ちはやぶる

八神真哉

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第八十九話  わが名は

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目を細めた龍神が、
「望みのままにしてやろう」
と言うと、イダテンが手にした花緑青色の勾玉が透きとおり始めた。

そして、翡翠色から若苗色に変わり、輝き、閃光が迸った。
姫は、その眩しさに目を閉じた。

閃光は徐々に鎮まり、暖かな光が全身を包んだ。
それは極楽浄土を信じぬイダテンさえも、そこに迷い込んだのではないかと錯覚するほどの安寧に満ちたものだった。

やがて、その若苗色の光は、小さな渦を巻き始め、イダテンの両腕を螺旋状に包み込んだ。
そして体に流れこんだ。

それはまるで熱を持っているようだった。
体の中心が暖かくなり、やがてたぎるように熱くなった。
その熱は徐々に腕や足に広がり、その末端まで達し、ゆっくりと引いていった。

指先には痺れるような熱が残っている。
先ほどまで感じていた寒さが吹き飛んでいた。
足の痛みも、肩の痛みも、頭の疼きも嘘のように消え去っていた。
それどころか、体中に力がみなぎりはじめた。頭の中が晴れ渡った。

「おおっ……」
イダテンは、思わず声をもらした。
確かに傷は塞がっていないが、体が動けば問題ない。
馬木の邸まで持てばよいのだ。

「願いは叶えたぞ」
龍神は、そう言い残すと、ゆっくりと池に沈んでいった。

波が押し寄せ、そして、あたりに闇が流れ込んできた。
龍神が姿を消すと、風が戻り、滝の音が聞こえてきた。
滝が起こす風が草木を、姫の髪を、衣を、イダテンの真紅の髪をなびかせた。

イダテンは、横たわった姫の肩に手を回し、力強い声で、
「もう少しの辛抱だ。すぐに届けてやる」
と、声をかけた。

頬が火照り、胸が高鳴った。
三郎の無念を晴らすことができる。

姫の顔色は相変わらず悪かったが、それでも薬が効いてきたのだろう。
うなずけるほどにはなっていた。
とはいっても、常ならば必ず相手の目を見て話す姫がうつむいたままだ。

立ち上がろうとして姫がよろめいた。
あわてて支え「横になれ」と、口にする。

「だいじょうぶです」
と、気丈に答えるものの、イダテンの胸に顔を埋め、動くことができない。
息をするのも苦しそうだ。
それでも先ほどよりは震えもおさまり、汗も引いているように見えた。

「イダテン。あなたに詫びねばなりません」
姫が、血の気を失った震える唇を開いた。
「重い黄金を忍ばせ、あなたに負担をかけました。これを池に捨てますから、その音を合図に走り出してください」

姫が倒れた後、懐に抱いていた守袋を背負子に括りつけたのだ。
話しに聞く通り、見た目以上に重かった。

足に力が戻った今、少々の重さは気にならなかったが、姫にあまり喋らせたくなかった。

「わかった」
と、応え、捨ててやろうと紐の結び目に手を伸ばすと、
「わたしが……」
と、姫が、ほのかに笑った。

軽いに越したことはないが、親族に世話になるなら黄金とやらも必要なはずだ。
無事、姫を届けた足で取りに戻ってやれば良い。
命との引換まで一日ある。

「衣の裾が乱れてしまいました。直しますから後ろを向いてください」
滝の音で、聴き取りにくかったが、言っていることは見当がつく。
時間は惜しいが、今のイダテンであれば取り戻せよう。

背を向けて姫の準備を待つ。
衣ずれの音が途絶えても、姫は、すぐに座ろうとしなかった。

あせる気持ちを抑える。
息遣いも聞こえる。
問題はあるまい。

座りやすいようにと膝を折ると、ようやく背負子に重みが加わった。
自分と姫を結んでいた縄が見あたらなかった。
池の水が押し寄せて来たときに、引きこまれてしまったのだろう。
代わりに手斧の縄をほどいて後ろに回した。

「……疲れてしまいました……もう、話ができそうにありません……後ろを振り返らず、走り続けてくれますね?」
背後の姫が、切れ切れに声をかけてきた。

苦しげな様子に、これ以上、喋らすまいと、
「おれを信じろ。あっという間に届けて見せる」
と、応えた。

「わたしの名は……都子(みやこ)と言います」
問うてもないのに、唐突に姫が名を明かした。

公家に生まれた姫は、呪を怖れて本当の名を明かさないのではなかったか。
老臣が姫の名について、ほかにも何か言っていたはずだが、すぐには思い出せなかった。    

姫が、途切れ途切れに吐く、白い息が風に乗ってイダテンの横を通り過ぎる。
「支度はできたか」
と、声をかける。

「あなたに会えてよかった……」
声のあとに、岩の上に、ぽたり、と水滴が落ちた。

担いだ背負子が、ふっ、と軽くなった。
続いて、守袋が水面を叩く大きな音が耳に届いた。

それを合図にイダテンは走り出した。
滝の音が遠ざかる。

様子を見ながら、姫の傷に負担がかからないよう、少しずつ速度をあげていく。
肩も足も、まったく痛まなかった。
疲れも消え去っている。
黄金はおろか、姫さえ乗っていないのではないかと思うほど軽く感じた。

イダテンは確信した。
これなら、どんな走りでもできる。

ひゅんひゅんと軽快に風を切り裂いて走る。
姫の袿の袖が風を受け、音をたてて翻る。

だが、しばらくすると不安にかられた。
疲れた。話ができそうにない。
振り返らずに走ってくれ、という姫の言葉にしたがっていたが、我慢ができず声をかけた。

「すぐにつく。もう少しだ」

振り返ると、はかなげな姫の姿があった。
続いて優しげな声が返ってきた。
「イダテン、走って。振り返らずに」

三郎の遺志を継いで、この姫を親族のもとに送り届けるのだ、と思っていた。
だが、それだけではない。

そうだ――おれは、この声を、ずっとずっと聞いていたかったのだ。
「ああ、もう誰にも追いつかせん」

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