7 / 105
第六話 『初恋』
【輝夜】
冗談かとも思うが、この若者は、にやりともしない。
常ならば下賤の者と直接話すことなどない。
必ず間に人をおく。
殿方であればなおさらである。
たとえ相手が殿上人であろうと、御簾あるいは几帳越しに対面する。
公達は、どこぞの姫君が美しいという噂を聞くと、姫君の女房に賂を渡し、覗き見ようとする。
「名はなんというのです?」
「粥じゃ」
「……あなたの名です」
からかわれているとしか思えない。
この気難しげな男に洒落っ気があれば、ではあるが。
しかも、わたしの問いにすぐに答えない。
人に名を聞くときは聞く側が先に名乗るものだとでも思っているのだろう。
やはり下衆である。礼儀を知らない。
だが、次の一言で怒りは霧散し、一気に気分が高揚した。
「……ヨシモリじゃ」
「ヨシ……モリ……氏(うじ)ですか?」
「字(あざ)じゃ」
「氏は、いえ……国は……国は西国ですか?」
面倒そうに「ああ」という答えが返ってきた。
息を飲んだ。
やはり西国の訛りだった。
胸が早鐘を打ち始めた。
顔が火照る。
――まさか、生きていたのか――死骸が見つかったという話は伝わってきていない。
噂に聞いた涼しげな眼差し、端正な顔立ちとは言えなかったが、英雄譚とはそのようなものであろう。
名を変えて暮らしてきたのだろうか。
いや、生きていれば、わたしより年上のはずだ。
あれから五年近く経つ。
当時、この男は十前後であろう。
十の童を若武者とは呼ぶまい。
しかし、この男の弓の腕は図抜けている。
背負子の横には大太刀らしきものが括り付けてあった。
わたしと葛籠、さらには薪を背負って軽々と山を登る剛力。
加えて名に「義(よし)」の文字。
西国訛り。
ならば、兄弟、親族と言う可能性もある。
だが、何と訊けばよい。
どのような顔をして訊こうと言うのだ。
これまでに、妄想と呼ばれても反論できぬほど、幾多の出会いを想定してきた。
中には、親族に出合った時の想定問答さえあった。
にもかかわらず、思考は停止し、気の利いた問いのひとつも浮かばなかった。
頭は回らず、焦りを覚え、失態を犯した。
「氏は何というのです」
義守と名乗る男は、つまらぬ問いをするおなごだとばかりに睨みつけてきた。
が、ここで、ひるんでいては千載一遇の機会を逃してしまう。
「阿部義光(よしあき)という武士を知っていますか?」
畳み掛けるように訊ねると、眉をひそめ、
「知らぬ」と横を向いた。
相変わらずの態度だったが、この時ばかりは気にならなかった。
その名を口にするだけで、胸が早鐘を打ち、気もそぞろになるからだ。
十一の歳に、文も交わさず声さえも聴いたことがない男に、初めての、そして唯一の恋をした。そして今でも、その男に恋焦がれている。
「ヨシモリという名は、どの字をあてるのです?」
と尋ねると、素直に答えたが、面白いことに初めて表情が緩んだ気がした。
だが、その理由を尋ねるつもりはない。
義光様と縁がないなら、二度と交わることはない。
下賤の者に過ぎないからだ。
その名は、いかにも武家の名ではあったが、評判を耳にしたことはない。
役職はおろか氏も名乗れぬのであれば、地方の領主の郎党でさえないかもしれない。
期待を裏切られた腹立ちだろうか。皮肉が口をついて出た。
「武士の出で立ちには見えませんが」
「お前とて、真の名は明かせまい」
男の言葉に胆が冷えた。
武家であれば公家のしきたりを知っていても不思議ではない。
が、諱や氏のことだけでなく、わたしの置かれた立場を知って口にしているのだとしたら……。
「お前、という呼び方は失礼でしょう」
思わず、声を尖らせた。
義守と名乗る男は、怪しげな粥の椀を傍に置いた箱の上に載せ、視線だけを送ってきた。
「なんと呼べば良いのだ」
