犀川のクジラ

みん

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1章 春

14話

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 僕らは何も言わずに歩いた。
 車の通らない車道はまるで眠っているような静けさがあり、僕と心美の足音だけがひたすらに響いていた。横断歩道をわたり、路地をまっすぐに進んで二つ目の十字路を左にまがると、心美の家はあった。
 
 心美が玄関のほうへとむかってゆくので、僕も帰ろうと背をむけると、
「恭二郎はさ、彼女いるの?」
 と声がした。
 僕が振り返ると、心美は玄関の前にたち、僕をまっすぐに見ていた。
「なんだよ急に」
「いいから。いるの?いないの?」
「・・・いないけど」
 僕の言葉に、ちょうどよかった、と心美は言う。
 なにがちょうどいいのだろう。
「わたし、ヒデさんのお店の屋上で絵を描かせてもらうことになったの。お母さんがよく描いていたからって。すごく眺めがよくて、とおくの山もずーーっと見渡せるんだよ」
「へえー、そうなんだね」
「それでね、これからは大学の授業が終わったら、ヒデさんの家に寄って絵を描いて帰ろうとおもうの」
「いいんじゃないかい」
 僕は彼女にはじめて会った日に見た、「犀川と桜」の絵を思い出す。ぼやっとした淡い色彩で描かれているのに、なにかを訴えてくるような強さがあった。

 あの絵を、もう一度見たい。

「だから恭二郎、帰りは私をここまで送ってよ」
「・・・どうして僕が?一応君の家とは反対方向なんだけど」
「理由その一」心美は玄関の前に立ち、指を一本たてて「クジラの唄が聞こえたら、すぐに伝えられるから」という。

 クジラの唄。
 たしかにそれは都合がいい。いつも聞こえるわけではないと言っていたので、河川敷を通って帰れば聞こえるタイミングがあるかもしれない。
 心美はそのまま指の本数を増やしていく。
 理由その二 夜道を一人であるくのは怖いから
 理由その三 恭二郎の自転車に荷物を積めるから
 理由その四 帰っても誰もいなくて、退屈だから
 心美は最後に手のひらを僕に見せてくる。理由その五、という意味らしい。

「恭二郎に、興味があるから」

 空から月の光がスポットライトのように照らし、僕らのいる場所はまばゆい光につつまれてゆく。心美の白い肌に光が反射して、彼女の姿がぼうっと浮かびあがるようだ。背中からは羽が生え、頭のうえには金の輪っかが浮かび、彼女は本格的に天使へと変身する。
 月の光にあてられて、そんな妄想が頭をよぎる。
「僕に?」
「そうだよ、わたしは目の前にいる男の子に、興味があるの」
「研究対象?」
「いろんな意味があるんだよ」それに、と言って心美は「彼女でもない女の子と川沿いを歩きながら帰るのも、青春ぽくていいんじゃない?」と笑う。
「だけど、もし僕が危ない人間だったらどうするんだよ」
「んー、たしかに。さっき、どさくさに紛れて私の胸触られた気がするし」
「あれは!不可抗力で・・・」
 たしかにヤマグチという男から心美を引き離すとき、なにか柔らかいものが僕の手に触れた気はしていた。
あれはやはり、そうだったのか。
「そんなに大きくはないけど、形はよかったでしょ?」
 僕は手のひらを見つめて、柔らかな感触を思い出そうとするが、あのときは必死だったので上手く思い出せない。
 まず女の人を知らないので、答えようもないのだが。
「冗談だよ。まあ、家に帰ってもわたし以外誰もいないから、押し倒しても、だれにも怒られないけどね」
「・・・なにを馬鹿なこと言っているんだよ」
 やめてくれ、と思う。
心美は何でもないような表情で、“わたし以外誰もいないから”と言う。こともなげに言う。その事実を口にするたびに彼女の心が傷ついているような気するのだ。
「それに恭二郎はさ、女の子の嫌がるようなことする男の子には見えないし」

 きっと彼女は一人ぼっちなのだ、と僕は思う。
 十文字や彼女の話を聞いている限り、兄妹がいるようには思えない。十文字は心美が中学生のときに会ったのが最後と言っていたので、高校時代の彼女とは会っていないのだろう。それでもこの地に帰ってきたというのには、なにか理由があるのかもしれない。一緒に暮らしていた人たちと上手くいかなかったから、この地に愛着があるから、ほかにも理由はいろいろとあるのだろう。
 僕にはまだ母がいるので、両親を二人とも失ってしまった心美の気持ちを完全には理解してあげることはできない。いや、どっちにしろ僕たちは他人なのだ。完全にお互いを理解できることなんて、あるわけない。
「・・・分かったよ。」僕は観念して受け入れることにした。十文字書店から心美の家まではそんなに距離がない。そこまで負担になることもないだろう。
「え、ほんとに!」
 やっさしー、と言って彼女は笑う。
「つぎは、いつ十文字書店に来る予定なの?」
 次のバイトは・・・たしか明日の夕方だったな。まあ、毎日心美が絵を描きにくるわけでもないだろう、と僕は思うけでもないだろう、と僕は思う。

「もちろん、明日だよ」
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