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第五十四話 遺志を継ぐ者
しおりを挟む刃先が首の薄皮をすべり、つーっと一筋、血が流れる。
怒りを抑えられそうになかった。
間諜として潜り込むため、おなごをたぶらかし、子まで儲け、見殺しにした挙句、さらにその子をだしに命乞いをしようというのか。
「これが最後だ。国親はどこにいる?」
「待て、待ってくれ」
震えていた吉次が突然目を見張った。
視線を追うと姫が立っていた。
「そのようなことを訊いて、どうしようというのです?」
そばに寄ってきて、赤く腫れあがった目で訊ねてきた。
口が利けるようになったらしい。
いつから聞いていたのだろう。
感情が高ぶっていないところを見ると、吉次が口にした、生き残った者は、というくだりは聞いていないだろう。
「頭をつぶせば霧散する」
姫は先を促すように見つめてきた。
やむをえず口を開いた。
「昔、狼に襲われた時がそうだった」
「今日の追手は狼ではないのでしょう?」
姫は、声を震わせて続けた。
「……あなたに人が殺せますか?」
「おれは人間ではないからな」
姫の目を見て、静かに答えた。
獣を倒すのと何の違いも感じなかった。
姫が唇を噛んだ。
「いいえ、あなたは私を助けに戻ってくれました。あなたは誰よりも……」
みなまで言わせなかった。
「おまえが気を失っている間に一人殺した」
その言葉に、姫は息を飲んだ。
おばばとの約束は守れなかった。
何の罪もない三郎が、ミコが、ヨシが殺された。
そして今、その三郎が、自らの命を懸けてでも守らねばならないと言っていた姫が追い詰められている。
ただ一人、自分を友と呼んでくれた三郎の遺志を継ぎ、この姫を守らねばならなかった。
しかし、多勢に無勢。
逃げ回るよりも指揮している者を倒した方が生き残れる確率は遥かに高いはずだ。
「仇を打ちたくはないのか?」
その言葉に、姫の長い睫毛が震えた。
双眸から、ほろりと涙がこぼれ落ちた。
肩を落とし、うつむいた、その姿は親を殺された子狐を思わせた。
やはり、先ほどの話を聞いていたのだ。
薄々感じてはいただろう。
イダテンが、一縷の望みを絶ったのだ。
だが、意外な言葉が返ってきた。
「そのために、あなたまで失いたくないのです」
その、もの言いに戸惑った。
「……命など惜しくない」
間をおいて、そう答えるのが精一杯だった。
その言葉に、偽りはない。
所詮、鬼の命にすぎない。
姫が、すがるように見つめてきた。
その瞳の中には、紅の髪を持つ鬼の顔が映っていた。
「じいと約束してくれたのではありませんか。わたしを馬木まで送り届けると」
逃げまわるだけでは生き残れまい。
これまでの自らの生きざまに自嘲をこめ、そう口にしようとして、姫の袖口から数珠がのぞいていることに気がついた。
毎日、経を唱えていたおばばの姿と重なった。
神仏は何もしてくれなかった。
イダテンの家族にも、三郎や姫の家族、郎党にも。
人は、なぜ、そのようなものに頼ろうとするのだろう。
懐に手を入れ、首からかけた紐の先にある物を握りしめる。
とは言え、結局、自分もこれに頼ることになるだろう。
足の状態は、それほど悪い。
主人を守るのが武士の務めと胸を張っていた三郎の顔が浮かんだ。
お前が死んだら母者はどうするのだという、イダテンの言葉に寂しそうに笑った顔も。
「わかった。届けることを優先させよう」
その言葉に、姫が安堵の笑みを浮かべ小さく頷いた。
吉次が顔を紅潮させ声をかけてきた。
「おお、それがよい。道案内は、わしに任せてくれ。だてに郭を抜け出していたわけではない。いざとなれば頼れる仲間もおる」
さぞかし頼りになる仲間であろう。
「信用できぬというなら、わしが先行しよう。呼び止められるようなことがあれば、その間に隠れればよい」
姫の目が、連れて行くのかと問いかける。
「むろん、見返りはもらうぞ。国司の姫君が落ち延びるのじゃ。手ぶらと言うことはあるまい。おお、おまえの勾玉でも良い……」
吉次は言葉を続けることができなかった。
イダテンが乱暴に口の中に端布を詰め込んだからだ。
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