表情一つ変えもしない淡々とした答えにいら立ちが募り、叩きつけるように口にした。
「輝夜(かぐや)、です」
墓穴を掘った。かっとなるといつもこうだ。
二度と、この名で呼ばれたくないと思っていた。女房たちに固く言い渡していた。
にもかかわらず自ら口にした。顔が火照った。
幼き頃より父にそう呼ばれてきた。皆がそれに倣った。
この年になってようやく、その名にふさわしくないことに気がついた。
「……いえ、藤式部と呼ばれています」
嘘をついた。
今、呼ばれている名など名乗れるはずがない。
男は、どちらでも構わないが、とでもいうような冷ややかな視線を送ってきた。
その様子に腹が立ってきた。
なにより礼儀を知らぬ。
とは言え、喋りすぎたのは確かである。
名を借りた、藤式部であれば、
「手がかりが多すぎて物語にもならない」と、皮肉るだろう。
加えて男は物知り顔である。
見透かされているのではないかと心配になる。
しかし、わたしのことを知る者が、このようなところにいるはずがない。
顔を知るものなど、もとよりいない。
なりから見ても、上級武官ではない。訛りもある。
公家や都の警護の仕事を求めて出てきたもののうまくいかなかったのだろう。
ここに居を構え、仕官の口を探す田舎侍といったところだ。
郡司の子弟であれば、供の一人や二人もついていよう。
伴類、下人の身分であれば、礼として反物でも持たせれば後腐れがないだろう。
ほっとする一方で、玉だと思っていたものが、ただの石ころだとわかり落胆した。
それでも、つい、
「都には何をしに来たのです」
と、尋ねてしまう。
男はしぶしぶといった、ていで答えた。
「祠や墓を見に来たのだ」
「墓を?」
意外な答えに戸惑っていると、男は逆に訊ねてきた。
「お前こそ、なぜこのような刻限に都を出ようとしていたのだ」
呼び名を答えたにもかかわらず、結局「お前」だ。
だが、そんなことよりも男の問いが胸をえぐる。
なんと罪深いおなごだろう。
どうしてこれまで正気でいられたのだろう。
おのれのわがままが理由で、多くの命が奪われたことを一時とはいえ忘れていた。
あの欲深い縁戚の男に、どのように説明すれば良いのかもわからなかった。
その男は、わたしの望みを聞くと顔色を変えた。
高価な反物を前にしながらも、
「国司に任命される可能性はありましょうか」と、尋ねてきた。
父に伝えておきましょう、と答えると、とたんに態度を変え、すぐに従者をどこからか十名駆り集めてきた。
当然だと思った。
だが、同行させた従者は、一人残らず命を落とした。
――なぜ、と問われて、口にできるはずがない。
どこへ、と、問われて答えられるはずがない。
牛車に揺られながら出かけたことを後悔していた。
引き返すべきだとわかってはいたができなかった。
そして、このありさまだ。
すべては自分の弱さが引き起こしたのだ。
血まみれになって死んでいった者たちは帰って来ない。
気がつくと頭は痺れたように働かず、首の後ろは異様に重くなっていた。
胸が締め付けられるように痛んだ。呼吸さえ難しくなった。
頭から血の気が引き、立っていられなくなった。
悪寒が襲ってきた。
浄土へ行けずとも良い。このまま、黄泉の国に旅立つことが出来ればと切実に思った。
それができればどれほど楽であったろう。
*
冗談かとも思うが、この若者は、にやりともしない。
常ならば下賤の者と直接話すことなどない。
必ず間に人をおく。
殿方であればなおさらである。
たとえ相手が殿上人であろうと、御簾あるいは几帳越しに対面する。
公達は、どこぞの姫君が美しいという噂を聞くと、姫君の女房に賂を渡し、覗き見ようとする。
「名はなんというのです?」
「粥じゃ」
「……あなたの名です」
からかわれているとしか思えない。
