもらったワインを口に含む。。
 

 俺の鈍った感覚は、彼女と酒の力でどんどん鋭敏さを取り戻していった。これだけ聞けば、何か俺が強くなったかのようだが……。その結果がこれだ。わずか一晩徹夜しただけで、頭の中ではグアングアンと、まるでドラゴンの悲鳴のような重低音が鳴り響いている。俺はこの痛みと再び付き合っていかなくてはならないのだ。しかしまあ、恐れることは何もない。彼女だけでなく酒に酔うことすらも失った俺に、もう安息の夜など訪れることはないとしても。一度は慣れてしまったのだ、今度は二度目だもっと早く慣れるだろうさ。


 口の中一杯に、ワインの渋みと香りが広がっていく。
 

 そう、要は「慣れ」なのである。耐性の力に頼らずとも、慣れてしまえば俺は大丈夫なのだ。彼女に逃げられてしまった悲しみにだって慣れてしまえばいいのだ。……いやまて、俺は逃げられたのか? いや、そうじゃないはずだ。あの晩、俺たちは確かに愛し合った。不手際か?俺が、知らぬうちに何かをやらかしてしまっていたのか?突っ込む穴を間違えた?いやまて、だったら、彼女のことだ笑いながら許してくれる……はずだよな? いやいや、仮にそうだとしても。彼女が怒り心頭したとしてもだ。俺の前から、書置きすらなく急に消えることなんてことはないだろう。逃げられたというのは、妥当な推論から最も遠いところにあるはずだ。ならば、なぜ彼女は姿を消したというのだ。……第三者に攫われたとか? いや、いくら俺が女にうつつを抜かしていたといっても、寝ている隙に女を攫われて気づかないはずがない。伊達にも勇者を名乗っていないのだ、そこまで無能を晒すほどやわな男ではない。では、やはり、彼女は自身の意思で……。


 ああ、だめだ間に合わなかった。遂に、喧噪の夜が始まってしまった。そう、これだ。不安や不満、焦りや怒り。俺の中にあるありとあらゆる負の感情が、俺の意思とは関係なく思考の滑車をくるくるとまわすこの感じだ。止まらない思考から生み出される推測や、憶測は、更なる不安を呼び、その不安がまた思考を回させる。これが始まったら、もうおしまいだ。今晩もまた、俺は眠りにつくことはないだろう。


 慌ててワインを口に含んだところで、それを防ぐことなどできようがなかった。俺はもう、酒に酔うことはできないのだから。


 なんとか朝を迎えるが、疲れは一向にとれていなかった。それどころか、ドラゴンの悲鳴が魔王の断末魔にクラスアップしている。いつか聞きたいと願っていたが、こんなところで耳にすることができるとは実に僥倖僥倖。魔王の野太く響く声が実に心地いい。なんとなしに剣の鞘を抜くと、目の下に確りクマができていた。


 久しぶりの故郷ではあるが、散歩に出かけるような気は起きなかった。魔王の基地を襲撃するまであと六日。俺は、宿にこもり少しでも体力を温存することにした。


 五日目の深夜、俺は遂に限界を迎えていた。意識は朦朧とし、頭痛は常人なら殺しうるほどの鋭さを得、目の下のクマは顔全体を覆うほどに広がっていた。だが、それでもなお「気絶」ないしは「睡眠」に落ちることはできていない。

 ただ、俺は眠りたいだけなんだ。体を休めたいだけなんだ。どうして、こんな簡単なことができないんだ。かつての俺は、この苦しみに耐えきり、慣らしてしまったというのが信じられない。信じられないが、俺は成しえたのだ。為せば成る、為さねばならぬ何事も。……何が成しえただ。魔王討伐という勇者最大の責務を果たせない男が、何をもってして何事かを成しえたというのだ。笑える。実に滑稽な話だ。


 いつものように、回りだした思考が俺の眠りを妨げる。


 あぁ……こんな眠れない夜を……かつて俺はどう過ごしていたのだっけ……。
 この苦しみをどうやって乗り越えたのだったか……。


 ああ、そうか。


「……眠れないのなら、眠らなければいい」


 俺は、ベッドから這い出て、剣を腰に差し、クロークを身にまとう。
 足元がふらつき、視界がぐるんぐるんと回っているが、これが酔いのせいではないことは確かだった。


「じゃあ、仕事にとりかかろうじゃないか」


 宿屋を飛び出た俺の手には、司教から渡された魔王軍の拠点の地図が握られていた。握られていた。
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