この気難しげな男に洒落っ気があれば、ではあるが。
しかも、わたしの問いにすぐに答えない。
人に名を聞くときは聞く側が先に名乗るものだとでも思っているのだろう。
やはり下衆である。礼儀を知らない。
だが、次の一言で怒りは霧散し、一気に気分が高揚した。
「……ヨシモリじゃ」
「ヨシ……モリ……氏(うじ)ですか?」
「字(あざ)じゃ」
「氏は、いえ……国は……国は西国ですか?」
面倒そうに「ああ」という答えが返ってきた。
息を飲んだ。
やはり西国の訛りだった。
胸が早鐘を打ち始めた。
顔が火照る。
――まさか、生きていたのか――死骸が見つかったという話は伝わってきていない。
噂に聞いた涼しげな眼差し、端正な顔立ちとは言えなかったが、英雄譚とはそのようなものであろう。
名を変えて暮らしてきたのだろうか。
いや、生きていれば、わたしより年上のはずだ。
あれから五年近く経つ。
当時、この男は十前後であろう。
十の童を若武者とは呼ぶまい。
しかし、この男の弓の腕は図抜けている。
背負子の横には大太刀らしきものが括り付けてあった。
わたしと葛籠、さらには薪を背負って軽々と山を登る剛力。
加えて名に「義(よし)」の文字。
西国訛り。
ならば、兄弟、親族と言う可能性もある。
だが、何と訊けばよい。
どのような顔をして訊こうと言うのだ。
これまでに、妄想と呼ばれても反論できぬほど、幾多の出会いを想定してきた。
中には、親族に出合った時の想定問答さえあった。
にもかかわらず、思考は停止し、気の利いた問いのひとつも浮かばなかった。
頭は回らず、焦りを覚え、失態を犯した。
「氏は何というのです」
義守と名乗る男は、つまらぬ問いをするおなごだとばかりに睨みつけてきた。
が、ここで、ひるんでいては千載一遇の機会を逃してしまう。
「阿部義光(よしあき)という武士を知っていますか?」
畳み掛けるように訊ねると、眉をひそめ、
「知らぬ」と横を向いた。
相変わらずの態度だったが、この時ばかりは気にならなかった。
その名を口にするだけで、胸が早鐘を打ち、気もそぞろになるからだ。
十一の歳に、文も交わさず声さえも聴いたことがない男に、初めての、そして唯一の恋をした。そして今でも、その男に恋焦がれている。
「ヨシモリという名は、どの字をあてるのです?」
と尋ねると、素直に答えたが、面白いことに初めて表情が緩んだ気がした。
だが、その理由を尋ねるつもりはない。
義光様と縁がないなら、二度と交わることはない。
下賤の者に過ぎないからだ。
その名は、いかにも武家の名ではあったが、評判を耳にしたことはない。
役職はおろか氏も名乗れぬのであれば、地方の領主の郎党でさえないかもしれない。
期待を裏切られた腹立ちだろうか。皮肉が口をついて出た。
「武士の出で立ちには見えませんが」
「お前とて、真の名は明かせまい」
男の言葉に胆が冷えた。
武家であれば公家のしきたりを知っていても不思議ではない。
が、諱や氏のことだけでなく、わたしの置かれた立場を知って口にしているのだとしたら……。
「お前、という呼び方は失礼でしょう」
思わず、声を尖らせた。
義守と名乗る男は、怪しげな粥の椀を傍に置いた箱の上に載せ、視線だけを送ってきた。
「なんと呼べば良いのだ」
表情一つ変えもしない淡々とした答えにいら立ちが募り、叩きつけるように口にした。
「輝夜(かぐや)、です」
墓穴を掘った。かっとなるといつもこうだ。
二度と、この名で呼ばれたくないと思っていた。女房たちに固く言い渡していた。
にもかかわらず自ら口にした。顔が火照った。
幼き頃より父にそう呼ばれてきた。皆がそれに倣った。
この年になってようやく、その名にふさわしくないことに気がついた。
「……いえ、藤式部と呼ばれています」
嘘をついた。
今、呼ばれている名など名乗れるはずがない。
男は、どちらでも構わないが、とでもいうような冷ややかな視線を送ってきた。
その様子に腹が立ってきた。
なにより礼儀を知らぬ。
とは言え、喋りすぎたのは確かである。
名を借りた、藤式部であれば、
「手がかりが多すぎて物語にもならない」と、皮肉るだろう。
加えて男は物知り顔である。
見透かされているのではないかと心配になる。
しかし、わたしのことを知る者が、このようなところにいるはずがない。
顔を知るものなど、もとよりいない。
なりから見ても、上級武官ではない。訛りもある。
公家や都の警護の仕事を求めて出てきたもののうまくいかなかったのだろう。
ここに居を構え、仕官の口を探す田舎侍といったところだ。
郡司の子弟であれば、供の一人や二人もついていよう。
伴類、下人の身分であれば、礼として反物でも持たせれば後腐れがないだろう。
ほっとする一方で、玉だと思っていたものが、ただの石ころだとわかり落胆した。
それでも、つい、
「都には何をしに来たのです」
と、尋ねてしまう。
男はしぶしぶといった、ていで答えた。
「祠や墓を見に来たのだ」
「墓を?」
意外な答えに戸惑っていると、男は逆に訊ねてきた。
「お前こそ、なぜこのような刻限に都を出ようとしていたのだ」
呼び名を答えたにもかかわらず、結局「お前」だ。
だが、そんなことよりも男の問いが胸をえぐる。
なんと罪深いおなごだろう。
どうしてこれまで正気でいられたのだろう。
おのれのわがままが理由で、多くの命が奪われたことを一時とはいえ忘れていた。
あの欲深い縁戚の男に、どのように説明すれば良いのかもわからなかった。
その男は、わたしの望みを聞くと顔色を変えた。
高価な反物を前にしながらも、
「国司に任命される可能性はありましょうか」と、尋ねてきた。
父に伝えておきましょう、と答えると、とたんに態度を変え、すぐに従者をどこからか十名駆り集めてきた。
当然だと思った。
だが、同行させた従者は、一人残らず命を落とした。
――なぜ、と問われて、口にできるはずがない。
どこへ、と、問われて答えられるはずがない。
牛車に揺られながら出かけたことを後悔していた。
引き返すべきだとわかってはいたができなかった。
そして、このありさまだ。
すべては自分の弱さが引き起こしたのだ。
血まみれになって死んでいった者たちは帰って来ない。
気がつくと頭は痺れたように働かず、首の後ろは異様に重くなっていた。
胸が締め付けられるように痛んだ。呼吸さえ難しくなった。
頭から血の気が引き、立っていられなくなった。
悪寒が襲ってきた。
浄土へ行けずとも良い。このまま、黄泉の国に旅立つことが出来ればと切実に思った。
それができればどれほど楽であったろう。
*
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…そして終戦工作 分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦
そしてそこから繋がる新たな近代史へ
大和型重装甲空母
ypaaaaaaa
歴史・時代
1937年10月にアメリカ海軍は日本海軍が”60000トンを超す巨大戦艦”を”4隻”建造しているという情報を掴んだ。海軍はすぐに対抗策を講じてサウスダコタ級戦艦に続いてアイオワ級戦艦を12隻建造することとした。そして1941年12月。日米は戦端を開いたが戦列に加わっていたのは巨大戦艦ではなく、”巨大空母”であった。
表紙はNavalArtというゲームの画像で、動画投稿者の大和桜花さんに作っていただきました
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。